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『これはパイプではない』

Foucault, Michel 1973 Ceci n'est pas une pipe : Sur Magritte Fata Morgana ※
=1986 豊崎光一+清水正訳,哲学書房 ※



Foucault, Michel 1973 CCeci n'est pas une pipe : Sur Magritte Fata Morgana ※=1=1986 豊崎光一+清水正訳,哲学書房 ※ *


T ここに二つのパイプがある
U こわされたカリグラム
V クレー、カンディンスキー、マグリット
W 言葉の陰にこもった働き
X 肯定=断言の七つの封印
Y 描くことは肯定=断言することではない
ルネ・マグリットの二通の手紙
著者による註
校異
訳註
『これはパイプではない』について
本書の翻訳についての覚え書き


ところでこの図の異様さを作っているのは画像(イマージュ)と文とのあいだの「矛盾」[対立する言い方]ではない。それもそのはず、矛盾は二つの言表のあ いだ、あるいは同一の言表の内部にしかあり得ないからだ。ところでここには一つの言表しかないこと、そしてそれが矛盾するものではあり得ないことは明らか である、命題の主語が単に一個の指示詞[=これ]なのであってみれば。(p.18)

人を途方にくれさせるのは、文を画に関係づけ立ち戻らせることが不可避的にある(指示詞と、パイプという語の意味と、図像の似ていることがわれわれをそう 仕向けるように)ということであり、しかもこの言表が真であるとか、偽であるとか、矛盾しているとか言うことを可能ならしめるような平面を定めることが不 可能であるということなのである。(p.20)

二つの原理が、十五世紀以来二十世紀に至るまで、西欧絵画を支配してきた、と私は思う。第一の原理は、造形的表象=再現(ルプレザンタシオン)(類似を前 提する)と言語的対象指示(類似を排除する)との分離を確立する。類似によって人の目に示し、差異を通じて語るというわけだ。その結果、二つのシステムは 交叉することも融合することもあり得ない。何らかの仕方で従属関係がなければならないのである。(pp.47−8)

要は言語的記号と視覚的表象=再現とは決して一挙に与えられることがない、ということである。形態から言説に向かうにしろ、言説から形態に向かうにしろ、 常に或る序列がそれらを位階化しているのだ。(pp.48−9)

永らく絵画を支配してきた第二の原理は、似ているという事実と、そこに表象=再現のつながりがあるということの肯定=断言とのあいだの等価性を定立する。 (p.51)

要は、類似と肯定=断言とは分離できないということである。(p.52)

マグリットは類似(ルサンブランス)から相似(シミリチュード)を切り離した上で、後者を前者に対立させているように思われる。類似には一個の「母型(パ トロン)」というものがある。すなわちオリジナルとなる要素であって、それから取り得る、だんだんに薄められていくコピーのすべてを、自分から発して順序 づけ、序列化するものだ。類似しているということは、処方し分類する原初の照合基準(レフェランス)を前提するのである。相似したものは、始まりも終わり もなくどちら向きにも踏破し得るような系列、いかなる序列にも従わず、僅かな差異から僅かな差異へと拡がっていく系列をなして展開される。類似はそれに君 臨する再現=表象(ルプレザンタシオン)に役立ち、相似はそれを貫いて走る反復に役立つ。類似はそれが連れ戻し再認させることを任とする原型(モデル)に 照らして秩序づけられ、相似は相似したものから相似したものへの無際限かつ可逆的な関係として模像(シミュラクル)を循環させる。(p.74)

類似は唯一無二の、常に同じものである次のような言明を包含している−これは、あれは、それにあれは、何々である、と。相似は相異なった肯定=断言を多数 化し、それらの肯定=断言はそろってダンスを踊り、たがいにもたれかかり、かつ重なり合うのだ。(pp.78−9)

思考は相互の相似が類似を排除しているあれらの物にそれ自身なることによって、相似なしに類似する。絵画とはおそらくそこ、類似の様態にもとづくものであ る思考と、相似の関係にある物とが垂直に交わるに至る、そんな地点に存するのである。(p.80)

相似が表象=再現的言明との古くからの共犯関係から解き放たれるもう一つの仕方−それは、こっそりと(それもそれが意味するところとは反対のことを示すよ うに見える術策を用いて)絵とそれが表象すべきものとを混ぜあわせることである。一見、それが絵がまさにそれ自身のモデルであることを肯定=断言する一つ の仕方であるように思われる。実際には、このような肯定=断言が前提しているのは、カンヴァスとそれが模倣すべきものとのあいだの内的距離、ずれ、差異な のである。(pp.87−8)

言語記号と造形的要素のあいだの分離、類似と肯定=断言との等価性。これら二つの原理が、古典絵画の孕む緊張を作り出していた。第二の原理は、言語的要素 が念入りに排除された絵画の中に、言説(人が語るところにしか肯定=断言というものはない)を再導入していたからである。そこから由来するのが、古典絵画 が言語の外に形成されながらもなお語っていた−それも大いに語っていたという事実であり、それが沈黙のうちに言説の空間に依拠していたという事実であり、 それ自身の下方に、画像と文字記号との関係を復元し得るような一種の共通の場を確保していたという事実である。(pp.93−4)

マグリットは言語記号と造形的要素とを結びあわせる、ただし同質性(イゾトピー)という前提を確保することなしにである。彼は類似が依拠している肯定的言 説という基盤を巧みにかいくぐり、純粋な相似と肯定的ならざる言表とを、目的なきヴォリュームと平面なき空間の不安定さのうちで戯れさせるのだ。この操作 の謂わば、処方箋とでもいうべきものを「これはパイプではない」が与えているのである。
1. 画像、文、類似、肯定=断言、そしてそれらの共通の場が時を同じくしてそこに現前しかつ目に見えるような、カリグラムを実践すること。
2. 次いでこれを一挙に開いて、カリグラムがたちまち解体して姿を消し、痕跡としてはそれ自身の空虚しか残さないようにすること。
3. 言説がそれ自身の重力にしたがって落下し、文字の可視的形態を獲得するにまかせること。文字は、描かれたものであるかぎりにおいて、画(デッサン)そのも のと、不確かで、定めがたく、もつれ合った関係に入る、−けれどもいかなる表面も両者に共通の場として役立つことはあり得ぬまま。
4. 他方で、相似の数々がそれら自身から発して多数化し、われとわが蒸気から生まれ出て、それら自身以外の何ものにも送り返すことのないようなエーテルの中を 限りなく上昇してゆくにまかせること。
5. この操作が済んだら、沈殿物が色を変えて白から黒に移行し、類似した再現=表象に沈黙のうちに隠されていた「これはパイプではない」が、循環する相似の数 々の発する「これはパイプではない」になったということを、しかと確認すること。(pp.95−6)


*作成:篠木涼 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1970/7500fm.htm
UP:20031225 REV:20071203
Foucault, Michel  ◇BIBLIO. 
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