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『資料「ベ平連」運動 中巻1969−1970』

「ベトナムに平和を!」市民連合 編 197410 河出書房新社,***p.

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■「ベトナムに平和を!」市民連合 編 197410 『資料「ベ平連」運動 中巻1969−1970』 河出書房新社,***p. sm02 1vie beh

■出版社/著者からの内容紹介

「ベ平連自身が、解散直後にまとめた資料集で、年代別、テーマ別に整理され、基本文献、論文から、撒かれたビラ、カンパへの領収書、さらには警察へのデモ届けにいたるまでが収録されています。ベ平連運動に関するもっとも基本的な資料集ですが、下巻の後書きに引用されている花崎皋平の批判にあるように、東京中心の記録で、地方の数多くあったベ平連グループの資料は完全ではない。滅多に古本屋にも姿を見せず、図書館で利用する以外にはありません。」
「旧「ベ平連」運動の情報ページ」より 

■目次


■引用

■吉川勇一「70年安保と取組むベ平連―――「ベ平連全国懇談会」の討論」26-31(初出『月刊労働問題』1969年4月号)
「ここ一年ほどの間にベ平連の行動グループは各地に急激に誕生し、北は旭川、札幌、小樽などから、南は鹿児島、さらに那覇にいたるまで、その数は二〇〇に近づいている。明らかにそれは、イントレピッド号脱走兵援助、それに羽田、佐世保、王子、砂川……といった国家権力、軍隊、基地、警察などとのはげしい[…]対決のなかから、あるいはそれらの行動に触発されてその周辺に、誕生してきたものであった。それは大小さまざまであり、構成も行動もかなり多様なグループであった。」(吉川、1974=1969、27)

「ベ平連運動の思想というものがあるとすれば、それは、小田実の数々の論文を中心に、ベ平連運動を構成してきた多くの人びとの行動のなかから形成されてきたものであって、われわれを戦争や政治の被害者としてのみとらえるのでなく、同時に加害者の立場に立たされているものとしてとらえ、われわれをこうした状況に強制している国家権力に対抗する手段として、拒否、不服従、抵抗を対置してゆく考え方と行動である。そしてそうした行動を通じて、たたかう他の人びととの人間的連帯をつくりあげ、さらに新しい秩序まで生み出されてゆく。
 「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に!」「日本政府は戦争に協力するな!」という、ベ平連が発足以来かかげているこの三つのスローガンに対しては、「敵を明確にしていない」という批判が繰り返し加えられてきている。こういう批判をする人びとは、ベトナムを侵略しているものがアメリカ帝国主義者であり、そしてその同じアメリカ帝国主義者が、沖縄を奪い、日本各所に基地を置き、あらゆる意味で日本人民を苦しめているとして、この共通の敵に対するたたかいを強調する。だが、ベ平連の多くの人びとがもっている考え方は明らかにそれとは違う。ベトナム人の敵がアメリカ帝国主義者であることは認めるが、同時に、その敵のなかにわれわれ日本人自身が並んで立っていることも認めるのだ。
 ベ平連が沖縄問題や各地の基地問題、米軍ジェット燃料の輸送、軍需工場の問題をとりあげるのは、基地の被害や危険性の立場からだけではない。それを許していることによって、好むと好まざるとにかかわらず、われわれの手についてゆくベトナム人の血をみるからなのである。」(吉川、1974=1969:27−28)

・1969年「基地撤去を要求する全国集会」佐世保でのエンタープライズ寄港阻止闘争一周年にあたる日に開催された、社会党・総評系の全国基地連と佐世保市民運動「十九日デモの会」との共催。
⇒基地被害への議論の集中(「日本の平和と安全を脅かすものとしての基地」という言説)
「基地を日本に許していることによって、われわれがベトナム、中国をはじめ、アジア人民に負っている重大な責任の自覚を示す言葉はまったく見当たらない。」(吉川、1974=1969:29)
◆加害者としての自己を対象化し、構造からの抵抗を図るための反基地運動。自らの被害を出発点にする運動との差別化。


■『読売新聞』1969年3月7日「脱走米兵ぐんと増加」37-37
「米上院軍事小委員会(委員長・ダニエル・イノウエ議員)は六日「米脱走兵実態報告」を発表、米軍脱走兵の人数が一九六八会計年度に五万三千三百五十七人にいのぼり、前年度よりも一万三千人以上も増加したことを明らかにするとともに、国防省当局は、この深刻な問題を理解していないと警告した。また、この報告書は「世界七か国に二十三の米兵脱走援助機関があり、そのなかで精力的で効果的な活動をしているのは、日本に根拠地を持つ機関である」と述べている。[…]軍事小委の報告によれば、脱走兵とは三十日間以上、部隊に帰ってこないものをさす。このほか三十日未満の“短期脱走”をした米兵の数も、一九六七会計年度の十三万四千六百六十八人から一九六八会計年度は十五万五千五百三十六人にふえたという。
 また一九六六年七月一日から六九年一月二十一日までの間に外国に逃亡した兵士は七百四十九人で、このうち百七十人は帰国したが、残り五百七十九人は、いまだに外国にとどまっているという。外国のなかでは百七十四人が逃亡したスウェーデンが最も多く、このうち三十八人は帰国したが、残り百三十六人は以前同国にとどまったまま。」(『読売新聞』1969年3月7日)[「ベトナムに平和を!」市民連合、1974:37]


■大沢信一郎「大衆運動の新しい質」156-167(初出『月刊労働問題』1969年11月号)
・朝霞反戦放送局の取り組み
「ベニヤ板を買ってきて立看板を作ったり、ペンキを塗ったりすることも分担しながらやっていく。そういう作業をしながら、ふつうの市民が、日常生活のなかで自分自身がベトナム戦争に加担していることをどうやって拒否していくか、ということを繰り返し実践のなかで考えあいつつ、行動している。それは、いわば日常生活のなかの反戦の動きとして評価できると思う。」(大沢、1974=1969、158)
「けっして大組織ではない小組織が、限られてはいるが新しい知恵をどんどん出しながらやっているのが一つの特色であろう。[…]自分たちの問題を自分たちのできる範囲でぎりぎりどれだけできるかと自問しながらやっていく。それを突きだしていくことが運動に新しい質をもたらしているということが、こんにちの大きな特徴ではないか。
 それがどれだけの政治的効果をもっているかをみえる形で測定することは困難であるが、しかしそういう形で自分たちの内部につくられた意識、生活空間が、人間の意識なり生活空間という形で定着しているところに、少なからぬ意味があるのではないか。そういうところでつくられたものが人民の文化や自分たちの生活を豊かにし、内実をあたえていくことになると思われる。それは権力が物理的に統制しようとしても、弾圧しようとしても、かんたんに崩れるものではない。そういうものとして積極的に評価しなければならないし、評価できるものである。」(大沢、1974=1969、161)

「こうした新しい運動は、六月行動に参加している団体だけでなく、ほかにも多くのさまざまな例があると思う。たとえば『のび』編集委員会がそれである。これは立川(東京都)の基地近くの団地に住んでいる人たちが中心になってやっているのだが、「基地ははたして公害か」ということを問題にしている。
 基地の爆音やときおりの墜落事故などに対して、人びとは「それは基地公害だからそれをなくせばいい」という考えにおちいりがちだが、はたしてそうであろうか。公害とは、人間の生活に必要な技術的進歩の過程に起こってくる問題であると考えると、基地という人間生活に必要でないものから起こってくるものを、基地公害という言葉でとらえることはできないのではないか。基地とは、簡単にいってしまえば戦争のための手段の一つであり、戦争は大量殺人の方法なのであるから、基地に慣れて公害ということですましているのは、戦争の共犯者になっていることではないか。その人間が騒音公害に顔をしかめて「困る」といっているのは、こっけいではないか。そういう殺人加害者の位置からどう脱出していけばいいか―――このように考え、行動していくものとして『のび』は生れた。」(大沢、1974=1969、162−163)


■「在日米軍を震撼させる“We Got the brASS”」189−197(初出『週刊アンポ』1969年11月17日号)
・『We Got the brASS』ジャテックの日本人グループと在日米人・米軍人有志の協力で1969年9月上旬創刊。各地の反戦グループの手によって全国の米軍基地周辺で配られる。5〜6000部が米兵の手に。沖縄にも数千部を発送。
・スウェーデン・フランスなどのヨーロッパの脱走米兵のグループがつくった政治組織・「国際第二戦線」が発行したものをアジア版に編集して創刊。
・「大泉市民の集い」による反戦放送の終了後、黒人兵二名が呼びかけ、放送が真実を語っていると述べた上で、『we Got the brASS』の講読と自分たちの声の新聞掲載を依頼してきた。
・『We Got the brASS』と同じように、自分の軍隊内で反戦新聞を出したいという要望もベ平連に寄せられる。⇒『Kill for Peace』へ。
・1968年テキサス州「フォート・フード」黒人兵士ストライキ。シカゴでの民主党大統領候補指名大会への反戦デモ、黒人の都市反乱を鎮圧するために警察、州兵では足りず、正規軍の動員がかかった。しかし黒人兵はこれを拒否。基地内でデモを実施するも、MPに暴力的に鎮圧され、憲兵は43名を逮捕、軍法会議にかけた。「フォート・フードの43人」を巣食う運動が起こる。
・1968年10月サンフランシスコ陸軍兵営「プレシディオ」での兵士反乱。営倉の囚人兵が警備兵に射殺され、囚人兵が仕事の拒否と基地内座り込み。27名の囚人兵が上官反抗の理由で逮捕。反戦派市民により「プレシディオの27人」の支援運動が組織される。

・朝霞反戦放送局について
「この“放送局”の活動は、「基地よ出てゆけ」というその名称にもかかわらず、従来の米軍基地撤去闘争につきものだった「ヤンキー・ゴーホーム」的反米主義の雰囲気はない。もちろん「大泉市民の集い」の運動が、その地域にある米軍基地撤去という趣旨で始まり、いまでもそれが根底にあることはいうまでもない。
 世話人の一人和田春樹東大助教授はいう。「私たちは市民レベルの反戦の運動体として、私たちの身近にある米軍基地(東京・大泉地区と埼玉県朝霞のキャンプ・ドレイクは隣接している)を運動の対象に昨年の夏から始めたわけです。基地はめいわくだから出ていけという基地住民の論理だけでなく、基地にいる米軍兵士に反戦をよびかけるべきだと考えた。それも脱走をよびかけるより、軍隊の内側で彼らが反戦・反軍運動を組織できるようなそういうよびかけですね。」(「ベトナムに平和を!」市民連合、1974=1969:197)

◆日本人が媒介者となる(反戦アングラ紙の発行のサポートや配布)ことから、基地内の反戦・反軍運動(の組織化)が広がっていくという流れ。また、世界各地での基地内反乱、抵抗が同時に広がっている。フェンスの内と外とが連携することで広がりが生れている。
◆なぜ「Gi join us」なのか。戦争を止めるためには、戦争機械を止める必要があり、そのためには基地内部からの運動が必要不可欠である点。また、米兵の傷を負った姿から、戦争(機械)の被害者であることが確認でき、共に戦争と軍隊を批判する素地ができあがっている点。


■清水和久「こちらRCMG……大泉反戦放送局です」313−314(初出『週刊アンポ』1970年4月20日号)
「「ゴミをこっちに入れるな、やい、やめろったら」と白人兵が叫ぶ。「そうよ戦争大好きよ。ベトナムの奴らは糞ったれさ、殺してあたりめえよ」とわめきちらしていた兵士である。かれの背後には、七、八人の白人兵がいて、そのうちのひとりはライフル掃射のまねをしている。埼玉県朝霞市にある米軍野戦病院での反戦放送の位置風景である。今年[1970年]の三月一五日。」(清水、1970=1974:313)
「朝霞でも米兵内部にグループ単位の亀裂が深まっている。そしてその一方はわれわれと結びついている。」(清水、1970=1974:314)

・反戦放送局の取り組みが、横浜・岸根陸軍野戦病院、山口県岩国・海兵隊基地で相次いで開局へと飛び火。

◆ベトナム戦争を正当化し、ベトナム人と同様に「ライフル掃射」の対象として反戦市民運動を展開する日本人を見る米兵の存在。人種的、軍事的な優位性の誇示。その一方で、反戦放送に励まされ、共感を寄せる兵士(多くは黒人)の存在。軍隊内の亀裂が放送を通じて明らかとなるだけでなく、さらに亀裂が深まるような側面も。


■深見進介「脱走援助から米兵との共闘へ―――JATECは歩みつづける」325-332(初出『朝日ジャーナル』1970年5月10日号)
「一人の脱走兵を受入れ、生活させていくために、いったい何十人の人間が、人知れず働いていることだろうか。それは全く、先に引用した討論の中でAが言っているように“道楽とでも考えなければ割切れない”体の労苦であり、《反戦運動》という概念ではどうしても包みこめないところの、一種の《無償の行為》である。慈善家でもなく、金持でもない私たちが、なぜこのような運動にここまで深入りしたのだろうか。」(深見、1974=1970:326)

「私の場合は、古い友人から、一人の脱走兵を一週間預かるように頼まれたことがきっかえだった。[…]脱走兵エドウィン・アーネットが私の家の玄関に姿を見せたとき、彼の何かに打ちのめされたような暗い眼差しが、私をとらえた。私にとっては、それがはじめての《アメリカ体験》であり、《ベトナム体験》だったのだ。
 アーネットはペンシルベニアの貧しい工員の家庭で、一〇人兄弟の一人として生れ、ハイスクールには行けず船員になった。六六年に志願兵として陸軍第一騎兵師団に入り、六ヶ月のベトナム滞在中、ある特殊な情報収集部隊の一員となってベトナム各地をまわった。そこで彼は地獄を見たのだ。金歯をとるために、ベトナム人村民を殴り殺す同僚。生爪をはがしたり、耳を切りとるなどの拷問。ベトナム人の眼球を集めて袋に入れて持歩く軍曹。その話をきいた翌日、私は思いきってたずねた。
―――君自身はどうだったんだ。君も拷問や殺人に加わったのか。
 彼は表情をこわばらせてしばらく沈黙した。それから、言葉を押出すようにして言った。
―――ぼくは、ウソを言いたくない。
 何ということだ! と、私は思った。私は、ベトナム人民の虐殺者、戦争犯罪人をかくまい、保護しているのだ。アーネットは続けた。
―――人を殺した後の気持は、説明のしようがないものだ。いまでも夢を見るんだ。しかし、ベトナムじゃ、選択の余地なんかないんだぜ。殺さなきゃ、殺されるのさ。ゼア・イズ・ノー・チョイス。
 その言葉には、尋常でない体験に裏づけられた重さがのしかかっていて、私は返すべき言葉がみつからなかった。
 彼は、「君がぼくの立場だったらどうする」とは言わなかった。だが、私はといえば、あらゆる意味で安全な地点からベトナムを見下していて、その中から精神も肉体もバラバラになって帰って来た彼を、保護者づらして迎えている男なのだ。私とても、私たち日本人が、沖縄をはじめとする基地提供ひとつとっても、ベトナム戦争に加害者としてかかわっているという意識をもっていた。が、それはいつでも忘れられる程度の意識であり、脱走兵をおくことを引受けたのも、せいぜい良心の気休めといったところだった。どう考えても、私には、アーネットを非難する資格があるとは思えなかった……。」(深見、1974=1970:326-327)

「根本的な問題はもっと別のところ、つまり脱走兵が生身の人間であるという点にあるのだ。[…]国外ルートが閉ざされたその日から、私たちは、年若い脱走兵たち(その大部分は一八歳から二二歳、日本の大学生の年齢だ)の青春を、大げさにいえば彼らの一生をどう送らせるかという、途方もない問題を抱えることになったのだ。」(深見、1974=1970:329)

「個人としての米兵は、大部分が中産、ないしは下層階級の出身であり、ベトナム戦争では、ベトナム人民に対する加害者であると同時に、体制によって自由に生きる権利、ものを考える権利をおびやかされ、あるいは全く奪われているという意味で被害者である。そして重要なことは、米兵たちを将軍・将校たちと一緒くたに扱い、“帝国主義の手先”として敵視するのではなく、一人の人間としての彼らの要求が彼らを支配しているシステム=暴力装置としての軍隊と、いかに矛盾するかを問題にすることなのだ。
 私たちは脱走兵援助という経験を通じて、このような考え方を身につけるようになった。その結果、私たちの運動がここ半年の間に、単に逃げてきた兵士をかくまうという、ある意味では受身の行動から、米兵に向って直接反戦を呼びかけ、さらには米軍内の反戦運動と連携するというアクチブな行動に発展したのは、私たちにとっては当然の成行きだった。
 驚いたことに、私たちがとりかかったこの仕事には、お手本というものがなかった。戦後二十余年、社共を中心として取組まれてきた日本の平和運動では、「ヤンキー・ゴー・ホーム」の一語に代表されるところの一種のナショナリズム、もしくは革新的攘夷主義が支配的だった。つまり米兵といえば、日本人を侮蔑し、いかがわしい女性を連れて歩いて口笛を吹くといった昭和二〇年台のイメージが深くしみついていて、それがいかに現実とかけ離れているかは問題とはならないのだ(その種の女性たちの中には、ジャテック発足よりずっと以前から、戦争をきらう兵士たちを商売ぬきでかくまった人たちも少なくなかったのだが)。」(深見、1974=1970:330)

◆被害者として米兵を捉え返すスタイルの前例のなさ。米兵=加害者/支配者という戦後に形成されたイメージが運動レベルにも浸透し、反基地運動が「ナショナリズム」として出現してきた。
◆明確な戦争犯罪者=加害者たる米兵にも出会う。出会うことで自ら(日本人)がいかに安全な場からベトナム戦争と米兵を批判・分析・断罪できるのか/してきたのかを知り、何も言えなくなる。とともに、同じく加害者たる自分(日本人)に気づき、脱走兵をかくまうことが、「良心の気休め」であったと気づく。

◆ジャテックによる反戦米兵支援運動(深見、1974=1970:330−331)
・1969年8月頃から朝霞反戦放送、岸根反戦放送などの市民運動と連絡を取り始め、脱走兵の反戦メッセージを提供。また、『We Got the brASS』アジア版の作成・配布を行う。『We Got the brASS』と『英文アンポ』とが日本国内の主要米軍基地、沖縄、ベトナム、韓国などへも広がっていく。
・岩国基地内の反戦兵士グループ(『センパー・ファイ』の発行者)との連携が図られる。規模は小さいものの「基地の内外が相呼応してのデモを行うことが出来たのだ」(深見、1974=1970:331)
・米本国・反戦活動家ロジャー・ホビットらの協力による反戦カウンセリング活動の開始。「徴兵を何とかして逃れたいという青年や、軍隊から何らかの方法で離脱したいという兵士を対象に、一人一人の個人的な条件をつぶさに面接調査し、法廷闘争、除隊申請、あるいは脱走など、その人間にとって最も有利な手段をみつけ、どうやればよいかを教えこむ合法的な活動」(深見、1974=1970:331)

「彼らにおいては、軍からの離脱とは、せいぜいのところ規則ずくめの学校や不愉快な職場を飛出し、自由な天地を求めて放浪の旅に出たという体のものだ。そこには明らかにヒッピーたちと同種、同質のくったくのない精神構造、ふてぶてしい気質がみられる。かれらを片っぱしから受入れ、自由に住まわせる解放区があったら、どんなに愉快なヒッピー部落ができるだろう!
 だが、残念なことに、いま私たちが出来るのは、このせせこましい日本には自由な天地などどこにもないことを説明し、彼らが軍に戻って、上官(ブラス)たちに反抗する道を選ぶようすすめるぐらいのことなのだ。」(深見、1974=1970:331−332)

「それにしても、最近の脱走兵たちや基地内の反戦グループと接触し、彼らの軍内部の話をきけばきくほど、いまの米軍が実に多くの内部矛盾を抱えており、兵士たちの大半は潜在的な脱走兵であるという実感を持たざるを得ない。私たちはいまや《米軍解体》《自衛隊解体》というスローガンは、決して威勢のいい空文句ではないことに、確信をもつことができる。」 (深見、1974=1970:332)
◆兵士の多くが「潜在的な脱走兵」である。


■「討論・断罪か連帯か―――脱走兵マックヴァーンの戦争犯罪をめぐって」416-419(初出『脱走兵通信』1970年8月15日号)
◆Y生の発言「ジャテックに援助を求めてきた米兵が次のように述べている―――「僕の撃つ一〇五ミリ砲の一発で、小さい家一軒ぐらいは軽く吹っ飛ぶし、十人や二十人や死ぬ」「殺すことをためらっていれば必ず殺される。そういう場合、普通の男だったら、やはり殺す方にまわるだろう」「少なく見積もっても、この一年で千二百から千五百は殺したと思う」[…]そんな男を助ける!?―――バカな。そいつを殺してベトナム人のために復習することこそがふさわしい。
 一年間にも亘って人を虐殺し続けて、自殺もせず、気も狂わず、「普通の男だったら殺す方にまわるだろう」などと自己弁護して平然としている―――そんな男に何かしてやるなど、できることだろうか。」(「ベトナムに平和を!」市民連合、1974=1970:417)

「彼が「僕はもう一度ベトナムに帰るか、牢屋に入るか二つに一つを選べといわれたら、即座に牢屋に入る方を選ぶだろう」と言うなら、僕は彼に言う―――いいえ、君が選ぶべきなのは地獄なのですよ、と。それだけがこの場合、僕にとって―――そして彼にとっても―――正当なジャテック活動であると思われる。」(「ベトナムに平和を!」市民連合、1974=1970:417)

◆深見の発言「彼が反戦の行動をとり始めた瞬間から先を、私たちは尊重するほかない。そうでなければ、そもそも弱者の連帯とか、抵抗というものは存在し得なくなってしまうからだ。
 なお、マックヴァーンはその後、私たちの一人が貸した高価なトランジスター・ラジオと、他の脱走兵たちが好意から与えた衣類を持ったまま姿を消してしまった。しかし、この事実によって、私の考えを改める必要があるとは思えない。」(「ベトナムに平和を!」市民連合、1974=1970:417)


■『朝日新聞』1970年9月26日「米軍板付基地に反戦機関誌―――内部反乱呼びかけ」419
・1970年9月、板付基地に反戦団体が作られ、『YAND』(Young Americans for A New Direction)という反戦機関誌が発行されていた。ベトナム戦争の実態、反戦自衛官・小西誠の活動の経緯、反戦フォークソングの貸し、風刺漫画などを掲載。


■『朝日新聞』1970年10月6日「三沢に“反戦スナック”―――ベ平連が資金 基地米兵の運動支援」420
・米空軍三沢基地のある青森県三沢市に反戦スナック。少ない日でも20人近くの米兵が集まる。ピースシンボルのペンダントが売られ、反軍GI新聞、反戦パンフレットなどの配布。三沢基地では反戦機関誌『ヘアー』を発行。基地内の動きに呼応した形で支援する。

◆軍隊内や町の中でもMPの監視・管理が強い中で、反戦・反軍を語り合う空間を創る。また、新しい実践を生み出す場でもある。


■『朝日ジャーナル』1970年10月11日号「反軍GI新聞続々」420−422
・板付基地の反軍GIは1970年9月25日に機関誌『YAND』(Young Americans for A New Direction)発行。
・横須賀基地の水兵は『ヨコスカ・デイビッド』を作成し、横須賀ベ平連が配布。
・岩国海兵隊基地のアメリカ兵士組合(ASU)の運動から『センパー・ファイ』が発行。1970年7月4日に反乱と組織的サボタージュ。


■『朝日新聞』1970年11月12日「日本人弁護士、米軍事法廷に出廷」425−426
「米軍法会議  簡易軍法会議、特別軍法会議、一般軍法会議の三種類があって、刑罰もこの順で重くなる。懲役六ヶ月、非行除隊以上の犯罪が審理される一般軍法会議では、被告に、普通の裁判と同じように弁護人を頼むことも、上訴する権利も認められている。[…]刑罰は罰金、禁固、懲役、不名誉除隊など。除隊処分の中では不名誉除隊がいちばんきびしく、投票権、運転免許証などがはく奪されパスポートも入手できなくなる。」(「ベトナムに平和を!」市民連合、1974=1970:426)


■鶴見俊輔「鉄道時刻表のように」453−454(初出『脱走兵通信』1971年1月号)
・カナダに到着した脱走兵から結婚式のしらせが届く。
「日本をとおっていった脱走兵の中には、このように普通の生活にもどれたものもいる。アメリカから女友達を呼びよせて、両親の祝福の下に、新しい市民生活に入ったこの人がいることは、ジャテックの活動が、不幸に至る道のりをただながびかせているものではないという小さな確信をつくる。」(鶴見、1974=1971:453)


■書評・紹介


■言及


*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV: 20180225
社会運動/社会運動史  ◇ベトナム  ◇ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)  ◇BOOK
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