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Levinas, Emmanuel 1974 Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199907 合田 正人 訳,講談社学術文庫,477p. ■Levinas, Emmanuel 1974 Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199907 合田 正人 訳 『存在の彼方へ』,講談社学術文庫,477p. ISBN-10: 4061593838 ISBN-13: 978-4061593831 1470 〔amazon〕/[kinokuniya] ※ 0e/1 *一般注記:『「存在するとは別の仕方で, あるいは存在することの彼方へ』(朝日出版社 1990年刊)を全面改訂したもの ■内容(「BOOK」データベースより) フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス。戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを極限まで考察したレヴィナスは、本書において他者への責任とは他者の身代りになることだと説く。『存在と時間』(ハイデガー)以降最も重大な著作とされ、独自の「他者の思想」の到達点を示す大著の文庫化成る。 著者紹介 【E・レヴィナス】 1906年リトアニア生まれのユダヤ人哲学者。フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化。ポワチェ、パリ・ナンテール、ソルボンヌ各大学の教授を歴任。邦訳書に『実存から実存者へ』(講談社学術文庫)『超越・外傷・神曲』『時間と他者』『実存の発見』『全体性と無限』など多数。1995年没。 訳者紹介 【合田正人】 1957年生まれ。一橋大学社会学部卒業。東京都立大学大学院博士課程中退。現在、東京都立大学人文学部助教授。著書に『レヴィナスの思想』、訳書多数がある。 ■目次 第1章 存在することと内存在性からの超脱 第2章 志向性から感受することへ 第3章 感受性と近さ 第4章 身代わり 第5章 主体性と無限 第6章 外へ ■言及 ◆中島道男, 2003, 「バウマンの社会理論――道徳と政治のあいだ」《奈良女子大学社会学論集》10:23-45. (pp26-31) 基礎的・基本的な「あるがままの事実」である道徳的衝動、道徳的責任、道徳的親密さをとらえるにあたって、バウマンが依拠するのはレヴィナスである。道徳的責任は「最初から」ないかぎり、いずれにせよわれわれ人間のあり方そのものに根ざしていないかぎり、どんなに高潔なあるいは高圧的な努力によっても、のちの段階でけっして呼び出されることはない、という先ほどの言明は、いかなる事態をさすものとして理解すべきであろうか。 バウマンによれば、道徳は顔としての他者(the Other as Face)との出会いであるという。そして、この道徳的スタンスは、本質的に不平等な関係を生じさせる。「私/他者の」、この「バランスのとれていない」、したがってリバーシブルではない性格こそが、出会いを道徳的な事件にするのである(pp.48-9)。「他者とともにあること」と「他者のためにあること」との区別が語られるのも、こうした脈絡においてである。バウマンは、「とともにあること(being with)」は対称的であるという。これとは対照的に、ためにあること(being fbr)は、きわめて非対称的、すなわち、パートナーたちは平等ではなくなる、とされている。「ためにあること」が非対称的であるというのは、他者が私のためにあろうとなかろうと、私は他者のためにある、ということを意味している。他者への私の関係は、けっしてリバーシブルではないのである。道徳的な関係においては、考えられるすべての「義務」と「規則」は、私にだけ向けられ、私だけを縛り、私だけ、ひとりの「私」(an ‘I’)としての私だけを構成する。道徳的な関係においては、私と他者(the Other)とは交換可能ではないし、それゆえ、複数形の「われわれ」を形成するために合計されることもできない(p.50)。 さて、ここで主張されているのは、責任=応答可能であることと道徳的主体の構成とが同時的であったという(前稿ですでに確認した)論点からもわかるように、「ためにあること」という次元こそ私の構成にかかわる次元だということではないだろうか。この見通しを肉づけしつつより確かなものにするためには、他者と呼ばれているものがいかなるものかがとらえられなければならない。そのために、バウマンの依拠するレヴィナスにまでさかのぼって、顔としての他者ということの意味をさぐることにしよう2)。 斎藤慶典は、レヴィナスについて次のように述べている。責任=応答可能性とは、「私がその成立の〈起源〉において他者に不可避な仕方で応じてしまっていること――応じないことの不可能性――をこそ、何よりも名指している。したがって、私が私であるかぎり、つねに私は何らかの仕方で他者に応じているのだから、『責任』はそのかぎりで、決して『果たされる(完済される)』ということがない。他者への応答に、〈これで終わり〉ということはありえないのである。私が私であるかぎり、私はいつも他者への責任の下にあるのである――これを『無限責任』と呼ぶことができよう――」(斎藤 2000:155)、と。このように、斎藤のレヴィナス理解からうかがえるのも、責任=応答可能性と道徳的主体の構成ということの同時性だといってよかろう。さらに、斎藤は、l'ontique / l'ethique / le politiqueという三つの次元を区別したうえで、l'ethiqueを、「そこにおいて私が私として成立することになる次元」、「『個人(私)』の成立が問われ」る次元だととらえている(157頁)。このl'ethiqueの次元こそ、他者と私との非対称性によって特徴づけられる「他者のためにあること」という次元にほかならない3)。 熊野純彦のレヴィナス理解も参照してみよう。熊野のレヴィナス理解も斎藤のそれと異なるものではないだろう。ただ、熊野を参照することによって、レヴィナスのいう他者というものがよりよく理解できるように思われる。熊野は次のように述べている。倫理とは、レヴィナスのみるところ、世界の外部から到来する他者との関係そのものなのだ。――他者を私が構成するのではない。逆である。到来する他者、私の世界の外部から到来する他者のみが、私の単独性を指定し、私を「この」私として、唯一の私として構成する。そうであるならば、そのような他者との関係にあってだけ、つまり〈倫理〉的な関係においてのみ、私は〈私〉でありうる、と考えることが可能であることになる、と(熊野 1999:146-7)。この解釈によって、他者についてもだいぶ明確になってきたのではないか。――他者とは、「世界の外部から到来する他者」だという。 岩田靖夫は、この他者についてさらにわかりやすくしてくれている。他者とは、岩田に従えば、「現象的世界の存在者であると同時に、現象的世界の存在者ではない。『存在のかなた』が他者のうちに射し込んでいるのである。どういう仕方で。それは、『不在として』としか言いようがない」(岩田 2001:184)。「他者の顔はどこまでも現象である。穴の開くほど見つめても、徹底的に現象である。しかし、その現象の背後から、意味の余剰が意味するのである。それが余剰と言われるのは、それが現象ではないからである。その余剰は、形としては『無』であり、『不在』である、としか言いようがない」(187頁)、と。「『存在のかなた』が他者のうちに射し込んでいる」という言い方にも現れているように、他者とはいわゆる自己−他者関係にある他者であると同時に、そうした他者を超えたものでもある。バウマンにあって、「他者のためにあること」と「他者とともにあること」との区別が揺らいでいたのもこうした厄介さが関わっていたに違いない。 今や、「他者のためにあること」と「他者とともにあること」の区別は明確になったのではないか。すなわち、「他者のためにあること」というのは「他者とともにあること」にたいして垂直に切り込んでいる次元だといえる。現象的世界の存在者としての他者と私との関係を示しているのが「他者とともにあること」であり、現象的世界の存在者ではないものとしての他者と私との関係が「他者のためにあること」ということができよう。後者によってこそ、道徳的主体としての私がはじめて構成される。もちろん、現象的世界の存在者としての他者と現象的世界の存在者ではないものとしての他者とは、まったく別ものというわけではない。「存在のかなた」は他者のうちに射し込んでいるのである。他人と他者とを区別して、他人(other)をとおしてその痕跡がみられる「存在のかなた」を意味しているのがthe Other=他者である、というと明確になるのではないか。ただし、バウマン自身は、この点について首尾一貫した区別をしているわけではない。いずれにせよ、「他者のためにあること」と「他者とともにあること」とを区別することによって、バウマンの思想ならびに彼のレヴィナス理解は深化したといってよかろう。 いくつかのレヴィナス解釈を手がかりとしつつ、バウマンの言わんとするところを解きほぐそうとしてきたが、バウマンをいわば少し置いてけぼりにしたかもしれない。少し歩をゆるめて、バウマン自身の言葉をひろってみよう。バウマンによれば、道徳的人格(molal person)としては私はひとり(alone)であるが、しかし、社会的人格(social person)としては、私はつねに他者たちとともに(with others)あるという。道徳的人格と社会的人格は明確に区別されている。道徳的人格と社会的人格のこの区別は、「ためにあること」と「とともにあること」の区別に対応している。しかも、「とともにあること」と「ためにあること」の区別は、はっきりと、「他人たちとともにあること(being with others)」と「他者のためにあること(being for the Other)」の区別として語られているのである(Bauman l993:60)。(さきほど述べたように)othersとthe Otherの区別がバウマン自身によってどれほど一貫して意識的に用いられているかについては疑問が残るが、読み手であるわれわれはこの区別を重視すべきであろう。岩田に従えば、the Otherは不在としてotherに射し込んでいる。the Otherとの関連でみるか、otherとの関連でみるかによって、私は、道徳的人格としても、社会的人格としても、立ちあらわれることになるのである。これらの道具立てをとおしてバウマンが主張しようとしているのは、次のことである。――われわれは、社会のおかげで道徳的なのではない。われわれは、道徳的であるおかげで社会のなかに住んでいるし、社会なのである。社会性(sociality)の心臓部にあるのは、道徳的人格の孤独(loneliness)である。つまり、独居(solitude)が道徳的行為の始まりを刻印しているとすれば、共在やコミュニティが現れるのはそれが終わるときだということである(p.61)。この論点こそ、デュルケム道徳論の対極にあるバウマン道徳論の核心である。 バウマンによれば、道徳は所与である。したがって、「とともにあること(being with)」という存在論的境遇から構築されるのは道徳ではない。道徳は存在論以前(befbre)にある。forはwithより前にあるのである(p.71)。これらのことが意味しているのは、道徳とは人間が生まれつき持ち合わせている身体的な衝動であるといったことではない。さきほど検討したことからすれば、他者=the Otherのためにあることによってはじめて私は道徳的主体として構成されるということこそ、バウマンの主張しようとしていることにほかならない。 レヴィナスに依拠するバウマンの道徳論の基礎がだいぶ明確になってきたのではないだろうか。存在より前にある道徳の唯一の基礎は道徳的自我であった。道徳のチャンスを失うということはまた、自我のチャンスを失うことでもあるのである。そして、他者のための存在を自覚することが自我を自覚することであり、そのことは自我の誕生である。唯一のものとしての私自身を見いだす別の方法はない。ある意味で、道徳の心臓部にはアンビヴァレンスがある。というのは、私が自由であるのは私が人質であるかぎりでだし、私が私であるのは、私が他者のためにあるかぎりで、ということなのだから(pp.77-8)。 バウマンのみるところ、レヴィナスの倫理学はポスト近代の倫理学である。近代は、いかなる道徳的近接(moral proximity)も存在しないような公的空間の創造をめざした。この近接こそ、親密性と道徳の領域である。近代は、この近接を除去し、自我と他人とのあいだには、法的規則によってのみ構造化される距離があるべきだとみなしたのである。このとき、個人は、他者の存在とその存在がひきおこす感情とを取り扱うことができなくなる。近代の倫理学においては、他者は、矛盾の具現であり、自我の完成への歩みにおける障害のうちでもっとも荘厳なものであった。これにたいして、ポスト近代の倫理学は、他者を隣人として、道徳的自我の中核のなかにふたたび認めるものである。近接のもつ自律的な道徳的意義の回復がめざされるのである(pp. 83-4)。他者のためにあることを道徳の心臓部とみなす立場がポスト近代的であることは、明らかであろう。 ポスト近代の倫理学にとって、道徳の「基本的シーン」は、「顔対顔」の、「親密な社会(intimate society)」の、「道徳的パーティ」の領域である。これこそ、道徳的自我の揺りかごであり、ホームである。道徳が始まるところこそ、ここである。道徳はこれ以外の始まりをもたない(p.110)。 「道徳的パーティ」は、外部から見られるときにのみ、「カップル」「ペア」「そこにいる彼ら(they out there)」に凝結する。外部の視線が道徳的パーティを「客観化」し、それをひとつの単位に、「あるがままに」描写され「操作され」うるものに変える。しかし、道徳的自我としての私の視点からは「われわれ」も、「カップル」も、「欲求」と「権利」をもった超個人的な実体も、存在しない。私の責任、私のケアをもった、私、それに、そうしたすべてを引き起こす顔(the Facc)があるだけである(p.111)。 第三者の出現ですべては変わる。今や真の社会が現れる。このとき、ナイーヴな道徳的衝動――「道徳的パーティ」の必要十分条件である――ではもはや十分ではなくなる。厳密な意味での社会は、第三者とともに始まるのである。今や、共在について尋ねられるべきさまざまな質問が生じてくる。責任は、ぜひともその限界を求めることが必要となってくる。命令は、無条件であることをきっぱりと否定される(p.112)。 問題は、第三者をどうとらえるかである――。第三者はまた他者(the Other)でもある。しかし、「基本的シーン」でわれわれが出会った他者ではない。第三者の他者性は完全に異なった種類のものである。二人の「他人(ohters)」は異なった世界に住む。二人の「他人」は互いに会話しない。それぞれは、もう一方が脇に退いているときのみくつろぎを感じることができる。第三者である他人に出会うことができるのは、道徳の領域を去り、正義に支配された社会秩序の領域(the realm of Social Order ruled by Justice)に入ったときにのみである。レヴィナスによれば、これは、国家、正義、政治の領域である。この点を、彼は次のように述べている。「私と他人との関係は、今度は、第三者に、ふたりの平等な者のあいだを決定する至高の判断者に、余地を残さなければならない」(p.113)、と。「道徳の基本シーン」においては本質的に不平等であった自己−他者関係が、第三者の出現によって平等な関係になり、この第三者が至高の判断者としてその関係を律するのである4)。 ただ、バウマンが説明のためにここで持ちだしている“二人の「他人」”という言い方は、必ずしもわかりやすいものではない。というのは、「他者とともにあること」次元の他者と「他者のためにあること」次元の他者とを一括して他人としたうえで、それにたいするものとして第三者である他人が立てられているからである。「他者とともにあること」と「他者のためにあること」を区別したうえで、第三者との関係を明らかにできないだろうか。斎藤は、レヴィナスに関連して次のように述べている。「私が直面する複数の他者たちに対する私の責任をよりよく果たすために、『正義』という第三の審級を要請し、その実行機関として『国家』という力の主体を設立した」(斎藤 2000:165)、と。斎藤は、この点を説明するために、私と他者との関わりのふたつの次元をもちだす。「互いに世界内に存在する存在者であるかぎりでの私と他人たちからなる『われわれ』の次元と、私が直面する他者の『顔』を介して世界の外部と接してしまう『他なるもの』の次元である。『私』がその存立の基盤をこの後者の次元――「倫理」の次元――にもっているとすれば、『国家』は前者――『われわれ』――の内にその存立の基盤をもっている」(167頁)。斎藤のこの理解は、バウマンにとって重要であったはずの、「他者とともにあること」と「他者のためにあること」の区別を踏まえることを可能にしている点で、バウマンによる説明よりもずっと説得的であるといえよう。第三者は、「他者のためにあること」にではなく、「他者とともにあること」に対応しているのである。「他者のためにあること」は、あくまでも、私の存立の基盤なのである。 第三者をわれわれが道徳的出会い(moral encounter)において会った他者とは非常に異なったものにするのは、道徳的他者の近接性とは鋭く異なる、その第三者の距離である。第三者の有利な視点からのみ、「道徳的パーティ」は集団に凝結する。同時に、自我たちは比較可能になる。そして、第三者は審判者の位置に置かれる。道徳的自我の非合理的な推進力にたいして、第三者は今や利害と利点との「客観的基準」を設定するだろう。道徳的関係の非対称性はほとんどなくなり、パートナーたちは今や平等で、交換可能で、置き換え可能となる。彼らは、彼らがすることを説明しなければならないし、議論に直面し、自分自身のではない基準との関連で自らを正当化しなければならない。その場所は、規範、法、倫理的規則、正義の法廷のために開けておかなければならない。このように、第三者の贈り物である客観性は、道徳的パートナーたちを動かした愛情(affection)にたいして致命的な、少なくとも潜在的には末期的な一撃を加えたことになる。他者はその個性を喪失し、今やカテゴリー的ステレオタイプに分解された。かくして、私の、ために存在すること(my being-fbr)は、自己保存の課題と集団の保持への義務とに分けられたのである(Bauman l993:114-5)。バウマンは、この、道徳的自我から社会的自我への途上で、すなわち、ために存在すること(being-for)から「単に」ともに存在することへの途上で生じる事態を、屈服ということばで表現している(p.14)。 他者が多数(the Many)に分解するとき、分解する最初のものは顔(the Face)である。他者(たち)は今や顔がなくなる(faceless)。彼らは人格(ペルソナ)であって、私は今や顔ではなく仮面をあつかっている。顔と人格・仮面は、すでに呈示された用語で言えば、それぞれ、道徳的人格と社会的人格の区別に対応するといえよう。今や、私が誰をあつかっているのか、私の反応はどうあるべきかを規定するのは、仮面である。仮面は顔と同じほどにはあてにできない。仮面は顕わにすると同じほど、隠しもする。道徳的動因の、イノセントで、希望に満ちた確信(confidence)は、不確実性(uncertainty)の、けっして抑えられることのない不安(anxiety)にとってかわられた。第三者の到来とともに、欺隔が出現した。私はこの不安とともに生きなければならない。好むと好まざるとにかかわらず、私は仮面を信頼しなければならない。他に道はない。信頼とは、不安を処理してしまう方法ではなく、不安とともに生きる方法である(p.115)。 ここまで、バウマンの道徳論の基礎について、なるべく正確な理解をするよう努めてきた。たしかに、バウマン道徳論の基礎にはレヴィナスがある。そこにあるのはレヴィナスそのものだと言ってもいいかもしれない。とはいえ、レヴィナス思想それ自体がけっしてわかりやすいものとはいえない。じつにさまざまなレヴィナス理解がある。たとえば、高橋哲哉のそれをとりあげてみよう。わが国の戦争責任の問題について積極的に発言している高橋は、「レヴィナスの倫理は、つきつめれば、他者の死、他者の傷、他者の苦しみに『無関心ではありえないこと』だ」ととらえ、「こんな『恥ずべき』〈戦争の記憶〉についてはちゃんと恥じるべきだ」。という主張の論拠としている(高橋 1999:221-2)。非常に道徳主義的なレヴィナス像の呈示である。私自身は、こうしたレヴィナス理解が生産的なものだとは思わない。バウマンのレヴィナス理解の方こそ、より生産的だと思われるのである。とはいえ、私が関心をもっているのは、バウマンの社会理論である。私がバウマンの道徳論に関心をもつのも、それが社会理論の枠内に位置づけられたものだからである。この辺の事情は、すでに、第三者論が登場したことからもうかがえるところである。とはいえ、この“道徳と政治のあいだ”を見極めるためには、もう少し検討が必要である。そのまえに、これまで述べてきたバウマン道徳論の意義を、少し別の角度から照射しておこう。 Levinas, E., 1961, Totalite et Infini, La Haye: M. Nijhoff.(=1989, 合田正人訳『全体性と無限』国文社.) ――――, 1974, Autrement qu’etre ou au-dela L’essence, La Haye: M. Nijhoff(=1999, 合田正人訳『存在の彼方へ』講談社.) ◆松田純, 2004, 「『Enhancement(増進的介入)』と『人間の弱さ』の価値」『続・独仏生命倫理研究資料集(上)』千葉大学. 次に,増進的志向が他者との関わり,社会に及ぼす影響について考えてみよう。ひとは人生の目標を達成しつつあるただなかでも「ひょっとしたら達成できないかもしれない」,「折角の成果も運命のいたずらで失うかもしれない」と感じることがある。「喜びのさなかにも苦しみの最初は始まる」25。人生一寸先は闇。人生に安全地帯などどこにもない。順風満帆と思われる人生にも突然の悲劇が訪れることも珍しくはない。「不条理な」運命にさらされている「か弱き存在」でありながら,人はこの弱さを認めず,さまざまな手段を講じて,これを克服しようとあくせくする。さまざまな保険を掛けて,「完全武装」する。Enhancementもその一つである。しかしこの「弱さ」がもつ価値を見逃してはならない。この「弱さ」こそがじつは「助け合い支えあう」という人間文化の本質的条件を生んだ。身体の「傷つきやすさ(vulnerability),壊れやすさ(fragility)」はわれわれの人生を味わい深く奥行きのあるものにしている源泉なのである。例えば病苦に苛まれる可能性は誰にでもある。もしも,「他人はさておき自分だけは絶対安全な地帯にいる」と思える状況を人々が「われ先に」とめざすようになったら,どうであろう? たまたま「運命の犠牲」となった者に共感する力は衰退していかざるをえない。それどころか運命の犠牲は犠牲者自身の自己責任とされてしまう。これは被害者を加害者として責め立てるのに似た道徳的転倒である。 人間の身体の「傷つきやすさ,壊れやすさ」こそが人間社会を根底から支えている。それを「困った時はお互い様」という打算ととるのは皮相であろう。それは本源的に非互酬的な関係である。「他者の他性は赤貧と弱さの全重量でもってわたしにかぶさってくる。だからこそ,他者はわたしに課せられている」26とレヴィナスは言う。ヨーナスは「責任」の原型を,ほって置かれたら生き延びていけない乳飲み子の全身による呼びかけ,それに応える親の世話のなかに見た27。それはgive and takeの「権利―義務関係」ではない。シモンヌ・ヴェイユの言う「権利に先立つ無条件の義務」である。ヴェイユはマタイ伝第25章を引きながら,こう言う。「だれひとりとして,ある人間があり余る食糧を所有しながら,いままさに飢えて死のうとしている者が戸口に現れたとき,なにも与えずにやりすごしてしまったとしたら,その人間を無実だとは考えないはずだ」28と。このような意味での無条件の義務と責任が人間社会を支えてきた。増進的介入によって「身体の傷つきやすさ,壊れやすさ」を乗り越えようとする試みは,このかけがえのない価値を失うことになりはしないか? 増進的操作への熱中は生(Life)を貧弱なものにし29,連帯社会を危うくするリスクを孕んでいる30。 26 レヴィナス『存在の彼方へ』合田正人訳,講談社,2002,第1章 ◆森上健作, 2006, 「社会性と暴力――ジグムント・バウマンのモダニティ論/リキッド・モダニティ論」《名古屋大学社会学論集》27:85-99. (pp88-90) バウマンは、そのようなモダニティの思考枠組みのうちで展開されてきた社会学の議論への挑戦/挑発として、レヴィナス的な社会性を社会学のうちに導きいれたとみることができるのではないだろうか。バウマンはレヴィナス的な社会性を引き合いにだし、それによって社会学的な道徳理論の書き換えと、社会学的な他者観の転換を図るのである。バウマンはその社会性のことを「他者のためにあること(being for the Other)(2)」というあり方として表現している。そのあり方とは人間にとっての原初的な条件であり、その内実とは、〈私〉が顔としての〈他者〉に対して非対称的で無条件の責任をつねにすでに負うてしまっているというあり方であり、近さとしての関係であるという(Levinas, 1974=1999, 1995=2001, MH:chap.7)。なぜ〈私〉が〈他者〉に対してそのような責任を負うているのかというと、〈他者〉が無力な存在として〈私〉に曝されているためにほかならない、とレヴィナスはいう。その〈他者〉が平静を装おうとも、有力な人物であろうとも、有限で死ぬべき存在であるという点において〈私〉にその無力さを曝しているのである。そしてその無力さは〈他者〉の顔においてあらわれる。「装われた平静を顔のまったき弱さが突き破り、それと同時に、『死ぬということ』が顔のうちに出来する。・・・頼みの綱もなく、安全性もなく、弱さと『死ぬということ』ゆえに私の眼差しに曝されたこの他者の顔は、私に『汝、殺すなかれ』と命令する顔でもある」(Levinas [1995=2001:109])。このとき、〈私〉は〈他者〉の顔を、何者かとして(たとえば、店員として、上司として、「ガイジン(外人)」として「浮浪者」として、等)のイメージを通して見るのではなくて、死すべき存在という有限性と無力さをたたえたものとして迎接するのだが、そのようなあり方が近さとしての関係なのである。 この近さとしての社会性についてまずいえることは、レヴィナスの議論における〈他者〉は、コントロール可能な客体からはかけ離れたあり方をしているという点である。それというのも、〈私〉は〈他者〉に対する無条件の責任を決断や判断に先だってつねにすでに負うているからである。そのような場合には〈他者〉は、コントロール可能な対象ではなくて、むしろ〈私〉に容易ならざる応答を迫るものとしてある。 また、レヴィナスの議論における〈他者〉は、合理性や効率性や確実性という観点からは汲みつくされないあり方をしている。たとえば、〈他者〉に対する〈私〉の責任が無条件であるために、〈私〉が〈他者〉のためにどのようなことをどれだけ果たせばいいのかが不透明である。〈私〉は〈他者〉の自由や意志を尊重し、〈他者〉が〈私〉に求めることのほかには何もしない、という態度には「無関心」の陥穽が待ちかまえている。とはいえ、〈私〉は〈他者〉にとって必要なことをすべて心得ており、〈他者〉がそれを求めなくとも〈私〉はそれを果たすべきである、という態度にも「抑圧」の陥穽が待ちかまえている。それでも、それら陥穽のあいだをジグザグを縫ってすすむほかには、〈他者〉への責任に応答する方途はありえない(Bauman, 1998a:18)。こうしたあり方は、どのようなことを果たすべきかを定める明確なコードが取り決められているような契約的な関係とはまるで異なっている。さらには、〈他者〉に対する〈私〉の責任は、相互性を欠いた非対称的なものとしてあるため、「互恵的な利益を計算することとはなんら共通するものをもたない」(MH:183)のである。こうした点で、社会性は、両義性や計算不可能性や不確実性によって満たされているといえる。それゆえにこそ、社会性は、合理性によって説明することも還元することもできない、道徳性を帯びた関係として現れてくるのだとバウマンは説明するのだろう。 結論へとすすもう。バウマンはレヴィナス的な社会性をもちだすことによって、世界や人間をコントロール可能な対象、合理性や効率性や確実性に還元可能な対象として客体化するようなモダニティの発想を相対化し、そしてその発想とは別の思考のあり方や、関係性のあり方を示しているのである。あるいは、バウマンは、モダニティの発想によっては見定めることのできなかったような、より根源的な水準にある人と人との関係性へと掘りすすもうとしていた、という言い方もできよう。 このように、ある意味では神秘的で目的論的でもあるようなレヴィナス的な社会性の議論をあえて導きいれることによって、バウマンはモダニティの思考枠組みからの転回を企てているのである。科学ないしは学問としての社会学が、そのような社会性の議論を扱うことにどこまで意義を認めるかは意見の分かれるところであろう。レヴィナス的な社会性のような関係性は、経験的に論証しづらいものであり、またいくらか神秘的・宗教的な様相を帯びるものでもあり、科学にはいらだちを覚えさせるように思われるからである。実際、ある論者はバウマンの道徳理論に一定の評価を与えつつも、バウマンが「論証することも実証することも不可能な審美的次元に停滞して社会科学の俎上に載ってこない憾みがある」(三上, 2003:20)という点や、「レヴィナスに依拠した独自の神秘主義的他者論に逃げ込んでしまった」(三上, 2003:70)という点を批判している。またある論者は、バウマンが、相互性や互恵性を欠いたレヴィナス的な社会性を導きいれることによって、関係の互恵性によってこそ社会規範が立ち現れてくるとする社会学的な議論と相容れなくなってしまった、と批判する(Junge, 2001)。とはいえ、ホロコースト論で明らかにされたような、モダニティの志向性がはらんでいる暴力性について自覚的であろうとするならば、少なくとも、バウマンの挑戦/挑発は無視できるものではないし、おおいに評価できるものであるといえるのではないだろうか。 (p98) (2) ちなみにバウマンは、レヴィナス的な社会性に対して、MH(『モダニティとホロコースト(Modernity and the Holocaust)』)では「他者のためにあること」という表現ではなくて、「他者たちとともにあること(being with others)」という表現を与えていた。「他者のためにあること」という表現はMHの4年後に出版された『ポストモダンの倫理(Postmodern Ethics)』(1993)に見いだすことができる。この著作で、社会性は「他者たちとともにあること」とは明確に区別された「他者のためにあること」として表現されることになる。後者の語法の方がレヴィナス的な社会性のニュアンスに近いように思われるので、ここではMHでの語法ではなく『ポストモダンの倫理』での語法に従って、「他者のためにあること」にしておくこととする。 Levinas, Emmanuel, 1974, Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. (=1999, 合田正人訳『存在の彼方へ』講談社.) ----------, 2000b, Alterite et Transcendance, Montpellier: Fata Morgana.. (=2001,合田正人・松丸和弘訳『他性と超越』法政大学出版局.) ◆立岩真也, 2006, 「犠牲について・1」(良い死・13)『Webちくま』. しかし、生き死ににかかわる臓器の所属について、もとの帰属主が優先されているのは確かだ。だから、そこには「公共材」という規定とも、生命の尊重という原理とも別の論理が入っているはずである。それが何であるのかがこの本の中では示されていないということである。この本で(も)引かれているのは、ジョン・ハリスという人の論文に出てくる「サバイバル・ロッタリー(以下、生存籤)」★という話である。一人のうまく機能している臓器二つを取り出して、二人のうまくいってない人に持っていけば二人生きられてよいではないか、そして公平を期すためにその一人は籤で決めよう。そんな話である。これがいけないと言えるか。そう簡単ではなく、ハリスもその幾つかの反論を退けている。本で紹介されているように、結局ハリスも籤を否定するのだが、その理由はたいした理由ではないので、あまり考えなくてよい。二人と一人の比較という功利主義が気になるだろうか。ならば、一人と一人で考えてもよい。 こんな難題がここには現れている。しかしそのことを言う人は少ない。小泉によればその少ない人たちの中に、レヴィナス★がいるという。その人がこの本ではおもにとりあげられている。その人は、ハリスのような種類の学者とはずいぶんと異なったところからものを考え書いた人なのだろう。なにかわがこととしてこの事態を感受してしまっているようなのだ。『存在の彼方へ』(1974年)が取り上げられる。たとえば 「責任の存在内への参入に関しては、私たちはまったく選択権を有していない。このように選択の余地を与えないこと、それを暴力とみなすことができるのは、不当な、あるいはまた性急で不躾な反省のみである。なぜなら、ここに言う選択の余地なしは自由、非自由の対連関に先だっているからだ。」(訳書pp.270-271、『病いの哲学』ではpp.127-128) このように問題を真に受けることを、『病いの哲学』の著者は真に受けてよいこと、真に受けるべきことと見ているだろう。そしてここからそのまま進めば、責任を負った者はそれを果たさねばならない、となる。もちろん、具体的にその義務がどのような義務としてあるのか、それは法的な義務なのか等の問題はある。それにしても、レヴィナスが言っている(らしい)のは、そうした義務を人は負うことになったのだということだ。その人は、そのことを身に迫って感じている感じがする。 そう思えるかと私が問われるなら、そんなことはない。新たな事態の出現に震撼とさせられたりはしない。私に限らず、少なからぬ人は、たしかに「他者」の「顔」がそこにあったら、顔が向けられたりしたら、他の物がそこにあるのに比べて、何か違って感じるものはあるだろうと思いはするものの、しかし、人に呼びかけられたりすると応答せざるをえない、とは必ずしも思わなかったりするのではないか。そんなことを思うと、この人は不思議な人であるようにも思える。 ただ、そんな問いはおかしな問いだとは思えない。心情として深刻に受け止めたりはできないとしても、とるにたらない問題だとして除去してしまうのはよくないと思える。そんなところからどう考えるか、と私の場合にはなる。『病いの哲学』の著者はもっと共感しているように思える。 *作成:植村要 追加者: UP:20080516 REV: 20081115 ◇哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学 ◇身体×世界:関連書籍 1990' ◇BOOK |