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『精神医学と疾病概念』

臺 弘・土居 健郎 編 197505 東京大学出版会→20100819 みすず書房,精神医学重要文献シリーズ Heritage,296p

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臺 弘土居 健郎 編 197505 『精神医学と疾病概念』,東京大学出版会 ASIN: B000JA1OZQ [amazon] [広田氏蔵書]→20100819 みすず書房,精神医学重要文献シリーズ Heritage,296p. ISBN-10: 4622082381 ISBN-13: 978-4622082385 [amazon][kinokuniya] ※ m.

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「健康と病気の境を論じるという議論は、決して抽象的な話題でなく、
精神医学の体系が根幹のところで揺さぶられ、
精神科医という同業者集団が、この問題を巡って大きく意見が対立する中での、議論だったのである。
すなわち、「病気」の概念を巡る議論は、
ひとりの精神科医である自分の立場・生き方を自らに、
同業者に、そして社会に対してどのように示すか、という決意の問題であったことをうかがわせる」
(村井俊哉「解説」より)

本書の初版は1975年に刊行され、その前年に行われた精神医学者たちによる集会に端を発している。
編者によるその討議集会のよびかけの言葉によれば、
「伝統的な医学モデルによる疾患概念は社会モデルに挑戦されて」いた時代の、
ある討議集会の記録である。

病気とは、健康とは、そして精神医学が治療の対象とすべき「疾患」とは何か。
レイン、クーパーらによる反精神医学運動の波、さらには忍び寄る操作的診断基準の足音を聞きながら、
討論の参加者は自らの精神医学観を明らかにしていく。
精神医学のみならず、社会学、遺伝学、精神衛生学など多様な立場から
「疾患」の意味に迫った本書は、今日の精神医学の立脚点すらも問う迫真の書である。

内容(「BOOK」データベースより)
反精神医学運動、忍び寄る米国の操作的診断基準の影―。精神医学体系の根幹が揺れた時代に、疾患とは、そして精神医学とは何かを問うた、ある討論の記録。

まえがき
病気と疾患、生活概念から生物概念へ …  臺弘
類型と疾患についてのエッセイ   …井上英二
精神医学における疾病概念――社会学的視点から  …荻野恒一
内因精神病における疾病概念の今日の混乱について――心因論の立場からの考察   …笠原嘉
疾病概念と精神障害   …土居健郎
精神衛生の実践面から――病院以外の場で、ケースや家族と接して   …佐々木雄司
クレペリンのパラノイア論――精神医学基本問題の形成   …内沼幸雄
治療の観点からみた疾病概念――臨床医としての立場から  …吉松和哉
統合失調性疾患類型の細分化について   …藤繩昭
国際疾病分類と精神疾患概念   …加藤正明
初版へのあとがき
解説 村井俊哉

■引用



◆精神医学における疾病概念――社会学的視点から  …荻野恒一

◆討論

「臺 ちょっと話題を疾患や病気や、もっと広くして健康概念に戻しまして、統合失調症者は、それなりに健康というんですか。あるいは、その健康をほかの形の健康に移そうとする医療的な意味はあると思われるのですか。あるいはその方向はどういうところにあると思うのですか。
荻野 あの、第一を肯定した上でですか。第二の答えは。
臺 第一を肯定しますか。
荻野 そうですね。
土居 荻野さんは肯定しておられるの。統合失調症患者をそれなりに健康であるということを肯定しておられるんですか。
荻野 いや、ここでは肯定してませんけどね。
臺 でも、あなたのお話の文脈から言ったら、そういうことになると僕は思うんですけど。
藤繩 健康という概念が入ってこないんじゃないですか。健康とか疾病とかいった概念を超えて把握されているのですね。
荻野 そうですね。というよりもね、健康とか適応とかいう概念そのものを、統合失調者におしつけることは、おそらく統合失調者に対する好ましい接近法ではないと思います。
臺 だから荻野さんは、おしつけるという意味には健康概念をもっておられるわけですね。
荻野 ええ、そうです。<0081<

◆内因精神病における疾病概念の今日の混乱について――心因論の立場からの考察   …笠原嘉 89-105

 「むしろレインらの主張の意義は、統合失調症の発病の機序についてよりも発病後の経過について、新しい視点を提出したところにあると筆者には思える。つまリレインの所説の重点を、統合失調症の慢性化の成因について新しい角度から光をあてたものというふうに読みかえるなら、新しい意義をそこに見出すことができるのではないか。今少し言葉をたせば、統合失調症の精神病理にはいうまでもなく自己破壊という要素が大きな役割を演じているが、統合失調症性の自己破壊は単なる自己破壊として静態的完結的におわるのではなくて、それは共存する他者たちにただちに不安を喚起し脅えと怖れを誘発せざるをえぬ性質のものである。そのような他者たちの脅えや怖れは暗黙のうちに統合失調症者の社会的疎外をうながし、こんどはそれが統合失調症者の自己破壊の程度を増強し、さらにそれが周囲の他者たちの病者への社会的疎外に口実を与え、社会的疎外の度合に輪をかけるといった悪循環が成立する。この弓え方を極端におしつめれば、われわれが統合失調症の痴成化として知っている事態は病的過程の直接の軌跡であるよりも、自己破壊と社会的疎外の織りなす悪循環的な社会的事象の産物である可能性が高いということになろう。少なくとも痴成化は統合失調症過程そのもののあらわれであるよりも、一種のアーチファクトとしての側面をかなりの程度にふくむということになる。レインがこのように述べているわけではない。反精神医学の指摘を旧来の精神医学の知見と統合しようとする筆者の一つの試論である。」(95)

◆疾病概念と精神障害   …土居健郎 117-127
 土居健郎 197505 「疾病概念と精神障害」,臺・土居編[1975→2010:117-127]

 「なぜ身体の障害であると病気と認めやす<0118<いのか。この問いは、なぜ精神障害は病気と認めにくいのかという問いと実は同じことで、それと表裏の関係にある。したがって精神障害を病気と認めることに一般に抵抗があるのは、その身体的基礎が明らかになっていないためであるというのでは、説明になっていないといわなければならないのである。
 このように見てくると問題の根源は結局、病気という概念自体に潜んでいることに落着するように思われてくる。そしてこのことを実は他ならぬ精神障害者自身が証明しているように思われるので、その点を以下にのべてみよう。一般に精神病と称される重篤な精神障害の場合は、向精神薬の効果があるという事実からも、何らかの身体的変化のあることが予想されるし、最近の研究によると、ある種の脳内物質の作用が障害と密接な関係を持つことが証明されているということである。もしそうだとすると、精神病は身体疾患と並ぶ立派な病気となるはすであるが、しかし精神病者自身はというと、自ら状態を病気と認めたがらないという注目すべき事実が、厳に存在している。これと全く対照的に、現代の医学で、身体的変化とは本質的に無関係と考えられている神経症者の方は、自らの状態を病気と認めたがるという事実が他方には存在する。このような事実に対し、医者だけが病気があるかないかを決定する最終権限を持っているのであり、患者のいうところは単なる素人判断に過ぎないということはできよう。この立場に立てば、神経症者は本当の意味の病気ではなく、精神病者が自らの病気を否定するのはそれ自体精神病の一症状に他ならないということになって、問題は簡単に片付けられてしまうかもしれない。しかし私はこのような考え方は根本的に間違っていると思う。むしろ上記の事実から逆に、病気という概念が本来何を意味するかを探ることこそ、問題の正しい解決を示す道であると考えるのである。
 さてここに疾病利得という言葉がある。これはふつう、神経症者が何らかの利益を求めて病気に逃げこむことを意味するものとして使われている。しかし考えてみると、いかなる疾病でも、それがもたらす苦痛と不便にもかかわらず、むしろそれ故に、いわば代償として、ある種の利益を個人に与えるといえないであろうか。たとえば病人は苦痛がひどければ日常の仕事を休むことが許されるし、周囲の同情と世話をうけて治療こ専念することもできる。ところで神経症患者の場合は、その病気の病気たる所以が容易に人々の眼に明らかでない故に、その結果、疾病利得だけが目立つのであると考えられないであろうか。これと反対に精神病者の場合は、現に苦痛と不便を経験してしているにもかかわらず疾病利得を拒否する、すなわち病気ということで他に助けを求めかつ受けることを拒絶する状態である、と解することができるように思われる。以上のことから、病気という概念を次のごとく定義することができるで。すなわち病気とは、周囲の同情と助けの対象となり得る身心の苦痛である。したがってもちろんすべての苦痛が病気となるわけではない。故意にもたらされた苦痛、個人的責任が明瞭な苦痛は病気よとはされない。病気とされるためには、是非とも苦痛が偶発的なものであることを要するのである。
 私は、以上のべたごとき病気の概念こそ、それによって医学が可能となった根元的概念である、と考える。言いかえれば、病気の概念が医学をつくったのであって、その逆ではない。たしかに、病気を分類しその原因と治療法を探求したのは、医学の功績である。しかしそのような営みは、まずそこに病気と判断される状態があったればこそ可能になったといわなければならない。したがって病気という概念を、現代の医学が用いる組織学的・生理学的または生化学的検索方法で突きとめられる病理的現象と同一視することは間違っている。病理的現象ないし病理は実体概念であると見てよい。しかし病気は判断概念である。ちょうど善悪という一対の相補的判断概念が倫理学に先行し、むしろそれを成立させる根本概念であるように、病気と健康という一対の相補的判断概念も医学に先行し、むしろそれを成tさせる根本概念であると考えねばならぬのである(注:ここにのべた疾病論については、「保健学と臨床医学」と<0120<題した一文に詳説したので、それも参照されたい。東京医学、八ニ巻、二号、九八−一〇二頁、一九七四年)。
 病気という概念が以上のごときものであるとすると、人類歴史において精神障害を病気と認めることがなぜそれほど困難であったかということがおのずから明らかになるように狂思われる。大体、精神病者自身、病人扱いされることに抵抗する人たちである。したがって周囲のものも、このような人たちが狂っていると判断することはできても、病気に悩む者として遇することがむつかしい。その上彼らはしばしば不気味な印象や深刻な恐怖を接する者に与えるので、周囲の方でも自衛上彼らを疎外するという結果が生まれてくる。であればこそ精神障害は、一部の例外を除けば、永い間病気の一種とは数えられなかったのであり、近代になって病気と見る見方が一般に定着した後も、何かこれをうさんくさい目で見る傾向は払拭されなかったのである。このことは、精神病の原因として怠惰や喜習を考えた、近代のはじめ一時盛であった精神病の心因論にもあらわれている。この種の心因論は、かつて精神病者を悪魔つきと考えた俗説と隔たることさして遠くはない。いずれも当事者ないしは関係者の責任問題に発展し、上述した意味での病気概念の解消に終わりやすいからである。したがってこのような、医学的方法論としては致命的な欠陥を持っている心因論を克服し、精神医学を真にその名にふさわしいものとするためには、精神障害も身体病と全く同じように理解し研究せねばならないという気連が、ようやく十九世紀後半頃から盛んとなった。かの有名な「精神病は脳病である」というグリージンガーの言葉はそれを代表しているとみることができる。この考え方はその後精神医学の最も有力な方法論として今日に至っているのである。
 精神医学はかくして医学の中での市民権を獲得し、またその生物学的方法論によって若干の刮目すぺき業績もあがったのであるが、しかしどうもこれだけでは精神障害の本質がわりきれないという感じは、<0122<多くの研究者のひとしく抱くところであった。そしてこの時に世に現われたのがフロイトの精神分析である。精神分析の方法論の特徴は、一言にしていえば、無意識の精神活動を想定することである。したがって精神分析的な心因論は、従来の心因論のように、道徳的判断をしのびこませる恐れが少ない。無意識に対してひとは直接の責任を負わないからである。であるからまた、ある病気の成立を精神分析的に解釈できたからといって、それで病気が病気でなくなってしまうわけではない。このように病気の概念に抵触せず、むしろそれを前提とする故に、精神分析は精神医学にとって最も恰好な方法論の一つとなったということができる。かくしてそれはこれまで単純に心因性を疑われていた神経症ばかりでなく、何らかの器質的基礎が疑われる内因性の精神病までも、その研究範囲の中にとりこむことができたのである。
 ところがここに一つ奇妙な現象が起こっているということができる。それは、精神分析が精神医学にとってまことに好適な方法論であるにもかかわらず、この立場に立つものはふつう病気という言葉をあまり使わないという事実である。彼らはその代わり防衛とか葛藤とかいった概念をもっぱら使用する。これは一つに、病気という概念が、上述してきたような歴史的理由から、主として身体の病気をさすことが多かったためであるのかもしれない。大体、精神分析が最初に取り組んだ神経症は、どうも病気と呼ぶに値しない代物ではないかという考えは以前から医学界の一部にあったし、それは今日もなお根強く残っている。さらにまたこれとは別に、恐らくもっと重要なこととして、フロイトが精神分析をもって、単なる医学的治療法以上のもの、すなわち精神現象の独特な研究方法であると考えていたという事実をあげることもできよう。たしかに精神分析は、病気・健康の別を問わず、あらゆる精神活劫に適羽できる方法徒である。このような方法としての普遍性は生物学的方法についてもいえることであって、そ<0123<れこそ精神分析を方法としてすぐれたものたらしめている所以である。かくしてフロイトはこの方法を駆使し、神経症をはじめとし、夢、失錯行為、ユーモア、文学、宗教、社会心理など、ひろく精神現象一般にその探求の手をのばしていったのである。
 恐らく以上のべたような理由がいろいろ重なって、精神分析的研究者は病気という概念自体に注意を払うことを怠るに至ったのであろう。なお疾病概念を積極的に排する傾向が、精神分析の正統派よりも、分派の方に強く見られることは、注目すべきことである。このことはたとえば、精神医学を人間関係の学問であると定義したサリヴァンの場合にも見ることができる。ところでこのような傾向は一つ不幸な結果を招いたように思われる。それというのは精神分析のお蔭で科学的心因論がせっかく軌道に乗ったと思う間もなく、近年再び廻れ右をして道徳的心因論がはびこるに至った事態に、このことが影響しているように思われるからである。すなわち私は以上の事態が精神分析の直接の影響によって生まれたとは思わない。もっとも精神分析の知識があまりに普及した結果、いわゆる心理主義の風潮を生み、それが潜在的な道徳的心因論に火をつけたということはあるかもしれない。なお同じ道徳的心因論といっても、今日のそれは過去のそれと一点において異なる。過去においては精神障害者が悪の化身のことく見なされたのに対し、今日における悪の代表選手はむしろ、精神障害昔がそこで生まれる家庭や社会である。昔は精神障害者をうさんくさい眼で見たのに対し、今日そのような眼で見られるのは社会の代表者たちである。かくして精神障害昔を病人と見なすこと自体、それによって彼らを差別する悪であると極論する者も出てきた。病人としてみることは、元来同情を意味するはずなのに、それがさかさまに取られるのであるから、何とも皮肉なことではなかろうか。」(土居[1975→2010:123])
 「ここでしかし、彼らを病人として扱うということは一体どういう意味なのか。今一度考えてみよう。というのはわれわれは、彼らのうち多くの者が自らの状態を病気と認めることを拒否することを知っている。それにもかかわらずわれわれが彼らを病人として扱う根拠は何であろう。それは彼らに幻聴や妄想があるためなのか。しかしそのことならむしろ狂っているると形容する方がふさわしい。狂っているという代わりに異常であるといってもよい。ところで正常・異常という判断概念は健康・病気のそれとは別物<0124<である。したがって異常だからといって、必ずしも病気とはならない。もちろん、いったん病気という判断が妥当と見なされれば、狂った異常な状態を病気の症状と考えることも可能である。しかし忘れてならないことは、狂っているから病気なのではないことである。また病気だから狂っているのだと考えることも間違っている。をぜなら病気は実体概念ではなく、判断概念だからである。してみると、自ら病気という判断を拒む精神障害昔を病人として扱うということは、彼らに病気というレッテルを貼りつけることなのであろうか。いや、そうであってはならない。このことはむしろ次のことでなければならない。すなわち現に苦痛を体験しながら、しかも同情と助けを拒む姿に、常人の理解を超えた苦痛を読みとり、あえてこれに助けの手をさしのばすことである。かくしてまた、一体なぜこのような異常な苦痛が起きるのかと問うことも可能となるであろう。」(土居[1975→2010:118-125])

◆討論 127-145

「臺 土居さんが僕のことを何度か言われましたので僕も言わなくちゃならないことになりましたが、土居さんのお話の限りにおいては、僕は土居さんのお考えは非常に妥当だと思います。しかし土居さんのお考えが精神医学、あるいは精神科の医療に関係しているいろいろな問題全部に広がっていった時に、私と意見の違うところがいろいろ出てくるように思います。<0129<
 まず、言葉の上で、土居さんは疾病概念と言って疾患という言葉を避けていらっしゃる。私の方は、気と患と言って、土居さんの疾病というのをニつに分けて、考えを整理しようとした、という思考方法の違いがそこにあるわけです。まあ、いろんな反論が土居さんのお話に対してあるんですが、それは私の前の記と重複しますのでやめまして、仲間も医者もいないような状況で、精神病者がどのようになるかを考えてみましょう。十何年も前に「ロビンソン・クルーソーの病気」という小文を書いたことがあるんです。ロビンソン・クルーソーの物語では、彼は風邪をひいて熱を出したくらいで、ラムかなにかを、酒に入れて飲んで治っちゃうんですが、精神病にはならないんですね。しかし、進行麻痺になったとすれば、あの話はできなくて、彼はもう死んでしまうからこれは問題ないんですが、ロビンソン・クルーソーが統合失調症にならなかったとしてもおそらくあの話は出来上がらなかっただろうと思えるんです。たとえば、フライディが出てきたときに彼は被害的になって撃ち殺したかも知れない、彼はフライディの助けで一緒に暮らしたということのために、彼はその後にイギリスに帰れる道を開いているわけです。彼の島には、野蛮人や反乱船員が攻めてきますからね。で、先ほど狂った状態は不健康ではないと土居さんは言いましたね。
土居 狂っているということと不健康であるということは同一の範疇ではない、という意味で言ったのです。
臺 私は狂った状態というのは不健康であろう、不健康と言えると言いたいのですね。たとえば、ロビンソン・クルーソーが狂ったら、彼はその後の危機に対して、適切に処理することができなくて、あの島で死んだでしょうね。こういったことから見ても、変な話ですが、狂った状態というのは不健康であ<0130<るのが普通だと僕は思いますね。
土居 いや、先生のおっしやるのは僕はわかりますけれどね。私が言おうとしていることとずれているんです。狂っているという言葉の中には、すなわち狂っているという概念の中には、健康・病気の概念は入っていない。片寄っているとか狂っている、あるいは変わっているという概念は、別に病気概念ではないわけです。
臺 それは僕も言っているわけで。
土居 その狂っている人問を病気であると見ることに精神医学の第一歩が踏み出されるわけで、その点では先生と同じなんですが、狂っていることが元々不健康であるというのは概念の混乱ではないでしょうか。
臺 狂っている状態にはプラスの価値もあるけれども、マイナスの価値もある。そしてそれが時代によって社会によって、プラスの価値が強調される時とされない時がある。
土居 ええ、その通りだと思います。
量 しかし、健康概念からみると――健康概念というのは生活概念です――狂った状態というのは不健康である、と一般的に言っていいのではないかと思う。その一つの例として、先ほど、ロビンソン・クルーソーが、孤島で一人で狂った時の話を持ち出したわけですがね。
荻野 最初ね、ロビンソン・クルーソーが統合失調症になったら、と言われたんですね。
臺 そうです
荻野 統合失調症になったら、統合失調症という疾患を患ったら、ということ……。
臺 だけど疾患という言葉が出てくる前にですね、われわれが統合失調症と言っているような状態が<0131<たった一人の島で起こったとしても、やはりそれは不健康な状態であって、彼はロンドンには帰れないと十分予想されると。
土居 そういうふうに先生は判断するわけで、その判断は判断なりに価値があるわけですけれど、しかし、狂っているという概念自体はノルムがあって、ノルムから狂っているという正常・異常の分け方ですね。たしかに正常・異常という相補的なcomplementary な概念は精神医学にずいぶん入っています。これと、健康・病気というcomplementary な概念は全く違うものです。このほかにもうひとつ別に善悪という概念があるわけですね。これも精神医学のなかに知らず知らず入ってくることがあるのですが、以上三つの相補的概念は全然別のものであるということは私は言いたいのです。
臺 それはいいんですよ。不健康のなかに病気があると僕は前に申しましたがね、全部が不健康、即病気とは言えない。
土居 不健康が即疾患と言えない、というならわかりますけれど、健康と病気というのは相補的な概念なんだから、健康でないっていうのは……。
臺 そうじゃないの。健康と不健康は相補的だけど、病気とは正確には相補的ではない。
土居 いや、まあ、先生の定義はそれで良いんですけれどね。私はどうも、健康と病気のニつを相補的な概念と見たいですね。その方が、話がうまくいく。そういう考え方なんですけれど。
吉松 臺先生が、ロビンソン・クルーソーを、もし狂ったらと仮定をされるのは、どういう、何をねらってそういう仮定をたてるんですか。
晝 統合失調症というものは判断概念じゃなくて疾患概念である。
荻野 実体概念イコール疾患とおっしゃるわけですね。<0132<
臺 そうです。
荻野 統合失調症は疾患であるという前提に立って……。
臺 前提じゃなくて、たとえば、ロビンソン・クルーソーが一人で島の中で統合失調症みたいな状態になった時に、まわりで何と言おうと、まわりの人の判断とは無関係に彼は統合失調症であり得る。
吉松 おそらくそうだとは思いますけれど、われわれの立場としては、目の前にいる患者をどう見るかということですね。だから、ロビンソン・クルーソーが医者にかからなければ、今言ったようなことはあまり意味がない気がします。
臺 そうでしょうか。しかしロビンソン・クルーソーが狂ったら、おそらくフライディとは共同生活はしませんね。そしてフライディはそばにいなかったら、その後の危機を乗り越えることができないわけです。
吉松 だから、ロビンソン・クルーソーの生活史にとっては意味がある。しかし臨床医にとっては。
臺 でも医者はいないんだもの。
吉松 でも逆に医者がいるからこそ、臨床医学が出てくる。いろいろな判断概念が出てくるのではないかという気がします。
臺 だから僕が言いたいのは、医者が出てきて判断する前に、医者がいようがいまいが、ロビンソン・クルーソーが一人で島にいたときに狂った状態に、しかも病気で狂った状態でいるということがあり得るだろう、とこう言っているんです。そしてもし彼がそういう状態になれば、生きてロンドンに帰れないと言っているわけです。
加藤 狂っているっていうことと統合失調症とは違うんでしょうね。<0133<
臺 ええ、いつも同じではない。
加藤 今の話、狂っているということと統合失調症であるということが混っているんですが。私がビルマで見たパラノイド・シツォフレニーが「狂って」いないんですよ。彼は村のリーダーなんですよ。この村の調査をやりましてね。彼を統合失調症だというのは僕が医者だからで、村の中ではこのリーダーは全然狂っていない。やっぱり狂ったというのと統合失調症というのは違った概念なんですね。で今おっしゃる通り一般に狂っているということと統合失調症ということが混同されているんですね。狂っていて統合失調症というんならわかるんですけれど。
臺 ええ、そういう意味です。しかしロビンソン・クルーソーは一人で島にいるんですから、誰も狂つたとは言わないでしょう。
加藤 あるいは優秀な人かもしれない。
臺 もちろんそういう孤独環境には、普通の人以上によく抵抗できるでしょう。そういうプラスの面があるとしても、彼は、その後の生活史を見れば、ロンドンには帰ってこられないだろうということは充分考えられますね。そういう意味で、狂って統合失調症であるという状態は、彼にとって不健康だろうとこういうふうに書いたことがあります。
土居 それはイギリスに帰ることが幸福であるという前提のもとに立ってのことですね。
臺 今は幸福という問題は言っていないんです。前の文章にも書きましたけれど、幸福であることと信ずることと、真実であるということとは全然違うことである。
佐々木 狂い方によっては世のため人のため、人類を済度しようとするつもりでロンドンに帰ってくるかもしれませんね。<0134<
臺 そうすれば、医者が診断論議を姑めるでしょう。それからもう一つ土居さんの最後の症例についてですが、実際私もよく似たケースを持ちましてね。これは私の『精神医学の思想』に書いたケースなんですが、家族内病理とからんで中年で発病した妄想型の統合失調症の婦人なんです。七年間強い幻覚妄想状態があって、それがあることからすっかり治癒した状態になって、そして家族に対しても私に対しても、以前のことはすっかり問題にならなくなって八年間社会生活を普通に送っていました。その人が体の病気にかかって手術して、自分が死ぬんじゃないかという心配をずいぶんしたんです。それが、体がよくなってから、がらっといっぺんに変わって、全然前の、十何年前と同じ状態を再現しました。そして私に対しては拒否的になるし、自分が精神病者だという、あるいは精神科病院に入院させられたという体験を持っているということは自分にとって耐え難いことである。今では僕を犬ころしと称している、そういう状態になってしまったのです。しかしなおアンビバレントで、何か具合の悪いことがあると僕に協力を求めてはきますが、治療の線に乗っからなくなってしまったんですね。
土居 そういう状況は一番クリーゼですね。患者の治療の上で。
臺 ええ。この症例はあなたが一番最後にお書きになった人によく似ていますね。あなたの患者にもあとで、また私が経験したようなケースと同じような出来事が起こる可能性は充分ありますね。
土居 もちろんありますね。ただ、私はそこで先生がおっしゃるように、生物学的な規定性がないとは言わないし、先生の言葉でいうと履歴現象ですね、記憶のあるパソロジーがあると、そういう見方は、私は成立すると思いますよ。それを私は否定するわけじゃないんです。ただ、どうも僕は先生の話を聞いていると、疾患だけが問題なんであって……。
井上 失礼してあと僕が質問したいんですが。<0135<
臺 どうぞ。
井上 先生のおっしゃる健康・不健康、そのインデックスは何ですか。
臺 僕の?
共上 はい。
臺 生活の――その人の持っている生活の可能性がフルに発揮できる……。
井上 そうすると、ソーシャルな意味ももちろん入っているわけですね。
臺 はい。
井上 それからカルチュラルな意味も。
臺 はい。
井上 それが入っているものだから、っまり土井君の言う医療の場における苦痛というものとはっきり分けられていないんじゃないんですか。先生は分けているおつもりでも。
臺 とおっしゃる意味は?
井上 つまり苦痛であれば、それはやはり不健康のひとつのインデックスですね。
臺 ええ、もちろんそうですね。
井上 で、不健康の場合にはそれはまず疾患の方へつながるわけですね。
臺 ええ。
井上 病気を必ずやるんですか。
臺 いえ、やるとは限りません、だって……。
井上 やるとは限らないわけですか。<0136<
臺 限らないわけです。
井上 限らないわけですね。
臺 医者の方が見て疾患だと思っていても、当人や家族は病気でないと思っている場合もあります。
井上 じゃあ、その、医者が見て疾患と考える場合のインデックスとは何かと、もう一回質問します。疾患と考える場合のインデックスです。
臺 それは生物学的規定性。
井上 ピオロギッシュなものですか。
晝 はい、そうです、私の意見では。
井上 ああそうですか、ではカルチュラルなものは入っていないわけですか。
臺 ええ、医学的に疾患という場合の必須条件にはですね。
井上 疾患ですね。
臺 はい。
井上 僕はそこがこの場での議論が混同されているところじゃないかと思います。土居君はもっばら苦痛に対してまわりの人がどうリスポンドするかというところから出発しているわけですが、それが精神医療の本態であるということは僕もよくわかる。しかしそれであるからと言って、そこから精神医学という臺さんのおっしゃる”疾患”を扱う学問は生まれてはならないとは僕は考えない。
土居 その最後のところはわかんないな。最後に、一っかニつひねったところをもう一辺説明して下さい。
井上 オーバーシンプリファイした言い方をわざとしているわけですけれど、つまり、われわれの議論<0137<は、ニつの土俵で、別々に相撲をとっているという感じがする。精神医療という土俵と精神医学という土俵。そういう感じがするんですが。
土居 さあ、そうだとは僕は思わないな。僕はやはり、医学と医療ってのはそう区別できないと思う。ただ、私の言お、つとしていることが臺先生のおっしゃることと画然と区別されることは、僕は疾患概念を迂回しているわけです。
井上 だからそれを僕は医療の土俵の上での相撲だと思う。
土居 いや、そうではないと思う。だって、医学があって医療があるんじゃなくて、医療と医学ってのは本来一つのものとして出発するんで、結局そういう医療行為の中から医学が生まれてくるんです。
井上 そういう順序ですね。
土居 ええ。
井上 だから医学は生まれたんだと……。
土居 それを否定はしないけれど、精神医学の場合に、身体医学的なアプローチで、現代の身体医学で出てくるモデルで、そしてそれに相当する疾患概念を精神医学に持ち込むことに私は反対はしませんけれども、しかしそれだけでは精神医学というものはつかめないと、それだけでは。むしろ、そうでない観点から臨床精神医学というものは作っていかなければならない、とこう言いたいわけ。
井上 君の言っている医学ってのは臨床医学ですね。
土居 そうです。だって臨床医学以外に医学はないような気がするんだけれど。あとは僕は補助的な学問だと思うんだけれども。生物学的なことにしても何にしても。
井上 まあどっちが補助的で……ということはニの次にしましてね(笑)<0138<
土居 その補助的っていうのは何も軽視する意味じゃありませんよ。ただ生物学的な方法が確立する以前にも医学は存在したんだから。現に。
臺 医療が存在したんだ。
土居 いやあ、そうではない。
井上 土居君の言うことはある程度はわかります。というのは、僕のぺーパーで二面性ということを言ったのがそのことだろう。今言っているのと同じことだろうと思うのです。しかし医学というもののフイールドというか土俵が、まったく医療の土俵とアイデンテイカルであるというふうに考えるのはやっぱり僕にはちょっと納得しがたいような気がするな。
土居 いや、臨床精神医学においては医学と医療がまさにアイデンティカルだと僕は思います。
井上 いや、そこにアイデンティカルなものが出てくる……。
土居 いや、出発点がアイデンティカルなんだ、方法論的には二つあるとしても。
井上 だからそのバックグラウンドはニつである。現に、歴史的な経過を見ればニつである。
土居 なるほど、そう言ってもいいかも知れない。
井上 そこの義論が整哩されていないから、さっきのように混同が起こるんじゃないんですか。僕はその意味でエッセンシャルな質問をしたと自分では思っています。
土居 ええ、そう思います。ですから、何もここで議論を一致させることが必要なんじゃなくて、どこに食い違いがあるかをはっきりさせることが一番大事だと思うんです。誤解のないように言っておきますが、私は別にソーシャルモデルを出しているわけじゃないんです。私はメデイカルモデルを出しているんです。メディカルモデルというのは本来こういうものなんだろうと、そこから生物学的な研究も出<0139<発したんだろうと……。そういうことを言いたいんです。
臺 僕は土居さんと噛み合おうと思って医療と医学を分けたり、病気と疾患を分けたりしたんだけれど、それじや困るらしいね、どうも土居さんは。
井上 困らないんじゃないんですか。
土居 違っていてもいいじゃないですか。
臺 いや、もちろん違っていてもいいんだけれど。
土居 けんかさえしなければ(笑)
加藤 病人であるということと病気があるということとは同じことでしょうかね。
土居 病気であるということは病人であるってことですね。ただ、精神医学でいつも問題になるのは、例えば、性格が病気か病気でないかという問題がありますね。私はこれは非常にプラクテイカルな問題だと思うんです。ある場合には病気として扱うことが良いわけです。
加藤 じゃあ病気があればいつも病人になる?
土居 なるわけですね。しかしある場合には、病気として扱わない方がいい場合があるんです。
加藤 そりゃ病人にならない。
土居 ならないわけですね。
加藤 しかし? 病気っていうのは?
土居 だから病気っていうのはどこまでも判断概念だと私は言いたいのです。
加藤 病人とされるものが実際にあるでしよょう
土居 病人はあるわけですね。ただそこで、実体概念としての疾患というものの存在理由がないとは私<0140<は言わないわけです。
加藤 土居さんの場合、現実に病人がいるのに、病気というものが別にあるように感じているのだから、結局、臺さんとそう違わないという感じがしてきます。
佐々木 今の質問――加藤先生のなんかと同じなんですけれどもね。この最後の例に対して、恐怖自体が病気なんだ、精神病の恐怖を除けば今あなたには病気はない、という、私たちも治療の場ではこう言いまわしますけれど、やっぱり妄想があって幻覚があるとなると何かひっかかって、心の中では別な診断名を考えながら……ということになってしまう。
先生の場合はどうですか。
土居 さあ、私自身が狂っているのかもしれないけれど、私は本気で患者にそう言いますよ。
佐々木 本気ですか。
土居 そうです。
臺 これから先を見通した時に、この患者さんが、僕がさっき言ったような患者さんと同じような運命をたどる可能性が大きいと思うかね、思わないかね。
土居 まあ、この患者を先生に頂けたらその可能性は大きい……(笑)
臺 実際そうなんだよね。ある患者さんの予後はどうだろうという時に、僕は、よく若い先生に「それは諸君の治療の仕方によって決まるだろう」と言うんだが、ここには教育的な意味がある。そして全力投球やってみますね。まあ、その全力投球にもいろいろの仕方があるでしょう。しかし誰が何をしてもその患者が、僕がさっき話したようなケースになったとしても、無理はないということはあるわけです。
土居 いや、どうも先生のいう全力投球がくせものです。それからさっき、先生にまかせたらそうなるだろうって言いましたけれど、じゃあ私がやったらこの人は再発しない、なんては思っていないのです。<0141<再発する可能性もあります。まあ確率は私の方が少々少ないかもしれませんが。しかしそれにもかかわらず、臨床精神医学の立場では、この方がより治療的であるし、それは別に真実にそむいていないということでしょう。
臺 うん、それはいいんですよ。そのことと、あなたのさっきの患者さんが、また再発して、というかいろんな症状がバーッと燃焼して、どうにもこうにもならなくなる可能性があるということとは別なんですよ。たとえばその患者さんが、他のいろんな体の病気にかかったりなんかするわけですよ。あるいはいろんな僕に言わせれば、偶縁的な出来事にぶっかるわけです。その寺に、あなたの関与することのできない部分で、彼女が破綻することは充分あるわけです。その破綻の可能性がどのくらいあるだろうという予測の問題なんです。その予測は、あなたのいう治療的な態度と関係なしにあるんです。その面が疾患的な特性とこう言うんです。
土居 そうすると、それは運命的ですね。
臺 そう、島崎流に言えば運命でしょう。宿命とは思わないです。
土居 うん、まあ、ですからね、その疾患概念を持ち込まれることに関して私は反対しません。しかし疾患概念にこだわることは間違いだと思うし、それから疾患概念をおあずけにしても臨床精神医学というものが学問的に成立し得る、と私は思う。
臺 そこが違うんですね、あなたと。僕は、おあずけにするということができない。あなたのこの論文に関する限りは私は妥当だと思うんですが、その患者さんのこれから先を予測した時に、すべて、土居さんの言われたことで話はつきますまいと言っているわけです。
土居 めでたしめでたしというふうにはなりませんよょね。<0142<
臺 なぜそうなんだろうと考えたいと思います。どうもたいへんん時間をとってしまいまして……。<0143<

◆精神衛生の実践面から――病院以外の場で、ケースや家族と接して 佐々木雄司
 佐々木雄司 1975 「精神衛生の実践面から――病院以外の場で、ケースや家族と接して」,臺・土居編[1975→2010:145-157]

◆討論 158-170

 「臺 いまの佐々木さんのお話に関係するのは、私の概念規定でいえば、生活の不健康(ill-health)ということ、それから病気(illness)ということ、なんです。だから疾患(disease)までいってないんです。先ほど土居さんが不健康即病気というふうにいわれたのに対して、僕がそうじゃなかろうといったのは、このケースネスに関係する出来事です。佐々木さんのところにくるのはいろいろなことでくるんでしようが、そのときに生活不健康という形で一番大きくとらえて,その中に病気というものがある、という考え方が必要なわけですね。でも不健康というのはことばが悪いかもしれませんね。西丸さんなんかは「心理困難」ということばを使いましたね。生活困難というと、なにかお金がないように聞こえて変ですが……(笑)」(161)

■言及

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10701851520.html


UP:20130619 REV:20130706, 07, 0725
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