『千のプラトー――資本主義と分裂症』
Deleuze, Gilles・Guattari, Félix 1980 Mille Plateaux : Capitalisme et schizophrénie, Éditions de Minuit.
=19940920 宇野 邦一・小沢 秋広・田中 俊彦・ 豊崎 光一・宮林 寛・ 守中 高明,河出書房新社,656p.
■Deleuze, Gilles・Guattari, Félix 1980 Mille Plateaux : Capitalisme et schizophrénie, Éditions de Minuit. =19940920 宇野 邦一・小沢 秋広・田中 俊彦・ 豊崎 光一・宮林 寛・ 守中 高明,『千のプラトー――資本主義と分裂症』,河出書房新社,656p. ISBN-10:4309241514 ISBN-13:9784309241517 \7000 [amazon]/[kinokuniya] ※ p
■内容
「千のプラトー」は大地や宇宙をつらぬき、非生命の次元にまでその讃歌をとどろかせている…。資本主義のダイナミズムを読み解き、管理社会に対抗するための実践を示唆する、われわれの時代の歴史的唯物論。
■目次
緒言
1 序――リゾーム
根、側根、リゾーム
本の諸問題
〈一〉と〈多〉
樹木とリゾーム
地理的方向、東洋、西洋、アメリカ
樹木の害
プラトーとは何か
2 一九一四年――狼はただ一匹か数匹か?
神経症と精神病
多様体の理論のために
群れ
無意識と分子的なもの
3 BC10000年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか)
地層
二重分節(切片性)
地層の統一性を作り出すもの
環境
一つの地層の多様性。形式と字ssつ、上位層と傍層
内容と表現
諸地層の多様性
モル状と分子状
抽象機械とアレンジメント。それらの状態の比較
メタ地層
4 1923年11月20日――言語学の公準
指令語
間接話法
指令語、行為、日身体的変形
日付
内容と表現。両者の場合の変数
アレンジメントの側面
定数、変数、連続変化
音楽
スタイル
メジャーとマイナー
生成変化
死、逃走、形象、変身
5 BC587年、AD70年――いくつかの記号の体制について
専制的なシニフィアン的体制
情念的な主体的体制
二つの錯乱と精神医学の問題
ユダヤの民の古代史
逃走線と預言者
顔、方向転換、裏切り
〈書物〉
主体性のシステム。意識、情念、<分身>
夫婦喧嘩と事務室のいさかい
冗長性
脱領土化の形象
抽象機械と図表
発生的、変形的、図表的、機械状
6 1947年11月28日――いかにして器官なき身体を獲得するか
器官なき身体、波動、強度、
卵
マゾヒズム、宮廷愛、〈道(タオ)〉
塗装と存立平面
アントナン・アルトー
慎重さのテクニック
三つの<身体>の問題
欲望、平面、選択、編成
7 零年――顔貌性
ホワイト・ウォール〔白い壁〕、ブラック・ホール〔黒い穴〕
顔貌性抽象機械
身体、頭部、顔
顔と風景
宮廷愛小説
脱領土化の定理
顔の社会的機能
顔とキリスト
顔の二つの形象。正面、横顔、背け会い
顔を解体する
8 1874年――ヌーヴェル3編、あるいは「何が起きたのか?」
ヌーヴェルとコント。秘密
三本の線
切断、亀裂、断絶
対、分身、地下潜行者
9 1933年――ミクロ政治学と切片性
未開および文明化の切片性
モル状および分子状の切片性
ファシズムと全体主義
切片をもつ線、粒子をもつ流れ
ガブリエル・タルド
群集と階級
抽象機械。突然変異と超コード化
権力の中心とは何か
三通りの線とそれぞれの危険
恐怖、明晰者、権力、死
10 1730年――強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること
生成変化
魔術の三つの側面。多様体、変則者あるいは局外者、変換
個体化と〈比性〉。夕べの5時・・・・・・
経度、井戸、存立平面
二つのプランあるいはプランについての二つの考え方
女性への生成変化、子供への生成変化、動物への生成変化、分子状生成変化。近傍域
知覚しえぬものへの生成変化
分子状知覚
秘密
マジョリティ、マイノリティ、マイナー性
生成変化のマイナー性と非対称性。二重の生成変化
点と線、記憶と生成変化
生成変化とブロック
点状システムと多線状システムの対立
音楽、絵画、生成変化
リトルネロ
脱領土化の定理、続き
生成変化体模倣
11 1837年――リトルネロについて
暗闇で、我が家で、世界へ向かって
環境とリズム
立て札と領土
スタイルとしての表現。リズムの顔、メロディーの風景
鳥の鳴き声
領土製、アレンジメント、相互的アレンジメント
領土と大地、〈生まれ故郷〉
存立性の問題
機械状アレンジメントと抽象機械
古典主義と環境
ロマン主義、領地、大地、民衆
勤惰芸術と宇宙
形象と実質、諸力と素材
音楽とリトルネロ、大いなるリトルネロとささやかなリトルネロ
12 1227年――遊牧論あるいは戦争機械
国家の二つの極
戦争機械の外部性と還元不可能性
戦士
マイナーとメジャー。マイナー科学
団体と団体精神
思考、国家、遊牧論
第一の側面。戦争機械と遊牧空間
宗教
東洋、西洋、国家
第二の側面。戦争機械、人間の編成、遊牧数
第三の側面。戦争機械と遊牧民の情動
自由活動と労働
アレンジメントの性格。道具と記号、武器と装身具
治金術、移動、遊牧生活
機械状系統流と技術系統
平滑空間、条理空間、多孔空間
戦争機械と戦争。関係の複雑さ
13 BC7000年――補獲装置
旧石器時代の国家
原始的集団、都市、国家、世界的な組織
先取りする、祓いのける
「最後の」一言の意味(限界効用説)
交換とストック
捕獲。土地所有権(地代)、税制(税)、公共事業(利益)
暴力の問題
国家の形態と〈権利〉の三つの世代
資本主義と国家
服従と隷属
14 1440年――平滑と条里
技術的モデル(繊維製品)
音楽モデル
海洋モデル
数学モデル(多様体)
物理学モデル
美学モデル(遊牧民芸術)
15 結論――具体的規則と抽象機械
■引用
4 言語学の公準
バンヴェニストは、蜜蜂が有機的なコード化機能を持ち、比喩さえ用いるにもかかわらず、言語を持っていることは否定する。蜜蜂は自分の見たことを伝えることはできるが、自分たちに伝えられたことをさらに伝えることはできないから言語をもたないのだ。蜜を見つけた蜜蜂は、それに気づかない仲間にメッセージを送ることができるが、蜜に気づかなかった蜜蜂がやはり蜜に気づかなかった他の蜂にメッセージを送ることはできないのだ。(98)
10 1973年 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること
博物学は、動物相互の関係を二通りに考えているのである。そのうちの一つは系列であり、もう一つは構造だ。系列に従うなら、aはbに相似し、bはcに相似する、などといいあらわすことができるが、その場合の項はすべて、完全性の面でも、質の面でも、卓越した唯一の項に関連付けられ、この優越項が系列を動機づけるのである。これは、神学者が「比率にもとづく類似」と呼んだものにほかならない。構造にしたがうなら、aのbに対する関係は、cのdに対する関係に等しく、これらの関係性の一つ一つがそれなりに完全性を実現しているのだと言いあらわすことができる。…これは「比例関係にもとづく類似である」…こうした類似の二大形象は、神学者の思想でも、様々な形で平衡を保ちつつ、やはり共存し続けていた。なぜなら、系列の観点に立とうと構造の観点に立とうと、大自然そのものが巨大な「ミメーシス」とみなされているからだ。系列の観点からすると、大自然は全存在の連鎖として捉えられる。…構造の観点からすると、大自然は、もはや模倣すべきものを一切持たない合わせ鏡のような<模倣原理>として捉えられる。(270-271)
まず動物相互の関係は、科学の対象となるだけではなく、夢や象徴表現の対象にもなれば、芸術や詩、実践や実際的用途の対象にもなるからだ。「系列と構造」という二重の観念は、有る時点で一つの閾をこえて科学の水準に達したとはいえ、科学に由来するものではないし、科学にとどまるものでもない。別の学問領域に移っていくこともあり、たとえば人文科学を活気づけ、夢や神話や組織体の研究に役立つこともあるのだ。…観念の歴史は決して連続的であってはならず、相似にとらわれることのないように注意を払い、血統や系統を立てることのないように配慮すべきだろう(272)
すべての系列とすべての項が、そしてとりわけ中間的位置を占める全ての動物が、この「自然-文化―自然」という転換のサイクルを支えているのだ。それが「類似的表象」としての原型である。
系列に沿った相似を成り立たせ、模倣によって系列全体を横切り、系列を究極の項にまで導き、ついにはこの最終項への同一化をおこなう――こうした想像力の魅惑を、構造主義があれほどまでに厳しく告発したのは、果たして偶然だろうか。(272-273)
相似の系列化には差異の構造化、諸項の同一化には諸関係の対等性を、想像力のメタモルフォーゼには概念内部におけるメタファーを、自然と文化の大いなる連続には、自然と文化のあいだに相似なき照応関係を配分する深い断層を、さらに始原のモデルの模倣には、モデルを持たず、いわばそれ自体が始原であるかのようなミメーシスを、それぞれ置き換えたのだ。(273)
われわれは、人間を突き抜け、引きさらっていくような、そして人間にも動物にも等しく作用を及ぼすような、きわめて特殊な〈動物への生成変化〉が存在すると信じている。…なぜなら、生成変化の存在を否定しないまでも、少なくともその価値を貶めるところに構造主義の本領があるのだ。諸項の照応では、生成変化は成り立たないのだから、それも当然だろう。…しかし、レヴィ=ストロースの場合も、その神話研究の過程では、人間が動物に〈なる〉のと同時に動物も何かに〈なる〉というすばやい行為にたえず遭遇していたはずだ。こうした生成変化のブロックを二つの相互の照応によって説明する試みも可能であるだろう。分類の枠組みとなる神話は、生成変化を受け止める能力をほぼ全面的に欠いているということを認め、生成変化はむしろコント[奇譚]の断片だと考えるべきではないのか?…一方には供犠と系列、もう一方にはトーテム制度と構造、この二つのモデルとは別に、秘密に包まれ、地下深く隠されていたものがあるようだ。それこそがつまり神話や儀礼を離れ、コントに自らの表現を見出す魔術師とその生成変化ではないのか?(274)
人間が動物に〈なる〉ということは現実だが、人間が変化した結果それになる動物は現実ではないのだ。同時に、動物が別のものに〈なる〉ということも現実だが、この〈別のもの〉は現実ではないのだ。…
生成変化の項は別の生成変化に取り込まれてその主体とならない限り存在し得ないのだし、第二の生成変化は第一の生成変化と共存し、ブロックを成すのだ。(275)
生成変化は進化ではないということ、すくなくとも血統や系統にもとづく進化ではないということだけは明確にしておかなければならない。…生成変化は常に系統とは別の序列に属している。生成変化の序列は〈同盟〉なのである。進化にも真の生成変化が含まれるとしたら、それは等級と界を異にし、いかなる系統的なつながりも持たないさまざまな存在を巻き込む広大な共生の領域の話である。例えば、雀蜂と蘭をとらえる生成変化のブロックである。(275)
三種類の動物を区別する事が必要になるだろう。まず最初に個体化され、飼い馴らされた、家族的感傷的な動物。……それから二番目の種類として、性格ないし属性を持つ動物を考えてみることができる。…そして最後に、悪魔的な面が強く、群れと情動をその特質とするのみならず、多様性や生成変化や個体群やコントをつくるい出す動物がいる。(278)
宇宙は系統的に機能するのではない。私たちとしては次の点だけを強調しておこう。つまりすべての動物は群れであり、全ての群れは伝染によって形成され、発達し、変化していくのだということを。こうして、互いに異質な複数の項からなり、伝染によって連動する複数の多様性は、一定のアレンジメントに組み込まれる。そして人間が動物への生成変化を遂げる場は、まさにここにある。(280)
■書評・紹介
■言及
*作成:本岡 大和