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倫理学と安楽死

ジョーゼフ・フレッチャー(1973=1988)
加藤尚武・飯田亘之 [編] 『バイオエシックスの基礎――欧米の「生命倫理」観』,東海大出版会,1988年.



■内容

◆人間性や人格的な完全性を生物学的な生命や機能よりも上に置く価値体系を持った倫理学では消極的安楽死のみならず積極的安楽死も道徳的に擁護されると主張。

◆消極的安楽死については医療従事者によって実際に行なわれているだけではなく、あらゆる宗教においても認められており消極的安楽死の是非を巡る議論は倫理的には既に解決済みであると主張。

◆どんな場合においても生命の延長を道徳的に擁護しようとすることは生命至上主義的見解(生物学的な生存を1次的な価値とし、個性や尊厳、幸福や抑制などの他の価値を2次的なものにする見解)にすぎないと主張。

1.倫理的なことと前倫理的なこと
現代医学の発展によって、「人間的な思いやり」から「生命の尊厳」に基づく伝統的倫理は「生命の質」を重視する倫理学に道を譲るべきだと主張。メタ倫理的には、最高善を「生命そのもの」ではなく「人格の完全性」や「人間の幸福」にあると考えれば、おのずと積極的安楽死も消極的安楽死も認められるものと指摘。

2.選択による死
◆医学の発展で生死の制御に関する技術を獲得できた現代において、出産の調節や死の調節も道徳的な問題となることを指摘。慈悲や同情による治療上の堕胎が認められながら、積極的安楽死が認められないのは馬鹿げていると主張。

◆“無力な”状態にある末期患者の安楽死問題を議論するために、4つの類型を試みる。

(1)自発的・直接的安楽死:
自殺の一形態としての安楽死。死も状況によっては利益になるものとした上で、自分の手で自発的に致死薬投与を行なう安楽死。

(2)自発的・間接的安楽死
昏睡状態や自分で意思決定をできないほどに機能悪化した場合に、事前の自分の指示に基づいて、他者の手で致死薬投与を行なう安楽死。

(3)直接的・非自発的安楽死
いわゆる「慈悲殺」。患者の現在もしくは過去の要望なしに致死薬投与を行なう安楽死。

(4)間接的・非自発的安楽死
患者の現在もしくは過去の要望なしに「死ぬにまかせる」安楽死。

→ このように4つの安楽死を区分した上で、非自発的・間接的安楽死は「患者が人間性を失ったまま死んでいくこと(緩慢で醜悪な死に方を放置すること)」であり、積極的に安楽死を行なうよりも道徳的に正当化されないと主張。

※註:フレッチャーの直接・間接に関する区分法は奇妙である。自発的安楽死の場合には、直接・間接の区分は「自分・他者の手による安楽死」の区分を意味し、非自発的安楽死の場合には直接・間接の区分によって「致死薬投与・治療放棄」の区分を意味させている。より正確な区分を行なうのであれば、(1)自発・非自発、(2)自手・他手、(3)致死薬投与・治療放棄の3つの区分法を用いて安楽死を類型化すべきであったろう。

3.手段と目的
◆「自分自身のために死を早めること(自殺)」も「同情によって他者の死を早めること(安楽死)」も道徳的に正当化されると主張。無意味な悲惨や非人間化から患者を解放するための死のケースでは、目的において獲得される価値が手段において失われる価値を上回り、安楽死や自殺を正当化するものと主張。

◆救いようのない「植物人間」が私的・公的財源を絶え間なく食い尽くしながら容体を悪化させていく場合には、希少資源の公平な配分を重んじる倫理的義務によって本人の意思に関わらず安楽死を行なうことが正当化されると主張。

◆人間の幸福が最高善であるという帰結主義的立場によって、自殺や安楽死の禁止は道徳的に正当化されないと主張。義務論的立場で殺人を禁止することは「規則への服従」にすぎないし、義務論的立場でも認められている「自衛のための殺人」や「他者のための自己犠牲」は「他者や自己のための安楽死を認めない」といった立場と矛盾すると主張。

◆消極的・積極的安楽死はともに目的が同じであり、意図的な不作為・作為の区別は法理論では区別されるが、道徳的には区別されるものではないと主張。積極的安楽死を医師が躊躇するのは心理学的な問題ではあっても倫理学的には付随的な問題でしかなく、「非人間化された単なる生物学的な生命」を「患者の利益に反するもの」と見なすのであれば、自殺も安楽死も正当化されると主張。


■引用


■言及



*作成:坂本 徳仁 
UP:20100427 REV:
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