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『いくつになったら歩けるの』

花田 春兆 19740805 ミネルヴァ書房,268p.

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last update: 20180225


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花田 春兆 19740805 『いくつになったら歩けるの』,ミネルヴァ書房,268p. ASIN: B000J9FPYI 800 [amazon] ※/東社369.49HS

■目次

一 はじめまして  5
二 誕生  18
三 入学前後  33
四 校門の内と外  52
五 適性へのめばえ  67
六 補習科研究科  79
七 戦火  91
八 新生のとき  103
九 発足の時代  115
十 あてなき遍歴  127
十一 竹の節  139
十二 新人登場  151
十三 次点居士  164
  蛇を逃がす
 ☆安楽死をめぐって  168
 ☆拡がる波紋  172
十四 輝ける年  176
十五 双紋  188
十五 産みだすカ  201
十五 はしれ、はしれ  220
十五 “七〇”から“七五”へ  233
十五 ニつのほん  252
十五 いくつになったら  261
☆あとがき 265

 ※☆の部分を全文引用

■引用

 註(☆)は引用者(立岩)が付した。原文にはない。
 しばらく引用をこの頁におくが、引用部分は以下の書籍に収録されている。
2015/05/31 立岩真也 編 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 1000円

 「安楽死をめぐって

 この角川賞を逸した時期と前後して、『しののめ』☆01にも一つの画期的なことが起こっていた。四七号の安楽死をめぐって≠フ特集号の発行である☆02
 たしかその前年の秋、小さくはあったが目をひきっける記事☆03が出ていた。イギリスの重症児を殺した父親に対する、裁判に関連しての記事であった。無罪の判決が出るか、出ないかで、イギリス朝野の意見が、ニつに割れて沸騰しているという状況下であったらしい。そうしたとき、ある医者(だったと思う)が――現状程度の社会保障では、安楽死を認めるべきだ――と発言した、というのである。公的な発言であったために、ごうごうにる非難が湧い△168 た。この人の真の意図は、死なすことではなくて、社会保障の充実を世論に訴えることにあるのは、ことばのニュアソスでわかるはずだ。しかし、何にせよ、事実上の殺人を肯定する発言が、当然大きなショックを、社会に与えたことは疑えなかった。
 私たちにとっても、このニュースはショックだった。社会保障が進んでいる国として、羨望の的であったイギリスにして、こういう現実があるとしたら、日本などどういうことになるのだろうか。秋津療育園や島田療育園の発足が、新聞などで報じられてはいたが、公的にはまだまだ皆無の状態であったころだ。ましてや、成人した重度の在宅身障者のことなど、問題にもされていなかったのだ。この現実を、問いたださねばならない。死、というより殺されるよりない現実へと追いつめられていく思いに、駆りたてられるのだった。
 しかし、真正面から安楽死≠とりあげることへ、躊躇したり反対する声も、ないではなかった。軽々しく片づけられる問題ではないし、疑う余地も残さずに結論づけられる種類のものではあるまい、というのである。主観や理論では否定しきれても、客観的に、また現実面で説得できるものが得られるだろうか。自信は持てまい、というのだ。
 てして、こう真正面からとりあげると、よく読まない人にいかにも私たちが安楽死を求めているような、危ない印象な与えかねない、と気づかう意見もあった。また、生まれてから一度も、肉体的な不自由ばかりでなく精神的にも差別感を味あわされて、こんなことなら死△169 んだ方がましだ、と思わなかった人はないのではないか。だとしたら、知らず知らずにせよ、意識的にせよ、そちらの方に引っ張られて、安楽死を否定しきれなくなるのではないか。自分ばかりでなく、自分よりもひどい障害の人を見た場合、死んだ方が幸せなのではないか、と思ってしまうのではあるまいか。そう思わないと言いきれる人が果たして何人いるだろうか。本当に正直に書けないことではないか。そんな見方から極めて消極的な立場をとる人もいた。
 だが、このテーマを提起したI君をはじめ、この命題にとりくもうとする連中は、なみなみならぬ意気込みを示していた。ほかの身障団体では不向きな問題としてタプーにするだろらからこそ、文学的な『しののめ』で問いかけなければならない、というのだった。私もその意見の側だった。へたをすると命とりにもなりかねないぞ、と危倶しながらも、避けて通ってはならない根本的な問題として、明らかに意識されてくるのだった。
 半年近い準備期間をかけて、何回かの編集会議が持たれ、盛んなディスカッションが行なわれた。
 私たち自身の意見をうちだすことはもちろんだが、それだけでは袋小路に入ってしまう危険があった。深く掘りさげることも必要には違いないのだが、他へと拡がって受け入れられるものでなければならなかった。主観的な主張が、客観性を備えて、読む人に妥当に迎え入△170 れられるものでなければならなかったのだ。
 拡がりを持つ問題だということを、スムーズに感じさせるために、周囲の人々と私たちとの往復書簡というカタチで、主題を展開させる方法をとった☆04。医師・宗教家・父母・友人などへの、問いかけのスタイルにしたのである。白羽の矢を立てられて、相手役に引っ張り出された人こそ、いい迷惑だったろうけれど、そんなことは言っていられなかった。私たちの側の中にも、子想される相手の答えを、ハッキリときわたたせるために、脚色を考えてわざと死を肯定するようなニュアンスを、それとなく匂わせなナれぱならなくなって、苦労したという人もいた。
 それに加えて、できるだけ多くの人の声を……というわけで、『しののめ』としてははじめて、往復はがきによるアンケートを三〇枚ほどとって、周囲から外部の範囲の人々の意見を、誌上に掲載したのである。そのほとんどは、殺人である安楽死は許されるべきでない、と積極的にしろ、消極的にしろ反対を表明していた。これはある程度子定し、期待していたことだった。だれに死を与える権限を持たすことができるか、と現実的に反対する声もあった、その中に三人ほど肯定の返事を送ってきた人のいるのが、目をひきつけた。一番現実に触れているような人だったので、この回答にはショックを受けざるな得なかった。と同時に、これこそがいつわらざる現実なのではないか、とも思えるのだった。△171
 同じ身障者のNさんの描いたヒヨコの表紙絵が、死と誕生というコントラストを感じさせていた。内容が内容だけに、表紙だけでも明るいものにしたかった。
 「なあに、このヒヨコだってオスたったら、間違いなく安楽死させられちゃうよ」
 I君はこんなことを言って、
 「お互い人間でよかったね。男は」と笑わせたものだ。無事に編集を終わった気安さに笑いながらも、そこに一つの真理が端的に暗示されているようで、笑えないものにぶつかる思いだった。
 そして、死を意識するところから、新しい生への意識の誕生がある、そういう意味をこの表紙によって語らせ、明らかな宣言としたい、と思ったりもするのたった。

拡がる波紋

 安楽死をめぐって≠フ特集号は、子想よりも遷かにセンセーショナルな受け取られ方をされ、大きな波紋を拡げていった。それは大きずぎて、会心の笑みをもらすどころか、怖ろしくなるほどたった。『しののめ』がタローズアップされるのは、もうそのくらいのカは備えているのだから……、と平気でいられる自信家たったから、怖ろしがる理由はなかった。
 こうしたテーマが、現実の問題として、異常なほどの反響をよぶ現状が、つまり安楽≠身近なものとして直面させられている人々や、そういう人々に触れている人々が、意外とと思えるほどに多いという事実、この怖ろしさが身に迫ってくるのを感じたのである。
 この特集号を、社会的な規模の問題へと拡げたのは、まず『朝日新聞』の学芸のべージの季節風≠ニ題する書評・時評のかこみ欄であった☆05
 おそろしい質問≠ニいう見出しでの、その紹介文は、おどろくほどの手紙やはがきの問い合わせを、それこそ全国から私の家の郵便受けに集めたのである。ドカッと来るのが一週間は続き、雨だれ状態が1ヵ月は続いたと思う。
 少しは余計に印刷しておいたのだが、たちまちなくなってしまい、ことわりきれずに再版増刷ということになった。急ぎだし、絵の原版をもう一度作るのは費用もかかるとあって、再版の分は表紙絵抜き、ということになってしまった。同人誌の再版もおそらく前代未聞だろうし、絵の部分が白くスッポリと抜けているというのは、そうあるものではないだろう。この記念物とも言える再版本も、足りなくなってしまって現在では探しても見当たらなくなっている。
 当然(では困るのだが)ながら、センセーショナルなタイトルだけに、そう深く考えずとりあげようとするような、悪い意味でジャーナリスティックに徹した週刊誌の類も、やっ△173 て来ないでもなかった。私を殺してほしい≠ネどという見出しをつけて、いくつかのケースを一人の人の手記のようにして、これでもか、これでもかと悲惨さを強調して、死だけを望みながら生きているような人物を、デフォルメ的にクローズアップして見せるのもあった☆06。故意に誇張して見せるあたりに、昔、というほどでもなく最近まで存在したのかもしれないが、見世物をつくりだしていた精神と、通じあうものが見えすいていて、どうにもイヤな気がする。それに登場してくる人物なり間題点なりが、単なる素材だけに終ってしまっているのも、もうひとつ納得のいかないものがあるのだった。
 だが、そうした記事に対しての安易な批判にも、妙に反撥をおぼえてしまうのだった。ありもしないお芝居、だとか、心の持ち方ひとつで解決する、などと頭からきめてかかろうとするきめつけ方には、本当の現実を知らぬ者のくせに、と腹が立ってくるのである。
 『婦人公論』が、石川達三・水上勉などのお歴々を招いて安楽死″ル判をめぐっての座談会を組んたのも、この時期であった☆07。石川氏は、なんでも生かしておかなければいけないというのは、甘い古めかしいヒニーマ二ズムだ、として新しい理論的なものを築けと主張していた。しかし、新しがったところで、江戸時代の間引きの思想とどこが違うのだろうか。変わってはいないではないか。また、水上氏は、生命審議会でも設けて、そこできめては……と一種の逃げをうっていた。だが、全能でもなく、将来のことまで見通せない人間に、ど△174 うして公正な判断などできるのか。自分の娘がサジを投げられて放置された時、医師を恨んだという水上氏に、生命を左右する権限を医者に与えるだけの、信頼の情がどこにあるのだろうか。それに、両氏ともに、いや座談会全体に、重障児(者)なり、それをとりまく人々なりの持つ可能性というものを、まるで考えていないことが、どうにも頭にきてしまったのである。全然発達しないものとして、扱っているのである。私は黙っていられなかった。らくがき童子という筆名が『しののめ』で活躍をはじめるのである。
 ともあれ『しののめ』は従来の文学性に加えて、社会性を強めていく。見る人によってま、文学性より社会性が優先していく、ということになるのである。文学性をいかしたつもりの特集が、そのキッカケとなっているのだから、皮肉といえば皮肉である。」(花田[1974:168-175])

「あとがき

 全国障害者問題研究会の、『みんなのねがい』誌に、昭和四八年一月号から同四九年六月号まで一年半にわたって連載したもの☆08。それに、五〇枚ほどを加えただけにとどめた。私は原稿に手を入れるのが、どうも苦手である。アテトーゼ(不随意運動)があったりして、書写に時間がかかるために、清書もしないで一発できめようとする。必要性が生みだした習癖が、すっかり身についてしまったらしい。発表したものをまとめて本にする場合も、書き改めるということな、ほとんどしないですましてしまう。今回も、その例にもれず、一節分(六枚〜十枚)づつを、七ヶ所ほど書き加えただけである。だから、前後の関連がおかしいところもあるかもしれないが、ご諒承いただきたい。

 書き終わってみると、執拗に過ぎた部分と、十分に触れ得なかった部分があるのが、感じられてくる。かつて

  日々凩傷つけあはねば書き尽くせず

 という句をメモしたが、現在につながる密度が濃くなるにっれて、傷つけあうことの難しさを、改めて思い知らされるのたった。
 なるべく、時代や社会との関連において、拡がりを持つように努めたつもりである。しかし、あくまでも私個人の記録であったために、おのずと限界があって十分ではなかった。もし機会があれぱ、もっと広い観点に立っての戦後の身障者の歴史とでもいうものを、書きたいと思っている。
 光明学校についての思い出に、かなりのスべースを使っているのは光明≠ヨの入学がなけれぱ、現在の私はあり得なかった、と思われるからだ。身障者にとっての教育は、一般の人のそれより、遙かに重大な意味を持っている、とさえ言えよう。にも関わらず、まだ教育を受けられない子どもや、受けられないままに成人した人々が、かなりいるのである。そして、たとえ学校や学級に入れたとしても、適切な教育を受けられずに、役所の机の上の就学率は上っても、事実上は未就学状態で終わってしまう場合も、往々にしてあるように見うけられるのである。養護教育にたずさわる先生方が、現実の成人身障者の生活に、目を向けてほしいと思うように、身障者自身も、教育についての発言を、高めていく必要があるのではあるまいか。△266
 書いていて感じたのは、人と人との出会いの、大切さと不思議さであった。そして、私が、その点で恵まれている、ということであった。その思いは、この本の誕生についても、例外ではなかった。ミネルヴァ書房の寺内一郎氏をはじめ出版に尽力された方々、連載についてお世話になった障都連の宮内君や、『みんなのねがい』の編集部の皆さんにお礼申しあげたい。そして、これを読んで下さる多くの、既知・朱知のすべての人々にも……。

  昭和四九年五月
                                 著者」(花田[1974:265-267])

□註(2015/09/17)

☆01 『しののめ』頁の作成を開始した。
☆02 本書〔=以下、『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』〕に全文を収録した。
☆03 入手できていない。記事のデータあるいは発行年月日をお知らせいただければありがたい。
☆04   「同特集は、同人以外の外部者(=「健全者」)たちとの往復書簡を中心に組まれているのだが、ここに見られる同人と外部者の価値観の相違は大変興味深い。同人の意見の中には、社会保障の不備からくる生活不安や、家族に養われることへの引け目、そして障害そのものの苦悩から「安楽死」肯定も辞さないという意見が見られるのに対し、外部者たちは人権尊重の観点から「安楽死」に反対し、同人をたしなめるという構図が見て取れるのである。
 同人たちが「安楽死」を求める背景には、太田のいう「精神的苦痛」に近い感情があることが分かる。つまり救いのない人生であれば、いっそのこと死を選びたいという主張である。しかし同人たちが「安楽死」という言葉を使う際の文脈を慎重に読むと、そこにはある種の自己主張が込められていることにも気付く。一見したところ同人たちの言葉には、障害者を懸命に介護する家族への配慮と引け目が内包されているように見受けられるのだが、そこには同時に家族からの抑圧に対する憤懣も色濃く混じっているのである。
 家族という閉塞的な空間の中で生きなければならない在宅障害者にとって、「安楽死」という言葉には、自己の主体性を誇示する一つの表現手段としての意味合いが込められていたように思われる。つまり「安楽死」肯定という形で自己を否定して表明して見せることが、自分が自己の生命に対する決定権を有し、かつそれを判断・行使し得る思惟能力を有していることを、家族をはじめとした他者に対して表明する手段となっていたのである。」(荒井[2011:134])
 私は横田弘の『増補新装版 障害者殺しの思想』に付されている「再刊にあたって 解説」の註で(折本昭子と大仏空の)往復書簡についてすこし触れている。
 「17 六二年の『しののめ』の安楽死特集には折本昭子と大仏の往復書簡が掲載され、大仏の短い六つの返信がある。安楽死よいではないかと大仏は言うのだか、その言い方は普通ではない。例えばその第三返信には次のようにある。
 「臨終の刹那において人間に猖狂悪相を与えるものは、日頃、心身に緊張とその圧迫を集積させて居る”独りの人間としての責任”とか”強く正しく生き抜け”などという現代文明の考え方そのものです。
 弱く意気地のない生き損ないで結構じゃないですか!
 がしかし残念なことに、これでは現実の社会では通用いたしません。そこで私達は、安楽死や自殺や精神異常によって、社会とその政治に挑戦し、盛大に現代文明の血祭りを開催しなければ不可ないと思います。」(折本・大仏[1962:33-34]、大仏の返信より)
 真宗大谷派の研究所で話す機会がありそれが文字化されている。質疑で問われてしどろもどろに以下のようなことを述べている。
 「より罪がないというか、より善き人であるということによって位置づけていく思想はやはり何か違うと、そのようには考えない道筋というものがあるはずですし、私は、おそらくそちらのほうが正しいという言い方がよいかわかりませんが、考え方としては整合性があると考えたりもしております。」(立岩[2014a])
 探してみると大仏の子である人によるらしい『マハラバ文庫』というHP(増田 大仏[2006-])があって、そこには「新解放理論研究会」という部門?があって、それを読むと「解放理論研究会」というものがあったようで、その「テキスト(第三版)」では横塚晃一の「ある障害者運動の目指すもの」も収録されていたようだ。大仏の『解放理論研究会テキスト No.1』(大仏[1979a]、発行は茨城蒼い芝の会)、『解放理論研究会テキスト No.2』(大仏[1979b]、発行は解放理論研究会)、そして横田『ころび草』の序文(大仏[1975a])、「異端の思想」(大仏[1975a])等が再録されている。
☆05 「おそろしい質問」『朝日新聞』1962年6月14日朝刊13面。荒井裕樹の『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』でふれられている。本書ですでに引用しているが、その部分だけを再掲すると、「『しののめ』同特集号は、刊行直後から大きな反響を得たという。『朝日新聞』は「おそろしい質問」と題して「ただただ厳粛な気持で、言葉がノドにつかえてしまう」と伝え」(朝日新聞、一九六二)」(荒井[2011:135])。
☆06 本書に収録した「私を殺してほしい!」(特別手記),『週刊女性自身』5-27:41-44(1962/07/09)の筆者――雑誌には「埼玉県北足立郡大和町 土屋明子(24才)」と、また「(本人のご希望により、名前は仮名にいたしました。)」と記されている――が実は花田であったことを花田自身が明かしたことを荒井が記していることはその記事に付した註でも記した。その部分だけ再掲する。
 「右の『女性自身』の記事に関しては補筆すべき事柄がある。二〇〇八年になって、花田はもう「時効」であることを断った上で、この手記が実在する『しののめ』同人をモデルに、花田自身が「覆面ライター」を務めたものであることを明かしている(花田、二〇〇八a 、八八―八九頁)。では何故に、これほどまで誤解を招きやすい表現を使ってまで、花田は「安楽死」について語り続けたのであろうか?
 障害者自身が「安楽死」を否定できずにいる心境を擁護し、むしろ積極的にそのような声を社△137 会へ発信する一方、水上や石川らのような発言には厳しく反論する花田の複雑な主張には、概ね次の二点にその真意があったように思われる。一つは、障害者への「安楽死」の是非を議論する以前に、その議論する言葉自体を障害者自身のもとに取り戻すことであり、もう一つは、時に誤解を呼びかねない極端な表現を用いようとも、現実に障害者たちが死を意識した日常を送らねばならない状況にあることを一般に知らしめることである。」(荒井[2011:137-138])
☆07 本書〔『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』〕に全文を収録した。
☆08 1973年1月号から1974年6月号までの全国障害者問題研究会(全障研)の雑誌に連載がなされ、それが1974年8月号に出版され、「あとがき」は同年5月となっている。1974年8月27日から29日、青い芝の会の全国拡大常任委員会が開催され(於:東京久留米園)、そこで養護学校義務化反対の方針が出されている。養護学校義務化を巡り、全障研と、青い芝の会そして全国障害者解放運動連絡協議会(全障連)は強く対立する。


UP:20150917 REV: 20180225
花田 春兆  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(の運動)史・人  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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