『強いられる安楽死』
しののめ編集部 編 19730315 しののめ発行所,53p.
■しののめ編集部 編 19730315 『強いられる安楽死』,しののめ発行所,53p. 200円 東京都身体障害者福祉会館404→※COPY
*「しののめ会は,自主的な身体障害者のグループです。季刊の雑誌『しののめ』
と,単行本による『しののめ叢書』の発行を主な活動にしています。」
(「あとがき」より)
■目次
一,安楽死の行なわれている事実 3 山北厚
二,歴史の流れの中で 13 花田春兆
三,“安楽死”をさせられる立場から 27 山北厚
四,福祉・社会・人間 39 花田春兆
■引用
◆花田 春兆 19730315 「歴史の流れの中で」,しののめ編集部編[1973:13-26]
「一九三九年の夏、第二次世界大戦のヨーロッパでの口火となった、ポーランド進攻のはじまる直前、ある父親が、重複重症のある息子に対して、安楽死を与えることを許可するように、との手紙をヒトラーに直接親呈しているのです。
ヒトラーは、カールブラント博士に命じて、許可の指示を与えたのです。このことは、世論を沸かせました。しかし、戦争を目前にした殺気だった事態の下では、平常の判断などかき消されてしまうものです。ヒトラーは、この父親の手紙をフルに活用して、安楽死させることの正当性を国民に向って宣伝するのでした。(この歴史は決して死んではいない、という気がしてならないのです。昨秋、いわゆる“安楽死”事件が二つ続いたとき、安楽死を法的に認めさせようとし、日本安楽死協会の設立を目指した動きが、クローズアップされたことがありました。ことさらに法的に認めさせようとする動きの底に、権力と結びついて、生産力となり得ないものを抹殺しようとする暗い圧力、となりかねない力を感じないわけにはいかないのです。たしかに、それは杞憂と呼べるものかもしれません。しかし、それが杞憂に終るのだ、という保証はどこにもないのです)」(花田[1973:21-23])
■言及
◆立岩 真也 19970905 『私的所有論』,勁草書房,19970905,445+66p. ISBN:4000233874 6300 [amazon]/[kinokuniya]
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon]/[kinokuniya] ※
「だがやはりそれにしても、少なくとも私の身体に関わることは私のことではないか、と言われるかもしれない。しかし、自己決定が認められていないものがある。また、少なくとも抵抗のあるものがある。例えば、臓器の売買は実際に行われている◇03が、それが認められるべきだとする人は少ない。また、代理出産の契約について、それをよしとする人がいる一方で、そうは思わない人達もいる。市場の優位が語られるこの社会にあっても、実は、私的所有の原理によっては正当化されない事態がいくらもある。
もし、身体が自身のものであるなら、処分、譲渡も許容されることになる。合意がある以上問題はないというのが「自由主義」の主張である。身体の自己所有を認め、自己決定を認めるとしよう。互いが自分のものを互いの合意の上で譲渡し合う。この関係の中では、誰も強制されてはおらず、誰も不利益を被ってはいない。むしろ自発的に、自らの利益を求めて関係し合っており、実際利益を得ている。このような論理の内部では話は完結しており、そのことは誰に言われるまでもなく、何かものを考えたりするまでもなく、自明である。だから、なすべきことはこの自明のことを「発見」したりすることではない。発見する前に既にそれは明らかだからである◇04。そして例えば売買を批判しようとする者もそんなことは知っている。その上で、その言い方の上手下手は別として、批判しようとしている。私もまず、もっともな主張に対して違和感がある時、違和感の方を明らかにしようと思う。
しかも、抵抗を示すのは他ならぬ自己決定を主張する人達でもある。男によって決められてきた。これに対する抵抗としてフェミニズムがある。また、今まで障害を持つ人、病を得た人は、施設の中で、医療・理療の現場で、職員、専門家、等々によって自分達の生き方を決められてきた。つまり自己決定を剥奪されてきた。これは不当だ。それで自己決定権を獲得しようというのである。だが他方で、自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば、死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人達だった◇05。ここには矛盾があるように見える。私自身、かなりの部分は「自由主義者」だと思う。生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんど全てが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえる虫のよい御都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立せるような感覚があるはずである。その者のもとに置かれることには同意するが、譲渡(特に売買、そして「再分配」を含む)を全面的に肯定することはできないものがある。これは私的所有権としての自己決定権からは出てこないのだが、だからといって、自己でない他者(達)に権利を認めているわけでもない。このことをどのように言うか。あまり複雑なことを私達は考えられない。明確な言葉で表現されていないとしても、それはそれなりに単純なもののはずだ。第3章で「生殖技術」を巡る批判的な言説を検討した上で、第4章に考察を引き継ぎ、私(達)がどこかで有している感覚を取り出したいと思う。」
「◇05 かなり早くになされた批判としてしののめ編集部[1973]がある。安楽死について本書は主題的にとりあげることをしないが、障害新生児の治療停止(第5章注06・206頁)、ナチスドイツにおける安楽死(むしろ大量虐殺、第6章3節)に触れることにも関係し、第4章、第7章で死についての自己決定について少し述べる(cf.第4章注12・166頁、第7章注22・318頁)。資料集として中山・石原編[1993]。」