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『医の倫理』

中川 米造 19770215 玉川大学出版部,228p.

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中川 米造 19770215 『医の倫理』,玉川大学出版部,228p. ASIN: B000J8SJ24 [amazon][kinokuniya] be bp ms


■目次

まえがき 3

T いくつかの問題 17
 1 人類のためか、個人の患者のためか 18
 2 検査か実験か 30
 3 治療すべきか否か 36
 4 予見と行為の選択 46
 5 パンドラの箱 52
 6 行動の統御 55

U 二、三の倫理学的根拠 65
 7 一般的背景 66
 8 健康権と医療 67
 9 功利主義的倫理 73
 10 状況倫理 80
 11 「科学的」倫理 86

V 科学のなかの価値 105
 12 科学の「中立性」 106
 13 不確定性と意志決定 118

W 行為としての医療 137
 14 「未だ生を知らず」 138
 15 アスクレピオス的権能 147
 16 医師‐患者関係の類型 151
 17 手当て 162
 18 経済と医療 171

X 医学教育における倫理 197

参考文献 225


■引用
(pp3-11)
まえがき

 医師はプロフェッションであるといわれる。プロフェッションとは、プロフェスした職業をいう。プロフェスとは宣言するという意味である。宣言する主体は、当の職業結社。相手は、不特定の社会、あるいは市民である。何をプロフェスするかといえば、この結社に所属するメンバーの質が保証されたものであることである。医師と弁護士、それに聖職者は古典的なプロフェッションの代表で、かつては、この三つに限られていた。それぞれ社会的に重要な機能を果たすことが期待されている。部外者には、個々の医師、弁護士、および聖職者の質を判定することが困難だという事情がある。修理工は、修理の技術の優劣は、できあがりを見れば直ちに誰にでも判定がつく。しかし、この三つは必ずしも容易ではない。病気が治らないこともあれば治ることもある。裁判は勝つこともあれば負けることもある。祈りは通じることもあれば通じないこともある。こわれた機械は放棄すればよいが、こわれた人間は放棄できない。駄目だと判っても、この三つの職業人の援助は求める。
 質の判定ができなければ、信頼して、生命や財産権を委託しにくい。そこで、この三つの職業人は、結社をつくり、その質の保証を世間に対して宣言した。質が水準以上のものでなければ、結社のメンバーとして認めないし、宣言した質の維持のできないメンバーは、結社内部で処置し、場合によっては除名する措置をとることで、質の維持向上につとめるということである。したがって、プロフェッションにとって、倫理綱領はもっとも重要な機能を果たし、それを維持することにプロフェッションは、もっと厳格でなければならぬものとされてきた。
 ヒポクラテスの属する結社はアスクレピアードと称する医療職団体であり、アスクレピアードは.アスクレピオス神殿に誓いをたてたメンバーによる結社であることを社会に知らせることによって信頼性を獲得した。「ヒポクラテスの宣誓」とは、この集団の宣誓を、集団の象徴としてのヒポクラテスの名前に仮託したのである。古代インドにも、同様な医師結社の宣誓文のあったことが知られている。
 近代になって、医師の資格認定業務に関する規制は、国家の権威のもとに、法律によっておこなわれるようになったが、医療は右にのべたように、部外者によって窺いえない部分がすくなくないために、大綱を定めるだけで、具体的な判断については、医師個人にまかされている。わが国の医師法においても「医師は医療及び保健指導を掌る 」(第一条)として、もっとも広汎な業務独占を許容している。法的にいえば、それが医療であると解せられる限りいかなる方法をとってもよいということである。
 しかしながら、それが野放しになることについては規制がなければならない。その規制の主体になるのは、やはりプロフェッションとしての団体である。プロフェッションとしての内部的な規制の意味は残るし、とくに最近のように、伝統的な医療倫理では判断しえない事態が増えてくれば、当然、プロフェッションとしての判断の基準を設けなければならなくなる。
 問題は、最近、倫理一般の基準が揺れてきていることである。価値感が多様化してきたこと、人権思想が次第に定着しつつあること、しかも、社会一般の倫理よりは、個別的、個性的な権利意識が伸展してきたことなどの理由で、行為の基準としての倫理的判断に迷うような事態が増えてきている。こうなると、プロフェッションの倫理を新しく確立するために、プロフェッション内部だけでの判断は困難になってくる。倫理の基盤をとらえ直し、新しい事態にそなえるために、外部からの協力も必要になる。
 現代の医療、あるいは医学の倫理にとってもっとも努力を要するのは、これまでの医療の倫理は、ただ医師を信頼することで、医師の判断は、外に知らされることはなかったのに対して、現代ではすくなくとも判断の原則について、公開性が求められているということである。かつてと異なり、判断は医療と医学が分離したり、医師の医療への動機も単純ではないことが判ってくると、ブラック・ボックスのままでは、かえって疑心暗鬼を生み、さらに増大しかねない。しかも、疑心暗鬼は医療にとって最大の障害である。
 公開性が原則になってくると言葉が必要になる、理論が必要になる。ブラック・ボックスをつかって対応してきた医師にとっては、これは大変な難題である。倫理学者や哲学者の強力な援助が必要になってくる。一般市民の討議への参加も当然考慮されなければならない。
 こうして、主としてアメリカであるが、医療倫理についての組織的、制度的研究が、ここ数年急速に育ってきた。それと平行して、新しい時代の種々な倫理的課題についての行為基準や綱領づくりも進められてきた。それは単にアメリカだけでなく、世界中の基準や綱領としての影響力をもつにいたっている。
 本書は、このような動向をふまえて、医療の倫理の理論的研究の今日の到達点を理解するために、代表的な理論を紹介すること、および、医療の基盤としての倫理性を明らかにすることを目的として書いた。
 内容は大別して四部から構成される。第一は、現在医療の倫理が、とくに注目されている問題のいくつかを事例的にあげることである。ほとんどが翻訳書であるが、日本においても、このような問題事例について解釈した本が、つぎつぎと刊行されているので、この部分はそれらが重複する部分がないとはいえないが、問題事例を提示しなければ、問題解決の前提を欠くので、部分的重複は敢てすることにした。
 人体実験の問題は、古典的な医療倫理が再検討されるべき契機を始めて与えたという意味で、とりあげなければならない。また実際的な医療の場でもその患者個人の治療のために必要な検査か、患者たちの診療を前進させるための検査か、あるいは研究成果を競うための検査かの問題として、モディファイされた形で提示される。
 たとえ、治療を第一義とするとしても、いかなる治療をえらぶべきかについて、判断を要する状況が増えてきた。部分的に強力有効な技術がつぎつぎと開発されているだけに、患者の全体的な運命との関連が重要な倫理的問題となる。
 強力有効な技術を提供する科学も、強力有効であるだけに、予期せぬ災悪を人間にあたえる。しかも予期せぬ災悪を人間にあたえうる可能性が予期された以上、それを予期されぬとは、もはやいえなくなったという事情の考察も、現代の問題である。
 もっと根本的な問題に遡れば、技術的進歩は、病気を統御することにあるといえるが、病気は独立した実体でなく、人間のある状態に対する判断だとすれば、病気の統御は、人間の統御ではないかという疑問がおこってくる。
 これらの諸問題に対する倫理的原則を求めるとすれば、いかなる立場においてなされるのがよいのか、第二部は、いくつかの考え方を紹介した。第二次大戦後の医療の倫理を論ずる場合、無視できない健康権、とくに世界保健憲章に提示された健康の定義と不可分なものとなっている健康権の概念の成立過程において、草案起草段階では、まだ充分その重大な意義が認識されていなかったようである。したがって、「単に病気や虚弱がないだけでなく肉体的、精神的、社会的に良好な状態」について、到達しうる限り最高水準の健康を享有する健康権は、具体的に展開する過程で、さらに理論化の余地のあることを示している。
 功利主義的倫理をとりあげたのは、それ自体、功利主義として主張されることはあまりないが、技術的、経済的発想が、医療の中で大きな位置を占めてくると、無意識のうちにあるタイプの倫理に加担していることが多い。それが実は功利主義的倫理であることを見定めることで、功利主義的倫理の限界や到達点を明らかにするためである。
 いま一つ、かなりの影響力をもっているのは状況倫理といわれる考え方である。状況の独自性、個別性を前面に出すことによって、一般的原則を二次的なものとするのは、とくに医療が、個々の患者のそれぞれ独自な状況に対応することが要求されている以上、かなり実践的意味をもっている。しかし表面的に採用すると、非倫理を正当化する倫理となることに注意をうながした。
 科学者が、科学の立場から、新しい倫理的根拠を提供しようとする傾向も、最近めだつようになった。とくに分子生物学者や動物行動学者に多い。それぞれ興味のある所論であるが、分子の世界でえられた一般化が、現実的具体的な人間の行為を導くものでありうるか、また動物の行動で観察された「倫理的」行動を人間の行為の指針とできるかどうか、疑問のあるところである。プリニウスの『自然史』がそうであったように、それは寓話以上の意味をもたないのではないか。
 しかしながら、価値や人間とは別の世界で働いていると思われる科学者たちが、自らの研究成果を踏まえて、倫理問題にまで展開しようとはじめたことは、注目すべき事態である。世俗性を遮断した科学的活動の中にも倫理的配慮を要する問題のあることに、科学者自身が気づいてきていることを示すものである。
 第三部は、科学的理論そのもの、あるいは理論形成過程における価値的な問題についていくつかの考察を提示する。科学者は科学について、価値観をもつ、しかしその価値観は、社会の中で生活している科学者の行動といかに関連するものであるのか、それについての考察を抜きにしては、科学自体の価値観について論ずることはできない。
 しかも、科学的理論は往々にして、中立性の仮面をかぶって、偏った価値を押しつけることがある。仮説を実証する段階で、あるいは、理論を応用する段階で、文化や社会の価値観と葛藤をまねいたり、さらには社会的混乱をおこすことがある。これらは整理された形で注意を払わなければならないし、おこりうる危険に対処するための原則も、明らかにしておかねばならないであろう。
 この際、困難な事態は、現実解析における不確定要因の存在である。医療の場合、とくにそれがすくないこと、しかもときには危険を敢てしなければならない場合のあることが判断を困難にする。しかしながら、不確定要因も、一律に不確定要因としてあつかうことはできない。質的な不確定要因と、相対的な不確定要因、無知、軽視による不確定要因など、できる限り、きめこまかな分析が必要である。
 しかし、それでも、最終的に不確定要因は残る。それに対応するためには、科学的理論そのもの、または理論形成過程の考察だけでは不充分である。医療が、医療者と患者との関係において行為として成立するものである以上、両者の関係について分析的に検討しておく必要がある。第四部は、主として、この問題にあてた。
 医師‐患者関係は、古典的には、医師の絶対的主導性が暗黙裡に肯定されていた。それは、救助を望む患者にとっても、期待される医師像であり、医師はその期待にこたえてその役割を演技しようとしてきた。今日といえども、その役割の果たす(医療的)機能は全面的に否定されてはいないが、それだけで、医師‐患者関係、あるいは医療者‐患者関係の一般的特質とすることはできない。患者の人権を基礎に考えれば、右の古典的な関係は、まさに役割演技であり、患者の期待による仮託であって、回復にむかうとともに、医師による絶対的支配から脱して、自主性をとりもどし、自らによる自らの支配に移行すべきものであろう。
 となれば、医師‐患者関係をふくめて、広く医師関係は、低下した自律性、自主性を援助するところに、むしろ本質があると考えるべきであろう。いくつかの医療関係の類型論を検討しながら、このことを明らかにしたい。
 具体的には、「死んでいく患者」の医療において、もっとも鮮明に問題が提起される。安楽死問題の解決も、実はそこにある。行為としての医療の原形、そして基礎は、言葉のあらゆる意味において、「手当て」であることをいま一度考えてみたい。
 ところで、このように医療関係をとらえるとしても、それは真空の中でおこるわけではない。医療者にしても患者にしても、現実的な生活、現実の社会の中で関係をもっている。そのような現実の一般項は、経済というものであろう。そして医療と経済とは、おそらく、それぞれの本質に由来するものであろうが、相性がわるい。医療は本来、非営利的なものという通念がある一方、ある程度の経営基盤はもたざるをえない。それが過ぎると倫理的問題となるが、どの程度をもって過大であるかについて、経済的計算だけからの合意はえられない。
 国民全体の健康水準の向上のためには、公衆衛生的措置の方が、有効であり、経済的であることは確かだとしても、医療の緊急性は、医療をさしおいての公衆衛生への資金、人員の配分をさまたげるのも、矛盾である。第五部は、倫理的問題としての医療と経済の関係を考えてみたい。
 相性のわるい両者である。矛盾も多い。しかし、それが、医療における倫理的緊張をおこす大きな条件であるということはもっと意識される必要がある。その緊張が、実際の医療や国民の健康を守るための行為にどのように反映されるかが、解答になるであろう。
 最終章は、医療倫理の教育について現状をまとめてみた。医学教育において、とくにあらためて倫理的な教育をおこなわなければならない事態というのは、医学教育全体が、倫理性についてほとんど省みることがなくなっていることを示すものである。部分的に医療倫理を教育プログラムにあげるだけで、このような事態が解決できるというのではない。そのようなプログラムの必要性を感じ、それを実現しようとする意志が重要なのである。しかも、かつてかなり現実的、実利的と思われていた医学生や青年医師たちの中から、倫理についての学習要求がたかまっている事実に注目したい。教育とは、学生の正しい要求を助長するものであるはずだからである。

 本書では、重点を、医療倫理に関する事実や理論の紹介においた。日本では、まだこのような理論があまり試みられていないので、よく引用される理論について理解を助け、さらに深く追求するための一助になればという目的もあるが、倫理とは、基本的に、内面的なもので、人間集団の有形無形の要求が、内面化されて自ら発するようになることである。有形なものとして、もっとも明瞭な形をとるのは法律であり、ついで倫理綱領や規定であろうが、それが単に外部的な規制であるか、あるいは、それが単に外部的な規制にとどまっている限り、内面化されず、むしろ、それらの規制の空隙を求めさせることになりかねない。外部から、このようにあるべきという押しつけは真の倫理の原則を培う上では、あまり適切な方法といえないであろう。
 むしろ諸事実、諸理論を自らの実践の文脈にどのように位置づけるかという反省こそが、内面化のために重要である。そのためには、あまりにも実践に接近しすぎた事実をあげて告発するよりは、やや離れた扱いの方が、内面化は、より確かさをうると考えたからでもある。


*作成:櫻井浩子植村 要