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『無頼と荊冠 竹中労行動論集』

竹中 労 19730910 三笠書房,381p.

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竹中 労 19730910 『無頼と荊冠 竹中労行動論集』,三笠書房,381p. ASIN: B01ICQFOQS 欠品 [amazon] o01, w/tt17, m04

■内容


■目次

1 まず隗よりはじめよ
2 無頼と荊冠――わが青春残侠伝
3 私闘の論理
4 言論暴力とは何か
5 まぼろしの祇園祭
6 ‘68冬のハプニング
7 流砂の音楽革命
8 ビートルズ=狂踏の原点
9 三島由紀夫の死
10 なにが粋かよ斎藤龍鳳
11 大韓民国の被爆者たち
12 メモ・沖縄(予告編)
13 メモ・沖縄/1972
14 自由な言論とは何か
あとがきT
あとがきU


■引用

■2 無頼と荊冠――わが青春残侠伝(p21-67)[初出: 『週刊漫画アクション』1972年7月13日号〜8月10日号「青春遊泳ノート」改題]

「小学校の五年生のとき教師に反抗して新築した校舎に墨汁をぶつけ、ご真影(天皇の写真)にシリをむけて屁をぶっぱなし、旧制中学では軍事教官と争って日本刀をふりかざした中尉ドノに追っかけまわされ、同盟休校の首謀者となり、“海軍燃料廠”に動員されてからは「理由ある反抗」に明け暮れて、すさまじい体罰、拷問をうけ、敗戦の日には大船の海軍病院に瀕死の肉体を横たえていた。」(22)

「小学二年生のとき、崔君という同級生がいた、彼の手は奇形で指が六本あった――、[…]おいらは彼とよく遊んだ、“差別”という言葉は知らなかったが、朝鮮人だから馬鹿にしたりいじめたりするのは卑怯な悪いことだ、と幼い魂に理解していた。そう、おいらは親戚にあずけられて、孤独な幼年時代を送った。イトコたちが卵焼きや煮魚であったかい膳をかこんでいるとき、おいらは台所の板の間ですえた冷たい飯を食わされて育った、臨海学校にも林間学園にも行けず、服はいつでもほころびていて“ボロ竹”とあだ名をつけられた。
 朝鮮人崔君との友情はつまり一人ぼっち同士、ボロッカス仲間の連帯だった。二匹の棄て犬が傷をナメあうように、我らは連帯した。七歳のおいらにとって崔君は友だちであり、“日本人”でも“朝鮮人”でもありはしなかった。」(23)

「あれから三十数年、“汎アジア窮民革命”を唱道する赤心は、崔君との七歳の出会いからはじまるのである――。」(25)
● “汎アジア窮民革命”への伏線としての幼少時代の被差別経験、朝鮮人との出会い、学校教育への反抗

「小学五年生のとき、おいらは母親と別れて父親にひきとられることになった。」(25)

「おいらが親戚にあずけられていた間、また母親が牛込神楽坂でささやかな学習塾をいとなみながらおいらをやしなっていた間、父親てえものは“革命”に夢中になっておった。ガキなんぞ顧みる暇はなかった、血は争えないのである、おいら、いま父親の歩んだ道を踏襲しているんだわサ。
 ……さて、満州から夢破れて(夢想した楽土はそこになかった)戻ってきた父親は、品川区で小さな町工場をはじめたが、これも前歴がたたって、大東亜戦争開戦とほとんど同時に企業整備でつぶされ、山梨県甲府市にひきこもらなくてはならなかった。おいらは一人、東京に居残って従姉の経営するクリーニング店から旧制中学に通った。いまでいう問題児、おいらは反抗心のかたまりのようなどうしようもないガキで、ゆく末は刑務所のご厄介になるだろうと、親類中から思われていた。(そのとおりになった)」(25−26)

「小学校で起こした墨汁事件、ご真影事件というのは、新校舎落成のときに校長の馬鹿が「この校舎は、誰それさんのおかげで建ったのです」と、大金を寄付した有力者の名前だけ上げたのにムカッパラを立てて、職員室から大瓶入りの墨汁を持ち出してまっさらの壁にたたきつけたのだ。ご真影のほうは、奉安殿を掃除した後、段に腰かけて(つまり尻をむけて)焼イモを食っているのをみつかり、殴られたついでに屁を垂れたのだ。」(26)

「クリーニング屋の従姉はおいらが意外におとなしいもんで、ホッと胸をなでおろした。というのは、本ばかり読んでいたからだ、父親が置いていった何百冊かの書物を、おいら学校からまっすぐ帰ってむさぼり読んだ。日本文学全集、世界文学全集、大杉栄の翻訳による『種の起源』『昆虫記』『相互扶助論』、岡本一平全集、ニイチェの『芸術における権力への意志』等々、わけもわからずに読みふけった。乱読のむくいは仮性近視である、長期にわたって読書を禁じられる始末となり、それで木刀をふり山に登り、“文武両道”のルポライターとして後に立つ筋力をたくわえたのだ」(27)
●英太郎の残した本

「再び朝鮮人との出会い――昭和十九年の早春、おいらは神奈川県大船の海軍燃料廠に学徒動員されて、特攻戦闘機「秋水」(略号マル呂)の燃料である過酸化水素の濃縮液をつくっていた。フラスコでオキシフルを煮詰め、九十五プロの極度濃度にして過マンガン酸加里と急激に化合させるのである、その爆発で「秋水」はいっきに成層圏に翔び、敵機に体当たりするのだ。それは、いうなら人間を乗せたロケット弾というべき特攻兵器だった。濃縮オキシフルはほんの一滴を木片にたらしただけで、青白い炎を上げて燃えた。その蒸気で桑の樹皮でつくった作業服はボロボロになり、髪の毛は脱色して赤茶けた。」(27−28)

「だが、半島人――もしくは鮮人と呼ばれる労働者たちはさらに過酷、非人間的な地獄にいた。彼らは“ろう分解”と称する作業に従事していた、およそ二十キロのパラフィン板を肩に担いで梯子をのぼり、溶解炉に投げ入れる。半身を高熱にさらすので顔は片側が火ぶくれて、作業服も片みごろだけ変色して、何ともむざんな姿であった。食事も日本人労働者と差別されて、豆カスの煮たのと湯だけという、馬にも落とる待遇だった、日本人は一日に五本のタバコを配給されていたが、彼らは三本だった。そのタバコを十本、二十本とためて、おいらたち学生寮にやってきた、メシと交換してくれというのだ。
 彼らの日本語は下手クソであった、聞いてみると、故郷の田畑ではたらいていたり家にいるところへ、徴用の赤紙を役場の労務担当とオマワリが持ってきて、有無をいわさずにその場から内地へ連行されたというのであった。おいらは彼らの寮をたずねてみた。暗い三段ベッドに寝そべり、朝鮮語で話している労働者の中には、子どもの二、三人もありそうなオッサンがかなりいた、のぞきこむと彼らは黙りこんでしまうのであった、戦火の日々、窮民の地獄を見た。」(28)
●戦時中の強制連行された朝鮮人労働者を「窮民」と呼ぶ視線

「そのような悲惨を見たことによって、“反戦”“平和”などという婦女子の論理には、おいら陥没しなかった。むしろ逆に、いつの日かこの手に銃をとって復讐してやるという、凶々しく血ぶるいする情念をそのとき抱いた、いまも抱きつづけている。」(29)
●反戦・平和=婦女子の論理 ⇔ 銃=暴力による復讐の論理 → 竹中の暴力の位置を分析する必要性

「戦争は終った――、敗戦の八月、おいら大船の海軍病院からタンカにくくりつけられて甲府の父親のもとに帰った、病名大腸カタル、真相は教師の制裁による全身打撲、いまでも旧制中学の同級生たちの語り草になっている、おいら三日にいっぺん殴られていた。
 昭和十九年二月――紀元節、御真影の礼拝をエスケープした少年工員十数名が、海軍ポリスに半殺しのバッタ(海軍精神注入棒)を喰らった。おいらその夜「ほんものならばともかく写真の紙キレではないか!」と口走って、同室の寮生に密告されたのだ、「恐れ多くも大元帥陛下を誹謗したてまつった」故を以て、言語に絶する暴行、拷問を加えられたのだ。右瞼裏に失明寸前の裂傷を負い、虫の息で真冬の廊下に縛り上げられて一晩中放置され、生死の境をさまよった。」(30)

「大船海軍病院で敗戦を迎えたのは、工場から生ゴムとベンゾールを盗み出しゴム糊を作って、近所の農家でニギリメシと交換したのが発覚し、海軍ポリスと教師に袋ダタキにされたのが原因だった。じつに食意地が張っておった、三日目ようやく体力を回復したおいらは病室を夜中にぬけ出して、裏庭の菜園からまだ親指ほどの太さしかないサツマ芋を掘り出して、生でむさぼり食い、大腸カタルとなったのである。」(30−31)
●大船海軍での暴行・拷問、近所農家でのサツマ芋食す、大腸カタル→敗戦→甲府(父親)へ

「学校に帰ると直ちにおいら全学ストライキを指導して、教師どもを追放した。密告野郎は糞の出るほどブン殴ってくれた、とうぜんおのれも退学となったが、東京外事専門学校(現東京外語大)露語科を受験してパス、孤影昂然と郷関を出でて花のお江戸へ……。
親類中の鼻ツマミだったおいら、どこでも下宿させてくれなかった、やむを得ず東京九段の学生会館にワラジをぬいで九号室の住人となったが、もと近衛連隊の兵舎だったこの建物は、ほうぼうに焼夷弾の穴ボコがあいて、春の嵐の桜の花が散りこめば雨もざんざんと漏ってくる。昭和二十一年四月も末っ方、お江戸の風は冷たかった。」(31)
●敗戦後甲府での全学ストライキ→東京外事専門学校、東京九段学生会館入寮

「父親、竹中英太郎について述べる――、昭和初期のいわゆるエロ・グロ・ナンセンス時代に、江戸川乱歩、夢野久作、甲賀三郎、木下宇陀児等々の挿絵を書き、大衆画壇の寵児となった英太郎は九州博多の産である。先祖は軍師・竹中半兵衛の血脈をひき、筑前の黒田候の永大食客(つまり居候だな)としての待遇を受けておった、れっきとした士族様であった。戦争中に天寿を全うして死んだおいらの祖母ちゃんの記憶によれば……、福岡市上名嶋町、石炭王伊藤伝右衛門の“赤銅御殿”の隣りにわが一族の邸はあり、門から玄関まで一町もある広大な地所を占有しておったが明治のご一新で没落しちまった。」(33)
●父・英太郎→九州博多の生まれ。先祖は士族。

「やがて熊本市の縁者に、母子してひきとられることになり、父親は警察署の給仕を勤めながら済々黌の夜間部に通う。そのころ、九州の一円に野火のようにひろがりつつあった部落解放闘争“水平社”の運動に触れて、父は社会主義者としての青春を歩むことになった。大正五年六月、博多毎日新聞のうち壊しを皮切りに、米騒動(同七年)へ連鎖していく大衆叛乱の先頭にはどの地域でも“人外”とさげすまれた部落民が立っていた。父親の青春を捉えた革命の衝動はそれら暴動の扇動者、指揮者として逮捕された人びとの獄中における毅然とした態度であった。拷問にも誘惑にも、肉親を使っての泣き落としにも屈せず、信念をつらぬき通す主義者の生きざまに、英太郎は激しく感動した。
 大正十一年三月三日、全国水平社の結成大会が京都で開かれ[…]年のことである。父親は自分が勤めている警察の前で留置人釈放要求集会をひらき、アジ演説をぶち上げるという造反をやってのけたのだ、その場で検挙されてむろんクビになった。」(34−35)
「主義者としての父親の青春は、“熔鉱炉の火は消えたり”の八幡製鉄争議、熊本水平社の創立、筑豊の炭鉱夫労働者同盟へと、窮民の奈落へ潜行していく。
 そのころアナとボルの対立の中で、父親はアナキズムの側に立っていた、被差別部落民、坑夫の自然発生的暴動、蜂起を解禁し、テロ暗殺の直接行動によって一挙に国家権力を廃絶することを夢見て、父親はクビに懸賞金のかかった地下活動をつづけた。屠殺人夫との共同生活、炭坑のタコ部屋暮らし等、その酷烈な青春の生きざまにくらべればおいらの残侠伝などヌルマ湯の屁のごとく安穏無事だったといわねばならんのだ。」(35)
「おいらの魂の裡なる反権力、一匹狼の“狂疾”はまさしく父子相伝のものであり、全世界の窮民、流民への熱い思いもまた父親から受け継いだ、戦争直前に筆を折るとき、ただ英太郎はこういっている。」(36)
●父・英太郎史: 部落解放闘争、米騒動、八幡製鉄所争議、炭鉱労働運動

「[昭和二十一年]五月十九日の食糧メーデーに参加した、「今こそ街頭から革命は始まった!」という鈴木東民(当時読売新聞編集局長)の演説に痺れた、三十五万の大群衆が火竜のように赤旗をひるがえし、首相官邸へと怒涛のデモをかける光景に痺れた、神田の共立講堂で前進座『レ・ミゼラブル』(いま思えばじつに下らない芝居だが)を観て痺れた、来る日も来る日も痺れっぱなしであった。痺れてるうちにゼニもコメもなくなった、(米は学生会館にカンパしたのだ)おいらは北海道の親戚を頼って上野駅から放浪の旅に出発した。列車待ちの地下道には、浮浪児の群れがあふれていた。ガード下はパンパンガールの花盛りだった。やがておのれが彼ら敗戦非人の地獄に迎え入れられて、寝食を共にすることになろうとは、おいらそのときは思わなかった。ああ何という悲惨な情景であろうかと他人事のように眺めておった……。」(38−39)
●昭和21年5月食糧メーデー参加、その後、北海道へと放浪の旅へ。
●「浮浪児」や「パンパンガール」との距離感、他人事の距離。

「昭和二十二年、二・一ストの冬、おいら東京駅の地下道に寝泊まりしていた。そこに「在外同胞救出学生同盟」のセツルメントがあり、十五、六人の男女学生が常時働いていた。
 ……四か月ほど北海道を放浪して九州へ、敗戦直後の日本列島を、闇米列車の屋根に上ったり野宿をしたり、一日五十キロも歩いたり(脚には人並みはずれて自信がった)北から南へ流れ流れて二十一年の暮、甲府に舞いもどってきたときは、さすがの父親も目を見はるほど、たくましい若者においら成長していた。
 あのすさまじい敗戦の焦土で、おいらは餓えを知らなかった。北海道では蕎麦と馬鈴薯と魚とを腹いっぱい喰っていた。九州でも熊本の山の中で白米のメシをたらふくつめこみ、球磨焼酎の味も覚えた。若い健康な胃袋は太陽と大地からエネルギーを吸収して溌剌たる血肉と化した。むろん遊んでいたのじゃない。もっぱら百姓の手伝いをしていた。七か月の放浪の間、書物というものをほとんど読まなかった。[…]さて……、“民衆革命”の嵐が吹き荒れる巷においら帰ってきた」(39)
●北海道、九州、熊本への放浪と百姓手伝い。→昭和21年暮、甲府に到着。敗戦の焦土の経験。闇米列車、野宿。→昭和22年2月ごろ、東京駅地下道での生活開始。在外同胞救出学生同盟へ参加。

「おいら青年共産同盟の活動家となり戦後学生運動の一翼を担うこととなる。いわゆる「在外同胞救出学生同盟」赤化事件にかかわった発端は、ごく単純な動機からだった。
 おいらの母方の祖父と叔父二人は朝鮮、一人はカラフトにいてまだ帰らなかった。そのころ築地本願寺にあった「全国引揚者連合会」においら消息を確かめに行き、古屋貞雄という後に山梨県選出代議士となったセンセイに会ったのである。センセイは人道主義的立場から「在外同胞救出学生同盟」に入りたまえとおいらに慫慂し、おいら二つ返事で納得した。まことにオッチョコチョイであり、人生むやみと意気に感じてしまう性癖であったからして、いつでも見る前に跳んでケガをする。
 もろともに哀れと思え引揚者
 みな宿無しとなりぬべきかな
 ……そんな狂歌が、当時の『旬刊ニュース』という出版物に載っていた。満洲や中国から着のみ着のままで引揚げてきたけれど、たよるべき親類縁者の家は焼けちまって行きどころがない。そういう人びとを東京駅地下道の「仮泊所」に収容して身のふりかたを決めていくのだ。それは荒廃した戦後の中でも、もっとも戦後的な仕事であったといえよう。
 地下道は暗かった、じめじめと湿った底冷えのするコンクリートの床にスノコを敷いて、人びとは死んだように折り重なっていた、ところかまわず撒き散らすDDTの粉塵と、すえた体臭とが混合して獣の檻のような臭気が立ちこめ、まさにこの世の光景ではなかった。
 ソ満国境から引揚げてきた女たちは髪の毛をざんぎりにして男装していた。ソ連兵の暴行から身を守るためだった。DDTの粉にまみれた坊主頭が、裸電球の陰惨な光の下で赤ん坊に乳をふくませたり、下着をぬいでシラミをとっている姿はさながら幽鬼のようであった。駅の構内の浴場に餓鬼どもに仮名と簡単な漢字を教えることを思い立って、おいらはKという女子学生と二人、東京都庁から古ぼけた黒板とチョークをもらってきて、“勉強会”をはじめたが、子どもたちはひもじがってばかりいて勉強には身が入らなかった」(40−41)
●引揚者支援、仮泊所での労働。「荒廃した戦後の中でも、もっとも戦後的な仕事であった」「この世の光景ではなかった」。

「夜も昼も駅頭に立ち引揚者を迎え、世話活動に献身する明け暮れの中で、おいら外語に通うのを断念した、一年ぐらい休学してもいいやと、例によっての行き当たりばったり、さりとて喰っていかなくてはならず、アルバイトはなかった。ついに“革命的窃盗団”を組織することになるのだが、それは後のお話。進駐軍の深夜労務、横浜埠頭のプー太郎、九段ミツリ・ホテルにあったWCA(婦人部隊)の通訳、暴力団の親分の出来の悪い娘たちの家庭教師etc、それだけでもゆうに単行本一冊分ほどの馬鹿なお話があるけど、本筋と関係ないので省略させていただく、とまれかくもあれ生きておった。
 敗戦でマヒした日本低国政府は引揚援護局という役所をつくったが、業務をサボタージュして学生の奉仕に肩がわりさせた。一円の報酬もなかった。東京都庁から“特配”される一か月九十枚の外食券だけが国家のおいたちに対するささやかな補償であった。その外食券を、おいらは引揚げの子どもに分けあたえた、てめえの胃袋はカラッポだった。」(41−42)
●進駐軍の深夜労務、横浜埠頭のプー太郎、九段ミツリ・ホテルにあったWCA(婦人部隊)の通訳、暴力団の親分の出来の悪い娘たちの家庭教師etcという仕事を渡り歩く。
●引揚援護局

「食堂に通う途中、おいらは不思議な光景を見るのだった、現在バスターミナルになっている東京駅降車口広場に、奇妙な風体の一団がたむろしていた。縞やコールテン等のくたびれた背広を一着に及んで、中折帽子をかぶったりよれよれのネクタイをしめたりしていた。西洋ルンペン的なその軍衆は、人待ち顔に立ったり坐ったりしていた。バイオリンやトランペットのケースを手に提げている。音楽家だということはわかる。だが何のためにそこに集まっているのかは、まったく不可解であった。
 ある朝、好奇心にかられて行ってみた。ハデな服装の女や復員服姿の若者が、人びとをいくつかに仕分けていく。
「おーい、トランペット二人!」
「ねえちょっと、ピアノ弾ける人いない?」
「現金は払えないよ。シガレット、缶詰、それでよかったら一口乗っとくれ……」
 そんな具合に即製のバンドが編成され、暫くすると、草色(陸軍)水色(海軍)のトラックが十台ほどやってきて、彼らを乗せて走り去るのである。トラックは進駐軍のベース・キャンプから乗りつけるのだ。つまり“青空楽隊マーケット”だった。敗戦で失職したバンドマンたちはそこに集まって占領軍の慰問に出かける。今をときめくナベプロの渡辺晋もここから稼ぎにいっていたのである。おいらは楽士の何人かと親しくなって、外食券とチョコレート、レイション(進駐軍携帯食糧)などを物物交換するようになった。中には地下道の「仮泊所」をのぞいて、チューイングガムを子どもらに置いていく初老の楽士もあった。彼らの出身は種種雑多であった。戦前のダンスホールで演奏していた者、軍楽隊の出身、ジンタのラッパ吹き、……えとせとら。
 朗らかで人なつこくて、一様にうらぶれた青空楽士たちとの交歓は、おいらの芸能ルポライターとしての原点となったのである。」(42−43)
●「青空楽隊マーケット」との出会い。種種雑多な楽士たちの群衆。
●芸能ルポライターとしての原点

●同盟委員長は千田夏光(43)

「“赤と黒”という雑誌、おいら大切に秘蔵しているが、その恋愛感触号に『日本風俗史に於ける接吻復興論』(高橋鉄)なる文章が載っていた、鐵先生は晩年、自分の名前を略字で書かれるのを非常に嫌っておられたがこの雑誌の署名は鉄である、そんあこたアどうでもよろしい、おいら高橋鐵という巨人に出会って目がさめちまった、まことに急速な目ざめだった、たちまち先生の接吻テーゼを実践に移したのである。」(45)
●高橋鐵

「青年共産同盟から日本共産党へ、「在外同胞救出学生同盟」を「引揚学生同盟」と改称して、さらに組織分裂をはかって「東京学生同盟」なる左翼運動体へ、おいら職業革命家への道をまっしぐらに突き進んだ。[…]おいらが“輝ける”日本共産党員となったのは、二十二年二月五日、二・一ストの直後だった。GHQ占領軍総司令部民生局長ホイットニー、全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長に対して“スト禁止命令”をつたえたのは、一月三十一日の夕刻、伊井は占領軍のジープでNHKに運ばれ、全国にゼネスト中止を放送することを強制された、午後九時五十分。
「命令では遺憾ながら止むを得ません、私は声を大にして日本の労働者、農民の万歳を叫ぶ、一歩後退二歩前進、我々は団結せねばならぬ」
 伊井の太い声は中途でかすれ、沈黙し、激しい慟哭になった。おいらその放送を、東京駅構内で国鉄の労働者たちとともに聞いたのである。心の内部で、何かがはじめ、消しとぶような衝撃においらは打ちのめされた。
 すでに党員であった千田夏光の家をたずね、おいらは入党を申し込んだ。日本の労働者階級に虚脱がはじまり、混迷と分裂がはじまったその時点で、おいら負け犬の復讐に賭ける決意をきめた。敵はアメリカだとおいらそのときハッキリと見すえていた、だが……。」47−48)
●在外同胞救出学生同盟→引揚学生同盟→東京学生同盟
●昭和22年2月「2・1スト」の中止、直後に共産党入党。「敵はアメリカだ」

「街頭へ出ろ!
ストライキでは駄目だ!
石を、××××××(ダイナマイト)を!
××(鳶口)を!
××××(武装蜂起)せよ!
市街に××××(火をつけ)ろ!
店を、××(工場)を占領せよ!

(倉田百三・赤い霊魂)

 党の中でおいら異端だった、街頭闘争を“窮民革命”を夢みていた。」(48−49)
●共産党の中で異端となる。「窮民革命」には理解えられず。

「東京駅の地下道から上野駅の地下道へ、まさに奈落の青春をおいらは彷徨した。一九四八年三月、おいらは「東京学生同盟」対内部長(事務局長)、「東京都引揚者連合会」有給専従文化部長の椅子を追われた。「在外同胞救出学生同盟」の運動は、いわゆる右翼的学生を中心として始まり、「引揚学生同盟」と改称するころからヘゲモニーはおいらたち左翼に移った。「東京学生同盟」とさらに看板を書きかえ、九段学生会館に本部を置いた一九四七年秋、指導部はほとんどが日本共産党員、青年共産同盟員でしめられた。
 そのころからおいらは右翼・左翼の対立感情というものを持たなかった、むしろ北一輝、内田良平、里見岸雄、杉山茂丸(夢野久作の父親)、石原莞爾らの右翼イデオローグに心情的共感を抱いていた。前にも述べたが、おいら「反戦」「平和」なんぞという婦女子の論理に組しない、戦後一貫してアメリカとソ連に決着をつけたいと思いつづけてきたのだ、いま一度戦争を(むろん人民戦争を)起こすのだ、富に奢り力を誇る大国という大国を窮民の地獄から逆まく武装叛乱で撃ち滅ぼしてやるのだ。
 立て、飢えたる者よ!“制度の悪夢”をその根底から破砕せよ、巷には千三百万人の失業者があふれていた。天皇陛下のおんために死地に駆り出され、病みほうけ無一物で帰還した兵士たち、特攻隊くずれ、差別と死に至る強制労働のもとに置かれてきた在日朝鮮人、ガード下、地下道等に蝟集する敗戦非人(浮浪者)、宿なし引揚者、よるべない戦争未亡人、戦災孤児――おびただしい“地の群れ”。
 窮民・流民はさらなる奈落へと淪落していく(もしくは這い上がろうとする)娼婦、やくざ、すり、かっ払い、闇商人、追はぎ、強盗、故買商人等々、革命の党はそれら餓え迫る窮民、さらには犯罪者群を同盟軍として、自然発生的な暴動を街頭に激発、連鎖し、全国規模の巨大なる反乱をみちびかねばならなかった、「米騒動」の再現から一挙に国家権力の廃絶へとおもむかねばならなかった、サン・タントワーヌ窮民街からフランス大革命が生起されたごとくに。
 二・一スト挫折以降の“労働運動”は、虚脱と混迷のときを迎えていた、一歩後退二歩前進ではなく、一歩、二歩、三歩と退却をつづけた――、ストライキでは駄目だ!おいら真剣に、深刻に思った、“輝ける”党は占領軍は解放軍であるとする錯誤を、二・一ストの敗北を契機としてかならずや揚棄するだろう、しこうして、反米の旗幟を鮮明にする、と。」(49−50)
「そいつは早合点だった、党は“解放軍規定”をあらためなかった、「戦後の日本は、連合軍から多大な援助を受けています、日本の労働者として感謝しています」(伊井弥四郎、二・一ストの中止声明)、“解放軍”とのランデブーは果てるともなくつづいた。パンパンガールたち、GIの腕にブラさがって街をいく女、女、女、毒々しい化粧をしたいかにも娼婦然としたのはまだよい、モンペ姿の戦争未亡人ふうや年若い少女を見ると狂暴に胸が疼いた。
 目に述べたソ連兵に輪姦された少女との出会いから、おいらは“革命の祖国”ソヴィエトにも敵意を抱いていた。ようするに、おいらは“民族派”であった。なるほど右翼に近似した地点に立っていたのだ。ただ天皇に対する憎しみだけが、おいらと右翼を分けた、戦時中の大元帥陛下をカサに着た私刑の記憶をどうして忘れることができよう!いつかきっと、菊の代紋にオトシマエをつける、それがおいらの革命であった。
 “窮民革命”――犯罪者とも連帯せよ、というおいらの奇矯な(?)論理を“同志”たちは当然のごとく黙殺した、細胞キャップのSは、おいらに「三文オペラ」という綽名をつけた、服装がボロなのと“泥棒革命”とをひっかけて皮肉ったのである。」(51)
●右翼/左翼の対立感情のなさ。右翼イデオローグへの共感。
●アメリカとソ連への武装叛乱による決着という思想。
●共産党への期待と、共産党による米軍=解放軍規定の継続。
●呼びかけの対象としてのルンペンプロレタリアート。地下道、闇市、敗戦の焦土の餓えた群衆たちという明確なイメージ。
●革命= 菊の代紋=天皇にオトシマエをつけること。そして「民族派」でもあった。
●「いま一度戦争を(むろん人民戦争を)起こすのだ」

「右翼学生たちの反撃がはじまり「引揚運動を赤化する共産党の陰謀」というビラがまかれて、委員長千田夏光とおいら、それに対外部長のTが槍玉に挙げられ、援護物資を横流しして党資金にあてたとデマられた。
 同盟の大会で、そのデマは打ち消されわれわれは支持された、だがもう結構だとおいら思った。若かった、潔癖であった、たとえヌレギヌでも汚名を着せられて、そこにとどまることは誇りが許さなかった。
 さらば学生運動、おいら党を離れ、(党籍はそのままだった)ひとり陋巷に歩み入った。上野駅地下道から山谷ドヤ街へ、外語は二年目の休学に入り、おいらもはや一個のルンペン・プロレタリアートであった。
 そのころ坂口安吾に痺れていた、安吾の大人のいわえらく、「天皇制だの、武士道だの、(民主主義だの――竹中註)、耐乏精神だのという諸々のニセの着物をはぎとり裸となり、ともかく人間となって出発する必要がある、さもなければ我々は昔日の欺瞞の国に逆戻りするばかりだ」」(52−53)
●細胞キャップとの対立、暴行事件→学生運動と党を離れる。東京駅地下道から上野駅地下道へ、そして山谷へ。外語大は二年目の休学。
●坂口安吾への傾倒

「上野地下道においら通いだしたのは、四七年4月からである、寛永寺の中に引揚者寮があり、同盟のセツルメントがあった関係上、そこに行くついでに地下道をのぞき、悪臭がふんぷんと立ちこめるコンクリートの床に折り重なるように寝ている浮浪者たちにまじって、彼らの生態を子細に観察した。ルンペン、浮浪者と等しなみにくくっていう、だが彼らは生きていくための個別の職業を持っていた。
 モク拾い、クジ拾い、切符売(プーパイ)、ジキパン(乞食娼婦)、靴磨き、進駐軍人夫等々である。吸殻(しけもく)を拾ってほぐし巻き直して売る、一箱十円の再生煙草である。道(とん)頓堀(ぼり)(ないかないか)と称するスピード籤の当たり券拾い、アメリカ兵お目当ての靴磨き(シューシャイン)、列車待ちの場所などをとって客に売りつける並び屋えとせとら、駅前の広場で仕切場が開業していた、浮浪者の代表的な“正業”はバタヤである、地下道に寝て朝は駅夫の掃除を手つだい、そのへんの紙屑を集めて仕切り場に売りに行く、すこし金が溜まるとバタ車を買って、ガード下に“駐車”してその中で寝る、袋を一つしか持っていないのはたいがい泥棒兼業である。
 泥棒になるのにも修行が要る。竿下(洗濯物を盗む)からはじまって、ゲソ荒らし(靴)車内(列車遺失物)ハイコロ(自転車泥棒)置き引き(荷物ドロ)ひったくり、板の間(銭湯で衣類を狙う)空巣……とレベルを上げていく、手先が器用ならチャリンコ(すり)、運動神経バツグンなら忍師(本格的窃盗・しのびこみ)、度胸がよければマーケット荒し、倉庫破り、娘師(土蔵破り)タタキ(強盗)と次第に大きなヤマを踏んでいくのだ。
 上野ガード下には、盗品をあつかう故買商人が店を張っていたが、当局の手入れがきびしくなり、浅草に移動していった。[…]やがておいらは、山谷のドヤ街で知己となった泥棒二人とトリオを組み、朝鮮人故買商の後援(?)で“革命的窃盗団”の血盟を結び、都内某所に隠匿さえていたモンサント(サッカリンである)、某々闇市の石鹸マーケット等を、掠奪の目標とした、すでに時効であると思うがくわしい記述をさしひかえる。
 とまれ青春三文オペラ、おいらは泥棒の親玉となり、一九四九年夏に故買の疑いで某署に検挙(証拠不十分で釈放)されるまで、軍資金かせぎに熱中した、下らんことを自慢するなというなかれ、泥棒は正義である、窮民革命第一段階として持てる奴輩からの掠取を開始したのは、おいらにとっての必然であった。」(53‐54)
●東京駅地下道から上野地下道へ(1947年4月〜)。寛永寺の引揚寮へ。
●「浮浪者」の生態観察。職業を持ち、働く人々として捉える視座。
●「革命的窃盗団」の結成
●「泥棒は正義である」、持てる人々からの掠取の正当化。おそらく、上野駅地下道の「浮浪者」の生業と自らとを重ねる中での論理。

「当時、上野ガード下の街娼は七百人、家持ちの高等(?)娼婦、地下道、映画街、アメ屋横丁、広小路に出没するズベ公淫売、暴力団や犯罪者と女房気どりで遊んで歩く職業情婦(野郎に金がなくなれば別れて他の男を探す)等を加えれば、約千人から千二、三百人の商売女が上野駅周辺にたむろしていたのである。さらにまた約百人の男娼がいた、女にもこれほどの美形はあるまいと思われるダンサー出身のタップのおしげ、和服で巻寿司を売りながら歩きまわるノリマキおしげ、そして巡察中の田中警視総監を袋ダタキにした元凶の一人であるエントツおしげ、“三しげ”と呼ばれた彼女(?)たちと、おいらとりわけ親密な友だちとなった。
 街娼や男娼たちの間で、おいらは友情を獲得していった。窮民の地獄へのパスポートをまず手に入れることができた。しかし革命・叛乱は、その地獄にのめりこめばこむほどに遠いものに思えてきた。」(57)
●上野ガード下での街娼と男娼との友情。窮民の地獄への入り口となる経験。しかし「革命」は遠く感じた。→窮民革命論との距離感?

「一九四七年の秋から四九年の夏まで、おいらはまさに最暗黒の東京を流浪して。淪落と飢餓の生活を共にした。山谷に半年、高橋、森下、新宿旭町、ドヤ街にそれぞれ二、三か月、御徒町駅のガード下、浅草本願寺、横浜の虱太郎水上仮泊所等々、泥棒を開業する前はもっぱらニコヨン(日雇い)だったが、あぶれる日がじつに多かった。浅草瓢箪池で知りあった故買商人に、キズ政一家の兄ィを紹介されて、暫くやきとり屋台を引いたこともある。パンパンのヒモである似顔絵書きのヤサ(アパート)に転がり込んで、痴話喧嘩の果ての刀傷沙汰に立会ったり、男娼のエントツおしげさんから“結婚”を迫られたり、「モミ」と称するインチキ賭博のサクラを勤めてみたり、おいら次第に無職無頼の遊民の世界へとはまりこんでいった。
 わが青春のピカレスク……、いまも心に消えやらぬ風景、シャボン市場アメヤ横丁の上野、御徒町、その雑踏、その臭気、その活力。ざっと七、八百軒のブラック・マーケットが広小路裏にひしめき、モツ焼き、中華そばの屋台、偽学生のピーナツ売り等々が三寸(露店)を並べていた。白衣の乞食がアコーデオンを鳴らし、宵闇迫れば池の端のオカマ小屋、後援の葵部落(掘立て)黒門町あたりの防空壕から、闇の女と男娼たちがあらわれて、国民軍と称するリンタクが客待ちの列をつくるのであった。
 ガード下のゴミ溜めで、駅の地下道を追われた浮浪者、乞食、バタヤの群れが残飯の雑炊を焚く煙をほそぼそと上げていた、イモの汁を煮つめたベタという粗製の水飴の臭いと、それは混合して異様な香りを漂わせた。酸敗した占領軍の残飯に重層をブチこんでドロドロに煮こんだホルモンシチューの店先に、日雇労働者とサラリーマンが肩を並べて、洋モクの吸殻、マッチの空箱、コンドームまで混入しているドンブリにかぶりつき、音を立ててすすっていた。爆弾と称するアルコールの水割り、フーゼル油のぎらぎらと浮いたやつ、そいつにやられて目が潰れ血ヘドを吐いて死んでいく人びともあった。」(58−59)
●1947年秋〜1949年の無職無頼の遊民の世界。山谷、新宿、森下、御徒町、横浜・・・そこでの「心に消えやらぬ風景」。混沌とした街の様子。浮浪者、乞食、バタヤ、サラリーマン、日雇労働者のごった煮状態。

「なつかしのムーラン・ルージュ」(60)

「泥棒を開業してからのおいらは、ゼニに不自由しなかった(とはいえ相変わらずのボロ竹で戦果は共有財産として積立てていたが)、昼はもっぱら軽演劇、ストリップ等で観て歩いておった、渋谷東横の焼けビルに、堺真澄、有島一郎の別派「ムーラン・ルージュ」があり、『肉体の門』で後に新宿帝劇五階に進出する「空気座」があり、水ノ江滝子、佐山俊二らの「劇団タンポポ」があり、「カジノ・フォーリイ」があり、有楽町日劇には千秋実「薔薇座」があり、浅草のロック座では『ホノルル婆さん』『男娼の森』のばん・じゅん(伴淳三郎)が健闘していた、そのころ田中ナニガシと名乗っていた田崎潤であるとか、文化座の『春香伝』が出演していた山村聡、山形薫など、戦後焼跡の“名優”たちを、おいらは懐かしく想いおこすのである。」(60)
●焼け跡と軽演劇、ストリップ。
●「戦果」: ある種の戦争の継続?

「一九四九年夏――、蔵物故買容疑でパクられたおいらが、メイッパイ(拘留期限ぎりぎり)を完黙して釈放され、高橋のドヤに戻ってみると、わがトリオ・ザ・ドロボー二人の“同志”は、クモを霞と遂電して、およそ五十万円(当時は目の玉が飛び出るような大金であった)の現金並びに“戦利品”、跡形もなく消え失せていた。おいらもし、そのまま盗賊革命の“初志”を貫徹して、市民社会の埒外にさらに深く潜行していたならばいまごろは、その戦果を資本の闇成金から実業家へと浮上して代議士となり、田中角栄のむこうを張って「日本列島改造」の大風呂敷をひろげていたかも知れない。
 そもそも田中角栄なんてもな、敗戦のどさくさまぎれに盗人同然の手段でゼニをかき集め、大麻忠男というド狸を通じて、進歩党町田忠治総裁に三百万円を献金したのが因縁で、政界にデビューしたのである。天下を奪るってこと、ようするに盗人の所業に他ならない、おいらその道を行こうと思えば、わけもないことであった。」(62)
●田中角栄=敗戦のどさくさの盗人。天下を奪う=盗人の所業。戦後の政治を言い当ててもいる?
●1949年夏 蔵物故買容疑で逮捕

「アキラメは早かった、山梨に帰って翌年の春までの間、図書館に通って読書三昧に明け暮れて、「党」と学園に舞い戻ったのだが――、時代はようやく、“暴力革命”の季節を迎えていた。再びおいらは山谷へ、放浪者としてではなくアジトを構えて、地下生活を送ることとなる。学園では、イールズ旋風が吹き荒れ、人民広場でアメリカ兵が学生に殴打される事件が起こった。六月六日、GHQは日共中央委員二十四名の追放を指令した、十七日CIA長官ダレス来日。」(62-63)

朝鮮戦争→共産党幹部逮捕状、PD(特需)工場指定、日本に兵站司令部設置、共産党分裂・・・。

「一九五二年五月三十日、淀橋警察署焼打事件に連累して検挙され、アジトを捜査されてハジキの弾丸を発見されて本格的にムショ送りになるまで、おいらは朝鮮民戦の同志諸君とともに無我夢中で火焔瓶を投げ、国会議事堂紅蓮の炎につつまれる時を、必死に夢見ていた。」(63)
●1952年5月 淀橋警察署焼打ち。7月逮捕(火薬類等取締法違反、都条例違反、公務執行妨害容疑)。→美空ひばり「りんご追分」への感動

「リンゴの花びらが風に散ったよな……、なぜかそのうた声は、おいらの五臓六腑にしみ渡った。ものの怪が憑いたとでもいおうか、急においらは切なくなって涙をこぼした、パチンコ屋の店先であった、美空ひばりとの出会いだった、――哀愁波止場から太平天国へ、“窮民革命”のテーマにかくて再び、おいらは回帰する。」(65)
「『リンゴ追分』。一九五二年四月二十八日、美空ひばりは東京歌舞伎座の舞台でこのうたを唱った、それはサンフランシスコ講和条約発効の日であり、その二日後の五月一日、血のメーデー、殺された法政大学生・近藤巨士、彼は満洲からの引揚げ学生、こんな詩を残している。

 私には故郷がない
 水の国で生まれ
 育った私に
 植民地育ちに
 故郷はない
 北の国の町
 それは
 エミグラントの街
 石畳の道に
 バラライカが流れる

『リンゴ追分』と、近藤巨士の詩と。[…]民衆――雑色の風景、そこで音楽は、うたは階級意識よりもすぐれて革命(反革命)であり、窮民を真に革命のエントウシアスモス(憑霊)へと、脱自の叛乱へと導くことを、あるいはその“暴民”へのエネルギーを、諦観と感傷に拡散していってしまうことを、一九五二年夏ま昼、ひばりとの出会いでおいら感得した。「党」との連絡をとらず、おいらはまっすぐ横浜に行った、一か月ほど沖場人足をやって旅費を稼ぎ出してから甲府に帰った、五九年に再び上京するまで、おいらの漂泊は旅のうちにではなく、中小零細企業、日雇いの労働組合運動と、地方の文化活動の中にあった――。」(66−67)
●民衆――雑色の風景
●1952年夏釈放→甲府での生活。1959年に再び上京。
●引揚と敗戦と闇市→故郷喪失のイメージ。そこに唄が生まれる、力を持つ。

「真の窮民革命を求めて、汎アジア辺境へ飛翔する気はまだ残っているのだ。一九六五年、東南アジアの諸国を旅して、上野駅地下道、山谷の“戦後”をおいらは各地の窮民、流民の社会に再発見した、果てることのない叛乱・革命の夢想を、おいらはそこに描く。一九七二年極月、百日間の汎アジア幻視行においらは旅立つのだ。」
●汎アジアの窮民に、上野駅地下道や山谷の窮民/流民を重ね合わせる。敗戦、戦後の焦土、闇市とは、人々が窮民化/流民化した社会であった。引揚=故郷の喪失、人々のごった煮状態の発生。そこに叛乱・革命の夢想があった。


■書評・紹介


■言及


*作成:大野 光明
UP: 20111123 REV: 20180225, 0305
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西)  ◇BOOK
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