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『戦後沖縄史』

新崎盛暉 19760110 日本評論社,372p.

last update: 20120806


■新崎盛暉 19760110 『戦後沖縄史』日本評論社,372p.

■内容

本書において試みようとしたのは、沖縄戦後史の中間総括である。ここでは、通史的記述をめざしてはいない。むしろ、よりよい戦後史が書かれるためのたたき台の提供、できるだけ多くの論争点の発掘に重点を置いている。それは、これまでの沖縄戦後史の分析・記述に際しては、前提となるべきこうした作業が、もっともおろそかにされてきたことの一つだと考えられるからである。(「はしがき」より)
(「BOOK」データベースより)


■目次

はしがき
序章 時期区分について
第一章 軍事占領初期の動向――45年4月〜49年後半
第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半〜52年4月
第三章 暗黒時代の闘い――52年4月〜56年6月
第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月〜58年後半
第五章 相対的安定期と思想的変容――58年後半〜62年1月
第六章 自治権拡大問題と政治的再編――62年2月〜64年後半
第七章 ベトナム戦争拡大のなかで――64年後半〜67年2月
第八章 日米軍事同盟の再編と大衆闘争――67年2月〜69年2月
第九章 支配体制移行期の思想――69年2月〜72年5月


■引用


■序章 時期区分について
「2・4ゼネストへと登りつめて行くが、その挫折によって終止符を打たれる。復帰運動に集約された大衆運動は、ここに一つのサイクルを終えるのである。」(3)

「日本政府は、沖縄「返還」という「国民的願望」を先どりしつつ、日米軍事同盟再編強化のための交渉に向かって、一路驀進し、ようやく72年5月15日の沖縄返還へとたどりつくのである。この間、70年12月20日のいわゆるコザ暴動、71年5月19日の沖縄返還協定粉砕ゼネストなど、2・4ゼネストの挫折を形態的あるいは思想的に克服しようとする動きが、自然発生的にあるいは組織的にあらわれたが、ついに政治の流れを変えるにはいたらなかった」(3)
●復帰運動の終焉としての1969年2・4ゼネスト、とその乗り越え

「日米軍事同盟(日米安保体制)の再編強化に反対するはずの60年安保闘争は、沖縄への公然たる核持ち込みに対決することもなく、核持ち込みに反対する住民の意思表示(立法院決議)と連帯することもできなかったのである(このことの意味は、68年のB52常駐化が、本土においても一定の反響をまきおこしたことと対比してみればいっそう明らかになる)。
 60年安保闘争を総体としてみると、新安保条約の適用地域(共同防衛地域)に沖縄を含めることは、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を増大することになる、という段階にとどまっていて、米軍事戦略体制のカナメとしての沖縄をどうするか、米軍事支配下で苦闘する沖縄人民とどう連帯するか、という段階までは、ほとんど考え及んでいないのである。」(6)
「「本土には安保闘争があって沖縄闘争がなく、沖縄には復帰運動があって安保闘争がないという状況が存在した」といわざるをえないのである。」(7)
●60年安保闘争における「沖縄」の不在


■第一章 軍事占領初期の動向――45年4月〜49年後半

1946年1月29日 GHQ「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」: 北緯30度以南の南西諸島を日本から分離する方針(11)

1946年6月 マッカーサー「沖縄諸島は、われわれの天然の国境である」発言(15)
「このマッカーサー発言で重要な点は、およそ三つに整理できる。
 第一は沖縄人は日本人ではない、という沖縄(人)観である。」(15)
「第二点は、ヤルタ協定と沖縄の筧である。[…]沖縄をアメリカが保有するかたちの講和条約を想定している。」(15)
「第三の問題点[…]日本の軍備放棄とアメリカの沖縄支配(空軍基地化)を関連づけている。」(15)

1948年5月9日 米軍政府『琉球列島における統治の主体』

●冷戦体制の形成: 日本と沖縄の分離、異なる統治(対日占領政策と沖縄占領政策)、異なる位置づけ

・政党の動き(20−21)
1947年6月 沖縄民主同盟結成(仲宗根源和を中心に)
1947年7月 沖縄人民党結成(浦崎康華、瀬長亀次郎、兼次佐一を中心に)
1947年9月 沖縄社会党結成(大宜味朝徳を中心に)
1946年3月頃 奄美大島自治同盟結成
1947年1月 奄美共産党結成(中村安太郎、林義巳らを中心に)
1949年8月 共和党(奄美、反共政党/向井文忠を中心に)

・諸政党のスローガン(21−22): @民主化(ポツダム宣言に求める)、A占領米軍に対する協力の姿勢(解放軍規定)、B独立論的志向(人民自治政府の樹立など)

▼新里恵二「現代沖縄の歴史」『歴史評論』1957年1月号.
▼国場幸太郎「沖縄の日本復帰運動と革新政党」『思想』1962年2月号.
▼松田清『奄美大島日本復帰運動史料』奄美史研究会、1968.
▼「沖縄現代史への証言1 宮良長義と八重山民主化闘争」『新沖縄文学』26号、1974年10月.

「この時期[1950年]は、すでに朝鮮戦争を間近にひかえて、日本共産党と連合国(米)軍との関係も険悪化してきていた時期ではあった。しかし、沖縄においては、占領米軍の反共攻撃は、まだ表面化しておらず、人民党と米軍の関係も悪化してはいなかった。」(26)
●朝鮮戦争の存在

「沖縄における独立論は、どちらかといえば沖縄を中心に奄美も含めた、いわば大琉球独立論であった。[…]奄美の独立論が志向していたのは奄美人民共和国であって、琉球人民共和国ではなかった。また、日本本土におけるそれぞれの出身者の組織も、沖縄(人)連盟と奄美連盟(連合)、沖縄青年同盟と奄美青年同盟というぐあいに、別個であった。のちの復帰運動(これも奄美がはるかに先行した)も別々にすすめられた。」(27)

「これ[民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体]は何も沖縄の革新政党にかぎられたことではなかった。日本共産党や日本社会党にも、おおかれ少なかれ、共通している現象であった。」(28)
→1946年2月 第5回党大会で採択 共産党の沖縄人連盟あて「沖縄民族の独立を祝う」メッセージ
●本土革新政党の民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体の共有

「日本固有の領土である沖縄をアメリカが支配しているのは、ポツダム宣言に違反する、という見解が一般化していくのは、1951年の講和会議前後、とくにソ連が、アメリカの沖縄支配をポツダム宣言違反として批判するようになって以降のことである。」(30)
▼ポツダム宣言
▼カイロ

「沖縄人民党は、51年1月28日の拡大中央委員会で日本と連合国との講和は、世界平和の観点からみて、全面講和でなければならない、そして琉球の帰属は、琉球人民の意志によるべきである、という基本的態度を決定した。ついで、同ん年2月13日の拡大中央委員会で、帰属問題に対する具体的態度として、日本復帰の方針を決定した。」(33)
「沖縄人民党の独立論にしてからが[…]49、50年段階の瀬長亀次郎の論文にみられるような、日本との連邦制も可能的形態として含みうる自治共和国のイメージまで多様である」(41)
・米軍犯罪の増加→解放軍規定の批判→復帰路線へ
・日本政府への戦争被害の賠償金支払い要求(人民党)
●人民党の復帰路線への転換
●冷戦体制の形成→軍事化。反軍事化としての復帰路線の前景化。

▼沖縄タイムス編『沖縄の証言』

1951年10月 日本共産党第五回全国協議会「沖縄・奄美大島・小笠原諸島同胞に訴える」
「日本の国土であり、諸君が生まれ、育ち、生活している沖縄・奄美大島・小笠原諸島を祖国から切り離し、アメリカの統治に移している。[…]日本の国民は、歴史にかつてない重大な危機に直面している。この危機を克服する道は、アメリカ帝国主義者とその手先どもの日本に対する占領制度を取り除き、諸君を祖国から引き離した不正な講和条約を破棄する以外にない」(45)
●日本共産党の方針が独立論から復帰(返還)論に転換。アメリカ帝国しぃぎと日本の批判、講和条約の廃棄。

・仲吉良光の復帰論(58〜): 日本との文化的一体感、皇室への敬愛


■第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半〜52年4月
・中国革命の成功(1949年10月1日中華人民共和国成立)が決定的となり、沖縄の恒久基地建設の本格化 + 日本の「軍需工場として再建」(62)→沖縄基地建設予算の計上(61)、ガリオア援助(64)
●〈冷戦体制→沖縄の軍事化〉という枠組み

・基地建設: 1949年11月末 鹿島建設、清水建設、間組、大成建設、竹中工務店、納富建業などの来沖→「沖縄ブーム」、「沖縄景気」

1950年6月 朝鮮戦争開始→「朝鮮特需」

1950年12月8日 総司令部渉外局 「琉球列島米国民政府に関する指令」(50・12指令)
「マッカーサー元帥は、[…]戦略的価値ある沖縄を含む琉球諸島に対する管理を強化する計画の下に、琉球諸島の民政長官に就任、北緯30度以南の琉球諸島の米国の民事行政に、責任と権限をもつ[…]。軍事上の安全保障を妨げない範囲で琉球諸島の一般住民の経済的、社会的福祉を増進する方針である。[…]住民は占領目的に反しない限り、言論、集会の自由その他民主主義国家の基本的自由を保障される。」(67−68)
→半永久的な軍事基地の確保を前提にした軍用地政策の開始

1945年11月 沖縄人連盟発足 → 1949年10月 沖縄連盟へ改称
「沖縄人連盟という名称が独立論的思想と結びついていたこと、この名称をきらう復帰思想の力が連盟内で大きくなってきたことを意味していた。」(75)
「50年も半ばになると[…]日本本土在住沖縄出身者の動向は、ほぼ復帰一本にまとめあげられていた。」(75)
●在本土沖縄出身者の復帰路線化。朝鮮戦争間近のタイミング。

・復帰促進期成会
「基調は、あくまで文化的復帰論であった。そればかりか、全面講和や基地反対といった政治的主張を積極的に排除しようとしていた。」(78)

「沖縄の経済的自立が困難であるという認識は、独立論者も、復帰論者も共通していた。しかし、この困難性を乗り越える道を、独立論者は、アメリカの援助に求め、復帰論者は日本復帰に求めた。このころには、すでに解放軍への幻想は完全に破れ去っていた。一時的、断片的には、一般民衆に、日本軍との異質性を感じさせることもあったアメリカ式ヒューマニズムは、横行するグロテスクな米軍犯罪の前にまったく色あせていた。民衆の基本的諸権利は剥奪されたままであり、高圧的な支配者の恣意的政策(たとえば、食料の大幅値上げ、食料配給停止事件)は民衆の反発と権利意識を強めていた。そして経済的にも、多くの民衆は窮乏状態にあった。否定的現実のなかにおかれていた民衆は、文化的復帰論を手掛かりにしながら、そこから脱却する道を、日本復帰の方向に求めつつあった。」(79)
●経済的危機=窮乏化からの乗り越えとしての@アメリカ援助、A復帰。

・差別論の後景化(80〜): @全面否定(仲吉良光)、A階級論=軍閥政府への矮小化(瀬長亀次郎)
「51年段階の復帰論者たちにとって、差別は、すでに清算ずみの過去の問題であり、もはやとるにたらない問題だったのである。」
●表面上の言説はともかくとして、人びとの何面はどうなのか。
▼瀬長・木下順二対談『朝日ジャーナル』1967年11月19日

・講和論議と沖縄
「本土における、講和論議は、全面講和、中立、軍事基地化反対、再軍備反対を中心に展開されていた。社共両党、平和問題懇談会等の主張は、すべてこの四点に含められた。領土問題、あるいは、沖縄人民との連帯の問題は、51年の前半まではほとんどとりあげられていなかった。それでも講和会議の直前になると、この問題がようやく重要視されるようになってきた。」(87)
「一方、仲吉良光たちは、日本本土と同様に沖縄にも米軍の駐留を認めることを前提にした日本復帰をとなえていた。」(87)

■第三章 暗黒時代の闘い――52年4月〜56年6月
「1952年4月28日、対日平和条約の効力が発生すると、条約第三条によって規定された沖縄の地位を前提として、アンザス、米比、米韓、米台などの軍事条約網が張りめぐらされていく。」(90)
「沖縄は、個別的軍事同盟条約のカナメとしての役割を担わされたのであった」(92)

「ダレスやニクソンの沖縄無期限保有の言明を引きついで、アイゼンハワー米大統領は、54年年頭の一般教書において、「沖縄のわれわれの基地を無期限に保持するつもりである」と述べた。[…]対日平和条約第三条によって、沖縄支配を“合法化”したアメリカは、沖縄支配の目的を国策の上でも鮮明にした。」(96)
▼平和条約第三条

1951年 日本復帰促進期成会 → 1953年1月 沖縄諸島祖国復帰期成会として再建

1952年6月 日本道路会社(清水建設の下請け会社)ストライキ: 組織的労働争議のはじまり。人権的闘争的色彩の濃さ。

1953年5月 第二回メーデー 土地と利上げ絶対反対、土地収用法の即時撤廃、植民地化教育反対、琉大学長・副学長の即時罷免、軍事基地化反対、外国軍隊の即時撤退(121)

1955年1月13日〜 朝日報道(「米軍の『沖縄民政』を衝く」ほか)
反響の声「同じ血をひく日本民族が私達と手をにぎりあって闘ってくださることを信じたからです。[…]私達沖縄の人は、同じ血をひいた日本民族であるということ[…]私達ともっともっと話し合って沖縄住民の現状をくわしく知ってもらいたいこと。」(139−140)
「朝日報道は、暗黒時代の沖縄に厚くたれこめていた暗雲を切り裂いて、閉鎖された沖縄社会にさし込んだ一条の光であった。」(140)
「沖縄島民は、われわれの同胞である。」『朝日新聞』社説「沖縄民政について訴える」1955年1月14日
●朝日報道のインパクトの大きさ。同胞意識からの島ぐるみ闘争への共鳴。

▼沖縄県学生会編1954『祖国なき沖縄』


■第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月〜58年後半
1956年6月 プライス勧告骨子発表。市町村住民大会。第二回住民大会(6月25日、10万人@那覇、5万人@コザ)

「いまやまったく異なった状況が生み出されていたのである。島ぐるみ闘争は、プライス勧告が四原則を否定したことに対する反発であるという意味においては、たしかに土地闘争であったし、四原則はあくまで軍用地問題に関する要求であったけれども、それは、暗黒時代に抑圧されていた人民のさまざまな怒りを吸収することによって、島ぐるみ闘争たりえたのである。」(148)
「島ぐるみ闘争の爆発とともに、一挙に表面化した注目すべきスローガンは、国土防衛論、領土権防衛論である。」(148)
1956年6月14日 土地連合会総会の決議「領土権を死守する以外に道はない」(149)
1956年6月15日 沖縄教職員会緊急理事会「寸土たりとも我国土をうばわれぬよう断固とした政策を講じてほしい」(149)
四者協日本政府宛要請電「沖縄の軍用地問題は日本の領土主権を侵し全住民の死活に関する。土地を守り国土を守るために必死の決意をもって結束している日本住民の保護は、日本政府の責任たることを銘記し、強力なる対米折衝を切望す」(150)
「国土防衛論、領土権防衛論が、一挙に表面化してきたのは、この島ぐるみ闘争が、復帰思想によって支えられていたことを示していた。」(150)
●島ぐるみ闘争において、復帰運動を背景とした、国土防衛論のせり上がり。

「島ぐるみ闘争のナショナリズムは、日本本土においても、かなりの反響をよびおこした。とくに、新聞の投書などに示された一般民衆の民族的共感は、当時(旧安保体制下)の日本の状況と即応しながら、もっとも身近なところで沖縄を受けとめていた。」(153)
→▼『沖縄問題二十年』
「島ぐるみ闘争を、もっともナショナリスティックな側面からとらえたのは、共産党であった。[…]『アカハタ』号外(56年6月30日)のトップには、「国土死守、“静かなる闘争”、燃えたぎる日本民族の心」という見出しがかかげられていた。
 だが、一般民衆の民族的共感は、政治的に有効なかたちで、組織化されたわけではなかった。奇妙なことに沖縄問題は、超党派的に取り組まなければならないということが、あらゆる政党や団体に共通の前提となっていた。なぜならば、沖縄の闘争が、島ぐるみ闘争であり、超党派的なものだったからである。」(154−155)
●本土におけるナショナリスティック/民族的共感
「島ぐるみ闘争の爆発は、爆発と同時に沖縄をこえる広がりを示した。本土民衆の沖縄によせる共感は、沖縄返還(第三条破棄)要求の運動を組織化するところまでは発展させられなかったが、それでも、全国各地で沖縄問題を中心とする大衆集会が開かれ、無数の「沖縄を守る会」が誕生したことは、それまでの日本戦後史における沖縄問題の完全な欠落との対比において注目に値する。
 これは、当時の日本が、それこそ屈辱的な不平等条約である(旧)日米安保条約やそれに付属する行政協定のもとに置かれており、そうした状況に対する反発として内灘から砂川へと発展した反米基地闘争のナショナリズムが、島ぐるみ闘争のナショナリズムと接点をもっていたからであった。瀬長那覇市長に対する米軍の不当な弾圧に抗議して、総評や全労(同盟の前身)も、量的にはわずかであったが、那覇市へ救援物資を送った。[…]このような状況のなかで、日本社会党は、不平等条約改廃運動をおこすことをきめた。」(187)
●本土の反米基地闘争のナショナリズムの高揚と、島ぐるみ闘争のナショナリズムとのつながり。
●沖縄返還要求運動の組織化には至らず。
●「沖縄を守る会」の誕生
「いくつかの反米的基地闘争を経てジラードの裁判権問題にまで発展してきた本土民衆の反米感情は、持続的な沖縄闘争へと高められることなく、在日米軍の大幅削減(地上戦闘部隊の撤退)によって鎮静化させられていったし、沖縄論議の退潮とともに、「U2(米軍偵察機)などは、沖縄へでも持っていけばよい」という発言まで聞かれるようになるのである。」(191)
●〈基地の撤去→運動の鎮静化=沖縄への意識の後景化〉という機械論的記述でよいのか。水脈として流れ続けるものはないのか。

1956年7月4日 沖縄問題解決国民総決起大会、東京日比谷野外音楽堂、80団体主催
「ある部分(共産党や全学連)は、この闘争を「国土死守、日本民族独立」のための闘争としてとらえようとしていた。ある部分(社会党など)は、基地問題一般に還元していた。ある部分(自民党など)は、この闘争を経済闘争に矮小化し、そのわくに閉じ込めるためのブレーキ役としてのみ行動した。したがって、7月4日の総決起大会の主催団体によって結成された沖縄問題解決国民運動連絡会議は、状況に臨機応変の対応をすることができず、いたずらに政府に時間をかせがせる結果となった。」(155)
●左右による島ぐるみ闘争への「応答」。保守は現状維持、革新は民族主義的闘争。

195*年7月7日 日米共同コミュニケ → 土地闘争の終止符(186)

1957年6月 岸・アイゼンハワー共同声明: 日本側の自衛隊増強、米陸上戦闘部隊の日本からの撤退をふくむ在日米地上軍の大幅削減、極東軍司令部の廃止→ハワイの太平洋地区司令部の指揮下へ
「在日米地上軍の撤退も、全面的な米本国への引き揚げを意味するのではなく、機動性をもった拠点配置を意味したのであるから、その一部は“太平洋の要石である”沖縄へ移動したのである(たとえば第三海兵師団の沖縄集中)。[…]沖縄への「本土撤兵のシワ寄せ」という印象を強めることになった。」(189)


■第五章 相対的安定期と思想的変容――58年後半〜62年1月
「本土資本は、60年代中期には、沖縄のほとんどすべての製糖会社において強大な発言力をもつようになった」(194)
●資本進出は「復帰」以前より始まっている。

・60年安保闘争
「基地貸与協定方式から相互防衛条約に変えようとする場合、まず、問題になるのは、新条約の適用地域(共同防衛地域)である。」(196)
社会党: 条約適用地域の拡大に反対(200)
「これを裏返していうならば、もし戦争になった場合は沖縄人だけ戦禍にさらして、日本国民は傍観しようではないか、ということである」「安保条約から沖縄を除外すれば平和がもたらされ、含めれば戦争の危険が生じると考えることは正しいとは思えぬ。沖縄を安保条約に含めることをわれわれは主張すべきである」(207:『琉球新報』1960年1月18日社説)
●沖縄を含める=危険/含めない=平和 という二項対立図式。極めて冷戦的な枠組み(冷戦/熱戦)に現状分析ではないか。どう考えるか。

1959年3月28日 日米安保条約改定阻止国民会議 結成

1960年1月 ナイキ演習反対、沖縄返還要求国民総決起大会@鹿児島 → 東京へ沖縄返還要求の平和行進(〜4月28日)(209)
「沖縄返還のための集会としては(56年の土地闘争のころを除けば)、もっとも大規模なものであった。沖縄返還のカンパニアを国民大行進という形式によって試みたのもこのときが最初であった。
 だがそれは、さまざまな組織や団体のなかに、沖縄闘争(当時は、沖縄闘争という言葉はないが、沖縄返還運動を含めて沖縄を主題とする闘争をこうよんでおこう)を安保闘争と結びつけなければならないと考える人びとが少数ながらいたということの証左ではあっても、60年安保闘争と沖縄闘争が結びついたことを意味するものではない。[…]60年安保闘争は、沖縄を視野のうちには含みえなかったのである。」(209)
●土地闘争以降の沖縄返還要求国民総決起大会の画期性。
●安保闘争と沖縄闘争との連携のなさ。
▼瀬長亀次郎「安保改定と沖縄」『世界』1960年5月号.

「復帰協は、共同防衛地域包含是非論(安保論議)をタナ上げにし、復帰優先論を前面に押し出すことによってかろうじて日本政府の挑発的かく乱工作をかわしえた59年1月の原水協主催の祖国復帰促進県民大会を化粧し、復帰運動を独自に担う組織として結成された。」(211)
●沖縄では安保論がなされず、日本では沖縄論がなされず?この構図をどう読むか。復帰運動における「どのような日本なのか」という問いの不在、と、安保闘争における「どのような「平和」なのか」という問いの不在、と考えることができるのか。ここでも、沖縄=危険/本土=安全という二項対立が再生産されている。

・琉球大学学生会→琉大マル研: 1960年6月アイゼンハワー米大統領に対する祖国復帰請願デモでの琉球政府前デモ→大統領の滞在時間繰り上げ、韓国への退去。
「行動的ラジカリズムに依拠する復帰「運動」批判はあっても、それはまだ、思想的ないし理論的な「復帰」運動批判には到達していなかった、といえよう。」(217)
「6・19を基点とする行動的ラジカリズムは、10月20日、浅沼視察抗議無届デモ、61年5月17日、渡航拒否抗議デモへと展開していく。その過程で、61年1月、あらゆる政治勢力から訣別した部分が、自らの組織的拠点の確立を目指して、琉大マルクス主義研究会(琉大マル研)を結成する。」(219)
「琉大マル研とその影響下にある部分は、日帝自立論に依拠して、対米従属論にもとづく「復帰」運動を批判する、という傾向を強めて行った。
 当時の日本の現状規定について、これを基本的に自立した帝国主義国とみなすべきなのか、それとも、基本的には対米従属国とみなすべきなのか、という問題は、共産党内部における[…]論争点の一つでもあったし、共産党と全学連の指導部をにぎっていた安保ブンド(共産主義者同盟)の理論的対立点の一つでもあった。琉大マル研を中心とする部分が、日帝自立論にもとづいて復帰運動批判を強めていった背景には、日本政府の政治的介入、日本資本の流入、琉球政府の変質など、対米従属=属領化の進行という説明ではとらえきれない現実が生じつつあったからである。
 だが、日帝自立論の沖縄への適用もまた、きわめて一面的であり、第三条下の沖縄における特殊な媒介項を一挙に捨象していた。すなわち、日本ブルジョアジーは、沖縄を国内市場に再編成しようとしており、沖縄地域資本もまた日本資本の一員としての自己本来の姿にめざめ、米軍権力を利用しつつ自らの政治、経済的利益の追求を意図しているのであるから、米軍権力との闘いもまた、自国権力[…]打倒の闘いを通じてしかなし得ない、ととらえるのである。[…]そこでは「アメリカ帝国主義との闘争は一切反米民族主義へと転落する」かのようなとらえ方がなされていた。
 行動的ラジカリズムと日帝自立論を端緒的契機として、復帰運動に反旗をひるがえした異端の潮流もまた、試行錯誤の過程を歩まなければならないのである。」(219―220)
「その担い手たちの心情のレベルにまで降りてこれをとらえようとするならば、そこにすでに反復帰論的発想の胚胎をみることができる。」(221)
▼中屋幸吉遺稿集『名前よ立って歩け』
「復帰思想から反復帰思想への転換が生じているのである。」(222)
「反復帰論的心情の持ち主も、その政治的主張においては、ひたすら、反米民族主義の否定、階級的立場の強調とインターナショナリズムの追求に終始するのである。」(224)
「米兵こそ、米帝の侵略戦争の道具=武器にされている被抑圧階級なのであり、かかる米兵に「米帝戦争政策に反対し、反戦闘争に起とう」を呼びかけようとしないのみか逆に「アメ公帰れ」「ヤンキー・ゴー・ホーム」を怒号し、異民族への憎しみをもえたぎらし、その民族的憎悪心で沖縄人民の解放がなされてもいいものだろうか。否、インターナショナリズムとは全く無縁なこの「反米民族思想」で、人間(疎外された労働者、人民)の解放が
実現できるのか」(224−225/中屋幸吉遺稿集『名前よ立って歩け』)
「60年の6・19を基点にする復帰運動批判の潮流は、行動的ラジカリズム、日帝自立論、潜流としての反復帰論、さらには、ベ平連的発想までを混在させながら、60年代の中期にいたるのである。」(225)
1965年7月 米軍少尉がベトナム前線出動を拒否 → 英文ビラでの支援
●復帰運動批判の潮流: 行動的ラジカリズム、日帝自立論、潜流としての反復帰論、ベ平連的インターナショナリズム
●ベ平連運動の持ち込みに先行していた実践
●インターナショナリズムであればよい、のではなく、それによって何が切り開かれるのか、冷戦体制にどのような批判力になりえているのか、が問われるべきである。


■第六章 自治権拡大問題と政治的再編――62年2月〜64年後半
1962年2月1日 琉球立法院2・1決議 「植民地諸国諸人民に対する独立許容宣言」の参照
1963年2月 第3回アジア・アフリカ諸国人民連帯会議: 4・28を沖縄デーとし、国際的連帯行動を呼びかける決議採択
1962年前後: キューバ危機、アルジェリア独立、ベトナムへの米国介入、ラオス内戦、沖縄の核基地化

「復帰思想は、すでに、情緒的緊縛力を弛緩させてはいたが、いまなお島ぐるみの支配的思想として、民衆の意識が“本土並み”を越えて飛翔することに暗黙の制約を加えていた。」
→自治論、自治州論、自治権拡大闘争が「復帰」の範囲内に捕獲されていく
●自治論の内容と復帰運動・復帰思想との緊張関係。冷戦体制下において、想像力が捕獲されていく?

・復帰運動の分裂: 外から持ち込まれる=本土革新勢力
1963年4月28日 北緯27度線上で初の海上集会。
1964年 社共の分裂(4・28と8・15)
沖縄連「復帰協の要請にもかかわらず、海上集会は効果もなく、財政的な面からも不可能であると回答」(259)
→原水爆禁止運動の分裂、4・17ストをめぐる両者の対立などの背景、沖縄返還運動における主導権争い
●社共分裂と海上集会


■第七章 ベトナム戦争拡大のなかで――64年後半〜67年2月
「1964年11月9日の佐藤内閣の成立は、沖縄戦後史の上でも大きな意味をもっている。[…]翌65年1月、ジョンソン米大統領と第1回目の首脳会談を行い、日本が沖縄にアメリカと共通の軍事的利益を有していることを確認したのである。日本側が、日米共同声明のなかで、沖縄基地の重要性を認めたのは、このときがはじめてであった。[…]積極的にアメリカの軍事力を利用し、アメリカの極東政策に依存する必要があると痛感していたことを意味していた。
 一方、第一次佐藤・ジョンソン会談で沖縄基地の重要性が確認されて一カ月後(2月7日)にアメリカはベトナムで“北爆”を開始し、地上戦闘にも全面的に介入していく。その最大の軍事拠点が沖縄であったことはいうまでもない。」(267)
●転換点としての佐藤政権の誕生――沖縄返還交渉の開始、ベトナム戦争、日米共同の政策

1965年7月30日 立法院「戦争行為の即時取り止めに関する要請決議」採択、被害者意識によるもの。
→新聞投書 加害者性の認識「立法院決議の水準を越えてすすみつつあった」(268)
「ベトナム戦争の全面的拡大と佐藤首相の沖縄問題に対する積極的姿勢は、民衆の政治意識を急速に変化しつつあった。立法院や復帰協の動きも、この民衆の意識の急激な流動化に規定されていく。」(268)
●民衆意識の変化: ベトナム戦争、佐藤首相の誕生
●沖縄の被害者性と加害者性

・佐藤政権による沖縄問題への取り組みの背景
「より直接的な理由としては[…]日米両政府の対沖縄政策の破たんがあった。したがって基本的には従来の政策の枠を出ない米軍支配の正当化を前提にした経済援助の量的拡大だけでは、佐藤訪沖後の問題状況の流動化に対処することはできなかった。彼らは、いかにして施政権に手をつけるかに苦慮しつつ、あいかわらず試行錯誤を繰り返す。その試行錯誤の過程にあらわれてきたのが、一方では心情的本土・沖縄一体化論による沖縄(日米)共同防衛論であり、一方では、いわゆる基地・施政権分離論であった。」(270)
「米軍による沖縄支配の破綻と、日米両政府の対沖縄政策の転換を沖縄内部から押しすすめた最大の要因は、教公二法阻止闘争であった。」(281)
「教公二法阻止闘争は、“本土並み”、“一体化”を追い求めてきた60年代の復帰運動が、[…]自ら手中にしている“本土以上の権利”を自覚しはじめる契機であった。」(287)
●戦後・沖縄政策の破たん=冷戦体制のほつれ。これを一体化論や基地・施政権分離論によっていかに回収・補修するのかという国家の眼差し。国家の眼差しを批判する民衆の声。
●メルクマールとしての教公二法阻止闘争→復帰運動=“本土並み”の相対化/乗り越え。

・日の丸問題論争
「タテマエ上は日の丸をふるけれども、集会が終わってしまえば、それを路傍に投げ捨て足蹴にすることに何の痛痒も感じないというのがホンネであった。それは、復帰思想が形骸化し、タテマエとホンネが分離しつつあることを示していた。」(275)
「日の丸がなしくずし的に消えはじめたのは、65年、とくに佐藤訪沖が一つのきっかけになっている。
 佐藤首相が沖縄を訪問した65年8月19日の祖国復帰要求県民大会は、復帰協主催のこの種の集会では初めて日の丸抜きの集会となった。[…]積極的な日の丸否定によるものではない。「日の丸で佐藤首相を歓迎しよう」という歓迎派に日の丸を先どりされてしまったために」(277)
・『沖教職教育新聞』1969年7月25日:日の丸=祖国復帰のシンボル、国民教育のシンボル、抵抗のシンボル、自由のシンボル(278)
・1969年4・28 琉大全学闘(革マル系) 日本政府南方連絡事務所突入、日の丸引き下ろし事件 ⇔ 復帰協による批判
●復帰運動からこぼれおちる「ホンネ」の出現?このことと冷戦体制をいかに考えるか。


■第八章 日米軍事同盟の再編と大衆闘争――67年2月〜69年2月
「破綻した日米両政府の対沖縄政策が、全般的な日米軍事同盟の再編成の一環として位置づけられつつ、根本的に転換した時期であった。
 支配形態のうえでみると、沖縄基地の軍事的重要性を保持する政策は、日本からの「分離」支配から「返還」の方向へと、明確に180度の転換をとげた。[…]支配者側の政策を破綻に追い込んだ闘いが、その勝利の成果を確実なものとするためには、さらに彼らの政策転換の方向を先取りしてこれを追撃しなければならない。」(291)
「アメリカ極東政策の破綻は、その中心的位置を占めるベトナム政策の破綻を通じて明らかなものとなった。」(293)
・北爆: アメリカ国内の大規模な反戦運動の発生。「反戦運動は、軍隊内部にも波及し、すでに65年6月、沖縄に根拠地をもつ米陸軍第一特殊部隊スティング中尉の前線出動拒否は、沖縄の反戦運動にも思想的な衝撃を与えている。また、反戦運動の展開は一定の価値観の転換をともなってアメリカ社会の内部矛盾を掘りおこした。たとえば、ベトナム戦線で最前線に立たされる黒人解放運動の盛り上がりも、反戦運動と相互に影響しあっている。67年7月には、デトロイトでアメリカ史上最大の黒人暴動がおこるが、それはまたたく間に全米各地へ伝播した。」(295)
「日本政府は、67年中ごろから急に、祖国復帰運動や沖縄返還運動の「民族的悲劇としての祖国復帰」、「国民的願望としての沖縄返還」というスローガンを先取りし、積極的に一日も早い沖縄返還を素朴な民族感情に訴えるようになっていった。日米軍事同盟の再編成にともなう日米間の役割分担の調整(日本の軍事的負担の増大)は、沖縄返還を促進するための条件づくり、国内体制整備として位置づけられることになった。」(299)
・安保論を沖縄返還論議(核つき返還、核ぬき自由使用返還、本土なみ返還)にすりかえる
●沖縄政策の根本的な転換=分離から返還へ。それを可能にした闘争の力とのせめぎ合い。
●鎮圧のメカニズム。運動のスローガンの横領と取り込み。〈沖縄〉の無害化。
●沖縄政策の破綻は、アジア規模でのアメリカの政策の破綻と連動している。では、沖縄の民衆運動は、アジア規模での民衆運動と見えないつながりを生み出しつつあったのではないか。反システム運動としての沖縄闘争?
●あるいは、世界規模での反米帝運動。運動の共振。

・日米関係: ベトナム政策支持、在沖・在日米軍基地の自由使用、日本の軍史力増強(297)

「政府によって意図的にかき立てられた返還論議のなかで、沖縄が、戦後日本の、あるいは近代日本の、さらにはそれ以前からの矛盾の集約点であることに気づかされてきた人びとは、ある種のうしろめたさを背負いながら、沖縄問題の現実的な解決策を模索したわけであるが、その場合、知識人(あるいは社会科学者)としての責任倫理よりも、同じ日本人として心情倫理に引きずられる傾向が強かったのである。
 このことは、復帰思想にも、かなりの影響を及ぼしている。[…]情緒的側面を形骸化させて、潜在的には差別的処遇に対する心情的反発を強めつつ、表面的には、「本土なみの権利」要求をかかげていた。」(304)
●現実主義と倫理主義による挟み撃ちという状況。現実主義によって、理念がそがれ、倫理主義によって「復帰」へのわきの甘い分析が行われた?

1967年11月2日 日本共産党「沖縄・小笠原の即時・無条件・全面返還と日本の真の独立と平和をかちとるために」
上田耕一郎「佐藤訪米と沖縄返還闘争の課題」『前衛』1967年12月号.

「アメリカ帝国主義のベトナム戦略戦争における敗北について語っている人びとが、ベトナム人民の闘いに追いつめられたアメリカが、沖縄でどのような立場に立たされているのか、ということを見抜きえていない。言葉としては何一つ結びついていないベトナム戦争と教公二法阻止闘争の結びつきを把握しえていない。ベトナム政策の全面的破綻におびやかされつつも、アメリカは、そこから何事も学びとろうとはせずに、沖縄でも同じような居直り政策をとることしかできないほどおろかであり、また、そのような余力をもっている、と考えられている。」(311-312)
●ベトナム戦争とのかかわりで沖縄をとらえるという視覚の弱さ
●教公二法阻止闘争をグローバルな文脈で考える視覚の弱さ

1967年11月15日 復帰協執行委員会「運動の質的転換をめざして闘う」声明(313)

1967・10・8 羽田闘争。新左翼勢力の興隆。
「60年代の中ごろまでの新左翼勢力の沖縄問題に対する取り組みは、一部の例外を除けばきわめて弱かった。これは、一般的に民族問題として位置づけられていた沖縄問題を、彼らが自らの立場でとらえかえし、反(日)帝闘争への傾斜を強くもった自らの闘争方針のなかに独自に位置づけえなかったということに起因する、といってよいだろう。しかし、沖縄がベトナム戦争の軍事的拠点としてクローズ・アップされ、さらに日米軍事同盟再編の中心環として浮かびあがってくるにつれて、沖縄問題は、おのずと、反(日)帝闘争の最も重要な課題になってきたのである。そして、現実の沖縄の闘いも、教公二法阻止闘争(2・24闘争)などに示されるように、単なる民族運動ではない、ということがあらためて認識されるようになった。」(315−316)
●新左翼勢力の沖縄問題への取り組み。〈民族問題としての沖縄問題〉と〈反(日)帝闘争〉とのズレと重なりの始まり(教公二法阻止闘争)。

「こうして67年段階になると新左翼勢力も沖縄問題に本格的にとりくむようになってくる。その一部が、従来の返還運動や復帰運動と異なる自らの闘争に対する呼称として、沖縄闘争という言葉を使うようになってくる。
 といっても彼らの大部分が、従来の返還運動、復帰運動と実質的には共通する、本土復帰、沖縄奪還、即時・無条件・全面返還などのスローガンをかかげていたことにもみられるように(アメリカ〈国家〉から日本〈国家〉への沖縄返還、あるいは、沖縄住民の日本〈国家〉への復帰、との差異を明確にしようと、「サンフランシスコ条約第三条の破棄を通じた沖縄人民の解放」といった厳密な表現をスローガン化しようとした部分をも含めて)、彼らもまた、少なくとも形式的には、米軍支配下の沖縄の解放を、日本への「返還」に求めていた。ただそれぞれに立場の異なる彼らの共通項を探るならば、それは、沖縄人民の解放に結びつくような「返還(復帰)」を実現するためには、眼前に提起されてきた日米両政府の軍事同盟再編強化政策の中心環としての返還政策をまず叩きつぶさなければならない――そのことによってはじめてよりより展望が生まれる――という点にあった。ここが、従来の復帰運動、返還運動批判の立脚点だったといってよいであろう。」(316)
●「沖縄闘争」という言葉の政治性: 先行する返還運動批判としての立ち位置。復帰思想・運動の破綻とともに登場してきた思想・運動空間。
 →「沖縄闘争」が分裂・妨害をつくる「トロツキスト集団」(318)という批判
 「沖縄闘争という言葉は、返還(復帰)運動の終えんを予知しつつ、それをのりこえて支配の本質に迫りうる質をもった闘いをあらわす言葉として登場した」(318)
●軍事同盟再編強化策としての返還政策の粉砕という立脚点

・質的転換: 「67年11月20日の日米両政府に対する抗議県民大会から翌68年2月の第一次B52撤去闘争の過程で明らかにされてくる。
 このころから、復帰協内部でも日本政府に対する闘争の必要性を自覚し、質的転換論の延長線上に具体的な対政府闘争の強化を追求しようとする部分と、むしろ暗黙のうちに質的転換論を否定し、北緯27度線上の海上大会に象徴されるような従来の運動形態を重視する部分との微妙な食い違いがみられるようになる。」(319)
「質的転換論(とりわけナショナリズムからの脱皮をめざすという側面)は、日米両政府の政策転換に対する認識と固くむすびついていた。」(319)
「質的転換のもう一つの方向は、基地撤去の方向であった。復帰運動は、その歴史をさかのぼればさかのぼるほど、軍事基地の存在にはふれることなく進められていた。復帰協は67年3月の定期総会で、「核基地撤去」と「基地反対」の方針をきめたが、これをきめるまでには、激しい議論がたたかわされている。つまり「核基地撤去」については、復帰協加盟団体の間で一致点がみられたものの、軍事基地一般については、基地撤去を要求することなくして復帰は実現しえないとする意見と、本土にも基地はあるのだから基地撤去は復帰後の全国民的課題とすべきであり復帰運動それ自体の目的ではない、とする見解が激しく対立した。これは、復帰運動内部の古くて新しい議論であったが、結局、二つの立場を妥協させるために「基地反対」という表現がとられたのである。67年3月の復帰協総会で、あらためて真正面から基地撤去論がたたかわされた背景には、「本土並み」要求をこえようとした教公二法阻止闘争(2・24闘争)の高揚があった。[…]67年11月20日の抗議県民大会の決議文では、「基地を撤去しない限り沖縄の祖国復帰が実現できない」といった表現があらわれてくる。」(319−320)
1968年2月27日 B52即時撤去要求県民総決起大会 
「沖縄闘争は、明らかに基地を目指し始めた。復帰運動の質的転換論は、ナショナリズムの克服という点では徹底しきれなかったが基地撤去闘争としての側面はかなり強化され、やがて、60年代末期の復帰運動の性格を示す折衷的な言葉として、「反戦復帰」というスローガンが定着してくる。」(321)
1968年4月24日 全軍労 10割年休闘争 cf. 1965 ベトナム出動命令拒否
「基地撤去闘争の高揚は、基地の内部にもこれに呼応する動きをよびおこした。全軍労の決起がそれである。」(321)
→『琉球新報』1968年4月25日 「本土政府は[…]ついに沖縄住民が基地に対する協力を拒否する姿勢をみせたことに強い衝撃を受けている」(323)
「2.5ゼネストは、このような日米両政府の政策展開過程において、沖縄基地のあり方(B52の常駐・発進を含む基地の自由使用)に対する挑戦として構築された。したがって、2・4ゼネストこそが、本当の意味での戦後沖縄闘争の総決算であった。」(330)
●復帰運動の質的転換: 67年11月20日の日米両政府に対する抗議県民大会から翌68年2月の第一次B52撤去闘争の過程。復帰運動内部での食い違いの発生。
●日米両政府の政策転換に対する対応という形で、復帰運動の質的転換も生まれている。→櫻澤誠『沖縄の復帰運動と保革対立』
●質的転換@: ナショナリズムの克服
●質的転換A: 基地撤去論の設定。67年3月の復帰協定期総会、67年11月20日の抗議県民大会決議文「基地を撤去しない限り沖縄の祖国復帰が実現できない」。教公二法阻止闘争による「本土並み」を越える質を持った運動の成長。B52撤去闘争。全軍労闘争。2・4ゼネスト。
→基地への非協力=反システム

・反・反システムとしての2・4ゼネスト回避(326)=復帰運動・思想の敗北
「外圧によってというよりもむしろ内的要因によって挫折させられたのである。すなわち、復帰優先主義や合法主義の呪縛を完全に脱却し切っていなかったがゆえに、2・4ゼネストは挫折したといえるだろう。いいかえればそれは、復帰運動の、そして復帰思想の敗北であった。」(327)
「2・4ゼネストの挫折は、復帰運動の敗北であると同時に、戦後日本の労働運動の限界を露呈するものであった。総評も、同盟も、全力をあげて2・4ゼネストを支持するよりも[…]回避させることに早くから努力していた。」(328)


■第九章 支配体制移行期の思想――69年2月〜72年5月
・2・4ゼネスト回避の乗り越えという課題

・海上大会――「暖かい民族的連帯感を確認し合うためのカンパニア」批判
「復帰協では、67年ごろから、毎年同じようなかたちで行われる海上大会の意味について、かなりの疑問が出されるようになっていた。[…]本土側、とくに海上大会に熱心だった沖実委の要請に応えて、また、本土において分裂状態のまま沖縄返還運動を続けている沖縄連と沖実委を結びつける機会として、海上大会を続けていたといってよいであろう。復帰協が、ついに海上大会の意味を認めなくなった70年の4・28にも、沖実委と人民党、民青系諸団体によって海上大会は続けられる。だが、いつの間にか(おそらく71年からは)、なんとはなしにそれも行われなくなってしまった。」(332)

・琉球新報労組代表団『屈辱的だった4・28東京行動』1969年4・28(332〜)

・復帰運動のなかの二つの潮流: 1969年5月23日復帰協執行委員会は6月愛知訪米、秋の佐藤訪米への反対表明
「沖縄返還政策を日米軍事同盟再編強化政策としてとらえてこれを全面否定する部分と、沖縄「返還」政策のもう一つの側面が日米軍事同盟再編強化政策といいうるような内実をもつことを認め、これに反対する意思表示を行いながらも、沖縄「返還」そのものは、復帰運動の“成果”として受け入れようとする部分に分かれる。」(334)前者は「佐藤訪米阻止」、後者は「反戦復帰」
●佐藤訪米阻止 と 反戦復帰 = 「復帰」と「国家」のとらえ方の違い

「民衆をあざむき、日本政府の返還政策にくみして、復帰への道を歩みながら、免罪符のように「帆船復帰」をとなえることにいかなる意味がありえようか。」(336)

・差別告発の復帰思想
1967年11月「佐藤総理大臣への直訴状」
1969年1月 大田昌秀『醜い日本人』サイマル出版社
1958年 藤島宇内「日本の三つの原罪――沖縄・部落・在日朝鮮人」『日本の民族運動』

差別の克服=法の下の平等(342)

「『醜い日本人』の告発は、ほとんど批判されない。たとえ表面的にではあっても“感動”と“ザンゲの念”をもって迎え入れられている」(346−347)
「五ヵ月たらずで、この本が八版を重ねたと書いている。つまりこの本は、沖縄について書かれた書物のうちで、唯一例外的なベストセラーであった。」(350)
「告発される「本土」も、告発する「沖縄」も、まったくのっぺらぼうで無内容な存在になってしまう。彼の告発する「本土」は権力機構でもなく、国家でもなく、階級社会でもない。そうかといって異文化圏でもなく、異民族集団でもない。[…]彼の思想と反復帰論との似て非なる点は、第一に反復帰論的思想が72年返還政策への全面対決を通して反権力志向をきわめて明瞭に示している点、第二に、「本土」および「沖縄」に実態を付与し、その意味するところを追求しようとしている点にあるといえよう。」(347)
「決してそれが「告発する相手を間違えている」からではない。ひとことでいえば、「これでは“告発”になりえていない」からである。[…]民主勢力であろうと、革新勢力であろうと、批判されるべきは批判すべきであり、告発されるべきは告発すべきなのである。告発されることによって阻害されるような連帯意識などはさっさと破壊した方がいいのだ。」(349)
「本土の評論家や進歩的文化人、あるいは革新団体の指導者たちの間では、どのようなものであれ、沖縄からの「差別の告発」は無批判に受容されるのが通例である。[…]一様に「ザンゲの念」を表明し、これに暖い「理解」と「同情」をよせるのである。そうすることによって彼らは、講和論義で沖縄を欠落させ、60年安保で沖縄を欠落させてきたばかりか、政府が沖縄返還論議をかきたてるまでほとんどこれに関心をもたなかった自分たちの責任を回避しようとする。したがって、もし批判されるべきものがあるとすれば、それは沖縄への主体的かかわりをもたないままで、一億総ザンゲ式に「差別の告発」を受け入れ、これに安易でその実不遜な「理解」や「同情」を示す意識構造そのものでなければならないはずである。」(351)
「従来、復帰論は、「差別」の問題を避けて通ってきた。[…]多くの人びとは、歴史的差別をふたたび思いおこし、差別的処遇に対するうっ屈した過剰を増大させつつあった。」(353)
●差別告発の言葉が、〈権力構造を問わない復帰要求〉となってしまっており、日米両政府の沖縄返還政策と神話的な国境の移動にしかならない、という批判。一方で反復帰論は、返還政策と対決し、「本土」や「沖縄」の実態を批判的に問うことを可能にしているという批判。差別を語る言葉が体制といかなる関係をもっているのか、という問いの重要性。→@にんげん論、A反復帰論
●一方で、図式化された差別論 資本家⇔沖縄、天皇制⇔沖縄。
●理解、同情、ザンゲという「応答」の意味を構造的に読み解く必要性
●復帰運動・思想によってうっ屈してきた被差別意識。復帰へとのめりこむのではない形での差別の問い方。

▼霜田正次「沖縄県民の意識の中の日本像」中野好夫編『沖縄問題を考える』1967
▼金城雅篤・西里喜行「「沖縄歴史」研究の現状と問題点」『歴史学研究』1970年2月
▼岡本恵徳「〈差別〉の問題を通して考える沖縄――副読本〈にんげん〉をめぐる問題」『教育評論』1971年6月

・解放読本『にんげん』(354〜)
全国開放教育研究会『にんげん』で沖縄問題をとりあげようとする
 →『醜い日本人』の一部を中学生むきに書き直して収録する予定
 →沖縄県人会関係者と著者から断り
 →沖縄を訪問した中学生と教師との書簡という形式に決定
大阪府教育委員会が同和教育副読本として認定
大阪沖縄県人会の有力者が反対

・『醜い日本人』のベストセラー化と『にんげん』批判
「矛盾した行為」(岡本恵徳)
「二つの行為の間に矛盾はない」(355)
「なぜならば、『醜い日本人』がその熱烈な支持者に与えたものは一種のカタルシスにすぎなかったし、[…]「沖縄が、そして沖縄県民のみが、法制度的に本土他府県人とは差別されている事実を」問題にしていたからである。」(355)

▼大坂沖縄県人会連合会会長名のパンフレット『沖縄県人は訴える』
沖縄差別: 制度的差別
部落差別: 心情的差別

「問題は[…]沖縄差別を告発する多くの人びとの「差別」に対する姿勢なのである。」(356)

▼屋良朝苗 1970年10月22日付 大阪府教育委員会宛 「解放教育研究会編『にんげん』(中学生用)に掲載予定の『沖縄と差別』の項削除方について(要請)」(356)
・沖縄問題と部落解放問題は、種類や質がまったく別
・本土沖縄県人、大坂沖縄県人会、沖縄出身教職員からの反対意見

1971年1月23日 沖縄選出国会議員団(沖縄議員クラブ) 大阪府教育庁への使用禁止申し入れ(357)
・部落差別と異なる
・沖縄を部落や朝鮮人みたいなイメージを与える

大阪府教育委員会『にんげん』採用決定
→一部の沖縄出身者、大阪沖縄県人会の一部のメンバーによる働きかけ

・奄美出身者に対する差別(358〜)
「無権利状態から一歩一歩民主的諸権利を獲得してきたとされる沖縄の大衆運動が、制度的差別下の最下層部分を無視してきたこと、沖縄差別を声高に告発する人びとが、二重差別下にある人たちの存在をおおいかくしてきたことが痛烈に指摘されるのである。」(363)

「少数者としての自己に徹し切って、差別を告発するという立場に立ちえたならば、自らの内にかかえる在沖奄美人の問題や部落問題、在日朝鮮人問題などとの関連性を追求する視角をもちえたであろう。しかし、自らに対する差別のみを多数差別者に訴え、その理解と同情を求めて問題を解決しようとするかぎり、部落問題や在日朝鮮人問題との関連性がかすんでくるばかりか、自らの内にかかえる在沖奄美出身者の問題などは意識的に隠蔽せざるをえなくなる。[…]「差別を告発し、その償いを求める復帰思想」は[…]決して解放ののろしとなりうるような質をもつものではなかった」(367−368)
●差別の構造理解の欠落?線引きがどのような構造のもとで、自ら以外の誰に対して行われているのか、という問いの欠落。
●『沖縄差別』グループの検討の必要性

・在沖奄美連合会による公民権獲得運動
・永住許可問題 cf. 入国管理・出入国管理法案問題との同時代性

▼泉有平「一万人は泣いている=奄美籍者の原稿処遇について」『月刊沖縄』1962年6月号

▼『新沖縄文学』「70年・沖縄の潮流」

・本土と沖縄とのズレ(370〜)

「佐藤訪米が近づくにつれて、[…]軍事同盟の再編強化には反対だが、沖縄返還交渉には反対できない(それは沖縄に差別を押しつける本土エゴイズムにつながる)という国民的合意が確立していった。そしてこの国民的合意からはみ出した部分は、街頭闘争の強化によってその劣勢をおぎなおうとした。10・8羽田闘争のときにくらべれば、彼らの勢力は比較にならないほど増大していたけれども、権力の側の暴力的対応も、67年10月〜11月とはくらべものにならないほど整備されていた。そして、国民的合意からはみ出した部分(ベ平連などの非暴力的部分も含めて)に対しては、権力の側のためらうことのない弾圧が加えられた。」(371)
「佐藤訪米阻止闘争は、とくに本土においては、突出した部分の街頭闘争として孤立化させられたがゆえにその正しさにもかかわらず敗北した。佐藤訪米阻止闘争の敗北は、2・4ゼネスト挫折の全日本的拡大であった。」(372)
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉を切り離す「国民的合意」が、日米両政府によってつくられていく。復帰思想・運動が骨抜きにされ、体制にとって無害なものとして吸収されていった歴史。国家の後景化。〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉とを切り離すために、差別者/差別意識が動員されているという皮肉な事態。
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉をつなげる運動/思想: 2・4ゼネストの乗り越えと街頭闘争。国家による暴力的な弾圧・鎮圧。国家の前景化=反復帰論的思想。



■書評・紹介


■言及



*作成:大野 光明
UP: 20120806
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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