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『琉歌幻視行――島うたの世界』

竹中労 19750825 田畑書店,453p.

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竹中 労 19750825 『琉歌幻視行――島うたの世界』,田畑書店,453p. o01 tt17 m04


■内容

■目次

まえがき

チョンダラー琉球史

変幻自在なるもの 琉球諸芸
 沖縄――うた・まつり・放浪芸 小沢昭一・照屋林助・竹中労
  変幻自在・生成流転
  芸能は南島からやってきた
  海の紺・太陽の金――沖縄の夏
  狂者(ふりむん)への道
 汝、花を武器とせよ!
 琉球諸芸・補遺

むかし、歌垣ありて…… 風と水の詩とリズム
 歓楽と哀傷――「恋四態」
 朱もどろの落日――「先島の情歌」
 胸内や裂きて――「恋語れー」
 哀別の島――「情歌の別れ」
 狂熱・忘我のとき

沖縄えろす外伝
 沖縄春歌行
 琉球情歌12考

嘉手苅林昌の世界
 失われた海への挽歌
 尾類小(じゅりぐわー)のうたえる……
 戦場(いくさば)の哀れ

風のごとく魔のごとく
 10月、島は夏であった……
 試論=ジャズ・インプロヴィゼーションと島うた

おきなわ怨み節
 花の島・怨歌のひとくさり
 あけもどろの海
 桃源、いずくにありや?
 西表――その波と風の果てに

あとがき――『19の春』考


■引用


■まえがき
「この書物は1975年6月〜7月、レコード各社(CBS・ソニー、ビクター音楽産業、日本コロムビア)から出した、沖縄島うたLPの解説に、『琉球共和国/汝、花を武器とせよ!』(1972年・三一書房)に載せた旧稿4編、「チョンダラー琉球史」「沖縄春歌行」「西表――その風と波の果てに」をくわえて、1本にまとめられている。」(1)

「『むかし、歌垣ありて……』、毛遊(もうあし)びーの自由(フリー・)恋愛(ラブ・)共同体(コミュニティ)から“情節(じょうぶし)”の新民謡まで、沖縄庶民のセクソロジーを、うたでつづっていく。“毛”とは野原のことであり、これはビクター版LP『沖縄情歌行』、琉球フェスティバル’75/京都・丸山公園野外音楽堂で催された“夜桜コンサート”の実況録音盤(2枚組)の解説。つづけて旧稿2編、――「沖縄えろす外伝」(春歌行・情歌12考)へと遁走する。1969年にはじめて沖縄をおとずれ、島うたと出会った“初期論稿”を重ねあわせることによって、性と愛の主題を補完する。そして、『嘉手苅林昌の世界』の3つのテーマへ連環するのである、すなわち、海と恋といくさ、沖縄島うたの各論の展開に突きすすむ。」(2)
●島うたのテーマ――海と恋といくさ

「したたかな庶民のうたが、なぜそこから生まれてきたのかをさぐり、生きとし生けるものの間に境界のなかった万物斉同の天洋へ飛翔する。」(3)

「嘉手苅林昌をはじめとする謡人たち、適切な助言を与えてくれたRBC琉球放送の上原直彦、作曲家・普久原恒勇、ヤマトからドロップインしたフォーク歌手の黒川修司(花吹南児)、琉球共和国の同志・大城正男、『島うた企画』岩永文夫、『話の特集』の木村聖哉、この書物の出版をプロデュースしてくれた石田明、諸氏のご協力に心からの感謝を!」(4)

■チョンダラー琉球史(『闇一族』第3号、1972年4月)
「むかし琉球、汎アジア貿易の中継点として栄え1個の海洋独立国家であった。」(13)

「沖縄、ニッポンではない。すくなくとも第1尚氏時代まで、琉球はヤマトの政治圏にも、経済圏にも、文化圏にも属さぬ、1個の海洋独立国家だった。ニッポンへの隷属、薩摩の武力進攻からはじまる。」(19)

「京太郎とは、すなわち人形舞わし、又の名を傀儡子(くぐつ)、大江匡房『傀儡子記』によれば“男は狩猟を事とし、時には木偶(でく)を舞わすほかに、奔剣奔玉の手品の類を演じ、女は脂粉を装って、倡歌(えろうた)・演歌以て媚を売ることを業とする、人籍に登録されざる流民の民”。
 声聞師(しょうもんじ)、散所(さんじょ)、河原者(かわらもの)と呼ばれる賤隷・非人のいちまき、摂津西宮の戎(えびす)神社の支配下に置かれ、京の都の辻々から全国の津々浦々を、肩から人形の箱を提げて流れ歩いた。[…]堺の港に、琉球国から波布(はぶ)の皮を張った三絃(さんしん)という楽器が伝来したのは、永禄年間(1558〜1569)だった。」(20)

「『都会人よりすでに飽かあれて、次第に遠く地方へ落ち延びなければならなくなった。人形を持って遠く琉球に流れ着いた者、今も首里郊外の行脚(あんにゃー)村(安仁屋)在に、チョンダラーと呼ばれ残存しておる』(昭和11年3月、福岡県学務部発行『民間演芸』巻3)
 これが正解だな。『ともあれ、江戸の初期あるいはその以前において、傀儡子が琉球にまで渡り、これらの芸を売っていたことのみを知ればよいのである。』(同)」(21)

「およそ一国の植民地化は、その社会内部のコンプラドール(買弁層)をつくり出すことなしには達成できない」(24)

「“黒糖地獄”はくりかえして幕末にまで及んだのである。1つのエピソードを記しておこう。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに勝利した西郷吉之助のもとに、軍資金3万両が届けられた。大阪薩摩藩邸留守居役の木場伝内から、さらに14万両の黒糖売掛金が、あるという報告を受けて、西郷は『幕府との戦さはこいで勝ちもした』と膝を叩いてよろこんだ。(南日本新聞社刊『鹿児島百年』)
 ――維新の勝利、そのかげに奄美・琉球の島ちゃび(離島苦)、生き地獄の労働があったってわけ。」(26)

「いい気なもんじゃアございませんか、砂糖を売って遊興三昧、甘い生活とはこのこった、いうならば首里王府総体、琉球人民に対するハーマヤと化し、薩摩の“黒糖地獄”政策を呼び込んだのである。チョンダラーつらつら思うに、琉球史家の決定的錯誤は、みずからの内なる買弁、第二尚氏歴代の王を大和、薩摩の“共犯者”として告発しえぬ階級的視点の欠落にある。」(27)
「正史というもの講談より始末が悪い。――琉球弧に真人民の理想郷を樹立するためには、まず一切の既成史観を“総括”しなくてはならない。[…]柳田国男、折口信夫、ついでに谷川健一、糞でも召上りませ。」(28)
●植民地主義において、沖縄に共犯をつくるコンプラドールが存在するという批判。沖縄の批判をできない沖縄史家への批判。

「向象賢の日琉同祖論、これすなわち、支配者大和人(やまとんちゅ)と被支配者沖縄人(うちなんちゅ)を同化帰一する方便で述べられた。俺っち三韓出身のチョンダラー、同化帰一せぬがゆえにでなくむしろ“日本人になろうとする”努力、逆に差別を生みだしてしまうパラドックスを我身の上に、イヤというほど見てきたんだわサ。むかしのことは措いて近くに例をひけば1919年3月の“万歳事件”、300万もの群衆が独立バンザイを叫んで蜂起した大乱を、ようやく鎮圧した大日本帝国天皇、民心安定の詔書を発した――[…]平ったくいえば、チンは日本人も朝鮮人も同じ“臣民”と考えとる、職業・学問等々の機会均等と生活の安定を与えてやる、明るく楽しい暮らしを約束するから、これ以上騒ぎ立てるなという意味だ。“同化教育”、この時を起点としてはじまる。けっきょくそれは『日本語を話せる下層労働者』をつくり出す政策であったのだが、朝鮮民衆の中には一視同仁其ノ所ヲ得ルという幻想を抱いて、来日する者が少なくなかった。」(33)
「沖縄の人びと、なぜか朝鮮人が被虐の系譜を語るごとく、日本への呪詛を語ることをしない。」(34)
「琉球史に登場する親日派、知日派ことごとく買弁と呼ぶべきであるとチョンダラー申し上げたいのだ。」(34)
「1945年8月6日、9日、広島・長崎に原爆炸裂、朝鮮人強制徴用工4万人が死亡、放射能を浴びた2万人、光復(独立)した彼らの祖国に帰って4分の1世紀余、無告無補償の谷間にいまなお切り棄てられている――。ウチナーンチュ、『我々は朝鮮人とちがう』というか?ナンセンス。同国人であると主張するかぎり諸君は永久に差別される。沖縄、ニッポンではないと“異邦の論理”で大和に対峙するかぎり諸君は自由なのである。
 1970年11月、“国政参加選挙”で当選した7人の沖縄県議員を、日本国会は『天皇しか出入りしない』正門玄関から迎え入れた。晴れがましくライトを浴びて代表質問に立った沖縄の“選良”、このときまさに琉球処分が始まったことを自覚せず、権力体制の赤いじゅうたんを踏んで、天にも登る心地だったにちがいない。」(35−36)
●日琉同祖論、同化主義は「日本語を話せる下層労働者」をつくること→帝国主義/植民地主義における労働力と発展という視点からの沖縄論。植民地化された人々(「朝鮮人」)と並置する語り。沖縄の人びとへの批判。

「俺はユミヌ・チョンダラーだ。琉球の独立を、まぼろしの人民共和国、汎アジアの窮民革命をゆめみる。
 政府なき国家を、党派なき議会を、官僚なき行政を、権力の廃絶のための過渡の権力を。
 琉球共和国を……、ゆめみる。」(37)


■変幻自在なるもの――琉球諸芸のこころ(『沖縄――うた・祭り・放浪芸』CBS・ソニー盤4枚組〈解説〉より)
「1975年6月――、箱根の山から、私はほとんど降りる時を持たない、この夏一挙に出す20数枚の島うたLPの解説に、まさに寧日ないのである。さらに、秋にかけてまた10数枚、合計40枚もの解説原稿は、400字詰めでゆうに1000枚を超えるのだ。[…]この夏、またぞろ性懲りもなく、《戦争もの語り》(8・15東京)、《又、沖縄情歌行》(8・17京都)と、真夏のフェスティバルを主宰する。軋むような負債の上に、さらなる負債を加えようというのだ。しかも『島うた通信』(創刊号タブロイド6P・号外と本誌隔月発行)を出していく、これもまた購読者500人を超えなくては、印刷費・送料はペイしないのである。
 ――汝、何ゆえに愚行をなすや? 《海洋博》の年だからである、1人ぐらいこの国家行事を大いに利用しながら、損をする馬鹿がいなければ、沖縄のお天道様に(県民なんざどうでもよいのだ)、申しわけが立たぬからなのである。」(41)
●海洋博による沖縄ブーム。「県民なんだどうでもよいのだ」と言いうる批判精神と立ち位置。身銭を切る批評行為。

「左翼を称するマテリアリズムから、みごとに欠落している“芸能の論理”、永六輔の『清水次郎長伝・伝』から借りるなら、やくざ・女郎・芸人の“花”を武器とすることこそが、国家権力の欺罔の支配を脱する、遠くて近い道なのである。[…]『話の特集』に、私は“差別について”の発言を連載してきたが、ようやく被差別窮民の根本命題である、芸能者の世界に論は及ぶ。琉球諸芸をテーマに“芸能の論理”を展開する」(42)
●国家権力を脱していく遠くて近い道としての“芸能の論理”

「照屋 […]ふつう、沖縄の芸能とか、島唄といわれるものにつきましては、いろいろな説があります。文化人諸先生が解説しておられます、それで1つのなんといいますか固定の観念ができてしまう、沖縄の芸はこういうものなんだ、と。これはウチナーンチュ、私たち沖縄のものにも影響しまして、たとえば竹中労さんなんかが突然やってこられて異説を唱えられると(笑)、なんだあいつは、ということになる、デタラメをいっている、と。
 ところがこうして、アトランダムに諸芸を採集してみると、これが沖縄だというきまりなんかどこにもないんです。もう、まったく自由でデタラメで、それでいて庶民の生活と深くかかわっております。むしろ、これまで1つの尺度でもって、1つの意図をもって、これが沖縄だと紹介されたもののほうが、庶民とかけ離れているんです。」
●植民地主義を上塗りする沖縄論者?→(自己)植民地主義を批判する竹中労?そこでのコンフリクト。自立と独立のほうへ。旧左翼(素朴な復帰支援)にも新左翼(革命戦略のもとでの回収)にも批判的な立場?

「小沢 そこですね、大事なところは。“流動するもの”が芸能なのだという、いちばん肝心な認識がぬけ落ちている。固定してしまったら終りなんです、ゆれ動かないことには発展もない、生成流転していくものですよ、芸能は。沖縄庶民の諸芸がいかに変幻自在なものかということを、ぼくはこの録音を聴きまして、しみじみ教えられました。[…]沖縄芸能について、往々にしてある固定観念は、沖縄にこそ日本の原型がある、つまり、われわれの民族・種族のもっともプリミティブなものが残存しているのだ、という考え方ですね。それは一面の真相かも知れないが、やはりそこには『日本の』という、本土を中心にしたものの考え方があるんじゃないでしょうか。[…]嘉手苅林昌の場合もそうなんです。本土で何枚もLPが出て、島唄の神様といわれています。実際あれほどのうたい手はいない、しかし地元の古典派は、『あんな乞食芸人に沖縄のうたを代表されてたまるか』と、口にこそ出さないが、肝の中では思っている人がすくなくないでしょうねえ。」(46−47)
●固定化されず庶民の間に流動する芸能=「あんな乞食芸人に沖縄のうたを代表されてたまるか」という反論。宮廷によって作られた古典/排除された「うた」という視点。文化闘争と政治闘争が直結している文化論。

「小沢 […]日本中心の考え方じゃなくて、もっとアジア全体、さらには地球全体という考え方をしなくちゃいけない。ベトナムからやってきた、南の島づたいにやってきたと、その悠久な歴史の一時期に、沖縄と日本との相互浸透があった。そういうふうに、ぼくは思うんですが、どうですか?
竹中 ……同館ですね、ベトナムの音楽は沖縄とそっくり、泰緬国境のモン・カレンといった種族のうたも実によく似ている。ガムランなんかもね、これは観光用のじゃなく、インドネシアの地方小都市、農村で、野外でやっているワヤン(影絵芝居)、伴奏音楽に沖縄と同じリズムがあるんです。タイワンの島嶼原住民のうたにも。」(47−48)

「竹中 “流動するもの”は、庶民社会のみならず上つ方にも、体制の力学としてあるんです。言語を奪っていく、地名でもジャパナイズしていく。うたの世界にもそれが及ばないことはやはりないんで、たとえば嘉手苅林昌、登川誠仁などの島うた名人を聴くと、Wa・Wi・W・We・Woとうたっている。『ゐ』であって『い』ではない、『ゑ』なんですよ、『え』じゃない、それがウチナーグチ(沖縄言葉)なんですから。」(48)
●言葉を奪う=ジャパナイズする植民地主義へのアンチとして芸能への着目。

「竹中 […]真に沖縄的なるものを、もっと端的にいうならば、我らの心の裡なる《琉球共和国》の諸芸を、あるがままの姿で記録しておこうということになった。これはあくまでもドキュメントです、古典のように保存するという考え方では決してなく、あくまでも記録として。」(49)
●ドキュメントという文化闘争。保存ではなく、記録である=流動する今。「真に沖縄的なるもの」という物言い。流動する沖縄と「真に」ある沖縄という両義性を抱えた闘争。

「照屋 支配者は変わっても沖縄の心は失われず庶民の中にこそある。ちょっと気障(きざ)かもしれませんが、私はそのことがいいたくて、このレコードをつくりました。」(50)

「竹中 ニッポン帝国主義は、いや、低い国と呼ぶべきでしょう、わが低国は、その植民地支配の歴史を一貫して“共通語”による文化統制をおこなってきたんです。朝鮮でも台湾でも、そして沖縄でも、『早く内地語をおぼえるように』『皇国臣民として恥かしくない習俗を身につけるように……』」(50)

「照屋 […]ぼくらの集めた諸芸は、つまりそのチャンポンだったり、ウチナーグチ専門だったり、あるいはヤマトグチである、庶民的な混沌を表現しているんです。バチ札の問題は深刻に考えなきゃいけないことだが、庶民はそんなことでスポイルされやしないんですよ、侵略されちゃったのは、文化人とか教育者とかね、そういう人たちなのです(笑)、竹中さんがよくいうでしょう、風はオシメの窓も吹けば水はドブ板の下も流れるって。その風と水のリズムは、決して絶えることがないとぼくら信じているんですよ。」(51)
●ジャパナイズされきれない、侵略されきれない、庶民的な混沌、という視点。極めてポストコロニアルな主体論。

「竹中 […]やはり小沢昭一は“放浪芸”を琉球虚にたどるべきだと思う。[…]コンサートやレコードじゃなく、トシ姐さんの唄からね。だから、ジメジメ列島にもつながる、変な地下水脈も発見できた。これが湿潤を乾き上がらせる道か否かは、また別の課題だけれど。」(58)
●芸能の地下水脈。

「竹中 […]AサインのGIショーからです、そもそも特出しという芸能がはじまったのはね。」(59)
「照屋 […]海を渡ってきたうたですよ。とうぜん港から港へと運ばれていく、港町には女郎屋がある。それも廓だけではなく、サカナ屋と称する小さな料亭、娼売をかねていたりする、そこからうたがはじまり広まっていく。[…]サカナ屋にまずは定着して、農村にひろまっていく、けっして農村からではないのです。」(59)
●海を渡っていく唄。女郎屋、廓、サカナ屋。


■汝、花を武器とせよ!
「1969年11月、12月と、再度沖縄に渡航して、私はアングラ盤のLP『海のチンボーラー/沖縄春歌集』を、琉球放送の上原直彦、在コザの作曲家・普久原恒勇、キャンパスレコード店主・備瀬善勝らの協力を得て製作した。[…]不世出の名盤と自負するが、公序良俗をタテマエとする人びとからは、とうぜん顰蹙を買うこととなった。また、ヤミクモにつっこんで先鞭をつけた営為であったから、解説の誤りも間々あって、半可通に揚げ足をとられたりもした。それいらい――、いわゆる沖縄文化人(ヤマトの学者諸先生もふくめて)、“古典派”の私に対する評価は、極めて香ばしくないのである。
 いわく、『沖縄芸能をポルノグラフィーと同列に置くのか』『性的アナーキーの汚名を県人に着せるものである』『これは竹中労の恣意的な島うたの変造であるまいか』等々。むろん変造であるはずもなく、猥褻・ポルノこそ人性の本然であると確信している私は、そうした差別的偏見に、ムキになって答える必要もなかった。いやむしろ、異端の作業と逆評価されることを、心中ひそかによろこびとしてきたのだ。」(63)
「当夜[1972年1月27日]、沖縄娼婦の生きざまを描いた『ムトシンカカランヌー』、在韓被爆者の記録映画『倭(ウエ)奴(ノム)へ』、2本の長編ドキュメントが上映された。ムトシンカカランヌーとは、元手の要らない商売、すなわち娼婦、やくざを指す沖縄の隠語である。そして、倭奴は、朝鮮人が日本人を罵っていう差別用語、いずれも公序良俗の埒外にある。観衆である若者たちは、この映画に烈しい拒絶反応を示した。彼らはおおむね新左翼の学生であり、“沖縄奪還”“沖縄解放”をスローガンに掲げるセクトに属していた。たとえば、こういうのである、『どうしてこんなキタナイ映画を、君たちは撮るのだ? 売春というのは最低の職業じゃないか、肉体も精神も腐り果てた売春婦を、沖縄の恥部を曝して何が面白いのだ。もっと美しいものを、労働者や人民の英雄的な基地反対、米軍との闘争を、なぜ君たちは撮ろうとしないのだ?』
 こうもいったのである、『これは、反革命映画である、人民を指導する理論を持たないから、朝鮮人被爆者とかパンパンといった、一部の人間の悲惨しか描けないのだ。しょせん、ルンペン・プロレタリアートなんざ、革命の主体にはなれないんだよ、落ちていくものは落ちていくのダ』。一部の人間といいきれる、その惨心が部落・朝鮮人、芸能への差別を生み出す。“革命派”は“古典派”とまさに合体するのである。人間はどん底まで落ちても、いやその奈落にあってこそ、虚飾なく人間であるということを、たとえば辻のジュリグワーたちのように、切々たる哀歌を(あるいは底ぬけに朗らかなリズムを)創ることができるのだ、という認識を欠落して、いったいどこに真人民の桃源を、万物斉同の彼岸をみることができよう!
――私は1つの光景を回想した、この眼で現認した沖縄の真の恥部を。全軍労のピケが張られた嘉手納の基地のゲート前に、酔ったAサイン・バー(GI相手の酒場)の女が、パンティ1つであらわれ、『うちらの商売をどうしてくれるのよ!』と金切り声をあげた。労働者・学生たちはゲラゲラ笑い、キチガイ帰れと彼女を罵った、中には石を投げるものまでいたのだ。ムトシンカカランヌー、革命の公序良俗からこぼれ落ちる、被差別の窮民たち、そこに河原乞食とかつて呼ばれた芸能者のふるさとはある、沖縄は政治の島であるよりも、人間の島・芸能の島でなくてはならないのである。」(65―66)
●沖縄の保守・革新双方からの反発

「そして書きおえようとするたったいま、アナキスト爆破グループ逮捕のニュースを聞いた、私の心象風景にはそれとこれとが、なぜか交差する。1973年から74年にかけて、“汎アジア幻視行”に旅立った私は、沖縄からさらなる南の海へと、インドネシア・ボルネオまで、“真南風(まはえ)なす道”をたどった。東南アジアの庶民は、まさしく無政府の風と水のリズムを生活していた、彼らにとって“革命”とは、1つの体制がいま1つの体制にとってかわる“政変”でしかなかった。まずしくとも音曲芸能を心から愉しみに、おおらかに性の讃歌(ほめうた)をうたって、文明の秩序になずもうとしない、辺境の人びとの自由な生きざまに、私はむしろ人間の桃源を見た。ダイナマイトの炸裂に、体制の崩壊を企図したアナキストは、修羅の涯てに何を幻視していたのか? たとえば、やくざ・女郎・芸人……、その差別の裡なる“自由”に、彼らは理会できただろうか?」(68)
●沖縄とアジア=辺境の人びと、自由な生きざま、無政府の風と水のリズムの生活

「ふつうの生活とはなんだろう、たとえば彼らは、美空ひばりを、都はるみを聴いていたのか。『東アジア人民、韓国・アイヌ・沖縄に連帯する』というのならとうぜん、嘉手苅林昌の島うたを、カチャーシーのリズムを、聴いていただろうか? 『あんたら芸術家(!?)は、カクメイと関係ねえんだよ!』と、私に噛みついた沖縄の若者の貌を、ふと想いおこすのである。新・旧を問わず日本の革命派には“芸能の論理”が欠落しているのだ、人民に依拠するという、あるいは人民を解放するという、だがそのどこに依拠するのか、どこに向って解放するのか?
 やくざ、女郎、芸人、彼らの耳にはついに撃攘のリズムは届かなかった。頭を刈り上げ背広を着さえすれば、簡単に恒民を演技することができる近代社会の擬制の中で、彼らもまた、擬装の人民でしかなかったのである。ダイナマイトの炸裂にしか、彼らは“革命のうた”を聴かなかった、そのことにむしろ、私は哀傷をいだくのである。『テロリストのかなしき心』(石川啄木)を……、もっとも全人間的な、幻視のユートピアを志すべきアナキストを自称しながら、支配の欺罔にからめとられねばならなかった日本の青春を、私は悲しいものに思うのである。“歴史”はいつまで、重苦しい擬制の秩序に人間を置くのであろうか?」(70)
●人民解放の拠点としての“芸能の論理”。→新旧左翼の革命論が人民に届いていないという感覚。

■琉球諸芸・補遺
「Kションカネ小(ぐわー)[…]八重山の若者たちは夏がくると、戸外でトバルマの歌合戦に興じる、つまり毛遊びーである。翌る朝、疲れ果ててキビ畑のあちこちに倒れている若い衆、夜をあかしてしまった娘たちが、そっと家の門をくぐる姿がみられた。そしてある日、ヤマト巡査が多勢でやってきて、トバルマをうたうことを禁じられた。勤労意欲をそぎ、風俗を壊乱するものであるという、毛遊びー頭の長一は、若者たちの先頭に立って交番に石をブン投げて、めでたくブタ箱入りとなった。さんざん殴られて、南瓜のように腫れ上がった顔でシャバに出てくると、徴兵検査が待っていた。まもなく中国大陸で戦争がはじまり、先島はもとより、沖縄全島に毛遊びーのうたごえは絶えてしまった……」(78)

「Pクルダンドウ節[…]奄美から沖縄を流浪していたという、『歩き淫売』(ヅレとこれを称した)の残影であるまいか? この娼婦たちは花丸、蝶丸などと“丸”のついた源氏名を称した、酒宴にまねかれてうたい踊り、客のもとめに応じて肉をひさぐ浮かれ女であった。また、奄美の諸島には『舟まんじょ』と呼ばれる娼婦がいて、船員相手に春を売っていた。“ヅレ”はおそらく連れか、巡礼に訛りであろう、チョンダラーひとしく彼女たちは、出雲阿国の血脈をひく漂泊の遊芸であったと考えてよいだろう。芸能は海上の道を南から運ばれ、そして再び北から島づたいに、沖縄に帰ってきたのではあるまいか?[…]薩摩の黒糖地獄、その苛酷な収奪を差別とのはざまで、旋律は烈しく哀調を帯び、かえって煽情的なエロチシズムを、絶望を突きぬけて底ぬけに滑稽な自棄糞なリズムを、創唱したのではないか……。」(83)
●苛酷な収奪と差別から哀調、エロチシズムのうたが生まれた?

「日本政府は明治12年の琉球処分から、同31年に至るまで、実に20年間も沖縄に徴兵制度を実施できなかった、それは頑強にニッポン国民であることを拒否する人民が、きわめて多かったからえある。明治31年、徴兵制度を施行すると、逃亡する者が相つぎ、右手の示指を切断(銃の引き金をひくことができない)する者、石炭の粉で目をこすって角膜炎をよそおう者などが続出した。明治40年代に入ると、合法的に海外に移民して徴兵をまぬがれる者が圧倒的に増加して、明治42年にはなんと壮丁適齢者4700名中の2300名もが、渡航・海外在留という珍現象がおきた。『シンガポール小』、俗に“移民哀史”といわれる背景には、そういう事情もあったのだ。」(84)

「30 花風(尾類小風)[…]昭和3年、日本青年館で琉球舞踊の公演があったときのこと、『花風』『鳩間節』等の“雑踊り”は正式なものでないとして演目には入れられず、非公式な形で後日に朝日講堂で別に演じられている。[…]『花風』を踊ったとき、熱狂して拍手を送る観衆を、見物していた折口信夫は『不健全である』と非難したという(池田弥三郎の前出論稿による)」(91) ※池田弥三郎「琉球の舞踊」
「75年春の琉球フェスティバルで、北島角子が『50年後の花風』――尾類が老婆になってもまだ手巾(てじき)持上(むちあ)ぎて踊りつづけている――を踊ったとき、楽屋にわざわざやってきて、『これは古典を冒涜するものだぞ!』と怒鳴っていったウチナーンチュの老人がいた。『花風』が差別の古典であることを知らぬ、この人などはまだよいほうで、他の会場では舞台の袖に酒気を帯びてあがってきて、『こんな流行歌みたいな島うたをなぜ唄うのか、古典をやりなさい、古典を』としつこく絡んでいったウチナーンチュもいたのだ。やや心悸昂進していうが、この4枚組のLPは、そうした沖縄人自身のうちなる差別への1つのプロテストである。」(92)
●沖縄の人々からは「そんなもので沖縄(芸能)を代表するな!」というプロテスト。「差別をしないマイノリティ」という神話への抗いのような文章。

■むかし、歌垣ありて…… 風と水の詩とリズム(『沖縄情歌行――夜桜コンサート・ライブ盤』ビクター盤2枚組〈解説〉他より)
「『毛遊(もうあし)びー』という、毛とは広場(野原)のことである。
 若い男女の交歓であれば、とうぜん歌詞は恋と性に関わり、旋律は甘く淫らであった。そう、もと人間のうたは、公序良俗の埒外に自由であり、“猥褻”などという文明社会の禁忌に、呪縛されなかったのだ。人びとはその思念や感情を、自在に言葉にあらわしたり、リズムに乗せたりしたのである。うたってはいけない〈うた〉、禁じらるべき音曲など、人間が真に人間であった時代には、どこにもなかった。」(99)
●毛遊びを、公序良俗の外、禁歌のない自由な空間・時間として象徴化する。

「むかし、歌垣ありて……、眼をとじてこの盤を聴いていただきたいと思う。いまはもう伝説の『毛遊びー』、南東の草のしとねに、月明のしとねに、月明の白浜に、くりひろげられた若者たちのフリーラブ・コミュニティ(恋愛共同体)の挽歌を、風と水の桃源の調べの残響を。
 1975年4月1日『琉球フェスティバル・’75春』の最終日、私たちは京都の丸山公園野外音楽堂で、沖縄島うたの”情歌”の数々を、いうならば今日的な『毛遊びー』、歌垣の面影(うむかじ)を再現する意図で構成した。[…]これまで本土に紹介されてきた沖縄の諸芸は、『古典』と呼ばれる、形骸化した睡気を誘う態のものか、観光コマーシャル用の(まさに本土向けの)舞踊。音曲がほとんどで、いきいきとした本然の庶民の営農は、ごくまれであったのだ。
 《海洋博》の年をむかえて、沖縄の歌舞にさまざまな形での関心が寄せられているが、それは真に南島の人びとの生きざまと、情念に深く触れているだろうか? たとえば、この盤(『沖縄情歌行』)に衆力された曲目、“情歌”と総称される相聞のうたは、沖縄では差別され蔑視されている。[…]『嘉手苅林昌もよいが、沖縄の音曲を彼に代表されては困る』という苦情を、この不世出の島うたの名手を本土に紹介した私は、いくど聞いたことか! […]こういうLPが本土で出ること、それ自体が沖縄の恥である、という受けとりかたすら成り立つのだ。
 そのかみ、『毛遊びー』を禁止した琉球の王府・権力者は、音楽奉行など役職を設け、これにもっぱら優雅、荘重、気品を旨とした形式的楽曲を作曲させた。」(102−103)
「私たちは、真の古典を否定するのではない。権威の祭壇に形骸と化した、いえば上に向かって堕落してしまった擬「古典」を、逆に蔑み拒絶するのである。
人間のうたの復権を……、葬られた無数の湛水親方を、庶民社会に流動しながら、いや、流動するゆえに悠久な、うたいつがれる風謡の呂律を、千波万波のリズムを!」(104)
●琉球王府・権力者によってつくられた音楽が、庶民の情念にふれていないことへのプロテストとしての情歌の提起。琉球王府・権力者によってつくられた音楽を消費する本土の人びと、という構図へのプロテストでもある。琉球王府・権力者と本土の人間との相互補完関係へ楔を入れるという視点。

「B片思(かたうむ)い[…]
――訳詞の必要はあるまい、せめて一夜の恋を語りたい、この片思いをどうしても思いきれないのですものと、嫋嫋たる女ごころ訴える。こういう曲になると、大城美佐子は生身の女のSEXを、こよなくエロチックに表現する、すさまじいまでの迫力をみなぎらせるのである。長身ではあるが、見るからに肺活量のないか細い肉体を、絞り切るように絶唱するのだ。けっして美貌とはいえない、しかも無口でひかえめな彼女が、まさにセンシュアルに、官能の光芒をきらめかす。」(126)
●沖縄=エロチシズムと女性……。女性化される沖縄?

「C今帰仁天底節(なちじんあみすくぶし)[…]7つのときに親に死に別れ、伯母1人を頼ってきたが、大阪の街の灯にあこがれて、意見もきかずに家を出てしまった。琉球人の居住区であった北恩加島で働き口を探したけれど、すがるべき知人もなくて、仲居女中奉公をするうちに、おなじ沖縄の若者と恋をして結ばれた。1年2年の間は梅よ鶯よと暮らし、かわいい子供も出来たのだけど、夫に連れられて島に帰ってみれば、意地悪い義母の冷たい仕打ち、いびり出されて幼児をかかえ、生きていく手だてといえば花の島、女郎に身を落すより他になく、こうして春を売っているのです。……大城美佐子はむしろ淡々と、感情を抑制して7分あまりの全曲をうたい切ろうとする」(128)

「1969年11月3日“文化の日”の午後である。[…]その夜10時まで、およそ5、6時間の余もたっぷりと、うたい来りうたい去る、嘉手苅島うたを聴いたのである。正真正銘の馬鹿に私はなってしまった。言葉もわからず、曲の題名すら定かでなかったが、行雲流水のその旋律の虜となった、それが島うた狂いの事始であった」(131)

「出稼ぎ、出征――“旅立ち”の哀別を主題とした曲が非常に多い。『南洋小唄』もその代表的な1つであり、このほかに『サイパン節』『シンガポール小(ぐわ)』『南洋浜千鳥』等、戦前から庶民社会にうたいつがれてきた名曲名唱がある。」(134)
●島うたのじゃんるとしての“旅立ち”の歌。そこにある出稼ぎ=貧困と出征=戦争の歴史。

「復帰のあとさき、耳をおおいたくなるような、ジャパナイズされた“観光民謡”の氾濫はあった。いまも、無惨なその後遺症は尾をひき、キンピカ衣裳で男性も薄化粧した「民謡ショー」が、さかんにおこなわれている。だが、だからといって、そこに民衆的感覚の喪失をいうのは、民衆に対する誤解であり、裏返しの差別ではないのか? 就中(なかんずく)、左翼の人びとから、そうした議論が提起されるのは、けっきょくおのれの意識構造に、物神化した『民衆』の像を措定してしまっているからなのだ。人民とはかくあるべきもの、という固定観念で眺めるとき、変幻自在な真人民の姿は、見失われる。
 沖縄島うたの根底にあるものは、風と水の呂律である、生きとし生けるもの=自然と、人びととの間に境界のなかった、太古の桃源のリズムである。しかし、風は特飲街の裏窓にも吹けば、水はドブ板の下をも流れる。文明の重力に支配されながら、しかもしたたかに、生命の哀歓を奏でてやまぬのだ……、そえが“民衆のうた”なのである。」(135)
●「観光化=民衆の喪失」言説の差別性の批判。民衆は変幻自在に、島うたの根底に、生き続けているという視点。沖縄の客体化(非主体化)を論じる「左翼の人びと」自身が、歴史から沖縄の主体性を排除してしまうという批判。

「八重山群島のうち、西表島には炭坑があった(いまも廃坑が残っている)。本土の各地から坑夫(こた)が送りこまれ、下罪人(囚人)と等しく、飯場に監禁されて強制労働に従事させられたのである。脱走するものは私刑に遭って殺され、不具にされたが、海を渡って石垣島に逃れた者は、親切な八重山の人びとにかくまわれ、そのまま娘の入婿になる者もあり、新田を開墾して土着する者もあった。八重山に数あるヤマトグチの謡は、それらの『炭坑ひんぎ者(むぬ)』(脱走者)たちによって、口づてに残されたのである。『磯節』『ストトン節』から、昭和初年の流行歌『満州娘』『道頓堀行進曲』に至るまで、歳月はそれをみごとに琉旋と化してしまっている。“民謡研究者”たちのいわば死角に、それらの曲は置かれているが、『上り口説』『下り口説』『八重山万才』『高平良万才』などの古曲、組踊り等も、もとをただせば大和渡りなのである。」
●西表島の炭坑への人の流入・脱走によって歌がひろがっていく。

■沖縄春歌行(『えろちか』1970年1月)
「人みなが、自由にほがらかに、こんな謡をうたっていた日々が、沖縄にはつい間近にあったのである。
 猥褻とは、実に素晴らしいことではないかと私は思ってしまう、あなたもぜひそう思ってほしい。」(152)

「王府は宮古、八重山諸島に在番奉公制度をしいて、財源をここにもとめた。強制移住、強制労働にくわえて“人頭税”という、世界にもまれな税法による苛酷な収奪がおこなわれた。巨額の年貢を唐・大和に献上しなければならぬ琉球王府が、その苦難を庶民に肩わりさせようとして考え出した悪税であった。」(156)

「税を取り立てるだけでなく役人は娘も人妻もおかまいなしに、強制的に賄女や妾にした。悲しいかな、のちには貧しい暮しから脱出する手段としてすすんで妾志願をする者もでてきたというが、それを誰が責められよう。」(157)
「人頭税、強制移住という惨苦の中で、イモ喰ってしかもなお“人間”が人間であろうとするとき、猥歌はうまれる。」(159)
●貧困による身売りの歴史「それを誰が責められよう」という主張。革新勢力は「それは沖縄の恥部である」とすることとのちがい。苦しみや矛盾をこそ丁寧に見ろ、ということか。その矛盾を引き受け、また抗おうとする人びとの常道を「うた」にみる。

「庶民文化破壊の元凶NHK、公序良俗に抵触しないように猥詞をつくりかえ、『海ぬチンボーラー』以下の“猥雑なる”歌曲は、一切放送禁止ときたもんだ。哀れなるかな地元の民放も、これに右にならえ!
 とうぜん、『復帰』を祝って、かの嫌らしき宮田輝の“ふるさとのうたまつり”その他もろもろの文化公害、どっとこの美(は)しき島に流れこむ。ものみな本土並み、ニッポン低国文化的植民地主義の毒におかさえて〈うた〉は亡びゆくのである。」(166)
●復帰=文化的植民地主義による文化・思考の本土並みの導入。NHKは文化公害である。となれば、竹中労プロデュースのLP、映画、コンサートへの反発が強い中では、ある意味で文化公害抗争とでもよべる状況が生まれていた。

「1970年12月2([ママ])日、コザの街を焼いた“暴動”も瞬時の反乱に終り、いま残された唯一最後の財産であるもろもろの固有の文化すらを、沖縄人はヤマト帝国主義擬制の“繁栄”とひきかえにしようとしている。つまり、われわれ旅人を蠱惑にさそう歌舞芸能のうちにこそ、実は沖縄が永久に植民地としての支配を受けつづけてきた要因が発見できるのではないか?」(167)

「それらの〈うた〉は、哀怨というよりユーモラスであり、解放的であり、あまえほこり(エロチックな哄笑)にみちあふれていたのだ。沖縄で私が出合った〈うた〉は、まさにそのような下人、百姓の遊び唄であった。」

「一方に木片の棹、渋紙の胴でテントルチクトンテンとはやし立てる、下人・百姓のうた声は、若い男女が夜を徹して歌い、むつみあう毛遊(もうあし)びー(歌垣)を流行させ、一方には尾類たちの情歌が、でんめんたる“恋尽”の情緒をかなでた。両者は時に混淆して、琉球庶民の〈うた〉を形成していったのである。」(172)
●島うた: 下人・百姓の遊び唄と尾類たちの情歌

「そのむかし辻、中島、渡地の3遊郭で、娼婦たちは1匹、2匹と算えられた。尾類小(じゅりぐわー)とは、尾の生えた獣類という意味でもあったのだ。〈うた〉が人間のよろこび、哀しみ、たのしみ、怒り、そして居直りの表現である以上、娼婦たちのブルーズを、下人・百姓のあけすけな性のコミック・ソングを、沖縄の“民謡”から除外してよいわけはない。
 いや、それらの生々とした低俗かつ卑猥な〈うた〉どもを、公序良俗のふるいにかけて棄て去ったときに、〈うた〉はまさしくその生命を失うのである。嘉手苅林昌の世界――それは文明の秩序と習俗になずまない、真に人間が人間であった無政府共産の時代の讃歌であり、イチヂクの葉で無垢な肉体と精神をおおいかくそうとする、近代社会の欺瞞へのプロテストなのである。」(176)
●島うたに公序良俗の埒外の世界、無政府共産の時代の讃歌、真に人間が人間であった状態――よろこび、哀しみ、たのしみ、怒り、そして居直りの表現――をみる。

「あまりにも自由であり解放的であったがために、琉球の人びとに日常の怨念の蓄積と噴射を忘れさせたとも、一面いえるのであるが――。」(191−192)
●うたによる解放によって、怨念の蓄積と噴射が忘れられ、植民地化されつづけた??

「哀りからなたる辻町の女たちの世界にも流入して、いうなら“朝日の当たる家”の悲傷をこめた琉球ブルーズを形成した。『中島節』、その代表的なものである。」(192)
●ブルーズとしての島うた

■失われた海への挽歌(『嘉手苅林昌の世界』コロンビア盤5枚シリーズおよび『独演/嘉手苅林昌』ビクター盤3枚シリーズ〈解説〉より)
「『海洋博』キャッチ・フレーズは“海・その望ましい未来”であるが、私はむしろ太古のままの悠久の姿で、沖縄の海はあってほしいと思う。なぜならこの数年、見るたびに海は汚染されて、美しかった元の姿を失っていくからだ。[…]平安座島、その隣の宮城島、北端の伊計島まで、石油コンビナートが林立して、廃液を流すばかりでなく、埋め立てられ陸つづきになってしまった。もはや泥の海である、魚は死に絶え、灰汁のような水泡が、赤茶けた海面に発酵している。たった数年でこの変りようである。“文明”とはいったい何だろう?[…]“文明”と称する人間の思い上がりは、海を冒し自然を?し、究極はみずからを終末の地獄へ、追いこんでいくのではないのか?」(207−208)
●復帰による開発の進行

「1972年5月15日、日本復帰前後の数カ月を、私は沖縄でほとんどすごし、ゆく日くる日をやるせのない怒りと悲しみですごした。海を奪うもの、そして海を付すものは誰だ、沖縄全島の海岸線の土地は買占められ、埋め立てられて、公害企業・観光資本の恣意のままに変容していく。これが『海・その望ましい未来』か? 薩摩・明治の琉球処分も、この荒廃はもたらさなかった、経済野蛮ヤマト世替(ゆーがわ)りは、自然と人の心を破壊していく。
 悪しきジャパナイズの毒流から、島々浦々を守るスベはないのか? せめて島うた、沖縄庶民の音曲は、唯物功利の世のなりゆきから自由であってほしい。」(222−223)
●復帰によるジャパナイズ

「米軍の命名によって誕生した街、アメリカナイズの象徴として、コザはある種の偏見で語られる。とりわけ日本からやってくる、視察団と称する左翼ヤブニラミ、反米愛国の人びとは悲憤慷慨していうのだ。ここは異民族支配のソドムとゴモラ、売春と犯罪の都市、祖国の中の異国、と。なるほど、夜ともなればゲイト通り、ビジネス・センター、黒人街、Aサイン・バーの灯は輝き(最近ではめっきりさびれたが)、GIがわがもの顔で徘徊する。国際色ゆたかな街、看板はいたるところ横文字であり、ホテルは毛唐だらけ、原色の女たちが闊歩する。[…]それはコザの表層である。むかし越来村の風と水の呂律、脈々と庶民社会に流れる、逆説的にいうなら基地の街だからこそ、四半世紀以上もの間、アメリカ軍政下に置かれて、ヤマト文化圏と隔離されていたから、そこに琉球庶民諸芸の伝統は絶えることがなかった。[…]私の愛する謡人たちの大半は、コザ・基地の町に網羅されてしまう。
 わが街コザ、時代の流れにうつろいながらなお、むかし越来村でありつづける街、沖縄庶民の生きざまを、とりわけてそのうたを、悠久の桃源に回帰するリズムを、失わず奏でつづける街……。(228−229)
●アメリカナイズされた沖縄の表層。それを強調するヤマト知識人・活動家。表層の中で脈々と庶民社会に流れている芸能の伝統。

「若かりしころ私には、『チャーリー・パーカーより他に』“神”はなく、美空ひばりに傾倒してからもなお、たとえば彼女のうたう『哀愁波止場』『哀愁出船』、海をテーマにした絶唱に、ニューオルリーンズで生まれた二グロのブルーズと通いあう、疎外のシンコペーションを、ラグタイムを聴いてきたのである。そして私のビートルズ……、リズム&ブルーズ、ツイスト・アンド・シャウト! 魔のごとく襲う一期一会の音楽的昂奮、波のうねりはさらに私を南東に攫った、4番目の“神”である嘉手苅林昌、彼のうたこそ私のもとめていたもの、ビーバップ、流歌、リバプール・サウンズを止揚して、人間の始原へ回帰する、風と水の呂律であった。『音楽は階級意識よりすぐれて革命である』と、私はいま、断言することができる。[…]ただ私は、この盤を聴くあなたに、海は美しく人の心は汚れていなかったむかし琉球、その〈潮騒のリズム〉が届けば、と思う。そして、これらのうたは、明らかにヤマト文化圏の埒外にあり、音楽の世界に限っていうならば、沖縄琉球共和国は、日本列島から独立しているのだということを理解してほしい、それが、嘉手苅林昌の世界なのである。」(233)
●第4のうたの神、嘉手苅林昌。うたにおいては独立した琉球共和国、ヤマト文化圏の外である。

「吟遊詩人・嘉手苅林昌は、失われた海への挽歌とひとしく、かぎりないやさしさをこめて、娼婦たちへの“連帯のうた”をうたうのである。それは、ウーマン・リブ、女性解放運動家と自称する連中のどんな論理よりも、すぐれて人間性の真実に、窮女への愛情に裏打ちされた、深い説得力を持つのだ。[…]彼女のうたう窮女のブルーズ[…]柳田国男のいわゆる沖縄民俗学説への反措定として」(237)
●窮女への連帯の歌としての島うた

「生真面目に執念深い人の怒りを買い、『沖縄の古典を冒涜するものである』という講義の論文(!?)を、地元『沖縄タイムス』に載せられた。」(248)

「移民――海洋国家であった沖縄、ヤマト統治の下に置かれてからは、人口問題がもっとも大きな矛盾となった。[…]第1回移民26名が、当山のあっせんによりハワイ島に上陸したのは明治33年1月16日、さらに台湾、フィリッピン、北米大陸、南米と、沖縄から海外への人口流出は、級数的に増大していったのである。大正期に入って、南方移民盛んとなり、シンガポール、インドネシア、南洋群島への出稼ぎをうたにまで唱われるようになった。」(255)
●移民の声・経験としての島うた

「心なきヤマトンチュ、いや、地元のいわゆる知識人たちも、このようなコザを沖縄の恥部という。昼間人口6万に比して、夜間人口は9万と50%増加する、そこに働く3万人余りのホステス、ウエイトレス、ボーイ、あるいは売春婦、やくざ、ムトシンカカランヌーは、“革新”勢力にとって労働者ではない。ルンペン・プロレタリア、卑しむべき人外でしかないのである。[…]その生きざまに、身を寄せようとしないものは、〈島うた〉のこころ、とりわけ情歌、ジュリグワーの歌の世界には決して理会できない。
 この町にこそ沖縄庶民の元姿、その音曲の復興はあったのだ、と私がいうのは逆説でもなく、もちろん比喩でもなく、まぎれもない現実なのである。むかし越来村や『毛遊びー』について、私は“桃源”という言葉をつかった。誤解のないよう、念を押しておく。私のいう桃源・ユートピアとは、不老不死の国でも、極楽の花のうてなでもない。人間が真に人間であった時代、そこには海山千里に雪も降り、風も吹いたのである。人は飢え、人は死んでいった、失意の悲しみも、孤独の苦しみも、栄辱愛怨こもごもに人を襲った、だからこそ桃源であった。桃源とは、つまり約束の地である。“文明”の鉄鎖から人間を解き放ち、一部の制度を廃絶する彼岸に至る人びとの苦患の過程に、いささか抹香臭い言い方をするなら、『唯心の浄土』として確かに存在するのである。」(258)
●コザは恥部ではなく、モトシンカカランヌー、沖縄庶民の姿がある。桃源とは人間が人間であり、解き放たれ、制度を廃絶する彼岸に至る人びとの過程である。

「嘉手苅のうたう『軍人節』は、いま“祖国復帰”(薩摩・明治・敗戦につづく4度目の琉球処分)後の沖縄県で、静かなブームを呼んでいる。昭和15年、この曲の作曲者普久原朝喜は“反戦思想の持ち主”として憲兵隊の取調べを受け、『軍人節』のレコードは白金となった、庶民にとって国家とは、制度とは(すなわち文明とは)、海洋を汚染し尽くし、貧しい娘を籠の鳥にするばかりでなく、その花の調べをも奪い去って、戦争と監獄とをもたらす、自由の簒奪者に他ならない。読者はこのカテガル節から、『人間が真に人間であろうとする』魂のうめきと叫びとを、汲みとってほしいのである。」(265)
●国家・制度=自由の簒奪者。祖国復帰後に「軍人節」がリバイバルする→反国家のうめきと叫び。

「1965年の春、中華人民共和国から東南アジアへと、放浪の足は南方へ向った、亜州の陋港・辺境に、うたの旅はひろがっていった。沖縄へのパスポートを、何度も拒否されながら執念深く、毎年申請する作業をはじめたのも、その年のことであった。」(297)
●1965年から沖縄渡航申請、しかし認められず→1969年

「楽譜に忠実であるということは、とりもなおさず、作曲に対する批評行為がないということである。バロック音楽の時代には、そんな教条主義的な規制はなかった、人びとは自由に創意を譜にくわえて演奏したのだ。」(327)
●創意作業としての島うたの即興演奏。過去の歌を、今唄うことの批評行為。戦争、貧困、自由を今唄うことの批評性。

■花の島・怨歌のひとくさり(「西表・その波と風の果てに」『旅』1972年6月、『おきなわ怨み節』(I沖縄本島・II宮古・III八重山)ビクター盤3枚シリーズ〈解説〉より)
「この盤には、大正〜昭和にかけて、いわば『流行歌ふうに』つくられた曲を、主として収録した。中の解説で詳しく述べてあるが、それは沖縄にとって、人情と自然が失われていく過程としての半世紀であり、とりわけて大東亜戦争という、悲劇というもおろかな大量殺戮をはさんでの苦惨な時代だったのだ。したがって多くの悲歌がつくられた、それはエレジーというよりも、むしろ“怨み節”であり、私たちヤマトンチュの心を鋭い刃のように刺すプロテスト・ソングである。」(341)
●戦争と貧困、差別や抑圧に対するプロテスト・ソング。

「皇太子夫妻に投げられた火焔瓶は、実はなべてのヤマトンチュに、沖縄庶民の怨念をこめて、ほうられたのではなかったのか? 半世紀の悲苦、さらにさかのぼって薩摩大和の支配、収奪の歴史[…]を、“国家の祭り”は何一つ語らない。私がこのシリーズを企画したのは、せめて〈うた〉に耳を貸してほしいとの連帯のいとぐちを探ってほしかったからである。そう、理屈ではなく〈うた〉に耳を貸してほしいのだ。そこから何を汲みとり、どういう結論をひき出すかはあなたに属する営為である。」
●連帯のためのLP製作。国家による支配と収奪の歴史への怨念の表現としての島うた。それを埋めていこう、排除させていこうとする国家の式典=復帰→海洋博。

「1974年初夏、『琉球フェスティバル』の準備で、沖縄と本土との間を再三往復した。」(376)

「島ちゃびだから哀傷、骨にきざむ労働の惨苦という、カット・アンド・ドライ“左翼紋切り型”に釘をさしておきたかったからだ。庶民というやつは、勤労人民のイメエジとはちがって、したたかに粋なのだ、苦しいからこそ切ないからこそ春歌、つやうた、糞マジメに教訓歌なんざうたっちゃいられない、八重山『デンサー節』もこの曲[『なりやまあやぐ』]も、はじめは知らずいつか“情節”へとうたいかえられ、絃歌の情趣を与えられたのである。」(379)
「いわゆる“復帰”の前に、私はどうしても沖縄の島うたを、その『異族の旋律』を、多くの日本人にぶつけておきたかった。植民地に対する共通語支配、ウチナーグチを話すと放言罰フダを首にかけられたり、持たされたりした同化政策からうたはついに自由であった」
●庶民=左翼紋切型のまじめな労働者ではない。苦しみ、切なさの中でこそ春歌を唄うようなしたたかさと粋がある。権力者を笑っていくようなしなやかさ。権力によって捕獲されえない民衆。絶えないうた。

「八重山の海は美しい、もし凪いでいたらそれは女性的に優雅で、まさしくやすらりの海であったにちがいない」(431)
●女性化される八重山の海。復帰後、よごしていった日本資本。

■あとがき
「私はこの書物で、赤線復活を主張しているのではない、“制度としての売春”を私は一貫して憎んできた。だがその制度の下で、人身売買の生地獄から切々たる哀歌(ブルーズ)を、あるいはしたたかなあまえほこり、『涙押しのごて笑てみせる』諧謔のリズムを生みだした沖縄尾類小、その心映えすら奪い去る琉球処分、さらなる地獄へと彼女らを追いこんでいくヤマト公序良俗に、異議を申し立てているのだ。制度を以て制度に換えても、売春は決してなくならない、その根本原因は貧困である、『貧困とは相対的な概念であって、資本主義的な生産様式の続くかぎり、金銭への飢えから売春する女たちは後を絶たない』。再びフックスの言葉からの引用である。[…]ヤマト復帰=売春防止法の施行は、かえって彼女たちを苦海に沈めたのだ。」(448)
「真に悪どい手口で、窮女を搾取している連中は、けっして法律の網にはかからないのだ。」(451)
●復帰と琉球処分によって人びと/モトシンカカランヌーの生存と生活が破壊されていることへの異議申し立てとしての本書、島うたLPプロデュース。


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20111005 
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
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