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『歴史への希望――現代フランスの知的状況から』

Touraine, Alain 1977 Un desir d'Histoire, Edition Stock.

=19791105 杉山光信訳『歴史への希望――現代フランスの知的状況から』,新曜社,310p.


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◇Touraine, Alain 1977 Un desir d'Histoire, Edition Stock.
=19791105 杉山光信訳『歴史への希望――現代フランスの知的状況から』,新曜社,310p. ASIN: B000J8DASC 1995 [amazon]

■目次

自由落下
 メトロ・バック駅
 学校教育
 時間の外の受験クラス
 崩壊



 ウルム街
 出発
 石炭
 社会学へ
 仕事
 労働者の意識


練り桶
 分裂
 合衆国
 共産党
 知識人


見失われた社会
 社会学に先立って
 ユートピアの時代
 秩序と排除
 絡みついた網
 引き伸し


社会を考える
 用語について
 社会の統一性と二重性
 病理としての権力
 社会運動
 社会学者
 変化と構造


ラテン・アメリカ 従属
 チリとの出会い
 従属社会
 ピノシェ、荒々しい上昇とありうる失墜
 自由ケベック
 ポルトガル、頭と腕と
 パレスティナ人のために

大学の春、そして冬
 非在の大学にて
 ナンテール、一九六八年
 大学のためのプロジェ
 解放された領域


何の目標にたたかうか
 古い登場人物の終焉
 行為者たちと係争されている目標
 異議申し立て
 自主管理
 労働組合運動
 開かれつつある空間
 私が思うこと
 左翼は選択せねばならない
 責任

日本語訳へのあとがき
訳者あとがき

■引用

「(…)私は基幹産業に、石炭と鉄とに、ひきつけられていたが、それらははるかに重大な戦略的かつ象徴的な意味を有していたのである。私の世代に属してい る大部分の人びとにとって、フランス経済がこのように再出発していくことは大きなよろこびであった。どう受けとるにせよ、労働組合の活動家たちもそれを再 び強く感じていた。今日では私たちは工業社会から脱け出している。私たちは環境汚染を告発しているし、また経済発展が主として工業だけに依存していないこ とを知っている。私は決して最近になって工業の時代の終焉を論じている人びとのひとりではないが、労働と意思とによってこの世界を変革するという思想を、 私の受けた教育から守ると同様に、工業の時代の終焉の主張からも、防衛する。このごろになって、そしてこの数年来さらに、この感情がアナクロニックなもの に思われているとしたら、残念なことである。」(p.41)

「それゆえ、労働者の世界では、労働組合の行動は四つの主要なタイプを順次に経過していく。
 第一、たんなる経済的防衛にのみに終始している組合運動(歴史的にみてその最初のもののひとつは、十九世紀にイギリスの面工業に見出される)。
 第二、プロレタリア的な革命的サンディカリスム。ここでは労働条件によりも雇用の問題が緊急のものとなっている。
 第三、階級のサンディカリスムとよぶ必要のあるもの。その全盛期はおそらく両大戦間の時期である。一九二六年のイギリスの大ストライキが、古い労働者の 世界の終焉を画している。一九三六年に、フランスと合衆国とにおいて、もっともはっきりした階級のサンディカリスムのイメージが見られる。中心となるのは 技術資格をもつ金属工である。
 第四、社会学者たちのいうように、対立についてある種の制度化が出現する状況へと、しだいに進んでいく。この現象は社会的な原因に加えて、職業構成の変 化にも原因をもつと私は考えている。社会的地位という水準では、社会的行為者は企業と対峙する存在ではなくなっている。労働者は職業的な自立<52 53>性を失っている。かれは完全にコミュニケーションのネットワークのなかの役割や地位によって規定されている。組織の内部には、とくに各々の職 業的カテゴリー間には、多くの対立が存在している。たとえば医者と看護婦、教授と助手、販売部門と製造部門、専門家と識見をもつ経営者、被雇用者と職制な ど。これらの対立は権威の行使を、したがって労働の組織を問題にするが、資本主義か社会主義かというような生産の社会的方向が問題にされることはない。企 業のなかで、階級の概念を用いて原則論的な批判を行う人びとは、組織の外部にいる人びと、見方によれば消費者であるような人びとにたいしてしか、語ること ができない。このことを、労働者に本来的な条件が消滅したということもできよう。といっても、労働者が存在しないということではない。自立性や熟練、さら にまた固有の教養をなす諸要素などに支えられる労働者の本来のあり方という中心的状況が消滅してしまい、それが権威主義的な方法による労働組織によって解 体されている、ということなのである。」(p.52-53)

「(…)社会運動がなければ、社会学も可能とはならない。社会運動が社会学を生み出すとともに、社会学者は社会運動の意味を明らかにするのである。労働者 運動が生れることがなければ、工業社会に関する理論も存在しなかったであろう。その理論は経済分析あるいは道徳的な異議の申し立てにとどまっていたであろ う。新しい社会関係が再び誕生することを求め、それと同時に、構造主義的な結晶学や欲求のユートピア、再生産と排除のメカニスムの批判をこえるとともにそ れらをも取りこんでいく私たちの作業が、舞台を照明していこうとしているそのような社会運動がすでに形成されていることに、私は賭けるのである。引き伸 し。人物を出現させてくるであろう写真をとるのは私たちであり、またそれと同時に、私たちの視線を劇場から舞台へと移行させていくにちがいないのは、行為 者(俳優)たちの動きなのである。」(p.105)

「ようやく私たちは出発点へと戻ってきた。社会とはそれ自身にたいする働きかけであり、文化的な自己産出であるが、それは社会紛争・対立によって社会がひ き裂かれることを通してなされる。このことが、社会学の主要対象を諸々の社会的行動の研究、とくに歴史形成の過程に、すなわち社会運動と呼ば< 126 127>れているところの行動にほかならない階級関係と階級紛争とにもっとも深くかかわる行動の研究たらしめている。社会運動は敵対関係をはらんで いる集合的行為であり、したがって歴史形成作用のコントロールをめぐっての諸階級間の紛争・対立的関係のなかに位置している。」(p.126-127)

「(…)社会運動はまた敵対者の支配と、それを支えている秩序を解体するものでもある。<128 129>それは生の担い手であるとともに死の担い手であり、希望の担い手であるとともに破壊の担い手である。個人的には、矛盾の概念において社会を 分析することに反対するために、私はこれまで社会運動の積極的な側面をむしろ意図的に主張してきた。私はいつでも労働者意識に関する私の研究のなかで、労 働者意識というものは決してもっぱら半資本主義的な闘争ではなく、それは同時に労働者と生産者の世界をうち立てようとする、労働に基礎をおく工業社会をう ち立てようとする意思をもつものであることも示してきた。オーエン、フーリエ、ルイ・ブランなど協同組合的な社会主義を求めるアソシアシオン論のテーマの 重要性はそこに由来している。それらは孤立させられるばあいユートピアとなるが、労働運動にとっての不可欠の構成要素なのである。しかし、否定的な要素を 導入することもまた重要である。社会運動はひとつの秩序をひき裂きつつ、ひとつの紛争・対立を出現させる。したがってそれは既存の社会関係を破壊するし、 そうして生じた白紙状態において、社会運動は開放を進めていくが、他方で階級関係を否定しそれゆえにひとつの純粋権力となっていってしまうようなひとつの 意思を押しつける。運動がより極端なものになると、秩序からより断絶すると、それだけいっそうその運動は別の秩序を提起するようになる。こうして運動は、 権力にたいする全面闘争とよびうるものになるとともに、新しい国家を構築するものとなる。」(p.129)

「したがって、社会についての研究はまず第一に諸々の社会闘争についての研究である。というのは社会的な関係というものはすべて紛争・矛盾の次元を有して いるからである。社会学者は現代の資本主義がいかにして運行しているかを説明するものではなく、人びとが現に行っていることをなぜ行うのか理解させるよう 求められている人であり、とくに、社会の全般的な方向を問題とする大きな集合的運動を理解させるよう求められる人である。」(p.132)

「これらすべてのことは私には、ひとつの社会運動の現前を、新しい闘争のための新しい場の規定を、指示しているものに思われた。この復権は、いささか神話 化されている過去へのある結びつきをもたずにはなされない。この運動は労働運動に依拠しようと欲していた。「革命の旗を、ひよわな学生たちの手から労働者 の力強いこぶしへと渡すこと」が問題であったのである。そしてこのことはビヤンクールのルノー工場の閉ざされた門への悲しくも象徴的な行進へと導いたので あった。けれども、「五月」はまた、大学の危機と文化の革新と、古い社会主義の局面と新しい社会運動とが混りあっているものであった。大学の世界の貧困化 そのものが(またそれ以外の原因にもよるが)、さらに危機と亀裂のイメージを<204 205>生じさせることになったと、私は考えていた。それから九年が経過して、ナンテールのイメージはいく分うすれている。一九六八年の五月は、今 日ではソルボンヌの事件として考えられている。だが私にとってはナンテールは、文化の危機であるよりも、新旧のさまざまの社会闘争の復活でありつづけてい る。私が体験したものとしての「五月」の意味はこのようである。」(p.204-205)

「新しい社会運動をこのように考えていくことは、労働組合運動の位置を再規定させる。かつて私が労働者意識について語ったとき、私はそれについての自然史 を書こうとし、階級意識に、したがって労働者階級の行為に中心的な位置づけをあたえおうとした。私は労働組合運動の、より一般的には労働運動の未来につい て、前もって考えてみようとした。労働者意識の中心点をこえると、労働運動は何になるのであろうか。ヨーロッパにおいて工業化の大発展をみた時期以来、そ してパリ・コミューン以来、労働運動がかつて占めていた中心的な場所をもはやそれが占めることができないであろうような、そのような時期がやってくるにち がいない。労働運動の終焉、さらには労働者階級の終焉なるおかしな主張、あるいはもっと一般的にいって一九五〇年代と六〇年代とを通して、主要な資本主義 諸国においては、工業社会は一方では国家が仲介を行なうことにより、他方では労働組合組織の強化のおかげで、しだいに産業上の紛争・対立が交渉によって解 決されるようになっていることが、はっきりと認められるようになってきたことまでは否定できない。さらにまた、たとえば教育の分野において、その基礎と思 想とが階級的な労働者の組合運動とははっきり異なっているような労働組合が発展してきているのが認められる。いたるところで部分的な変化を認めることがで きるが、重要なことは要求を行なう社会運動が諸々の制度の枠組のなかで交渉・取引していることである。」(p.247)

「労働組合運動の未来は、しだいに政治システムのなかに組み入れられていくか、もろもろの新しい社会運動にたいしてひとつの政治次元をあたえるような、そ らら運動のオペレーターになっていくか、そのどちらかである。」(p.253)

「(…)秩序の機能・運行状態について記述していることで満足している人びとは、その前にある客観的状況に身を置くことができるし、社会的活動の諸カテゴ リーをかれらなりの分析のなかに受けいれることもできよう。だがもし、社会運動と歴史形成的な行為と出会おうとするなら、研究そのものがそれらを出現さ せ、規則化され組織化されている活動の諸々の制約からそれらが自由に出現してくるのを手伝うことが必要である。社会学者は観察することで満足してはなら ず、介入して働きかけを行なわねばならない。したがって知識の関心は、社会運動そのものの進歩から切り離すことができない。社会学は解放をめざす活動へと 導かれないのなら、それに生涯をささげるほどのメリットはない。社会学者は社会学を生み出すことが必要であるが、この認識の作業は、社会学者たちの集合的 および個人的な経験のうえでできるだけ多くの行為能力を増大させていくためのかれの働きかけとは分離できないのである。」(p.280)


◇作成者:橋口昌治
UP:20080219
アラン・トゥレーヌ  ◇社会運動/社会運動史  ◇BOOK
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