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『沖縄戦後史』

中野好夫・新崎盛暉 19761020 岩波書店,221p.

last update: 20120806


■中野好夫・新崎盛暉 19761020 『沖縄戦後史』岩波書店,221p.

■内容

本書では、ここにあげた九つの時期区分にしたがって、沖縄戦後史の基本的流れを、沖縄現地の政治史的動向を中心に、できるだけ具体的に明らかにし、沖縄戦後史と本土戦後史を統一的に把握するための素材を提供してみたい。(「はじめに」12p.より)


■目次

はじめに
1 米軍政と民衆
2 米軍支配の確立
3 弾圧下の闘い
4 島ぐるみ闘争
5 過渡期の胎動
6 闘いの発展と分裂
7 米軍支配の破綻
8 激動する沖縄
9 沖縄返還
あとがき
沖縄戦後史略年表


■引用


■9 沖縄返還
1969年12月 総選挙 自民党圧勝
1970年3月 佐藤政権「沖縄復帰対策の基本方針」
1970年6月 沖縄返還協定作成交渉開始
1970年5月 日米安保協議委員会「返還後の沖縄防衛計画」の具体的検討開始

1969年11月13日 佐藤訪米抗議 県民総決起大会、全県民抗議スト体制
11月17日(首相出発当日) 復帰協 抗議集会
「訪米阻止」を提案し、討議するも、「首相の意図する返還方式に反対する」へ(198)
「全国的な統一行動が、首相出発の日を避けて13日に設定されたのは、新左翼勢力の佐藤訪米実力阻止闘争との結合を避けるためであった。
 本土ではすでに、日米安保体制の再編強化には反対だが、沖縄返還交渉を阻止することはできないという国民的合意が成立していた。」(198)

・「沖縄闘争」
「沖縄闘争という言葉は、新左翼勢力が66、67年ごろから、従来の復帰運動や沖縄返還運動と異なるみずからの闘いに対する呼称として用いはじめたものであった。それが、第二次佐藤・ジョンソン会談後、社会党や総評の一部でもつかわれるようになり、佐藤・ニクソン会談後は、復帰協でも一般的に使われるようになっていった。といっても、この言葉は使われはじめたころは、新左翼勢力も、従来の返還運動や復帰運動と共通する「本土復帰、沖縄奪還、即時無条件全面返還」などのスローガンをかかげていた。「サンフランシスコ条約第三条の破棄を通じた沖縄人民の解放」といった表現をスローガン化することによって、より厳密な表現をとろうとした勢力も含めて、彼らもまた、少なくとも形式的には、米軍支配下の沖縄人民の解放を日本への返還に求めていた。[…]佐藤・ニクソン会談以降、彼らの一部に「日本帝国主義による沖縄併合反対」といった主張が登場してくる。」(199−200)
1967年11月 第二次佐藤・ジョンソン会談
1969年11月 佐藤・ニクソン会談

・国政参加選挙と反復帰論
1968年10月 沖縄に関する日米協議委員会 沖縄の国政参加合意
→1970年11月15日に選挙
1970年4月28日 県民大会: 例年の半分以下、3万人たらず
同日の東京での沖縄連・沖実委系の統一中央集会 4万5千人(沖縄を初めて上回る)
新左翼系の統一集会 2万人
全国449ヵ所で約20万人
「「決戦場は今年11月でなければならない」(教職員会の11月行動の指針〈案〉)という気負いをもって佐藤訪米反対、阻止闘争を展開した沖縄人民の敗北感と、スケジュール的な佐藤訪米抗議闘争を展開した本土の沖縄闘争の差異が示されていた。」(208)
秋の国政参加選挙に革新諸政党が忙殺

国政参加拒否闘争
「沖縄返還協定の締結とその国会承認の準備作業としての国政参加選挙を拒否することによって、日本政府がおしつけようとしている「ゆがめられた返還」を否定しようという点にあった。反復帰論者もまた、この闘争にみずからの思想を政治的に表現する場を見出していた。」(210)
反復帰論: 「72年返還が、沖縄人民が復帰に託した願望とほど遠いことを歴然とさせていたから、大衆の心情を急速に吸収し、沖縄返還協定粉砕闘争や返還協定批准阻止闘争にかなりの影響をあたえることになった。」(211)

1971年4月15日 県労協統一スト 「沖縄返還協定粉砕」をスローガンに統一スト
1971年5月19日 返還協定粉砕ゼネスト
1971年6月17日 沖縄返還協定調印
1971年11月 沖縄返還協定批准反対ゼネスト、衆院沖縄返還協定特別委が返還協定を強行採決
1972年1月 5月15日返還決定
1972年3月7日 全軍労10日間スト、3月24日 全軍労無期限スト突入
1972年4月10日 全軍労無期限スト打ち切り(35日間)、執行部三役退陣
1972年5月15日 復帰協 沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒、5・15県民総決起大会

「4・15統一ストから5・19ゼネストにいたる闘いは、2・4ゼネストの挫折、佐藤訪米反対阻止闘争の敗北を各組織のなかでのりこえようとしていた人びとの努力と、コザ暴動で噴出した民衆のエネルギーとの接点に構築されたものであった。[…]もっとも大きな問題は、闘いの中心組織の一つである官公労がスト権確立に失敗したことであった。」(213)



■書評・紹介


■言及



*作成:大野 光明
UP: 20120806
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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