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『作業療法の源流』

秋元 波留夫 編 19750915 金剛出版,344p. 

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秋元 波留夫 編 19750915 『作業療法の源流』,金剛出版,344p. ASIN: B000JA02S6 \5800 [amazon] ※:[広田氏蔵書]

■目次

序 秋元波留夫
作業療法を考える 秋元波留夫 9-22
精神病に関する医学・哲学的論稿 フィリツフ・ピネル 23
フイリップ・ピネル伝 ルネ・スムレーニュ 呉秀三監訳 52
「ピネル神話」に関する一資料 神谷美恵子
精神病の治療に関する詳論 ウィリアム・S・ハララン 104
心の病気に関する医学的探究と観察 べンジャミン・ラッシュ 110
ヨーク・リトリート報告 サムエル・テューク
医学・衛生学・法医学的見地から考察した精神病について ジャン・エチエンヌ−ドミニク・エスキロル 143
精神病の道徳療法について F・リユーレ 143
精神薄弱と治療教育 フェリックス・ヴォアザン 153
精神病者のための病院の構造、組織および一般設備について トーマス・S・カークブライド 159
精神病治療における作業療法 エヴァ・C・リード 170
精神病院における積極療法 へルマン・シモン 180
精神病者に対する作業治療並びに開放治療の精神病院に於ける之れが実施の意義及び方 加藤普佐次郎 207
作業療法の臨床的研究研究 管修 242
解説 秋元波留夫
あとがき 秋元波留夫
索引

■引用

◆序(全文)

「精神病完のなかで、もっぱら精神障害者の治療として行なわれてきた作業療法は、いまでは理学療法と肩をならべて、リハビリテイション医学の重要な治療技術として発展している。
 錬金術から化学が、呪術や魔法から臨床医学が脱皮成長してきたのと同じように、作導療法も、はじめに理論があって、計画的に人々がそれをおし進めてきたわけではない。それは「狂気の人たち」のみとりての素朴な知恵から自然発生的に作りあげられてきたのである。しかし、作業療法の歴史をふりかえって見ると、他の分野には見られない特徴がある。
 それは、作業療法が精神障害者に対する差別との闘いのなかで、主張され、実践されてきたということてある。身体や精神を積極的に活動させることに狂気からの脱出の原則を見いだしたアスクレピアデスは人間の精神を無視したヒポクラテスの体液医学への批判者であったし、近代精神医学の黎明期といわれる十八世紀末から十九世紀前半にかけての作業療法の展開は、精神障害者の物理的及び精神的桎梏からの解放の具体的実践として登場したのである。シドニイ・リヒトが書いているように、「作業療法は、大西洋の両側で、人民が平等と自由のために闘っていた時にはじめて実現したのであった」。
 作業療法のこのような性格は、それが精神障害だけを対象とする時代から、もっと幅広く身体障害及び心身障害一般にかかわりをもつリハビリテイション医学の専門分野に発展した現代にあっても変ることはない。作業療法のこの根本理念を忘れる時、作業療法は魂を失い、単なる人間機械の修理技術に堕してしまうだろう。
 ここ数年、わが国では作業療法をめぐる論争が熾んである。医療関係者が多年熱望してきた作業療法の点数化が昨年実現して、ようやく作業療法が理学療法につづいて医学的治療として公認されたことは当緊とはいいながら喜ばしい。しかしその一方でわが国の乍業療には治療の名に値しない、後進性と反医療性が根づよくのこっており、この病根をどうして除去するかが当面の課題である。
 このような状況のもとで、私は作業療法の開拓者たちの書きのこしたものを読み、啓発されるところが少なくなかった。本書を編集しようと思いたったのはそういう理由からである。ここに収録したのは、シドニイ・リヒトがまとめた「作業療法原典」、一九四入年(Licht, S., Occupational Therapy Source Book. 1948)にのせられた十篇の論文及びシモンの論文一篇と、それにわが国の作業療法を開拓した先輩の業績三篇である。どの論文も単に作業療法の技術面を述べているだけではなく、その背後にある基本理念に焦点がおかれている。理念がもし抽象的に述べられるだけなら読者の多くは反発を感じるにすぎないだろうが、叙述が具体的で、事実に則しているだけに感銘を禁じがたい。
 この本はもちろん医学史の資料としても役だっだろうが、編者の願いは、この本を、いま困難な状況のなかでわが国の作業療法を発展させ、心身障害をもつ多くの人々のリハビリテイションのために役だてようと苦闘している作業療法担当者をはじめとする医療者の皆さんの心の糧としてましいということである。
 この本が陽の目を見るまでに多くの援助をおしまれなかった金剛出版編集部の中野久夫、田中春夫の両君に厚くお礼を申しあげる。
   一九七五年六月
                      秋元波留夫」(秋元[19750915:3-4])

◆作業療法を考える 秋元波留夫 9-22

cf.1966年〜1977年国立武蔵療養所所長

 「プロローグ
 基礎医学、臨床医学とならんで、第三の医学といわれるリハビリテイション医学は、心身の慢性疾患のどれについて見ても重要な医療の分野である。そして、身体障害では主として理学療法が、また精神障害では主として作業療法が、リハビリテイションの技術面を担当している。とくに、精神科領域では、作業療法はリハビリテイションのためだけでなしに、精神障害治療の本質的な部分を担うものとして重要である。
 戦後三十年の精神科医療の進展は、向精神薬の発見による長期薬物療法のおかげだが、精神療法と作業療法はそれより古い歴史をもっており、むしろ固有の精神科医療であったといってよい。作業療法の本来の意昧は、ヤスパースが適切に表現しているように「心身を、空虚な投げやりの生活や自己放棄の態度とは異なった自然の生活条件の下に置くことであり、これによって患者と世界との結合を維持し、患者の本来もっている能力を活動させることによって、障害された機能を回復させる」(精神病理学総論)ことなのである。
 このように、作業療法は、情意や知能、すなわち精神の障害によって、迷妄の自己世界にひきこもり、外界から逃避し、接触を失い、あるいは行動の意欲を喪失して「投げやりの生活」や、「自己放棄」の態度に陥いって<0009<いる患者に働きかけて、その人問性を回復させるという重要な使命をもっている。それは、患者の身体的あるいは精神的活動を媒介として、患者の精神に働きかけるという意昧では、精神療法ともいえる。アメリカ作業療法協会が作業療法を精神療法として規定した(一九五六年)のはその意昧で評価してよい。それゆえ、精神科医療で古くから用いられている作業療法は、決して単なる医療技術・職業教育にとどまるものではない。作業療法はあくまでも作業と活動を通じて、患者の障害された精神を治療することなのである。
 しかし、作業療法は患者の社会復帰のための職業教育と混同され、また、治療という美名のもとに患者の労力搾取が行なわれることさえある。リハビリテイションが医療の重要分野としてとりあげられている現在、作業療法の真の意義が再認識され、似て非なる「作業療法」は放逐されなければならない。

二 リハビリテイションと社会復帰

 ところで、リハビリテイションと社会復帰というニつの言葉がわが国で用いられているが、その使い方を見ると必ずしも同義ではない。もともと社会復帰はリハビリテイションの訳語(日本精神神経学会編「精神医学用語集」参照)であるにもかかわらず、別の意昧を持つようになったのにはそれなリの理由がある。
 それは一つにはリハビリテイションという外来語がおもに身体医学の領域で用いられ、これに反して社会復帰という言葉が精神医学の側で用いられたために、言葉乗のニュアンスが異なってきたためだろう。そこでわが国では、リハビリテイションは身体障害者の機能回復と、そのための訓練を意昧するし、社会復帰は精神障害者について社会のなかで自立して生きてゆくこと、そのための訓練と再教育を意昧するように用いられる傾向がある。
 これらニつの言葉の使い方の相違は、例をあげると、リハビリテイション学院と社会復帰センターという用語<0010<によくあらわれている。
 前者は身体障害者の理学療法と作業療法(精神障害者もその対象であることはもちろんだが)の専門家を養成するところであるし、後者は精神障害者の社会復帰訓練を行なうことを目的とする施設のことである。このような使い方から見てもわが国ではリハビリテイションと社会復帰が統一されないままに、ばらばらな概念としてとどまっていることがわかる。リハビリテイションと社会復帰というニつの言葉の意昧を考えなおして見る必要があるだろう。
 わが国ではリハビリテイションという言葉は主として身体障害者のための理学療法や作業療法などの機能訓練の意味に用いられ、この言葉の本来の意味、「人間性の復権」というヒューマニティに基いた本質がうすれ、一つの医療技術にせばめられているきらいがある。疾患(それが身体疾患であろうと精神疾患であろうと)によって喪失した人間性の回復は具体的には彼が社会のなかで自立して、精神的ないし物質的な生産性を獲得するようになることである。リハビリテイションの真の意昧をこのように解釈すれば、それは決して理学療法や作業療法などの技術面だけにとどまるべきものではない。
 リハビリテイションが技術面に限局させられて用いられている一方で、社会復帰という言葉はきわめて大ざっぱに使われ、用いる人によってその意昧するところが必ずしも一致しない。わが国ではこれを狭義の医学的治療が終ったあとにつづく後治療(アフターケア)の意昧に用いる場合が多いが(たとえば精神障害回復者社会復帰センター)、これを精神科医療の基調(「社会復帰は診断とともにはじまる」――G・カプラン)と見倣す立場もある。いま大切なことはこのような混乱を整理して、リハビリテイションと社会復帰とを統一的に解釈することである。そしてわが国でこれまで用いられてきた社会復帰という言葉(それ自体あいまいだが)のもつ意昧をそ<0011<のなかに含めてリリハビリテイションという言葉を使うべきである。
 リハビリテイションと社会復帰との概念上の混乱にもまして問題であるのはリハビリテイションと作業療法の関係である。老えて見ると、リハビリテイションがわが国の特神科医療で作業療法の同義語のように使われてきたのにはそれなりの理由がある。その理由としてなによりもまず、わが国の精神科医療が入院中心主義であったし、またいまでもその状況から脱却できずにいる事実をあげねばならない。
 精神医学史が教えているように、「危険な精神障害者」の社会からの隔離が目的であった癲狂院のなかで良心的な底療者たちはまず狂者を鎖鎧の束縛から解放した。これが精神障害者復権の第一歩であった。復権の次のステップは癲狂院という限られ、閉ざされた空間のなかにおいてではあるが、人間の本能的欲求である動くことの自由が許容されたことである。動くことの欲求を合目的的な活動(身体的・精神的労働、生産活動)にまで高めようとする医療者の積極的な活動から、自然発生的に形成されたものが作業療法(H・シモンは作業 Arbeit という言葉をきらい、積極療法 aktivere Krankenbehandlung とよんだ)である。初期の時代にはそれはこの活動の教育的、倫理的側面を捉えて道徳療法とよばれた。
 作業や活動を精神病院のなかで患者に課すのは何のためなのか。それはただ単に患者の筋肉を鍛えるためなのか。あるいはまた遊休状態におくのはもったいないというので、患者の眠っている身体をよびさまして、働かせるためなのか。作業療法の真の意義はそれらの功利性にあるのではなく、人間本来の生存目的の再建(道徳はそのための規範)にあるということを道徳療法という言葉は表現している。この言葉は今日では死語となったが、作業療法の意義を考える時、道徳療法を唱えた先人たちの精神を想起する必要があるのではないか。
 作業療法は精神科医療が入院治療にとどまっている限リ、リハビリテイションの原型であるといっても間違い<0012<ではない。作業療法を欠如した精神病院を想ってみるがよい。閉鎖病棟のなかで患者はうす暗い病室の一隅にうずくまり、あるいは昼間でさえも臥梅をつ。っけているだけである。これらの「陳旧欠陥患者」(もはや精神科医療者はこのようなあやまった言葉をロにすべきではない)が人間らしさをとりもどすようにするために、医療者の知恵が作業療法を生んだことを思う時、作業療法はリハビリテイションの原型であり、出発点であったことを確認してよいだろう。」(秋元[11-13])

 「三 作業療法と「生活療法」

 わが国の作業療法を語る時にどうしても問題にしなければならないのは「生活療法」のことである。「生活療<0014<法」の功罪を断ずるのにはまだ時がはやいかも知れないが、その提唱を行なった、現在私がはたらいている国立武蔵療養所の経験をよりどころとしてこの問題に考察を加えておきたい。
 国立武蔵療療養所で行なわれた作業療法のありかたは昭和四十一年十二月に発表された「国立武蔵療養所生活療法要綱」に集約されている。それ以後の数年間のここでの医療活動の変化は当然のことながら作業療法の仕組みや意昧について多くの問題があることを私たちに教え、作業療法担当者はもちちろん、すべての職員がそれぞれの立場からあらためて作業療法とは何かを考える機会を与えられた。そして、作業療法委員会を中心としてこの問題の活発な討議がつづけられ、その結論として「要綱」をあらためることがきまった。
 改訂の重点は「生活療法」を作業療法に還元することにおかれている。この考えは作業療法担当者の間でもっとも真剣に議論が行なわれ、その結果提起されたものだが、医局や看護職員のなかには反対意見もあった。それは、すでに精神科医療で一般化した「生活療法」をいまさらめくじらたてて追放するにはおよばない、という消極的支持論から、「生活療法」は作業療法の狭い枠をはずす意昧で必要だとする積極的支持論までさまざまであった。
 これらの反論にももっともな点がある。「生活療法」の提唱は、わが国の精神科作業療法が生産労働にかたより、労役にはしりがちであったことへの反省としての意昧をもち、精神病院の生活環境全体を「治療的」に再構成する目標を示す役わりを果たしたことはたしかだろう。この提唱が戦後の荒廃から立ち直リ、医療活動がようやく活発になりかけた昭和三十年代の初期に行なわれたことは偶然ではない。それが作業療法の再編成を当面の任務として課せられていたわが国の病院精神医学から歓迎されたこともよく理解できる(小林八郎、「精神疾患の生居療法」、日本臨床第十七巻、昭和三十四年)。ただし指摘しておかねばならぬことは、当時はまだ作業療法士が専門職として独立しておらず、その力も弱かったということ、したがって「生活療法」は彼らとは無関係に<0015<医師の独善的ともいうべき発想に基いたものだといえないこともないということだ。だから、「生活療法」の発想そのものに問題があったことは否定できない。
 「生活療法」には原理的にもおかしいことがある。その一つは作業療法やレク療法とは直接かかわりのない「生活指導」をそのなかにとリ入れ、これを作業療法やレク療法の基礎と見倣していることである。さらに問題なのは、音楽療法、絵画療法、演劇療法(心理劇を含めて)、図書療法、社会療法などをすべて網羅(江副勉他編、精神科看護の研究究、医学書院、昭和四十年)するようにその範囲が拡大されたことである。このような拡大解釈によって、ただでさえあいまいな「生活療法」の意昧が一層ぼやけてしまったのは無理からぬことである。
 「生活療法」の提唱者によると、それは患者の入院生活(生活時間)を対象とする治療活動であり、「患者の生活の中には、まだまだ治療の対象とすることができるものがある。おそらく、これからも新しい領域が生活療法として組織づけられるにちがいない」ということである。つまり、「生活療法」は無限大の可能性をもった精神科医療という途方もないものに祭りあげられたのである。
 「生活療法」の内容のこのような肥大はこれを実践するにあたってさまざまな問題を提起する。このように多様で多面的な「生活療法」を誰が計画し、誰が実施するのか、その治療の責任は誰が負うのか、等々である。
 たしかに、定義としては「生活療法とは、生活指導、作業療法、レクリエイション療法、前職業訓練を総称したものである」、「薬物療法その他の治療法と相まって、精神障害の治療に効果のある広義の精神療法である」(国立武蔵療養所生活療法要綱、昭和四十一年)といいあらわすこともできよう。しかし、このように定義された「生活療法」とは具体的にどのような医療活動をさすのだろうか。いやしくも療法を名のる以上、方法論的な同一性と統一がなければなるまい。「生活療法」の源泉のひとつでその主唱者としての役目をつとめた国立武蔵<0016<療養所の実践状況を見てもとうてい療法とよぶにふさわしい統一を発見することができない。それはそこでの実践が不充分であるがために、「生活療法」の体系化ができなかったのではなく、それはもともと体系の構築など望むべくもない性質を異にした医療や看護のよせ集めにすぎないものだったからである。
 問題のひとつである「生活指導」について考えてみよう。「われわれは生活指導を基盤としてレクリエイション療法と作業療法を総合的に考えるが、同時に三者を一応切り離して独立のものとする」(小林八郎、日本医事新報、二ハ六二号、昭和三十一年)という文句はその意昧がよくわかりかねるが、この表現から察せられることは「生活療法」において「生活指導」がとくに重視されていることである。「生活指導」の明確な定義がないからどうしてそれが作業療法やレク療法の基盤として位置づけられているのか理解しにくいが、「生活指導」の説明(前出「精神科看護の研究」)を読むと、それは主として病棟で看護者によって行なわれる、日常生活の世話や面倒を見ることを指している。看護者によるこれらのケアを「生活指導」と呼び、調教的な意味づけを一方的に与えることへの疑問はともかくとして、「生活指導」の実態はまぎれもなく精神科看護の活動そのものである。国立武蔵療法所生活療法要綱は「生活指導」を担当する部局として「生活指導部」をおくこととし、その業務として「基本的指導」(病棟内における基本的な日常生活の指導および身辺の清潔、整理)や「社会的指導」(身辺に対する関心をたかめ、対人関係、社会的適応性の改善をはかる)など精神科看護を内容とする活動をあげている。この部局の「総括責任者」を総婦長とする他、「生活指導婦長」をおくことにしたのも、この部局の活動が看護に属することを諒解しているためである。
 本来精神科看護の、そのすべてではないにしても、重要な任務である「生活指導」を「生活療法の基盤」だといって、理念の上でも、実践の上でも、看護からきりはなしたことは、少し大袈裟ないい方をすれば看護の主体<0017<性の侵害であったかも知れない。
 そのような「形式論」はともかくとして、もっと大切なことは、作業療法やレク療法(この二つ相互に独立であるよりも相互に依存的であり、活動療法として統一されるべき領城である)とは次元を異にする「生活指導」を加えて観念的に「生活療法」なるものを作りあげた結果、「生活指導」が看護と作業・レク療法の谷間におかれ宙に浮いてしまったということである。さらに見逃がしてはならないことは、作業・レク療法自身もまた「生活療法」というあいまいで実態のない理念のために圧迫されてその独自性がかすんてしまったということである。このことを国立武蔵療養所の過去数年の医療実践はわれわれに教えた。
 「生活療法」を作業・レク療法に還元する方向をとることになったのは実践のなかから生まれた反省であり、この反省がまず作業・レク療法職員の討議からめばえたことを私は評価したい。なぜなら、この反省は国立武蔵療養所の仕事について専門職としての意識と責任を身につけなければできないことだからである。
 「生活療法」の作業療法・レク療法への還元は同時に「生活指導」の看護への還元を意味する。「生活療法」のなかで空文化され、よどんでいた「生活指導」は理念の上でも実践の上でも精神科看護の基本問題として問い直されなければならない。この場合、もっとも大事なことは精神科看護における「生活指導」とは何かが個々の患者の看護場面で具体的にとりあげられなければならないということである。
 「生活療法」を作業・レク療法に還元することにもうひとつ大切な意昧があることを忘れてはならない。それは作業・レク療法、とくに作業療法に含まれている矛盾や欠陥が「生活療法」という美名によって被覆される嫌いがあるということである。われわれは作業・レク療法の現実を仮装することをやめ、もしそれが療法の名に値し<0018<ない実態をもっているなら、その正体を直視してそれを治療にまでたかめる努力をつづけようではないか。
 精神科医療のおかれている客観状勢は看護や作業・レク療法にもさまざまな困難をもたらしている。この困難と闘うには、精神科医療を担当する各職域が、まず自分自身の独立と責任を確立すること、その上でお互いの職域の役わりを正しく認識し、お互いに協力することが必要である。「生活療法」の作業療法への還元もまた専門職確立の意義をもっていると忠う。」(秋元[19750915:14-19])

◆精神病に関する医学・哲学的論稿 フィリツフ・ピネル 23

Pinel, Phillipe 1801 Traite medico-philosophique sur l'alie- nation mentale, ou la manie, Paris=1975 「精神病に関する医学・哲学的論稿」(抄訳),秋山編[1975:23-51]

「第五部 精神病院において確立すべき秩序と管理

 いかなる精神病院でも、処方した身体運動と手仕事をもちいるべきで、そのほうが望ましいことは言うまでもない。なぜなら、それらの健康上の効果は、さまざまな収容施設で、すでに経験ずみであるからである。厳格におこなわれる作業は、道義と規律を保ついちばん良い方法である。この事実は特に精神病院において真実であり、それらの施設の有用性を持続させようとするならば、いま述べた運営が必要だと私はかたく信じて疑わない。私は、病人がたとえいちじるしい興奮状態にある場合でも、活動的な作業が必要であることを何度も論じてきた。わが国の施設で、多くの病人が無目的な興奮状態に陥っているのは遺憾なことである。
 さらに悪いのは、病人が無為や昏迷の状態に陥っていることである。このような興奮状態、錯乱状態、狂乱的な空想の奔放状態を継続させている原因は怠惰である。これに反して、持続的な作業は、病的思考の連鎖をたちきり、関心をもっと楽しいものに向けさせ、また、運動練習によって、病人の集団に秩序を保たせることが一き、同時に内的秩序を保つためのこまごまとした無意味な規則を、不必要にする。回復期の患者が、かつての興味をとりもどしてもとの仕事に復帰すること、すなわち勤勉と忍耐にたちもどることは、完全回復への最良のきざしである。」(Pinel[1801=1975:23])

◆「ピネル神話」に関する一資料  神谷美恵子

 「一九七三年はじめに精神医学史に関心ある者の問でちかごろ論議をまきおこしている話題のひとつがいわゆる「ピネル神話」である。ことの起りはミッシェル・フーコーが「狂気の歴史」(一九六一)や「精神疾患と心理学」(一九六六)の中でピネルの功績として伝えられてきたものは神話にすぎない、と言い出したことにある。ピネルは一七九三にパリのビセートル病院で鎖につながれていた精神病者たちを解放したということになっているが、実際はどうかと言えば、「病人たちのまわりに道徳的な鎖を再びはリめぐらし、収容施設を一種の恒久的審判所のようなものにしてしまった」(「精神疾患と心理学」、邦訳一二五ぺージ)のだという。何しろ構造主義者として脚光を浴びている人物が何年もかかって研究したあげくの発言だから、関係者一同が少なからず衝撃をうけたのも当然であろう。その結果、いったい事実はどうなのか、とあらためて検討する人びとが出てきた。その現われのひとつがポステルらの論文(一九七一)であって、大橋がその趣旨を専門誌に紹介している。その紹介文との重複は避けたいが、ポステル論文を要約すると次のようになる。  フィリップ・ピネル(一七四五〜一ハニ六)が近代精神医学の基礎をつくり、精神医療の改革を行なった、と<0070<いう「伝説」に対しての反論はすでに百年ちかくも前から現われた。たとえば精神医学史家レールの学会講演やリッテイの論文がその例である。ピネル神話の主な出所は息子のシピオン・ピネルや、彼の子孫であり、同時に精神医学史家でもあったルネ・スムレーニュの多くの書きものらしい。しかしその彼でさえ無条件に先祖の手柄を誇ったわけではなかった。たとえば精神医学史家フリードライヒがピネルを精神医療改革者として絶讃したとき、スムレーニュはこれに保留を加えた。彼の考えでは、ピネルのしごとは実践の上でも学理の上でも独英の先人や同時代人に負うところが多く必ずしもピネルの独創とは言えない。ピネルが成功をおさめたとすれば、それは先人や同時代人に負うところが多く必ずしもピネルの独創とは言えない。ピネルが成功をおさめたとすれば、それは先人によって指摘された欠点を抑え、先人によって指示された改革を実行に移したからであろう、とスムレーニュは述べている。
 以上ポステルらによって、フーコーの説がべつに新しいものではないことが判明した。しかしまた、ピネルのしごとの実態がどのようなものであったかは別として、事の性質上、精神医療改革という事業ほど成り難いものはなく、持続しにくいものはないことも考えておく必要があろう。それは精神医学史の上で至るところ、至る時代にみとめられる事実である。改革への意志がたえず更新されなくては持続はありえない。」(神谷[1973→1975:70-71])

 「ピネルの事跡が神話であったと断定するわけにはいくまい。それにはもっと史実が明らかにされなければならない。ところでその史実の少なくとも一部を解明するために、ポステルらは一つの事実を発見している。それはピネルの主著「精神病に関する医学=哲学的概論」の第一版序文(以下Aとする)と第二版序文(以下Bとする)との間に大差があるということである。第一版は一八〇一年、第二版は一八〇九年に出ているのだが、BはAを大幅に変えてあるのだ。ミスプリントなのか、それともピネル自身がうっかりしたのか、ふしぎなことに彼みずからBをAとして第二版の冒頭にかかげているので、後世の歴史家はだれひとりこのことに気づかなかった。第一版は印刷も粗悪で入手し難くなっているためもあろう。たとえばフーコーの「狂気の歴史」の巻末文献表にはピネルの本の第一版をあげているのに、本文ではBから引用している(四五七ぺージ)。またジルボーグの「医学的心理学史」にもBがAとして転載されており、これがさらに「あやまりの伝播」に拍車をかけているらしい。」(神谷[1973→1975:71])

 「資料が不足しているとはいえ、以上見てきただけでも「ピネル神話」は多分に神話めいて考えられてくる。しかし精神医療の現場で少しでも苦しんだことのある者ならば、哲学者フーコーのように簡単に、烈しく、ピネルを責めることはできないであろう。患者は社会から護られることを必要とし、同時に社会もまた患者から護られることを必要とする、というきびしい事態の生じることは現場ではどうしても避けられないのだから、精神医学自体がもっと進歩しない限り、精神科医は患者と社会との間でゆれ動く存在にならざるを得ないのだと思う。
 神話である、とするならばたしかに幻滅ではある。しかし自然科学だけでなく、歴史においてもまた虚構よりは真実のほうが望ましいはすである。たとえ将来ピネルの事績は完全に神話であると断定されたとしても、今までこの神話が精神医学史の上で演じてきたシンボル的作用を評価することまでやめる必要はない。それもまた歴史的事実だからである。ピネルは現在に至るまで精神病者解放の輝かしいシンボルであった。サルペトリエール病院の前に立つ彼の像は、その足許にうずくまる精神病者たちの姿とともに今までどれだけの人の心に霊感を吹きこみ、精神病者のための行動へと人を駆リ立ててきたか知れない。
 人間は理想を高く掲げる神話を欲する存在なのではなかろうか。課題が困難であればあるほど、この欲求は強くなると思われる。であるから、もしかすると「ピネル神話」の論争も百年毎にむしかえされては消えてゆく、というようなことにさえなりかねないであろう。ただ現在がその「むしかえし」の時期である以上、事実は事実としてたしかめておかなくてはならない。」(神谷[1973→1975:94])…本文末尾

 津田塾大学研究紀要、第五号、一九七三年
 「追記。本論文発表(一九七三年)後に、藤井薫氏らの手でピネルの本著の本文第六部が「精神医学」誌第一六巻一号九五−一〇七頁(一九七四年)に訳載された。氏は一九六六年留学中に本書第一版の限定プリントを入手し、右訳文中に本文の概要をも紹介し、筆者の論評の一部に認識不足の点があることを指摘されているので参照して頂きた(一九七五年四月)。」(p.96)

*この論文は以下に収録されている。
神谷 美恵子 19820330 『精神医学研究2』(神谷美恵子著作集 8),みすず書房,299p. ISBN-10: 4622006383 ISBN-13: 978-4622006381 \2940 [amazon][kinokuniya]

◆解説 秋元

 「いまではすっかり荒れはてて見るかげもないが、松沢病院の構内には将軍池とよばれた池とその中心に築山がある。これは加藤普佐次郎が先頭にたって、患者諸君の共同作業によってつくられたものである。その頃のことを前田は次のように書いている。

 「利鍬やシャべルで土を掘り、掘った土をもっこに入れ、杉丸太で二人がかついで山の部分に運ぶのである。六十名以上のさまざまな年齢、学歴、職歴、病類、病状の患者が歌いつつ、笑いつつ土を掘り、もっこをかついだ。加藤先生もかついだ。看護夫諸君もかついだ。私もかついだ。山が高さを加えてくると、見張りに当る看護夫や患者諸君が、かわるがわる頂上から、お得意の唱歌、軍歌、讃美歌(加藤は熱心なクリスチヤンであった−編者)、校歌、民謡などをうたって皆をはげました。私も「池掘りの歌」を作ってどら声をはリ上げた」。

 職員と患者の協力によって、池と築山が完成したのは、加藤が作業療法の論文を書きあげた翌年、一九二五年春のことであった。呉秀三が東大教授及び松沢病院長を定年で退職した一九二五年三月、加藤もまたおのれを知る師の去った松沢病院を離れた。当時、加藤らの仕事がどのような評価をうけていたかは、彼が職員からプロフェソル・ドクトル・モツコという「尊称」をたてまっられていたことや土掘り、もっこかっぎは土方、左官のすることだというかげロがきかれたことからおして知るべきであろう。しかし、加藤がのこしたこの一篇の論文は、作業のやり方はともかくとして、その糟神において作業療法の真髄に徹したものとして、時代をこえた意義をもっであろう。」(秋元[1985:332-333])

 「菅修 作業療法の臨床的研究

 加藤のあとをついで松沢病院の作業療法を推進したのは菅修(二〇〇一−)である。  本書に登載した論文(一九五七年)は、松沢病院(一九二八年から一九四一年まで)及ぴ神奈川県立芹香院(一九四一年以降)で、著者が経験した多数の症例のうち、主に精神分裂病について作業療法の効果を、状態像の変化、経過への形影響に主眼をおいて考察を加えたものである。
 作業療法に関すずる著作や論文の多くが、その方法論や、病院機構との関連を述べていて、作業療法が実際にどのような治療効果をもつかを実証したものはきわめて少ない。道徳療法の時代は別として、一九三〇年代に入るとインシュリン療法、その他の身体療法が一般に行なわれるようになり、作業療法はさまざまな身体療法とあわせて行われるようになったから、作業療法だけの効果かどうか判別することが難かしいということもその理由一つだろう。
 菅の論文はこの困難を充分認識した上で、この問題をとりあげた点で画期的ともいえる。この論文を読むと、分裂病の治療において作業療法の占める比重が、身体療法や精神療法の進歩にもかかわらず、いぜんとして減退していないばかりか、ますます必要になっていることをあらためて思い知らされる。このような状況は現在及び将来の分裂病治療においても変ることはないだろう。
 菅は芹香院長を最後に、精神科医療の現場からはなれ、昭和三十三年国立秩父学園長に転じ、さらに昭和四十六年、高崎市に新設された国立コロニーのぞみの園の園長としてその創設に挺身し、精神薄弱児の治療教育に専念したが、本年一月退職した。この五月に開かれる第七二回日本精神神経学会総会はそのテーマとして作業療法をとりあげているが、菅は後輩の演者に伍して「作業療法の奏効機転」について話をするという。彼の作業療法にかけた情熱が、歴史と現実に背を向け不毛の論争にあけくれる「学会さの一部の風潮に対して沈黙していることを許さなかったのだろう。

追記 第七二回日本精神神経学会総会は、理事会提案の次のような「決議」を可決したという

  「作業療法」点数化に反対する決議
 今日のわが国の精神病院の医療状況は、強制的拘禁状況への傾きが強い。その中で、入院患者の人権を擁護することは緊急の課題として登場している。
 作業は入院患者の生活の一部であるとはいえ、上述の現在的状況のもとで、これを療法として位置づけることは、この課題、とりわけ患者の生活及び労働に関する諸権利の擁護に鋭く対立するものである。
 この惹殊において、今回の「作業療法」点数化に反対する。<0334<

 この「決議」なるものを読んで唖然としたのは私だけではあるまい。文章がわかりにくいが、要するに、わが国の精神病院では入院患者が強制的拘禁状態におかれているのだから、そのなかで行われる作業は強制労働にほかならず、そんなものを治療と称して、医療費をとるのはけしからんということらしい。
 しかし、これは随分おかしな論理である。もし、わが国の精神病院のすべてを「強制収容所」として規定するならば、そこでは、作業療法に限らず、一切の治療行為が成立しない筈である。作業療法だけでなく、一切の治療の点数化に「学会」は反対する決議をしなければすじが通らないことになる。それどころか、この「決議」に参加した医師諸君は、「強制収容所」で働くおのれ自身を恥じて辞職するか、「強制収容所」ではない、どこかの国の理想的精神病院に脱出しなければならぬ筈である。
 問題は一片の「決議」によって作業療法を断罪し、追放することではない。作業療法を頽廃に陥れた根源であるわが国の精神科医療の後進性を打開するために、あらゆる職種の精神科医療者が協力して地道な努力をっみかさねて行く実践こそが当面の課題なのであみる。
 この問題について、わが国の精神科看護者の組織である、日本精神科看護協会は、「今回の総会(日本精神神経学会総会のこと)で作業療法を療法とは認めないという意見が大勢を占め、国がこれを療法として認めていることに反対する決議を採択したというが、真意がどこにあるのか理解に苦しむ。……今回の否定決議は、作業療法を真面目に考えて実践している精神科医、看護者、作業療法士に大きなショックを与えた」(日精看ニユース、第一七七号・一九七五・六・一)とその見解を表明しているが、同感の方々が多いだろう。」(333-335)

■言及

◆立岩 真也 2013/11/ 『造反有理――精神医療の現代史 へ』,青土社 ※


UP: 20130412 REV:20130503, 0603, 0725
秋元 波留夫  ◇精神障害/精神医療  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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