HOME
>
BOOK
>
『国立療養所史(結核編)』
国立療養所史研究会 編 19760401 厚生省医務局国立療養所課,679p.
Tweet
last update:20160116
このHP経由で購入すると寄付されます
■国立療養所史研究会 編 19760401 『国立療養所史(結核編)』,厚生省医務局国立療養所課,679p. ※ h01
■言及
◆立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社
■引用
[全文収録](↓)
◆中村 京亮・三野原 愛道・瀬川 二郎→大蔵大臣 1960 「陳情書」→国立療養所史研究会編[1976c:563-564] [123]
◇島村喜久治 1976 「総説」,国立療養所史研究会編[1976a:1-4]
第1章 総説
国立結核療養所の医療
明治以降第2次大戦まで,結核は青年病であり,国民病であり,殆んど常に国民死因の首位を占めつづけた亡国病であった。富国強兵を国是とした戦前,それは最も忌むべき内敵であった。大正8年,結核予防法が制定され,同じ頃,国の補助によって全国に公立結核療養所が造られ,また公立健康相談所も造られた。それでも日本の結核はふえつづけた。さらに,昭和12年,保健所法ができ,翌13年,厚生省が設置され,国民体力法が制定されても,第2次大戦の進展と共に,日本における結核の蔓延はとどまるところを知らなかった。
しかし,国立結核療養所を設けて,国が直接結核対策にのり出したのは,軍隊の結核流行に手を焼いた昭和12年であった。茨城県に造られた村松晴嵐荘である。しかしこれもやがて,つづいて設置された天龍荘や山陽荘と共に厚生省外局の軍事保護院に移管され,その後第2次大戦が終るまで,国立の結核療養所は存在しなかった。
終戦の混乱の中で,軍事保護院と日本医療団が解体されたとき,結核療養所の帰属が検討され,雪崩のように,国立結核療養所が誕生した。国が引受ける以外に方法がなかったというのが真相であろう。「国立療養所は終戦の落し子」といわれた。
飢餓と混乱の中で,国立療養所は,結核の治療をつづけた。ストレプトマイシンが救いの神であった。やがて,肺切除術が完成して,化学療去が結核治療の王道となった。全国的な国立療養所の組織を基盤とした化学療法や外科療法の研究は,結核病学会や胸部外科学会をリードし△001 た。国立結核療養所は,その黄金時代を迎えた。昭和30年前後である。
治療医学の進歩は,さしもの日本の結核を減少させ始めた。明治以来半世紀かけて,国の政策と軍の威光をかけても減らなかった結核が,明確に減り始めた。
化学療法の発展はさらにつづいた。それは,まず,長期安静療法を追い落し,ついで外科療法を食い始めた。入院期間が短縮した。一時は入完待機患者のあふれた結核療養所で,空床が目立ち始めた。昭和40年代に入ると,療養所自体の老朽化も目立ってきた。
ここで,国立結核療養所をどうするか,という課題が切実になってきた。再建近代化するには,結核が減りすぎていた。地域の医療需要に応じて,一般病院や精神療養所への転換が試みられた。結核以外の疾患への間口の拡大も試みられた。非結核性呼吸器疾患,あるいは心疾患を含めての胸部疾患,また各種の慢性疾患,殊に,進行性筋萎縮病や小児慢性疾患,企業的医療機関の採算ベースに乗らない疾患,さらには重度心身障害児の療育医療や脳卒中のリハビリテーション,また難病のいくつかも対象とされるに至った。
こういう性格転換と,いわば引換えに,国立療養所の再建近代化整備が進行した。戦前,戦中を通じて,結核治療に骨身を削った結核専門医も老齢化して引退を始めた。代って登場して来たのは,新しく性格付けられた非結核性疾患の専門医たちである。昭和40年の後半には,結核は国立療養所総病床数の60%を割るに至っている。
即ち,国立結核療養所は,終戦直後,その誕生は祝福されなかったけれど,順調に発展し,30年後の今日,漸やくその歴史的使命の終末期に到達した。そして,それは今,国立慢性疾患病院への転換期を経過しつつあるようである。もっとも,結核症がもともと規模のけた外れに大きい慢性疾患であったとみれば,厳密には,それは性格転換とは呼べない△002 かもしれない。しかし,今,全国の国立療養所で起っている性格転換は質的には全く異質な疾病構造への対応である。その宿命的に不利な立地条件のままで,多くの国立療養所は鉄筋近代化された。30年前,日本からの結核追放に情熱を傾けたスタッフに世代交代が起って,近代化された多くの国立療養所では,結核を知らない若いスタッフが慢性難治の多種多様な疾患ととり組んでいる。歴史とは,そういうものなのであろう。
なお,本書で扱う国立療養所群の中に,最初から,非結核性の慢性疾患を扱った療養所がある。せき髄損傷を扱う箱根病院である。かつては,国立療養所の中で異色の医療機関とみえたが,今,国立結核療養所の性格転換が進行してみると,それは座り心地よく,本書の中におさまってしまう。結核療養所の医療の質が,それだけ,変貌したということである。
歴史は生きている。結核治療を主任務として出発した国立結核療養所が,今,模索の転換期に入っている。これから,それは,どんな医療を担当して行くことになるのか。今,はっきりといえることは,どんな医療を担当しようとも,それは,国立だからこそできる医療でなければらぬ,ということである。
国立結核療養所の組織
[…]
統廃合の回顧
◇高木善胤 1976 「統合と言う名のドラマ」,国立療養所史研究会編[1976a:4-7]
統合と言う名のドラマ
高木善胤
[…]004 △[…]
昭和32年3月,厚生省医務局の局議で,金岡の返還施設には大阪府泉南市(当時信達町)から厚生園が移転する事が決定された。梅本課長はこの年の5月8日をもって総理大臣官房総務課長へ転出したが,在任中に敷かれたレールの上を以後着実に進行した次第である。33年度,厚生園への所管換が正式に決まり,改修工事が10月から翌年4月まで行われ, 34年4月上旬,40粁の距離を患者ぐるみ病院移転を完了した。あたかも皇太子ご成婚の慶事を迎え,建設を進めながらの大移動であった。
当臨国立療養所で山口県の埴生(ハブ)療養所,国立病院で和歌山病院の廃止計画が紛糾し,医務局の2大紛争となっていた。後年本省の事務官補佐が,しみじみと「厚生園のあれだけの移転がよく無事に出来ましたね」と言ってくれた様に,準備や人心の掌握には心血を注いだ。輸送当日病状悪化した患者を急拠近隣病院へ送り込む等の事もあった。この移転直後,私は,国立病院課長となっていた尾崎嘉篤氏と藤原九十郎医務出張所長の懇請により,国立和歌山病院の紛争処理に当らされる事になり,36年5月まで丸2年,移転後の管理との両面作戦に従事して困憊をきわめた。
統合問題は漸時表面化し,35年4月福岡における会議で国立療養所施設の将来計画の個別計画の個別接渉の際に大阪療養所と厚生園の統合の結論が本省として確認された。この年度には東京療養所,清瀬病院の統合,福岡古賀三園の統合が成立し近畿はその3番手となった訳である。36年度から本格的な準備段階に入り,統合委員会をつくる等PRを行い,両施設の幹部連絡会(大阪療養所,岩崎祐治所長,最東海林四郎医務課長,小林雅雄庶務課長,厚生園,瀬良好澄園長,高木善胤医務課長,浜崎梅治郎庶務課長)を再三開催し,大阪胸部病院建設趣意書,要望書等を作成提出した。また37年に両施設間に基幹療養所建設協議会を発足させ,具体的設計のため衆知をあつめ,更に診療ならびに研究部門の基本構想を策定,これ△005 が十数年後の今日に至るまで診療の根幹となっている。東海村課長の東京病院転出のあとを受け,厚生園副園長である私が昭和38年8月から大阪療養所医務課長を併任し,組織統合の大詰を迎えるに至った。この頃すでに全医労大阪療養所支部では統合反対の猛運動を行っており,貝塚市議会に請願,それが採択されるなど,活発に闘争し,私個人の誹謗その他統合を阻害する内部的な軋轢が堺,貝塚両地区で起こり筆舌につくし難い心労を味わされた。ことに全医労の団体交渉にたびたび応対し, 39年3月末には500名の動員をかけると言う闘争と対決する準備をしたのが,ついに不発に終り,翌4月1日地方医務局へ報告に行く車の中で小林大阪療養所事務長と,ねぎらいあった記憶がまだ新しい。39年4月1日をもって近畿中央病院(旧大阪厚生園)ならびに貝塚分院(旧大阪療養所)が発足し,岩崎本院長,瀬良副院長,高木分院長のトリオで組織統合の実務を進めていったのであるが,貝塚分院としては,新たな紛争処理の出発点でもあった。
全医労の反対運動は統合前夜を山として一段落し,大部分の職員の良識と新病院建設への期待,また,すでに大阪療養所に6年勤務している塚田要作新事務長の補佐と医局の協力などによって,日常業務は円滑に進み,また分院発足当初は廃院ホビーや分院コンプレックスを緩和するため,統廃合を一切テーマとしない方針を立て,医療機関として前向きに,相当の機器整備を行った。患者に対して,当面何の不安もない事を説明し,あとは自然減の施策をとったが,ご多分に漏れぬ患者の生活闘争にかなりてこずった。いわゆる古参患者ボスの主導,とくに,大蔵省と厚生省高官を友人に持つ某患者が特権的処遇を維持するため,病院方針にことごとく抵抗し,煽動を行っていたのを,やむを得ず制圧し厳しく指導したところ,面当て(?)自殺をすると言うあと味の悪い悲劇まで発生した。しかしこれを契機に反省の気運が生まれ,療養生活は静穏なものとなった。
[…]△006 […]
20年ほどを顧りみて,私にはすべて統廃合建設にかかずらって来た感がする。その間の経緯はまさに長編のドラマであった。進歩への熱情と怠慢,人間的なエゴや誤解,善意,功利,卑屈,誠実,さまざまのものが不協和音を立てながら大きな流れとなって行った。分厚い一巻にもなり得るものを僅々数枚でまとめたため,表面的な筋書だけに終ったが,統合のドラマの覚え書としたい。
(近畿中央病院副院長)
◇松田勝 1976 「山下松風園統合」,国立療養所史研究会編[1976a:7-8]
→立岩 真也 2016/05/01
「国立療養所・2――生の現代のために・12 連載・123」
『現代思想』44-(2016-5):
「☆02 それ以前、日本医療団から国立療養所への移管の直後、一九四七年七月に山下松風園の宮城療養所への統合があった。このことについて当時宮城病院院長の松田勝の回想がある。前者は宮城県立結核療養所として資材・人出不足で建設途上のまま四三年に日本医療団に移管。傷痍軍人宮城療養所の隣に建設されたのは、「戦争が日本の勝利に終われば、傷痍軍人は減って、将来、傷痍軍人施設は県に移管されることになるだろう。その時には両施設を合併するという考えであったといわれる」、だが戦後両方が国立療養所となり、「同じ国立療養所でありながら、しかも大施設に隣接する少施設が競合することが不可能であることは明らかであった」(松田[1976:7-8])という。」
◇島村喜久治 1976 「東京療養所と清瀬病院の統合」,国立療養所史研究会編[1976a:9-11]
◇青井節郎・沼田正ニ 1976 「統合こぼれ話」,国立療養所史研究会編[1976a:11-13]
◇中嶋俊郎 1976 「廃止統合」,国立療養所史研究会編[1976a:13-22]
第4章 国立療養所の役割の変化と今後の方向
第3節 重症心身障害児(者)の医療
◇保坂武雄・阿部幸泰 1976 「重症心身障害児(者)の医療」、国立療養所史研究会編[1976a:254-272]
1. 国立療養所が重症心身障害児(者)を収容するにいたるまでのいきさつ
1)社会的状況
昭和36年5月1日に重症心身障害児を収容する施設として,島田療療育園が開園された。日本における重障児はそれまで,全く野放し状態におかれていたと言ってよい。昭和32年頃,東京の日赤産院には重症欠陥児(現在の重障児)が20人も入院していた。治療効果があがらないこれらの患児は当時健康保険の対象外とされ,行き場所のないこれらの患児をかかえた産院の小林提樹小児科部長は,これらの子供を救うためには,特別な施設を作るより外に方法はないと考えていた。小林は昭和33年重障児を持った島田伊三郎に病院をかねた収容所を作ることを説いた。この考えに同意した島田は財産の殆んどを投じ,都下の南多摩郡多郁多摩村に15,000坪の土地を求め,収容施設の建設に着手しようとした。しかし折からの不景気に見舞われ計画も危ぶまれたが,2人は有力な政・財界の人々を動かし,33年11月に日本心身障害児協議会を発足させ,1,500万円の予算で島田療育園を設立することにこぎつけた。昭和35年10月日赤産院を辞し,36年5月1日ようやく島田療育園が開園することになった。
昭和38年「中央公論」6月号で,作家水上勉が重障児をもつ親の立場から「拝啓池田総理大臣殿」の書翰を発表し,時の政府に訴えた結果同誌7月号で池田総理に代って黒金官房長官が「拝復水上勉様」を発表し,今後重障児の問題の解決に努力するという異例の解答があった。これがきっかけで重障児の間題は一躍社会の脚光をあびることになった。△254
また同年7月,厚生省は「重症心身障害児の療育について」の次官通達を出し,早い速度で法的裏付けに近づける努力を示した。
その施設入所基準は,
1. 高度の身体障害があってリハビリテーションが著しく困難であり精神薄弱を伴うもの,ただし盲またはろうあのみと精神薄弱が合併したものを除く
2. 重度の精神薄弱があって家庭内療育はもとより重度の精神薄弱児を収容する精神薄弱施設において集団生活指導が不可能と考えられるもの
3. リハビリテーションが困難な身体障害があり,家庭内療育はもとより肢体不自由児施設において療育することが不適当と考えられるもの
一方諸団体は,昭和39, 40年度の国家予算編成に対する重点項目として,重障児対策を入れてもらう運動を行った。
39年6月全国重症心身障害児(者)を守る会が発足し,同月全国大会を開き,国の重障児対策の貧困を社会に訴え,大きな共感と支持を受け,政府自ら国立の重障児施設や,心身障害児(者)のコロニー設置を約束するまでになった。これが41年度国家予算に国立重症心身障害児(者)施設11箇所520床をもりこむ原動力となった。
2) 国立療養所のおかれていた状況
この頃の国立療養所のおかれていた状況をみると,昭和30年代の後半頃,予防医学の普及,化学療法,外科療法の進歩で,結核患者の入院は次第に減少して来ており,将来なんらかの方向転換を考慮せざるを得ない状況になってきていた。この辺の事情を寄せられた原稿をもとにしてお伝えしょう。
八雲病院長篠田実の文章によると,「結核患者の減少に伴い,北海道においても昭和37年度より地方医務局を中心に,国立療養所の将来の性格△255 付けについて模索していた。当時道内の医療需要の見通し,診療圏の現況性格付けとその目標にわけてかなり詳細な検討を行っていた。たとえば八雲病院においてもその検討がなされ,
1)結核病床の人ロ1万人当りの比率が高く,
2)歴史的背景により,比較的安定した診療圏と病床利用率の高さをもち,
3)小児療育施設として安定した診療圏がある
等により,一般結核を主とした小児療育施設がもっとも適した性格であろうと考えられ,4箇年におよぶ整備の計画もたてられていた。昭和32年6月より肺結核,骨関節結核の児童を対象とした学童病棟が町立八雲小,中学校の特殊学級として認定され,医療と教育の場としての第1歩をふみ出していたのであった。」そうしてこれが,昭和35年になると全道的規模となり結核のみならず,他の肢体不自由児を含めた収容施設設という性格に落着きつつあったという。
西多賀病院でも八雲病院と同様な歩みをしている。その前身の1つである玉浦養療所は昭和23年より骨関節結核専門療養所として出発し,昭和29年にカリエス児童のため私設の小学校が誕生し,これが昭和32年にこの地区の小,中学校の分校となった。昭和30年代後半,カリエス患者の著明な減少が見込まれ,小児整形外科を中心とした小児慢性疾患へと方向づけがなされた。
前静岡東病院長の石井良平の資料によると,昭和40年度までは180名程度の在院患者があったが,昭和40年以降退院患者が入院患者をはるかに越すようになった。即ち,昭和40年度入院34,退院64; 昭和41年度入院54,退院70; 昭和42年度入院39,退院68。以上差し引き75名の減となり,入院患者の著明な減少をきたしている。
前長良荘長成瀬昇(現明星療養所長)からの重心病棟創立当時の資料△256 によると,昭和40年頃国立療養所では合併論が盛んで,長良荘も,長良川向いの日野荘との合併論がでていた。しかし成瀬は地域の医療ニードと結びついた特徴ある施設に変身できるものであれば合併しなくてもよいだろうと考え,手始めに整形外科の分野についての教えを請うため,岐阜大整形外科の綾仁教授に面会を求めた(昭和40年4月)。教授から肢体自由児通園訓練施設が欲しいといわれ,5月に厚生省の大村国立療養所課長を説得,滝沢母子衛生課長の激励を受け,改築予算をもらい,8月末に,肢体不自由児訓練所を開所させた。
以上の資料が示すように全国的な結核患者の減少に伴い,各施設は何らかの方向転換を迫られていたわけである。
3)重障児病棟受け入れ当時のいきさつ
【水上勉の書翰や,守る会の運動などで,政府は国立の収容施設や,コロニー設置の約束をするはめになったからであるが,具体的に国立療養所側に伝えられたいきさつは,成瀬の資料にくわしく述べられている。要約すると,昭和40年9月28日,東京勧銀本店で40年度秋季全国国立療養所長会議が行われ,そのとき本省説明で,重症心身障害児施設は医療施設として考えてゆきたい旨が発表された。10月2日,希望施設長が島田並びに東京小児療育園を見学。10月4日,日比谷の松本楼で小林提樹・小池文英両博土の講話をきく。午後,国立療養所課長,母子衛生課長同席で出席施設長全員と協議があった。「現在世論では,国立施設でこれら重障児を扱えという声が喧しいが,果して現在の国立療養所でこれらを世話できるであろうか。」これに対して施設長側よりの積極的意見は殆んどなかった。最後に,今すぐ引きうけ得ると答えられる施設がありますかという問に, A療養所のA所長が1人だけ手をあげた。A所長は上京するとき職員代表より,どんな患者でも引き受けるから必らず手を挙げてくれる様に依頼されたのだという。△257
このあと各々の施設長は施設に帰って,重障児施設を引きうけるかどうか決定を迫られたわけである。長良荘では病棟の敷地,設備内容,医師,看護婦その他の人的資源将来像などについて検討,引きうけるべきかどうかについて悩むのであるが,びわこ学園などを見学,岡崎園長に会い,話をきき,引きうける以外に長良荘の生きる道はないという結論に達し,地方医務局に申し出るのである。
九州地区では再春荘の小清水荘長の資料を紹介する。昭和41年重症心身障害児収容施設を設置するにあたって,九州地区では福岡東病院と再春荘にその白羽の矢がたてられ,地方医務局より設置の要請を受けた。当時福岡東病院はl,OOO名以上,再春荘においても800名近い結核患者を収容しており,これら多数の結核患者と共に全く異質のものといえる重障児を同時収容することには,少なからず躊躇せざるを得ない状態であった。おそらく感染に対しても極めて抵抗力が弱いであろうこの子供達を収容することともなれば,余程の良い条件下,態勢下でなければうまく行かないのではなかろうかと考え,地方医務局とも再三話し合った。再春荘の意見は充分内容の整った設備,九州地区は夏期は特に暑い地区でもあり冷房の設備の必要性や,また職員の定員は患者1人に対し1.5乃至2名であるとのこと,少なくとも1 : 1の必要性を要望したものであったが,到底叶えられそうにもなかったので初めは辞退した。しかしこれは重障児を収容するというそのことを嫌ったものではなく,引き受けても充分なことができない限り却って申し訳ないと考えたからに外ならない。福岡東病院においても辞退したようであるが,思うにみな同様な考えからではなかったろうか。当時福岡東病院の梅本三之陵助は九州地方医務局の医療専門官を兼務していたので,片や勧告すべき立場であり,片や辞退したい立場であり,板挟みとなり,さぞかし困却したであろうと思われた。この様なわけで当初昭和41年度の整備計画から九州地区は外△258 された。さらに成瀬の資料によると,「11月26日松本楼で本省主催の施設個別折衝があった。ここで国立療養所課,整備課より受け入れの可能性について質問を受けた。昭和41年1月6日の夕刊によると,大蔵省原案で重障児施設は全国に3箇所と発表。13日夕,7時のニュースで全国11箇所に決定と再発表があり,14日に決定の報を受けた」と述べている。
かくして昭和41年度の整備予算がつき昭和42年2月頃より患者収容を開始,その後毎年施設整備がなされ,その後毎年施設整備がなされ,昭和49年度までに76施設7,520床の整備が行われた。その年度別整備状況は表に示す通りである。(本節末)
2. 療育
医療機関である国立療養所に重症心身障害児の委託ベッドがおかれて,今までにはなかったいわゆる療育という問題が起ってきた。つまり医療のみでなく生活指導,訓練などを行わなければならないことになったのである。人間の発達には,肉体的にも精神的にも年齢による限界があり,障害児であればことに早期に教育と訓練をしなければ効果をあげ得ないものである。しかるに現在入所しているものは決して低年齢のみではなく,かつ年々加齢して行くのである。ここに生活指導が効果をあげ得ない一つの理由がある。また比較的年長になって,拘縮が高度になってしまったものについては理学療法による治療は困難であり,脳性麻痺にたいする適確な薬物治療もないのであるが,現在入所しているものにはこうした例が多いのである。
現在の入所基準は昭和41年5月に出されたものであり,それ以前のものは廃止になった。そうして「障害の程度,家庭の状況等を勘案して児童相談所において入所を必要と判定した重症心身障害児(者)であること」となっているが,児童相談所においての判定の基準として,昭和38年7月の通達がまだ残っている現状である。こうした理由から,現在の重障児施設にはいわば掃きだめの様にいろいろの種類と程度の障害児が△259 収容されている状態である。定義どうりの重症心身障害児の中には,教育訓練による発達効果を期待できないものもあるが,現在の様に障害の種類も障害程度もいろいろである,いわゆる重症心身障害児を収容している状況下においては,生活指導教育,訓練というものがかなり大きな役割を持つことになる。一方国立療養所重症心身障害児病棟における指導,訓練関係の職員構成は次のとおりである。
職名 病床数 40 80 120
児童指導員 1 1 2
保母 2 3 5
理学療法士 1 2 3
この人数では,すべての入所している障害児にたいして充分な療育はでき難いといえよう。43年の施設長会議における指示事頂には「障害児の生活指導は障害児に接触する全職員がこれに関係するのが当然であるが,特に児童指導員,保母,心理判定員,ケースワーカーがこの任にあたることになる」と述べられているが,現状では実効をあげるには甚だ困難である。重症心身障害児施設が,単なる救護的のものでなく,収容された障害児の心身を発達させて行くようなものでなければならず,改善すべき点が多いというべきである。そうした一つの試みを行った代表的な施設の経過をみてみよう。一施設は療育の任にあたる児童指導尊員,保母等を組織的にはっきりと責任をもたせた西多賀病院であり,もう一つは重障児の療育は,児童指導員,保母が主に行うものと,病棟の人員配置を思い切って傾斜配置を行った長良荘(現長良病院)である。
1)西多賀病院の場合
国の施策としての重障児収容弟1期として,昭和42年3月に西多賀病△260 院に重障児病棟が開棟した時点において,単に重障児の生命保持だけでなくその生活そのものを保障してゆくべく,院内独自に指導部を設けた。看護助手も婦長配下でなく,療育員と呼び,広く,重障児の世話をしたいという若い人々が集ってきた。人員構成からいっても病棟内においては看護部門より多く,夜勤体制も看護部門職員1名と指導部職員1名とが組む体制をとった。この指導部門の責任者は指導員であり,その下に保母――療育員という命令系統であり,病棟内においては医療,看護生活指導の3本柱による協議によって運営されてゆく方法をとった。指導部長は始め院長が兼務したが,現在は副院長が兼務している。保母の有資格者も,療育員の中に多数存在し,重障児の発達保障が充分に行い得る体制であり,重障児病棟のあり方と方向性を示したものと注目を集めたが, 3, 4年後,全国的な2・8間題ともからんで,療育員は看護助手として看護部門に配置換えせざるを得なくなった。しかし指導部という組織は今なお続いている。また西多賀病院における指導部とは,単に病棟における生活指導のみでなく,こうした子供達を収容した施設が当然負わなければならない社会の福祉,教育のあり方の啓蒙への大きな役割を専門に業務として行っている。最盛期には,年間延べ6,000人という実習,研修,奉仕,見学者等の受け入れを,その計画のもとに行い,現在においても年間延べ数千人の指導等に当っている。
2) 長良病院の場合
「重心病棟看護要員傾斜配置に関して」という題で長良病院長古田富久より原稿が寄せられた。以下原文のまま引用する。
「長良病院が重心児収容を開始したのは昭和42年2月であり,昭和48年1月に120床がほぽ満床になった。その間,次の諸点が問題として浮び上って来た。
(1)当初比較的重症児が入院したが,入院後の療育により軽症化した。△261
(2)最近の入院児は当初より一般に軽症化した。
(3)以上がいわゆる「動く重障児」問題として新たな対策の必要性を生じた。
(4)保護者より教育(学籍を含む)の要望が出されて来た。
(5)これらのことは児童福祉法が目的としている治療,日常生活の指導のうち,後者を大幅に必要とする患児の増加を意味する。
(6)今後,法が規定する目的を達するためには,動く重障児に適応し二病棟運営を行い,日常生活指導を重点として管理する必要が生じた。
研究病棟運営の構想
看護単位を2箇病棟合せ1単位とする。内1箇病棟を研究挽病棟として看護婦2〜3名を配置し,それ以外は指導員,保母,看護助手(保母有資格者)とし,指導,保育面を充実させる。研究病棟については保母,看護助手も夜勤を行い,看護婦は同一単位病棟より巡回を行う。
実施について
一斉切換の混乱を避けるため,保母,看護助手に順次3交替物務を習熟させ完全移行を行う。その時点では次表の如き配直になる。
区分 手術中在 外来 結核 筋ジス 白T 日U 白V 計
看護婦 (2) (2) (8) (15) (10) (14) (63)
2 2 8 15 16 4 63
保母 ―― ―― ―― (3) (3) (4) (4) (15)
看護助手 ―― (2) (1) (2) (2) (3) (2) (12)
―― 2 1 2 2 2 3 2 12
計 (2) (4) (9) (18) (20) (17) (20) (90)
2 4 9 17 18 19 21 90
(註)1.保母資格を有する看護助手はすべて保母とした。( )内は旧配置
2.白T,日U,白Vは重心病棟の名称である。
実験的運営の成果と反省
1箇年間の経験より委員会を構成し,その成果と反省を総括した。利点欠点を要約すれば次の如くになる。
(1)指導員,保母の自主性の確立。
(2)子供の個性をのばす努力がなされた。
(3)教育について内容形態共に発展した。
(4)指導員,保母共に専門職としての目覚が出て来た。
(5)傾斜配置は医療上問題はない
(6)最重症病棟が子供中心の療育より外れがちになる。
(7)夜間2〜3名の看護婦が80名の子供の責任を負う形態を続けるのは精神的肉体的に無理がある。
結論
病棟内にての以上のような実験的運営は,それなりの努力と成果が認められたが,病棟という医療法上の制約の下では,最初予想さえできなかった変化を示す重心児に対応不能になって来たのと,重心児対策は施設収容が唯一の方法ではなく,在宅下に地域社会全体が取り組んでゆくのでなければ,1病院の運営上の努力だけではどうにもならない時点に来ていることが痛感され,今後は在宅間題との関連で病棟連営がなされるべきと思う。」
3. 重症心身障害協議会
国立療養所に重症心身障害児病棟をおくことがきまった時,その予定された国立療養所の間で「その適正な管理,運営および研究を図るために必要事項について相互に協議し,改善を計るほか,関係機関への連絡,交渉等をなし,国立療育施設として完全かつ円滑なる任務の遂行を期すること」を目的に,昭和41年5月に重症心身障害児(者)収容施設協議会なるものを設立し,以来その目的のために活発な活動を続け△263 てきている。日本における重症心身障害児施設の歴史はあさく,その管理,運営などについては不明のことが多く,解決しなければならない問題が山積しているといえる。一方当時の日本における重症心身障章害児ベッド計画は,国立施設に10,431床,公立,法人施設として6,069床となっており,重症心身障害に関する諸問題の解決について,国立療養所が主流的立場におかれている関係上,これらの問題に対する解明,改善に動かなければならないのであった。こうしたことから,児童家庭局の委嘱による異常行動研究班に委員を送るなど,対外活動も行っている。施設の建物,設備職員構腐その運営,管理に関して,この協議会がたゆまず改善努力をつずけてきた結果,国立療養所における重症心身障害児施設の内容は年とともに向上してきたものといえる。会長として,下志津病院長,山梨清楽荘長,足利療養所長,長良病院長などがその任にあたってきた。
この会の目的にもあるとおり,研究方面の総括がされてきたことは勿論であるが, 49年になって国立療養所課の慫慂により,重症心身障害研究会を別に設けることになり,活動目的の大きな部分が削られれた感がなきにしもあらずであるが,今後の活躍を期待したい。
4.研究
すでに述べたごとく昭和42年に国立療養所の重症心身障害害児児病棟が開設されたが,その年仙台で行われた国立病院療養所総合医学会に12題の報告が行われている。重症心身障害関係の研究,調査報儀告などは,この第22回総合医学会ではリハビリテーション分科会において,第23回以革は重心・筋ジス分科会においてとりあげられるようになった。
重症心身障害児施設では,医療のみならず,生活指導,保育などが行われている関係上,その研究報告などはかなり多岐にわたり,看護部部門と生活指導部門との交錯するものがあったり,また報告された分科会△264も,小児科,重心・筋ジス,看護,臨床検査,薬学などにわたっているため,すべてを総括することは困難であるが,重心・筋ジス分科会を中心に過去8年間に報告されたもので,国立療養所関係の出題数を纏めると次表の如くである。
区分 医療部門 指導部門 その他
第22回 5 2 5
第23回 14 11 2
第24回 20 11 5
第25回 22 16 6
第26回 25 21 6
第27回 38 21 6
第28回 32 36 7
第29回 44 34 12
[…]
また,西多賀病院副院長湊治郎は施設のあり方について寄稿したが,現在のようなすっかりでき上ってしまった重障児収容中心の考え方から,幼弱脳障害児の治療に積極的に参加すべきことを説いている。そして国立の重心施設との差が次第になくなりつつある現在の肢体不自由児施設との協力態勢をとっていくことが,今後の課題となるであろうと述べている。以下湊の文章をそのまま引用することによりこの稿を終りたいと思う。
「重症心身障害児の原因の70%以上を占めると考えられる脳性麻痺にしても,また代謝異常,染色体異常などと呼ばれている疾患も,医学が今程度の発達具合では,そう急に減少するものとは考えられない。現に脳性麻薄だけを取り上げて乙1, 000の出産に対し2人位の割で次々△269 と生れてくるものであり,日本中で年間200万の出産があるとすれぱ,4, OOO人の脳性麻簿患者が生れることになる。その4分の1が重度の障害をもつとすると,年間1,000人ずつ重症心身障害児の数がふえてゆくことになる。従って,現在のように,地域の要求があれば,次々に施設をふやして収容してゆくといった収容中心のやり方では,いくら施設をふやしても不足する結果になる。生命に対し適切な医学的処置がなされている現代ではなおさらで,施設はいくら作っても際限がない。
患者の年齢も年ごとに大きくなり,介護に要する労力は益々嵩み,要する経費も莫大なものになってゆく。
そこで,国立重症心身障害児収容施設の将来像として,まず,第1番に考えなければならないことは,収容中心の考え方からの脱皮であると思う。では,収容に代えて何を行ったらよいかということになるが,それは幼弱脳障害児の治療に積極的に参加することであると思う。別の言葉を言うと,少し乱暴な言い方だが,『でき上ってしまった重症心身障害児を集めて苦労するよりも,未だ重症心身障害児になっていない子供たちを,そうならないように治療する療養所に変れ』ということとである。
そして,実はこれは日本では未だ余り誰もが手をつけていない新しい分野であるとともに,極めて効果の期待できる魅力ある分野だと思う。
最近,脳性麻痔の治療に,超早期療法という考え方が提唱され,ボバース法をはじめ,いくつかの万法が紹介され,極く一部の肢体不自由児施設ではすでに実施され,優れた効果をあげている。超早期療法というと極めて目新しい印象を与えるが,要するに『脳障害は,できるかぎり幼ないうちに訓練・治療をすれば著しい効果があるが,反面,大きくなってからでは極めて効果が薄い』ということで,『脳障害児は,できるだけ早く治療せよ』という主旨である。△270
日常,私たちが病棟で重症心身障害児を見,また,親からその成長発育の過程を聞き糺して痛切に感ずることは,重症心身障害児の多くのものが,はじめから重症の心身障害児ではなくて,成長発達の途中で,正しい取り扱い(育児と言ってもよい)がなされなかったため,とうとう重症心身障害児になってしまったのだという印象を強く受けることである。つまり,今私たちが診ている重障児も,もしも,もっと幼い時期に親たちに正しい取扱いが教えられ,正しい管理がなされていたら,全く健康な子供とは言えないまでも,今では想像もできない程自分で何かができ,他と意志を通ずることのできる子供になっていた筈だということである。これを夢物語と思うむきもあると思うが,すでに超早期療法・実施した人たちの報告もそれを証明しているし,私たちの短い期間だが,幼い心身障害児の外来患者の経験でもこれは言うことができる。
とはいえ,収容中心の現施設を急に治療中心の療養所に切り替えることはそう容易なことではない。何よりも職員の教育が必要である。特に医師の教育が必要なのだが,その数が徹底的に不足している療養所の多い現在では,専任の医師が重症心身障害児にかかりきりになることは容易なことではない。そこで,それの可能ないくつかの療養所をえらび,まず,医師,次いでPT,看護婦などに,幼弱脳障害児の訓練の知識技術を習得させることである。また,この際児童指導員,保母たちは幼児の知能訓練プログラムの実施計画者として極めて重要な役割を果すことになるので,現在問題になっているその仕事の内容身分などを明確にする上でも優利になる。
では,どこでこうした技術,知識を習得し得るかということになると日本の現状ではまた問題が多少残る。しかし,幸い各県にある肢体不自由児施設では,最近,急速にこうした超早期療法に対する関心が高まりつつあるので,差当り,これらの施設と連携を深めることが必要になっ△271 てくる。
すでに知られているように,最近肢体不自由児施設自身,収容患者の内容が変化しており,従来のポリオその他中心から脳性麻簿中心になり,しかも重度で幼弱な患者の占める比率が年々増加する傾向にある。このことは,国立療養所の重症心身障害児病棟との差が次第に無くなりつあるということである。さらに昭和54年度から実施される重障児の教育の完全実施などという問題を考えると,現存する肢体不自由児施設と,国立療養所の重症心身障害児病棟の協力体制は,今後極めて重要な課題になるものと思う。」
(西多賀病院院長 保坂武雄, 同院 阿部幸泰
(寄稿原稿)
重心病棟看護要員傾斜配置に関して…………吉田富久(長良病院)
重症心身障害児収容施設今後のあり方………湊治郎(西多賀病院)
重症心身障児(者)……………………………小田島正夫(釜石療養所)
〃 ……………………………石井良平(静岡東病院)
重心児病棟創立時のこどもども………………成瀬昇(長良病院)
重心,筋ジス……………………………………篠田実(八雲病院)
重症心身障害児…………………………………久保宗人(村松晴嵐誠荘)
(参考資料)
重症心身障害児…………………………………小清水忠夫(再春荘)△272
重症心身障害児(者)病床施設別設置状況 pp.273-275
都道府県・施設別 年度基盤別整備状況 昭和41年度〜49年度
昭和41年度合計:480 → 49年度:7,520
第4節 進行性筋萎縮症児(者)の医療
◆湊治郎・浅倉次男 1976 「進行性筋萎縮症児(者)の医療」,国立療養所史研究会編[1976a:276-297]
1.国立療養所に筋ジストロフィー患者を収容するにいたるまでのいきさつ
進行性筋ジストロフィー症が一つの筋疾患として,ドイツの医学者エルプにより記載されてから約100年になる。決して新しい病気ではない。しかし,わが国でこの病気が本当に社会の注目を集めはじめたのは極く最近である。正しく言えば,昭和39年以降である。原因も不明で,治療法も無いまま,時には正しい診断さえつかないままで,この病を負った子供たちは他人の知らない場所で,その短い生命を終えていたのである。これを看とっていた家族の苦痛は想像を絶するものがある。
川崎菊一著「この子らの救いを求めて」(日本筋ジストロフィー協会発行,昭和41年5月)の中にこうした家族,特に父親の苦悩と怒りが,まことに鮮明に記載されている。そして,この書は,同時に,わ国における筋ジストロフィー対策の黎明期を伝える極めて貴重な資料とももいうことができる。
九州の佐世保に住む著者が,筋ジストロフィー症の子を持つ親としてありとあらゆる苦労を味わいつつ,同じ病に苦しむ他の家族との協力によって,ついに「全国進行性筋萎縮症児親の会」(現在の「日本筋ジストロフィー協会)を結成するに至ったのが,昭和39年3月5日である。
こうした極めて困難な病気に対しては,国家的見地から事に当るより他に道がないという考えから,3月16日,親の会々長 徳田篤俊と,副会長 川崎菊一および高久寅吉ら3名は,厚生省に時の厚生大臣小林武治および尾崎嘉篤医務局長を訪問し,筋ジストロフィー症の研究に医師△276 専念できる研究所と収容施設の整備および医療費の助成を陳情するにいたっている。
この時大臣および局長が親の会の陳情に対して極めて好意ある態度でのぞみ,直ちに,積極的且つ具体的な対策を提示している点,まことに印象的であり,深い感銘をおぼえる。
川崎によると,その大要は以下の通りである。「研究機関や収容施設の設置については,,施設の建物よりも研究や看護に従事してくれる医者や看護婦から探さなければならないが,なかなか来てくれる人がない。そこでとりあえず次の3つの方法が考えられる。
その1は,国立療養所は将来有休病棟が発生する見込なので,これを利用することである。結核入院患者は逐次減少傾向にあるので,国立療養所を利用することは最も着手が早い。
その2は,研究を大学に委託すること。
その3は,研究機関を全く新しく新設する考え方。新設の場合,東京は地価が高いから地方でも差支えないと思う。」(一部原文修正)
3月17,18日,徳田,川崎らは同じ問題につき,関係議員を通じ衆,参両議院に請願を行っている。
厚生大臣および医務局長によって示された構想はその後極めて迅速に実現に移され,昭和39年5月6日(先の陳情後わずか40日余りにすぎない),厚生省は進行性筋萎縮症対策要綱を発表している。
それによると,進行性筋萎縮症の発病の原因および治療法研究に着手するため,
干葉県四街道町 国立療養所下志津病院
宮城県仙台市鈎取 国立西多賀療養所
内に,各20ベット宛の専門病床を設けることに決定した。
当時,西多賀療養所(現 西多賀病院)には,すでに8名の筋ジスト△277ロフィー患児が入院して,他の疾患児童と一緒に,ベッドスクールで教育を受けていたという。おそらくこれは,わが国における筋ジストロフィー患者の国立療養所収容の嚆矢とも言うべきで,同院創立35周年記念誌によると,前院長近藤文雄は「昭和35年に,兄弟が三人そろってこの病気にかかって,途方にくれている一家に出遭った。ベッドスクール以外にこの子たちを精神的にに救う所はないと考えて。従来の常識を破って筋萎縮症を入院させることに踏みきった」と言っている。昭和39年6月15日,さらに広島県の原療養所に10床の専門病床の設置が発表され,8月10日には,石垣原病院,刀根山病院,八雲療養所,徳島療養所にそれぞれ10床の設置がおこなわれている。さらに9月3日,鈴鹿病院に10床指定され,全国8ブロック8療養所合計100床の筋ジストロフィー用ベッドが指定されるに至った。
8月31日,厚生省は,直ちに,昭和40年度進行性筋萎縮症対策として,
児童局関係 13,804,000円
医務局関係 98,462,000円
計 112,266,000円
の予算案を大蔵省に提出しているとは言え,専門病床数が指定された当時は,特にそのベッドに対する特別の予算的措置は無かったようである。その頃の現場施設の苦労の様子は項を改めて書くことになるが,何れにせよ,国立療養所に筋ジストロフィー症患者を収容するという,おそらく世界でも類を見ない画期的なでき事がこの時はじめられたのである。
2.患者収容に関する最初の打合せ会の頃
さて,いよいよ患者の収容ということになり,それに関する最初の打合せ会が持たれたのが昭和39年9月11日である。その会議の会場施設で△278 あった徳鳥療養所の神山南海男所長より,当時の模様およびその後の経過について,極めて貴重な資料の提供をうけたので以下その文章をほぼそのまま引用して述べてゆきたいと思う。
国立療養所と進行性筋ジストロフィー症対策について
(国立徳島療養所を中心とした場合)
国立徳鳥療養所長 神山南海男
同 整形外科医長 松家 豊
昭和39年春頃から,進行性筋ジストロフィー症児を国立療養所に収容する計画が具体化しはじめ,その最初の収容に関する打合せ会が行われたのは,昭和39年9月11日である。
場所は徳島市経済センターで,出席者は本省から大村潤四郎国立療養所課長,古崎正義課長,真杉武医療係長,大学側からは徳島大学黒田銘一郎医学部長,三好和夫内科教授,山田憲吾整形外科教授,勝沼信彦酵素化学教授,野島元雄助教授,西条一夫講師,その他医局員,各地の医務局長,次長あるいは専門官,担当施設として各ブロック1箇所宛の八雲,西多賀,下志津,鈴鹿,刀根山(研究施設),兵庫,原,石垣原,徳島の院(所)長,事務長,事務長補佐等の参加がみられた。なお当日出席予定の冲中重雄虎の門病院長は都合で参加取止めとなった。
徳島で開催されたのは,徳島大学に,古くから本病究明に当られている三好教授ならびに異色あるリハビリテーションを提唱されている野島助教授がおられるためで,両氏の講演および臨床指導に併せて,大学附属病院における本症患者の実態を見学する便宜のためであった。
この時,本省から示された対策要綱(案)の主なものは以下の如くである。
収容および治療は本病の本態が不明で比較的長期入院を要するために,各担当施設はそれぞれ協力大学と連絡を密にして収容患者の選定,△279 治療方針の確立に遺憾のないようにすると共に,学齢期にある者に対しては,教育の機会を与えることとする。
また,本病は病期,病勢によってはリハビリテーションの対象となるので,該当患者には積極的にリハビリテーションを行うこととした。研究は治療と同様,大学と施設が協力して推進することとした。なお協力大学としては次の9大学の名があげられている。
1.八雲療養所 北海逆大学
2.西多賀療養所 東北大学
3.下志津病院 東京大学
4.鈴鹿療養所 名古屋大学および名古屋市立医大
5.兵庫療養所 大阪大学
6.原療養所 広島大学
7.徳島療養所 徳島大学
8.石垣原療養所 九州大学
医療費は国立療養所入所費等取扱細則により保険診療費の100分の80とし,療育医療の適用については今後検討すること。親の会とは連絡を密にしてこれを育成すると記され,参考として,アメリカの筋萎縮症協会が3大民間団体の一つとして研究費の交付等を行っていることを述べ,わが国にもすでに協会が結成されていることが話された。
その他,細部の口頭指示としては中等症以下の患児を収容し,年齢は15歳未満,最大収容期間は1年とし永久収容は考えていないこと,看護要員は40床に対し10人の予定で,合併症などで重篤なものは特別に収容する方法を講ずるということであった。これらの原則的事項に対する質疑応答は活発で,たとえば看護要員は3人に1人を目標とすることに改められたりしたが,当時の国立療養所の空床の関係もあって早急こは実現困難な事項が多く,職員や患者の説得にやや時日を要した次第であ△280 る。
その後の実際の定床、ならびに患者収容こ)状況については表1に示す通りである。神山らの資料に昭和42年以降の数字も付加して作成してみた。
表1 進行性筋萎症児(者)病床 上段:整備状況
下段:収容実数
北海道 道北
八雲
青森 岩木
宮城 西多賀
埼玉 東埼玉
千葉 下志津
新潟 新潟
神奈川 箱根
石川 医王園
岐阜 長良
三重 鈴鹿
京都 宇多野 △281
大阪 刀根山
兵庫 兵庫中央
奈良 西奈良
島根 松江
広島 原
徳島 徳島
長崎 川棚
熊本 再春荘
大分 西別府
鹿児島 南九州
21都道府県 22施設
3.筋ジストロフィー病棟開設当時の苦心談
すでに述べたように,国立療養所への筋ジストロフィー児の収容は,異例とも思われる早い速度で実施に移された。これには,厚生省当局をはじめ,発足した親の会の並々ならぬ努力が大きな力になっていることは言うまでもない。しかし,すでに知られているように,昭和38年6月中央公論に「拝啓 池田総理大臣殿」という題で公表された作家水上勉△282 の文章,およびそれによって澎湃としておこった日本全体の福祉への目覚めが大きな影響をもっていたものと思われる。
とはいえ,長い間,結核特に肺結核だけをその対象として組織され,訓練されてきた国立療養所が,今までとは全く異なる筋ジストロフィー症児を受け入れることになったのだから,その困惑は大変なものであった。殊に,人的,予算的裏づけの殆んど無いままの発足であったのだから一層である。 兵庫療養所(現兵庫中央病院)の医務課長であった笹瀬博次(現院長)は,当時の様子を次のように述べている。 「兵庫療養所に筋ジストロフィー収容の話のあったのは昭和39年8月である。当施設が選ばれたのは,県立養護学校が隣接地にあること,研究施設である刀根山病院が近くて協同研究のでき易いことなどが考えられる。当初,小川吾七郎所長は,近畿地方医務局に対して,実績をつくってから人員や設備を貰う今までのやり方では,看護力の面で筋ジストロフィー児童を収容することに責任を持ちかねるとの理由で,次の数項目の条件を述べられた。 (1)患児1名に看護婦1名,患者5名に看護助手1名,その他保母,マッサージ師数名 (2)暖房,浴室,便所および洗濯の中央化など設備の整備 (3)車椅子など看護器具の購入予算の裏付け,など。 しかし,筋ジストロフィー児童の収容は緊急の問題であり,病棟その他の整備も後日必ず考慮するからと言われたことを信じ,ー方,当施設の結核入院患者の漸減なども考慮し,結局,筋ジストロフイー児童40名を老朽木造病棟へ,昭和40年4月から収容することになった。」 筋ジストロフイー児童の収容は厚生省の方針であったとしても,実際にこれらの患者の診療に当る医師は必ずしも筋ジストロフィーの専門家△283 ではない。その上,結咳患者その他の診療に極めて多忙な医師が大部分というのが,当時,筋ジストロフィー児を受け入れた施設全ての実状だったろう。
笹瀬は更に続けて述べている。
「この頃,兵庫療養所の医局は医師数が少ないのに,外来患者は1日に約200名を数え,入院患者の治療もかなり多忙であった。そこで,このままの体制では筋ジストロフィー児の診療療には協力できかねるとの意向が強く,小川所長は非常にこの面で苦慮され,当時医務課長であった私を呼ばれ,診療面で内科医について神戸医大の辻昇三教授に一応は話してあるからもう一押しして話をまとめてくれと言われた。それからは辻教授のところに何度も何度も足を迎んで,ついに新進の医師を貰うことになった。また筋ジストロフィー患者の筋力保持の面では徳島大学整形外科山田憲吾教授ならびに神戸医大整形外科柏木大治教授にお願いして,その御指導,御協力を引き受けて貰うことができた。
こうしたことで,医局もやっと平穏な劣囲気に戻り,小川所長も非常に喜ばれた。」
当時の困惑した現場の様子が目見えるようである。
更に約束された筋ジストロフィー病陳の整備も遅々として進まないのが実状であった。
病棟の割り振りも決して楽な作業ではなかった。「小児結核患者用の新築病棟100床ができたのを機会に,筋ジストロフィー児童を小児結核児のために建てた鉄筋病棟50床に収容するようにとの指示を受けた。小児結核児のためにやっと念願のかなった病棟に筋ジストロフィー患児を収容することには結核児PTAから抵抗があったが,火災時の万一の惨事が予想される老朽木造病棟にいつまでも筋ジストロフィー児を収容しておくわけにもいかず,木造病陳を改修して新築病棟100床に収容しき△284 れない結核児を移して,昭和42年12月筋ジストロフィー児を鉄筋病棟50床に移した。」
当初,筋ジストロフィー患者を収容した施設は多かれ少なかれ同じ様な苦労を味ったのである。兵庫療養所の場合も,本格的筋ジストロフィー病棟が完成したのは昭和43年であった。
4.研究体制の進展
国立療養所に筋ジストロフィー症患者を収容する際に立てられた,大事な柱の一つは,この疾患の原因の究明すなわち研究という柱である。
先に述べた小林厚生大臣および尼崎区務局長の談話の中にも,また,その後の対策要綱の中にもそれははっきりと述べられている。
さらにその研究にあたリ,発足した8つの療養所にそれぞれ研究協力の大学を指定するという極めて画期的な試みがなされ,これが,その後の国立療善所の筋ジストロフィー症研究の進展に大きな功績をのこしたと言える。
以下,今回の「国立療養所史亅の編集に当って,徳鳥療養所長神山南海男から寄せられた記録(一部は前に引用した)により研究体制の進展について述べてみる。
昭和40年2月26日,東京において,進行性筋ジストロフィー症患者受入れに関する第2回打合せ会が持たれた。出席者名簿によると厚生省側からは,大村国立療養所課長,瀧沢母子衛生課長,各地方医務局長および次長,受入施設の所長,医務課長らの他多くの技官,事務官が出席している。さらに大学側から,札帆医大 南浦教授,東北大学 中尾講師,干葉大学 富田,村越両講師,東京大学から江橋教授,椿助教授,脳研豊倉教授,中尾内科の鬼頭,塚越,杉田,古川,近藤の各医師,名古屋市立医大の山路講師,広島大学 川本講師,九州大学 黒岩教授,徳島大学 野島助教授らが出席し,その日の午前中は,特に「研究体制」の△285 あリ方について講演がなされている。
すなわち,椿助教授から文部省の班研究「わが国におけるミオパチーの実態と成因に関する研究」の成果について,および,厚生省の班研究「進行性筋萎縮症の臨床生化学的研究」の現状今後の方針についての講演があり,ついで江橋教授から「CPKの測定方法」についての講演があり,引き続き,活発な討議がなされたと記録されている。
午後は主として,受入れ施設の整備とか予算関係のことが話し合われたが,この会議で,一応,国立療養所における筋ジストロフィー症対策の一つの住である研究体制の第1歩が発足したものと言うことができる。
昭和41年1月28日,再び東京において「進行性筋ジストロフィー症に関する綜合的研究」に関する打合せ会が行われ,各施設の担当医師が出席している。この日,東大豊倉教授および茂花講師,徳島大学山田教授らが出席し,「進行性筋ジストロフィー症の臨床的ならびに疫学的研究」および「同疾患の整形外科的研究」について話し合いがなされている。
臨床的ならびに疫学的研究に関しては,文部省ミオパチー研究班に準拠した綿密な登録カード,調査表の様式案が示され,種々討議のあと豊倉教授,茂花講師を連絡係とし密接な連絡をとりつつ,協同して研究を進めることになった。
昭和41年3月25日下志津病院において,第1回看護対策の研究会が持たれた。研究会は,徳島療養所の難波総婦長が世話役になり,筋ジストロフィー症児の看護はリハビリテーション看護が中心になるとの考えから,徳島大学の山田教授が直接研究の指導に当り,徳島療善所がまとめ役を引き継いで現在に至っている。
昭和41年8月14,15の両日,徳島において,「進行性筋ジストロフィー症の協同研究に関する打合せ会(整形外科)」が開催され,徳島大三△286 好教授の講演のあと,特に整形外科にとらわれず各種研究発表が行われ,ひき続きリハビリテーションの基礎的事項について話し合いが持たれた。
同日,看護の問題についても,収容人員と必要看護人員の問題,介護者の疲労度の問題,病陳の建築,患者の栄養などについて協同研究の必要が捉案されている。
昭和41年11月18日,19日,第2回の看護に関する打合せ会が徳島で持たれた。徳鳥大学栄養学科白谷助教授の「重症筋ジストロフィー症患者に対する看護労力の機械化による効果について」と題する特別講演があり野島助教授の講演,映画にひきつづき,山田教授司会のもとに,筋ジストロフィーの看護の現状,また問題点等について,核心に触れた討議がなされている。
これらの研究は,昭和41年度から発足した国立療養所中央協同研究班組織の中でおこなわれ,疫学的研究(取りまとめ役刀根山病院),整形外科的研究(徳島大学),看護に関する研究(徳島療養所)の成果は,年々,厚生省に報告されていたが,研究班の年間総予算は60万円程度にすぎなかった。
昭和43年2月15,16日,徳島において4回目の協同研究打合せ会が行われている。折悪しく西日本全体は未曽有の大雪に見舞われ,欠席者が相次ぎついに流会の止むなきに至った。しかし前夜から来泊中の東京大学の杉田秀夫,上田敏両講師,新潟大学の近藤喜太郎講師,名古屋市立大学の山路助教授,徳島大学の山田教授らを囲み,講演や意見発表を行い,極めて有意義な内容ある集まりを持つことができた。
その後の経過を念のため一括して記すと次のとおりである。(要旨は厚生省心身障害研究費補助金による「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する研究」の中,分担研究課題として行われた「進行性筋ジ△287ストロフィー症の臨味的研究」の取まとめ役。徳島大学山田教授の昭和47年度研究報告による。)
昭和43年厚生省特別研究「進行性筋ジストロフィーの成因と治療」関する研究班(冲中班)が設立された。昭和44年,国立療養所を中心とする筋ジストロフィー症の研究は,臨床社会学的研究として分担研究課題に採り入れられることになり,その世話は徳島大学山田1教授に一任されることになった。研究主題は病勢進展過程の分析,病態生理学的研究,心理学的研究,機械器具の開発および看護・栄養の研究,生化学的研究の6つのサブテーマにわけられ,協同研究のもとに活発な研究が行われた。
昭和46年より,「進行性筋ジストロフィーの成因と治療」に関する特別研究は,心身障害研究費脯助金の配布を受けるようになり,金額も一段と大型化したが,国立療善所を中心とする臨床的研究は昭和488年1月27日,厚生省心身章害「筋ジス」の幹事会の議に基づき,基礎的研究(冲中班)と並び,山田班として研究分担されるにいたった。
なお昭和49年12月から山田班は研究組織を改編し,一層飛躍的発展が期待されている。
このように,最初 国立療養所に筋ジストロフィー症患者が収容された時たてられた柱の中,研究に関する面は比較的順調な歩みを統けて現在にいたっている。しかしながら,依然として疾病の原因も不明で,従って効果的な治療法も無いままの収容であるから,時を経るに従い筋ジストロフィー病棟の管理運営の面では多くの困難な問題がおこりつつあると言うのが現状と言える。その最も著しい点の一つが青年期患者の増加による問題ではないかと思うので,以下その点について一項をもうけてみたい。
5.青年期筋ジストロフィー症患者の増加と療育体制の変化△288
先に述べたように,当仞,厚生省が国立療養所に筋ジストロフィー患者の収容を開始した時,主として15歳以下の学童を収容し,収容期間は1年以内とし,永久収容は考えていないとの主旨を明らかにしている。ところがその後の社会状勢は必ずしもこうした考えを実行し得なかったようである。
最近,収容施設における雌大の問題の一つは,義務敦育を終了した青年患者の病棟内で占める比率が年毎に増大している事実である。
因みに,昭和46年10月20日現在の国立療養所入所中の筋ジストロフィー患者の年齢別実数を表示してみる(表2)。表で明らかなように,この頃すでに15歳以上の患者者の数が36.8%に達している。医療管理の比較的良く行われている現状では数的な変動を多く見積って考えても,5年後の現在,15歳以上の患者の数は全体の70%を上廻っていることは間違いない。これは特に早くから収容を開始した施設において著しい。
表2 年齢別入院患者数
(昭租16年10月20日現在)
年齡 総数 構成比
全年齢 1.032 100%
O − 4歳 0
5 − 9巌 180
10 − 14歳 466
ここまでで63.1%
15 − 17歳 190
18 − 19巌 74
20 − 24巌 66
25 − 29歳 11
30歳以上 39
ここまでで36.82%
10−19歳 466
ここまでで81.98%△289
併設養護学院における児童患老の教育に可成のウェイトを置いてきた今までのやり力を,大きく変化させなければならない時期に今直面しているのが施設の現状である。言葉を変えれば,差当っての目標として義務教育は修了したが,さりとて,特に有効な治療法が開発されていない今の時期に,一体何を目標として患者の管理を行ったら良いかという極めて困難な,深題につき当ったことになる。
この難問の解決策の一つとして,また患者側から,一つの新しい方向を示すものとして登場してきたものが,
1)作業療法の奨励
2)患者自身による活動の活発化
ということができる。以下,この2つのことについて述べる。
(1)作業療法の奨励:作業療法とは言うものの,こJ)場合,作業を通じ身体的機能の向上を計るといった効果は期待できない。主として心理的効果が問題で,患者が持っている仕事をしたいという欲求を満たし,何かを成就した喜びを味わい,また仕事を通じて,広く他の健康な人々と良い交わりを持ち,それによって筋ジストロフィー症という極めて困難な病気を克服する助けとするということになろう。そこで実際に当っては,作業療法士による専門的働きかけによる場合もあるが,児童指導員,保母,教師,その他の指導者によるサークル活動の形をとって実施されているものが多い。
鈴鹿病院における革細工,西多賀病院における時計部品の選別,徳島療養所の焼物などがその中でも代表的作業と言える。
特に興味深いものとして,アマチュア無線局の開局があげられる。昭和47年1月15日,西多賀病院でJA7QDが開局して以来,再春荘(JA6YVE),下志津病院(JH1ZWD),川棚病院(JA6ZCT)の他,徳島療養所,兵庫中央病院,八雲病院,宇多野病院,鈴鹿病院,△290松江病院等で次々と開局の運びにいたり,施設同志,また広く海外とも通信をを交している実状である。
再春荘にJA6YVEがめでたく開局された当時の模様を,荘長小清水忠夫は次の様に述べている。
「私のところではたまたま一看護婦がハム免許を取得したのであるが,それがきっかけとなり,ハムの先生に子供たちの状況を訴えたところ,即座に,快よく指導の奉仕を引き受けられることになった。御指導をお引き受けになったのは落合重俊先生(国立熊本電波高等専門学咬教諭)および,菊地澄先生(私立熊本第一工業高等学校教諭)のお二方であって,昭和46年3月より勉強が開始された。勉強に当っては苦労をともにすることが必要であると言うので,職員7名も加わり30余名が参加することになった。初めは,1週間に1回程度の勉強であったが,最後の3箇月には無線連盟認定講習会として,週2回,1回の受講時問は3時間(午後5時30分〜8時30分)にも及んだ。
その甲斐あって,昭和47年3月21日には24名がめでたく免許を取得することができた。」
他の各施設とも,同じような患者の努力と,地域地域のハム関係者の温い援助があリ,今日の実を結んでいることは言うまでもない。その一つ一つについて記録する余裕の無いことは,まことに残念でありまた申し訳なく感ずる次第である。小清水は,さらに続ける。
「さて,免許取得ができたともなれば,無線譏やアンテナ塔が必要となるところであるが,施設としてはこれだけの余裕があるわけでもなく,私共の頭の痛いところであった。幸にも御指導頂いた先生方,熊本地区のハム関係の方々またこの道のベテランの一人である同僚施設菊池恵楓園の医務部長熊丸茂先生などの御奔走によって,沢山の無線膽の御寄贈を頂くことになり,昭和47年4月1日,待望の開局を迎えることが△291 できた。」
アマチュア無線局の開局という一つのでき事を通じ多くの一般社会の人々の好意を得ていろこの姿は,筋ジストロフィー病棟の将来のあり方の一面を示唆するものと言えるのではないだろうか。
(2) 患者自身による活動の活発化: 青年期患者の増加は,また彼らの対社会的活動への目ざめとなって表れてきた。筋ジストロフィー患者の作った詩などが患者以外の人たちにより出版されたことは,それまでにも何度かはあったと思う。しかし,昭和46年1月,西多賀病院の筋ジストロフィー患者自治会,西友会で発行した詩集「車椅子の青春」は編集,出版の全てを患者自身の手で行った極めてユニークなものであった。多くの読者により愛読され,版を重ねて出版されたが,その後絶版となり,49年エール出版社により再版発売されていろ。
昭和49年12月に出版された「続車椅子の青春」は在宅患者の詩をも含めたもので,これも西多賀病院を退院した患者山田富也を中心に,自らの力だけで出されたものである。世間一般の福祉に対すろ関心の高まりも影響し,多くの反響を呼びおこし,筋ジストロフィー症を世に知らせるのに役立っている。
昭和46年2月,西多賀病院に入院中の筋ジストロフィー,鳥海悦郎およびカリエスの堰合辰男,今野正広の3人によって写された入院中の筋ジストロフィー患者の生々しい記録写真は「車椅子の眼」という題名で平凡社から発行され,筋ジストロフィー症患者が抱えている多くの問題を写真を通して世間の人々に訴えた。
一方,患者にとっても,またこれを介護する職員にとっても,最も切実緊急の問題である筋ジストロフィー症の原因および治療法に対する国立研究所の設立促進の運動が,昭和48年頃から,一部の人々によって行われてきた。これに対し,病棟から間接的にこれを援助しようという△292 「はがき一枚」運動が西多賀病院入院中の患者により行われている。政府の担当者,関係国会議員などに,毎日,はがき一枚でも書いて研究所の設立を実現させるという地道な述動である。
同じような目的を持った集まりとして,徳島療養所内に「太陽と緑の会」があリ,研究所設立の促進,西多賀病院院患者との交流などに活発な働きを行っている。
こうした,患者自身の社会的な目ざめ,また,これを取り巻く多くの人々の善意の集結は,先に述べたように日本の社会全体の中に,未だ未熟なものであるとは言え,福祉優先の考え方が次第に浸透して来た結果果とも言えるが,昭租45年,西多賀病院入院中の筋ジストロフィー患者の生活を克明に記録した記録映画「ぼくのなかの夜と朝」(西多賀ベッドクール後援会)の彫響も無視することはできないと思う。
6. 筋ジストロフィー施設における児童指導員,保母の働き
国立療養所の筋ジストロフィー病棟に,児童指導貝,保母が配置されたのは,昭和42年3月で,国立療養所に重症心身障害児の収容が開始されたのと時を同じくする。従来の肺結核の治療を中心とした療養所から新しい使命を持った病院への転換を象徴する極めて特異な職種の配置と言えよう。
現在,はじめの40名の患者には,児童指導貝1名,保母2名,次の40名には,指導員1名,保母1名,さらに40名の患者が増加すると指導員1名,保母2名という割合で病棟に配置されている。
児童生徒が大部分で,しかも長期の入院を必要とするこれらの患者に対しては,どうしても親代りになって彼らの心を支えてゆく大人が必要である。こうした職種こそ児童指導員,保母であると思う。西多賀病院浅倉は,これを医療26巻増刊号の中で,児童指導員の業務として,@子どもの把握(肉体面,精神面)B環境の整備(人的環境,物的環境)B子△293 どもと環境の相互作用(生活経験の拡充)と言っているが,まことにその通りだと思う。
しかしながら,従来の国立療養所には全く無かった新しい職種として,他職種との軋轢が全く無かったわけではない。しかし長い年月の間に,あくまでも患者の幸福を中心として相互に譲り台い,援け合って,病棟には無くてはならぬ存在として溶け込んでいるのがが現状である。さらに,年長患者の増加に伴って,彼等が患者のいろいろな作業療法の面でも中心となって働いていることは先に述べた通りである。
毎年開かれている,国立病院療養所総合医学会の進行性筋萎縮症分科会の演題を見ると,生活指導関係の演題が最近特に多くなっているのも,これら指導員,保母らが療青の研究面でも良い働きをしている証拠と言える。
昭和45年10月,八雲病院,西多賀病院,下志津病院,東埼玉病院,長良病院,原病院の6施設の指導貝,保母らが東京において,はじめて「DMP療育担当者打合せ会」を持っている。
昭和46年9月,この会合は「全国国立DMP児(者)収容施設療育担当者連絡協議会」と名称が改められ,先の6施設の他に,岩木療養所・兵庫中央病院,松江病院,再春荘などの児童指導員,保母らが加わり,療育の具体自い閇について討議がなされている。その時の会場は北海道の八雲病院であった。
昭和47年10月の集りは名古屋でもたれ,12施設が参加。この時から,保母は別個に組織を持つことになり,会の名を「全国国立筋ジストロフィー児(者)施設児童(生活)指導員協議会」と呼ぶようになる。
昭和48年5月には,この会の主催による第1回の研究会が千葉市で開かれ,昭和49年10月まで4回の研修会を持ち,療育内容の向上,指導員の業務の正しい認識のために努力を続けている。△294
一方,保母の全国組織は「筋ジストロフィー症児(者)保母連絡協議会」と呼ばれ,昭和48年3月に発足,年1回の総会を持ち,会報など発行し,指導員同様,真摯な努力を続けている。昭和50年4月現在,全国の保母配置施設17の中,16施設が会に加入している。
これら児竃指導員,保母の身分・位置づけの問題,また業務内容の明確化など,未解決の問題が一部残されているとはいえ,新しい国立療養所の持つ使命の重要な担い手として,彼らに寄せられる期待は,今後ますます大きくなるものと思う。
7. これからの筋ジストロフィー施設のあり方
さて,以上述べたように,国立療善所が,筋ジストロフィー患者の収容を開始してから10年余の歳月が過ぎ去ったことになる。その間,多くの療善所が今まで味わったことの無い難問にぶつかりながら,試行錯誤の繰り返しを重ねて今日に至っている。
最も根本的問題である筋ジストロフィー症の原囚の解明および治療法の聞発については,世界中の学者たちの努力にもかかわらず,未だその道が聞かれていない。
とすると,われわれは今しばらくの間この難しい病気を抱えた于供たち(大人も含めて)に,いくらかでも,より価値ある人生を送ってもらうための援助を続けなければならない。それには,国立療養所の現状は,物的,人的にまことに不備だらけと言わざるを得ない。
そこで,今回の療養所史編さんのために寄せられた八雲病院長 篠田実の文章の中から,「今後の筋リストロフィー施設のあり方」についての意見を紹介し,夢を将来に托して,この稿を終ることにする。
篠田は,まず,研究体制の現状について,「発足10年後の今日においてさえ,岡立療養所の研究体制は神経筋疾患,脳性麻痺,その他の鑑別すべき疾患群に対し,追求を続ける事のできる設備を如何程有してい△295 るか疑問である」と述べ,さらに「何らかの理由で(今まで)研究に対する配慮がなされなかったとしても,すでに10年を経た現在ではそれが許されるべきではない」と指摘している。さらに,従来の大学中心の研究体制について,「大学は確かに研究の場であるかも知れず,事実,神経筋疾患の研究に主力を注いでいる大学もみられるが,仮にそうだとしても,その疾患の発症から剖検に至るまでの過程を余すところなく追求することは,大学にとって不可能である。」そこで「国立療養所こそが自ら名のりをあげて研究の主体となるべきであり,従ってそれに見合った設備の充実がなしとげられなければならない」と言っている。
また,将来の国立療養所に求められる医師像として,神経学,小児抖学の基礎的素養の他にリハビリテーション医学に対する基礎的知識をもち,かつての結核医に,内科,外科,リハビリ科の綜合された医師像が意図された如く,筋ジストロフィーなどの疾患に対して綜合的能力を持った医師が望ましい」と述べている。
筋ジストロフィー病棟の看護職員についても,「その質的向上についての対策は急務中の急務で,大学等あらゆる既設の機関を利用して,その向上を計るとともに,理学療法士,作業療法士など,必要な職種が十分に供給されるよう唯々祈るのみである」と述べている。
最後に筋ジストロフィー症など,現在,国立療善所がかかえている疾患群のみが,「恐らく最後まで治療しがたき疾患として残り,国立療養所こそがそれに対する最後の担い手として,病める人々のために踏み止まるべきである。そしてかかる姿勢こそが
魅力ある国立療養所
として,すぐれたスタッフを得,すぐれた設陥のもとに,。より発展する基礎となるべきものと考える亅と結んでいる。
まことに,国立療養所の進むべき理想の姿を示唆する卓見というべきであろう。(西多賀病院副院長 湊治郎,同院 浅倉次男)△298
(寄稿原稿)
重心,筋ジス ……篠田実(八雲病院)
鈴鹿の「筋ジス」 ……加藤敏也(元鈴鹿病院院長)
進行性筋ジストロフィー症対策について ……神山南海男(徳島療養所)
(徳島療を中心とした場介) 松家豊( 〃 )
養護学校とのかかわリ ……笹瀬博次(兵庫中央病院)
島村喜久治 1976 「患者自治会の活動」,国立療養所史研究会編[1976a:506-515]
第3節 患者自治会の活動
1.患者同盟の誕生
第2次大戦の終結によって,抑圧されていた国民の不満が全国的に勃然として民主化の嵐となって吹き出した時,結核療養所の中で二重に抑圧されていた長期入院患者たちが,食糧の危機を契機に結束して療養所の管理者に迫ったのは自然の成り行きともいえるものであった。療養所には,ふつう,戦前から患者自治会は作られていた。しかし戦前のものはいわば親睦団体に類するもので,療養所管理者にとっては有益無害のものであった。それが終戦によって一挙に闘争的な集団と化した。私立の療養所でも日本医療団の療養所でも,傷痍軍人療養所でも例外ではなかった。
新しい性格をもった患者自治会は,当然横のつながりを持とうとする。昭和21年10月,東京では,東京都患者生活擁護護同盟の結成大会が開かれた。いわゆる都患同盟の誕生である。日本医療匠団中野療養所の慰安室が会場であった。都内の日本医療団系の療養所と私立療養所の,合わせて9自治会が参加している。都患同盟はさらに全国的な組織作りを目指して活動する一方,都知事に食糧や衣料の特配,生活保護法の適用,結核病床の増設などの要求を開始した。
翌22年1月,都患同盟が中核となって,全日本患者生活擁護同盟(全患同盟)が結成された。会場は同じく中野療養所の慰安室で,全国の医療団系および私立系の療養所の72自治会,6, 369名の患者組織が誕生した。
この後を追うように,全国の旧傷痩軍人系の療養所の自治会が,同年2月,国立療養所全国患者同盟(国患同盟)を結成した。この年,日本△506 医療団が解散されて,療養所は国立に移管された。そして全患同盟と国患同盟が,翌23年3月統合して,日本国立私立療養所患者同盟(日患同盟)が成立した。
事務局が都下清瀬村に建設され,機関紙「日患情報」(のち「療養新聞」と改名)が発行される。結核医療と社会保障に対する告発と追求が展開する。
2.その活動
国立療養所の患者自治会は,それぞれの上部団体として都患・県患をもち,さらにその上に全国組織として日患をもつことになった。管理者と自治会が対立して紛糾すれば,上部団体が応援にかけつけてくる。労働組合と同じである。つまり,国立療養所は二つの組合をもつ。職員の労働組合と患者の同盟である。患者自治会は管理者にとって有益無害の団体ではなく,今や有益有害あるいはときに無益有害の相を呈することもある。国の政治が医療保障に充分の施策を展開しないとき,それは必要悪であると観念した管理者もいたことであろう。しかし,最近の公害や難病あるいは薬害に対して,その犠牲者の団体が生まれ,告発し,保障を要求する世相をみれば,日患同盟は時代を先取りした団体といえるかもしれない。ジャーナリズムを騒がせた事件がいくつかある。
(1)死の座り込み
結核患者が減少せず,病床が不足していた頃,厚生省は26万床計画という目標を掲げたことがある。しかし,目標の実現は遠かった。軽快した生保患者が長く病床をふさいでいる状況を崩せば,不足気昧の病床の利用効率が上るはずであるという発想で,生保適用の結核患者の入退所基準という社会局長通牒が,昭和29年5月,全国の都道府県民生部に通知された。△507
大阪,ついで岡山県患が200名, 300名の患者を動員して,県庁に基準撤回を要求して座り込み闘争を始めた。生保結核患者全般の問題なので動員は国立だけでなく公立の診療所の患者たちにも及んだ。日患同盟の旗のもと,闘争は全国的に波及した。たとえばここに,国立佐賀療養所後藤正彦所長の記録がある。
「日本患者同盟の佐療支部は少くとも佐賀県において人退所基準を粉砕せんと一致団結してあらゆる戦術を繰り広げた。先ず私ども国立療養所の幹部が佐賀県で中止するよう県と交捗して欲しいとのことであった。
県の民生部長の意向を伺ってみると,これは全国一斉に行わるべきもので佐賀県だけ中止できる筋のものではないとのことであった。私どももそうであろうと考えていたのであるが,患者側は県庁へ坐り込みしてでもこれを阻止しようというのであった。たまたま日本患者同盟の九州支部が私どもの佐賀療善所にあったことも何かの因縁であったのだろう。療養所での患者代表と県民生部長との幾度かの直接の話し合いもついに実を結にばず,また私どもの座り込み中止の勧告も効なく,いよいよ数台のバスを借り切って県庁へ庫り込もうという段階となった。座り込み予定日の朝,私と民生部長との最後の中止勧告にも耳を傾けることなく,バス何台かに分乗して百数十名の患者が佐賀県庁への座り込みのスタートを切ったのは,昭和29年8月の夏の暑い日の昼前であった。副知事室か民生部長室かはよく憶えていないが,民生部長を相手に数十名の患者代表が数時間に亘り入退所基準に関する陳情を行ったといえば聞えはよいが実のところ態のよい吊し上げでしかなかった。今少し礼を尽してお願いしてはとの私の発言も益々悪感情をそそる結果としかならなかった。言いたい放題のことを言い終って疲れもし腹も減ったのであろう。一応会議は終りということになった。大部分のものはバスに乗って療養所へ帰ることになり30名程度のものが県庁へ泊り込むというのであ△508る。当時の副知事は仲々面白い人で全く感情的なところはなく『何人泊まられますか。病気が悪くなるといけないので私の部屋をあけて用意します』といいながら絨たんの敷いてある広い副知事室の机まで外に出して,毛布や枕も用意されて泊まり込み用の立派な部屋ができ上った。今でもそのときの副知事の姿をはっきり記憶している。
療養所に留守番をしていた事務長から電話があり,患者の方から泊り込んでいる人々のために食事を運んで欲しいとの頼みであるが,どうしたものであろうかという問い合せである。私は一瞬考えた。食事を運ぶことになれば悪くすると座り込みの忠者に同調したという非難をうけるかも知れない。しかし食事を運ばずそのための病状が悪くなれば生死の問題につながる恐れがある。また民間の食堂に行って食事をするようなことがあれば公衆衛生上大きな汚点を残すことになりかねない。ここが管理者の判断と決断のしどころと考え,食事運搬を許可した。その夜であったと思うが,時の医務局次長から事務長へ電話があり食事運搬については批判的な言葉であったとか。しかし私としてはその処置は間違ってはいなかったと信じている。
夕飯が終り一応患者の気持も少し落ち着いたと思われる頃を見計らってバスを用意するから療養所へ帰って休んで欲しいと説得にとりかかったが『所長の言葉にだまされるな』と言う言葉を繰り返しながら益々泊り込みの体勢を固めるばかりであった。夜になって疲れがでてきたのであろうか,ビタミンの注射をしてくれ,葡萄糖を打ってくれなどの要求がでてきた。何とも言いようのない全く複雑な気持であったが,待機していた医師,看護婦で所要の処置を行って夜のねむりに入ることとした。私ども職員は一部交代で県庁に要員を残し,県庁近くの県医師会館に陣どって待機することとした。同様にして翌日もまた30名程度が泊り込んだと記憶するが,患者の交代はある程度あった模様である。確か3△509 日目の午前中に引き揚げたと記憶しているが,その間私ども職員の方も疲れ切って飯ものどを通らないというのがほんとうであった。1名の死亡者も出さなかったことはせめてもの幸であったが,数名の症状悪化者の出たことはやむを得ないことであった。」
東京都でも,7月末,都患が1,000名を越える患者を動員して都庁に3日間座りこんだ。炎暑の候であった。座り込みの中で,国立村山療養所の女性患者米津敏代が死亡した。ジャーナリズムが騒ぎ立てた。死亡事件の翌日,患者達は引揚げたが,この座り込み事件の後始末は,国立療養所に軽快病陳制度ができ,退所の基準も,府県によっては「退院しても再発のおそれがないもの」というような弾力条項が挿入されることで焦点がぼかされることになった。しかし,実際には,そのころ,化学療法の偉力が発揮されて(その年の6月から,結核予防法で1次抗結核薬3者併用が無期限に使用できることlこなっていた)入院息者数が減少し始め,病床にゆとりが生じてきたので,入退所基準は,その後再び緊迫した舞台にのぼることはなかった。さらにその後昭和36年から,結咳予防法による命令入所制度が強化されて,同法第35条による医療費負担が生保に優先するようになって現在に及んでいる。
(2)朝日訴訟
国立岡山療養所に入院していた生保患者の朝日茂が,福祉事筋所の措置(長期間音信不通であった実兄の住所がわかって,月1,500円の仕送りを命じ,その分だけ日用品費を減額した)に対して,県知知事,ついで厚生大臣にも不服申立を行ったが却下され,昭和32年8月,東京地方裁判所に厚生大臣を訴えた。1審では勝ったが,厚生省の上訴で2審は負けた。日患同盟の他に朝日訴訟中央対策委員会もできて,最高裁に上訴した。この間に,患者は症状悪化して死亡したが,日患同盟の常任幹小小林健二が養子となって闘争が続いた。しかし,昭和42年5月,最高裁△510 は「本件訴訟は上告人の死亡によって終了した」と判決した。10年にわたる「人間裁判」であった。この「闘争」の全記録は,草土文化社から「朝日訴訟運動史」として刊行されている。社会保障は国民の権利であること,それにも拘らず,生活保護の基準の低すぎることが争われたのfが,社会保障史上,小さくない比重をもつ事件であった。
【(3)埴生療養所の閉鎖
結核患者の減少によって,国立療養所でも空床が目立ち始めた昭和34年,建物の老朽化,医師,看護婦の補充難などもあって,厚生省では,いくつかの国立療養所の廃止・統合・転換が計画されるようになった。廃止第1号は山口県の国立埴生(はぶ)療養所であった。入院患者はもちろん反対した。職員も反対した。日患本部や全医労本部からも応援がでた。窮地に立った管理者側の応援に本省から援軍が派遣された。凄絶な闘争が続いたが35年12月,埴生療養所は閉鎖された。療養所の閉鎖は大難事であるという教訓が残った。その後,統合や転換はすすめられたが,国立療養所の廃止はされていない。】
(4) カナマイシンの使用
昭和32年日本で始めて作られた抗結核薬カナマイシンは,昭和34年4月の結咳病学会で,臨床使川に耐えるすぐれた抗結核薬であると評価され,35年2月には結核予防審議会でも,結核予防法に採り入れられた。しかし予防法や健康保険で実際に使用できるためには医療基準にとり入れられなければならないのだが,当時厚生省と対立していた日本医師会は中医協をボイコットして出席せず,そのとばっちりを受けた形で,カナマイシン使用は放置されていた。
唯一の解決法は,厚生大臣が職権告示を行うことであった。医師会への刺激を避けたのか職権告示はなかなか発動されなかった。 既存の抗結核薬に耐性のできた患者の治療には,当時,カナマイシン△511 は貴重な薬であった。結核専門医も,結核患者も,その家族もカナマイシンの使用を待ち望んだ。1万以上の署名を集め,日本医師会長にも要請していた日患は,遂に丈挙して昭和35年12月厚生大臣室前に座りこんだ。120名はいたというが,厚相古井喜実は即日,36年1月1日から使用してよいという職権告示を発動した。カナマイシンは,当時,日本で作られた唯一の抗結核薬であったが,いかにも日本生れにふさわしい形で使用承認が陽の目を見た唯一の抗結核薬でもあった。
(5)特別会計制移行間題
長く一般会計で処理されていた国立療養所がいくつかの曲折を経て遂に特別会計制に移行したことは総括編に詳しいが,国立療養所個々の施設の中では,職員組合と患者自治会の反対を真向から浴びるることとなった。ここでも患者同盟は,全国の国立療養所で反対運動を展開した。国立佐賀療養所における状況は,同所長後藤正彦の記録によると次の通りであった。
「昭和42年のことであったろうか。国立療養所の会計が近く一般会計から特別会計に変るらしいという風評が流れた。この問題では職員組合も反対したが,患者自治会の方からも大きな反対の声が起った。私ども所長連盟でもいろいろと検討した。又国会でも随分審議された。この問題に関して随分いろいろのことが検討されたが,結局は当時の情勢よりみて,国立療養所の将来,特に整備のことを考えるならば特別会計に踏み切らざるを得ないということになった。国立療養所の患者達の中には,ハンストをしてでもこれを食いとめようとの動きがあった。私が病棟の廻診をしていた相当暑い夏の或日のことであった。事務長からの電話連絡で,100名位の患者が玄関前に座り込んで特別会計に反対している,所長は早くきてこれをとめてくれとのことである。午前11時頃で△512 あったろうか,とうとう来るものがきたという感じであった。事務長から2〜3回催促の電話があったが,私はそのまま廻診をつづけた。12時のサイレンが鳴ると同時に廻診を中止した。何かしら当日はとても疲れていたので,その足で医局の宿直室に行ってしぱらく横になることにした。一人静かに休んでいると,宿直室の前の廊下を職員か患者か知らないが頻繁に通る足音が聞える。「所長は何所へ行った』『所長をどこにかくした』などという声がきこえてくる。宿直室の前に並べてある私のサンダルを見れば直ぐわかる筈なのに, 15〜20分の間,誰も気付かないらしい。患者達もハンスト,ハンストと意気込んではいるが,いずれ腹がすけば病室へ帰るであろうと考えた。漸やく事務長が私のサンダルに気付いたとみえ宿直室に入ってきた。そして座り込んでいる患者に早く会ってくれという。事務長と,話している中に暫くの時間が経過した。事務長と一緒に宿直室を出て廊下を玄関へ向う途中で数名の患者に会ったが『所長がおった』『所長がおった』と,まるで大きな獲物でも見つかったかのように騒ぎたてられた。玄関前に行ってみると,なるほど沢山の患者が麦藁帽子をかぶったり,暑そうに三々,五々群がっているのがみえる。笑っている者もあればなかば気の毒そうな顔をしている者も居たが,皆わり合い静かにしている。やがてリーダーがやってきて,自分達は特別会計になることには反対である。所長は速かに厚生大臣と衆議院の厚生労働委員長とに特別会計反対の電報を打って欲しい。電報を打つまでは自分たちはハンストをやめないというのである。私は特別会計には賛成しているので反対という電報を打つわけにはいかないと答えた。しばらく何人かで協議していたが,何かの形で特別会計が中止されるように打電して欲しいと何回も要求してきた。話し合っているうちに,真夏の太陽の下,午前中から座り込んでいた患者の中にはボツボツ気分の悪い人が出始めた。たまたま衆議院の厚生労働委員会では慎重審△513 議をしているときであったので,慎重審議をして欲しいという電報なら打ってもよい,しかし患者全員が病棟に引きあげるのでなければ打竃するわけにはいかないと答えた。リーダーが私どもの意を伝えると間もなく患者は続々と病棟へ引き揚げ始めた。事務長が,打竃のことで地方医務局へ連絡したところ,打電してはいけないといわれたという。所長の私自身が全責任を負うから,とにかく打電せよと事動畏に命じた。事務長は東京へ打電したのであろう。地方医務局から所長の補佐が足りないといって相当ひどくおこられたらしい。事務長には全く申し訳ないことをしたと思うが,当時の情勢からみて,その程度のことはやむを得なかったものと思っている。」
3.これからの患者自治会
結核が減少し,結核治療法の進歩によって入院期間が短縮してきた今日,結核療養所に空床がふえ,療養所の性格転換が起り,各種の慢性疾患や,いわゆる難病の患者が相対的にふえてきつつある。こういう状況のなかで長期入院の結核患者を構成メンバーとして成り立っていた患者自治会,またその上部団体の日本患者同盟は,いま,重大な曲り角にたたされている。個々の施設についてみれば,入院期間が精々数箇月の元気な患者は患者自治会に対して切実な必要性をもたないうちに退院してしまう。長期入院の患者は呼吸障害があって患者自治会活動ができにくい。
したがって,患者自治会は,その活動メンバーの獲得に難渋しはじめている。また,全国組織の日患同盟について言えば,減少一途の会員数は相対的に同盟組織の過大化を目立たせてくる。組織をどう維持するか,結核以外のどの疾患に組織拡大の照準を合わせうるか,そのためには組織の変革をどこまで行うか。国立結核療養所30年の歴史に,患者自会の歴史はピッタリと重なって流れている。
戦後の結核対策において,患者自治会や患者同盟の果たした役割りにつ△514 いてはいろいろな評価が可能であろう。しかし,その後登場し活躍している公害や医療被害者などの諸団体の存在意義を否定できるひとはいない。結核病床の減少にともなって,個々の施設内の患者自治会は親睦団体へ先祖返りする傾向を強めるにしても,その上部団体の日患同盟は,このまま消え去ることはないだろう。
(東京病院副院長 島村喜久治)
(寄稿原稿
患者自治会の活動の一端…………………後藤正彦(東佐賀病院長)
患者自治会について………………………藤井実(広島病院名誉院長) 佐藤登(広島病院長) (参考文献)
25周年をむかえた日本患者同盟(日患常任幹事会編)昭48。
◇後藤正彦 1976 「患者自治会の活動の一端」,国立療養所史研究会編[1976a:508-510]
第8章養護学校
◇畠山辰夫・半沢健 1976 「国立療養所の中の学校――病弱教育のあしあと」,国立療養所史研究会編[1976a:517-549]
国立療養所の中の学校 ――病弱教育のあしあと――
1. 病弱教育のめばえ
明治維新という一大改革を果したわが国は,いち早く近代国家へと脱皮するために,教育に対しては異状なまでに精力を注いでいた。国策として,富国強兵を掲げ,すべての力をこれに結集するのであった。特に,日清・日露のあいつぐ戦争に勝利を得て以来,その傾向にいよいよ拍車をかけていた。国是として「国民の体位向上」を目指している折,とりわけ結核にかかわる問題が大きな関心事とされていた。
1853年,デンマークのコペンハーゲン市が児童の健康増進を目途として,「休暇聚落」を実施したこと(大西永次郎監修「施設中心虚弱児童の養護」昭和6年刊109, 161頁)に端を発し,次第に各国に普及していった。わが国においては,明治38年(1905年) 8月,東京市神田区内の8つの小学校が「夏季聚落」を行ったのが最初であるという。(東京市役所編刊「束京都教育復興誌」昭和5年刊430~431頁)
明治40年(1907年),文部省は各府県師範学校附属小学校で「盲人・?人・心身の発育不全」の児童のための特殊学級設置を希望する旨の訓令をだした。病虚弱児に対する公式的な措置を指令したわが国初のできごとである。そして,大正2年(1913年)「日本結核予防協会」が設立され,大正4年(1915年)にいたって,東京・大阪・神戸に結核療養所が設立されている。一方,文部省衛生課によって,「身体虚弱児童の特 ←p.517.
P.518.→殊取扱いに関する調査」が実施され,その出現率5%と判明したと報告されている。
体のひ弱な子ども――その大部分が結核児と推定されている位向上を目的とした夏期学校は,年間通じての営みではなかった。しかし,昭和2年(1927年)に至って,東京麹町小学校に虚弱児の特別学級(養護学級・開放学級・開窓学級・栄養学級などと呼ばれた)が設けられ,昭和5年(1930年)には,全国35箇所, 3,395人がこれに就学したという。(講座「心身障害児の教育1」明治図書刊39頁)
健康回復のため,全国各地に夏季期間中だけの「開放学校」が設置されていたが,これを半永久的な常備施設とするようにもなった。昭和4年(1929年)大阪市立六甲郊外学園がそれである。そして,昭和11年(1936年)東京府立久留米学園の設立もみている。
この頃のアメリカの病弱教育について,宮城病院長畠山辰夫は,次のように述べている。
「昭和10年J. Amer. Med. Ass.に発表されている『米国の結核寮養所の調査』の中には,教育がー項目としてとりあげられている。これにはプレぺソトリウム29箇所で全部正規の教育が行われていることや, 600箇所の結核療養所のうち26%, 159箇所に学校が設置されていることが述べられている。当時の私にとっては,療養所での教育という問題は,さほど強い関心事にはなちなかった。」
いまだ病弱教育は正常な歩みを持たない状態とはいえ,わが国における虚弱児のための対策は徐々にではあれ進展していった。だが,時局は風雲急を告げ,日ごとに軍事色が強まるばかりであった。その中で,昭16年(1941年)文部省は,「身体虚弱児童の夏季養護施設に関する指示」を令達している。しかし,これに応え得るための資力は軍需方面にむけられ,急速度の進展をみるに至らなかった。特に,都市空襲の激化△518 に伴い,伝統ある虚弱学級も,昭和20年(1945年)に至って,次々と閉鎖されていった。
昭和20年8月15日,ついにわが国は無条件降伏という形で戦争を終えた。住むに家なく,着るに衣もなく,そして食べるに食なしの状態で,国民は疲弊のどん底に喘いでいた。いまだかつてあったためしのない敗戦というできごとは,すべてにわたって混迷を誘発した。傷痍軍人療養所や日本医療団所属病院は,その名も国立療養所と変わり,新たなる組織を求めて新生への模索を続けていた。荒廃した世相において,静かであっても平和への躍動がきこえるようになりつりあった。
昭和21年(1946年),東京都立久留米養護学園,同じく片浜養護学園が戦後いち早く再開された。希望の灯は再びともされたのである。そして病弱教育の胎動期を迎えるのであった。
2. 胎動期の病弱教育
軍の崩壊と共に,傷痍軍人療養所が国立療養所となり,民間人の診療収容という体質改善がようやく軌道にのりかけた頃,病弱教育史上画期的なできごとがおこった。
国立療養所兵庫中央病院長笹漸博次は,その経緯を次のように述べている。
「昭和21年5月,兵庫県有馬郡道場国民学校(現在,神戸市北区道場小学校)において,腸チフス・パラチフスAB混合ワクチンの予防接種が行われた。その1箇月後, 102名の学童に上腕接種局所,腋下淋巴腺などに結核症を発生し,昭和22年11月20日,これら児童の約半数55名を国立兵庫療養所(昭和43年9月1日,兵庫療養所と春霞園が合併して国立療養所兵庫中央病院となる)に収容した。これら児童患者の治療と義務教育とを併せ行う必要から道場小学校養護分校として専任教師2名の派遣を受ける。そして,昭和25年4月末には, 4人の児童を残してすべ△519 て治癒退院の状況となった。」
これまでの病弱教育は,病弱児というよりも虚弱児を対象としていた。従って,医療機関内での就学ではなく,しかも年間通じての教育でないのが大部分であった。ここに,以前と全く質の異った医療機関内での教育という本格的な病弱教育が呱々の声をあげたのである。
続いて翌昭和23年(1948年)大阪市立少年保養所内の貝塚学園と横浜市立保養所内のニッ橋学園に結核児のための医療と教育を併設した施設がもうけられた。こうした全く新しい試みは,関係者にとって極めて注目に価いすることであった。そして,このような方向にむかうきざしが,ほうぼうの国立療養所の間に徐々にではあれ,ひろがっていった。
兵庫県におこった注射禍に始まる病弱教育も,収容児童の治癒に伴い体質の改善が迫られていた。笹瀬は,その後の経緯をさらに次のように述べている。
「療養と教育を併せて行うこの施設を閉鎖するにしのびず,当時の小川吾七郎兵庫療養所長は,従来のー市町村の分校のような形でなく,兵車県直属の特殊学校としての教育施設ならびに陣容を整備し,教育は兵庫県で治療は国で行う共同事業としたいと考え,広く兵庫県下の学童結核者に利用できるように県下各市町村教育長を訪ねて,その賛同を得昭和25年6月より県下の結核児童患者を収容することとなった。次いで治療は兵庫療養所で行い,教育は県で行うべく県立養護学校の設置を陳情した。その甲斐あってか,昭和27年4月,県立学校とする前提のもと,教育面を神戸市より兵庫県に移管して,地元,三輪町立三輪小学校(現在,三田市立三輪小学校)分校となった。学校教育法による最初の養護学校として,その輝しい第一歩を踏みだし,昭和28年4月,定員100名の『兵庫県立上野ヶ原養護学校』が開設されたのである。『療養しつ学ぶ』のを原則とする小児病棟であるから,開放性結核児童は入院さ△520 せられなかった。」
一方,関東においても,国立神奈川療養所(現在,国立療養所神奈川病院)において,昭和22年1月1日,小児結核患者病棟が開設され, 24年6月1日付をもって,特殊養護学級(通称,神奈川養護学園)が設置された。
当時の神奈川療養所での学習について,畠山辰夫は次のように述べている。
「国立療養所のうちで,真先きに小児病棟を設けたのは,神奈川療養所ではなかろうか。所長の上島三郎氏は,元来小児科の医師であり,小児結核の子らをーつの病棟に収容して療養させていた。私が視察に行ってみると,小児患者は活発,否,乱暴なこと驚くばかり。病室の中はあたかも猿が島の猿でも見ているようなありさまであった。私は小児病棟の管理の困難さを痛感し,それを設定することには少なからず躊躇を感じていた。」
このように逐次施設内病弱教育のきざしが現われたとはいえ,独立した学校もまだなく,大部分は普通学校の分校または分学級であった。当然のことながら,まだ独自の教育活動を創りあげることなどできない状態であった。
以上は,国立療養所の絶大な理解のもとで発足した先進校である。戦後の混乱期にあって,こうした先見の明をもって前人未踏の領域を開拓した点,頭のさがるおもいである。
年のふるごとに,混迷も次第に落着いていった。その折,以上の例と全く異る発足をした養護学級が東北の地に設置された。宮城県立西多賀養護学校(国立療養所西多賀病院併設)教頭半沢健は次のように述べている。「昭和29年(1954年) 8月4日,その日はとりわけ暑い日であった。田園の中の国立玉浦療養所(宮城県岩沼町)の小児病室に,ひとり△521 の成人患者が入っていった。長い間カリエスにおかされ,病床に伏した四人の子どもたちがそこにいた。
『おれたち,学校どうなんのかなあ。』床頭台に積まれてある教科書引きだしにきちんと揃えてある学用品を見つめながら,もう何年も勉強していないこの子等の表情は暗かった。
『よし。勉強会をやろうか。』
戦争中より入院し,死線をさまよったこの成人患者も,どうにか歩行し許可されるようになっていた。以前教員の経験もあるし,何よりも無類の子ども好きでもあった。彼の名は菅原進氏という。
病院職員の目を盗むように,こそこそ始めた学習会であったか,子どもたちの目に,希望の光が満ち溢れていた。とうていかくしとおせるものではない。しかし,予想に反し,病院ぐるみの応援を受ける結果となった。入院している他の成人患者の中に,たくさんの有為の人材がおり,病状回復に伴い,次々と学習会の指導を申し出るものが現われた。画家,元教師,経理関係従業者……。そして,ここに他に例をみないことばが生まれた。――『患者先生』である。
病院あげての学習会であっても,これは公認のものではない。テスト結果や学習の記録を持って,患者先生は子どもたちの原籍校に行った。
『教員以外の人による勉強会は,学校教育ではない。従って,進級や卒業の認定をするわけにはいかない。』
校長先生のにべもない回答を受けたこともあったという。"公認の正式の学校としたい。この願いのもとにすべての人々が結集していった。そして関係当局に対して熱烈な請願陳情を続けたのである。
このように,病院職員,成人患者および親と子が一体となって,学校づくりを熱望した例が他にあるだろうか。この開拓者魂にも似た意欲が,△522 この学校の伝統となっていった。
『おーい,公認の学校となったぞ。』
玉浦療養所長近藤文雄氏は,私設養護学級修業式を主催し,親・子・友人患者・職員を一堂に集めていた。そこへ庶務課長が門の所から大声して駆けこんできた。そこにいるもの共々に手をとり合い,肩をたたき涙を流して喜び合った。
そして,昭和32年 (1957年) 4月1日,岩沼町立玉浦小・中学校矢野目分校として開校したのである。」
文化の浸透度合いの遅いみちのく路の一角に誕生した私設養護学級は報道機関を通じて伝わっていった。回復期にある成人患者の奉仕は,そまま広い意味でのリハビリテーションである。また,教育を受ける側の児童にとっても,この学習そのものがリハビリテーションのわく内にある。東北各地の国立療養所で,次々と学習会が開始されるようになった。
国立療養所宮城病院でも昭和31年,4名の児童と起居を共にしつつ,生活と学習の指導が,成人患者の手によって進められた。翌昭和32年には児童6名,患者先生2名となり, 33年には,療養所内の炊事場を改造しそこを教室とするよう配慮されている。そして公認の学校とするよう関係当局に陳情請願を行い,昭和33年8月25 日に開校の運びとなっている。
「戦後は終った」ということばが世上に流れ,ようやく落着きをとりもどした頃,誕生の経緯にそれぞれ違った点があったにしろ,各地に養護学級が生まれていった。
わが国初の養護学校を創りあげた米山守宏(元上野ヶ原養護学校長,全国病弱虚弱教育研究連盟初代理事長)は,当時のことを次のように回想している。(「病弱虚弱教育」昭和49年刊――病弱教育と全病連――そ△523 の生いたち)
「昭和35年頃には,全国に公立病弱養護学校が10校,私立学園2 ~ 3校,小中学校分校または特殊学級が20~30校ありました。当時,公立病弱養護学校長は,校長会(会長米山守宏,昭和32年3月)を結成して常に参集し,病弱児教育問題について協議し,文部省の指導助言を受けていましたが,私立学校や分校特殊学級等と協議をする機会がなく,遺憾に思っていました。その頃の病児は結核性疾患の病児が多く,医療と教育は共通の問題をもっていましたので,これらの教職員が全国一本化し共に研究し,教育の効果を高めようと申し合わせました。」
多くの先達の努力によって,昭和35年(1960年)7月27日,新潟県立三条養護学校において全国病弱虚弱教育研究連盟結成大会が開催された。
長い病弱教育の胎動期を終え,連帯と協同の方向にそった教育活動が開始されたのである。
3. 結核撲滅運動と共に
わが国の保健衛生業務は,結核対策に大きなエネルギーを費していた。富国強兵を国是とした時代も,戦後の民主主義の時代でも,結核は国民を亡ぼす疾患として恐れられていた。そしてこれらの患者を国立療養所において,治療というより療養というほうが妥当な対処をしていた。中でも肺結核は,若年層をむしばみ,決定的な治療法とてなく,人を絶望の淵におとし入れていた。
昭和19年(1944年)アメリカのワックスマン,シャツ(Waksman, Shatz)によってストレプトマイシンが発見され,翌年,ヒンショウ(Hinshaw)によって結核の治療薬であることが発見された。また,メィヤー,レイ(M. Meyer, J. Nally)によって明治45年(1912年)イソニコチン酸ヒドラジットが発見され,これが結核の治療薬であることが昭和27年(1952年)判明した。また,パラアミノサリチル酸(パス,P A S)の△524 発見等と相まって,結核治療の見通しが明らかとなった。
人々は,ようやく戦後の物資不足から脱けきろうとしていた。栄養摂反もどうにかできるようになっていた。加えて,X線撮影による早期発見も徹底していった。そのような情況の中で,結核の化学療法が一般化しつつあった。結核は,治療可能な病気となった。当然,患者のリハピテーションが大きく療養の中に位置づけられるようになった。どこの療養所も「結核撲滅」の使命を掲げ,医療体制のほとんどをこれに注いでいた。
義務教育期間内にある児童・生徒には教育を――といった考え方が浸透し,年を追うごとに病弱養護学校,分校,学級が,学校組織や体制に差があったにせよ,増加の道をたどっていった。
泰忠雄(国立療養所神奈川病院長)は,当時のことを次のように述べている。
「診療担当科としての小児科発足は昭和24年であるが,結核小児病棟開設は小山濠一所長の時代に小田原市や小田原保健所の申出があって,昭和22年10月,小田原市の結核児童を第15療舎に収容したのに始まったものである。昭和23年9月30日,上島三郎所長が赴任後,橋本政章技官(医長)が担当を引きついだ。以来,石田尚之,竦広太郎技官を加え診療に当った。化学療法の導入と外科療法の併用による90%強の軽快率を示し,再悪化7%強で,死亡は空洞型と結核性髄膜炎症例にみられた。」
ちなみに,この神奈川県立秦野養護学校(開設当時は通称神奈川養護学園)の変遷を職員数によって推定してみよう。
昭和23年の開設当時は,教職員4名,小学部在籍者28名,中学部在籍者38名,計66名であった。それが,昭和35年には発展して,校長杉山も教員7名,事務職員1名,作業員1名となっている。△525
同じく,兵庫県立上野ヶ原養護学校における結核性疾患児の年次別在籍一覧を掲げてみよう。
(表1.)
この表をみると,昭和33年から昭和36年にかけて,結核児在籍のピークを読みとることができよう。
病弱児の医療費は,長い期間の療養を必要とするだけに,保護者の負担がぽう大であった。生活扶助,医療扶助の制度が平和憲法によって法制化されたとはいえ,結核児が家族の中にいることにより破産寸前とな△526 る。そこで,児童福祉法の中にこれ等の児童の保護を目的として法制化をすべく,運動が始まった。誰もが安心して治療と教育を受けられる体制を確立することが,病弱教育の推進にもつながるので,この運動の実現に大きな期待が寄せられていた。
この療育給付実現運動に従事したのが,当時の国立玉浦療養所長近藤文雄(後に西多賀療養所と統合され,国立養療所西多賀病院長に就任)と.親の会会長今野正己である。王浦療養所は,骨関節結核――カリエスの専門病院として稀有の施設であった。すでに「べッドスクール」という愛称をもち,病弱教育が始められていた(昭和35年,西多賀との統合により,現在の宮城県立西多賀養護学校となる)。
「玉浦当時より親の会が結成され,病弱教育の振興に努めていた。何分にも長期に亘る療養児童をかかえ,経済的にも疲れ果てている親たちであった。初代会長今野正己氏夫妻は,近藤所長と共に『児童福祉法』の改正,療育費助成実現の請願,陳情に寝食を忘れて奔走していた。遂に昭和36年10月,これの給付が開始された。児童福祉の先鞭をつけ,これを契機として,以来福祉の拡大が次々と実現されるようになった。特筆に価する偉業といえよう。」(半沢 健,西多賀養護学校教頭)
寮育医療の実現は,結核の撲滅にどんなに大きく貢献したかは,はかりしれない。当然のように,病弱養護学校,分校,学級が時代的要請もあって増加していった。そこで,これ等の病弱教育の指針ともいうべき「学習指導病弱教育編小学部」が昭和38年(1963年),続いて中学部用が翌39年に文部省によって通達された。
わが国初の病弱教育「学習桁導要領」作成の趣旨については,次のように述べられている。(文部省「養護学校小・中学部学習指導要領,病弱教育編解説」昭和40年刊)
「養護学校が実際に設立されたのは昭和20年代の終りごろであり,そ△527 れまでは,療養所などのうちに設けられた特殊学級においても病弱者の教育が行われていた。
ところが,昭和28, 9年ごろから,昭和30年代の初めにかけてぼつぼつと養護学校が設置されはじめたが, 30年度には3校, 31年度には4校なり, 32年度は6校になったというように,その数はきわめて少なかった。その当時の施行規則の定めによれば『小学校の教育過程について学習指導の基準による』という第25条の規定が,養護学校の小学部,中学部および高等部に準用されていた。(後略)」
次第に,病弱教育を営む学校・分校および学級が増加したため,普通教育に準ずるといった立場を堅持することができなくなったのである。
新指導要領の最大の特徴は,小学部の教科に「養護・体育」,中学部において「養護・保健体育」が設けられたことである。第二は,「病弱の状態」に応じて教育課程を編成し,その基底に「養護活動」を置くといったことである。
全く新しい概念として「養護」が,ここで正式に提示された。これについて,指導要領は,次のように述べている。
養護
1) 目標
(ア) 各児童に適した生活規制を行わせて健康回復を図る。
(イ) 養護の意義を理解させ,健康回復に必要な知識・技能を養う。
(ウ) 自己の病弱の状態を自覚させ,健康回復に必要な生活規制を実践する習慣・態度を養う。
2)内容
(ア) 主として安静に関する内容
病弱の状態に応じた絶対安静・安静・休養・午睡などを中心とする諸活動△528.
(イ) 主として運動に関する内容
病弱の状態に応じた歩行,運動,皮膚摩擦などを中心とする諸活動
(イ) 主としてレクリエーションに関する内容
病弱の状態に応じた散歩,遊戯,読書,飼育,裁培,娯楽などの諸活動 (以下略)
以上のように,児童生徒の病状に対応して授業を展開するように組織化された。例を神奈川県立秦野養護学校(国立療養所神奈川病院に併設) にとってみよう。
(表2)
この指導要領は,養護体育と養護活動を新たに提示し,普通学校に準じていることが多く,「準ずる教育」といった表現でとらえていた。しかし,病弱教育の主体性を持った点,また,病弱教育の方向を確立した△529 点,実に意義の深いものであった。
全国の養護学校が核となり,病弱教育の質的向上と,組織の拡大をめざす,全国組織の結成もみることができた。そうした中で発表された指導要領は,本教育にとって,まさに干天の慈雨のようであった。その全国大会の開催の状況を表3に掲げておこう。
(表3)
内容においても,組織においても,病弱教育は,発展していった。だが,予防医学の進歩,衛生思想の普及,化学療法を含めて医学の驚異的△530 発展等が重なって,結核は年々少なくなっていった。昭和30年代後半から, 40年代前半はその過渡期であり,病弱教育の質的転換を追っていた。一応,結核撲滅運動の一環としての役割を終え,新しい疾患の収容を前にして,再び病弱教育のあり方を問いなおす時期になっていった。
4. 病弱の多様化
昭和49年厚生省による厚生白書の死亡順位の変動を掲げてみよう。結核が死亡順位の第1位を占めていたのが,昭和30年以降第5位となり,昭和32年以降次頁の表4に現われなくなっている。
当然,結核以外の慢性小児疾患の収容を考えざるを得なくなった。結核死亡率の急激な低下,結核入院患者の漸減(年々約5%の減少) という背景をひかえていた。一方,全国進行性筋ジストロフィー親の会の訴えにより,昭和39年5月,厚生省はこの研究と保護対策に取組むことを省議で決定した。その収容を全国8箇所320床,即ち,八雲・西多賀・下志津・鈴鹿・刀根山・原・徳島・石垣原の各療養所に患者の受入れ体制を指示していた。ところが,突然,近畿地区では刀根山病院には研究施設として10床,兵庫療養所に40床を受け入れるように変更された。」(笹瀬博次,国立療養所兵庫中央病院長)
これよりさき,王浦療養所と西多賀療養所が統合され,昭和35年西多賀病院の再出発が始まっていた。その時,3人の男子すべてが,筋ジストロフィー症におかされている一家が,近藤文雄所長を訪れた。当時,不治の病は国立療養所に収容できない制約があったという。しかし,あまリにも悲惨であり,「せめて医学的に不治であっても,教育だけは受けさせたい」という親子の意をくんで,入院を許可した。昭和35年5月26日のことである。教育機関が医療機関に併設されていたから実現したのである。以来,次々と筋ジストロフィー症児が入り,正式許可された時には20名を越していたという。△531
(表4-1)△532
(表4-2)△533
いずれにせよ,収容対象の病類を結核に固執することから脱けきらねばならなかった。「国立療養所は,本来,特定の長期慢性疾患医療を行うもので,これら疾患の特殊性から,いわゆる医療だけにとどまらず,福祉的措置や教育もあわせ行わなければならない宿命をになっている。」(伊藤忠雄,神奈川病院長)のである。
また当時の様子を宮城病院長畠山辰夫は次のように述べている。「このような状況の時に,西多賀病院ベッドスクール(宮城県立西多賀養護校)の教頭半沢健氏のアドバイスを受けたのであった。同氏は県下の小学校児童を調査した結果,小児喘息の患者は1,000名を越え,そのうち入院を要する者は200名に及ぶというのである。この現状が分り,私は小児喘息を主体とする病弱養護学校の設立を決意し,方針を立ててその実現に着手した。
先ず主治医を決定し,神奈川県の専門施設へ視察に派遣,国立相模原病院の無菌室の見学等を行った。そしていよいよ『小児喘息を主体とする養護学級』の設置を本格的に開始したのは昭和44年6月であった。」
兵庫中央病院でも,昭和45年4月1日より結核児童だけでなく,他の慢性疾患児童も収容することにふみ切った。
事の経過に差はあっても,昭和30年代から40年代にかけて,ほとんどの国立療養所は体質改善を図っていた。進行性筋ジストロフィー症,心疾患,腎疾患,そして骨関節疾患という多様な慢性疾患児が入ってきた。
当然,結核児の教育と,方法的にも目標からみても明らかに異なる指導体制が要求されてきた。「病類と障害に応じた教育」というスローガンが,かつての「準ずる教育」にかわって主張されるようになった。
この質的改善を図っていた頃,文部省特殊教育課教科調査官加藤安雄(現在横浜国立大学教授)が病弱教育部門を担当していた。加藤の情熱と行動力,それに加えて理論と識見は,この教育の推進に偉大な貢献を△534 した。わが国の病弱教育は文部省と厚生省とにわかれている。それに由来するさまざまの障害を根本から解消するために加藤は努力した。病弱教育は,まさに保健文化省として独立するアメリカのような行政であってこそ円滑な運営となる。養護学校発展に対する加藤の功績を忘れてはなるまい。
病弱教育に対し,病弱教育は戦後のものである。従って極めて歴史が浅い。文献も少ない。その上,結核児に対する教育がやや円滑化しそうな沂に,大きく体質改善を迫られた経過を持っている。中でも,現代医をもってしても,治癒の見込みのない筋ジストロフィー症児に対する教育も開始された。それぞれの養護学校において,その条件に応じて独創的な営みを模索する時期でもあった。
こうした折に,第12回全国病弱虚弱教育研究連盟・文部省指定研究発表大会が盛岡市において開催された。この時,医療関係者の参加を要請,始めてその分科会も持たれた。いわゆるhospital schoolの様相を提示した最初の大会であった。つまり,病弱教育を推進するためには,教育関係者と医療関係者によるプロジェクトを作りあげる必要のあることを確認した記念すべき大会と評価することができよう。
もはや結核児の教育を軸とした指導要領では現実に対応できないほど,病弱教育の内容は急激な変化をみせていた。ちなみに,宮城県立西多賀養護学校における病類別児童生徒数を次頁に掲げてみよう。もはや結核児の占める割合は極めて少ないことがわかる。
次に兵庫県立上野ヶ原養護学校における結核ならびに筋ジストロフィ一症児以外の疾病の年次別在籍の変遷をみてみよう。昭和45年4月1日付で,これ等小児慢性疾患児の収容を宣言してから,急速に多くなっていくようすを容易に理解することができる(表6)。△535
(表5)△536
(表6)
このように病類が年ごとに多様化していくにつれ,指導要領の改正が急務となってきた。
昭和46年(1971年) 3月13日付文部省告示第79号をもって,「(病弱教育)小学部,中学部学習指導要領」が公示された。続いて昭和47年(1972年)「高等部学習指導要領」の公示をみた。
新指導要領改訂の基本方針として,次のように述べられている。(「養護学校一病弱教育学習指導要領解説」文部省,昭和49年刊)
i) 教育目標を明確にし,障害を克服し,積極的に社会に参加していくための能力を養うこと。△537
ii) 児童・生徒の障害の種類,程度および能力・適性等の多様化に応ずるため,教育課程の弾力的な編成が行われるようにすること。
iii) 心身の発達上の遅滞や欠陥を補うために必要な特別の指導分野を充実し,心身の調和的発達を図ること。
新指導要領は今までのものにないいくつかの新しい内容をふくんでいる。次にその特徴を述べてみよう。
i)「養護・訓練」を領域として設定したこと。
学校教育は, 3つの領域から成立っている。教科・道徳・特別活動の3領域である。しかし,特殊教育諸学校においては,これに「養護・訓網の領域を設置した。
Ii)児童生徒ひとりひとりの障害の程度,病類・能力・適性等に対応した教育課程を弾力的に編成するよう明記したこと。
従来の学習指導要領は,学年を単位として教育課程を編成することになっている。養護学校においては,飽くまでも児童生徒個々の特性に対してこれを編成するようにしている。いまだかつてあったためしのないことであろう。
iii) 「分科・統合」をうたっていること。
領域内での分科・他領域との統合という概念は,新指導要領によって始めて明示された。
iv) 障害児どうしの交流だけでなく,一般の児童生徒との交流を盛んにし,社会適応性の涵養を主張したこと。
人生で最も陶冶性のある時期に,障害児どうしだけで人間関係を持てば,社会適応性がますます失なわれていく。形態は多様であれ,何らかの形で,より多くのものとの間で交流(integration)を計画・実施する必要がある。
以上の特徴の中でも,領域としての「養護・訓練」は特殊教育の核で△538 ある。障害を持つが故に,とりわけ保護または訓練を強めなければならない内容を,これに集約してある。そのおよその内容は次のようになっている。
第1.目標
児童または生徒の心身の障害の状態を改善し,または克服するために必要な知識,技能,態度および習慣を養い,もって心身の調和的発達の基盤をつちかう。
第2.内容
A.心身の適応
1.健康状態の回復および改善に関すること
2.心身の障害や環境に基づく心理的不適応の改善に関すること
3.障害を克服する意欲の向上に関すること
B.感覚機能の向上
1.感覚機能の改善および向上に関すること
2.感覚の補助的手段の活用に関すること
3.認知能力の向上に関すること
C.運動機能の向上
1.肢体の基本動作の習得および改善に関すること
2.生活の基本動作の習得および改善に関すること
3.作業の基本動作の習得および改善に関すること
D.意思の伝達
1.言語の受容技能の習得および改善に関すること
2.言語の形成能力の向上に関すること
3.言語の表出技能の習得および改善に関すること
第3. 指導計画の作成と内容の取り扱い
1. 指導計画の作成に当たっては,次の事項について配慮するものと△539 する。
(1) 個々の児童または生徒の心身の障害の状態,発達段階および経験の程度に応じて,それぞれに必要とする第2の内容の具体的な事項選定し,個別にその指導の方法を適切に定めるようにすること。
(2) 各教科,道徳および特別活動における指導と密接な関連を保つようにし,組織的,計画的に指導できるようにすること。
(3) 児童または生徒の心身の障害の状態により,専門の医師およびその他の専門家と密接な連絡をとり,適切な指導ができるようにすること。
2. 第2の内容に示す事項の取り扱いに当たっては,下記(1)および(2)に示す内容ならびに肢体に機能の障害を有する児童または生徒に対しは(3)に示す内容のまとまりに組織して指導計画を作成し指導を行ことが望ましい。
(1) 内容のAの1を中心として,次の内容のまとまり(以下これを「養護」という)を組織し,計画すること。
ア 自己の病弱・身体虚弱の状態の理解
イ 健康状態の回復,改善を図るために必要な生活様式の理解
ウ 健康状態の回復,改善を図るために必要な諸活動
(2) 内容のAの2および3を中心として,次の内容のまとまり(以下しを「心理適応」という)を組織し,計画すること。
ア 病弱,身体虚弱および環境からくる情緒不安の除去
イ 健康状態の回復改善の意欲を高め,障害を克服しようとする習慣,態度の育成
(3) 内容のAの2および3を中心として,次の内容のまとまり(以下これを「肢体機能の訓練」という)を組織し計画すること。
ア 肢体機能の改善△540
イ 残存機能の維持向上
ウ 代償機能の開発
工 生活の基本動作の確立
オ 作業の基本動作の確立
3. 上記2に示す養護,心理適応および肢体機能の訓練の指導計画の作戎に当たっては,特に,次の事項について配慮するものとする。
(1) 必要に応じて,養護,心理適応および肢体機能の訓練との密接な関連を図ること。
(2) 養護,心理適応および肢体機能の訓練には,児童または生徒の心身の障害の状態および能力・適性等に応じて,第2の内容に示すBおよびDのそれぞれから必要とする具体的事項を加えること。
4. 指導に当たっては,個々の児童または生徒の心身の障害の状態および能力・適性等に応じた具体的な目標を明確にし,児童または生徒の意欲的な活動を促すようにすることが必要である。
5. 養護・訓練の時間の指導は,専門的な知識,技能を有する教師が中となって担当し,全教師の協
力のもとに,効果的な指導を行うようにすることが必要である。
今後10年は改訂しなくてもよいような指導要領をという目標のもとで作成されたと聞いている。未来への志向が各所に見られる。歴史的な指導要領といっても決して過言ではあるまい。
一方,昭和46年4月,札幌市立山の手養護学校(国立療養所西札幌病院に併設)において,全国初の高等部が設置された。また,新潟県立柏崎養護学校(国立新潟療養所に併設)でも同じ年,筋ジストロフィー症児を対象とする高等部が設置された。続いて,大阪府立茨城養護学校刀根山分校(国立療養所刀根山病院に併設),千葉県立四街道養護学校(国立療養所下志津病院に併設)にも高等部の設置をみた。このほか,愛知△541 県立大府養護学校(国立療養所中部病院に併設),鳥取県立米子養護学校(国立米子病院に併設),広島県立原養護学校(国立療養所原病院に併設),長崎県立大村養護学校川棚分校(国立療養所川棚病院に併設)等にも高等部が設置されている。合計9校である。なお,今後,これの設置を計画している養護学校も多いと聞いている。こうした折でもあり,昭和47年10月27日付で,文部省は新たに養護学校(病弱教育)高等部学習指導要領を定めた。その意義もまた実に大きいといわねばなるまい。
病弱教育の体制も種々の曲折を経ながらも逐次固まりつつある。ちなみに,やや古い資料だが,全国病弱虚弱教育研究連盟加入校の実数を掲てみよう。
(表7)
戦後まもなく呱々の声をあげた病弱教育も,全国くまなく設置されるようになった。まさに隔世の感が深いといえよう。最も新しい資料として,昭和49年5月1日現在の調査による病弱養護学校の数は表8のようである(全国養護学校長協会「全国養護学校実態調査」による)。
(表8)
わずか1年の間に,病弱養護学校が11校も増加していることがわか△542 る。躍進とは,まさにこのことであろう。この驚くべき状態を生んだ原因は,昭和48年11月20日付で公布された次の政令によると考えられる。
政令第339号
学校教育法中養護学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関する部分の施行期日を定める政令
内閣は,学校教育法(昭和22年法律第26号)第93条第1項ただし書の定に基づき,この政令を制定する。
学校教育法中同法第22条第1項及び第39条第1項に規定する養護学校における就学義務並びに同法第74条に規定する養護学校の設置義務に関する部分の施行期日は,昭和54年4月1目とする。
まさに歴史的なことである。戦後の学制改革に匹敵する一大変革の方針が提示されたのである。これに充分対応できる学習指導要領も公布され,着々と義務就学への歩みが続けられるようになった。
一方,作家水上勉が某誌に「拝啓池田総理大臣殿」の公開書簡文を掲載した。重症心身障害児の福祉の貧困に対する訴状ともいえた。これをひとつのきっかけとして,昭和41年度以降,全国の国立療養所の中に,その収容施設が設置されるようになった。そして,昭和49年度において,75箇所の国立療養所に7,520床の設備がなされるようになった。
昭和54年度以降には,これらの重症児に対する教育も義務化されることなる。当然,従来の学校教育という概念の変革が要求されることであろう。こうした流れにそって,すでに福島県須賀川養護学校(国立療養所福島病院に併設)長野県若槻養護学校(国立療養所東長野病院に併設)福島県の国立翠ヶ丘療養所や高知県等において,重症児の一部のものに対する学校教育を実施している。病弱教育は, 54年度義務就学を前にして,再び体質改善を迫られているといえよう。△543
5. 義務就学をひかえて
文部省は,昭和46, 47年の両年にまたがって,就学猶予もしくは就学免除等によって長く学校を休んでいる児童生徒に対して,訪問教育を実施し,その間題点やあるべき姿について研究するよう指定をした。国立療養所西別府病院内にある大分県立石垣原養護学校,盛岡市立緑が丘小・黒石野中学校みどり学園分校(社会福祉法人みちのくみどり学園内) 他1校が,この指定を受けた。
みどり学園は,市内の在宅病弱児に対する訪問教育を行っていたが,石垣原他1校は,別の病院に入院している児童生徒に対して教師が訪れ教育するというものであった。訪問教育もこの両者の形態に大きな質の相違のあることが明らかにされた。つまり,石垣原方式では,その訪問設内に養護学校もしくは養護学級を開設し,常時教師が駐在して教育をすれば,訪問教育よりさらに効果ある内容のものが可能である。かし,みどり学園方式の形態が訪問教育の本来のあり方とみるむきが強かった。
このようにして,各県において,訪問教育制度が採用されるようになり昭和和40年代後半は,これの拡充に力を入れるようになった。ちなみに,宮城県における就学猶予・免除者の実態について掲げてみよう(表9)。
このように,訪問教育もようやく軌道にのってこようとしている。54年の義務就学の体制づくりに各都道府県が努力しつつあるのが現状であるといえよう。
さて,こうした流れの中で,病弱養護学校は,どうした方向のもとで運営されなけれぱならないか。第3の変革を迎えようとしている現在,その方向をつかむため模索しているともみることができよう。
まず,病弱教育は,幼稚部から高等部までの一貫した教育であることが縦の系列として考慮されねばなるまい。病類が多様化し,結核中心の△544
(表9)△545
状態から訣別した時点から,高等部設置がひとつの目標とされていた。キンジストロフィー症をはじめ,難病児の収容を国立療養所で開始したおり,当然,義務教育終了後のこれらの疾病をもつ児童生徒のあり方が,療養所と養護学校の間で問題とされていた。そのひとつの解決の方向が,高等部の設置とみることもできよう。
障害児については,早期発見と早期治療が原則のひとつとされているという。ために,就学前の病弱児が国立療養所に収容されている。これらの児童は,人格形成上,もっとも重大な時期に家庭から離れた生活を余議なくされている。躾や生活の基本的訓練を,意図的であるにしろないにしろ家庭はこれを実施している。これから隔絶されていることは決して好ましいことではない。そして,このような訓練が医療関係者,とりわけ看護婦の肩にかかるとすれば,本来の業務に影響することは当然である。どうしても幼稚部の設置が要望される。しかし,昭和49年度において,わずかに県立美方養護学校(国立福井療養所に併設)に幼稚部学級が用意されているに過ぎない。他には,国立療養所西多賀病院の宮城県立西多賀養護学校において,非公認ながら幼児学級の運営に病院職員と共々に従事していることが特筆されるだけのようで,将来の課題といわねばなるまい。
横の系列として,病弱養護学校は次の5つの形態をとる方向で今後の歩みを進めてはと考えられる。
第1に,病類の多様化に対応した学校校舎と施設設備のもとで,関係各機関,なかでも医療機関との密接な連携のもとで教育を進めること。結核児が主として就学していた時代の教育条件(校舎・諸施設設備)と現在では,かなりの較差がある。加えて,将来重症心身障害児の就学が予想される養護学校においては,その実態に相応して教育諸条件のあり方等について,根本的に吟味しなければなるまい。この時,医療と教育△546 の完全に分離できない側面が多分にあるので,そのプロジェクトの編成が予想されている。
第2に,べッドサイド方式(床上学習とも呼ばれている)の強化が挙げられよう。就学の義務化をまつまでもなく,病状の変化に応じて,教育が弾力的に営まれるよう特に配慮する必要がある。この場合も,医療関係者との緊密な連携を得ないと,これの強化を望むわけにはいかない。
第3として,寄宿舎制度の拡充が課題とされる。すでに,山口県立豊浦養護学校(国立療養所山口病院に併設)では,寄宿舎を用意している。このような形態が今後増加すると考えられる。その理由として,入院治療の終了が直ちに普通学校への復帰を意味しない虚弱児がいること,入院治療は必要としないが,医療機関に附設された施設の中で就学した方がよいと考えられる病類のもの(例,血友病)などが寄宿舎へ入ることが考えられている。
第4に,通学制度の採用も考慮しなければなるまい。義務就学と相まって,従来通院の状態にある児童生徒に,これと並行して就学も可能な状態を保証するとなると,こうした形態も予想する必要があろう。
第5として,訪問教育の強化拡大を挙げなけれぱなるまい。訪問教育,実施する教師が個々にこれに従事する方式は,決して理想的とはいい得ない。教師相互の研鑽の機会がなく,また教育材料の整備も集中管理方式でないため,貧しくなりがちである。また,児童生徒の側からみた場合においても,限られた教師との接触よりも,より多くの教師との接触の機会を与えることが好ましいこともある。それに,スクーリングの機会も是非もうけたいものである。つまり,集団訓練の場である。
こうした点からみると,養護学校が訪問教育のセンターとしての役割を果すことが,いかに必要であるかが理解されるであろう。教師集団による討議教材の集中管理と利用,スクーリングの計画的な実施等が,△547 センター方式によって実現可能となる。従って,こうした形態が病弱養護学校のあり方のひとつとして浮びあがってくることが予想されよう。
以上,予想される5つの形態について述べた。いずれにおいても,今まで以上に医療機関との連携の度合いが強化されなければ,実現不可能なことばかりである。中には,重症心身障害児の教育のように,医療と教育の完全な分離が到底不可能な分野もある。むしろ,こうした傾向がすます増大する方向に進んでいるといっても誤りではないようにも考えられる。
国立療養所兵庫中央病院では,こうした状況を適確に把握し,次のようにその方針を樹てている。即ち,同院長の笹瀬博次によれば,
「近年,全国的に難病が増加の傾向にあるといわれ,厚生省において,数年前から,本恪的にこれら疾患の医療対策が進められているが,文部省においても養護学校の義務制については昭和48年11月政令を公布し昭和54年度から実施の運びとなっている。
当病院においても,慢性疾患や難病の児童たちが快適な療養と教育を続けていくための環境づくりに努力し,全病棟地域を将来『疾患児センター』として完備した施設とし,優れた教育内容を誇る養護学校とも緊密に連携して,その発展を図っていきたい。」
昭和54年度の義務就学をひかえ,単に教育関係者だけでなく,医療関係機関においても真剣にこれを受けとめ,そのあるべき姿,あらねばならぬ姿を求めつつ,真剣にとりくみ始めたといえよう。文字通り,医療と教育――療育の新しい概念づくりに立ちあがったすばらしい姿としてこれを高く評価する必要があろう。
6. おわりに
激動の1940年代後半に端を発した病弱教育は,短い期間に再三にわたる体質改善を迫られながらも,不死鳥のごとくはばたいてきた。そのあ△548 しどりをたどったわけだが,何分にも絶対的な資料の不足,加えて執筆の力の不足により,史的考察を完全に果すことができなかった。組織的な調査と資料の集収のもとで,再度本分野への検討を加えられることを期待してやまない。
(宮城病院名誉院長 畠山 辰夫,西多賀養護学校教頭 半沢 健)
(寄稿原稿)
兵庫中央病院における小児病棟と筋ジス病棟の生いたちと,兵庫県立上野ヶ原養護学校とのかかわり………笹瀬 博次(兵庫中央病院)
教育(養護学校)………………………伊藤 忠雄(神奈川病院長)
宮城病院小児病棟のはじまり……………畠山 辰夫(宮城病院名誉院長)
松風学園………………吉田 綾子(宮城病院)
広島県立原養護学校の概要………………河野 七郎(原病院長)
養護学校・学級・訪門教育等教育上の諸問題(教育の立場から)…………丹羽 健二 (北海道立八雲養護学校教諭)
〃 (医療の立場から)……………篠田 実(八雲病院長)
赤江療養所養護学校の療養と教育に関する諸問題……林 栄治(赤江療養所長)
小児慢性疾患児の教育とその間題点…篠村 晨(札幌市立山の手養護学校教諭)
(参考資料)
養護学校…………………………………………山口病院
〃 …………………………………………大府荘
島根療養所養護学校白兎学園のおいたち……鳥取療養所
(参考文献)
・辻村泰助監修 慶応通信刊 昭和48年
「欧米と日本の特殊教育――その制度と現状」
・三木安正,他著 第一法規刊 昭和43年
「特殊教育事典」
・加藤安雄 編著 明治図書刊 昭和48年
「講座『心身障害児の教育』」△549
・全精連刊 昭和49年刊
「病弱教育」
・全国養護学校長協会編 昭和49年刊
「全国養護学校実態調査」
・文部省 昭和40年刊
「養護学校小学部・中学部学習指導要領一病弱教育編解説」
・文部省慶応通信刊 昭和46年刊
「殊教育諸学校小・中学部学習指導要領」
・文部省東洋館出版社刊 昭和49年刊
「養護学校(病弱教育)学習指導要領解説」
・養護学校学校要覧・研究紀要等各種
□随想
◇比企員馬 1976 「福島療養所の想い出」,国立療養所史研究会編[1976a:623-629]
[…]
私のいう後期,すなわち本当の後期は,新憲法施行後すなわち,昭和22年5月以降ということになる。私の感触では,東北ブロックの国立療養所施設の中でも,北は青森,南は福島が,一番暗く険悪な雰囲気が漂っていたように思う。当時,福島県内には,平事件とか,松川事件とか,有名な事件が相次いで起った。東北6県でもそれぞれ県民性の違いがあるであろうが,大方の国立療養所は後期に各県の県民に開放されたのであるから,当然国立療養所内部にそれぞれの思想的な△626 惨透があったことは当然と思う。当時須賀川町の中にも共産党の党員もおり,細胞も出来た。福療の内部にも,患者,職員を問わず,ぼつぼつ細胞が出来てきて,例の難解な「マルクスの資本論」を研究し出した者もいる。国内全般の大勢は,軍国主義から急転直下,自由主義,民主主義へと激変していた。「責任の裏づけのない自由はない」等と口はばったい発言でもすると,どやされるに決っていたものである。
全国的に横のつながりのある日本患者同盟(略して日患同盟)も出来た。新憲法による「結社の自由」という条項によったものであろう。むろん本省から公認された集団ではない。この日患同盟の支部が福療の病棟内にも出来た。終戦直後,本省から通牒をもって,軍の放出物資が保管転換された。患者輸送に必要なガソリンや物資の輸送に必要なトラック,薬品としては治療上必要なブドウ糖のような必需物資である。これを嗅ぎつけたのが町の共産党員並にその細胞である。内外呼応して所長室につめかけた一幕もあった。要は,民間の隠匿物資と誤認して地元警察の令状もなしに,家宅捜索をし物資の摘発をしようとしたのである。細胞の一人が話の途中で,突然たち上がり,なぐりかかろうとした。K大出身のインテリの党員が,これを制止してくれたので,やっと私はなぐられずにすんだ。不正な隠匿物資でない旨あれこれ説得して,やっとお引きとり願った思い出がある。
このような悪夢のような厭な思い出は,いくらでもある。傷痩軍人の着る夏冬の紋章入りの着物を入れて置く倉庫と,洗濯場を兼ねた大きな建物一棟を,従業員のアイロンの不始末から,一夜にして焼失してしまった矢火。[…]△627
[…]
同僚の御親交をいただいた所長さん方に,私は退官間際に愚痴がましく次のようなことを咳やいた記憶がある。「僕には辞任の理由は公,私にわたっていろいろあるが,一番残念に思うのは三『アカ』による追放である。一つは火事の『アカ』,もう一つは集団赤痢の『アカ』,最後の一つは,高いレべルの共産主義とは似ても似つかない無責任な低級『アカ』思想,ともかく精根尽きたというのが,僕の心境なのだよ。」
■言及
*作成:
篠原 眞紀子
・
立岩 真也
UP:20160116 REV:20160218, 0327, 28, 0407, 10, 11, 15, 0501, 0615, 20180718
◇
医学史・医療史
◇
病者障害者運動史研究
◇
身体×世界:関連書籍
◇
BOOK
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇