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『反精神医学への道標』

小澤 勲 19740501 めるくまーる社,312p.

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小澤 勲 19740501 『反精神医学への道標』,めるくまーる社,312p. ASIN: B000J9VTS4 1300 ※ [amazon] ※:[広田氏蔵書] m

■目次

目次
T 序章 9
 ある会話 11
  ある看護婦と私との対話 14
U 情況 27
 差別・抑圧構造解体への出発点 29
  一 はじめに 29
  二 世界情勢・日本情勢をいかに認識するのか 30
  三 東大病院北病棟移転にみる七〇年代の質 34
  四 合理化――福祉行政にふれて 38
  五 はりめぐらされる管理の網――センター構想にふれて 50
  六 教育をめぐる諸情況 58
  七 治安対策と青少年 72
  ハ おわリに 76
V 治療論あるいは反治療論 91
 生活療法を越えるもの(一) 93
  討論 109
 生活療法を越えるもの(二) 121
 「障害児」の薬物療法をめぐって 139
  一 若干の論理的前提 139
  二 症例 149
  三 討論 154
W 人体実験批判 165
 台弘氏による人体実験批判 167
  一 はじめに 167
  二 台弘氏の最近の見解 173
  三 台実験批判は個人攻撃――「心情的思考」の典型例について 179
  四 「科学的判断を多数決にゆだねるぺきではない」という意見をめぐって――「歴史的視点」とは何か 182
  五 「相対主義」の陥穽 184
  六 ロボトミーに対する若干の批判並びに台氏の分裂病者観をめぐって 185
  七 ロボトミーと台実験――「廃物利用の精神」はナチスの思想に通じる 199
  八 「台実験の意義」について 205
  九 台実験の「無害性」に関する討論をめぐって――"negligible small"という考え方の誤謬 212
  一〇 「人体実験の原則」をめぐって 223
  一一 おわりに 225
X 発言と資斗 231
 小澤論文−「幼児自閉症論の再検討」の自己批判的再検討 233
  一 私の論文の背景 234
  二 自閉症児は存在するか 236
  三 平井氏の自閉症論批判 240
  四 「わからない」ということ 243
  五 患者を引き裂くもの? 246
  六 何をすべきか 248
  七 自閉症児と教育 250
  八 結語 253
 ある精薄施設の歴史――福祉の原像 255
  一 はじめに 255
  二 京都市立醍醐和光寮の歴史 255
   (一)創設のころ 255
   (二)「和光寮運営要綱」にみる当時の施設のあリさま 256
   (三)当時の収容者の生括 264
   (四)敗戦前後の施設 266
   (五)分類収容への道 270
  三 おわりに 272
 優生保護法改正問題をめぐって 275
  一 改正案提出までの経過と反対運動動 275
  二 改正案の内容 277
  三 改正案反対の論理 281
  四 改正反対運動から優生保護法解体・陣胎罪撤廃運動へ 290
  五 ナチスの優生政策 295
Y 終章 299
 あとがき 307

 装幀 中井繁

■引用

 「入院期間が5年、10年、あるいはそれ以上になった患者は、社会復帰がきわめて困難であるという意味から、従来、精神病院の医者は彼らを「沈殿」患者とよんできた。そして、病院内では症状が認めがたく、開放病棟で生活し、あるいは外勤療法という名のもとに病院から病院外の企業体に勤務を続けながら、なお、退院するに当たっては種々の困難な壁があるために入院生活を続けている患者の存在が指摘されだしたのは最近のことである。」(小澤[1974:25])

V 治療論あるいは反治療論 91-

◆生活療法を越えるもの(一) 93-119

●小澤 勲 197206 「生活療法を越えるもの」,第69回日本精神神経学会・シンポジウム「生活療法とは何か」→19731225 『精神神経学雑誌』75-12:1013-1018→1974 「生活療法を越えるもの(一)」,小澤[1974b:93-119] *以下全文

 「本稿は、昭和四七年六月、「戦後日本の精神医療・医学の反省と再検討」をメイン・テーマに開催された第六九回日本精神神経学会のシンポジウム「生活療法とは何か」において発表されたもの全文と、それに続いて行われた討論のうち、私の発言を抜き書きしたものである。

 京都・関西を中心として十全会系病院解体闘争が闘われています。その一つの端緒となったのは、われわれのピネル病院告発闘争でありました。この闘争は後で述べるように単なる告発闘争としては集約できないさまざまな萠芽を出発点においては内包していながら、結果的には告発闘争に終わらせてしまったところに決定的な限界があり、それをのり越えるものとして、現在の闘争は位置づけられているといえます。
 ところで、一九六九年に「ピネル病院(というのは十全会系の一精神病院ですが)退職者会」の名でパンフレットにまとめられたピネル病院の実態の一部は以下のようなものでありました。「ピネル病院で行なわれている「作業療法」は決して「療法」などの名に価するものではなく、「無給労働」でしかない。……『看護学級』なる名のもとにオムツ交換、洗濯洗面介助、与薬介助、食事<0093<介助、病室清掃、ベッド清掃、患者の身のまわりの整理等、朝九時−タ五時まで追いまくられる。洗濯場には担当の職員もおらず、起床時問より一時間も前に洗濯係の患者は起こされて洗濯をさせられ、厨房も栄養士以外は患者がこれに当たる。……このような『療法』のなかでなおっていく人もいるだろう。だが、だからといって一種の強制労働、しかも無給の強制労働を認めていいものだろうか。強制労働に耐える人間をつくりだすこと、これがはたして治療といえるだろうか。……患者の『作業療法』が一週間、いや三日でも完全にストップしたら機能麻痺に陥るような病院。これがはたして病院といえるだろうか。……看護助手の大部分(八三%)は社会復帰(?)した前患者である。彼らは手取リ一万円程度の給料で時には看護婦以上の準深夜勤を割り当てられ疲労労困憊する。なかには宿舎が完備できないまま病室に収容されているものまでいる。……」
 われわれの告発に前後して各地で精神病院の実態がさまざまに報告され、闘争がまきおこっています。これらの事態に対する精神科医の反応は大別してニつに分けることができます。一は、かかる実態が一部悪徳病院のそれにすぎず、良心的にやっている者は迷感すると考えるものであって、日本精神病院協会の声明(註1)はその代表的なものです。他は、問題が本質的にはすべての精神病院に共通するものを内包しているだけに、ことは深刻であると認識するものであります。私は後者の立場に立ちます。といっても精神神経学会声明(註2)のように事態を一般的情勢と医師の倫揮観の欠如に分析、還元してみせたり、評議員会での平田氏の発言のように、自らが経営者であるという立場を棚上げして「敵を明確にせよ」といい、政府への陳情に問題をすりかえたりすることではな<0094<く、個別闘争を徹底して闘い抜くなかで全国の情勢を切り拓くことが要請されていることはいうまでもありません。この意味においても、十全会闘争を内部的に闘いきらなかった自己の責任は自己批判的に総括されねばならないものです。
 さて、このような具体的問題から生活療法について論じ始めたのは、いわゆる生活療法学派の人人は、先に二大別した立場のうち前者の立場に立つことで自らの学説を防衛しているように思われる節があるからです。たとえば、生活療法学派の代表のひとり、江熊氏は、生活療法や作業療法には「いい面」と「悪い面」とがあり、後者の側面として「低医療費政策を裏付けてきた」ところがあると述べています。要するに、彼は生活療法そのものに問題があるのではなく生活療法が「悪用」されてきたところに問題が発生したと考えているように思われます。
 私は今まで述べてきたような現実を生活療法に内在する思想性の必然的帰結と考えております。より正確に述ぺるなら、前述のような事態をひきおこした現実構造が、そのイデオロギー形態として生活療法という思想性を獲得してきたというべきでしょう。ですから、現実の精神科医療の構造、さらには精神科医療の構造を生みだした社会構造、生活構造が根底的に変革されない限り、生活療法の普遍的のり越えは不可能であると考えています。くわしくは後述することにして本論に入ります。
 この世の中には「キチガイ」となじられ、「精神障害者」と名づけられる一群の人々と「正常者」すなわち、目分は精神に重大な障害はないと信じることを生きる基盤としている人々とがいます(正確には権力者による分断攴紀の具として「正常者」と「障害者」というニつの様態が強制されて<0095<いるというぺきですが、その点については後でふれます)。「障害者」は「正常者」に比し、圧倒的に少数であり、少数者の「生活」は差別と抑圧の谷間で単なる経済的意昧あいにおいてだけではなく、貧困への傾斜を強いられています。このような情況は「せめて正常者なみの……」というかけ声のもとに、多数者が自らの「生活」のおこぼれを少数者にわずかばかり分かち与え、それとひきかえに「障害者」の牙を抜き、自らの「生活」の根底的崩壊を防衛する行為にすぎぬものを「療法」と名づける虚偽にある種の現実性を与えるほどのものであります。このように私がいったからといって、「障害者」が日常的な諸要求をすること、あるいは当然の人権を求める闘いがブルジョア民主主義の枠内から出発したとしても、それを軽視するものではありません。それらは徹底的に闘われ、われわれは断固として連帯をかちとっていかねばなりません。何故なら、「障害者」にとってはブルジョア民主主義の枠を超え出るものとして存在するし、また、そのように組織されねばならないからです。「ブルジョア民主主義」というコトバが耳ざわりだという人がいたら「正常者なみの権利」というコトバで置きかえてもらってもこの段階では結構です。要するに、「療法」として生活を与えるのではなく、病者が「生活」と「労働」を奪還する闘いにいかに連帯してのかがわれわれに問われているのだということなのです。
 ところで、ここで一つお断わりしておかねばならないことがあります。それは「障害者」とか「正常者」とかいうコトバを私はやや不用意に使ってきましたが、私はそれを常にカツコっきで使<0096<用しているのだということです。それは、私がこれらのコトバを権力者がわれわれを分断支配するための具としてつくりだしたレッテルであると考えているからであります。「キチガイ」というコトバが差別用語なら、「障害者」という言い方も、「精神病者」という「科学的」言語もまた差別用語であります。しかし、「われらが狂気」と真によべるものを私たちが創り出せぬうちは、残念ながら権力者のコトバを使用せざるを得ません。
 さて、台弘氏は最近の著書のなかで、「社会復帰を社会に受動的に順応することだけだと考えると、生活療法は保守的で体制に奉仕する活動だなどといわれてしまう。生活療法の目的がロボットのように唯々諾々と働く人問をっくリだすものだと誣いるのは下司のかんぐりというものである」と述べていますが、私はきわめて下司な人問なので、「生活療法」が「保守的で体制に奉仕する活動」であリ、典型的な「適応論」であると考えているわけです。「適応論」というのは要するに小さすぎるベッドにあわせて寝る人の脚をちょん切る思想であり、発生した問題を個と情況との弁証法的把握のなかで認識するのではなく、非の一切を個に還元する思想のことであります。たとえば、かつて精神神経学会賞を得た江熊氏らの生活臨宋の論文を最近読みかえしてみて、その割り切り方のあまりの見事さに唖然としたのでした。というわけで、以下、彼の論文を生活療法学派の代表的論文としてやや詳細に検討してみることにしました。彼らは「自ら変化と拡大をつくりだしては生活の破綻をくりかえす能動型の人達に対しては、充分な期間その生活を可能なあらゆる手段で規制する以外に社会生活を順調におくらせる方法はない」と述べ、たしかにおどしたり、ひやかし<0097<たり、自信喪失を画策したり、ありとあらゆる弾圧手段をもって日的を実行している様が書かれて「受動型の人達の生活が破綻するのは、外部からの場の変化や生活圏の拡大を強制された場合に限られている。従って働きかけの主眼は外部つまり職場や家族からの時期尚早な生活圏の拡大と変化を排除することにある」と述べています。
 要するに「能動型」であれ「受動型」であれ、分裂病者の治療とは、「適応」に至る過程を患者の生活を規制することによりいかに破綻なく経過させるかという点にあるようです。しかも、「病気や病気の結果を最もよく知っているのは治療医である」といい、「家族に分裂病のことはわからない」と言い切るだけあって、彼らは患者の生活を規制すること(彼らの好む表現を使えば「治療医の手のうちに入れる」こと)に絶対的な自信をもっており、彼らの論文の症例を読むと、結婚を時期尚早と考えると「大学中退だという本人の誇りを利用して「大学中退のあなたとは釣り合いがとれない」と(洋裁学校出身の女性との結婚を)やめさせ」た、とか、「離婚と同時に病院(看護婦である患者の職場)も正式に辞めさせ」た、とか、「資格にこだわっている患者に対して、おだてたり、臆面もなく誉めることにより……」というような表現に何度となくぶつかり、それだけで気の弱い私などは、もし、私にこんなことを次々に命ずる人があらわれたらどうしよう、命令にしたがってなおることに耐え切れなくなって、むしろ破綻する人問くささを選ぶかな、とオロオロし心がら考えてしまうのです。
 さらに、江熊氏らは適応というコトバのかわりに「安住」という彼らの思想性を表現するにきわ<0098<めて適切なコトバを何度も使用しています。たとえば、「生活特徴は簡単に変わるものではないから、安住にいたるまで長期問持続的な関与が必要である。現状に安住するようになってから徐々に規制をゆるめ、生活範囲をひろげ、レベル・アップを行なっていく」というふうですが、私などのように今の世の中に安住の地などみつけようにもあるわけがないと思い定め、適応しきってはもうおしまいだと思いつつ日々を送っている人間にとっては、彼らのコトバは一つ一つおそろしい限りです。しかも、彼らは「具体的、断定的に、くりかえし、タイムリーに」「病識のない」(と彼らがいう)患者に指示を与えることをモットーとしておられるようなので、これは大変なことだと思い、もし、今後、私が発病してもなんとか彼らの魔手から逃れたいと本気で思ったりしているわけです。患者になった私に彼らは優しく、権威に満ちた声で呼びかけ、命令し、私を治療医の「手のうち」に入れようとするでしょう。あまりの執拗さにふっと心がゆるんで、「安住」の地を発見したかの如き幻想にとりつかれたら、かりに「病」は癒ったとしても、後は余生を過ごすばかり、どうも私には耐えられそうにありません。
 彼らの呼びかけは「貧しく、いたいけなキチガイびとよ、われにつき従え。しからば汝が神なる正常びとに近づかん」というヒューマニスティックな御託宜であり、彼らにとっての「期待される障害者像」とは「正常者に従順な、せめて正常者なみになった障害者」というところに帰着するようです。
 要するに、生活療法の基本は破綻と失敗、混乱とカオスは悪であり、安定と秩序は善であるとす<0099<るところにあり、「破綻」あるいは「病」のなかに示された、かつてなかったような自己表出(それがたとえ現象的には組織されない、方向性を見誤った暴力というかたちをとったにせよ)の意味とカオスのなかの可能性は全く切り捨てられてしまうわけです。どこまでいっても「障害者」は「正常者」の欠除態であり、価値の低いものでしかないとする考え方があり、だから、「障害者」は「正常者」に近づけられねばならないとされるわけです。このどうしようもない思いあがりと誤謬の根源は、彼らが「正常者」の現実的生きざま、つまり「正常者」の労働と生活の疎外構造に対して全く無自覚、無感覚である点に求められねばなりません。彼らにとって「障害者」と向かいあう「正常者」のありようこそが問われているのだなどという実感は無縁のものなのでしょう。彼らには「正常者」が「障害者」によって逆に治療され、教育され、点検され、開示される可能性など初めから考慮の外なのです。
 そうでなければ、分裂病者は「いろ」と「かね」と「めいよ」に弱いなどとぬけぬけと言い切れないはすです。彼らは分裂病者の「弱さ」は「正常者」の「弱さ」とは決定的に違っている、何故なら「正常者」はそのような「些細なこと」で発病しないからといいます。これこそ証明すぺきもので説明してしまう悪しき循環論法の見本です。「いろ」と「かね」と「めいよ」に対して病者が「精神病的症状」でもって応えているということを仮に認めたとしても、生活療法家の諸君は「生活療法」という悪疫をふりまつきつつ、「いろ」も「かね」も「めいよ」も手に入れてしまって、今や何も応えずにすんでいるだけではないのかといいたいのです。彼らには、ある患者が語った「キチガ<019<イ稼業をしているオレタチは正常人ほど狂ってもいないし、非人間的でもないですよ」というコトバを進呈したいと思います。また、「あんたもキチガイじみてるなあ」としみじみ患者にいわれ、半ばいい気になって喜んでいる男の気持などわかってたまるものか、ザマアミロと思うのです。
 ところで、私は今の世の中における労働はすべて疎外労働であり、本質的には強制労働であると考えており、その問題を抜きに「作業療法」を人間解放の過程とすることはできない。また、今の世の中における生活はすべて管理され、隔離分断された収容生活であって、その問題を抜きに「生活療法」を患者生活奪還の方法論とすることはできないと考えているものです。十全会系病院の実態は実は「正常者」の悲惨さのきわめて拡大された姿であり、スケイプ・ゴートであり、最も抑圧された労働者の姿そのものなのであります。ですから、「正常者」の生活と労働の本質を問わぬことを大前提として成立し、典型的な適応論の系譜に入る「生活療法」の理念は、たとえば十全会系病院の実態をイデオロギー的に支えてしまっているというのです。
 しかし、私がこのように批判する生活療法的接近の「成功例」は残念ながら私にも数多くあります。症例を呈示すればおそらく江熊氏らの論文のそれと大同小異のものとなるでしょうからやめますが、今の病院に勤務しだしてから約二年問、私が受け持っていた数十名の患者が退院し、今のところ再入院はわずかに一名のみというかなり優秀な治療成績は、裏返せば私が「生活療法」的規制を何らかの形で息者に加えた結果ともいえるでしょう。この点に関しては、弁解の余地がありませ似ん。今は、今後の実践のなかでのり域えていくとしかいえません。
 次に、適応論者の裏返しである「狂気の物神化論者」について批判しておく必要があります。「狂気の復権」などという評論家的言辞で自ら狂気の守護神をもって任じている連中の存在はにがにがしき限りです。といっても、それは「キチガイで何がわるい」と開きなおり、自ら「障害者」解放の先頭に立とうとする人たちと連帯していくこととは決して矛盾しません。私のいう「狂気の守謹神」づらをした「狂気の物神化論者」とは、現実と真にきり結ぶ闘いのなかでのみ、病者とよばれる人々も、彼らにかかわるものもきたえられ、自己と世界とを発見し、創造していけるのだという原則を忘れ、「精神障害者」に対する現実情況の厳しさに対する認識を欠き、結果的には、現実・自然から切り離された場における「狂気」の純粋化をめざして、とめどなく「狂気」を貧困化せしめ、頽廃せしめる密室の住人たちのことであります。
 閉鎖病棟の片隅で、二〇年以上も前の初恋の思い出を延々と語りつづける患者がいます。彼女が一〇年以上も入院生活をつづけていることを思えば、ただ一点、その思い出にしがみつくことで理不尽にも彼女に押しつけられつづけてきた情況への反撃を示しているとみることはできます。彼女をそこへ追いやった「私たち」を厳しく見すえながらも、私は彼女の姿を美しいとは思わないし、また今の彼女を評価もしません。それは、彼女の初恋が妄想によるものだからではなく、今の彼女に「社会的有用性」がないからでもありません。純粋化された彼女の狂気は今やきわめて貧困であるとみえるからです。彼女の初めての破綻におそらくは示されたであろう、生まれてからこの方のうらみ、つらみ、妄想の恋へとのめりこんでいく時のどろどろとした情念は、今やきれいさっぱりふ<0102<っとんでしまって、きわめて美しい恋物語になってしまっているからです。これを「分裂病」という「病」の慢性化現象と説明するのは全く自分の責任を放棄する考え方です。従来いわれてきた慢性化現象とは、その人間にとって内的必然性のない不連続な体験(たとえば「入院」ということに代表される体験)を強いられ、長期間にわたって自己の世界と「現実・自然」との接触を遮断されつづけた病者が、分極化された二つの世界にやむを得ず引き裂かれたまま適応していった結果にすぎないと私は考えています。つまり、「正常者」と「障害者」とに分断支配されている現情況の矛盾が一人の人間に現象した結果がそれなのです。
 このようにみてくると、「生活療法」に代表される「適応論者」と「狂気の物神化論者」とは全く正反対の位置にあるようにみえて、実は互いに相手の鏡像にすぎないことがわかります。彼らはともに「正常者」と「障害者」との分断された二極分解を過渡的歴史性のもとに把握するのではなく、公理の如き前提としてしまっています。その上、「障害者」より一段高い場に自己を据えた上で、存在し得ない自己の中立性を確信してしまうという二重の誤ちをおかしてしまっています。 だいたい、「正常者」は「障害者」の存在を自らの内在的構造性から生みだしたものと把えることはできないものです。何故ならそのように認めた瞬間に「正常者」は自らが生きる基盤としている「正常」という規定性を喪失するからであります。
 以上の叙述は疾病論的あるいは病因論的思考法を拒否してなされたものであることはつけ加えるまでもありません。<0103<
 さて、私の思想と実践の基礎は以上述べてきた「適応論者」と「狂気の物神化論音」の論哩を逆倒させたところに求められねばなりません。そして、そののリ越えはすでに論理より先行した現実が指し示しています。たとえば泉ケ丘病院、富士山麓病院における患音叛乱と、それにかかわろうとしている人々との間に生まれてきています。生活療法家はかかる事態を能動型患者に対する生活療法の失敗例と論断されるのでしょうか。それとも一部悪徳病院における特殊な、「不祥事件」と片づけておしまいになるのでしょうか。とすれば、それは明らかに誤りです。われわれは精神科医として、組織化はされていないにしても、泉ケ丘や富士山麓でおこった事態の原型に日々出くわしているはずであり、それとどう攻り組んでいくのかが問われていると考えらhるからです。
 さらに、これらの闘いがのぼりつめた一形態として東大赤レンガ(註3)が存在します。それは単に医局講座制解体闘争の成果にとどまらず、精神科医療の基本理念を問う闘いとしてみられねばなりません。患者が、今までのあり方とは逆に医師、看護者を点検し、ともに闘える相手を互いに選びとっていった過程は、「荒廃せる病棟」という誹誇中傷をみごとに叩きのめしています。患者であるA君が自らのロで語ってくれましたが、たとえば闘いのなかで過去における自己の権威主義的傾向を対象化していくというように、常に自己をのり越えつつ闘争主体を担ってきた患者と、彼らに連帯して闘い抜いている人々との間に生まれてきているものは、「あなたは患者でしょう」と頭からきめつけ、闘争から、病棟から、そして何よりも患者の追求から逃げだした人たちにとって理解を絶したものであるに違いありません。そして、それはまた、「生活療法家」の「手のうちに入る」<0104<ものでも決してありません。
 この辺で、私自身の体験を乏しいなかからであっても、話しておく必要があるかもしれません。それは、少なくとも私にとっては従来の考え方から抜け出して模索の渦程に踏みこむきっかけになりたものであり、ピネル病院闘争の一契機ともなった昭和四四年春のある出来事であります。
 当時、私は大学闘争に関わりながら、一方精神科医療の現場では、従来のあり方に対する違和感から「何か違う」とつぶやきつつ、新しい道を模索していました。その頃、思春期病棟にいましたので、たとえば学校恐怖症とよばれる子どもたちとのつきあいが多く、当時、私は子どもたちを強引に、時には暴力的に学校へ連れて行ったりしたのですが、子どもたちは次々に学校へ行きだすようになり、私は学校恐怖症をなおす教祖的存在でさえありました。ところが、なおって学校に行きにした子どもたちはほとんど例外なく、きわめて「いい子」になってしまって、少なくとも表面的には学校に「安住」し、「学佼に行きずぎる子ども」とでもいいたいようななおり方をするわけです。そのような子どもにたまたま路上で出会い、親子ともども礼儀正しく感謝されると、何ともいぬ違和感がこみあげてきて、逃げだすように別れたものです。その頃から、私は学校恐怖症の子どもには、「何故学校に行けぬのか」を問題にすることをやめ、「学校に行くことをいやがりながら、何故、それほどまでに学校に軌着するのか」を話し始めていました。学佼恐怖症の子どもは、現象的には登校拒否を示しながら、学佼に行けない自分にいらだち、登校への強い執着を示すのが、通例だからです。こうして見事に患者はなおらなくなりました。長期戦と腰をすえ、徹夜で話し込み、<0105<次の日にはみんながぶったおれたり、安保闘争のデモに出るかどうかで連続討論会をやったり、そのうちに、それまであまり問題のおこらなかった病棟に男女問題はおこる、ケンカや自殺未遂は続出する、酒、煙草は氾濫するという騒ぎに私自身は一時、困惑状態に陥りました。家族と私や患昔との意見の衝突も日増しに大きくなって、家へ連れて帰ろうとする親に子どもが抵抗して病棟に居すわるというようなことまでおこってきました。
 このような背景があったところへ、ある日、総婦長が差別的なものの言い方をしたということがきっかけになって、従来から積もり積もっていた病院側への不満が爆発し、かなり多くの患者がバリケードを築いて病室に閉じこもるという事態がもちあがりました。そのときのスローガンは具体的諸要求、総婦長の陳謝要求と「ピネル病院解体」でありました。現在では全国精神科医共闘会議などがかかげている「精神病院解体」なるスローガンを使用したのは彼らが初めてではなかったかと思うのですが、きわめて自然な発想から全員一致で決まったものらしく、壁に赤い絵具でその文宇が大書してありました。このバリケード闘争はいくつかの諸要求が通り、総婦長が陳謝したためにひとまず終結しましたが、後にいくつかの問題を残しました。パリケードのなかへ小澤を入れるかどうかで半日余り討論した彼らは、「小澤は敵ではないが、医者である以上、味方と決めるわけにもいかない。バリケードには入れないが、今のところ彼もよう闘っとるから、自分たちの顧問としうことにする。ただし、自分たちが選任した顧問なのたから、小澤の姿勢がおかしくなったらいつでも首を切る」という結論を出し、そのような関係として闘争方針をはじめ、すべてのものごと<0106<が、対等な立場から徹底的に討論されました。
 バリケード以後、「ピネル病院解体」というスローガンは、一方では他病棟の患者に「言いたいことは言おう」という働きかけとして、他方では「自分たちの内にひそむ精神病院』を叩き出せ」という合いことばで患者同志が相互点検を始めるというかたちで結実していきました。また、家族との関係では、「家族ファシズム解体」というきわめて明解なスローガンをうちだし、患者が相互の家族をオルグするということをやり始めます。私との関係では「小澤をのり越えて進め」を合いことばにお互いにせまリ合いながらの生活が始まっていました。こういった関係は従来の「治療関係」とよばれるものを越える、少なくとも、萌芽があったと思います。
 このようなことがあって以後、彼らにつき動かされるように始まったわれわれの人員要求、賃闘を中心とする病院闘争が病院側の巧妙な切りくずしと、権力関係を明確にしきれなかったわれわれの組織的弱体から敗北していくと同時に、われわれとともにビラマキや集会までやった患者たちも病院側の弾圧によって離散し、われわれも退職に追いこまれていく過程があるのですが、ここでははふれる余俗がありません。ただ、思春期病棟が解散ときまった日に自然発生的に寄り集まって院長と抗議の団交を持った親たちは、かつて私に礼儀正しく感謝して去った親たちではなく、患者や私たちと何度となく半ばケンカ腰で議論しつづけた家族の何人かであったことにはふれておく必要があるかと思います。
 その後の患者たちは、病院を変わった私のところに今なお通院して来ている人々も少なからずあ<0107<りますが、学校に帰って学園闘争にとびこんでいったものもあり、ハワイへ渡って皿洗いをしながら考えるのだと日本を脱出したものもあり、「この世の中に精神病院と学校と案族とはないにこしたことはない」といささかすっきりしすぎる総括から、家をとび出したかつての東大志望の高校生は、今は中華の屋台を引っぱって次なる飛躍を模索しているといったふうに、きわめて多様な「なおり方」をするようになって、「人間いろいろあるんだなあ」としみじみ思うのです。家族の変化も顕著なものがありました。たとえばヒッピーの群に入り、毎日その何人かを連れて来て、家で寝泊りさせるようになった子どもがおり、その母親は生長の家の信者で、評判の硬物で通っている停年を直前にした高校の教師でした。最初は子どもがヒッピーを連れて来ると嫌悪感をむき出しにして、拒否しつづけていましたが、患者や私たちとの討論の末に「とにかく一度ゆっくリ話し合ってみる」とヒッピーの人たちと話し込み、ついにその母親は彼らの無二の親友オバサンに変貌するというふうでした。
 最近になっても、かつての患者や何人かの親たちは思い出したように肪ねて来てくれますが、彼らは相かわらず、悩みに満ちていて、時折はダウンもしながら「安住」しようとする自己を拒否しつづけているように思えます。
 さて、いずれにせよ、ここであげたニ、三の事態は、従来の精神科医療に「安住」している人たちの論理の破綻を示してあまりあります。破綻した彼らに対する「治療」が特に患者の名において要謂されているといえましょう。<0108<
 以上述べてきたことをきわめて簡単にまとめ、加えて問題提起をして、私の話をしめくくりたいと思、ます。
 生活療法を越えるものとは、患者が療法として与えられる生活と労働とを拒否し、自ら生活と労働とを奪還していく闘いと、彼らにかかわるものが、自らの生活と労働とを真に回復していく闘いとが相互に点検され、止揚されながら共通の敵を撃つにいたる過程によってなしとげられる。それらは、単に病院のなかだけにおいてなされるものではなく、また精神科医療の枠組のなかで自己完結的になしとげられるものでもない。家族へ、地域へ、職場へとひろがる共闘態勢がいかに形成されるかが問われねばならない。その共闘はすべての「障害者」の、そして、すべての人間の解放を賭けた闘いへと止揚されねばならない。以上であります。

討論

 本シンポジアムにおけるシンポジストは、私の他に三重県立高茶屋病院院長井上正吾氏と国立武蔵療奉所の藤沢敏雄氏であった。
 井上氏は作業療法について歴史的反省と展望を行ない、大略次のように述べた。精神科における作業への期待として、@作業を通じて症状や発病の原因にせまる、A社会復帰のための訓練、G当然の権利として保証されるべき労働、という3点をあげ、@Aを考える際にもBの側面は考慮されねばならず、当然のこととして見合う報酬が支払われねばならない。歴史的にみれば、ごく一部で提唱されていた戦前の作業療法が、戦後、一<0109<定の民主主義的雰囲気のなかで向精神薬の開発、病棟の開放化とともに全国に広がり、一定の意味をもった。しかし、社会的反動化のなかで措置入院の急増、病院内外における管理の強化が進めhれ、作業と遊びと生活指導とがひっくくられて生活療法とよばれるにいたって、かえって社会的視点を失い、患者管理の道具となるという側面が目立ちだし、壁にぶつかった。この時点でもう一度、患者の自己決定という問題を問いなおす必要があるだろう……と述べた。
 次いで藤沢氏は「生活療法を生みだしたもの」というテーマで、生活療法は生活指導を中心概念として発展してきたものであり、生活指導とはロボトミーを受けた患者の術後再教育として看護者の手によって始められ、「多人数の大部屋にて不潔生活に慣れ、寝る、食うのみの感情の鈍麻した患昔を計画的な指導によって幾分でも日常生活を矯正し、習慣っけようとこころみた」ものである。それがむきだしの抑圧、拘禁、放置に替わるという意味では一定の変革をもたらしはしたものの、生活指導が医療の権威構造のなかで医師の手によって纂奪され、生活療法の名でよばれだすにおよんで、抑圧、拘禁、放置のかわりに飼いならし、型はめという事態が進行していったのである。そして、日課表によって患者の生活を外面的にチェックし、管理していくことだけが残り、当初の情熱はそのような管理的的作業のなかで消滅し、機能別病棟という分類収容策が進展していったのである。これらの過程の裏には分裂病をプロツュスであるとみる伝航的精神医学の思想があった……と述べた。
 そして,最後に私が本稿(九三〜一〇九べーグ)の趣旨を発表し、指定討論を受けた。山梨県立北病院の功刀弘氏は生活療法を肯定する立場から、@労働する権利を能力に応じ、段階的に回復することにより、より大きな自由と生活圏の拡大を獲得できるようにする、A最終段階には院外作業と、必要によっては精神病院にいることを社会に隠して就職、通勤できろような処遇をする、B各段階に隔壁をつくらず、患行自身の要求によって移行することが可能となるようにすること、このため病棟内には段階と処遇の異なる患者が同居して思者ど<0110<うしにも処遇をオープンにすること、Cこのようにすれば患者はより開放的にと要求するだろう。職員の権力構造は下からのつき上げで危機的となるが、患者の立場に立とうとする努力のなかで、精神療法的作用も現実化される。このような真の生活療法によって患者はよくなる。生活療法が悪いというなら、生活療法によって悪くなった例とか、データを示されたい……と述べた。
 次いで、群馬県佐波郡東村役場保健婦の西本多美江氏が、治すことをあきらめて人権とか差別とか言ってはならない。江熊氏らの生活臨床の技法によって、昭和四二年以降の分裂病新発生三五名中、六か月以上の入院は二名のみであり、成果をあげている。生活臨床は患者の生活を強く規制すると言うが、そうではない。患者の社会生活の破綻を招く生活上の直接的な出来事のみを規制するものである。整形外科の学会が足の不自由な人をビッコとして差別しないために、みんなで足をひきずって歩くことを中心に尉論するであろうか。足を不自由にした原因である病気をただし、それを治す手だてを真剣に研究しあうであろう。それこそが学会ではないのか……と述ぺた。
 最後に烏山病院闘争を担っている野村満氏から烏山病院の管理・拘束の実態、患者・治療者間の支配構造、薬づけ、患者を幼児的にかつマスとしてのみ動かしていること、べルト・コンベア式の安易な転棟、療法に名を借りた使役などのありさまが述べられ、これらの管理・抑圧のもとにある強制収容所を解体する実践の結呆を報告し、生活療法を解体することによって患者はより自由になり、よくなっていった……と述べた。
 次いで、一般討論に移り、江熊氏、菱山氏、中沢氏らより、私に対する質問ないしは反論があった。手続き上、全文を掲載できないので体裁が整わないが、私の発言のみ収録する。

 指定討論をいただいた功刀氏にまず、答えます。功刀先生は、生活療法を批判する以上、生活療<0111<法をしたら悪くなったという具体例を示せと言われた。しかし、私が申し上げたのは生活療法をすれば悪くなるということではなく、よくなる。しかし、問題は、どうよくなったかという、よくなり方の問題なのです。私が扱ってきた学校恐怖症の例をとれば、以前には、ニ、三年も学校に行かず、他の精神科医から精神分裂病といわれた子供でも、私が治療して、一、二週間で登佼するようになった例もかなりあった。っまり、よく治っていたといえる。その後、いろいろ考えるようになってから、むしろ前にくらべて、ある意昧では治りにくくなってきている。換言すれば、いろいろな治り方が出て来ているといえる。生活療法によって悪くなったということではなく、治療や看護にたずさわる者の考え方によって、治リ方にもいろいろなかたちがあるのだということを問題にしたわけです。

 同じく指定討論をいただいた西本氏にお答えいたします。西本氏は「整形外科の学会が足の不白由な人を,”ビッコ”として差別しないために、みんなで足をずって歩くことを中心に討論するか。原因である病気をただし、それを治す方法を真剣に研究しあうのであって、それこそが学会である。治すことが討論されなけれぱ医学会とは言えないのではないだろうか」と言われました。私は,”ビッコ”の人を差別しないために、皆が足をひきずって歩けばよいと言っているのでは決してありません。私の友人で幼児期の小児麻痺のために軽い跛行のある精薄施設職貝のことを話したい。彼は、今、「むしろ治らなかった方がよかった」と言りている。彼は、「自分は子供の頃、一生懸<0112<命リハビリテーションを受け、トレーニングをした。その過程では、他人のことなど全く考えておらず、自分だけが他人を押しのけても治りたい、一般の人たちと同じように歩き、走りたいとだけ考えてきた。その当時は、自分が受けたと同じ程度のトレーニングでは絶対に治れない人々のいることは眼にとめていなかった。そのようにしてよくなり、今、精神薄弱の人々とっき合っている自分を考えると、自己嫌悪におちいり、治らない方がよかったと思う」と言うのです。しかし、彼はだからといって、現在のトレーニングや整形外科的治療全般を否定しているわけではない。このような人たらが、どのような気侍で冶っていくのか。また医師や治療者がこのような過程にかかわつていくなかで、”ビッコ”の人全体のこと、さらには、これらの人々を差別している者のことまでも言めて、治療なり機能訓練なりを考えていくべきなのに、それをしていないのではないかということを、われわれとそして自分自身に彼は突きっけているわけです。私の言っている意昧も、まったくそれと同じことです。

 江熊先生の発言に対してお答えします。江熊先生は私が患者さんに対して、「やりたいようにやれ」と言ったり、「あなたとともに差別と闘いましょう」などとだけ言っているようにおっしゃいましたが、決してそうではありません。また、「再発などどうでもよい」と言っているのでもありません。
 具体的に例をあげましょう。一八年間入院を続けてきた患者さんで、二年前から私が担当してき<0113<た例について述べます。半年ほど前から家に帰り、ある会社に勤めに出るようになったが、ある時母親が、娘が再発したから入院させてくれと言ってきました。事情を聞くと、「自分は子宮癌だ。近所の人が、また入院させると陰でうわさしている」と苦にしているというのです。本人を呼んで話しあった結果、次のようなことがわかりました。最近、生理不順となり、それが気になり婦人科に受診したいと希望し、母親も婦人科で診てもらいなさいと答えた。ところが、しばらくすると、「婦人科へ行きたい」と言い、同じことを五分おきくらいに言いつづけ、あげくのはてに、自分は子宮癌だ、皆がうわさしているなどと考えるようになったと言います。さらによく本人に聞いてみると、婦人科へ行くといっても、どうして行ったらよいのか、保険証はどうしたらよいのか、医者へ行ったら何と言ってよいのかなどよくわからず不安になってしまい、そのことが言えないために、ただ「婦人科に行く」とだけくりかえしていた。そこで母親が、「そんなに言うのなら病院へ行って小澤先生に相談しなさいよ」と言った。そこで本人は、また病院へ放りこまれるのではないかと不安になってしまったのだ、ということがわかったわけです。そこで、彼女に、「婦人科への行きかたがわからないのなら、そのことをお母さんに話しなさい。自分の言いたいことをもっときちんと言うようにしたほうがいいと思うよ」と話したところ、彼女は、「一八年間も入院していて、言いたいことを言い、やリたいことをやったら、必ず周囲の人から、病気が悪くなったと受け取られてしまっていた。だから、言いたいことを言ったり、自分の意志で決定したリすることはまったくできなくされてきていた。いまさらそんなことを言われても無理だ」と答えるのです。私は<0114<彼女の突きっけた問題に愕然として、今さらながらに入院生活が彼女をゆがめてきていたことを思ったのでしたが、ともかくよく話しあっていくうちに、妄想、不安も消えて、ふたたび元気に働けるようになりました。
 その後、だんだん彼女はわがままになり、反抗的になってきました。「お母さんは敵だ」などとも言います。ある時、些細なことで母親とけんかをし、家をとび出して、病院へ逃げこんできました。私は、そこで「がんばってけんかをしてきたなあ、よくやったね」とまずほめました。一瞬、彼女はきょとんとしたあげく、イライラした顔をやわらげ、やっと笑顔になって、「私は、生まれてはじめて言いたいことを言い、けんかもできた」と言うのです。そこで「言いたいことを言い、けんかをしたのはよいことだ。しかし、だからといって会社もやめ、家から逃げ出して、入院させてくれ……では駄目だ。もう一度家に帰って、お母さんと、徹底的に話しあい、言いたいことを言って、家に居すわるべきだ」と話しました。彼女は「わかりました」と家に帰り、それからは、患者・家族会などにも出席したりして、いろいろな問題について発言するようになっています。
 その後も例えば、彼女の母親が、仕事の関係で長い旅行をすることになったが、彼女は母に行かれたくない。ところが、そのことをはっきり言えず、また「お母さんは敵だ」などと言ってしまう。このようなことに対しても、「それではいけない。本当に思うことを言わなくてはあかん」と話しています。
 このように、彼女の再発はどうでもいいと言っているのではありません。また再発を予防すると<0115<おっしゃいますけれど、再発の原因は、本人の問題、能動型、受動性、それに対する生活均導などということにあるのではなくて、彼女に押しつけられてきた、自己決定ができなくされてきた彼女の歴史、生活そのものの中にあるのであって、そういったものを、どういうかたちではねのけていくのかということだと考えています。それは単に「差別・抑圧と闘いましょう」ということではなくて、私は、きわめて具体的に、「こうしたほうがよいのではないか」と彼女に言ってきていますし、彼女の問い、疑問に対しても、きっちり答えようとしています。患者さんが日常の抑圧をはねのけていくためには、毎日の患者さんとのっきあいの中でこちらから問題を提起し、患者も問題を提起し、どうやってそれをのり越えていくのかということを、互いに点検しあえる関係をつくりあげていくことが重要であるということです。っまり一方的に規制していくということではないということです。

 菱山先生の質問に答えます。菱山先生の質問は、治療音としてみると入院生活はいかなる理由があるにせよ、患者さんにとってマイナスである、ところが生活規制をしなければどうしても再発−入院という結果にいたる場合がある。例えば、東大受験をしてそのたびに再発をくりかえす患者さんで、実力的にも無理な場合は受験をやめさせるべきではないか、というような趣旨だったと思います。
 まず、入院を拒否して治療していくという姿勢で私もやっている。というのは、精神病院は市民<0116<社会の秩序を維持するために「精神障害者」を地域から家族から、職場、学校から排除する機能を押し付けられている。そして、いかなる「良心的治療」も総体としてはその構造を打ち破りきれていない。それどころか、「良心的」であればあるほど、その構造の担い手をすらなっている。このように考えれば「入院は悪である」とする他ない。ですから、いかに入院を拒否してやれるのかをギリギリまで追及しようとします(しかし、そのことが市民社会内での生活規制に終わるのでは、入院と本質的に異なりません。)しかし、このような闘いに敗北し入院という結果になった患者さんに対しては、どんなにしてでも一日も早く退院させようとは思いません。患者さんが、逆に社会の中にどうやって撃って出るのかをともに考えるのです。つまり、どんな手段を使っても一日も早くとは思わないわけです。社会に対して、言いたいことも言えないような状態に治した方が、早く退院しやすい場合もある。たとえば、低賃金で我慢する状態にした方が出やすいかもしれない。そんなかたちで一日も早く退院とは思わないのです。
 病院の中でも同じことが言えます。すなわち、自分の言いたいことを言い、やりたいことを院内でもやったら、病状が不安定になることがあります。客観的には、その結果入院生活が長くなることもあるでしょうが、そのようななかで私自身に突きつけられた問題もできるだけ引き受けていこうと考えているわけです。ですから入院生活を早く切り上げるちこと自体を否定しているわけではありません。ただ、入院を拒否するという方向性と同時に、病院を「ウラミ、ツラミをはらすべき、社会へ撃って出る拠点」へと内部的に変革する必要性に、われわれは迫られているわけです。<0117<このような立場からして、できるだけ短期間に労働力を回復せしめ、従順な低賃金労働者として社会に送り出せばよいとする意味での「早期退院論」には私は与しないということなのです。
 また、具体的な問題として、東大受験が実力的に無理だと考えられる場合は、再発を防ぐために規制せざるを得ないだろうと先生は言われたが、私ならそうは言わない。何故彼が東大に固執するのか、学歴にこだわるのかを問題にして、彼と論じていくのです。あきらめさせるのではなく、彼自身が何が何でも東大へと思っている彼のその考え方自身を、彼と私とで、どうのり越えていくのかであって、あきらめさせるとか、江熊氏の生活臨床の論文で述べられているような規制、つまり学歴へのこだわりを利用して結婚をあきらめさせるというような、そんな意昧での生活規制は私はやらないのです。また、大学受験に失敗して再発したと、とらえるべきではない。受験に失敗して再発したとき、彼はいろんな本音をぶちまけているはすで、そこで出てきた課題を本当に、患者と治療者が共有できなかったときに同じような情況に直面して再度再発がおこるのだと考えます。

 中沢先生に答えます。ご質問は、私が学校恐怖症を例に、治療者の思想性が治療過程をかなり本質的なところで変えていくということ、つまりは、治癒像が変わってくると途ぺたのに対して、分裂病者の場合にでも同じことが言えるのかということだろうと思いますが、まさにそのとおりです。本質的には同じことだと考えています。ただ、分裂病の場合には、より深い変革過程がわれわれに要求されることでしょう。

〈註〉

1 昭和四五年三月、朝日新聞が「精神病棟」というルポルタージュを連載し、精神病院における人権侵害の実態を病院に潜入した記者の体験をもとに告発したが、その記事に対し、日本精神病院協会会長渡辺栄市氏が直ちに出した声明を指す。「あまリに一方的見解であり、極めて一部の悪しきもののみを摘発して、精神病院すべてであるかの如き印象を与える。正しい医療を乏しい中から熱心に行なっている数多くの病院の実情をも見るべきである。色眼鏡でみれば善意の作業療法も強制労働に見える」などと述ぺ、「国や一般社会の姿勢」にこそ問題があると述べている。
2 昭和四四年一二月、精神神経学会理事会が「精神病院に多発する不祥事件に閏連し、全会員に訴える」という声明を出し、「不祥事件の根底には医師としての道義心・倫理感の欠如という重大事が横たわっている」と分析したものを指す。
3 医局解体闘争を先進的に担った東大精神科医師連合の同志たちによって、東大精神科病棟(通称赤レンガ)は昭和四四年九月から自主管理された。当初、教授会の居直りと収拾に対する抗戦を軸として、公選助手実現を目標として始められたが、昭和四五年六月を頂点とした北病棟侈転阻止闘争においては院内統一戦線の拠点となり、さらに烏山病院闘争を媒介に精神医療の内実そのものを問う闘いの中心点ともなっていった。この過程で赤レンガ内部での差別看護が患者自身の手で追求され、差別看護するものに対しては看護拒否という突きつけがなされた。そして、この提起を引き受けきれなかった看護者は、ついに逃亡してしまったのである。」(小澤[1974:93-119])

◆生活療法を越えるもの(二) 121-138*
* 1974a 「精神病院における生活療法」、『臨床精神医学』3-1→1974 「生活療法を越えるもの(二)」、小澤[1974b:121-138][65][89]

 一

 「私は従来から生活療法批判の立場をとりつづけてきたものである。生活療法批判の蒋太的視点をここで結論的に先取りして述べてしまうとこうなる。「療法」として「生活」が与えられるという構造を逆倒せしめよ、患者が自らの「生活」を奪還する闘いとわれわれがいかに共闘し得るのかという視点こそ、われわれの立場でなければならない。
 第六九回精神神経学会総会のシンボジウム「生活療法とは何か」のなかで、私は江熊氏らの生活臨床に対する批判を中心に「生活療法をこえるもの」と題して、以上の視点を敷衍し話をした(九三ぺージ参照)。そこで、ここではできるだけ重複をさけたいと思うが、ただ一点くりかえし述べるこ、シンポジウムで私は、悪徳病院で行なわれている生活療法という名のタコ部屋的労働収奪、人権侵害、基本的な生命権にまで及ぶ差別処遇といった現実を「生活療法に内在する思想性の必然的<0121<帰結と考えている。よリ正確に述べるなら、前述のような事態をひきおこした現実構造がそのイヂオロギー形態として生活療法という思想性を獲得してきたというべきであろう。であるから、現実の精神科医療の構造、さらにはそれを生み出した社会構造・生活構造が根底的に変革されない限り生活療法の普遍的のり越えは不可能であると考える」と述べている。これは要するに、いかに生活療法を批判しつづけてきた私とて、現実の場面では「生活療法家」として機能せざるを得ない状況にいるということである。したがって、本文では大部分このように生活療法家でしかあり得ない自分を現実の診療行為のなかで再点検し、ふたたびみつめなおすなかから「生活療法を越えるもの」を少しでも具体的なかたちでみつけ出すという作業をやってみたいと思うのである。そのために今の病院に勤務しだしてからの三年間を総括的にふりかえってみることにする。これに先だつ体験と闘争が私にとってはきわめて重大なのだが、やはり上述のシンポジウムでその若干を述ぺたのでここではふれない)。
 というわけで、本論はほとんどすべてを「わたくし」にたぐりよせて生活療法を語るということになる

 二

 私が洛南病院勤務を始め、社会復帰病棟という名の五四床をもつ男女混合開放病棟を受け持つことになったのは昭和四五年八月のことである。社会復帰病棟とはいうものの、退院を直前にひかえ<0122<ている患者は決して多くはなかった。約半数が五年以上在院しており、一〇名は在院期問が一〇年を越えていた。平均年齢も男子三六歳、女子は四〇歳に達していた(洛南病院全体の病棟構成と入院期問を表1に示す。上述の傾向が病院全体のものであることを示す)。※表1・略
 一通リ診療をし、家庭のことなどを聞いているうちに少し家族に働きかけ、退院後の生活のこと<0123<を考えていけばすぐにも退院できそうな人が何人かいることに気づいた。このような患者を退院にもっていくことはそう困難ではなかった。家族に電話し、病院に来てもらったり、患者といっしょに家まで押しかけて行って話をつけたリ、患者と新聞広告で仕事をさがしたり、職安へのルートをつけたり、もとの会社への復帰が可能な人にはそのための助力をしたり、かなりエネルギッシュに動く必要はあったが、昭和四五年末までには十数名の退院者が出た。外来は必然的にいそがしくなったが、再入院するものは昭和四六年末までに一名をのぞいて皆無であった。
 だが、このように退院していった人たちをみると、すべてが在院期間三年未満のものであり、そのほとんどが一年未満のものであった(表2)。かくして、私たちが全面的にとりくまねばならない課題として、これまでのような努力だけではいかんともし難い一群の「慢性・陳旧性」患者の存在が浮かびあがってきたのは昭和四六年に入ってからのことであった。(表3は、洛南病院が総体と<0124<して平均在院日数の延び、患者の長則入院化傾向という問題をかかえて「収容所」と化す可能性を示している。その後のわれわれの努力は、これらの傾向を一定程度改善し、たとえば、昭和四七年の平均在院日数は下っているが、本質的にそこから脱却するところまではいっていない)。※表2・3略

 三

 すでに、私はこの病棟にはじめて足を踏み入れた時から、そこにある静けさが、そのあまりの静けさゆえに心にひっかかるものとしてあつに。大学における闘争と、ある私立病院におけるささやかな闘争の後にこの病棟で勤務を始めた私には、喧騒と静寂、混沌と秩序とのこの懸隔ははとんどが耐えがたいものであった。それは機動隊に制圧された大学キヤンパスの昨日と<0125<ってかわった静けさと秩序を思いおこさせた。
 そんなある日、私たちの病棟はそろって京都に遊びに出る計画をたてた。その朝、「さあ、行こうか」と声をかけたら病棟の前に整然とした列ができあがった。これではまるで幼稚園の遠足だ。「並んで歩くなんてオレ恥ずかしいや。ボチボチ行こうぜ」とともかく出発する。だが、繁華街に入っても列ができがちだ。店をのぞきのぞき歩くなどということはせずに傍日もふらずに歩く人たちが多く、それが周囲の人たちの動きときわだって異なるので列をつくる原因になってしまう。郊外に出た時、私はある体験をした。この一見些細な体験が、その後の私の思想的展開につねにつきまとった原体験であり、イメージとして浮かぶ風景であった。テニス・コートがあり、そこで試合をやっている。テニス・コートは道より一メートルばかり低い。私は以前テニスをしていたことがあり、興昧にかられて近寄ってみようと石垣をとびおりた。そして、テニス・コートに沿って歩き始める。ところが私の後方にいた患者が次々と石垣をとびおりている。老人まで必死になっておりようとしている。前を歩いていた患者たちもあわててひき返してくる。テニスコートを走りまわる若者たちの白さと、石垣をゆっくりなだれるように落ちてくる流行おくれの灰色の洋服。私はあわてた。
 むろん、この時、患者は私と同じように近くでテニスを見たかったわけではない。患者にとって、医師である私の行動は私が何を意図してそうしたのかという構造のなかではとらえられず、私が何を意図したのであれ、「従うべきこと」の指標としてみられていたのだった。これを慢性患者<0126<の「かたさ」の表現と把えるのは逆転した認識である。われわれが患者に対したときの「かたさ」が対象化されたものとして問題は把握されねばならない。つまり、私たちこそが患者の行動を全人格性の構造のもとに把えていなかったのではないか。「みるもの」と「みられるもの」との関係の大枠を決してくずすことなく、病者をわれわれに従わせてきた歴史のなかにこそ問題の核心があるのではないか。「病者」を「健全者」の欠除態とみなし、「病者」がわれわれ「健全者」にいかに近づくかをもって治療過程をはかる尺度としてきたところに本質的な誤謬があるのではなかろうか。そこでは「健全者」の常識・感性・価値観が絶対性をもって「障害者」に対峙し、君臨している。
 兵体的に述べよう。患者が離院する、暴力をふるう、作業に出てこない等々といったとき、どうするのか。まず、多くの場合、それは「規則違反」というレベルでとらえられ、病気がわるくなつたといわれ、治療の対象とみられる。だが、「反抗とは何よりも不可能な状況の証明である」(A・メンミ)とすれば、「不可能な状況」をつくリだしているわれわれこそ、そこで問われているのだという視点が常に欠落したままになっている。とすれば、「違反」こそ、その人の示す自己解放への最大のエネルギーであるとする視点が要求されねばならない。
 てこで、われわれは「患者にいかに失敗させない治療・看護をしていくのか」と考えるのではなく、「失敗を積み重ねていくなかでいかに壁をのり越えていくのか」を当面のスローガンとすることにした。「波風のたたない集団形成をめざすのではなく、波風のなかでいかに自己をきたえてい<0127<くか」であり、われわれにとっては「おとなしく、従順になること、仕事ができるようになること、このニつの視点だけから患者の状態が『よい』『わるい』と判断するような思想性をのり越えていくこと」であった。

 四

 このように方針をたてたとき最初にぶつかった問題は看護職員の戸惑いもさることながら、社会復帰病棟患者としてのエリート意識であった。患者同士で他を侮辱し、排斥するさいの言葉として「閉鎖病棟へおりろ」「あんたはここにあがってこられる患者と違う」ということが言われる。社会復帰病棟にいる患者は「いい患者」、閉鎖の患者は「わるい」患者なのである。ここでいう「いい」「わるい」は、単に病状が「いい」「わるい」というにとどまらず、患者の人間の価値を決定するコトバとして使用される。「Aさんはこの頃わるいです。夜も眠らないし、独語するし、幻聴もあります(!)」と患者がいってくる。そして、「うるさいから閉鎖におろして下さい」「それは困る。だいいち、あなたがたがうるさいなら、閉鎖におろしても、閉鎖の人だってうるさいというだろう」「でも、それは仕方ないでしょう。閉鎖の人はワケガワカラン人なのだから」。
 ここで猛然と私は反論する。世の中から「気ちがい」として差別され、排斥されてきた患者が社会復帰病棟にあがってくると、今度は逆に患者の中の「気ちがい」を病棟から閉鎖病棟へ排斥し自らの安寧・秩序を守ろうとする。どうも、どこか間違っている。このような過程でなおっていっ<0128<ても、世の中に出たとき、偏見と差別に満ちた眼に抗して生き抜けないのではないか。ぴ。世の中で「気ちがい扱い」されたとき、「気ちがい扱い」するほうがおかしいのだとひらきなおれる患者としてどうなおっていくのだろうか。
 ある患者がかなり「わるく」なってガラスを破ったり、テーブルをひっくりかえして何人かの食事が無駄になったとき、何人かの患者がその患者を「閉鎖におろせ」と私にっめよった。だが、私はガンとして応じなかった。
 むろん、これらの現象はわれわれがっくりあげたヒエラルヒーが患者の意識のなかで対象化されているにすぎない。いうまでもなく、分類収容をし、差別を多様化し、定着せしめたわれわれの問題なのだ。われわれの病棟でおこった問題は、患者も職員も徹底的に自分たちの問題として解決をはかるよう努力すること、これが第二のスローガンだった。

 五

 さて、昭和四六年は、パターン化し貧困化した患者の「生活」をいかに「生き活き」としたものにしていくかという課題のために使われた。そこでは生活療法というような考えはできるだけ捨てようとした。「療法」などととりあげていうまでもなく、患者とよばれる人たちが当然、必要とする「生活」を獲得していく過程にすぎないのだと考えた。
 「洋服が欲しい」とAさんが詰所に来る。サイズをはかって出入りの商人から適当に看護者が見<0129<つくろう。これは変だ。ともかく、お金を渡して「自分で買って来なよ」という。これで問題が終わってしまう場合がないわけではない。だが、多くの場合、問題はここから始まった。Bさんは金をもってモジモジしだす。長い間、自分で買物をしたことがなかった彼女は、昔の基準(が彼女の基準)でいえぱ大金を手にしてただオロオロする。どこに買いに行っていいかわからない。そして、「もう、いいです」とお金を返しに来る。結局は「じゃ、一緒に買物に出るか」ということになる。こうして、毎日毎日、買物で外に出ることになった。医者も看護者もいそがしくなりだした。ともかく、長い間、抑えられていた欲望が一挙に噴出した感じで、次から次へと要求が出てくる。「あれが欲しい、これも欲しい」「あっちへ連れて行ってくれ、こっちへ行こう」……。「訴え」も急にふえた。
 そのうちに近くの商店はものが高いということがわかりだした。少し遠出してもスーパー・マーケットの方が安い。今まで無雑作に捨てられていた病棟の新聞の折込広告が患者の間を回覧されだす。安い下着の大売り出しでもあると代表が注文を聞いて大きな袋にゴッゾリ買って来る。なにしろ、安売りのある店まで行くのには交通費がかかるのだ。
 セルフ・サービスの売り場でお金を払う場所がわからずにウロウロして店員に万引きと間違えられたり、買物に出て道がわからなくなって警察に保護されたり、信号を無視して道を横断するのでヒヤヒヤしたり、買っては来たものの着てみるととても小さくて着ることができずに返しに行って店員に小言を言われたり……。ともかく、この間、職員もあっちでウロウロ、こっちでオロオロ、あっちこっちにすっとんで行かねばならない出来事が次から次へとおこってクタクタになった。「こんなことなら閉鎖病棟勤務の方がずっと楽だった」とある看護者はぼやいたものだった。こんなことをくりかえしているうちに、ほとんどすぺての患者がひとりで買物ができるようになった。オツリを勘定できない人も患者どうしでお互いにカバーし合うようになった。そして、ようやく病棟は落ち着いた。
 どこかへ出かけても、もう列をつくることはなくなった。むしろ各人があちこちのショー・ウインドーをのぞいてまわるので集団では動けなくなった。そこで、ある場所についたら決めた時間まで好き勝手に動くことになった。自由行動というわけだ。そのうちに病棟全体でゾロゾロ出歩く習慣も減った。何人か気の合ったものどうしが出かけることが多くなった。行く先も映画や音楽会、展覧会、喫茶店から寺詣、プールやボーリング場と今までになかったような場所が選ばれた。原則として職員はついて行かない。買物などにもついて行く必要もなくなって病棟のいそがしさは減っていたが、金の出入れは看護者のきわめて煩雑な仕事の一つだった。エーイ面倒だというので(というほど、簡単ではなかったが)、患者全員にお金を持ってもらうことにしたのは昭和四六年一〇月のことであった。患者・職員の間で何回かの話し合いがもたれた結果、月二回、各一、〇〇〇円ずつがともかく手渡されることになった(現在は貯金通帳を持ってもらって、自由に金の出し入れをしている人もできた)。しばらくして、タバコも各人で自由に買ってもらうことにした。タバコを喫む人はプラス月に一、〇〇〇円というわけだ。最近では、マッチも自由に持ってもらっている。<0131<
 最初に困ったことは下痢の頻発であった。金を渡すとそれでゴッソリお菓子を買って来る。それが三日ぐらいでなくなる。そして下痢患者続出だ。次に流行ったのがインスタント・ラーメンだ。たしかに病院の夕食は四時半なので寝るまでに腹が空く。だが、物珍しさからか、夕食を食べずにラーメンにとりかかる人が続出して、たちまち夕食の残飯が山とふえた。そして、またもや下痢。職員のなかには困りはてて、またもとにもどそうかという声も出始めたが三か月もすると菓子騒動もラーメン騒ぎも、下痢の流行もおさまってしまった。多くの患者が最初のうちは三、四日で電話賃まで使いはたしてしまったが、そのうちに出納簿までつける計画的な人もできた。「私らより立派やわ」と給料日前にはきまってピーピーいう若い看護婦はいった。
 以前は九時になると寝しずまってひっそりしていた病棟も、今では一〇時、一一時までテレビのチヤンネル争いだ。菓子があってロさみしさもなくなり、夜食もできて、話題も豊富になったら、生活指導などと大上段にふりかぶらずとも夕方からぺッドにもぐりこむ人は少なくなった。たちまちのうちに碁、将棋、花あわせなどの道具もそろった。そして、半年もすると特に女性の洋服がかわった。それだけで病棟の色彩がかわった。当初、食物しか買わなかった人たちが着るものにこりだしたのだ。スーパー・マーケットでは趣昧に合わない人たちがデパートにくり出す。そして、今は時計、指輪、装身具を買いたい、ラジオがほしいという人が多い。
 当然、小遣いを使いすぎると何人かの家族から苦情が出てくる。こちらも趣旨をじゅうぷん説明することにしたが、患者自身が家族との押し問答のなかで自分と家族、さらに社会との関係を少し<0132<ずつ整理していくようになった。Bさんは無断外泊して家族に「今までほったらかしにしといた賠償に三〇万円出せ、でないと病院に帰ってやらない」という。家人が驚いて病院に電話をかけてきた。電話で患者と家人と交互に出てもらって一時問ばかり話をする。結局、一割の三万円をもらつて患者は帰って来る。Bさんは長い間、面会に来てくれなかった親の顔を久し振りで見てきた。文句もいった。そして、三万円をせしめてきた。そして、こういう。「はじめから三〇万ももらえるとは思うてへんかった。やけど三〇万とでもいわんと一万もくれへん。」なるほど、まいった。
 福祉事務所にまで出かけて小遣いの交渉をする人ち出てくる。そして、福祉行政に対する不満をもつ。投書を始める。
 病棟生活に対する要求も活発になっていった。テレビ、便所の修理から物干場の設置、勉強部屋の新設要求までわれわれはっき上げられた。患者自身が事務長と交渉をもったこともあった。組合に対する発言もあった(もっとも、組合幹部は内部干渉としてしりぞけてしまったが)。クラプ、教室活動も多くなった。合唱、華道、俳句、絵画、習字、料理、編物、手芸、雑誌発行、図書活動……。行動も多様化した。運動会、パス旅行、ソフト・ボール大会、卓球大会、バザー、演芸会、盆おどり、桜まっり、水泳大会……。そして、患者自身の手で運営される方向に進んだ。必然的に従来の「作業」は減少した。
 金の問題がやはり何といっても一番大変だ。家族からせびるのも限度がある。「療法」などとは<0133<いわない、小遣いが足りないから外勤に出る。これも目的が明確になって外勤もふえた。自分で仕事をさがしてくるものもいる。昼間、患者の顔を病棟で見ることは前よりずっと少なくなった。必然的にナイト・ホスピタル的機能をそなえだす。
 男と女の問題も出てきた。近所からは「子どもの教育上よくないから男の患者と女の患者を一緒にしないでくれ」といってくる。「鴨川の土手では今時の若い人はモノスゴイことやってる。それには誰も文句いわへんのにね」と職員はいう。飲酒のことも問題になった。ホロ酔いのうちはいいが何人かはこちらが迎えに行かねばならなかった。
 だが、ともかく病棟全体の雰囲気は少なくとも三年前よリゴチャゴチャとしていて流動的になつた。生活が多様化して、一元的ボス支配も消えた。ボス的存在だった人は一時期「病状」が悪化した。ようやく、生活は少しばかり生き活きとしてきた。

 六

 昭和四七年は停滞の年であった。厚い障壁がわれわれの前に立ちはだかった。「壁」は前節のどちらかというと調子のよすぎる過程のなかにあっても常に見つめつづけてきたものではあったが、この年、それは明確な姿をとって顕在化してきた。要するに、日々の新鮮な発見の驚きと喜びが再び日常と化したパターンによってとってかわられようとしていた。
 「壁」のありかとそれをのリ越える方向性が全くみつからなかったわけではない。問題は実践過<0034<程の困難さにある。「壁」はニつの面においてとらえられていた。第一に、生活総体の問題が院内生活の多様化というかたちに矮小化されてきたことである。院内生活の問題は、撃って出るぺき「外」の世界に対する砦の問題として位置づけられる べきものであって、生半可な治療共同体などというコミューン幻想にもとづくものであってはならなかった。この問題は意識しつづけてきたつもりだった。前節の記述は院内生活の変化と流動という過程で常にまきおこってきていた、患者間の、患者・職員間の、あるいは職員間の、さらには家族、外勤先、地域との矛盾と軋轢について触れることは少なかったが、当然それらは激化していた。そして、問題を単にマアマア主義、ケンカ両成敗論で片づけることはしなかったつもリである。外からみていた人たちは、われわれのやリ方を「患者に甘すぎる」といったが、患者は「この頃のやり方はきびしすぎる」といった。常に「現実」との自立した闘いを求めつづけていたからである。
 だが、院内生活の問題ではかなリりラディカルに動いた人たちも、退院すると全く孤立した闘いに耐えねばならなかった。そして、彼らは「猫をかぶることでしか生きていけない」ともいった。再入院というかたちで挫折していくのがお互いに耐えられずに、私自身の公舎で何人かの患者と生活もしてみた。商売をやっている患者が仕事ができなくなったと聞くと、毎晩手伝いにかけつけた。家族が音をあげる。往診があいついだ。警察や福祉事務所などとのケンカも絶え問がなかった。こうして院外での仕事に追われだした。だが、そこでの生活の問題は院内のそれのようにねばり強くやれば少しずつは変化していくなどという簡単なしろものではない。ひとり、ふたりのカだけではど<0135<うしようもない。たとえば、いったん病院を出ると自分の居場所がない、あるいは奪われているというのが最も素朴な彼らの実感であった。居場所を変えていくという院内での闘いとはやはりわけが違う。日曜日にもなると、わが公舎と病棟は退院患者であふれたりもした。そして、今、退院患者会(仮称)がつくられようとしている。問題はこれからだ。
 「壁」の第二の側面はつぎのようにとらえられた。生活が流動化し、多様化する過程をいくらかでも共有すると、患者のもつ「症状」は抽象的な「妄想」とか「幻聴」とかいうレッテルではみえてこなくなる。なるほど彼ならこんなふうに言いそうなことだと思える生身の肉体をもった表現として感じられるようになる。「メシ食って、屁こいて、ババたれる」あたり前の人間一人一人がもつ、しかし切実な自己表現ととらえられるようになった。だが、それは大部分まだ、あくまで医師である「わたくし」にとって、そのようにみえてくるということ、つまり、そのように「解釈」されうるということをしか意昧しない。患者自身にとっては、そこからが真の闘いなのだ。
 もちろん、何人かの患者はパターン化した生活のなかで「現実世界」と「妄想世界」とに引き裂かれなから、その緊張関係さえ喪失せしめられ、ニつの仕界にそれぞれ「現実性」をもちつつ二重に「適応」してしまっている「慢性」状態から、求めて「現実世界」と「妄想世界」とのきびしい闘いに突入していった。挫折と再起をくりかえしながら、何度も自らカオスのなかに身を投じ、自己をつかみなおそうとする彼らのすさまじい生きざまは、そのごく部分的な過程であるにせよ、そこにともにかかわった私を、今なおつき動かしつづけてくれる(このような過程で向精神薬の投与<0136<は必然的に減少してくる。現時点で、おそらく、私がひきついだ時に比すれば投薬量はおよそ三分の一以下になっているであろう)。
 ここで、いきなリアメリカ黒人闘争にアナロジーをとって「壁」なるものを明確にするなら、上に述べた彼らの生きざまをマルコムXのそれにたとえるなら、われわれが患者の生活を獲得しようとしてきた過程は公民権闘争のそれであり、ルーサー・キンダ牧師の笑みによって象徴されるものにすぎなかったということであろう。さらに、われわれの限界とそこをつきぬける方向性を一挙に示唆するために再びアナロジーを用いることをお許し願いたい。ジャズ評論家相倉久人は「かねてかから、ジャズは白人中間層(ナイトクラブの客)を聴衆とすることによって、第一世界の中心部深くとりこまれた第三世界の立場(それこそ、現在アメリカ黒人の置かれている情況そのものではないか)を象徴すぺく運命づけられていた。だからこそ、彼らはジャズに、自分たちが望んでいて、いまだかちえていない革命の象徴を見たのである」と述べ、SNCC、COREらの非暴力主義がゲットーから発したマルコムXの方向にのり越えられた「一九六七年は、ジャズがその歴史上はじめて情況によって追いつかれ、追い越される危機に直面した年として記憶されるだろう」と述べた。表現が行動によってのり越えられたとき、表現は危機に直面する――これは正しい認識だ。これをそっくり、われわれの領域に移しかえて、現実(の健全者)世界に深くとりこまれた病者の世界は、健全者によって「症状」と名づけられる表現によって、まだみぬ自己解放への過程を生きる苦しみの象徴となっている、と述べることができる(そういえば、病者が自らに表現を「症状」と名づけら<0137<れることを決して肯んじないと同様、ブラック・アーテイストたちは自らの音楽を卑猥で侮蔑的語感のあるJAZZと呼ぶことにこだわる傾向がある)。このような状況をいかにのり越えるのか。それは決して脱日常によってではなく、日常の非日常化、あるいは非日常の日常化たる、彼らの「行動」によってであリ、彼らと「共動」するわれわれの実践にかかっている。そのとき、彼らの「症状」は明確に「症状」としての意昧を捨てるであろう。つまり、「症状行動によってのり越えられるのだ。では、それはいかなる「行動」であるのか。それは積年のウラミ、ツラミが「現実」のなかで噴出したものであるが故に、決してパターン化されず、秩序化を拒否するものであるとのみいっておこう。われわれは、ようやく、そのような人々によってわれわれのつくりあげてきたものであるがのリ越えられる予感をもち得るようになってきた(たとえば、われわれの共働者高橋勝貞氏による症例報告をみられたい。病院精神医学会機関誌「病院精神医学」第三二集所収)。
 (本論で本当に語りたかったのは六以後のことである。だが、まだ書けなかった、というのがひとまず稿を終んた現在の実感である。)」(小澤[1974:121-138])

◆X 発言と資料

 小澤論文―「幼児自閉症論の再検討」の自己批判的再検討 233-254*
*小澤 勲 1972 「「幼児自閉症論の再検討」の自己批判的再検討」,『児童精神医学とその近接領域』13:54-63,小澤勲[19740501:233-254]に再録

 「二 自閉症児は存在するか
 本論に入ろう。枝吉さんは「なにか特殊な自閉症児という子が存在しているのでしょうか」と問われる。枝吉さんはその発言からしても、「自閉症児といっても何ら特別な子どもではない」ことを指摘なさろうとしているのは明白である。しかし、枝吉さんがおっしゃりたいことをじゅうぶんふまえた上で、私は「やはり自閉症児は存在する」(より正確には「存在させられている」というべきかもしれないが)といわなければならない。とくに、学会総会で有名な自閉症研究家が枝吉さんの問いを申し合わせたようにカテゴリー論と社会的弊害という論理(?)にすりかえ、「今後、自閉症という診断はやめよう」などという珍奇な発言があいつぐような現状では、私は断固として「自閉症児は存在する」(正確にいえば「自閉症児は今なお存在させられつづけている」)というところから出発しようと思う。「自閉症児」をつくり出す構造を解体せぬかぎり、「診断」をやめたとて何ほどのことがあるというのであろうか。仮にキチガイとよぶことを偉い先生方がやめると申し合わせたところで、今の世の中にキチガイがなくならないリクツと同じである。
 論理をもう少し緻密にしよう。「自閉症児とはいったい何なのか」という問題を考えてみる。かつては私を悩ましたこの設問に対する答えは最近になって考えてみると実はきわめて単純、明解なことではないのかと思えてきた。今、私は「要するに自閉症児とは、なにがなんだかさっぱりわからない子どもたちのことである」と答えたいと思う。むろん、問題はここで終わるのではなく、ここから始まるわけで、ことに「わからない」とするそのこと自体が深く検討されねばならないので<0236<あるが、この点については後でくわしく述べることとし、ここではひとまず「わからない」というのは、どこにも行きようがなく、「処遇」を受け難い一群の子どもたちがいるという客観的基盤が意識化された結果にすぎないと述べるにとどめ、先にすすみたいと思う。
 ところで私の論文では、この辺の問題をどのように叙述しているかをみておきたいと思う。「自閉」を論じて論文はつぎのように述べている。「われわれが(症児を)自閉的と感じるのは生活年齢に比して症児の対人関係形成が単に遅れているということだけによるとは思えない。おおまかにでもある正常発達の一時期に症児の行動を位置づけ得たとしても、その発達段階に相応すべき諸精神機能が症児には正常な構造をもって存在していないということ、つまり、われわれが症児をみたとき、彼が正常児ならば(いかなる年齢であるにしても)、あるいは精薄児ならば(いかなる程度の遅滞を示すとしても)このような行動を示すはずだという観察者の〈期待〉から症児の行動が著しく逸脱しているということこそが、われわれに症児は自閉的だと感じさせるのではないだろうか。自閉症児を少し治療していくと第三者の眼には症児の行動がそれほど大きく変わったとはみえないのに、治療者には症児が最初ほど自閉的だとは感じられなくなることがある。これは治療者と症児の間に第三者には察知し得ないラポートが成立したというより、治療者の症児に対する期待の枠組が徐々にその症児に合致したものになっていき、かつ、ある程度、症児の行動予測が可能となってきたことによると思われる。」
 引用がやや長くなったが、いわゆる幼児自閉症の中核症状といわれている「自閉」という症状を<0237<単に症児の精神病理としてではなく、症児とわれわれとの「関係」の問題として提起しているという点において評価されるべきものをもっている。しかし、関係の一方の極である「われわれ」が、いみじくも「観察者」とよばれているように、われわれ自身がもっている枠組そのものはまったく検討せずに認めてしまっている。」(小澤[1974:236-238])

◆優生保護法改正問題をめぐって 275-29

 「五 ナチスの優生政策
 ここまで資料を整理してきて、何気なく私のいる病院の図書室で本をながめまわしていたところ、隅っこのほうにホコリをかぶってR・フレルクス著、橋本文 夫訳「ナチスの優生政策」(理想社、昭和一七)という本があるのに気づいた。フレルクスという人がどんな人なのか私は寡聞にして知らないが、要するにナチ スのおかかえ科学者らしい。これを読んで、優生保護法改正が、あるいは優生保護法自体がいかにナチスのイデオロギーをそのまま受けついだものであるかがわ かって愕然とした。」(小澤[1974:295]) 
◆あとがき(全文)

 「本書をまとめるにいたった経緯は序章に書いた。だが、自分で書いたものを読みかえすというのは実にいやなものだ。どこに弱点があるのか、どこで展開すべきを逃げてしまっているかがみえてきて、何度も自己嫌悪におちいった。しかし、このあたリで自分の弱みを見きわめておかないと、このままズルズルいってしまうのではないかという不安もあって、ようやくもちこたえて、なんとかあとがきを書く段になった。ほっとしたというより、これからやらねばならないことがはっきりしてきて、大変なことこになったというほが実感として強い。

 本書におさめた論文は、註をつけたり、若干の加筆、訂正あるいは削除はしているが、ほとんど原型のままである。各論文の掲載誌およびその前後の事情は次の通りである。

 T 序
「ある会話」(原題「開放病棟における慢性分裂病者」、精神医療、第二巻一号、一九七一)<0307<
 本論文がこの書を編む動機となった事情については直接、本文中に書いた。

 U 情況「差別・抑圧構造解体への出発点」(児童精神医学とその近接領域、第一一巻四号、一九七〇)
 第一一回日本児童精神医学会への基調報告である。学会改革委員会の名において、当時、同委員会委員長であった私が書き、発表したものである。つまり、学会闘争のさ中に書かれたものである。
 昭和四四年五月(当時私は一年以上にわたる無期限ストで医局解体闘争をになうことになった京大無給医会の書記長であったが)、関西精神科医師会議を結成し、東大精神科医師連合に結集する人々や闘争をになっている全国の精神科医とともに第六六回精神神経学会(金沢学会)闘争ととりくんだ。この闘争はその後、多くの学会闘争を生んだ発火点となったものであった。学会認定医制度反対の分析を広く医療制度、精神科医療情勢から説き、刑法改正−保安処分新設反対へと論を進めていくなかで、医局講座制によって支えられ、また医局講座制を外から支えていた学会は、理事会解散というかたちで瓦解していったのである。
 つづいて同年一一月に開催された第一〇回児童精神医学会総会も、われわれの闘争によって従来の研究至上主義による研究発表の場から急拠プログラムを変更し、討論集会の場となった。理事会、評議員会は事実上解散し、改革委員会ができ、私が委員長に選任された。一年間にわたる討論と組織過程の後に、昭和四五年一一月、第一一回日本児童精神医学会が「差別・抑圧構造解体への出発<0308<点」をメイン・テーマに改革委員会の手によって開催され、私が改革委員会を代表して基調報告を行なったのである。改革委員会は一年間にわたって全国各地で討論を組織し、問題提起を行なってきたが、とくに就学猶予、免除の問題性を暴露し、全国で全員就学への働きかけを行ない、それが一定の成果をおさめたことは教育現場に矛盾をそのままもちこむものとなった。

 V 治療論あるいは反治療論
 「生活療法を越えるもの(一)」(原題「生活療法をこえるもの」、精神神経学雑誌、第七五巻一二号、一九七三)
 昭和四七年六月、第六九回日本精神神経学会総会は「戦後日本の精神医療・医学の反省と再検討」というメイン・テーマのもとに開かれたが、そのなかのシンポジアム「生活療法とは何か」でシンポジストの一人として話したものである。私が特に江熊氏らの生活臨床派批判を中心に論述したために、彼らとの論争が一つの焦点となった。私はもともと会話のなかで考えていくほうで見かけほど(?)論理的な人間ではなく、どちらかというと直観的にものごとをみるほうなので、実は書くのは苦手なのだ。そこで、彼らとの討論をここに掲載することにした(ただ、手続き上、私に対する質問については、要約したかたちでしか掲載できなかった。くわしくは「精神神経学雑誌」を見ていただきいと思っている。だが、問題は論理で勝っても現実では負けてしいるということ、つまり、精神科医療の現場における生活療法体系を解体で。きぬまま、われわれ自身もそれにか<0309<らめとられてしまっており、いくらもそこから飛躍しきれぬままにいるということである。この自覚が次の論文を書いている際にもいつも念頭にあった。
 「生活療法を越えるもの(二)」(原題「精神病院における生活療法」、臨床精神医学、第三巻一号、一九七四)
 最も新しい論文である。後半であたふたとアナロジーで片づけてしまっているあたりをしっかり書くことができるだけの実践が積み重ねられたとき、本書をのリ越えるだけのものが書けると考えている。
 「障害児の薬物療法」(原題「障害児と薬物」、児童精神医学とその近接領城、第一三巻四号、二九七二、および第一四巻一号、一九七三)
 昭和四七年一一月開催された第一三回日本児童精神医学会総会のシンポジウム「障害児の薬物療法をめぐる諸問題」においてシンポジストの一人として発言したもの、およびその討論、そして、それに先だって討論資料として提出したものをまとめたものである。

 W 人体実験批判
 「台弘氏による人体実験批判」(精神医療、第三巻一号、一九七三)
 精神神経学会闘争の過程でとりあげられた台人体実験批判を、できるかぎり広い視野のなかで位置づけようとして書いたものである。なお、本論文の草稿ともいうべきものは、昭和四八年五月の精神神経学会にむけてつくられた精神神経学会評議員有志のパンフレット「台氏人体実験を糾弾す<0310<る」に書いた同名論文である。

 X 発言と資料
 T〜Wにおさめられなかった発言および資料を集めた。
 「小澤論文−『幼児自閉症論の再検討』の自己批判的再検討」(児童精神医学とその近接領域、第一三巻一号、一九七ニ)
 昭和四六年一一月、第一二回日本児童精神医学会総会のシンポジウム「自閉症児の教育と医療」において、「自閉症児」の母親である枝吉幸子氏は、いくつかの本質的疑問をわれわれにつきつけた。それに対する一つの回答の試みが本論文と「障害児の薬物療法」である。本文にも書いたように、私には「幼児自閉症論の再検討(1)症状論について、(2)疾病論について」というニ〇〇枚を越える論文があり、一定の評価を得ている。この論文はよくも悪くもわが国における自閉症研究の一集大成と言えるものと今でも考えている。だが、その故にこそ、この論文は自閉症研究における本質的欠陥をもっており、それをのリ越えるべく模索している今の自分の出発点を示すものとして「自己批判的再検討」が書かれた。
 「ある精薄施設の歴史」(児童精神医学とその近接領域、第一四巻一号、一九七三)
 当時、和光寮の職員であった木野村峰一氏との共著論文として書かれたものであるが、内容、資科の収集ともに木野村氏に負うところが多い。氏の好意に甘えて本書に収めた。<0311<
 「優生保護法改正問題をめぐって」(児童精神医学とその近接領域、第一四巻三号、一九七三)
 児童精神医学会法律問題委員会の一員として、優生保護法改正に関する資料をまとめたもので、この論文をもとに同学会の「優生保護法改正反対声明」および「優生保護法改正に反対する意見書」が書かれた。

 これらの論文を書くにあたっては、亡き友、関口進君の他にもここに一人一人書ききれないほど多くの人たちのお世話になっている。なかんづく、怠惰に流れがちな私を最後の一点で踏みとどまらせてくれている多くの「患者」の方々の暖かく、それ故にこそ、最もおそろしい眼を思いながら筆をおく。

    昭和四九年五月一日
                 小澤勲<0312<」

■言及

◆立岩 真也 2002/04/01 「生存の争い――医療の現代史のために・2」,『現代思想』30-05(2002-04):41-56 ※ 資料
「☆08 例えば、様々のことがそれなりの分量をもって書かれており、先にふれたロボトミーや電気ショックの歴史も扱われていてそれなりに勉強になる精神医学の歴史の本でショーターが反精神医学に割いているのは約5頁なのだが(Shorter[1997=2000:325-330])、そこではフーコー、サス、ゴフマン、シェフ、レインと、ベン・キージーの『カッコーの巣の上で』がまとめていっしょにされ、過去のものとされる。必ずしも病因論として括っているわけではないのだが、それにしてもずいぶんな情報の圧縮である。では日本ではどうだったか。私はこの時期以降の精神医療の言説の歴史についてほとんど何も知らず、またそれを追った研究があるかないかも知らないのだが、例えば「反精神医学」の語が表題に使われる小澤[1974]を読んでみても、そこにほとんど病因論は出てこない。別のことが書かれている。」(立岩[2002])
 →原因/帰属

◇立岩 真也 20031101 「現代史へ――勧誘のための試論」,『現代思想』
 「第二に、優生学はナチスという連想があり、それしかなかったと言われる。そしてその場合のナチスの所業とはまずは誤った遺伝論に基づいた人種・民族の迫害、ホロコーストのことだとされる。ここでも事実を確認する仕事がある。例えばナチス・ドイツにおける病者障害者の抹殺は知られていなかったのか。この所業の詳細がドイツで詳しく知られるようになるのも一九八〇年代に入ってのことであり、翻訳が出るのはさらに遅れる★23。ただやはりまったく知られていないわけではない。例えば刑法学者平野龍一の一九六六年の文章の中では「もはや生きる価値がないと思われる精神病者などに対して、「情けの死」を与えることを許したのである。その結果、精神病者や不具者など約二七万五〇〇〇人が殺されたといわれている」といった記述があり(もっと長い引用はホームページに掲載)。ビンディングとホッヘの著作――のちに翻訳(Binding &Hoche[1920=2001])が出る――に対する言及もある。他に大熊[1973]や小澤[1974]等にも記述がある。その「概要」は知られていたこと――何がその情報源だったのかを調べ、そこに何が書かれているかを知る必要があるが――がうかがわれる。ビンディングとホッヘの安楽死思想と優生学との関係、またナチスの所業との連続性をどう見るかといった微妙な問題はあり、たしかにそうしたことはここでは意識されていないだろう。しかしこの時期、誤った遺伝決定論に基づくユダヤ民族他の抹殺だけでなく、その対象がもっと広い範囲に及んでいたことは知られていたということである。」

■言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※

◆立岩 真也 2011/08/01 「社会派の行き先・10――連載 69」,『現代思想』39-(2011-8): 資料


UP:20080320 REV:20100830, 20110711, 20130617, 0725, 0828, 20140824
小澤 勲  ◇精神障害/精神障害者  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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