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『刑吏の社会史――中世ヨーロッパの庶民生活』

阿部 謹也 19781015 中央公論社,200p.


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■阿部 謹也 19781015 『刑吏の社会史――中世ヨーロッパの庶民生活』,中央公論社,200p. ISBN-10:412100518X ISBN-13:978-4121005182 \693 [amazon][kinokuniya] ※ c0134

■内容

「現代に生きる私たちは刑罰を法の歴史とともに古いのだと一般に考えている。このように考える根拠は大変曖昧なものであるにもかかわらず、このような考え方に疑念をいだくことが少ないのは近代市民社会の学問が法学も含めて普遍妥当性を主張する傾向をもっていたことによっている面が大きい。犯罪者を罰するのは当然のことであり、量刑は犯罪の質や軽重、犯人の犯意や情状などを顧慮して定められる。われわれはともするとこのような刑罰のあり方が過去のどんな時代にも共通のものだと考えがちである。
 しかしこのような意味の刑罰が存在しなかった時代があった。もちろん犯罪とみなされる行為はあったし、「刑罰」に相当するとみられるものがなかったわけではない。しかし、その「刑罰」は現在私たちが自明のものとしている刑罰の概念とは根本的に異なっているのである。ときに人はそれを法の未熟な段階と呼ぶことがある。考え方によってはそのようにみることもできるが、そう考えたとき私たちはその過去の世界から何も学びとることができなくなってしまうであろう。
 現代のような意味での刑罰が存在しなかった時代、そのような時代において「犯罪」とは一体何であったのか、「刑罰」とはどのようなものであったのか、そのような世界における人と人との関係はどのような絆によって結ばれていたのか、このように問題をたてるときはじめて私たちは名誉ある仕事としての処刑から卑賤な職業としての刑吏への転換の歴史的背景をとらえることができるのである」(p36)

■目次

はじめに
第一章 中世社会の光と影
第二章 刑罰なき時代
第三章 都市の成立
第四章 中・近世都市の処刑と刑吏
むすび
あとがき
参考文献

■引用

「通常《名誉をもたない》人々とされる賎民はこの第一のグループに入れられている。裁判能力をもたないということは自己の権利を自ら守ることができないことを意味し、ひとつの社会のなかで常にネガティヴな生活を余儀なくされていることになる。中世社会における《名誉ある人々》の存在形態が貴族身分、聖職者身分、市民身分、農民身分というふうに分れるとするとそれ>13>ぞれの身分の内部は各種の社会集団に分れ、これらは共同体として組織されていた。共同体の原則は基本的には体内的平等にあり、それは同時に排他的な組織でもあった。賎民とはこのような各種身分の序列外におかれ、その内部にある共同体からも排除された人々をいうのである。
 いうまでもなく中世は身分制社会であったから、このような人々の存在は当然のこととされ疑問ももたれなかった。《名誉をもたない》賎民にはどんな人々がいたのだろうか。当時の社会秩序の辺境にあって蔑視されていた人々には、戦後に注目すべき賎民研究を発表したW・ダンケルトの分類によると次のような人々がいた。
 死刑執行人、補吏、獄丁、看守、廷丁、墓堀り人、皮剥ぎ、羊飼いと牧人、粉挽き、亜麻布織工、陶工、煉瓦製造人、塔守、夜警、遍歴楽師と奇術師、山師と抜歯術師、娼婦、浴場主と理髪師、薬草売り、乞食取締夫、犬皮鞣工、煙突掃除人、街路掃除人などであり、性格は異なるが、ユダヤ人、トルコ人、異教徒、ジプシー、ヴェンド人などのキリスト教社会秩序の外に立つ人々も同じ扱いをうけていた。
 ダンケルトの分類をそのまま承認するわけにはいかないが、これらのリストをみただけで、中・近世社会における賎民の在り方がヨーロッパ社会とその自己了解としてのヨーロッパの学問を知るうえで容易ならない問題を提供していることが分るであろう」(pp.13-14)

「しかし刑吏はひとつの社会のなかでその秩序を守ろうとする支配者にとっては不可欠の存在である。それ故刑吏の飲酒権は確保されていた。どのように確保されていたのか。刑吏が自ら居酒屋開設権 Kruggerechtigkeit をもっていたのである。一体だれが刑吏の居酒屋で飲んだのか。それはすでに《名誉》を失い、癒しがたい傷を負った人々であり、社会の余計者、官憲の目を逃れて放浪する者たちが客なのであった。この制度は監獄に付設されたものであったから、当局の放浪者対策、犯罪者対策の一環とみることもできるが、とにかくそこでは刑吏が主人なのであった」(p22)

「こうした例から明らかなように、刑吏や皮剥ぎの職業には触穢思想とつながる卑賤感があり、それは特定の物に象徴的に示されていた。そのような物には監獄、刑場、処刑台、処刑用具、梯子、網、車輪、処刑用の剣、皮剥ぎ台、皮剥ぎ用の剣などがあった。これらの物に触れた者はただちに穢れる、とされたのである。だから粉挽きや亜麻布織工が絞首台用の梯子や網を納めたことが彼らが賎民視されるにいたった理由だともいわれている。しかし、特定の物が触穢思想の象>28>徴となるのは触穢思想が社会的に形成され、いわば形骸化されたのちのことであると考えられる。いうならば物が穢すのではなく、その物をめぐる社会的関係が触穢感を生み出すのである。このように考えるとき、刑吏や皮剥ぎに対する差別、蔑視の根源はどうしても歴史的に解明しなければならないことになる」(pp.28-29)

「また中世になっても共同体が判決を発見するのだから共同体が処刑も自らの手で行なうべきだ、という考え方がいたるところに残存していた。ディトマルシェンやユトランドでそのような例がのこっていたし、フランケンのアムト・カステルでは住民全員が絞首網を握ったという。またゾンダーブルクなおフランケンのいくつかの都市では一三三七年においてもそのとき一番新しく結婚した新婚の夫が処刑を執行したという。いずれのばあいにも処刑の執行者はそれによって穢れはしなかったのである」(p30)

「ブラウンシュバイクの文書に刑吏Scharfrichter, Henker という名がはじめて登場するのは、一三一二年のフェーメ裁判規則においてである。盗みをしたかどで訴えられた者が真赤に焼かれた鉄をつかまねばならないとき、ボデルス(Büttel)と刑吏が火の用意をし鉄を熱く焼いておかねばならないとされている。刑吏はここでは神命裁判の助手の位置にある」(p119)

「ブラウンシュバイクの刑吏は一定額の給与の他に刑吏としての仕事のたびに支払いをうけていた。たとえば流血裁判の犯人を捕えたとき五シリング、留置場で死んだ者の死体を運び、埋葬すると五シリング(一四四二年)、笞打ち、車裂き、火刑などのばあいにも同額を得た。一六世紀の後半には盗人を絞首すると一マルク、自殺者の埋葬にも同>120>額を得ている。子どもを殺した女を入れて川に沈めるための袋は刑吏かその妻が縫ったが、そのために一三〜一八シリングを得た。これらの額は一七世紀にはますます高くなってゆく。一六二〇年には首を吊って自殺した女をおろして生めるのに一マルクを得、市から特定の人間を追放するのに一六シリングを得ている。また死んだ家畜を片付けるに当っても大きな収入を得ていた」(pp.120-121)

「ところで大都市においてはかつてのように共同体の全員が処刑に参加するとか、原告が処刑を執行するということは事実上不可能であった。それどころか共同生活にとって危険な多くの犯罪行為に対して原告が名のりをあげないという事態がしばしばだったのである。都市市民の生活様式はかつての農村のように人々が常時武器を携行し、家と家の間が垣で区切られているような状態ではなく、家と家は軒を接し、人々は武器を携行していなかっ>126>た。市壁で囲まれたなかで市民は共同防衛の軍事業務を負ってはいたが、日常生活においては武器をしようする機会は多くなかったのである。
 だから犯罪者を処刑するばあいも、ロイトリンゲン市などではやむをえず参審人の最下位の者(市参事会員になったばかりの者)が処刑を執行し、ところによっては最近結婚したばかりの男性が処刑を執行した。
 この処置は仮のものでしかなかったから、都市が発展してゆく段階において大都市でまず刑吏という職業が発生することになる。
 ドイツにおいて最も早く賎視された存在としての職業的刑吏の規定がみられるのは、一二七六年のアウグスブルクの都市法である。そこでは八節にわたって刑吏の職務を定め、(一)刑吏は身体にかかわる処刑を行なう権利を有し、(二)裁判の勝者が刑吏に処刑を依頼し、五シリングあるいは同額の価値ある剣を与え、被告が帯の下にもつ物も刑吏の手に帰する。(三)刑吏はさらに娼婦宿を管理し、週二シリングを受けとり、(四)市の穀物市場に集められる穀物を監視し、代りに賃金を得る。(五)刑吏はまた牛乳をも監視する。(六)刑吏は便所の清掃をし、(七)癩病患者を市に入れないようにする。(八)放浪する娼婦を追放する……。
 すでにここにはかつて神聖な「処刑」を行なったフロンボーテの姿はみられない。人々の嫌がる職業を営む賎民の姿が浮び上ってくる」(pp.126-127)

「このようにしてみてくると人々は一方で刑吏に触れるのを極度に避けている反面、他方では刑吏に薬を求め、直接治療をしてもらい、刑吏が皮剥ぎとしてつくった皮革製品を身につけていた。また刑吏が経営する娼婦宿も繁盛していたから、金と健康と情欲に対しては卑賤感は及んでいないかにみえるのである。
 したがって刑吏に対する卑賤視、嫌悪感は主として処刑を行なう職業活動と社交生活に向けら>135>れており、その他の点では卑賤視は貫かれていないといえる。まさに法制史家ゲルンフーバーのいうように刑吏の触穢は不完全なものなのである」(pp.135-136)

「かつて「処刑」は犯罪によって生じた社会の傷を癒すための神聖の儀式であった。人々は「処刑」に参加するとき、おそらく洪水で崩れそうになる堤防に泥まみれになって砂袋を運ぶ人々と同じように、辛いけれども必死になって参加したのであろう。この儀式に参加することによってかつての秩序を再建しなければならないからである。だから供>145>儀としての「処刑」は畏怖すべき行為であった。犯罪によって穢された神(自然)の怒りを怖れ、うやまいながら供儀を行なったのであろう。
 しかもそれは全社会的供儀でなければならなかった。つまり全員がそれを供儀として承認しなければそもそも成立しえないものであった。しかしキリスト教の普及によってそれは供儀としての性格を否定されてしまった。「処刑」にかつての供儀としての性格を否定した人々が今や社会秩序の上層に立ち、現実に「処刑」を新しい平和理念の下で執行させたのである。一般の人々の意識はキリスト教の浸透によっても一挙に変わることはなかったから、神聖な行事としての性格を上から否定されたとき、かつての畏怖のなかであとにのこるのは怖れのみであった。だがこの怖れはかつての異教の神と死への怖れであったから、それは同時にプラス面をもっていた。刑吏が医者としての評判が高かったのは、刑吏と処刑にかつての異教の神と死をめぐるタブーの意識が残存していたからなのである。
 こうして一般の民衆の間には処刑と処刑を執行する刑吏への怖れがのこり、それが一三世紀以降の社会史的状況のなかで賤視へと転化してゆくことになるのである」(pp.145-146)

「民衆は国家権力の具体的顕現としての処刑の執行に対して無意識のなかで激しい反感を抱いていたと考えられる。しかし裁判手続きを経て行なわれる処刑に対しては抗議の声をあげることができなかった。
 観衆のなかにはもとより興味本位に、あるいはサディスティックな関心で刑場に来た者も少なくなかったと思われる。しかし刑吏に対する民衆の反感は彼らが国家権力の名のもとに行なわれる流血に潜在意識の底で激しい反撥をよせていたことを示している。この時代の民謡には民衆の英雄となる犯罪者がしばしば登場する。明らかに民衆の認めがたい犯罪のばあいも観衆は受刑>163>者に味方することが多い。特に女性や子どもが処刑されうばあいそれが著しかった」(pp.163-164)

■書評・紹介

■言及



*作成:櫻井 悟史 
UP:20080921 REV:
「死刑執行人」  ◇身体×世界:関連書籍 -1970'  ◇BOOK
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