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『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』

Levinas, Emmanuel 1974 Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff.
=199007 合田 正人 訳,朝日出版社,480p.


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Levinas, Emmanuel 1974 Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199007 合田 正人 訳 『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』,朝日出版社,480p. ISBN-10: 4255900310 ISBN-13: 978-4255900315 [amazon][kinokuniya] ※ 0e/1

*文庫版:→199907 合田 正人 訳 『存在の彼方へ』,講談社学術文庫.

■内容(「BOOK」データベースより)
フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス。戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを極限まで考察したレヴィナスは、本書において他者への責任とは他者の身代りになることだと説く。『存在と時間』(ハイデガー)以降最も重大な著作とされ、独自の「他者の思想」の到達点を示す大著の文庫化成る。
著者紹介
【E・レヴィナス】
1906年リトアニア生まれのユダヤ人哲学者。フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化。ポワチェ、パリ・ナンテール、ソルボンヌ各大学の教授を歴任。邦訳書に『実存から実存者へ』(講談社学術文庫)『超越・外傷・神曲』『時間と他者』『実存の発見』『全体性と無限』など多数。1995年没。

訳者紹介
【合田正人】
1957年生まれ。一橋大学社会学部卒業。東京都立大学大学院博士課程中退。現在、東京都立大学人文学部助教授。著書に『レヴィナスの思想』、訳書多数がある。


■目次
1章 存在することと内存在性からの超脱
2章 志向性から感受することへ
3章 感受性と近さ
4章 身代わり
5章 主体性と無限
6章 外へ

■言及

◆鷲田清一, 20061129, 「〈顔〉、この所有しえないもの」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:221-248.
(pp231-232)
 この裸のまなざしの接触は、真正面からは起こらない。一方がまなざしを向けるやいなや他方が消え入るか、一方が他方を押しのけるというかたちでしか起こらない。ときに、双方が眼を伏せた瞬間に、その瞬間にのみ、〈顔〉のかりそめの深い接触が奇蹟のように起こるということも、たぶんある。
 他者の顔はわたしに切迫してくる。こちらに眼を向けよと、わたしのまなざしを、いや、わたしの〈顔〉を召喚しにくる。それほどの強度を〈顔〉の現われはもつ。〈顔〉は執拗なものだ。眼を伏せても追いかけてくる。
 けれども、〈顔〉はまた儚いものである。すぐに消え入るような脆いもの、傷つきやすいものである。E・レヴィナスの言葉を引けば、それはむしろ「羞じらい」としてある。
 顔は切迫してくる(simposer)が、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。これをレヴィナスは〈顔〉の撤退(retrait)と呼んだ。それは対象となることを拒む。〈顔〉は壊れやすいものだからだ。視線が、見返す眼が、〈顔〉を壊し、歪める。顔面として現われているときに〈顔〉は消失する。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいまい。とすれば、レヴィナスのいう「羞じらい」としての〈顔〉とは、消え入ることそのことで現われるものだということになるのだろうか。あるいは、消え入ることそのことの現われだということになるのだろうか。
 そのレヴィナスに、〈顔〉について書かれたある決定的な言葉がある。「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」(レヴィナス 一九八九)。〈顔〉は何かとして理解しうるものではほんらいないというのである。わたしが何かとして理解するようなものではそれはなく、むしろわたしではない何かが、その存在を押しつけてくる、あるいは切迫してくる、その〈外〉の経験そのものが〈顔〉だというのである。
 「隣人の顔は表象から逃れる。隣人の顔は現象性の欠損にほかならない。とはいえ、隣人の顔が現われないのは、隣人の顔があまりにも不意に、あまりにも乱暴に到来するからではない。ある意味では、現われることさえできないほど薄弱な非現象であるがゆえに、現象「以下」のものであるがゆえに、隣人の顔は、現われることなき現象性の欠損にほかならないのだ。」(レヴィナス 一九九〇)
 「〈顔〉は肖像のような形あるものではまったくありません。〈顔〉との連関は、絶対的に弱きものとの連関であると同時に、絶対的な仕方で外に曝されたものとの連関です。」(レヴィナス 一九九三)
 〈顔〉は、見える形、読まれる形という媒介なしに、それの彼方からみずからを突きつけてくる。が、その突きつけてくるものはあまりに薄弱なものである。いいかえると、それは現われすらしない。現われかけては撤退してしまうものである。それは、はすかいに、ちらちら、ほの見えるしかない。じっとまなざすことのできないものなのだ。


◆立岩 真也 20080905 『良い死』,筑摩書房

◆立岩 真也 2022/**/** 『人命の特別を言わず*言う』,筑摩書房


*作成:植村要 追加:
UP: 20080516 REV: 20081115,20090730,20210120
Levinas, Emmanuel  ◇哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
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