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『イデオロギーとしての英会話』

ダグラス・ラミス(斎藤靖子ほか訳) 19761030 晶文社,266p.

last update:20130620

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■ダグラス・ラミス(斎藤靖子ほか訳) 19761030 『イデオロギーとしての英会話』晶文社,266p.


■内容

■目次

まえがき
イデオロギーとしての英会話
沖縄――十年の後
アメリカ史の「解放」
脱出――ボブ・ディラン論
戦争の真の終り アラン・レネ監督『戦争は終った』
ラディカルな言葉、ラディカルな行為
映画のなかのアメリカ
かえってきた京都
不自由な性
ヒッピー論
ドロップ・アウトその後
機械
現象機
国を治めるための秘密計画 盗みだされた秘密文書
ホー・チ・ミン市からの涼風
著者注
あとがき 抑圧の近代化
初出一覧


■引用


■沖縄――十年の後(初出『中央公論』1971.1)[砂田一郎訳]

「全軍労ストの時、彼ら[ジャンとアン]は全軍労の逃走の目標を説明し、ストライキ支持を呼びかけた英語のパンフレットとポスターをつくる手助けをした。そのポスターには、全軍労のスローガンを英訳したものに加えて、「抑圧されているGIに自由を」そして「すべての権力を人民の手に」(これはブラック・パンサー党のスローガンとして知られている)の文句があった。これはたぶん、沖縄のGIに直接向けられたアピールとしては初めてのものだったようだ・・・・・・少なくともそれが効果を発揮したという点ではまちがいなく初めてのものだった。反戦GIのグループはこのパンフレットを多数、嘉手納基地内でまき、そのポスターを基地内にかかげ、軍によってそれがはがされるとまた貼り直した。アンはパンフレットをフェンス越しに基地内に投げこんだところをMPに逮捕された。」(46−47)

「彼ら[ジャンとアン]の家で、私はブラック・パンサー党を支持して大きくなりつつある黒人兵士グループの何人かと会った。彼らと語り合うことは私にとって楽しくもあり、また心の救いでもあった。私がそれまでに街で会ったGIたちは誰一人として、沖縄の人たちはなにを考えているのかということに少しも理解がなかったし、それを知ることに興味すら示さなかった。[…]たとえインドシナ戦争に反対しアメリカ国内の平和運動を支持している者ですら、沖縄についてはまったく意識していなかった。」(47)
「しかし私が会った黒人GIたちは違っていた。彼らは全軍労のストに深い感銘を受けていた。彼らはストが彼らを抑圧している連中に有効な打撃を与えていることに印象づけられ、また「抑圧されているGIに自由を」のスローガンに励まされていた。沖縄の人たちが抑圧されているGIたちの苦境に関心を示したことなど、彼らの知る限り、それまで一度も起こったことがなかったのだ。彼らは基地内で会う基地労働者たちとストライキやその他のことについて話をはじめた。そして沖縄の人々が受けている扱いは、彼ら自身の経験してきたことに非常に似ており、彼らには完全に理解できる性格のものだということに気づきはじめたのである。アメリカ支配体制の、弱い環の一つの実例がここにある。[…]要するに白いアメリカ意識でもって抑圧されることがどんなことなのかを、説明ぬきで、また“同情心”を媒介とすることなしに、そのまま理解することができるのだ。」(48)

「これらの黒人がいったん政治意識をひろげようとすれば、彼らが軍隊と衝突を起こすことになるのは当然である。」(49)→軍隊への不服従と軍法会議での裁判闘争を戦うGIオースチン。

「検察側の証人はすべて白人、弁護側の証人はすべて黒人だった。法廷の傍聴席も一方の側は白人、反対側は黒人と色分けされていた。オースチンの側に関係した白人は、アンと私と臆病でいやいやお勤めをはたしているといった感じの軍の弁護人の三人だけだった」(51)

「裁判の後日、十人の黒人GIと全軍労の代表との間でもたれた会合の席で、いっそう明らかにされた。こんどのストライキ中、黒人兵の兄弟たち【ルビ:ブラザーズ】は全軍労に対する関心をいっそう強め、全軍労について知りうることはなんでも知りたいと望んでいた。そこで会合が準備されたのだが、この種の会合は私の知る限り戦後の沖縄の歴史でも初めてのことだったと思う。そして会合は大成功だった。出席者はみなその歴史的意義を意識し、双方とも非常に高揚した気分で密度の濃い意見の交換を行なった。みなそれまで両者を仕切っていたカーテンが上げられたように感じ、これまでのステロタイプ化した“占領軍のGI”そして“土着の人たち”という観念を捨ててお互いを人間として見るようになっていた。そこで極めて明白になったことは、沖縄の人たちと黒人GIの地位に非常な類似性があるということだった。すなわち両者とも白いアメリカの人種差別主義的、帝国主義的体制に抑圧され、陥れられている有色人種である。そして問題は、このことが単に抽象的な意味でなく、もっとも具体的な意味で彼らの日常生活を形づくっている事実としてある、ということなのだ。」(52−53)

「だから黒人側が最初に全軍労働者に発した質問は、「基地内での沖縄人に対する人種差別的扱いにはどんなものがあるか」だった。その質問はきわめて明瞭なものだったのだが、沖縄の人たちは彼らが基地内で目にしている黒人に対する人種差別的扱いの実例をあげながら、その質問に答えはじめたのだ。「そうじゃないんだ、おれたちが質問しているのは」と黒人たちは言った。「そういう人種差別はあなたたちに言われるまでもなくおれたち自身がよく知っている。われわれが知りたいのは沖縄人に対する人種差別的扱いについてなんだよ」
 沖縄の人たちの心の中では、人種差別という言葉は自動的に黒人にだけあてはまるもので、自分たちには関係のない言葉のようだった。それには多くの、単純でそして複雑な理由がある、と私は思う。[…]彼らの盲点の中に実は彼ら自身の一種の人種差別感がなかったと言いきれるだろうか。彼ら自身を黒人と同じカテゴリーに入れて考えることを避けようとする欲求が彼らになかったと言いきれるだろうか。」(54)

「沖縄の人たちが基地で受けている扱いは人種差別主義そのものである。アメリカ人労働者は基地内のPXで買物ができるのに、基地で働く沖縄の人たちはそれができない、という事実が指摘された。夏休みにアルバイトで基地内で働くアメリカ人高校生が、家族持ちで長年勤続している沖縄人基地労働者より高い賃金を受けている、という事実もあった(沖縄の出席者たちは、こうした事実を経済的な分析で説明しがちだった。しかし話合いが進む過程で、彼らは、経済の分離がまさに人種的な線で分けられており、帝国主義は人種差別主義の要素を持っているということこそ重要な点なのだ、ということを理解しはじめた)。基地には分離されたトイレという事実があった。また(これは全軍労側から指摘されたことだが)沖縄人基地労働者は単に漠然とした労働力資源としてのみ扱われ、ここの労働者のもつ特技は少しも尊重されず、熟練した機械工がある日突然、荷物を運んだり床掃除を命令されたりする、という事実も存在した。そして最後に、“黄色い野郎【ルビ:グーク】”という侮蔑の言葉があった。会合でこの言葉についての指摘があった時、沖縄の人たちはこの言葉を知らないようにみえたという事実は、少なからずわれわれを驚かせた。
 「どういうスペリングですか」と彼らはたずね、その言葉を彼らのノートに書き留めていた。グークとは“黒ん坊【ルビ:ニガー】” と同じような侮蔑の言葉で、あらゆるアジア人を指し、沖縄、日本、韓国、ベトナムその他アジアのどの地区でもGIたちがつねに使っている言葉なのだと、われわれは彼らに説明しなければならなかった。二十五年間も占領されていたのにその言葉を知らぬ沖縄人たちが大勢いることは驚きだった」(55−56)

「人々は、それまで長いこと黒人と沖縄人とを互いに背を向けさせ、切り離してきた無知と猜疑の垣根を、はっきりと見ることができた。もちろん、米軍の沖縄人に対する扱いを痛烈に攻撃する黒人たちの批判のやり方は、彼ら自身GIであり軍体制の構成分子であるという彼らの役割上の矛盾をむしろいっそうきわ立たせるものだったし、またそのことは彼らをして軍に対するさらに敵対的な立場に自らを立たせるものでもあった。会合がりに近づくにつれ、双方は真に心からなる連帯と同士愛の宣言を作りつつあった。[…]「あなたたちがこんどまたストライキやデモをやろうという時は、かならず前もっておれたちに連絡するのを忘れないでくれよ」」(56)
[砂田一郎訳]


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20130619
沖縄 沖縄ベ平連  ◇沖縄闘争(1960年代後半~1970年代前半) BOOK
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