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『資料「ベ平連」運動 上巻1965−1968』

「ベトナムに平和を!」市民連合 編 197410 河出書房新社,528p.

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last update: 20180225

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■「ベトナムに平和を!」市民連合 編 197410 『資料「ベ平連」運動 上巻1965−1968』 河出書房新社,528p. sm02 1vie beh

■出版社/著者からの内容紹介

「ベ平連自身が、解散直後にまとめた資料集で、年代別、テーマ別に整理され、基本文献、論文から、撒かれたビラ、カンパへの領収書、さらには警察へのデモ届けにいたるまでが収録されています。ベ平連運動に関するもっとも基本的な資料集ですが、下巻の後書きに引用されている花崎皋平の批判にあるように、東京中心の記録で、地方の数多くあったベ平連グループの資料は完全ではない。滅多に古本屋にも姿を見せず、図書館で利用する以外にはありません。」
「旧「ベ平連」運動の情報ページ」より 

■目次


■引用

■小田実「平和への具体的提言――日米市民会議での冒頭演説」(104−
「このわれわれとアメリカを結びつける奇妙な連帯があります。ベトナム戦争を媒介として、その連帯はいまはっきりとわれわれの目に見えてきているようです。つまり日米安全保障条約、あるいは沖縄の存在、そういったものによって日本とアメリカが、日本政府とアメリカ政府が結び付いている。そして、片方では、アメリカの人民と日本の人民は、いまだかつて強い連帯の絆を持っていたことがない。そういった状態が今日まで続いてきました。」(104−105)

「反対運動には二つのタイプがあると思います。一つは地方的な運動。これは国内的な運動をも含めて言いますけれども、地域的な運動。もう一つはもう少し大きな国際的な運動。その二つが私たちにとっていま必要だと思います。私たちベ平連というのがある程度そのことをこれまで、その主義に基づいてやってきたと思います。国際的な結びつきというなかで、いちばん重大なのは、われわれとアメリカ、つまり直接的な利害関係によって結ばれている日本政府とアメリカ政府の下にある人民たち、つまりアメリカ人と日本人が連帯して反対行動を起こすことは、たいへん意味のあることだし、重要なことだし、効果のあることだと思います。」(105−106)

「こうしたことをわれわれはもう少しきょうかしていかなければいけない。あとえばアメリカに対してわれわれ日本人がもう少し抗議の叫びをあげる、それを直接に伝える形であげていく必要があると思います。たとえば同時にデモンストレーションを行う。あるいは集会を行う。あるいはまたアメリカ兵士として日本に来ている人たちに、アメリカの平和運動と組んでそれに働きかける。あるいはまた、新聞、雑誌に一緒に広告を出す。あるいはもっと地域的なレベルで小さな都会同士が結びつく。小さな都会同士の運動が結びついて、そこにある軍需工場の調査をする。それに対して集会をする、反対をする、市民不服従の行動をする。そういったことはいろいろなことが考えられます。そしてまた、それをさらに拡大した形で、もう少し大きな国際的視野のなかにその問題を置くことができます。たとえば全世界にわたっていろいろな運動がある。この運動をもう少しまとめる方向にわれわれはいくべきではないか。」(106)

「われわれはもう少し市民不服従の原理においても、一国内だけの問題ではなくして、それを国際的な場において考えていかなければならない。僕はそんなふうに思います。つまり、市民不服従の連帯というものをここで考えていかなければならない。私の考えはそうです。それからまた、実際的に言って、いつも国内のなかでは圧倒的な国家権力に対して、人民はつねに弱い立場に立っています。そういう強大な国家権力に対して戦う道は、もちろん国内で大きな運動を起こしていくこと、まず、それがあると思います。しかし、それのみではまだじゅうぶんでない。その運動を国際的に拡大することによって、より有効なものにすることができる、そんなふうにも思います。つまりある二つの国が結びついていて、その結びつきが二つの国の人民に対してよからぬことをもたらしているとするならば、その結びつきを断ち切らなければいけない。その断ち切るという行為を、人民同士が結びつくことによって達成していく。そのことを私たちはここで考えていきたいと思います。」(110)


■日米反戦平和四民条約(118−119) 1966年8月14日東京において採択
「一、私は、核兵器、化学兵器、細菌兵器、ナパーム弾、および、ほかの太陽殺りくの兵器の開発、使用に協力することに反対し、それを拒否する。
二、私は、戦争をあおる一切の教育、宣伝活動に従事することに反対し、それを拒否する。
三、私は、アジアにおけるアメリカの基地の撤去、全世界における外国基地の撤去のための行動をみずから行う。これは、全面軍縮への第一歩である。
四、私は、日本とアメリカのあいだの軍事同盟とアメリカによる沖縄の支配に反対し、この同盟と支配を終わらせるための行動をみずから行う。」(119)


■鶴見良行「新しい世界と思想の要請――日米市民会議の意味」(124−134)(初出『世界』1966年10月号)
「日米の市民の横の連帯によって平和を回復しようという市民会議の発想は、大国の国家権力にたいする国境を越えた直接の批判という原理をいまや生みだしつつある。「政府を通じてアメリカ側に申し入れ」などという関税引き下げ交渉などの方式ではなく、市民の横のつながりを基礎としつつ、米ソ英仏中などあらゆる大国の国家権力にたいする直接の批判がゆるされるべきなのだ。
 つまり私のいいたいのはこういうことだ。私たち先進国の人間は、国境とか国籍といった古い概念を問題としえないような新しい状況に住んでいるのだ。国境や国籍は、まだその恩恵に与ったことがなく、したがってまたそのもたらす災害を味わったことのない半独立の諸民族にだけ残されるべきなのだ。ただ私たちは、国家に帰属して生活する歴史がかなり長かったために、これにとらわれるあまり、相互主義、互恵主義による交渉などということを考えがちである。「北からの侵略をやめれば北爆停止を」といまもって考えているラスク国務長官などは、私たちの住んでいるこの地球の新しい状況について、豊かな想像力をもって考えている人間とはいえない。」(134)


■小中陽太郎「沖縄からの訴え」(218−222)(初出:『話の特集』1967年7月号)
「那覇に帰りつくまでに私は二つのことに気づいた。
 一つは人々は、これだけのかれらの熱意が本土や米国に伝わっていないはずはない、と固く信じているらしいこと。
 第二に、だから沖縄では復帰運動はもしかしたら、民衆の怒りの安全弁となってしまっている節があることだった。
 私には与論島の火がよくみえなかった。だから、辺戸岬のたき火だって、向こうからみえていないかもしれない。そのことを沖縄の人はうたがってみようともしないようだった。
 その責任の大半は本土の人間の罪だと思う。人々はそのことを十分に沖縄の人々に伝えなかったのではないか。
 いや、沖縄への旅行者は出発前に「沖縄に行ったら、日本のことは本土といえ」と教え込まれていることを明かそうとはしなかった」(219)

「沖縄について、まず、私たちのなすべきことは私たちが沖縄について何もしらないことを告げることからはじめなければならない。
 逆に運動の進め方にも問題がある。
 沖縄は日の丸が右翼の象徴ではない稀有の土地である。」(219)

「しかし、復帰ととなえさえすれば、誰でも復帰論者というのも妙なはなしだ。
 現に、右翼さえ、復帰大会に参加しようという動きがある。復帰運動に水をさすわけではないが、復帰の内容を検討すべき時点まで来ているのではないか。
 沿道をずめた日の丸の波は本土復帰への強力なエネルギーであると同時に、強固な再軍備論の地盤ともなりうる。
 いまのところ、復帰運動と確信は同義語だ。しかし、それが揺れ動く可能性は多い。現に保守からの働きかけは、はじまっているのである。」(220)

「沖縄の実情がどれほど日本にしられているか疑問だ、と書いた。まして、アメリカ本国にどれだけしられているか。[…]私の属するベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)はいままでに、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストに反戦広告を出して来た。今度は雑誌に出そうという話がでていた。雑誌は部数が少ないかわりに、最低、一週間は人の目にふれる。
私たちが、ベトナムについて反戦広告を出すと、日本人がなぜ遠いベトナムに口を出すかといわれた。しかし、沖縄をみるとき、ベトナムが遠い国だ、などと誰がいえようか。
私と同行した学生の室謙二君と二人でよびかけてまわった。
 沖縄のベ平連の若い友人、新里富美子さん、宮城信也君が賛同した。
 私たちは琉球大学と沖縄大学でなれない演説をしてまわった。
 五月五日、私たち四人は、琉大学生会の応援を得て街頭にたった。ついで女子高校生、オバアサン、学生、サラリーマン、漁師、ミニスカートの混血児……
 沖縄の日は長い。夕方、七時までに、百五十人の署名と三つのカンパ箱がいっぱいになった。街頭カンパ二十ドル九十セントという額が多いのか少ないのか私にはわからない。
 沖縄ベ平連の若い友人はこれから毎月第一土曜、この場所にたって呼びかける、という。
 私は家に帰って、カンパ箱を一つ作った。毎月第一土曜日、私はこのカンパ箱をもつことにする。
 与論島のかがり火より有効だという気は全くない。
 しかし、火はあらゆるところにつけなければならないと思う。」(222)

「(編注)この中にある反戦広告「沖縄からの訴え」の募金は、僅かずつではあったが続けられ、一九七一年十一月十七日、沖縄返還協定批准反対の運動が全国に昂まっている時、米「ワシントン・ポスト」紙に掲載された」(222)


■「沖縄ベ平連連絡報――No.3 1967.7.10〜8.10」(235)
「「沖縄アッピール」広告とベ平連運動への支援を呼びかけたところ、一〇六名の署名と十三ドルのカンパが集まりました。[…]九月二日(土)は第五回定期街頭カンパの日です。午後四時から牧志の大越デパート前で行いますので御参加下さい。」(235)

■小田実「「平和の船」を送ろう」(235−236)
「まず第一に、ベトナム戦争に自分の手がかかっていることを、私たちが明確に認めるからです。特需。沖縄。在日米軍基地。すでに、私たちの国の政府は、日米安全保障条約のとりきめによって私たちの日本がこの戦争で中立でないこと、北ベトナムは「敵」であり、アメリカに全面的に協力することは日本の義務であると言明しました。[…]北ベトナムの空襲の惨状の写真。あるいは、ベトナムの老人の拷問の現場写真――私たちは、その写真のなかに、見えない手として、私たちの手が加わっていることを認めるのです。その見えない手をたち切ろうとして、私たちはこれまでにさまざまなことをして来ました。」(236)


■書評・紹介


■言及


*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV: 20180225
社会運動/社会運動史  ◇ベトナム  ◇ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)  ◇BOOK
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