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『国立療養所史(精神編)』

国立療養所史研究会 編 19760801 厚生省医務局国立療養所課,360p.

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■国立療養所史研究会 編 19760801 『国立療養所史(精神編)』,厚生省医務局国立療養所課,360p. ※ i05. h01

■目次

国立療養所史「精神編」目次

序 厚生省医務局長 石丸隆治
まえがき 国立武蔵療養所長 秋元波留夫

第1章 国立精神療養所前史――傷痍軍人療養所から国立療養所へ 1
 第1節 傷痩軍人療養所開設の経緯 秋元波留夫 1
 第2節 傷痩軍人武蔵療養所の創設とその活動 関根真 8
 第3節 傷痩軍人下総療養所の創設とその活動 豊泉太郎 14
 第4節 傷痩軍人肥前療養所の創設とその活動 向井彬 23
 第5節 傷疲軍人精神療養所の果した役割 秋元波留夫 27
第2章国立精神療養所の創設拡充および整備 33
 第1節 国立精神頭部療養所の創設と初期の活動 林左武郎 33
 第2節 国立療養所再編成の一環としての精神療養所、の転換 秋元波留夫 39
 第3節 転換施設の歴史と現状 48
  第1 国立療養所榊原病院 松島保 48
  第2 国立小諸療養所 畑邦吉50
  第3 国立療養所松籍荘 浜義雄 51
  第4 国立療養所南花巻病院 小泉四郎 53
  第5 国立犀潟療養所 林茂信 55
  第6 国立療養所東尾張病院 花井昌二 57
  第7 国立療養所鳥取病院 坂本新道 58
  第8 国立十勝療養所 猪子春雄 62
  第9 国立療養所久里浜病院 河野裕明 64
  第10 国立療養所北陸荘 竹島俊男 68
  第11 国立療養所賀茂病院 久保摂二 71
  第12 国立療養所菊池病院 山口聖次 74
  第13 国立療養所静岡東病院 清野昌一 79
 第4節 沖縄復帰に伴う琉球政府立精神病院の国立療養所への改組 86
  第1 沖縄精神科医療の歴史,とくに派遣医師の果した役割 清野昌一・豊田純三 86
  第2 琉球政府立精神病院の歴史と国立療養所琉球精神病院の現状 石垣一彦 97

第3章 国立精神療養所の治療活動とその変遷101
 第1節 概説 安藤烝 101
 第2節 精神分裂病の治療 104
  第1 入院治療 104
  1 慢性患者の入院状況を中心として 林左武郎 104
  2 国立武蔵療養所における入院治療――生活療法を中心とし 安藤烝
  3 転換療養所における分裂病の入院治療 久保摂二 124
  4 国立肥前療養所における入院治療――病棟の開放化をめぐって 鮫島健 132
  第2 外来治療――分裂病治療を中心として 中村豊 137
  第3 身体療法の変遷 安藤烝 145
  第4 作業業療法 井上大策 163
  第5 社会復帰 平山□ 171
 第3節 その他の疾患の治療 191
  第1 老年期精神疾患 田中政春 191
  第2 アルコール症 河野裕明 196
  第3 てんかん 清野昌 201
  第4 頭部戦傷外傷後遺症 豊泉太郎 210
  第5 重症心身障害 後藤哲也・松本茂幸 223
  第6 脳器質疾患 松本秀夫 227
  第7 麻薬中毒 林左武郎 234
  第8 合併症の治療 鮫島健 237
 ……

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

■引用

序 厚生省医務局長 石丸隆治
まえがき 国立武蔵療養所長 秋元波留夫

第1章 国立精神療養所前史――傷痍軍人療養所から国立療養所へ 1
 第1節 傷痩軍人療養所開設の経緯 秋元波留夫 1
 第2節 傷痩軍人武蔵療養所の創設とその活動 関根真 8
 第3節 傷痩軍人下総療養所の創設とその活動 豊泉太郎 14
 第4節 傷痩軍人肥前療養所の創設とその活動 向井彬 23
 第5節 傷疲軍人精神療養所の果した役割 秋元波留夫 27
第2章国立精神療養所の創設拡充および整備 33
 第1節 国立精神頭部療養所の創設と初期の活動 林左武郎 33

◇秋元波留夫 19760801 「国立療養所再編成の一環としての精神療養所への転換」,国立療養所史研究会編[19760801:39-47]

 ▽039 第2節 国立療養所再編成の一環としての精神療養所への転換 秋元波留夫

 1 終戦前後の国立精神療養所
 国立療養所は総数160を数え(昭和50年4月現在),全国各地に設置されているが,そこで主として行われる医療の内容によって,国立結核療養所,国立精神療養所,国立せき髄療養所および国立らい療養所の5専門施設に分類されている。施設数および病床数からみて圧倒的多数を占めているのは国立結核療養所で,それ以外の専門施設では,精神15(結核からの転換が完了していないものも加える),らい13,せき髄1である。
 厚生省が所管する国立医療機関(国立療養所,国立病院)のほとんどすべての施設は第2次大戦の終結とともに,戦時体制下の公的医療機関(陸海軍病院,傷痩軍人療養所,日本医療団傘下の施設など)を継承したものである。この継承は日本政府自身の意志というよりも,わが国に進駐した連合国軍最高司令部の”指令”によるものであった。

 陸海軍病院に関する覚書 ”日本政府は,内務省が日本陸海軍の全病院,療養所および他の療養施設の監督権を占領軍司令官より受領した際には,ただちに一般市民の医療に責任を有する厚生省に移管すること,およびこれらの諸施設において行う入院医療は,傷痍軍人およびその家族に限定しないこと” 連合国最高司令部(昭和20年11月19日)。
 軍事保護院に関する覚書 ”日本政府は,軍事保護院のあらゆる病院,療養所,患者収容所,その他病院の監督権を厚生省の一般市民の医療に責任を負う機関に移管すること,およびこれらの諸施設において行う入院医療は,退役軍人およびその家族に限定しないこと” 連合国最高司令部(昭和20年11月13日)。

 この覚書に基づいて,陸軍病院102,海軍病院17,および軍事保護院所管の傷痩軍人療養所53などの多くの医療施設が厚生省に移管されるこ▽040 とになった。厚生省はこれらの施設を管理するために,医療局(後に医務局となる)を設置した。医療局に庶務課のほか病院課と療養所課が置かれ,前者は陸海軍病院からの移管施設,後者は軍事保護院からの移管施設を管理することになった。この国立医療機関二元管理の方式は医務局となった後も存続して今日に及んでいる。
 日本医療団は戦後もしばらく存在が許されたが,連合国軍最高司令郡の指示もあって昭和22年1月,政府はその解散を決めた。日本医療団の経営する医療施設には,戦時中に統合吸収されたさまざまな由来のものが寄せ集められていたが,その主力は結核療養所であった。
 結核対策を重視した政府は,日本医療団所属の医療機関のうち,結核療養施設として適切なもの93を厚生省に移管,他の施設のおもなものは医療制度審議会に諮って,都道府県または大都市に移管された。日本医療団から厚生省に移管された結核療養所は,先に移管した軍事保護院所管のものに加えて,療養所課の所管するところとなった。
 厚生省に移管された当時は国立病院,国立療養所ともに,多数にのぼった(国立病院119,国立療養所197)。当時の国立医療機関の任務は,外地から送還される旧軍人および引揚者のなかの傷病者の救護であった。
 それらの戦後処理が一段落するとともに,国立病院・療養所を国立医療機関として新しい使命を担当するのにふさわしくするための再編が課題となった。

 2 国立医療機関の地方委譲と統合転換
 国立病院・療養所が戦時体制の継承であったため,国民医療の要請に対応しにくかったこと,国立病院・療養所の数が国立医療機関として運営するにはあまりに膨大にすぎること等が再編成の主要な理由であった。昭和27年に計画された国立病院の整理・統合について「国立病院10年▽041 の歩み」は,次のように述べている。

 厚生省直営の国立病院・療養所は,その大部分が終戦直後移管を受けた旧陸海軍病院,軍事保護院の医療施設であるが,必ずしもそのすぺてが本質的に国営を適当として移管されたものではなく,いわば暫定的な措置であり,従って,医療機関体系整備の見地から再検討されるべきことは,当然の成り行きであった。かくて,昭和27年3月,閣議において,(イ)国立病院中一部は継続して都道府県の区域を越えた指導的・特殊的医療機関としての任務を果たすようにすること,(ロ)一部は結核対策の一環として国立療養所に転換すること,(ハ)残余の施設は,その機能に鑑み,原則として都道府県等適当な経営主体と協議の上希望するものに移管することが決定された。

 この時の計画では,国立病院99(本院95,分院4)のうち,60施設(本院58,分院2)を地方に移譲,さらに, 15施設を国立療養所に転換し,国立病院は24施設(本院22,分院2)にとどめる筈であった。
 しかし,この計画は昭和27年12月国立秋田病院を秋田県に移譲したのを始めとして, 29年度までに10施設を地方公共団体に移譲し,一部を国立療養所に転換した段階で,諸方面の反対にあって挫折した。結局,当初の意図に反して,国立病院の整理は中途半端なものとなり,多少その数が減っただけであった。
 国立療養所の整理・統合も同様の理由で行われた。
 その経過は次表のようである。

           表1 国立療養所施設数の推移
 […]▽042 表 ▽043

3 国立療養所再編成計画にもとずく精神療養所への転換
 当時,国立医療機関の整理・統合とともに重要な課題となったのは,その内容を整備し,国民の期待にこたえるに足りる高度の医療水準を持つようにすることであった。このことと関連して,国立医療機関のなかで,とくに専門医療を担当する国立療養所は医療需要の変化の実態に対応しないうらみが少なくなかった。最もはっきりした問題点は,結核治療の進歩によって,結核患者が減り,その医療需要が急速に減退したにもかかわらず,国立療養所のベッドトの約90%が結核のためのものであり,当然のことながら空床が増え,従って,入院定床および病床利用率が減少の一途をたどるようになったことである(表2)。
表2は,国立結核療養所の施設数と入院定床が昭和36年頃から逐次減少しているにもかかわらず,病床利用率がさらに著しく低下して昭和45年には63%台に落ちていることを如実に示している。このような状況のもとで,結核療養所を単に整理統合するだけでなく,国民の医療需要にかなうように再編すべきだとする機連が高まったのは当然である。その課題の一つが精神療養所への転換であった。
 わが国の精神病床の大多数が民間施設に委ねられており,公的病床,よかんずく国立のそれが僅少に過ぎることと,このことに関連する精神科医療の不健全な状況は,すでに長年にわたって世論の厳しい批判の的▽044

 表2 国立結核療養所の施設数,結核定床数等の推移 […]

となっており,昭和11年8月には,日本精神衛生協会,公立および代用精神病院協会(理事長・三宅鉱一),救治会(理事長・内村祐之)が,時の内務大臣潮恵之輔に要望書を提出するなど,国立精神病院設置を要望する声が高くなっていた。しかし,やがて始まった戦争の嵐にその声はかき消されてしまった。
 待望久しかった精神衛生法が公布されたのは,終戦から5年経った昭和25年である。この法律の制定とともに,それまで遅々として進まなかった公立精神病院の新設が促進されるようになり,国としても,国立精神病床の整備を行う方針が定められた。
 しかし,ただでさえ国立病院や国立療養所の数が多すぎて困っているのであるから,国立精神病院の新設などおいそれとできるわけがない。そこで,考えだされたのが,空床の多い結核療養所を精神療養所に編成がえしょうという計画である。国立療養所再編の一環としての精神療養所への転換の作業はこのようにして始められ,昭和36年4月,榊原病院▽045 がまず精神療養所として転換・発足した。
 当時,精神療養所についてどのような具体的計画をもっていたか明らかにされていないが,地方医務局の区域ごとにすくなくとも1施設は必要だという意見が有力だったといわれている。
 それまで,国立精神療養所は戦争中に軍事保護院によって設置された傷痩軍人療養所をひきっいだ3施設にすぎず,国立医療機関のなかで占める比重が著しく軽いばかりでなく,国としての精神障害医療に関する基本方針も明確ではなかった。それが表明されたのは,昭和39年のことであり,国立精神療養所史において忘れることのできない画期的なできごとである。その年の春開かれた国立療養所長・事務長会議に厚生省医務局から提示された国立精神病床の拡充整備に関する方針は次のようであった。

 昭和38年に厚生省が実施した第2回精神衛生実態調査の結果に鑑み,国立精神療養所の増設,増床をはかる必要があるので,昭和37年現在2,150床(総精神病床の1.7%)を年間1,500床ずつ,7年計画で1万500床に増床する。わが国の精神病床の8割が民間施設で占められている現状において,国立精神療養所に期待される役割は,慢性患者のみならず,急性短期入院の患者の治療を行い,デイ・ホスピタル,作業部門などの社会復帰施設をもち,老年期精神障害,小児精神疾患,精神薄弱,結核合併症,その他の特殊な精神障害の専門治療を担当し,地域精神科医療の中心的存在として活動することである(昭和38年度国立療養所長事務長会議資料による)。

 4 拡充計画の経過
 爾来,13年の歳月が過ぎたが,病床数は6千床に達していないし,地或精神科医療に必要な外来活動や社会復帰活動のための整備にはほとんど見るべきものがない。昭和38年に決められた国立精神療養所の拡充方針を忘却の彼方からもう一度よび戻し,これを再検討して,国としての精神科医療,とくに国立精神療養所の将来について長期計画をたて,その実現をはかることが必要である。国策として国立精神療養所の拡充整▽046 備をはかることは,わが国の精神科医療の病弊をあらためるためにもまず実行されなければならない急務である。
 ここで,いわゆる精神転換の経過を概観しておこう。すでに述べたように,転換の最初は昭和36年4月1日で榊原療養所であるが,それまでは傷痩軍人療養所の後身である武蔵,下総,肥前の3施設だけであった。このうち,下総は頭部戦傷後遺症の専門施設として設けられたもので,制度上精神療養所の仲間入りをしたのは,昭和32年10月である。
 その後,きわめておそいテンポではあるが,精神への転換が行われた。昭和38年4月に小諸療養所,昭和42年4月に松籟荘,それから数年おいて昭和49年に南花巻病院,犀潟療養所,東尾張病院,鳥取病院というぐらいである。
 このほかに,実態的には精神障害の患者を主としてとり扱っているが,まだ,結核患者が残っているために,組織上は結核療養所として区分されているものに,十勝療養所,久里浜病院,北陸荘,賀茂病院の4施設がある。この転換の推移は,医療の質を変えること(たとえば結核医療から精神科医療へ)が,そのための充分な準備,なかんずく当事者の主体的なとりくみがなければ行われがたいことをもの語るものだろう(第3節参照)。
 国立精神療養所にあらたに加えられたものに国立療養所琉球精神病院がある。沖縄の本土復帰にあたって,精神科医療関係者は名実ともに沖縄精神科医療の中心となるにふさわしい国立施設の新設をのぞんだが,実現したのは既設の琉球政府立精神病院の国立移管にすぎなかった(第4節参照)。

 5 国立精神療養所には未来がある
 以上にあげた15施設は,その名目はどうあれ,実態的には精神障害医療を主要な任務として活動を行っている精神療養所である。しかし,こ▽047 れらの施設の活動を見ると,従来の慢性患者の収容所という”精神病院”の通念が妥当しない新しいタイプの精神療養所に発展しつつあることがわかる。たとえば,久里浜病院は,昭和49年からアルコール中毒治療の基幹施設としてその性格を明確にしているし,肥前,武蔵の両療養所は重症心身障害児の療育をはじめたことなど,その一端を示している。
 この点で注目されるは,菊池病院および静岡東病院の2施設である。熊本市近郊に建設中の菊池病院は,神経難病の治療,研究をめざす新構想の精神療養所として転換が予定されており,その発展が期待される。また,静岡東病院は,てんかんになやむ多くの患者,その家族の要望にこたえて,わが国最初のてんかんセンターとして整備されることがきまり,すでに医療活動がはじまっている(第3節参照)。
 ”精神療養所への転換”がこれという目標も使命感もなく,ただ空床をうめるためといった便宜主義で行われてはならない。この場合に大切なことは,その施設をあずかるものの医療のニードへの対応の姿勢と治療・研究に参加する主体的な意志である。そのことを新しい”転換”施設が実証するであろうことが期待される。
 国立精神療養所の生いたちと歴史はこれまでに述べたように,施設によってさまざまであるが,そのどれをとってみても,医療を実践する場とての理想にはまだほど遠いところにある。しかし,それぞれの療養所は,おのれの理想の実現にむかって希望をもって進んで行くにちがいない。国立療養所には未来があるからである。
                        (武蔵療養所長 秋元波留夫)

 第3節 転換施設の歴史と現状 48
  第1 国立療養所榊原病院 松島保 48
  第2 国立小諸療養所 畑邦吉50
  第3 国立療養所松籟荘 浜義雄 51

 「第3 国立療養所松籟荘
 松籟荘の歴史は,昭和13年1月にさかのぼる。奈良県立結核療養所松籟荘として,創設申請を行ったのが発端で,当時の計画概要は敷地10,OOO坪,建物面積700坪,予算額100, 000円,収容人員100名であった。▽052
 同年12月に認可が降り,直ちに建設予定地である奈良市内東北部北部地区一帯にわたり計12箇所を調査したが,周辺に御陵および遺跡が存在しており,関係庁の承認が得られず,加えて,地元民の反対等で,現在地(大和郡山市小泉町)に決定されるまで,約1年余の歳月を要した。
 昭和14年8月,地鎮祭を行い,昭和15年2月に峻工式ならびに開所式挙行,同年3月から患者の収容を開始した。国民医療法により昭和18年日本医療団に移管され,昭和22年4月さらに厚生省に移管,国立療養所松籟荘と改称された。当時の規模は,敷地95,500平方メートル,建物面積2,500平方メートル,定床80床であった。昭和27年1月定床110床となり,翌28年度において,病棟(木造平家建)566平方メートル,看護婦宿舎269平方メートルの新設により,昭和29年1月160床に増床された。昭和33年度において,将来とも未利用の敷地33,000平方メートルを大蔵省に引継いだ。
 患者収容の状況は,昭和34年4月より昭和38年3月末までの結核患者延数は173,058名となり,1日平均患者数115名,定床に対する利用率は87%の実績を挙げていたが,医学の進歩と,結核対策の推移により,入院治療を要する結核患者の減少が明かとなり,国立結核療養所の再編成の方策に沿って精神療養所として存続することになり,昭和39年度に精神転換の方針を決定した。将来計画300床の近畿でただ一つの国立精神療養所として昭和40年度より整備に着工,完成した鉄筋2階建病棟100床に昭和41年3月より精神患者の収容を開始した。結核患者40名が残っていたが,同年10月には転院または退所した。引続き,昭和42年3月,鉄筋2階建病棟100床が完成,同年4月1日より厚生省組織規程の一部改正に基づき国立精神療養所となった。また入院定床も200床となったが,昭和15年開所以来26余年の結核療養所としての医療,看護の経験を生かし,結核合併症に50床を割り当てた。
 ▽053 精神転換以来,諸設備の拡充を図り,昭和46年度にサービス棟(984平方メートル),昭和47年度において治療管理棟(1,235平方メートル)が完成した。最近の入所患者の状況を地域別に分けると,奈良県下が48%,大阪府下が44%,その他8%となっている。患者の入所については,常に地域関係機関と密接なる連絡を行い,病床利用率は年間平均100%を推持している。昭和50年度において重症心身障害児病棟80床を併設した。今後,転換時の計画に則り,精神病棟100床増設(300床となる),生活療法棟,作業療法棟,運動場,プール等の諸施設を逐次整備拡充して行く方針である。
                        (松籟荘長 浜義雄)」

  第4 国立療養所南花巻病院 小泉四郎 53
  第5 国立犀潟療養所 林茂信 55
  第6 国立療養所東尾張病院 花井昌二 57
  第7 国立療養所鳥取病院 坂本新道 58
  第8 国立十勝療養所 猪子春雄 62
  第9 国立療養所久里浜病院 河野裕明 64
  第10 国立療養所北陸荘 竹島俊男 68
  第11 国立療養所賀茂病院 久保摂二 71
  第12 国立療養所菊池病院 山口聖次 74
  第13 国立療養所静岡東病院 清野昌一 79
 第4節 沖縄復帰に伴う琉球政府立精神病院の国立療養所への改組 86
  第1 沖縄精神科医療の歴史,とくに派遣医師の果した役割 清野昌一・豊田純三 86
  第2 琉球政府立精神病院の歴史と国立療養所琉球精神病院の現状 石垣一彦 97

第3章 国立精神療養所の治療活動とその変遷101
 第1節 概説 安藤烝 101
 第2節 精神分裂病の治療 104
  第1 入院治療 104
  1 慢性患者の入院状況を中心として 林左武郎 104
  2 国立武蔵療養所における入院治療――生活療法を中心とし 安藤烝
  3 転換療養所における分裂病の入院治療 久保摂二 124
  4 国立肥前療養所における入院治療――病棟の開放化をめぐって 鮫島健 132
  第2 外来治療――分裂病治療を中心として 中村豊 137
  第3 身体療法の変遷 安藤烝 145

1.ショック療法
2.精神外科療法

  第4 作業業療法 井上大策 163
  第5 社会復帰 平山□ 171
 第3節 その他の疾患の治療 191
  第1 老年期精神疾患 田中政春 191
  第2 アルコール症 河野裕明 196
  第3 てんかん 清野昌 201
  第4 頭部戦傷外傷後遺症 豊泉太郎 210
  第5 重症心身障害 後藤哲也・松本茂幸 223

◆いわゆる、動く重症心身障害児、病棟の開設 昭和47年4月24日,いわゆる、動く重心児、病棟が,肥前療養所に開設されたが,このような重心児病棟が,国立精神療養所に併設されたのは,全国でも最初の試みであった。 当時,、動けない重心児、病棟やr精薄児のための施設が各地域に充実してきつつあって,該当児は,次々と入院・入所していった反風てしかんを伴う重度精神発達遅滞児で動けるもの,異食,自傷行為等種々の問題行動を伴うもの,多動・自閉的傾向の強いもの等は,これらの施設からはみ出してしまい,在宅のまま放置され,あるいは,やむを得ず,精神病院の大人の中に入院させられる,といった状況が出てきて,このような子供達の処遇が行政的にクローズ・アップされ始めていたのであ。このことは,佐賀県や長崎県の児童相談所からこのような子供達のき治療について,再三にわたり要望をうけた事実に照らして明らかであった。  一方,療養所内部では,以前から,小児精神病棟の必要性がさけばれていたが,小児精神病棟は,大人の病棟とは質的に全く異なり,従来の設備やスタッフ構成では運営できる見通しがなく,強力な推進者がなかったせいもあって,具体化されなかったのである。  そして,いわゆる"動く重症心障害児、(以下,「動く重心児」と略す。)病棟は,このニつの要講すなわち,地域医療行政面からの要請と小児精神病棟に対する所内からの要請に,従来の、動けない重心児、病棟の基準が結びっくことによって,その不自然な産声をあげたのである。 現在の「動く重心児」病棟のかかえている多くの問題は,この三者のく自然な結びつきに由来しているといっても過言ではない。それらについては,以下,折にふれて述べていくつもりである。 開設より現在までの経過と問題点 昭和47年4月, 40床の病棟2箇病棟(合計80床, 1,250.51平方メートール)に, 133.12平方メートールの既設木造部分を附属させ,重心児」病棟が開設された。スタッフは次の表のとおりであり,医師は8名が病棟に入ったが,すぺて,精神科との兼任であり,小児科医が1名,非常勤でこれに加わった。 小供達の受け入れに際しては,最少限自分で移動できること, 14歳以であることの二点のみを条件に,地域の要請を優先的に考えて行ったが,当時,病床は各県別に割り当てられており,入院した子供達の住所・佐賀,長崎,福岡,熊本の4県にまたがっていた。 芝床数と治療スタッフ (注) 1.入院患者数は,昭和48年8月30日現在 ( )は賃金職員の数再掲 受け入れは,約1年で完了したが,その時点での診断と分類は,重度精薄14名,重度精薄十てんかん17名,脳性小児麻痩+重度精薄10名,脳性小児麻ひ+重度精薄+てんかん15名,結節性硬化症2名,ダウン症候群5名,いわゆる"autistic child" 17名,脳炎後遺症2名であり,その多くが,便あそび,糞食異食自傷行為,他児を咳む,突きたおす,護を破損する,器具,器物を破損する等の問題行動を伴ってい目目二片し,-( 開設以来3年間,我々は,これらの子供達に対して,一般身体的な健康管理,てんかんの治療,食事,排池,入浴,更衣等の生活に関する療育指導,遊びゃ学習を中心とした情緒および知的発達に関する療育指導一貫して行なってきた。 従来の「動けない重心児」病棟における療育に較べると,児」病棟における療育は,治療的に方向ずけられた集団生活体験や,精神療法,行動療法,レクレーシ.ソ療法,絵画,音楽,読書指導,知覚言語訓練などの情緒や知的発達に関する特殊療育,さらには,教育に重点がおかれねばならない。しかし,先に述ぺたように,ない重心児」病棟の基準で開設されたため,現在の病棟のスべースは,ぺッド.ルームが中心であって,子供が自由に動きまわれるディスぺースが充分に配慮されていない。また,情緒や知的発達に関する療育に必要なスぺースが,ほとんど考慮されていない。病棟の構造設備も,種々つ間題行動やてんかん発作を伴う子供達に対する配慮に欠けている。 の配置U,従来の基準に従っているため,看護婦を中心としたもので,表からも明らかなように,保母児童指導員,理学療法士等セラピストが余りに少なすぎる。「動く重心児」にとっては,個人的,あるいは,小グループによる療育指導がンぐに,仏専であるが,現在のセラピピストが余りに少なすぎる。「動く重心児」にとっては,個;伊,いは,小グループによる療育指導がとくに必要であるが,現在のセラピ「トの数では,子供達のニー?に対応できない状況である。 教育についても,昭和48年度までは皆無であり,ようやく昭和49年度から訪門教師による学習指導が,ごく一部の子供達について行われ始めた段階である。 一方,「動く重心児」に限らず子供の療育には,家族との関係を無視することができないが,現実には,次第に疎遠になっていく傾向がみられている。そこで,昭和49年度より母親を対象に, 2泊3日,子供達と一緒に病棟内で生活する試みを始め,毎週4家族ずっ参加して,家族を含めた療育チームのあり方について模索しているところである。 以上,「動く重心児」病棟の現状と問題点につて,当療養所の経睡験にiらして述べてきた。 現在まで,「動く重心児」病棟で受け入れられる子供達については,積極的に受け入れてきたが,盲や聾を伴う重複障害児についてはー受け入れが不可能であり,これらの子供達は施設の谷間に放置されていいるのが現状である。また,ーたん受け入れた子供のうちかなりの部牝分がが思春期に達してきているが,これらの子供達にとって,現在の病棟は望ましい治療環境とはいえない。幼い子供達にとっても,大きな子供達との共同生活はマイナスの面が多く,このことは差し迫った間題となってなが,具体的な解決の方法はみい出せないでいる。 入院の時期についても,早期の方が治療効果はあがるが,幼b児を母親から完全に切り離してしまうマイナス要因を無視することは出来来ず,デイホスピタルの形成が,医療の中に組み込まれることが切実に望まれる。 また,これらの子供達にとっては,家族や治療者の働きかけとと同様に,子供達同志の相互作用もまた大きなカになると考えられ,より健康な子供達との接触をはかって行くことも必要であろう。 最後に,臨床検査,研究についてであるが,当所に「動く重重心児。巴」 棟が開設されるにあたり,既存臨床検査室の充実が行われなかったのは,非常に残念なことであった。このような子供達の現症は握や,成因,メカニズムについては,五里霧中の状態であり,治療についても暗中模索の現状である。代謝や内分泌異常のチニック,染色体異常の有無程度は,ルーティンに検査されて然るべきであろう。 研究面でも,他の領域に較べて著しい立ち遅れがあるのはいうまでもない。身体的・心理的両側面から,この子供達の現症をは握し,その成因やメカニズムを究明して行くことなしに,正しい治療はあり得ないのは当然である。このような観点から,総合的な研究部門が是非必要であると思われる。そして,このような研究の積み重ねが,障害児の予防にながって行くであろう。 昭和50年度から,加茂病院,小諸療養所,犀潟療養所,北陸荘,南花巻病院,武蔵療養所に重心児病棟が開設の予定である。(肥前療養所医長後藤哲也,同松本茂幸)
  第6 脳器質疾患 松本秀夫 227
  第7 麻薬中毒 林左武郎 234
  第8 合併症の治療 鮫島健 237

◇秋元波留夫 19760801 「国立療養所再編成の一環としての精神療養所への転換」,国立療養所史研究会編[19760801:39-47]


UP:20160128 REV:
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