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鈴木 千秋 19780620 新潮社,261p. 850円 ※ ■鈴木 千秋 19780620 『平眠――わが母の願った「安楽死」』,新潮社,261p. 850円 立岩:『平眠――わが母の願った「安楽死」』という本があって、この本によると、著者の母親はALSで1976年に79歳でなくなったのですが(77歳のときに自覚症状)「日本安楽死協会」 http://www.arsvi.com/0p/et-nak.htm の会員第1号で、積極的安楽死を望み、実行した(とその息子である筆者は思ったのだが、実際にはそうではなかったという書き方になっています)人であるということになっています。その方についての番組が1976年にTBSテレビで「平眠――ある難病老人の願い」というタイトルで放映されたこともあったようです。 19750521 鈴木千秋病名を知らされる(p.57) 1976年春 逝去(79歳) 1976年 TBSテレビ「平眠――ある難病老人の願い」放映 はじめに I 発病 II 入院 III 退院 IV 再入院 V 再々入院 VI 安楽死の限界 ◆p.57 「 昭和五十年五月二十一日 ▽この日、私ははじめて母の病名を知らされた。筋萎縮性側索硬化症――通称アミトロ。B大小林医師に一度挨拶をと、ご自宅を訪れたところ、家族にだけという前提で診断を明かされたのだ。まさに前夜の森医師の電話で「悲観的な予想」として伝えられた「不治の奇病」であり、小林医師によれば典型的な症状を呈しているとのことであった。口、手足から体全体が動かなくなるのを待つばかりだが、頭と眼の機能だけは残るから、壁に大きな文字を貼って視線で追えば意思伝達は可能である。人工的に食事、呼吸を施せば二、三年は命を長引かせ得る。 このような場合、ただ苦しませるだけの延命には医師も「人間」としてのジレンマを感ずるが、「治療」が不可能な場合は「延命」を目的とするのが、臨床医学の常識であり、 医師は当然それに忠実でなければならぬ。小林医師はそのように話された。」△ ◆pp.101-102 1975年7月11日 ▽「学友森医師から、「この病気は放置すれば自然窒息か肺炎併発を待つことになるが、それは最も残酷だ。今の状態では気管切開し、栄養は鼻腔注入をすすめる」といわれたが、この日、主治医藤沢医師に伺うと、全く反対の意見を述べられた。 「目の前で窒息状態を見せられれば、無意識に手が動いて気管切開を行なってしまう。しかし冷静に考えればこれはすべきではない。気切手術はこのような老人にはショッキングにすぎるし、声は完全に出なくなる。たとえそれによって呼吸が楽になっても死期は目前にある。自然悪化に委ねるほかはない。△ 患者本人のためには自宅に置くのが最善だが、家族の看護が大変であり、結局は入院、退院を何度か繰り返すことになろう」 私は主治医の意見にしたがい、その方針が院長から宿直の医師に徹底されるように願った。母のような患者はとかく看護婦から厄介視され、患者は枕もとのベルをなかなか押そうとしなくなる。いよいよベルを押した時は、最終的な処置の選択を迫られる時かも知れぬ、と私は思ったか(p.101)らである。」 ◆p.182 19751017 ▽「 五十音表で話し合った結果は、やはり母の最大の悩みは肉体的苦痛ではなかった。 「タダ セワヲカケルコト」 安楽生か安楽死か。ここまできたら、いずれがよいも悪いもない。本人の「自由意志尊重」あるのみではないか?「謙虚」こそ、弱者に対する強者の最大の義務でなければならない。しかも現在の母の生きる姿は決して「安楽生」といえるものではない。 安楽死肯定に傾く私を心配して、姉は、「でも時には死にたくないときもあるのではないか」というが、しかし問題は「死にたいときのこと」である。そのときに死なせてやれるかどうかである。また例え「死にたいとき」であっても、すでに母はそれをはっきりとは口に出さぬであろう。「世話になっているからには、死にたいなどとはいうべきではない」」△ ◆19750525 「B大文化祭の最終日、私は医学部の催しを見学に行った。立看板に「寝たきり老人」「安楽死論争」の文字があった。学生の説明によると、現在日本では医師の七〇−八〇%が安楽死肯定であり、消極的安楽死の実際例なども紹介されていた。私は学生たちに種々質問し、彼らはリハビリテーション部長の三田教授に相談するようにと、私にすすめてくれた。」(p.60) ◆19750526 文化祭のことを話す(p.63) ◆19750628 私は「安楽死に対する世間の考え方は明らかに昔とは変ってきた。私も十分に考えているから安心するように」といい、ちょうどこの日の朝刊にも記事があったので(太田典礼氏「理解進む安(p.85)楽死」、岡本太郎氏「歓喜死」)、それを抜き読みして聞かせると、母は左手で自分の胸をたたいてみせた。」(pp.85-86) ◆19750630 「母のようなケースにおける安楽死の実際問題について、参考意見を伺えたらと、私は朝日新聞社に太田典礼事務所への連絡方法を問合せ、さっそく博士を訪ねてみた。 博士は初対面にもかかわらず、極めて如才なく相談に応じられ、私は大いに力を得た。「主治医は?」と尋ねられ答えると、先生はその場でB大神経内科に電話をされるので、私はいささかあわてたが、すでに五時を回っていて藤沢医師は不在であった。今思えば先生は私以上に母の気持を理解されていたのであった。」(p.89) ◆19760120 「午後五時より、招待を受けていた安楽死協会の発起人会に出席。母の代弁者として私も三回にわたり母の訴えを述べさせてもらった。さすがによき理解者ばかりの集まりで、種々啓蒙される思(p.203)い。発起人会は途中、設立準備委員会に切りかえられ、協会設立への動きは急ピッチのようであった。」(pp.203-204) ◆19760121 「昨日、安楽死協会の発起人会に出席したことは、母の願いが決して責められるべきものではないことを知らせてくれた。姉の疲労も限界に達した今、もはやこのまま放っておくことは許されぬ。 今日、私は午前中安楽死協会に太田先生を訪ね、いろいろ相談にのっていただいた。 「自宅療養の患者を往診する形では、『眠らせて欲しい』という母の願いを満たすことは不可能であり、医事検査や延命術を施さないことを条件に入院できる病院を探さねばならぬ」といわれ、さっそく安楽協会の発起人の一人、E病院の宇野院長に電話をされた。E病院は距離的にかなり遠いが、ともかく一度宇野先生に相談するように、とのこと。」(p.204) *結局この病院には入院しない。宇野は仮名。 ◆19760220 「この夜、私は宇野博士の自宅に電話を入れた。ちょうど一カ月前に太田先生から紹介してもらった安楽死協会の医師である。だが宇野博士は、こういった。 私は、その言葉の中に、母の願いが容れられる可能性を感じた。」(p.222) ◆19760224 「E病院に電話し、宇野院長の都合をうかがうと、「明後日E病院にくるように」といわれた。私が、本人の意思を表わす筆談類を持参すべきかとたずねると、そのようなものはむしろないうほうがよい、との返事。私はそれを自然死の形をとるためと解釈した。」(p.223) ◆19760226 「E病院に宇野博士を訪ねた。[…]宇野博士は「ここはあまりにも遠いから」と、傍系病院であるF病院の桂木医師に連絡(p.225)をとられ、母の希望が容れられるよう考慮させる、といわれた。病室もあいているとのことであった。」(pp.225-226) ◆19760227 「朝のうち私は、安楽死を訴える母の手記類を持って、安楽死協会を訪れ、母の入会を申し込んだ。協会としての正式な活動は未だ開始されていなかったが、とりあえず「生者の意志」の用紙に署名するようにといわれた。 私は病室へ急ぎ「生者の意志」の文面を読んできかせた。彼女はその文章の一節々々を確認するようにうなずいてみせた。そしてそれが「平眠申込書」であり、また「平眠許可証」でもあり、必ず何らかの方法によって希望が容れられるのだと説明すると、彼女は両眼に力をこめるようにして私を見つめた。私は母の右手拇印に朱肉をつけ、捺印させた。その指は冷たく固まっていたが、彼女の顔は明るく安堵に満ちていた。」(p.226) ◆19760301 「〔私のノート〕朝、C病院退院。タンカと寝台自動車でF病院へ母を運び込む。彼女には全く無縁の寒々とした病院だが、ここだけが唯一の安眠の場所なのだ。 エレベーターなく、四階の病室まで運転手の手を借りてタンカを運ぶ。母は感謝の表情を示してくれるが、どんな心境であろうか。 階段をのぼりつめた一隅の不定形な病室。空虚な荒れた部屋だが、ここは長く住むとこではない。むしろ落ちつかぬほうがよいのだ。」(p.233) ◆19760306 79歳の誕生日 ◆19760309 「一日々々と「そのとき」を延ばされて喘ぎつづける母を思うと、私はたまらなかった。せめて安楽死協会への正式な入会の形をとり、彼女の願いが近く確約されていることだけでも信じさせたいと思い、私は安楽死協会に赴き、「会員証」の交付を切に頼みこんだ。 会員証は未だ印刷されていなかったが、私は「たとえ略式のものでも母の手に持たせてやりたいのだ」と、くり返し要求した。ペン書きの便箋に協会印が押され、「登録第一号」と記入された会員証が渡され、おしいただくようにして病院に急いだのはそれから間もなくのことだった。」(p.239) ◆19760312 「「[…]私の母は安楽死協会の会員です。そして現在、苦痛を訴えたくともその能力がなくなってしまった患者なのです」 私は一気にまくし立てた。 「やはり看護婦さんの前ではできないことでしょうが、付添いの看護婦はすべてを承知しておりますから、大丈夫です。まことにわがままなことですが、先生の宿直のときにでも、お願いできませんでしょうか?[…](p.242) 「明日は、先生は病院にいらっしゃるのですか?」 「ええ」 「やはり、点滴の中に薬を入れるのでしょうね」 「…………」 「やはり宿直の晩でないといけないのでしょうか? できたら明日の点滴のときにでもお願いできませんでしょうか?」 しばらく沈黙がつづいた。そして桂木医師の低く抑えた声が入った。 「よくわかりました」 ついに私は承諾を得ることができた、と思った。私は心から感謝の言葉をくり返した。」(pp.242-243) ◆19760313 「[…]私を追ってこられた桂木医師は[…]ゆっくりと声を低めて云われた。 「今、点滴中です。普通ならば、もう脈がなくなるのですが。今のところまだのようです。お母様は大へんに心臓が丈夫な方です」」(p.245) 「高く吊された点滴のビンからは依然として約一秒の間隔で水滴が落ちつづけていた。その水の運動は平眠のための最後の仕上げ作業であり、衰弱し切った母の腕は、その一滴々々を懸命に受けとめようとしているかにみえた。 やがて、その腕から針が抜きとられ、腕の上に両手が組みあわされた。私も両手を合わせて目を閉じた。」(p.247) ◆19771219 「太田博士は私に労をねぎらわれ、一枚々々ゆっくりと原稿をめくっていかれたが、屋がて顔をあげ、厳しい表情で私を見つめ、 「これはちがうだろう」 一瞬、私は自分の耳を疑った。その言葉の意味が理解できなかったのだ。太田氏はさらにゆっくりと繰り返された。 「これはちがうじゃないか」 「ちがう、とはどういう意味ですか?」 「点滴の中に何かを入れるなど、そんなことをするはずがないではないか」 「それをやって下さったから、感謝しているのです」(p.254) 「いや、それはやっていないのだよ」 「しかし、最後は点滴で……」 「そりゃ最後には一分一秒でももたせようとして、点滴をするのが普通だろう。とにかく宇野君から積極的にお母さんを安楽死させる処置はとらなかったと聞いておる」(pp.253-254) ◆あとがき 「私の希望は、この際医師の側から「難病ではあるが治り得る」という一言を――それこそムンテラを――患者に対して告げてやっていただきたい、ということである。医師の言葉は患者にとっては最高の権威をもち、その一言が患者に生き(p.260)る意義を与え、さらには闘病の意欲をも与える力となるからである。」(pp.260-261) ◆1978 本出版 ◆1976TBSテレビ「平眠――ある難病老人の願い」 ●ビデオ ◆神戸大学附属図書館 http://opac.lib.kobe-u.ac.jp/av/700/vf.html 尊厳死 : 平眠ある難病老人の願い. - [ビデオ(カセット)] 出版者 東京 : TBSVIDEO 出版年 c1992.10 大きさ ビデオカセット1巻(25分) : VHS, カラー, モノラルHi-Fi 別書名 RM:Dying with Dignity : A son's record of his dying mother's with for "peaceful sleep" 一般注記 手記朗読 .出演:鈴木千秋(次男) /監修: 日本尊厳死協会/協力: 医学博士 石川治 著者標目 鈴木、千秋 コード類 書誌ID=21414895 ◆埼玉県県民活動総合センター http://www.kenkatsu.or.jp/avservice/videolist25.html ◆大阪市社会福祉研修・情報センター http://www.osaka8181.jp/top.html http://www.osaka8181.jp/library/video_1.html 11.1 尊厳死(25分)平眠−ある難病老人の願い 貸出可 筋萎縮性側索硬化症。77歳の暮れに発病。10ヶ月後、筆談も不能となり、五十音字を指差して意思表示する。そんな中で、老人が尊厳死を願う思いがつづられている。 ◆牛島研究室 http://www.yokkaichi-u.ac.jp/~ushijima/my_mpeg/199x/76_tbs.html ■立岩の文章における引用・言及 [3]一九七五年・「人工的に食事、呼吸を施せば二、三年は命を長引かせ得る。」(息子に。鈴木[1978:57]) [120]著者の母親は一九七四年、七七歳のときに自覚症状が現われ、一九七六年の春、七九歳でなくなった。著者は一九七五年にALSと知らされる。「この日、私ははじめて母の病名を知らされた。筋萎縮性側索硬化症――通称アミトロ。B大小林医師に一度挨拶をと、ご自宅を訪れたところ、家族にだけという前提で診断を明かされたのだ。[…]口、手足から体全体が動かなくなるのを待つばかりだが、頭と眼の機能だけは残るから、壁に大きな文字を貼って視線で追えば意思伝達は可能である。人工的に食事、呼吸を施せば二、三年は命を長引かせ得る。」(鈴木[1978:57]、一部を[3]に引用) [209]七五年五月、鈴木千秋の母[120]について、「人工的に食事、呼吸を施せば二、三年は命を長引かせ得る。/このような場合、ただ苦しませるだけの延命には医師も「人間」としてのジレンマを感ずるが、「治療」が不可能な場合は「延命」を目的とするのが、臨床医学の常識であり、医師は当然それに忠実でなければならぬ。小林医師はそのように話された。」(鈴木千秋[1978:57])鈴木に意見を言う医師がもう二人いる。それは後で紹介する。 [297]七五年五月にALSの母がいる鈴木千秋が医師から聞いた言葉。[209]にも引用。「口、手足から体全体が動かなくなるのを待つばかりだが、頭と眼の機能だけは残るから、壁に大きな文字を貼って視線で追えば意思伝達は可能である。」(鈴木[1978:57]) [309]彼は一九七五年五月二一日に母親の病名を知らされる。五月二五日に母の入院先の大学の学園祭で安楽死について知る。六月二八日の『朝日新聞』に掲載された太田典礼の文章を読み、新聞社から連絡先を聞いて六月三〇日には太田典礼に合う。翌年一月二〇日の設立準備会に出席する――この本では発起人会の途中から設立準備会になったとされるが、この日はこの協会の歴史においては設立日とされ、初代理事長に太田典礼が就任したとされる日である。翌二一日に太田に会い、E病院の宇野院長(仮名)を紹介される。二月二六日E病院に宇野を訪ねると、ここは遠いからと言われ、傍系病院であるF病院の桂木医師(仮名)を紹介され、病室も空いていることがわかる。宇野は桂木に「母の希望が容れられるよう考慮させる」と、鈴木に言う。二七日、安楽死協会を訪ね「生者の意志」の用紙をもらう、母の拇印で捺印。三月一日入院、六日七九歳の誕生日、九日安楽死協会を訪ね会員証の交付を求める。会員証はまだ印刷されていなかったが、ペン書きの便箋に協会印が押され、「登録第一号」と記入された会員証を受け取る。十二日、母は亡くならない。桂木医師に会う。「やはり、点滴の中に薬を入れるのでしょうね」/「…………」/[…]できたら明日の点滴のときにでもお願いできませんでしょうか?」/しばらく沈黙がつづいた。そして桂木医師の低く抑えた声が入った。/「よくわかりました」」。十三日、「私を追ってこられた桂木医師は[…]ゆっくりと声を低めて云われた。/「今、点滴中です。普通ならば、もう脈がなくなるのですが。今のところまだのようです。お母様は大へんに心臓が丈夫な方です」」(鈴木[1978:245]「高く吊された点滴のビンからは依然として約一秒の間隔で水滴が落ちつづけていた。その水の運動は平眠のための最後の仕上げ作業であり、衰弱し切った母の腕は、その一滴々々を懸命に受けとめようとしているかにみえた。/やがて、その腕から針が抜きとられ、腕の上に両手が組みあわされた。私も両手を合わせて目を閉じた。」(鈴木[1978:247]) そうしてその本を書きあげて太田に見せると、太田は「点滴の中に何かを入れるなど、そんなことをするはずがないではないか」[…]「[…]とにかく宇野君から積極的にお母さんを安楽死させる処置はとらなかったと聞いておる」(鈴木[1978:253-254])と言う。宇野もそのように言う。つまり、医師側が積極的安楽死に同意し、行ったように書かれているのだが、事実はそうではなかったようだという結末になっている。」 [310]七五年十月。「五十音表で話し合った結果は、やはり母の最大の悩みは肉体的苦痛ではなかった。/「タダ セワヲカケルコト」/安楽生か安楽死か。ここまできたら、いずれがよいも悪いもない。本人の「自由意志尊重」あるのみではないか?「謙虚」こそ、弱者に対する強者の最大の義務でなければならない。しかも現在の母の生きる姿は決して「安楽生」といえるものではない。/安楽死肯定に傾く私を心配して、姉は、「でも時には死にたくないときもあるのではないか」というが、しかし問題は「死にたいときのこと」である。そのときに死なせてやれるかどうかである。また例え「死にたいとき」であっても、すでに母はそれをはっきりとは口に出さぬであろう。「世話になっているからには、死にたいなどとはいうべきではない」」(鈴木[1978:182]) ■言及 ◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院 ◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表 REV:......20021204,20030211,0709,13 ◇ALS ◇安楽死 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |