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『精神医学と人間――精神医学論文集』

神谷 美恵子 19780920 ルガール社,338p.

last update:20130725

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神谷 美恵子 19780920 『精神医学と人間――精神医学論文集』,ルガール社,338p. ASIN: B000J8JB9Y [amazon] ※:[広田氏蔵書] m. lep.

■目次

T まえがき――癩に関する精神医学的研究
U 限界状況における人問の存在――癩療養所における一妄想症例の人問学的分析
V ヴァジニア・ウルフの病誌素描
W 現代精神医学におけるニつの主要動向について――欧米及び日本における社会的・人間学的アプローチ
X 八間学
Y 「ピネル神話」に関する一資料
Z 早発性痴呆をめぐって
[ 「神聖なる病について」に関する精神医学史的考察
\ フランス精神医学学におけるAutomatisme mental(精神自動症)の概念――精神病理学史的考察1
] 構造主義と精神医学――Levi Strauss, Lacan, Foucault の思想とその影響
XI 構造主義と精神医学――Michel Foucault を中心に
XII 西洋臨床医学の生命観――M・フーコーの所説によせて1

■引用

◆まえがき 1-7 全文

 若い編集者たちの熱とねばりは呆れるばかりで、単なる夢話だと思っていた論文集がここに形をとって出ることになってしまった。カビの生えたような古くてささやかな過去の論文の中から、いくつか選んだわけだか、気恥かしいことおびただしい。
 だいたい私は精神医学界では風来坊のような存在で、まともなルートに乗って研究をつづけたとは言い難い。大ていどこかの片隅から精神医学というふしぎな学問を人間の心や社会や歴史との関係においてじっと眺めてきたような気がする。今ごろ「ふしぎ」などといラのはおかしいかも知れないが、それは驚きをそそってやまないという意昧である。
 町和一九年、東大精神科に入局したときには「人間性探究のために」という目的を思いつめていた。それまでの文科系の勉強ではわからないものを精神医学が約束してくれているように思ったのである。しかし、戦況の悪化とともに空襲による被害者がどの科にも多教わりあてられ、火傷、肺炎、赤痢、結核など瀕死の病人がどさっと運びこまれ、私たち少数の「新人」はその診寮に亡没された。その頃の論文が本書にないのはそのためである。とはいえ、内村祐之教授(当時)の命により発熱療法にマラリア以外の薬物や微生物を使ってみることを試みた時<0001<期があった。また終戦後アメリカから導入された「アミタール面接」がもしや分裂病の治療につながりはしないかと、これも内村先生のご期待により、実験を試み、文献をしらべ、総説みたいなものを書いたことがある。しかしすべて手書きの原稿で、医局員の間を回覧され、やがて行方不明となってしまった。こ九な時代の産物で現在印刷となって残っているのは、わずかに内村先生のお手伝いをして大川周明の精神鑑定をした記録である。(内村祐之・吉益脩夫監修『日本の精神鑑定』、みすず書房、一九七二年)
 それでも東大時代は私の精神科医としての形成に根深い刻印を残している。それは空襲で焼け出され、大学の病室に住みこんで先生がたと夜おそくまで医局で学問の話をしたことや、医局の図書室に暇さえあれぱ沈没して主としてドイツの文献を読みふけったことによるのだろう。こんなに沢山の本を自由に読め、新しい学問の世界を発見する幸福だけでも心は満ち足りてあふれるばかりだった。
 昭和二六年、家庭の事情から関西へ移住することになり、翌年内村先生のご紹介状を持って大阪大学医学部神経科に移ったとき、私は一時茫然自失したと言える。主にドイツの学風に染まっていた東大の世界から、とつぜんアメリカからの力動精神医学、身心医学、投影テスト心理学など、戦後の新しい動向に沿った世界に入ったからである。症例研究会の時など、周囲にとびかう術語からして全くわからなかった。せめてわかるようになりたいという必死な思いで、ACC(アメリカ文化センター)に寄っては新着のアメリカ精神医学書を借りて来た。故堀見教授はやがて私に或るきわめて持殊な新しい投影テストを専問[ママ]に研究したらどうか、と言って下さったが、こういうテストに方法論としてどれだけの意味があるのか、それがどうしても疑わしく思われ、先生の命にすぐさま従う気になれなかった。先生は手を焼かれたのだろう。次には、ご自身が書かれる予定だった精神医学史の<0002<ために、フランスの自動症の概念について調べよ、とか、慶応の三浦岱栄教授(当時)から提案されたジルボーグの『医学的心理学史』をほん訳せよ、などと言って下さった。こうして研究テーマさえ決まらないうちに先生ご自身一九五六年教授室で急逝されてしまった。後任教授がきまる一九五八年までの空白の年月、私はジルボーグのぼう大な本ととりくみ、その広く豊かな視野に魅せられ、精神医学史のとりことなった。ヒッボクラテスをつついてみたのもそのせいだし、のちに京大の村上教授(当時)から、みすず書房の『異常心理学講座』(U)第七巻(一九六六年)に「精神医学の歴史」を書け、と仰せつかったのもそのためだろう。後者の準備には欧米の大学図書館を利用できて幸せであった。この歴史的興味があとあとまで尾を引いていることは、本書をみても明らかである。それは精神医学の各時代における枠ぐみに対して、つねにどこかで留保をつけておきたいという、ひそかなアウトサイダー的傾向を生んだ。
 阪大の新任教授として金子仁郎先生が就任されたとき、論文のテーマをご相談するため、まっ先に教授室へとびこんだのは私ではなかったろうか。そのころ、私は時問的・経済的に逼迫していて、ある期間中にどうしても論文を書きあげなければやって行けない状態に追いつめられていた。テーマとしても、ずっと前からの心の歴史の必然として「らいの精神医学的研究」をやれたら、という願いが結晶しつつあった。私について恐らく何一つご存知なかったであろう金子教授が、いともあっさりとこの願いをきき入れて下さり、わざわざ愛生園に出向いて正式に当時の光田健輔園長のご了解をとりつけて下さったときの感激は忘れられない。さて、どういう方法でこの研究をやるか、ということになると、当時阪大でひろく用いられていた一般外来用質問紙や諸投影テストにたよる以外、考える余裕もなかった。いくつかのものにはらい患者に吋して使えるように工夫を加えたのだが、それらの印刷用紙やテスト形式の印刷物も、たびたびの引越のうちに尖われ、この論文は不備そのものと言うほ<0003<かはない。そもそも方法論からして自信がなかったのだが、金子教授のほか高橋清彦先生など、教室の先輩がたのお助けにより、どうにか許された期間と資金内で英文にまとめあげた。なお、これを訳すにあたって最も苦労したのは、文献表の著者名の多数のものが日本名なのにローマ字で記載してあるため、もとの漠字の性名がわからない場合があったことで、その一つについて、京大の尾崎元昭博士がわざわざレプラ誌でしらべて下さったことを厚くお礼申しあげる。
 しかし、この調査を行ない、論文を書いている間じゅう、こういう方法で果してらい患者の心理などわかるものだろうか、という疑間に悩まされた。ちょうどそのころ、ヨーロッパからいわゆる人間学的精神医学というのが東京医歯大や京大あたりに流れ込んで来て、私はそれらの文献をむさぼるように読み、こういうアプローチこそらいというような深刻な状況にある人たちを研究するのにふさわしいのではなかろうか、と考えた。その試みが「限界状況における人聞の存在」という奇妙な論文で、この原形は神戸女学院大学に正式に就任してから、勝手に自己流に考えて書いたものやある。同大論集に載った短い日本語の論文を故島崎敏樹教授のおすすめでさらに掘り下げ、英文で書いてスイスのコンフィニア誌に出した。これが機縁で同誌編集者の一人故オイゲン・カーン先生の知己と交流を得たことは、忘れられない特権であった。
 しかし、以上二つのらい関係論文(じつはほかに数篇あるのだが)をもってしても一般のらい患者のことがわかったわけではない。彼らの生活と心情の大ざっばな背景を知る手がかりになったくらいがせいぜいのところである。第一、らい学もらい園も精神医学自体もその後どんどん様相を変えている。ほんの少しでもらい患者の心に近づくことができたとしたら、それは初めの調査が機縁となって次期園長高島重孝先生のおすすめのもとに約十五年ちかく愛生園の精神医療を少しばかり続けるようになってからのことである。<0004<
 さて一方では関西へ来て以来、アルバイトのため私は神戸女学院大学の非常勤講師をしていたので、昭和三五年、阪大から「卒業」するとともに女学院大学社会学科の教授をつとめることになった。これは当時の新学長難波紋吉先生のご発案によるもので、アメリカの諸大学のように、日本でも精神衛生を一般教養課目としておく必要がある、とのご説得によるものだった。そのほか、社会学科所属の者として、何か精神医学に関連のある講座をつくって専問課程の講義をするように、とのことだったので、私はさんざん考えたあげく社会精神医学、文化精神医学など、当時日本ではまだ目新しかったものをでっち上げて講じることにきめ、比較文化的な情報をできるかぎり集めて講義をした。そのため研究費なるものを、あとにも先にもこの大学でだけ若干支給されたことは感謝に耐えない。四年生のゼミも毎年約三〇人押しよせてくるので、彼女らを約半分にわけ、一方には諸社会福祉施設――少年鑑別所、精薄児施設、養護学校その他――の実態と問題を足で歩いて調べてもらい、他方の組にはいわゆる病跡をやらせてみた。病跡は学生たちに大いに人気があり、文科系の大学としては案外いい題目だったかも知れない。内外の作家が主な研究対象となったが、中に一人の学生――菊池(旧姓神田)幸子さん――がヴァジニア・ウルフをやりたいと自ら申し出て、資料不足の当時としては全力をつくして卒論を書いた。私も英文学をやっていたころから興味を抱いて来た作家であったので、菊池さんはいわば私にのちのちまで課題を残していってくれたわけである。一九六六年春、日本精神神経学会第六三回総会シンポジウムの一つ「創造と表現の病理」に、ウルフの病跡を簡単に発表したのち、同年秋にはウルフの夫君を訪ねに渡英していろいろ教えて項いたが、本書に収められた論文はその前年に英文で書いてスイスで発表したものの訳である。原文と比べると、二、三あとから加えた部分がが入っているニとをお許し願いたい。ウルフ氏から、これからまだまだ資科がたくさん出る予定であることを伺って、この予報的論文をもとに本を書くことを現在まで延ばしてきたのやある。同じ理<0005<由でアメリカから出版したいという話もおさえてきた。それに躁うつ病の研究それ自体も近年ぐんと進歩しつつあるので、書きあらためるべき箇所が多い。
 次に母校である津田塾大学で精神医学の講義を数年させられたが、これはあくまで一般教養の集中マスプロ講義だったので何百人もの学生に申し訳なく、私もあまりはり合いが感じられなかった。毎日六時間の講義のあと少し個別的カウンセリングをやったが、私はあまりはり合いが感じられなかった。そこへゆくと四国学院大学へ数年集中講義に行ったことは、これから社会福祉の実践をしようとする少数の男女学生に向かってのことでやり甲斐があったし、また現ルガール社の人たちと知り合う機会ともなった。
 関西に住みつづけていた私にとって、大阪大学神経科在籍八年ののち、研究の何よりの支えとなったのは村上仁教授(当時)の主宰されていた京都大学精神科教室である。ここで同教授のご好意により豊富な図書室を利用させて項ける幸福を恵まれたし、活発な医局会にも幾度か出席させて項いて優秀な教室の方々のお考えを拝聴することができた。また時には私の拙い発表への批判や意見を与えられて大いに得るところがあった。この教室には、私が東京時代から日仏会館で親しんでいたフランスの精神医学も流れ込んでいたが、何よりも外国にばかり依存しないで自分のあたまで自由に考えようという積極的な姿勢が感じとられてやっと解放された思いがした。
 風来坊ゆえに専問書一冊を買うにも苦労した時代、諸図書館の利用を許されたことは何という恩恵であったろう。さらにあちこちの先生方から励まして項き、家人の理解も得られたことは感謝してもし切れない。これからの女性研究者は男性と肩を並べて医学部を卒業し、正規のルートで伸びて行けるだろう。げんにそういう若い方を目のあたりに見て、いつもたのもしく思っている。
 当然のことながら、私は精神医学だけで八間の心や社会のすべてが解明されるとは思わない。果たして人間が<0006<人間を認識できるものか、という問いも出てきている。しかし臨床の上でも、他のあらゆる人間科学にとっても、精神医学の進歩は欠かせないもので
あろう。これからも、許されるものなら小さな歩みをつづけたいと願っている。
                    一九七八年七月記
                            著者

UP:201307201 REV:20130725
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