? パウル・カール・ファイヤアーベント 『方法への挑戦  科学的創造と知のアナーキズム』
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『方法への挑戦  科学的創造と知のアナーキズム』

パウル・カール・ファイヤアーベント 19810305 新曜社 ISBN 4788501244


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■Feyerabend, Paul. Against Method; Outline of an anarchistic theory of knowledge, NLB, 1975.
=19810305 村上 陽一郎・渡辺 博共訳 『方法への挑戦  科学的創造と知のアナーキズム』 新曜社 ISBN 4788501244

■新曜社のHP
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0124-4.htm

■googleブック検索
http://books.google.com/books?hl=ja&lr=&id=8y-FVtrKeSYC&oi=fnd&pg=PR7&dq=Against+Method%3B+Outline+of+an+anarchistic+theory+of+knowledge&ots

■目次
目次めいた内容紹介

序論
 科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち、理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。

1
 このことは歴史のエピソードの探究によっても、また観念と行動の間の関係の抽象的分析によっても示される。進歩を妨げない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)である。

2
 たとえばわれわれは、よく確証された理論、および/あるいは、よく確立された実験結果と矛盾する仮設を用いることができる。われわれは科学を反帰納的に推し進めることによって進歩せしめることができる。

3
 新しい仮説は受容されている<理論>に一致しなければならない、という整合性の条件は、旧い理論を保存するものであって、より良い理論を保存するものではないのだから、非理性的である。よく確立された理論と矛盾する理論は、他のどんな方法によっても得られない証拠をわれわれに提供する。理論の増殖は科学のために有益であるが、斉一性は科学の批判的能力を損うことになる。斉一性はまた個人の自由な発展をも危くする。

4
 いかに古くばかげたことであっても、われわれの知識を改良する能力をもたない観念は存在しない。思想史の全体が科学に吸収され、理論の一つ一つを改良するのに用いられる。政治的な干渉も拒否されない。現状(status quo)に対抗するものに抵抗する科学の熱狂的排外主義を克服するために、政治的干渉が必要とされることもあり得る。

5
 どんな理論も決して、その領域内のすべての<事実>とは合致しないが、しかも常に理論の方が悪いわけではない。事実はより旧いイデオロギーによって構成されており、事実と理論との衝突は進歩の証明であり得る。それはまた、身近な観察上の概念に潜むいろいろな原理を見出そうとする試みの第一歩でもある。

6
 このような試みの実例として、アリストテレス主義者が地球の運動を反駁するために用いた<塔の議論>を検討する。この議論は<自然的解決>を含んでおり――観察と極めて緊密に結びついているので、その存在について認識し、またその内容を確定するために特別な努力を必要とするような諸観念を含んでいる。ガリレイはその自然的解釈をコペルニクスと矛盾するものとしてとりだし、これを別のもので置き換える。

7
 新しい自然的解釈は新しくかつ高度に抽象的な観察言語を構成する。それは導入されると同時に<隠蔽>されるので起きた変化に気づかない(想起anamnesisの方法)。それは<すべての運動の相対性>と<円慣性の法則>の観念を含んでいる。

8
 変換によってひき起こされる当初の困難は<アド・ホックな仮説>によって切り抜けられるが、アド・ホックな仮説はこのように時に積極的な機能を有する。それは新しい理論に息をつく暇を与え、未来の研究の方向を指示する。

9
 自然的解釈に加えて、ガリレイはまた、コペルニクスにとって危険と思われる<感覚>をも変化させる。ガリレイは、そのような感覚が存在することを認め、コペルニクスがそれを無視したということで彼を賞讃し、<望遠鏡>の助けでそれを取り除いたと主張する。しかし彼は望遠鏡が一体なぜ天空の真実の姿を与えると期待されるのか、その<理論的>な理由は少しも与えない。

付論1
付論2

10
 望遠鏡の最初の<経験>によっても星への適用可能性の論拠は提供されない。望遠鏡による天空の最初の観察は、不明瞭で、不確かで、矛盾に満ちており、また誰もが器具の助けを借りずに観察できることと食い違っていた。また望遠鏡による錯覚と、真実を伝える現象とを分離するのに役立ち得たと思われる唯一の理論は単純なテストによって反駁された。

11
 他方、明白にコペルニクス的であるような、望遠鏡による現象もいくつか存在する。ガリレイはこれらの現象をコペルニクスを支持する独立の証拠として導入するが、その事情はむしろ一つの反駁された考え――コペルニクス主義――が他の反駁された考え――望遠鏡の現象は天空の忠実な像であるという考え――から生ずる現象に類似した点をもっているといった形をとっている。ガリレイは彼のスタイルと巧妙な説得技術のおかげで、また彼はラテン語ではなくイタリア語で書いたために、また彼は古い観念とこれに結びついた学問の諸規準に気質上反対であるような人々に訴えたために、成功することになる。

12
 このような支持の「非合理的な」方法は、科学のいろいろな部分の「不均一な発展」(マルクス、レーニン)のゆえに必要とされている。コペルニクス主義や他の近代科学の本質的な成分は、過去において理性がしばしば封じ込められたがゆえにこそ、生きのびた。

13
 ガリレイの方法はまた他の領域でもよい成果を収める。たとえばそれは唯物論に対する現存する反論を取り除き、<哲学的な>心身問題に終止符を打つために用いることができる。(しかし、これに対応する<科学的な>問題は残る。)

14
 これまでに得られた結果は発見の文脈と正当化の文脈との区別を廃止することを、またこれに関連した観察語と理論語の区別を無視することを示唆している。どちらの区別も科学の実践では役割を演じてはいない。それらを強要する試みは破滅的な結果を得るであろう。

15
 最後に、第六章―第十三章の示すところは、ミルの複数主義のポパー版は科学の実地と調和しないし、われわれが知っているような科学を破壊するであろうということである。科学が前提される限り、理性は普遍的ではあり得ないし、非理性は排除され得ない。科学のこの特徴はアナーキズム的認識論を要求する。科学は神聖不可侵ではないということ、また科学と神話との論争はどちらかの側が勝利を収めるという形をとらずに終息しているということを十分に理解するならば、アナーキズムの擁護論はさらに強化される。

16
 ラカトシュの巧妙な企て、即ち(a)命令を出さず、とはいえ(b)われわれの知識増大の活動に制限を課す方法論を構成する企てでさえ、この結論を免れはしない。というのはラカトシュの哲学は、ひとえに<変装したアナーキズム>であるためにリベラルに見えているのだから。また彼が近代科学から抽象した基準は、近代科学と、アリストテレスの科学、神話、魔術、宗教、等々との間の論争に際して中立の調停者とみなすことはできない。

付論3
付論4

17
 その上、これらの基準は内容の集合の比較を必然的に伴うので、常に<適用可能>というわけではない。ある理論と理論の内容の集合同士は、そこに通常の論理的関係(内含、排除、重なり)がどれ一つとして成り立っているとは言えないという意味で比較不可能である。このことはわれわれが神話と科学とを比較するときに生じる。それはまた、科学においてさえその最も進んだ、最も一般的な、またそれゆえ最も神話的な部分において生起する。

付論5

18
 かくして科学は、科学的哲学が認めようとする限度以上にずっと神話に近い。それは人類によって発達させられた数多くの思考形式の一つであり、必ずしも最良のものではない。それは目に立ち、やかましく、また厚かましいが、しかしあるイデオロギーを大切にするようにとすでに決心した人々、あるいはその利点と限界とを調べることもなくそれを受け容れた人々に対してだけは、根本的に優れたものとなる。そして諸々のイデオロギーを受け容れることと退けることとは個人に委ねられるべきであるから、国家と<教会>との分離は国家と<科学>、すなわちかの最も新しく、最も攻撃的で、かつ最も教条的な宗教的制度である科学との分離によって補完されなければならないということが帰結する。このような分離こそ、われわれが手に入れることができるとはいえこれまで一度も十分に実現されたことのなかった人間性を完成するための、われわれの唯一のチャンスであるかもしれない。

解説めいたあとがき(訳者)

人名索引
事項索引





*作成:篠木 涼
UP:200802 REV:20080616
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