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『ボードレール 新編増補 ヴァルター・ベンヤミン著作集6』

Benjamin,Walter 1974 Charles Baudelaire.:ein Lyriker im Zeitalter des Hochkapitalismus, Frankfurt a: Rolf Tiedemann=19750930 川村二郎・野村修・円子修平訳, 晶文社,294p.

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last update: 20180225

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Benjamin,Walter  1974 Charles Baudelaire.:ein Lyriker im Zeitalter des Hochkapitalismus, Frankfurt a: Rolf Tiedemann, 216p.=19750930 川村二郎・野村修 編集解説, 『ボードレール 新編増補 ヴァルター・ベンヤミン著作集6』,晶文社,294p. ISBN-10:4794910142 ISBN-13:978-4794910141 \1835 [amazon][kinokuniya]

■目次

パリ――十九世紀の首都
ボードレールにおける第二帝政期のパリ
ボードレールのいくつかのモティーフについて
セントラル・パーク
翻訳者の使命

解説

■引用

パリ――十九世紀の首都(1935)

水は青く花は紅
夕暮れの景は艶美を極めたり
貴顕の佳人ら逍遥すれば
そのしりえに少婦ら集いて歩を運ぶ

ユワン・ルン・シエ《法蘭西の首府巴里》(一八九七年)

T フーリエあるいは路地

美シイ館ノ円柱ハ コレ見ヨガシニ
クサグサノ品物ヲ柱廊ニツラネ
四方カラ 好奇ノ眼ニ告ゲル
工業ハ 今ヤ芸術ト肩ヲ並ベタト

新パリ風景(一八二八年)

 パリの路地(パサージュ)の大半は、一八二二年以後の一五年のあいだに成立した。
それらの拾頭の第一条件は紡績業の殷賑である。雑貨店、大量なストックを常備しておくこと
のできる商店が、出現しはじめる。それは、百貨店の前身である。

「大いなる商品の歌が、色彩にあふれたその詩節を、マドレーヌからサン・ドニ橋まで歌い続ける」と
バルザックが書いたのは、この時代だった。路地は高級商品売買の中心である。
芸術は商人の意のままに路地を星飾する。世人は路地の美しさをたたえて倦まない。
異国人を長らく魅きつけて放さないのも、この路地である。ある《パリ絵解き案内》には、こう書いてある
――「産業興隆に起因する奢侈の、最近の産物である路地とは、その計画に賛同した人々の商店街全体をつらぬいて、
大理石の鋪道が走り、上にはガラス屋根の張られた通路である。上から照明を受けるこの通路の両側には、
粋をきわめた商店が立ち並び、さながらこれはひとつの都市ではないか、いや、ひとつの小規模な世界では
ないかとさえ思われるほどである。」路地ははじめてガス燈のともされた場所である。

 路地成立の第二条件は、建築に鉄が使用されはじめたということである。
ナポレオン一世の時代には、鉄を用いた建築は、古代ギリシャ風な意味における
建築技術の革新に寄与するものだと考えられた。建築理論家ペティヒャーは、
「新たなシステムの芸術形式に関して言えば、ヘラス風の様式原理が」
有力になるにちがいないと語っているが、これは一般的な確信をも言い表しているのである。
ナポレオン帝国は革命的テロリズムの様式であって、それにとって国家は自己目的なのだ。
市民階<011<級の支配手段としての国家の機能的性格を、ナポレオンが認めなかったのと同様に、
彼の時代の建築家たちは、ポンペイ風な記念柱の梁を作り、後に最初の停車場が別荘の形で造られたように、
邸宅に似せて工場を作った。「構成は潜在意識の役割を占めている」。それにもかかわらず、
革命戦争から生まれた技師の概念は、不動のものとなりはじめ、設計家と室内装飾家、高等工科学校(エコル・ポリテクニーク)と
美術学校(エコル・デ・ボザール)との戦いがはじまる。

 建築史に人工の建築材料が登場したのは、鉄をもって嚆矢とする。
鉄は、世紀を通じて加速度的にテンポを早めて行く、ひとつの発展の波に乗る。
二十年代の終わりから試作されていた機関車が、鉄の起動の上しか走れないということが明らかになったとき、
この発展には決定的な動因が与えられる。鉄道は組み立て可能な鉄材の最初のものであり、鉄桁の前身である。
住宅建築に鉄を用いることは廃れ、もっぱら路地や、博覧会場や、停車場――つまり
一時的な使途のための建築に、鉄材が利用される。同時に、ガラスの建築的な応用範囲も広がる。

だが建築材料としてガラスを大量に使用するための社会的前提が現れるのは、ようやく百年後のことである。
シェールバルトの《ガラス建築》(一九一四年)においえさえ、ガラスの大量使用はユートピアとの関連において考えられている。

  スベテノ時代ハ続クモノヲ夢ミル
               ミシュレ《未来!未来!》(Benjamin 1974=1975:10-12)


V グランヴィルあるいは万国博覧会

 万国博覧会は商品という物神(フェティッシュ)の霊場である。
「ヨーロッパは商品を見るために移転した」と、一八五五年にテーヌは言っている。
万国博覧会のはじまる前には、国民産業博覧会が幾度か催されているが、その第一回は、
一七九八年にシャン・ド・マルスでひらかれた。それは「労働者階級をたのしませよう」
という意図にもとづき、「彼らの解放の祝祭となる」。労働者が顧客の筆頭である。
娯楽産業の枠はまだできていなかった。民衆の祝祭がその枠を設定する。
シャプタルの工業についての講演が、この博覧会の幕を切って落す。
――世界の工業化を企図するサン・シモン主義者は、万国博覧会という理念を取り上げる。
この新たな領域における最初の権威シュバリエはアンファンタンの門弟で、サン・シモン主義者の
機関紙《グローブ》の発行者である。サン・シモン主義者は、世界経済の
発展を予見してはいたが、階級闘争を予測することはできなかった。
世紀半ばごろ、商工業の企画の一翼を担いながら、無産階級の問題に関しては、
彼らは手をこまねいているよりほかなかった。万国博覧会は商品の交換価値を神聖化する。
それが設けた枠の中では、商品の使用価値は後景に退いてしまう。
博覧会がくりひろげる目にもあやな幻像に取り囲まれて、人間はただ気散じをしか望まない。
娯楽産業は、商品の高さにまで人間を引き上げることによって、気散じをいよいよ容易にする。
自己からの、また他人からの疎外を享受しながら、人間は自ら娯楽産業の術中に陥る。

――商品を玉座に就かせ、そのまわりに気散じの光を輝かそうというのが、グランヴィルの芸術の
ひそかな主題である。<018<この主題は、彼の芸術がユートピア的な要素とシニックな要素とのあいだで
分裂しているという事実に照応する。生命のない対象の描出における小才の利いたその方法は、
マルクスが商品の〈神学的渋面〉と名づけたものと符合する。
この小才の閃きは、〈極上精選〉的なものの中にまざまざと湛えられているのだが、
〈極上精選〉とはそもそも、この奢侈産業の時代に成立した商品の表示である。
グランヴィルの筆の下で全自然は特製品と化する。彼はそれを、広告――これも当時生まれた
ことばである――が商品を宣伝するのと同じ精神で、展観に供する。彼は発狂して死んだ。

   モード 死の旦那! 死の旦那!
レオパルディ《モードと死の対話》

 万国博覧会は商品の宇宙を築き上げる。グランヴィルの幻想は商品的性格を宇宙に転移する。
つまり宇宙を近代化するのである。
土星の輪は鋳鉄の露台となり、そこで土星人が夕べ憩いの一時をすごす。
文学の中でのこの版画のユートピアに対応するものは、フーリエ門下の自然科学者トゥスナルの書物である。
――モードは、物神としての商品を礼拝すべき方式を定める。
そのモードの要求を、グランヴィルは、宇宙に広げるかと思えば、ごくありふれた日用品にも適用する。
極限までモードを
追求することによって、彼はモードの本性を暴露する。
それは有機的な存在と抗争しながら、生気に満ちた肉体を無機の世界に媒介し、生けるものに死体の掟を認めるのである。
無機物の性的魅力のとりことなる物神崇拝(フェテイエシスム)が、モードの自律神経である。商品への帰依が、
この自律神経を思いのままにあやつる。(Benjamin 1974=1975:17-20)


Y オスマンあるいはバリケード

 オスマンの都市計画の理想は、長く連続する道路によって、遠近法的な見通しを獲ることであった。
このことは十九世紀にくり返し現れる、技術上の要求を芸術的な
目標の設定によって醇化しようとする傾向に符合する。
ブルジョワジーの世俗的かつ宗教的な制覇を実現する諸機関は、街筋の枠の中に嵌めこまれて、
神化されることになる筈だった。
街路は竣工の前に幕布で覆われて、記念碑のように除幕式を執行された。

――オスマンの活動は、ナポレオン三世の理想主義に呼応する。
ナポレオン三世は金融資本を庇護し、パリは投機の最盛期を迎える。
株式相場は、封建社会から尾を引いている思惑の形態を駆逐する。
遊民が身を委ねる空間の幻像に、相場師が没頭する時間の幻像が対応する。(Benjamin 1974=1975:27)

パリの人口はオスマンの企画によっていよいよ膨張し、家賃は高騰し、無産階級は郊外へ移転せざるを得ない。
パリは市区(カルチエ)はこのことによって固有の相貌を
失い、赤い囲壁が成立する。
オスマンは自ら〈芸術的破壊者〉と称した。自己の事業を彼は天命と信じていたし、
回想録の中でそのことを揚言してもいる。しかし彼は、パリの市民からこの都市を疎外したのだ。
市民たちはもはやパリを故郷と感ずることができない。
大都市の非人間的性格を、彼らは否応なしに思い知らされはじめる。

マクシム・ドゥ・カンの記念碑的な作品《パリ》の成立は、もっぱらこの意識に負うている。
〈オスマン化された人間のエレミア風な嘆き〉がこの作品に、旧約的な愁訴の
形式を与えている。
 オスマンの事業の真の目的は、内乱に対してこの都市を防衛することにあった。
木煉瓦による道路鋪装法を導入していた。それにもかかわらず、二月革命において、バリケードは
一応の役割をはたした。エンゲルスはバリケードによる戦闘の技術を立ち入って検討している。
オスマンが欲したのは、二重の方策によってこの戦闘を阻害することだった。
道路の幅はバリケードの構築を不可能とするものでなければならず、新しい道路は、
<028<兵営と労働者の居住区との最短距離に施設されなければならなかった。
この企てを世人は〈戦略的美化〉と呼んだ。
(Benjamin 1974=1975:28-29)

*太字はすべて作成者による。




*作成:松田 有紀子
UP:20081029 REV:
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