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『ベ平連ニュース 縮刷版、脱走兵通信、ジャテック通信』

ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合) 197410 河出書房新社,528p.

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last update: 20180225

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■「ベトナムに平和を!」市民連合 編 197406→19930115索引付再刊 『ベ平連ニュース 縮刷版、脱走兵通信、ジャテック通信』,825p.

■出版社/著者からの内容紹介

「1965年10月に創刊され、以降月刊で発行されていた『ベ平連ニュース』の終刊号(1974年2月、第101号)までを、付録、臨時増刊も含めてすべて縮刷合本にしたものでベ平連運動の生の資料。これには、脱走兵援助活動の基礎文献、『脱走兵通信』、『ジャテック通信』の縮刷合本もすべて含まれています。これは在庫がなくなり、現在、入手できません。図書館、あるいは埼玉大学共生社会研究センターの常備図書などをご利用ください。」
「旧「ベ平連」運動の情報ページ」より 

■目次


■引用

※ファイル作成者注: 以下の引用はファイル作成者(大野 光明)の問題関心から、@沖縄問題へのベ平連運動の取り組み、A脱走兵支援活動、にややしぼった引用である。

■小中陽太郎「沖縄からの訴え」(1967年6月号)(3−4=[59−60])
「もともと私たちの旅行には3つの目的がありました。まず沖縄復帰協の復帰大会に出席すること、それがすんだら、ベ平連の活動について話し合いを行い、具体的な行動を展開すること、3番目に、若い編集長は旅愁にひたり旅費がベ平連から出ぬ以上私は旅費および娘のミルク代を稼ぐために、ルポの種などを探すことである。
 こうして、26日鹿児島発、27日朝ナハ港着、そのまま、沖縄本島最北端の江戸岬に直行しました。たき火大会では与論島の火をながめながら、「沖縄を返せ」という歌を沢山うたいました。室君は船の中でサツマおよび明治藩閥政府による沖縄の搾取についての本を読みすぎたため、「このうたは誰が誰に要求しているのか不分明である」と盛んに憤慨いたしました。[…]ナハしの大会後、今度は沖縄ベ平連の宮城信也君、新里冨美子さんと手をとって、専心ベ平連の活動の活動にとりかかりました。
 5月2日琉球大学講演(150名)5月4日、沖縄大学(100名)。そして5月5日午後2時より、ナハ市最大の盛り場、国際通り、「牧志」でビラまきおよび「沖縄アッピール」のカンパ。300名の署名と20ドル90セントの募金が集まりました。」(3=59)

「沖縄の復帰運動はたしかに曲がり角に来ています。それは単に復帰のカケ声だけでなく復帰の内容についてのビジョンを打ち出さぬかぎり一挙に体制側に組み入れられる恐れがあります。」(4=60)

「沖縄は――そこではもう戦争が始まっていました。」(4=60)

■新里冨美子「沖縄ベ平連から」(1967年7月号)(5=67)
「毎月第一土曜日の午後4時から7時まで行うことになっている沖縄アッピールの街頭署名カンパ、予定通り6月3日に行いました。人の流れに向って「アメリカの雑誌でベトナム反戦と沖縄の全面返還を訴えよう!反戦広告のためのカンパと署名に御協力下さい。」と呼びかけました。」(5=67)

■沖縄 一軍作業員より「基地の中の島「沖縄」から」(1967年8月号)(3=71)
「しかし沖縄(本土もそうだと思いますが)でなされている復帰運動、平和運動は、私たちの苦しみをほんとうに解決するものではないと考えます。それらが単なる排外主義、民族主義的反米であるが故にアメリカ人民との対話を拒否し、一方私たちの権利を剥奪し、再軍備を強行しつつある国家権力には無批判な人間を生み出しつつあります。
 私たちは人民の全てがお互いの生命や権利を奪い合うことから解放されるように欲します。そのためには、同じ犠牲者、被害者としての米兵やベ国市民と連帯し、同時に国家権力に対決しなければなりません。幸い沖縄ベ平連が市民運動としての一定の限界を有しながらも、上の観点に立って運動をすすめていることを街頭カンパのビラで知り心強く思いました。特にアメリカの雑誌上での「沖縄アピール」の計画は、これまでの復帰運動に一大波紋を投ずるであろう画期的な着想だと思います。」(3=71)


■S「事務局だより」(1968年4月号)(8=128)
「吉田内閣が単独講和を強行し、沖縄の同胞を見すててしまった4月28日がまたやって来ます。ベ平連では、非暴力反戦行動とともに、直接現地で、沖縄即時全面返還要求、ベトナム反戦、の運動を沖縄県の人達と連帯して行なうことを計画しています。B52常駐などの緊迫した今日の情勢において、ベトナム反戦運動は、沖縄復帰運動と決して切り離すことの出来ないものだと思います。
○沖縄にしろ、エンタープライズの寄港にしろ、王子の野戦病院にしろ、成田の問題にしろ、これらの問題の背景に居すわっているのが“安保”です。」(8=128)

■ヒビヤマサヒロ「そして直接行動を―――沖縄の痛みを負え―――」(1968年6月号)(7=145)
「那覇に近づくにつれて沖縄について何も知らないということを知らされていた。沖縄についての本を何冊読んでいようと、資料にいかほど目をとおしていようと、眼前の沖縄が私に負うべき何かを迫って来るようであった。
 […]税関にバッグの底まで検閲される。この日本からの分離という屈辱。もう一つはドルである。バスに乗りドルをまず払わなければならなかった。この円からの分断。私は膚に負う。」(7=145)

「ベ平連の旗の周りにいるわれわれに話しかけてきた少年と少女たちがいた。今の復帰運動では駄目だという。毎年夏が来ると祭りがある。それが復帰運動だという。[…]本土から来た人たちも祭りをやりに来た。僕たちのほんとうの叫びを表わすものが欲しい。」(7=145)

「コザの繁華街はいわゆる白人街と黒人街に別れる。白人街からビラを撒く。多くのMPが巡廻していた。われわれを監視していた。ビラは70%受けとられた。ある者は立ち止りじっと読む。胸のポケットにしまう。なかには酔って陽気になり、2、3枚もらってサンキューを連発する。しかし、残る30%の者は、ビラをくちゃくちゃにまるめる。四つ裂きにする。ユウ、アー、コミュニストとののしる。火をつけたビラを持ち、喧嘩を挑まんばかりに立ちはだかる。
 黒人街はひっそりとして人影もまばらである。灯りが少なく街は小さい。黒人兵に近づくとビラは非常に大切なもののように四ツ折りにされ大きな身体に隠される。そしてもう一枚くれという。ここにもMPが巡廻している。渡されると露地の闇にスーッと消える。ビラはわれわれの手から黒人のほうに吸いとられる(この言葉がピッタリ)。渡すときの黒人の眼が印象的である。暗く、何か訴えかけようとしている。ビラは丸められたり破かれたりはほとんどない。しかし、おまえらはかつて何をやったか。俺らは戦っている。おまえらは何もわかっちゃいない。号泣するように絶叫する一人。悲痛な思いで私たちは聞く。」(7=145)

「〈沖縄を返せ〉・基地撤廃を米国雑誌に広告を出すカンパ運動です。ハンドマイクで国際通りを行きかう人びとに訴える。アメリカ本国の人びとは基地沖縄の現実をほとんど知りません。知らせようじゃありませんか。訴えようじゃありませんか。高石友也が受験生ブルースそしてフォークソングを歌う。女高生たちが高石をとりあく。そのまわりに買物に来たおばさんたち。帰宅途中の労働者たち。夫人たち。若者たちとわがひろがる。」(7=145)

◆嘉手納カーニバル開催中の嘉手納基地への直接行動
「米兵が基地グリーンベルト前に阻止線を張っていた。阻止線を隔てている軍用道路の反対側に集結し始める。ベトナム戦争阻止反戦青年会議の学生たち(議長上間)。原水協の労働者たち。沖縄ベ平連。ベ平連(われわれ)。とても基地突入は無理な状況。各団体の代表者たちが集まり、行動計画の再検討。いよいよ行動開始。原水協、学生、ベ平連(労働者、学生、市民)は一体になり、軍用道路を横断し、阻止線に向う。米兵はカービン銃を横にかまえ阻る。沖縄と基地の対立がいよいよ明確にそびえたつ。我々は基地司令官に面会を求める。会わせろ、会わせないの問答のうち、その場に坐り込む。突然、米兵が襲いかかる。」(7=145)

「We shall overcomeを歌いだすと妨害はとだえ、今まで居丈高にカービン銃をかまえ、仁王立ちになっていた兵士たち、とくに黒人兵たちが虚脱状態になり、銃をみなおろし、シュンとうなだれる。この瞬間こそ彼らと連ながるものがあると感じた。公民権運動からキング牧師へ、そして黒人暴動へ、また昨年のスプリング、モービリゼーション、10・21、3日前4・27国際統一行動を思った。この後、われわれの左後方に控えていた警官隊に交通の妨害だと何度も排除あれそうになるが、予定の午後2時から5時まで頑張る。」(7=145)

「「沖縄を返せ」を県民大会の興儀公園(これはこれの意義がある)で叫ぶだけでなく、もう一歩進んで、ベトナムに連帯する形でのB52基地撤去を米軍が最も恐れている部分に直接意思表示し衝撃を与えないかぎり、米軍支配はあぐらをかいている。原水協理事の仲吉良新氏の言葉を思い出す。「この行動はワン・ステップにしか過ぎない。今度は少数の人びとであったが、次のときはさらに大きな形での坐り込みを、そしてさらに大衆的規模での闘争を組みたい。いや、きっとなる。」
[…]
日本本土は沖縄を裏切り続けて来た。屈辱を与えつづけて来た。沖縄の米軍基地支配を以て独立、繁栄を続けて来た。私たちはそのなかに生活して来た。そして今も続けている。私たちは沖縄の人びとから侮蔑を受けなければならない。
 私たちは沖縄の人々の痛みを負わなければならない。膚に痛みを負わなければならない。
 沖縄の行動参加者、金井佳子(女優)、藤川渓子(54才の戦争未亡人)、小林(学生)、川上陽子(学生)、松浦英政(浪人)、山田彰江(浪人)、日比谷雅弘(サラリーマン)、沖縄ベ平連の名城政之(弁護士志望生)、中曾根邦光(学生)、喜屋武マリ子(学生)。」(7=145)

◆基地への侵入や抗議といった直接行動を求める本土活動家たちと、常に弾圧の可能性にさらされる沖縄の人々との埋めがたい溝があったのではないか。沖縄へ渡航し「沖縄らしい」「華々しい直接行動」をした、といわれても否定しがたい。

◆復帰運動批判

■アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6・15集会参加者一同「決意」(1968年7月号)(4=150)
「私たちは、ベトナム人民にならって、私たちのなかのベトナム問題を、私たちのやり方で解決しなければならない。砂川、成田、王子、板付、佐世保、横須賀、なかでも沖縄。そしてそれらをつらぬく日米安全保障条約。それが私たちが解決しなければならない共同の課題である。」(4=150)

◆戦争をとめるために基地を撤去する。基地を撤去するために日米安保を問う。なかでも沖縄。

■鶴見良行「反戦と社会変革のための国際会議 いま どうして? 鶴見良行氏にインタビュー」(1968年7月号)(6=152)
「ベトナム戦争で果たしている日本の役割り。たとえば沖縄の持っている重要性というものはそれほど小さなことではないわけです。そういうことについての、アメリカで反戦運動をやっている人々を含めて、アメリカの反戦運動の日本認識というのは必ずしも正確じゃないわけです。もっともっと日本が運動の内部で果たすべき役割り、日本政府が果たしている反動的な役割りというものをアメリカ国民に知らせなくてはいけない。」(6=152)

■「“基地”沖縄をアメリカの人びとに知らせよう!」(7=153)
「沖縄は、戦後20年たった今日も、米軍の基地支配によって、重い生活を続けさせられています。沖縄全島の土地のうち90%が米軍基地で囲われ、残るわずかな土地で生活を支えています。そして米軍基地支配によってはじまった人権の無視は、現在まで存在しています。基地があるかぎり、米軍の支配を受けているかぎり、この状態は続きます。
 また、ベトナムに向かって、B52、ファントムA105偵察機などが、米軍基地から連日飛び立っています。
 沖縄の米軍基地支配があるかぎり、平和は―――もちろん、ベトナムの、アジアの平和もないのです。この状況をつくり出したのは、サンフランシスコ条約、日米安保条約なのです。
 アメリカの人びとは、この沖縄の現実―――日本の現実をほとんど知りません。アメリカ内部での反戦の声が強まっている今日、沖縄のことをアメリカの雑誌に掲載し、訴え、知らせることは必要です。[…]
 不当に分断されてしまった日本―――沖縄と本土を結ぶためにも、沖縄アピールを、アメリカの雑誌に載せましょう。私たちの声を、現実を、じかにアメリカの人びとに伝えたいのです。
 あなたのカンパを!」(7=153)

◆日米安保条約がアジア、ベトナム、沖縄の平和をさえぎっている。そのために、日米両市民による抗議と反対が必要だ、との認識。よって、特に軍事戦略上、あるいは平和運動上大切な沖縄のことをアメリカ市民に伝える、という発想。

■「大募集! 8・15日・沖縄へ行こう」(1968年7月号)(7=153)

「米国の反戦・平和運動の人びと(8月11日・12・13日の国際市民会議参加者)とともに8月14・5日沖縄で開催される原水爆禁止の国際的な大会に参加し、またベトナム反戦、沖縄基地撤去要求のための独自な多様な行動をします。ベ平連からたくさんの人びとが沖縄に行きますが、各地のベ平連、市民・文化団体からも多数の人びとが参加されるようお願いします。」(7=153)

■ヒビヤ・マサヒロ「沖縄返還運動を行事化させてはならない」(1968年8月号)(3=157)
「また、彼[名城政之]はつぎのようにも語った。「[…]最近沖縄の復帰運動には、日本に対して幻想があった。いま、沖縄の闘争は自分たちで勝ちとることが必要で、祖国復帰運動が日の丸になるということを、よく考えなければならない。たとえば、復帰したら、すぐ日本の不層階級に化す、という恐れがある。」(3=157)

「中曾根邦光さんは、「僕たちは積極的に戦争しているんですね。僕たちは日常生活しているんですね。血塗られている。罪をおかしているんですね。」と、本土の、そして沖縄の人びとの位置を見据えて、本土、沖縄、ベトナムの関連性を話した」(3=157)

「私は戦中東京に生れ、敗戦後、東京に育ったものであり、1968年7月20日現在、東京神田の会社に勤める、足立区に居住しているものである。
 沖縄の人びととの格差は、確然と存在するのである。その格差は、美名、幻想では埋まりはしない。否、むしろその格差は歴然と頭上にそびえたつ。私はその格差を埋める作業をしなければならない。作業をつづけなければならない。そしてその格差をせばめなければならない。しかし……格差は事実、存在する。」(3=157)

「日本本土における唯一の決選の地、沖縄の人命が、いかに莫大な犠牲を強いられたことか。そしていかに沖縄の地に荒廃の限りなき支配をもたらしたことか。そして江戸時代より、薩摩藩の琉球王国への侵略支配を受けて、明治になってから敗戦まで、鹿児島県所管の沖縄県差別政策を受けつづけた沖縄が、祖国防衛の“タテ”として、いかに日本本土に地を献じさせられたことか。
 膚は重く、心に深く、この沖縄の痛みを負わなければならない。
 米軍の沖縄占領支配が続くなか、米国の極東政策の転換により、日本本土は独立し、そして、サンフランシスコ平和条約が停(ママ)結され、沖縄は、米軍支配体制の長期統治、基地保有のなかに組みこまれていった。そして、戦後から現在まで、米軍支配により、沖縄は分断されつづけてきた。それは沖縄の人びとの多大なる人命の、人権の、生活の無視の犠牲がここでも強いられ、そして、現在なお、続いている。[…]本土のわれわれは、沖縄の犠牲をみすて、その繁栄に身をゆだねているのである。この裏切りの連続を思う。」(3=157)

「昨年11月訪米し、佐藤、ジョンソン会談による裏切りを明確化した佐藤首相に向け、ただちに沖縄の十数万の人々は「佐藤内閣退陣」を要求し、大衆行動にたちあがった。」(3=157)

「スローガン、歌い文句は沖縄はのぞんではいない。具体的な沖縄返還のための大衆的直接行動を必要としている。[…]沖縄返還のための直接行動が大衆的にとられたことがあっただろうか。[…]いうならば米軍極東最大拠点基地が沖縄である。そしてその巨大なる基地増設のため強制土地接収されているのが沖縄である。その基地侵略支配にいまなお耐えつづけているのが沖縄である。」(3=157)

「国際反戦会議終了後、沖縄で行動を起す計画があります。参加希望者は、支給ベ平連事務局沖縄部まで、御連絡下さい。」(3=157)


■吉川忍「模索のなかへ―――反戦と変革――」(1968年9月号)(1−3=161−163)
「沖縄に住むひとびとはなにを考えているのか。そのひとたちの考えているような復帰をしなくてはならない。それにそった復帰運動をおこそう。こんなふうに考えてきた。」(1=161)

「「ベ平連の沖縄でのたたかいは浮き上がっていた」という、沖縄で「オキナワ」をたたかっているひとたちのことばをなんのつかえもなくのみこむことができないことを言いたいにすぎない。
 わたしたちは「オキナワ」から遠くはなれていることを認めよう。遠くはなれているわたしたちにとって、「浮き上がっていない」運動とはなにを意味するのか。いちど、わたしたちは「オキナワ」を理解することを拒否した運動を起こす必要があるように思えてならない。それは「オキナワ」をひとつの特別なケースとしてみることではなく、世界に無数に存在する一般的なケースとして、たとえばベトナム、チェコなどの問題と同質のものとしてとらえていく方法にほかならない。小田実氏のことばを勝手につかうならば「第三世界」の問題として。とするなら「沖縄復帰」ではなく「沖縄解放」のほうがより適切なのだろう。
 誤解をおそれずにいうなら、ベトナム反戦運動が、ベトナム人民の独立と自由、という理解のみでできるとするなら、沖縄解放運動もまた、沖縄にすむひとびとの心情のひだのなかに入っていかなくてもできるのではないだろうか。わたしには「オキナワ」でいま要請されているのはこのことのように思えるのだが――。」(2=162)

◆沖縄=第三世界の問題→復帰ではなく、解放=沖縄の人々にとって良い形。深く踏み込まなくても、理解によって対応可能な問題。

■「共同行動についての提案」(1968年9月号)(3=163)
「この会議の主催地である日本の位置からベトナム戦争を見る時、日米安保条約の廃棄と沖縄の米軍からの解放が必要であることが強調され、この安保条約の期限のきれる1970年が反戦運動にとって重要な年となることが強調された。[…]
・沖縄について日米間の共同行動を10月に行なう。アメリカ人参加者は、それに先だって沖縄に滞在し、沖縄の人たちと生活する。この行動は、日本―米国沖縄解放戦線の結成を目標とする。[…]1968年8月13日 京都 反戦と変革にかんする国際会議にて」(3=163)

■栗原達夫「沖縄闘争――私の視覚の中で」(1968年9月号)(5=165)
「「[…]その後の言動を見ても何かしら、単なるヒロイズムに酔っているような……」
まるで巨大なフカのヒレのような、B52の尾翼の見える嘉手納の町に住む人は私にこう言った。」(5=165)

「19日の那覇港。不法逮捕の抗議集会のあと、船に乗り込むとき、一人の女性は私を現地のカメラマンとカン違いしてか、「沖縄ではすべてに裏切られました。鹿児島へ着いたらすべてをぶちまけるつもり……」と怒った。
 隣りにいた地元の記者は、「――なぜそれを沖縄で言ってくれなかったのか…」と怒った。
 私もカメラを通して、少しでも沖縄のことを訴えたいと思って来ている人間として、その断層がやりきれなかった。」(5=165)

「京都会議でなされた〈沖縄解放戦線結成〉の声明にしても、沖縄原水協、学生、一般の人たちに機会あるごとに聞いてみたが、「はたしてどういう戦線なのか解らないが――」と前置きして、“オキコン”などととんでもない、といった感情的反感の空気が強かった。私は、もしこの声明が京都でなく、当事者である沖縄の大会の中で発表されたら、もっと違った受け取られ方をしたのではないかと思う。」(5=165)

「連帯というものは、お互いの触れ合いと信頼なくしてはとても強力なものになり得ないことを感じる。
 現地の組織や運動に仮に不信感があったにせよ、「こんどのベ平連は、いったい何人来て、何をやろうとしているのか全く解らない。そして事が起きてから、たのむとは何ごとだ」という沖縄原水協の声、「まるで秘密結社みたいだ、英雄気どりもはなはだしい」という記者の声。原水協の仲吉理事長ですら「ベ平連の会員は……」と述べるほど、この市民連合に対する認識の浅さは別として、現地の人たちから“スタンド・プレー”とか“捨てゼリフを残して”と言われるような遊離した素地がなかったといえるだろうか。いや、それより沖縄と本土(嫌なことばだ。本土に対して沖縄は分土とでもいうのだろうか)の情況の差を正しくつかまえていただろうか。」(5=165)

◆当事者=沖縄。そこに割って入る日本の運動体との断層(ヒロイズム)という問題。当事者のいる場所で、同じことが言えるかどうか、を問う鋭い批判。相互理解の不足→連帯とは程遠い実情。

■古屋能子「沖縄――8月16日前後」(1968年9月号)(6=166)
「当面の沖縄闘争でわたしたちはすでにこちらで、ベ平連をはじめとして沖縄闘争委員会、沖縄原水協、その他有志をふくめて、アメリカ軍事基地撤去闘争の手はじめとして、米軍基地ゲート前集会の挙行を決定していました。場所は第一ゲートとするときめられていました。ところが、わたしがかの地を踏み第一に見出したことは、現地の諸行動体のあいだの連絡がいかにも不十分だったということです。
[…]
 たんにゲート場所ではなくて、それによっていかなる闘争形態が組まれ、シット・インをふくめていかなる戦術が取られ、こうした闘争形態と戦術のためにはどのゲートがもっとも適当であるかということでした。
[…]
現実の情勢をふまえるのが運動のイロハであることから、現地の空気を無視するのではなく、それを基礎としながらもたたかう決意を示す方法をひたいをよせて探索しました。
[…]こうしてベ平連が出したビラには、16日9時に21ゲートから23ゲートにむかって行動を起こすことを示し、なお17日にはベ平連主催の講演と映画の集いをすることも書き添えてありました。このビラは15日夜に神原小学校でひらかれた原水禁国際大会の開会寸前の5時には、すでに校庭で撒かれていたのです。
 この国際大会当日のことです。それまで予定されていたわたしが大会で読むメッセージの発表が取消されたのも、また翌16日朝の集会でこのメッセージをつたえてくれと言われたのも。これは前記のI氏の口を通じてでした。これは、とても同一目標をめざしてたたかうもんとしては、意思伝達の機会を欠くものとして残念なことでした。しかし、同じI氏から、明日の集会場所は第一ゲートとしたと言われたときには、わたしたちの胸をよぎったものは当惑以外のなにものでもありませんでした。
 […]
1968年8月16日の基地集会は、午前10時から開かれることになっていました。前記の変更事項をふまえて、わたしたちはその前に対策のための会議を開くのを余儀なくされていました。そこで集会前の9時に第一ゲート前に集まることとなったのですし、またわたしたちはそのような行動をとったわけです。そして、またここから事件が展開されたようです。
 わたしたちベ平連の9人をふくめて、共鳴し、第一歩調をとってきた青年、学生などタクシーまたはバスでゲートにいそぎました。基地撤去闘争進展の願望と志向をこめ、意思は行動でしめすよりほか実施の方法はないと確信しながら、車は折しも、ゲートの50メートル入り込んだ地点にとまりました。この地点は、平常は民間人でも自由に出入できる地点である、とあとで聞かされました。到着したところにベ平連の旗がたてられたのは、もちろんのことです。この緊迫したさなかに、9時に戦術会議を確認した幾人かの活動家は、約束した時刻に30分余もおくれて、やってきたのです。[…]米軍からの退去命令は数回にわたって繰返されました。暴行と逮捕がはじまったのは9時55分ごろからだったのです。[…]集会参加者がこの逮捕と暴行を目前にして一部は姿を消すのを見ながら、おk名和を訪れた内地人としては初の事件として米軍に拘束されました。」(6=166)

◆ベ平連側からすると、@突然の変更(ゲートやメッセージ)、A遅刻、B退散、などへの不満があった。ただし、事前にどこまでの交渉や合意があったのかは不明。

■柳九平「8・16嘉手納基地闘争の中から」(1968年9月号)(7=167)

「どぎもをぬく事件として、27名の米空軍警察による逮捕、米民政府布令による退島命令とグロテスクな弾圧が加えられたことは、現地沖縄ではもちろん、本土でもマスコミを通じ広く伝えられたであろう。ある意味で、この事件を通じ、本土の“ベ平連パワー”がいかんなく発揮されたといえるかもしれない。
 しかし、この闘争の内実をたどると、現地沖縄で“ベ平連パワー”も二重、三重の壁にびつのめり、半ば頓挫したということをあえて述べてみたい。
 総括的に、一つは、沖縄の権力構造が直接、間接米民政府に集中していること(この沖縄認識の欠如、オールマイティの米帝権力にノックアウト)。第二に、自立した沖縄人民の闘いとの連帯が主体的に創出し得なかったこと(沖縄人民と意思疎通を欠き、未熟で雑多な寄せ集めの運動主体、不統一と孤立無援の無力さ)。第三に、既成の運動(本土原水禁、本土並化の傾向の沖縄原水協)の集中に完全にとりこまれたこと(事件収拾に奔走した彼らの意志は殺伐として、インポの人塊と化した彼らをのり越えるすべもなかったぶざまさ)。
 今回の沖縄闘争で、映し出されたベ平連のイメージを集約すると、本土で作り出された運動のパターンをそのまま安易に持ちこんだという意味合いで、本土の既成運動と同様、沖縄人民にとって“本土のお客さん”以上ではなかったのではないか。もともとぶっこわれた胃袋でなんでもこなす“ベ平連パワー”も、沖縄で歯が立たなかったという結論。教訓 沖縄人民の日常性を内在化する闘争へ!!」(7=167)

◆本土のベ平連のネットワーク・個の力型の運動スタイルを持ち込み、基地への直接行動という集団性の求められるアクションを行ったことの難しさ。一方で、基地への直接行動という行為はベ平連にとっては未経験のものでもあったのではないか。「意志疎通を欠いた」状態だった。沖縄の「殺伐」とした対応。

■「沖縄行動メモ」(1968年9月号)(7=167)
「16日 午前9時15分、嘉手納基地第1ゲート前到着。
9時50分、米軍AP(空軍警察)の渓谷を無視して居座り続けたため27名が軍事施設構内への無断侵入現行犯で逮捕され、AP詰所へ連行される。国籍・氏名等の尋問、身体検査を受ける。
 11時半頃、コザ署に引き渡され取り調べを受けるが、数名をのぞく全員が完全黙秘。沖縄原水協、弁護士の説得により、外部事情のわからぬまま午後7時頃までに全員が住所、氏名のみについて供述。
 午後10時半。住所・氏名を供述すれば直ちに釈放という条件に対して米軍から圧力がかかったらしく、この時刻になってやっと釈放。琉大生、労働者が不当逮捕抗議の集会とデモをコザ署の前で行い27名を出むかえる。
 17日 午前中、コザ署は全員を布令144号2部2章8条(軍施設構内への無断侵入)違反の疑いで那覇地検コザ支部へ書類送検。
 午前2時、地検の取調べ始まる。1人につき1〜2時間と長時間の尋問。7時頃全員の取り調べが終了。未成年者6名は直ちに家裁送り。
 深夜、米民政府のシモンズ公安局長は全員に、「米布令125号(出入国管理令)により在留許可を19日で打切る」との退去命令を出す。地検の処分がくだる前に退去命令が出るという沖縄の矛盾そのままの2つの相反する義務を押しつけてくる。
 18日 出入管理官が退去命令書を手渡そうと宿のドアの前に腰かけて待機するが受け取りを拒否して籠城。
 19日 地検は全員を起訴猶予処分にするが、不当弾圧抗議、渡航制限撤廃集会に送られて23名がおとひめ丸にて鹿児島へ。残る4名は、(沖縄滞在の)正当な権利の申し立てをするが出入管理庁は受けとらず、4人の滞在期間を確認すると、21日までの滞在を許可。退去命令を空文化する。
 20日 おとひめ丸の23名のうち5名が身分証明書の提示を拒否して再び沖縄へもどされる。
 21日 おとひめ丸の5人に、残留した4人が合流する。5人は行政処分の執行停止や人身保護法による訴訟を起こす。船内でも署名・カンパを集める。
 22日 おとひめ丸の9人に1名が船内で参加、鹿児島ではこの10名が身分証明書を見せずに下船。
 23日 晴海でも同様にして17名下船」(7=167)


■小田実「69年のベ平連 反戦・変革・運動講座・アンポ社 小田実氏にインタビュー」(1969年1月号 第40号)(1−2=191−192)

「「ベトナムに平和を」と叫んだところでこの戦争に荷担している日本政府の姿勢を変えさせることはできないし、とすれば戦争に加担しているこの日本を根本的に変革していかなければならない、とわたしたちが考えるようになったからです。
 そしてこの根本的変革というのは、具体的には沖縄の米軍基地をなくすことであり、本土の基地の存在を許している安保条約を撤廃することです。
 とすれば、わたしたちの運動は論理的にも現実的にも安保問題と正面からとりくまざるを得ないと思う。」(1=191)

◆変革=米軍基地の撤去(特に沖縄)=日米安保条約の撤廃


■五味正彦「沖縄――明日への考察のために」(1969年1月号)(6=196)
「この8月の闘いは、沖縄から28度線をへて本土に「留学」している学生の組織「沖縄学生闘争委員会」とベ平連、ベ反学連(各大学ベ平連)、キリスト者平和委員会、原水禁国民会議有志、中核派系反戦青年委・全学連などによって行われた。主要な目的は第一に本土の基地撤去闘争と結びついた沖縄基地撤去、第二に沖縄と本土間の渡航制限の撤廃であった(「反戦と変革」128ページ参照)。具体的には、5月2日の嘉手納基地ゲート前座り込みと、春以来小規模ながら数回にわたり行われてきた渡航制限撤廃のための直接行動を発展させたものであり、この目的は多くの人びとにアピールし、行き帰りの船での情宣行動により、共に直接行動に参加する人びとを獲得したし、特に帰りのひめゆり丸では一般船客(多くが沖縄在住又は出身の人びと)の半数以上の賛同支持を受けた。[…]しかしこの8月の闘争は、問題点・課題もわれわれに残した。8月16日の本土ベ平連を中心にした嘉手納基地闘争の際のいろいろな問題は、単に事前の準備連絡のまずさだけで肩づけられることはできない。沖縄において基地前に座り込むことは、本土の米軍基地の前で同じことをやるよりもずっと大変なことではないだろうか。本土ではこのような直接行動をほとんど行なっていないベ平連の市民・学生が沖縄へ行くとなぜあれ程のことができるのか。沖縄の力強い闘いにおぶさりながら、沖縄の運動にショックを与えようなどという甘えがはたしてなかったといえるだろうか。沖縄へ行こう!とあおりたてたこの「ベ平連ニュース」も含めてわれわれは再びあの闘いをかえりみる必要があろう。ともあれ私も69年中には沖縄へ行くつもりである。」(6=196)


■1969年1月18日―19日「基地撤去を要求する全国集会」佐世保: 社会党、総評を中心とする基地連と市民団体が共催。ベ平連も参加。(206)


■編集部「2・4沖縄と連帯して 大阪・ハンスト――東京・豆まきデモ」(1969年3月号 第42号)(5=213)
「「沖縄―解放」のシュプレヒコールが一段と激しくなる。」(5=213)

「この日沖縄で予定されていたゼネストが中止になったのはどういうわけか。本土の総評や同盟は、どうして沖縄のゼネストを成功させるべく行動しなかったのか。本来ならば沖縄に呼応して本土もゼネストを決行するのが当然のはずだ。それを沖縄の援助要請に応えるどころか中止を要求するとは。沖縄県民の胸に燃えあがった怒りの炎に水をかけたのは、我々本土の日本人ではないか。沖縄の同胞の苦しみをそのままにしておいてどこに日本の繁栄があろう。我々本土と沖縄の日本人が、自らの力で勝利をかちとるときまで日本の戦後は終らないのだ。」(5=213)

◆本土の左翼、あるいは日本人全体への(自己)批判としての2・4ゼネスト回避。

■「沖縄へ行こう 沖縄キャラバン」(1969年7月号 第46号)(12=252)

「沖縄の問題というものは、今日の日本の問題の、1つの集約のようなものではないだろうか。たとえば、今日日本の本土の上に、非常に多くの外国の軍事基地がある。そういう基地をたくさん置いたままで、日本の文化は高まり、経済力は高まり、繁栄と太平ムードがみなぎり、世界の中での「大国」というものに日本がだんだんなってゆくというならば、それは奇妙な状態というべきではないだろうか。本土では太平ムードの中で水増しされ、ぼやかされ拡散されている事が、沖縄では煮つめられた形で表れているし、沖縄に現われている状況こそが、実は日本の本当の姿だといいかえてもいいと思う。[…]私達は沖縄の問題をはっきりと自分の事として考えなければならないと思う。[…]昨年行なわれた渡航制限撤廃の闘争をより以上進める意味でも、そして6月行動で提起された沖縄闘争勝利のスローガンを具体化させる意味でも是非沖縄に行く事は私達にとって必要な事だと思う。」(12=252)

◆日本の問題の集約・象徴としての沖縄。それを見に行く=日本の問題を明らかにする、という主旨。


■関谷滋「「日本人問題」としての「朝鮮人問題」」(1969年1月号 第49号)(5=273)
「これはなにもベ平連運動に限られたことではなく、日韓闘争においても、それ[金東希・金鎮珠支援運動]は状況論的取組でしかなく、日本人にかかわる朝鮮人問題(アメリカにおける黒人の問題が、黒人問題ではなく白人問題といわれるように、日本人問題であるわけだが)への視点の獲得は、本年[1970年]初期よりようやく取り上げられだした大村収容所解体闘争、現行入管法および改悪入管法案粉砕闘争をまたねばならなかった。[…]我々が朝鮮人問題にかかわること、それは「他民族を抑圧する民族は決して自ら自由ではありえない」から、つまり民族間・階級間に搾取・被搾取の関係を必要とする経済構造をその基礎としなければ維持できないような体制を拒否し、そうではない未来社会を創って行きたいからなのである。そしてその過程において絶対に避けて通れないもの、それが朝鮮人問題であり部落解放の問題である。そこに我々が現在朝鮮人問題にかかわる意味があり、まさしくその意味において朝鮮人問題は日本人問題であると言えるのである。」(5=273)


■日米共同声明と佐藤首相の帰国を悲しむ会「佐藤首相の帰国を悲しむ市民の宣言」(1969年12月号 第51号)(1=285)
「佐藤首相は、軍事基地を少しでもそこなわないために、沖縄にも本土なみの機動隊政治をしくばかりでなく、さらに軍備拡張をして沖縄の軍事基地を日本も使うという意向を明らかにして帰ってきた。
 佐藤首相は、沖縄も日本国憲法ではなくて「本土なみ」に日米安全保障条約に従って始めることを宣言して帰ってきた。」(1=285)

◆日米共同声明: アジアへの軍事抑圧、自衛隊/日本軍の進駐。本土並みの日米安保の適用。復帰の内実を問う姿勢が鮮明化していく。


■「太平洋をはさむ二国間人民による反戦共同声明」(196年12月号 第1号)(4=288)
「私たちは日米首脳によってつくられた政府間共同声明、およびそれに含まれたいわゆる「沖縄返還」を告発し、非難します。
 この交渉は沖縄県民、日本国民、そしてアジア諸国人民の利益に反したものです。それはむしろ米軍おアジア駐留を強化し、恒久化するものです。[…]沖縄の行政権を法律的に日本に移管しながら、しかも米軍基地の機能には手をふれないでおくことによって、日本政府は、安保条約によって象徴される全軍事体制に対する批判と攻撃をそらそうとしています。
 また他方、政府間共同声明は、沖縄への核もちこみや、基地使用法に対する事前協議について特別のとりきめの可能性を認めることによって、その同じ条件がのちには日本本土の基地にまで適用されるという可能性を公然と認めたのです。つまり、沖縄の「本土なみ返還」とは事実上、本土の沖縄化への基礎をつくり出すものなのです。
 安保条約は日本人民をアジア諸国人民に対立させ、アジアの安全を傷つけています。さらにこの条約は、アジア諸国に対する日米共同の新植民地主義的搾取の基礎をかたちづくるものなのです。
 […]
 私たちは、日米両国の民衆が、政府間共同声明によるとりひきに強く抗議するよう訴えます。私たちは、沖縄の即時無条件返還をたたかい、安保粉砕のためにたたかっている沖縄と本土の人民に対して、アメリカ国民からの支持をよせるようよびかけます。」(4=288)


■和田あき子「米軍解体を更にすすめ自衛隊の解体をめざそう」(1970年2月号 第58号)(2=302)
「私などはまだまだベトナム反戦ということと自衛隊員への働きかけとの関連をはっきりととらえられずにいたのだった。
 けれども、72年沖縄返還がとりきめられ、沖縄の日米共同管理、自衛隊への沖縄進駐ということが現実的な問題となってきたとき、ベトナム反戦を軸にして米軍を自衛隊の解体の関係がわかってきた。そして、沖縄進駐部隊の主たる機能は、沖縄県民の反基地闘争から基地を守ることにあり、とすれば朝霞など首都圏の精鋭部隊から人員編成がおこなわれるにちがいない。ということもわかってきた。小西三曹の出現は、自衛隊員に対してある親近感をもたせてくれた。
 […]
 72年までに、沖縄進駐命令を拒否する自衛隊を大量にうみ出すために、行動をはじめることが必要である。だが、まだそこまで力が及ばないというのが現状である。」(2=302)


■「アンポふたたび街へ!4・28(火)6P.M.明治公園へ!」(1970年4月号 第55号)(1=317)
「4月28日が近づいたから沖縄デーのデモだ、6月15日が近づいたからデモだ…そんなスケジュール・デモにはしたくありません。[…]沖縄県民の闘いとの連帯を強く行動によって表明する日、具体的な内容で反戦・反安保・沖縄闘争勝利のために行動しているグループ、人びとの総結集の日として、この70年代第一回の沖縄デーを迎えたいと思います。」(1=317)


■太田勇「沖縄人民の怒りにこたえよ!」(1970年5月号 第56号)(2=324)
「“日米共同声明で沖縄返還は決定された。沖縄は日本にもどってくる。”という人々がいる。しかし、米軍の基地が存在するかぎり自分の生活を守ろうとする沖縄の人々の、とりわけ全軍労の労働者の闘いは続くだろう。72年の沖縄返還にともなって沖縄に派遣される自衛隊が何から、何を守るのかは明らかだ。彼らは、ベトナム侵略の前線基地である沖縄米軍基地を沖縄の人々から守るのだ。ベトナム侵略に反対し、安保に反対し、あるいは自らの生活基盤もうばわれようとしている沖縄の人々、全軍労労働者に鉄剣をつきつけようとしているのだ。明治維新政府によって強制的に統治され、搾取をうけ、徹底した“皇民教育”を受け、最後には“本土決戦のため”という美名のもとに集団自決をさせられた、沖縄人民の地の歴史を我々は見のがsことはできない。その血の怒りを断じて忘れることはできない。そうして我々が“琉球処分”とよんだ沖縄への差別統治が新たに開始されようとしている時、沖縄人民の血の怒りに応えることは、本土人民の使命であると思う。[…]沖縄はまたもや日米両軍隊の前線基地として、日米資本の労働収奪の場となろうとしている。[…]沖縄への差別統治を遂行しているわが本土政府を打倒することである。[…]沖縄への自衛隊派兵を阻止し、入管体制を粉砕し、沖縄への差別統治を推進し、アジアへの再侵略をねらう自国帝国主義政府を打倒する闘いこそが、沖縄人民の血の怒りにこたえるものではないか。」(2=324)
◆自衛隊の進駐問題。差別問題。→日本の植民地主義の歴史の再考


■古屋能子「沖縄 白い目で見ます」(1970年9月号  第60号)(8=360)
「ここは、沖縄コザの照屋・黒人街の一角だ。
 多分階上が売春宿になっているらしいレストランから女と腕をからませて出てきた黒人兵、かれにもわたしは小走りに近づく。かの女はわたしにつき刺すような光る眼を向ける。かの女のその射るような眼にたじろぐわたし。卑屈に下を向くかの女。
 太い眉毛、ひときわ彫りのふかい目、たくましく太くて丸い足、ながい圧政と抑圧の歴史を刻んだ沖縄の女性。こんな眼で人をみるものではない。あわててわたしは自分をうちけす。かの女はわたしの白い眼をみただろうか。わたしはかの女を白い眼でみることはできない。だが無関心をよそおうことはもっと悪いことだ、と思う。[…]かの女を白い眼で見ることができないわたしがわたしの中にあるからだ。[…]反基地・反軍・渡航制限撤廃、いっしょうけんめい頑張ります。そしてあなたを白い眼で見ます。傲然とあなたの頬をなぐるわたしになります。だからあなたはわたしの頬を傲然に力いっぱいなぐりかえして下さい。」(8=360)

◆沖縄を批判できない私。でも、相互批判が必要だとの感情。


■「70年――5つの潮流」(1970年12月号 第63号)(1=377)
カンボジア侵攻、6月行動、入管体制、米軍解体、自衛隊工作


■「反戦米兵、デモの先頭に立つ――沖縄・コサ・「暴動」を支持――」(1971年1月号 第64号)(2=386)
「12月24日、街にジングルベルの調べが流れる宵、ベ平連はデモによって沖縄コザの反米軍闘争への連帯を表明し、米海兵隊の位置兵士はそのデモに参加してアメリカのベトナム侵略、沖縄占領への抗議と沖縄人民への謝罪の意を表わし、そして警視庁はその米兵とデモ参加者を暴力的に逮捕して安保体制の忠実な執行者であることをふたたび示したのだった。[…]「沖縄人民の闘争に連帯するぞ」「米軍は撤退せよ」「佐藤自民党政府は責任をとれ!」シュプレヒコールが街に響き、デモは米大使館別館前から首相官邸下を通って解散地日比谷公園に8時過ぎに到着した。」(2=386)
ウェッデル二等兵 沖縄闘争への全面支持表明
「「コザの事件は誤った優越感を教えこまれた心なき米兵の行為に端を発したもので遺憾だった。米軍が沖縄に、アジアにいなかったら、あんな事件も、ベトナム戦争も起こらなかったはずだ。[…]沖縄人民がやった行動はまったく正当である」と語った。」(2=386)


■友寄英「黒人兵と沖縄のぼくら」(1971年2月号 第65号)(2=396)
「差別と抑圧の歴史を背負った彼らと僕らには何か共通したものがあったせいかもしれない。その後何度も何度もミーティングを重ねる中で、ブラザー達は自分達の生いたちを語り、アメリカでの彼らの両親や兄弟達の生活やその他の黒人がどういった状況におかれてきたかとドラマチックに語った。また僕らは米軍による沖縄支配の下で沖縄の人間が何を考え、どう生活しているのかということを彼らに語った。共通の問題として具体的な例をあげるならば軍事裁判の問題があるだろう。[…]沖縄の人がひき殺されても無罪判決が下されるのが沖縄においての軍事裁判の現実なのだ。それと同じく黒人兵たちも裁判においては不当な差別を受けている。[…]そのような話をブラザーと交える中で僕らは激しい怒りの共鳴を持って燃っぽく夜が明けるまで語り合った。[…]沖縄の民衆と黒人達は差別・抑圧の根源である軍事体制に対しての闘いにおいて真の連帯の基盤がはっきりとあるからだ。[…]沖縄人が黒人を差別するなど実に悲しい事だと思う。
 復帰運動にあったヤンキー・ゴーホーム、みたいなものがまだまだ根強く残っているからだ。[…]我々(ブラザーと僕ら)はこれらの問題を一緒に考えて、基地の内外での連帯した闘いを具体的におしすすめてゆくつもりである。」(2=396)
◆反基地闘争のナショナリズム(ヤンキー・ゴーホーム)が、軍事体制による差別と抑圧の問題を問う連帯を拒んでいるとの指摘と実践。
◆バーバラ・ライは沖縄で、ブラックパンサーと交流。


■国府田恭子「アメリカ―とアメリツカの間から」(1971年2月号 第65号)(6=400)
「沖縄の人々の反米闘争の根底の一つは“ヤンキー・ゴー・ホームではないかと思う。今、金網の内外のヤンキーは一触ではなく、ヤンキーの中には沖縄と同じく差別される黒人兵という存在がいる。しかも彼らは自分達に加えられている差別と抑圧に対して立ち上がろうとしており、同じ状況にある沖縄人を金網の内と外からの連帯望んでいるのである。金網の内側のそのような動きを知った沖縄人が連帯の動きを始めたところで、今度の一挙に燃え上がった”ヤンキー・ゴー・ホーム“の叫び声で、わずかな芽がつぶされてしまうこと、そして金網の内でも”沖縄人は米兵を憎んでいる“とデマを流されせっかく出来上ろうとしている連帯にミゾができるのを私たちは恐れていた。
 そんな心配をしているところにカデナ空軍基地の反戦黒人グループから沖縄人へのメッセージが発表された。
 “沖縄人と黒人兵の間にはお互いの理解を妨げている壁がある。けれども私たちは400年以上も差別され抑圧されてきたから、今度の暴動が起るに至った状況を、理解している。あの暴動はまったく正当な暴動であった。我々につきつけられた問題をぶちこわすために連帯しよう”」(6=400)

「12月25日に行なわれた沖縄ベ平連、ヤングベ平連、糸満ベ平連の“反米軍実力行動支援デモ”も実にビューティクル(ママ)なデモであった。15人の参加者が自分の言葉で、今、沖縄に自立した運動が必要だと語った。
 […]72年復帰は、云うまでもなく、米帝国主義から日帝の肩代わりであり、日帝はあちこちに顔を出しはじめている。良い例が、自衛隊の来沖であり、コザ以降の軍民協体制であろう。それに対して既成左翼はそれに対応しきれないどころか、72年のサトウ体制の帝国主義的ブルトーザー的一体化のさきどりをして、本土からの左翼、学生セクトが、党利党略のためにオキナワを本土からの指導という形で一体化しようとしている。」(6=400)
◆復帰=日帝への肩代わり、その象徴としての自衛隊進駐。
◆既成左翼・新左翼の党利党略主義の批判=一体化批判。
◆フェンスを挟んだ黒人―沖縄人の連帯。


■川崎通紀「沖縄は“返って”くるのか」(1971年7月号 第69号)(2=426)
「沖縄が本土に“帰る”ことが決まったのにデモをして抗議の意志を示す僕達はひねくれ者なのだろうか。いや、そうではない。「返還」といっても、「基地の島・沖縄」の実情は全くといって良いほど変わらないし、核兵器まで一緒に「帰って」くるのだ。土地を奪いとられた人々は、その土地を再び自分のものとすることができないばかりか、やむを得ず就職した基地関係の職場からも、ほとんど補償もされないまま放り出されようとしている。[…]戻ってくると思った土地は戻ってこない、戻ってきたと思った土地は自衛隊という軍隊が引き続き使用する。26年間虐げられてきた人人に、真の喜びはいつ訪れるというのか。
 以上のようなまやかしを含んだ沖縄返還協定に抗議するため、僕達は「第三の琉球処分を許すな」の下、6月16・17日の両日、デモをした。」(2=426)
◆まやかしとしての復帰=第三の琉球処分=自衛隊の進駐。かえってこない土地。


■古屋能子「沖縄のこと――わたしには書けません――」(1971年7月号 第69号)(3=427)
1971年6月17日沖縄返還協定調印式への抗議デモ
「売渡される当人である沖縄には、ひと言のことわりもなく、やってのけたことだけはたしかなことだ。[…]史上最悪の“琉球処分”を堂々とやってのけた[…]25年間の沖縄の祖国復帰のたたかいは、沖縄人民の手によってつくられてきた。
異民族支配と、いわれなき日本の犠牲と差別と弾圧にたいする、屈辱と忍従の血のにじむようなたたかいであった。
[…]
東京タワー事件の富村順一さんはいう。
「いま、他人から、いちばんの君の希望は?ときかれたら、わたしは天皇を戦犯として法廷に立てたいといいます。そして人民裁判をひらき、判事にはわたしがなることです。この裁判は日本人民のみでなく、アジア人民の裁判として中国、朝鮮、アジアの国々から検事や証人をよび、歴史的な裁判をすることです。どのような裁判をするのか?中国人民や朝鮮人民の証人からいろいろきき、日本帝国主義者からうけたかずかずの拷問や暴行をそのとおり、天皇や皇族にさせ、その苦しい思いをするところを見てやりたい。またその“しかえし”を、アジアの人民にさせたい」……と。また「人間は他人の苦しい事は、話しただけではわかりません。事実、自分であじわい、その後でなければ、他人の苦しい事は、わかることができません」……と。
まったくそのとおりだと思うのと同時に、わたしは、ちかごろ、たいへん臆病になってしまったと思う。他人のことばを借りてこなければ、沖縄のことが書けないし、話せない。[…]富村さんのいうように、その苦しみがわかることができない本土の日本人なので、沖縄の出身者にいわれるのは、やっぱり、こわい。[…]けれども、やっぱりわたしたは、倦まず、弛ゆまず、沖縄とのかかわりをつづけるだろう。
わたし(本土人民)もあなた(沖縄人民)も、ひとりひとりが、自分自身の解放のためにたたかおうとするとき、ほんとに連帯できるのではないだろうか。」(3=427)
◆富村順一の告発の衝撃。批判に対する、失語症。それでも、かかわろうとする姿勢。お互いの解放を通じた連帯。


■吉川勇一「小説「冷え物」批判を契機とする討論について――運動への清算主義的批判をやめよう――」(1971年9月号 臨時増刊号:特集 ベ平連運動と差別の問題およびベ平連運動のあり方について)(1−2=447−448)
「この小説が筆者の主観的意図とは違って在日朝鮮人と被差別部落出身者を差別した差別小説であること、この小説はわれわれ自身の中にある差別意識を表出させたものであること、したがって今河出書房から刊行中の「小田実全仕事」から削除すべきであること、などを主張し、小田氏と河出書房の見解を求めたものでした。」(1=447)

「私個人がこの小説を読んでどう思おうと、現に差別されている立場にある在日朝鮮人および被差別部落出身者から、それが「差別文書である」として批判されているという事実は、この問題を考えるにあたって重大な意味をもっているということ、第二に、現にそういう批判が、かりに一部からであるにせよ、差別されている側の人びとから出されている以上、この小説を私が「差別小説ではない」と断言することはできないということ、第三に、私がこの小説についての意見をのべる際、私以外の人びと、とくに差別・抑圧されている側にある在日朝鮮人や被差別部落の人びとがこれを読んだ場合、どういう印象や感情をもち、どういう評価をするだろうか、ということまでは考慮していなかったということ」(1=447)

「これ[私たちベ平連運動]はあくまで市民社会における市民的権利を相互に共有しているもの同志においてのみ有効な原理であったことも事実です。市民的諸権利を形骸化し、空洞化させ、あるいは奪いとり、さらにはまた、こうした権利のごく一部を恩恵的に市民に投げ与え、それで市民を体制側にとりこんでゆこうとする権力と闘うとき、それらの原理は市民による反権力の闘いの有効な武器となりえます。
 しかしまた、その際に、日本のこの社会の中に、こうした市民的同権が保証されていない人びと、過去数十年あるいは数百年にわたってこうした権利を奪われてきている人びと――たとえば被差別部落出身の人びとや沖縄人民、あるいは在日朝鮮人――が多数存在していることが捨象されていることも確かだと思います。
 ベトナムに対するアメリカの侵略とこれに対するベトナム人民の抵抗に、私たち日本人が第三者的にかかわる限り、この問題は市民運動の視野には容易に入ってきません。」(2=448)

「インドシナ人民をはじめ、アジアの被侵略人民、被抑圧人民、そしてこれら人民と私たちとの連帯について考えるとき、私たちは、自分がおかれ、組み込まれている社会と、その中における私たちの位置を考えるよういなってきました。」(2=448)

「日本人社会の内部でとくに抑圧・差別され、私たち市民運動がその一応の前提としてきた市民的諸権利をも今もなお奪われつづけている被差別部落の人びとの問題などが、私たちの視野の中に入ってこなければならないはずです。それを認めない市民運動だと、運動がよろどころとしていた市民的権利によって、逆にそれらの人びとへの差別を強める立場に陥込むことおすらありうるのだと思います。」(2=448)

「今、私たちはそうした問題に直面しているのだと思います。そして、ベ平連運動の基盤となっているいくつかの前提的諒解事項に、こうした新しい視覚からの照明があてられ、そして市民運動の位置を再検討する必要があるのだと思います。」(2=448)

「アッサリと清算主義的に自己批判することからは、何も生まれてこないと、私は思うのです。とくに、「自己自身への告発をも含めて、これまでの運動を自己批判的に総括した上で」というようなことを言葉の上でいっただけで、私たちの立場が、差別者の立場から被差別者の立場に簡単に手にするなどできるはずはありません。」(2=448)

「「自分も自己批判した上で」という一言をいっただけで、あたかも自分が在日朝鮮人の立場や被差別部落民の立場に立ちえたかのように、他の人びとへの告発や糾弾を開始する(ように思える)傾向があります。しかし、どう認識を深めてみても、私たちは、差別されている人びとの立場と同一の地位には容易に立ちえないのです。その立場の違いをまず認めて、その上でどれだけ近づくかという努力をする以外にないのだと思うのです。」(2=448)
◆清算主義的自己批判の批判。被差別者(たとえば沖縄)の視点からもう一度運動を再検討する。沖縄にある米軍基地は、日本が押しつけているという視点の獲得?


■庄司洸「ささやかな決意」(1971年9月号 臨時増刊号:特集 ベ平連運動と差別の問題およびベ平連運動のあり方について)(3−4=449−450)
「教会の仲間とのベトナムや朝鮮、沖縄についての討論の中から、特に日本の、キリスト教会の、私の戦争責任の問題が大きな問題となってきました。
 あたりまえのことですが、戦争責任という問題は、旧日本陸軍によっておし進められたことのみをさすのではなくて、戦後から現在まで引き続いている日本人一人ひとりの問題として、屈折しながら連らなっていて、一向に解決されていない問題です。」(3=449)

「沖縄のことを考えるとき、4・28沖縄デーで沖縄闘争という名目のもとに、沖縄の学生を先頭に立たせて、機動隊に突入していった本土のある新左翼のことを、私は忘れることができません。[…]ただ、沖縄と私たちの間にある断絶を、スローガンやアジテーション、政治スケジュールの中でのみ解消しようとしているように受け取られる政治主義と、その発想それ自体に疑問を感じざるを得ないのです。
 その後、4・28の闘いに参加した沖縄の学生の内部で、この闘いを契期に深い亀裂が生じてしまっている現実があります。」(3=449)

「私たちが意図すると否とにかかわりなく、市民社会が成り立つために、忠誠をしいられた無数の人びとの血と汗の犠牲があったことを私は見ないわけにはいきません。
 それは、朝鮮、沖縄、被差別部落の人びとです。」(3=449)

「いくら私が、被差別部落の人びとの痛みや、重さを想像することができあとしても、本当にはその痛みや重さを“わかる”ということはできないと思います。
 いまの私は、“何んにもわかっていないし、知りもしない”ことの痛みと問いを私の中につきつけて、私の中に、運動の中に差別と闘う決意と、火をつけることに努力することが大切なことだと考えています。」(4=450)
◆新左翼セクト内部の沖縄差別の現実

■太田勇「具体的闘いとは何か」(1971年9月号 臨時増刊号:特集 ベ平連運動と差別の問題およびベ平連運動のあり方について)(4−5=450−451)
「この転機は69年秋だったのではないだろうかと思います。
 69年11月の佐藤訪米は、帝国主義者にとっても、私たち運動者の側にとっても大きな転機でした。
 […]沖縄を日米共同の軍事基地にしたて、表向きは「さあ、沖縄は返ってきた。戦後は終ったのだ」と言いふらしています。彼らは、それによって明治以来の一貫した琉球処分と、対外侵略の歴史を抹殺したのです。」(4=450)
◆転機としての1969年11月佐藤訪米。琉球処分としての沖縄返還。


■望月広保「「闘いの位置」と「闘いの意味」の〈かくめい〉と「闘い」の〈かくめい〉」
(1971年9月号 臨時増刊号:特集 ベ平連運動と差別の問題およびベ平連運動のあり方について)(5−6=451−452)

「「冷え物」糾弾は、私に、そして、ベ平連に何を突きつけていたのであろうか。それは、主要に、「連帯の質」だと思う。それは、二つの意味を持つ。
 (A)反権力市民運動(ベ平連)を共に行なっている者たちの関係=連帯の質とは。
 (B)反権力市民運動(ベ平連)を行なっている市民と解放運動や、自己権力闘争を行なっている、被差別部落人民や、在日アジア人民、すなわち、権力の再編過程の中で切りすてられ、その枠外におし出された人民との、関係=連帯の質とは。」(5=451)

「私の親は、祖先は、朝鮮人民を、沖縄人民を、そして、被差別部落の人々を、人間以下に扱って来た故に、その上に立って「人間として生きて」来たが故に、人間以下の存在であったと思う。」(6=452)
◆運動と外部との連帯の質関係が問われている。


■金城朝夫「私たちは日本人でなくてもいい」(1971年10月号 第72号)(4=456)
「沖縄の問題を単に沖縄の問題とだけとらえないで、アジアの問題と、あるいは日本人民の問題として、捉えなければならないと思います。」(4=456)

「私は60年安保を、ちょうどここで学校にいっていまして、いわゆる安保の中で沖縄をうったえてきたのですが、残念ながらその中においては、まだ、いわゆる新左翼といわれた諸君の中には、沖縄なんていうことは、ナンセンスであるし[…]いっしょうけんめい沖縄問題をやらなければいけないという孤立した戦いを続けていたのです。そして68年以降、新左翼の諸君の間に、沖縄問題がすごくふきゅうしてきて、そして69年、その時わたしは、復帰協の代表として来たわけですが、その時沖縄問題というのは、我々の手から別のところに移ってしまって、私たちと関係ないようなところにあるように思ったのです。[…]私たちが、すごく反省しなければならないのは、今までの沖縄のたたかいが、単に日本人になるためのたたかいでしかなかったということです。そして、本土の、日本の人民のみなさんが、沖縄闘争をする時に、いじめられても、いじめられても祖国に帰りたいというような沖縄の心情みたいなものに対して、かわいそうだ、お前たちは日本人だからな、だからお前たちを助けてやろう。そういう空気があるのではないか。左翼の中にもあるのではないか。それを批判して生れたはずの新左翼の諸君の中に一部それがあるのが、私は残念でならないのです。[…]私たちが日本人にならなくてはならないということの理由はひとつもないのです。私たちは、少なくとも日本人になるためのたたかいをやっているわけではなくて、私たちは日本人でなくてもいい。[…]よく琉球処分といいますが、それは単に体制の中だけでなくて、反体制の中にそれがすごくあることが見うけられるのです。[…]単に日本人になることだけのたたかいを続けていくとするのなら、アジアの人民と敵対しなくてはならなくなる。常にアジア侵略と沖縄の問題は並行していた。そういうことを確認しなければならない。
 そういうことを確認するのなら、私たちは安易に日本人になるための闘争、運動というものを、どうしても受け入れられない。そして、今まで復帰運動の中に深くあったそのことと訣別しなければならないと思います。」(4=456)
◆非常に具体的な差別批判であり、差別を内在化した形で展開される復帰運動批判。
◆日本人になる=アジアとの対立を招く。アジア侵略の問題を問うことと沖縄の問題はつながっている。


■「「沖縄返還」の意味するもの――自衛隊を沖縄へやるな!――」(1971年12月号 第74号)(1=467)
1971年10月24日沖縄返還協定衆議院本会議を通過。
「自衛隊は、すでに十分に準備しているのだ。沖縄を足踏みにして、南に向うことを。[…]日本政府は再び南に侵略しはじめている。それはもはや誰の目にもあきらかだ。第二の大東亜共栄圏を作ろうとしている。沖縄は、そのための足場である。政府にとって、実は沖縄人民の考えなどはどうでもいいのだ。沖縄人民を再び足蹴にしようとしているのだ。
 私たちは、この日本政府の野望を打ちくだかなくてはいけない。日本帝国主義の東南アジア進出をとめなければならない。自衛隊の沖縄占領をやめさせなければならない。」(1=467)
◆第二の大東亜共栄圏、南への侵略としての沖縄への自衛隊の進駐。アジア問題としての沖縄問題。


■「返還体制をぶっつぶせ!6億円と10億円のはざまの2万人」(1971年12月号 第74号)(2=468)
「10月市民行動のスローガンは、「沖縄を沖縄の人々の手に」というものであった。[…]沖縄のことは、沖縄の人々が自らの責任において決定するというきわめて当然の事柄を「沖縄をかえせ」というまやかしのスローガンの中にねじ曲げ、結果として佐藤戦争内閣の第3の琉球処分に手を貸す人びとのほうが、なお圧倒的に多い。[…]自衛隊という名の日本軍が沖縄を占領することができなくなるような運動をはじめよう。」
◆「沖縄をかえせ」が政府に利用されてしまい、琉球処分がなされているいま、「沖縄を沖縄の人々の手に」へ。


■「沖縄からの訴え――ワシントン・ポスト紙へ反戦広告――」(1971年12月号 第74号)(2=468)
1971年11月17日ワシントン・ポストに広告掲載。「Appeal from OKINAWA」
「5月16日、沖縄・コザ市で開かれた反戦集会において、そこに参加した人民によって採択され、同時に反戦米兵士および米民間人によって支持された。「沖縄人民の平和要求」の内容は以下の通りである。
「沖縄人民の平和要求」
[…]沖縄は、皇軍の名の下に、アジア人民に向けて戦いを挑んだ日本の軍国主義者たちにとって、要となる軍事進出の跳躍台となった。
 アメリカ軍国主義者たちは、[…]最近では、インドシナ人民を殺りくし、じゅうりんするために、アメリカ軍国主義者は、沖縄を戦争遂行のための要め石として来た。
 日本の支配者達は、第二次大戦後、アジアにおける強力な軍事的勢力の存在を確保し、経済的膨張を追い求め、アジア全土にわたっての新軍事勢力となるべく沖縄をアメリカ軍国主義者に喜々として売り渡した。
 […]日米両国政府は、共謀して、沖縄返還協定をしてアジア人民に対する経済的軍事的共同支配を強化するために利用しようとしている。[…]
 (I)アジアにおけるアメリカの軍事侵略と破壊および将来に起りうべきこれに類するあらゆることを終結させるために、我々は、沖縄におけるすべての米軍事基地、人員、武器の即時全面撤去を要求する。さらに我々は、全ての米兵士およびアメリカ人民に対して、今後他のいかなる国をも抑圧しないように、あなた方の侵略軍を完全に武装解除するように訴える。
 (II)我々は、日本のいわゆる「自衛隊」が沖縄に足を踏み入れることを許さない。我々は、我々およびアジアのわれわれの兄弟たちを抑圧するために、沖縄または日本本土のいかなる土地たろうと、それが、新日本帝国主義の基地、日本再軍備の基地、および、日米両帝国主義者の共同行動の基地として使用させない。
[…]我々ベ平連は、上記の[平和要求]に沿って沖縄解放とアジアにおける平和の再建のために、あなたにできることをはじめていただくようにお願いする。

呉屋良武 沖縄ベ平連代表(ベトナムに平和を!市民連合)[…]
遠藤洋一 古屋能子 小中陽太郎 国府田恭子 室謙二 高橋武智 寺井美耶子 金井佳子 日比谷雅弘 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」(2=468)
◆アジア侵略のためにある沖縄の軍事基地という認識。日米共同使用への批判。


■宮城洋子「私は大和人(ヤマトンチュー)を信じない」(1972年1月号 第75号)(2=478)
「沖縄が日本に帰るのではなく日本が沖縄化してしまうのではないかと危惧するのは私一人なのでしょうか。みんなは一体、どんな気持ちで、今後の協定をみつめているのでしょうか。[…]日本政府を信じたいと祈るような気持で復帰の時を待ち望んでいたのだけれど、その私の期待に答えるには、あまりにもわびしく、あまりにもお粗末な内容だとかなしくなった。[…]何故、同じ日本人でありながら否、同じ人間でありながら、沖縄に生れたという理由だけで、平和を、自由を求める事すら許されないのです。
 この沖縄から、人を殺すための飛行機が飛ばなければ、人を殺すための兵隊が発たなければ、人を殺すための船が出なければ、戦争の役に立つ事が一切なければと望むことがそんなに身の程知らずなのでしょうか。[…]沖縄の人々を今度の戦争で殺したのは米軍ではなく、味方と信じた日本軍だったのだから、私は大和人(ヤマトンチュー)を信じはしない。」(2=478)
◆大和人(ヤマトンチュー)の告発。復帰の批判。


■「アメリカはインドシナから出てゆけ!アメリカは沖縄から出てゆけ!自衛官は沖縄へゆくな!自衛隊を沖縄にやるな!」(1972年2月号 第76号)(1=485)
熊本からのアッピール(熊本ベ平連)
「日本の軍隊が、米軍のあとを受けて、沖縄に行く。沖縄の人々を抑圧するために。アジアの人々を抑圧するために、絶対に許してはならない。その自衛隊が浜松・佐世保・北熊本から出ていく。ここ熊本から陸上軍が出ていくのに、熊本の情況は極めて悪い」(1=485)

「○全九州ベ平連懇談会 1月30日。各地ベ平連報告と派兵阻止へむけての取り組みについて。
○「自衛隊を沖縄へやるな!」熊本市民集会 2月中旬。熊本における派兵阻止のもりあがりを集会を通して作る。」(1=485)
◆沖縄派兵阻止の運動


■沖縄青年同盟 金城朝夫「日本知恵国主義にとっての沖縄とわれわれの沖縄」(1972年2月号 第76号)(5=489)
「沖縄が、日本とは異質の文化を作ってきたのは、事実であって、その中で、物の考え方、とらえ方において日本人とは別のかたちを作っていたというのは、否定できないと思います。[…]ぼくたちはこの間、差別の中で闘っているときに、沖縄人じゃ困るから日本人になろうというのではだめなのだ。[…]黒人が白人になることは絶対にありえない。色を白くすることによって逃れようとするならば、それは欺瞞でしかない。黒ければ黒いなりに正当な権利を取っていくのが正しい。ぼくたちの場合をいえば、沖縄人のままで正当な権利をとっていくのが正しい。日本人に同化することによって、権利をとろうとするならば、それは欺瞞である。[…]米軍がいたから沖縄問題があるのではなく、日本の現在の国家機構がある限り沖縄問題があるのだ。そういった意味で、ぼくたちの闘いは、72年5月以降が本当の闘いになるのだろう。」(5=489)
◆米軍基地問題ではなく、日本の国家機構の問題としての沖縄問題という設定。黒人と沖縄人を重ね合わせる発想。日本人になるのではなく、沖縄人のままで権利をとるということ。
◆未完の沖縄闘争


■「沖縄を食う海洋博 沖縄は沖縄の人々のものなのだ!」(1972年3月号 第77号)(2=494)
「しかし、直接工事、関連公共投資で1600億円を上回ろうというもうけ口を、本土企業が見過ごすわけがない。大手商社を中心とする海洋開発グループは特に熱心で、三井物産、丸紅飯田、伊藤忠商事はすでに独自の開催プランを発表しているほか、日商岩井も現地調査に乗り出している(71年1月22日付「読売新聞」)
 また、観光事業で大もうけしようと、現地の覆面会社を使って、本土企業が沖縄の土地を買いあさり、景勝地はもうみな売約済みだという最近の報道もある。(2月20日付「朝日新聞」)
 こうして、日本政府、経済会一体となった“沖縄侵略作戦”の一環としての海洋博は、着々と計画が進められているのだ。」(2=494)
◆沖縄侵略としての日本政府・経済会の一体化、投資、土地の買いあさり。日本の企業の東南アジア進出の姿と重なっている。


■北沢洋子「沖縄語(ウチナーグチ)を排除する暗黒裁判」(1972年3月号 第77号)(2=494)
「戦前の沖縄併合支配が差別と弾圧によるだけでなく、言語姓名、芸術、祭り、宗教をふくむ沖縄文化の徹底的な剥奪と絶滅政策を通して、沖縄の日本への帰属―日本人への同化思想を強制することによって行なわれてきた過去にたいする大胆な挑戦だったのです。日本によって消された沖縄民族文化を奪いかえすという3人によって開始されたこの試みは、自衛隊の進駐、公害資本の侵略、日本人金持ちのレジャー用土地買占めなどにたいする沖縄人民のすでにくりひろげている政治、経済闘争に活を与え、結びついて、沖縄解放の野火となっていくでしょう。
 ケベック、バスク、北アイルランドのような国内植民地解放闘争においても、またベトナムをはじめとする広大な第三世界人民の解放闘争においても、言語―民族文化の奪還の闘いが、鉄砲による闘いと並んで意味をもっているということが実際に照明されていることは、フランツ・ファノンを引用するまでもなく、明らかなのです。」(2=494)

◆沖縄返還政策が沖縄の文化を脅かし、日本人への同化を強制するものであるとの批判を過去の琉球処分の歴史の中で通時的にとらえ、また、国内植民地解放闘争や第三世界解放闘争との共時性のなかで捉えられている。ウチナーグチ裁判がその象徴的な出来事となった。


■「沖縄は沖縄の人々のものだ!自衛官よ、沖縄に行くな! 沖縄を侵略基地にさせない 5・14、5・15デモに集まれ!」(1972年5月号 第79号)(2=510)
「沖縄で今年の11月におこなわれる予定になっている復帰記念植樹祭に天皇、皇后は出席しないことになった。できなくなったのだ。[…]これは、本土の大新聞のほんの片すみに報道された。この事件は、沖縄の人々が、天皇というものに対して本土の人間とはちがった感じを持っているということを、私達におしえてくれるだろう。そこにはある種の落差がある。[…]沖縄の人々にとって「よろこばしい本土復帰」が近づくにつれ、このような旧日本軍による虐殺事件のいくつかが沖縄の人々の中でくり返し思い起こされているということは、何を意味するのか。[…]旧日本軍、アメリカ軍そしてまた日本軍(自衛隊)というように、沖縄は、その時々の巨大な政府とその軍隊に利用され、侵略基地とされてきた。沖縄の人々の意思は無視されつづけてきた。そしてまた今、日本政府と日本軍(自衛隊)は沖縄に進駐し、沖縄を利用しようとしている。[…]沖縄の人々の自己決定権(私達は『ベトナムをベトナム人の手に!』という私たちのスローガンとまったく同じ意味で『沖縄を沖縄の人々の手に!』というスローガンをかかげて行動を続けてきた)をはっきり認めることであり、アメリカ政府も日本政府も、この権利に一指だに触れてはならないということだ。[…]今私たちに求められているものは、安易に沖縄との連帯を叫ぶことではなく、沖縄にのしかかる米軍と日本軍を解体することに全力を投入することだ。」(2=510)
◆第二次世界大戦の記憶が復帰に重ね合わされている。
◆自己決定権をベトナムと並列で沖縄についても与えよ、という主張。そして、安易な連帯は退けられ、自らの責任により軍隊解体が呼びかけられている。


■「ここから無数の自立した運動を! アメリカの侵略拡大と自衛隊の沖縄占領に抗議する連続行動を!」(1972年6月号 第80号)(1=519)
「沖縄はどうか。沖縄が「日本」となった二日後、ベトナム帰りのB52 が天候のためと称してカデナ基地に着陸した、このことは、沖縄があいかわらずアメリカ軍のベトナム侵略基地であることを証明している。また「復帰」後の異常なほどの物価高などは、本土政府が沖縄の人々の問題を真剣に考えていないということ、単に沖縄を利用しようとしているにすぎない姿勢が呼び起こしたものだ。[…]沖縄、ベトナム、アンポ、様々な問題が続くかぎり、私たちは、しつこく、長く、次から次へと無数の自立した運動を、始め、作りつづけなくてはならない。」(1=519)
◆沖縄、復帰後も変わらない出撃拠点。

◆機関雑誌『人間として』11号 差別問題と文学の特集。「冷え物」をめぐる小田実論文。(1972年)

■「問われる 運動の基軸 特集 京都・全国懇談会」(1973年9月号 第96号)(1=627)
「小田実さんは、「アジアへの経済侵略」を攻撃するには、具体的なことを知らなくてはならないとのべ、「自分たちの近くの工場でなにがおこなわれているか、その工場が海外に進出しているとすれば、どこに進出し、なにをしているか」調べよう、アジア各地にも同じアピールを送ろうと提案した。〈その二〉東京の「三菱反戦株主会」と「ベ平連ニュース編集部」は、小田さんの提案を一歩すすめ、現在タイの河に塩素ガスと水銀をタレ流ししている三菱系の旭硝子の本社(丸の内)にデモをしようと提案[…]〈その三〉京都の中川六平さんは、アジアの人びととのつながりをつくっていくとともに、日本国内のさまざまな運動をつなげていくために、3、4人がそれぞれひとつのチームをつくり、北から南までをまわる「全国キャラバン」運動をやろうと提案し、新しい運動の主体形成のひとつの方法をあきらかにした。」(1=627)
◆アジアへの問題意識

■「チョボチョボ9年間ののち」(1974年3月 第101号)(1=657)
「それは一言でいえば、私達の、つまり日本人をふくめたアジアの人びとの全体のくらしが政府・大企業・大資本によって奪われているという事態だ。」(1=657)


■『イントレピッド四人の会』No.1(1969年3月)
「もともと、私達の「イントレピッド四人の会」は、一昨年の十一月、米空母「イントレピッド号」の四人の反戦脱走兵の行動へ寄せられた国民的共感の渦のなかで、(一)、今後も反戦兵士による同種の行動を支援すること、(二)、日本に政治亡命の権利を確立させることを主たる目標として生まれ、今日までに百五十万円を越える脱走兵援助基金が数千名の市民から寄せられているのですが、現行の法体系では―――皮肉なことに、「日米安保条約」が憲法に優先するとされているために―――市民によるベトナム反戦のためのこの正当な活動を監視したり、取締ったりすることができない」(ベ平連、1969=1993:667)

「いかなる国家権力も個人をして集団殺りく行為に強制する権利がなく、また個人はそれを拒否する権利があるとの、基本的な人間としての立場からひきつづき行っている。」(、1969=1993:668)

・「「出入国管理法案」に反対を」
「法案の主眼点は来日外国人の(1)入国手続の規制の強化、(2)在留活動の管理強化、(3)「好ましくない」外国人の国外追放体制の強化、の三点にしぼられていますが、そのいずれもが、現実には、在日外国人の圧倒的多数をしめる、朝鮮人を対象としているということです。[…]その背景としては、当然、日韓条約以降顕在化してきた、アジア反共体制づくりを考えないわけにはいきません。
 いまこれを、若干、内容にそくしてみるならば、たとえば次の点が注目されます。
 (1)入国、在留にたいして、あらかじめ「守るべき条件を付することができる」。その条件の内容は法務大臣に白紙委任されています。
 (2)地方入国管理署の長に、行政調査権が与えられ、「関係人に対し出頭を求め、質問をし……所属の入国審査官もしくは入国警備官にこれらの権限を行わせることができる」。(第七五条)
 (3)外国人宿泊届制度の新設(三十条)
 (4)法令に違反していると「疑うに足りる相当の理由があるときは、収容令書により、その者を収容することができる」(四八条)」(ベ平連、1969=1993:670)
「政治亡命をできるだけ庇護、救済する方向がうち出されているどころか、逆に、特別在留制度の運用をせばめたり、退去を強制される者の送還先の決定にさいして本人の希望を容れる範囲を縮小したりして、事実上の亡命をも不可能にしていることがあります。[…]この会の一つの大きな目標である、政治的亡命の権利を獲得する運動を推進するためにも、この悪法案に対して断固反対して闘いたいと思います。」(ベ平連、1969=1993:670)


■『イントレピッド四人の会』No.2(1969年6月)
・蜂須賀小六「ポールを救え―――京都からの報告―――」
ポール・E・サイモンが京都で逮捕され、日本のパトカーに先導された、米軍車両で移送され、新明和工業伊丹工場から米軍小型機で飛びたつ。
「とりわけ、もっとも犯罪的なのは、米軍に協力した新明和工業である。この新明和工業伊丹工場は、破損米軍機の修理再生をやっている軍需産業である。ここが関西における反戦現地闘争の焦点の一つとなったのは、昨年六・二六の中核派のデモ以来である。[…]その後、大阪地評、大阪反戦、ベ平連、学生などの手によって、たびたび抗議デモが行われている。[…]まさに国家権力・軍需産業・米国が三者一体となって<人間>を抑圧したことのすべてが凝縮されてこの新明和工業での情景に現れているのだ。」(ベ平連、1969=1993:673)

・「新刊紹介 『脱走兵の思想』―――大平出版」
「脱走兵援助者の手記から見る脱走兵はあまりにも人間的な人間達。あるものは女を求め、ある者は酒を求めて、忠告を聞かずに外をうろつきまわる。えんりょえしゃくなく要求する。性病をもつものがいる。なかには、俺はこれからも反戦運動等とは関係ない」と言い切るあつかましいのもいる。[…]しかし手記はむしろ逆にこうした赤裸々な脱走兵の姿を発見し、その発見を楽しんでいるところがある。それは援助者自身がまず何よりも自分自身を救うために彼らに手をかしているせいであり、そのために彼らの人間性と自分自身を同一平面におくことが出来るのだろうし、だから脱走兵と対等に対立し、けんかし、和解し、そこから救う者と救われる者との関係をこえた個人対個人の結びつきを一瞬かいま見るためであろう。」(ベ平連、1969=1993:675)
◆生身の個人対個人の関係⇒同一平面において自分と兵士とを理解し、自己の解放を志向する。


■『脱走兵通信』第1号、1969年8月2日
「いまストックホルムには、三五〇人の脱走米兵たちが、スエーデン政府から人道的政治亡命を許されて暮している。
 そのうち、ジャテックの手を通じて日本から脱走した者は十六人。毎週八〇〜一〇〇クローネ(一クローネは約七〇円)の社会福祉金をスエーデン政府からもらって、何とか最低生活は保障されており、ほとんどがこれといった定職もなくのんびりした毎日を送っているようだ。」(ベ平連、1969=1993:676)
◆一定の社会保障があるものの、移動の自由は?


■「ジャテックは闘う 発刊の辞」
「「脱走兵通信」は、反戦米兵援助運動を一層拡げることを目標に発刊されたミニコミです。私たちはこの運動を通じて、いま北海道から沖縄まで、燎原の火のように燃え拡がろうとしている反戦反安保の闘いのささやかな一翼を担いたいと願っているものです。[…]ジャテックは特殊な専門家や陰謀家の集団ではありません。貴方と同じく普通の市民が、自発的にお金や労力をさいておこなっている反戦市民運動なのです。ベ平連が“組織”でないのと同様、ジャテックも“地下組織”ではなく、誰でも、(英語などしゃべれなくとも)参加出来るという意味でも、それは、“運動”であり、“行動体”なのです。」
「安全を配慮するあまり、秘密主義に走ることは、運動の先細りを招くことになります。幅の広い一般市民の支持と協力なしには、この運動は一日も続かないからです。
 ジャテックには、(ベ平連同様)本部も支部もありません。いま活動している私たちが、今後ますますふえる脱走兵を一手に引き受けたのでは、直ちに限界にぶつかるでしょう。もっともっと多くの人たちが、自発的にどんどんジャテックを作り、勝手に活動を始めることこそ、私たちの願いなのです。日本全国で一つの町に一つのジャテックが生れ、それぞれ一人の反戦米兵を匿うならば、国家権力もうかつには手を出せなくなる筈です。[…]私たちはさらに、単に脱走して来た米兵を援助するだけでなく、私たちの方から積極的に米兵たちに働きかけていくことを計画しています。
 米兵たちの大部分は中産ないし下層階級の出身であり、ベトナム戦争に関しては加害者であると同時に被害者でもあるのです。私たちは彼らを鬼畜のような存在として敵視するよりも、一人の人間として扱い、私たちの反戦反安保の思想を訴えていくことの方がより有効だと考えます。そうした行動によって、脱走米兵を一層ふやすだけでなく、米軍内にすでに起っている不服従の運動を拡大することが出来るからです。
 私たちは、日米安保体制が、あらゆる意味で人間(アメリカ人であれアジア人であれ)の“人間らしさ”の反抗によってのみ、安保体制を空洞化させることが可能なのだと信じます。」(ベ平連、1969=1993:677)
◆組織でなく運動、本部―支部関係なし、市民としての運動とその支援・協力の必要性。加害者(国際的)・被害者(国内的)の両面としての米兵との連帯による反戦運動、不服従運動の発展の希求。


■「ジャテック無料法律講座@」
「安保条約の第六条にもとづいて、「合衆国軍隊の地位に関する協定」というのがあります。それによるとアメリカの現役の軍人、軍属を始め、軍の関係者は、出入国管理令、外国人登録令の色々な手続きをしなくてもよいことになっています。
 つまり、米国の軍人たちは、旅券(パスポート)、査証(ビザ)なしで日本に入ったり、日本から出ていったりすることも勝手、日本に在留することの登録も不必要。従って彼等にとって密出国も密入国もなく、さらに日本中を大手をふって、まかり通ることができます。[…]アメリカの兵隊が日本に来て脱走する際、パスポートなどは持っていません。が、これをかくまったり援助したりしても、日本人の私達は、皮肉なことに密出国ほう助などという罪をはじめ、なんらの罪に問われません。この<恩恵>をフルに利用することによって、安保条約そのものの奴隷的性格を暴き出していく点に、脱走兵支援行動の法律的意味があるといえるかもしれません。」(ベ平連、1969=1993:678)
*日米地位協定
「第九条(2)合衆国軍隊の構成員は、旅券及び査証に関する日本国の法令から除外される。合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族は、外国人の登録及び管理に関する日本の法令の適用から除外される。」(ベ平連、1969=1993:678)
*刑事特別法
「第十八条(1)検察官又は司法警察員は、合衆国軍隊から、日本国の法令による罪に係る事件以外の刑事事件につき、合衆国軍隊の構成員、軍属又は合衆国の軍法に服する家族の逮捕の要請を受けたときはこれを逮捕し、又は検察事務官若しくは司法警察職員に逮捕させることができる。
 第十九条(1)検察官又は司法警察員は、合衆国軍事裁判所又は合衆国軍隊から、日本の法令による罪に係る事件以外の刑事事件につき、協力の要請を受けたときは、参考人を取り調べ、実況検分をし又は書類その他の物の所有者、若しくは保管者にその物の提出を求めることができる。(4)正当な理由がないのに、第一項又は第二項の規定する検察官、検察事務官、又は司法警察職員の処分を拒み、妨げ、又は忌避した者は、一万円以下の過料に処する。」(ベ平連、1969=1993:678)


■書評・紹介


■言及


*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV: 20180225
社会運動/社会運動史  ◇ベトナム  ◇ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)  ◇BOOK
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