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『斬』

綱淵 謙錠 197210 河出書房新社,330p.

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last update: 20180305

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■綱淵 謙錠 197210 『斬』,河出書房新社,330p. ASIN:B000J96BJ6 ISBN-13:978-4309001258 欠品 [amazon] c0134

→19751125(文庫版) 『斬』,文春文庫,414p. ISBN-10:4167157012 ISBN-13:978-4167157012 欠品 [amazon][kinokuniya]

■出版社/著者からの内容紹介

首斬り浅右衛門の異名で罪人を斬り続けた山田家二百五十年の崩壊の末路を、豊富な資料を駆使して歴史小説の新しい可能性を拓いたと絶賛された第67回直木賞受賞作

■著者紹介

大正13(1924)年、樺太登富津に生れる。昭和28年、東京大学文学部英文科卒業後、中央公論社に入社し、出版部、中央公論、婦人公論編集部を経て、46年退社。日本ペンクラブ事務局長のかたわら「斬」を執筆。47年同作品で第67回直木賞を受賞した。著書に「苔」「狄」「幻」「戊辰落日」「越後太平記」「歴史の顔」「歴史の海 四季の風」「航」「幕末に生きる」「剣」「聞いて極楽」など多数がある。

■目次


■引用(文庫版より)

「浅右衛門のばあい、最も人道的な斬首の方法とはどういうことか。いうまでもなく、被刑者になんらの苦痛もあたえず、一瞬のうちに正確にその首を打ち落とすことである。被刑者の苦痛を最小限にとどめるためにギロチンが採用されたように、浅右衛門に要求されることは自分が精密な機械になることであった。もちろん人間が機械になることは人間であることを否定する行為である。至難の業といってよい、それをあえて家職として担ったところに、山田家なる存在の不可思議さ、ユニークさがある。
 また人間が単なる機械によって斬首されることは、おそらく当時の武士の美学として絶対に許容できないところであったはずだ。したがって自分が無限に機械に接近しつつも決して機械とはなりおおせないところに、浅右衛門のプライドと救いがあったであろう。こういう厳しい倫理をつねに自己に強制しつづけざるをえない職業をもって世襲とし、連綿七代もつづいたという事例が、はたして人間の歴史に、山田家以外、存在するのであろうか」(p14)

「現在、山田家の系譜についてはほぼ二説あり、一つは浪人説、もう一つはいわゆる〈賎民〉説であるが、この碑文の説はいうまでもなく山田家浪人説に立っている。『明治百話』の吉亮の回顧談その他を援用してもう少し敷衍するならば――
 山田家はもと六孫王(清和天皇第六皇子貞純親王の王子の意である)源経基の子孫で、はじめて浅右衛門を名乗ったのは貞武である。貞武ははじめ徳川家御腰物奉行支配・山野加衛門尉永久について居合術を学び、その妙を極めた。吉亮の回顧談によれば、貞武は「武道の大熱心家で、とりわけ据物試斬りの名人であり」、「徳川家の御佩刀御試御用役をつとめて、かの赤穂義士不破数右衛門正種、堀部安兵衛武庸なぞとは武道の親友」だったが、「その頃、奉行所に『首斬同心』というものがあり」、「山田が死屍を試すなら、いっそ斬り手もやってもらいたいというような話が出て、ついに兼務のようなかたちになってしまったのが、そもそも首斬りの始め」であるという。
 不破数右衛門とか堀部安兵衛と親交があったかどうか、真偽のほどは確かめえないが、篠田鉱>55>造が七世吉利と後妻素伝との間に生れた娘いさから聴取したと推定される聞書によると、吉利は堀部安兵衛の剣道を継いでいたので、安兵衛の作った煙草入れが遺っていたと言い、さらに吉利は泉岳寺には毎月お詣りして安兵衛の墓に香華を絶やさなかったと述べているのをみると、山田家の家伝としてそういう関係が代々言い継がれていたのかもしれない。
 また吉亮の言では、徳川家御佩刀御試御用役をつとめ、かたわら首斬同心の代役を兼ねたのは初代貞武の時となっており、祥雲寺の碑文によれば二世吉時の代となっているが、これは後者が正しいようである。
 なお、この碑文にある〈髻塚〉というのは、六世吉昌がわが手にかけた死罪人の菩提を弔うため、彼らの髻(もとどり・たぶさ)を切ってその台石のなかに納めた供養塔をいい(毛塚ともいう)、はじめ浄福寺にあったが、浄福寺が廃寺となったため、その親寺である祥雲寺に移されたものである。そのさい祥雲寺には台石の背後にある蓋を取って、そこから穴に投げ入れるようになっていたという。参考までに碑銘を掲げておく。(中略)>56>
 正面〈南無阿弥陀仏〉の下の文章は〈ぼさつしょうりょうのつきはひっきょうくうにあそび/しゅじょうのこころみずきよければぼだいのかげはなかにげんず〉、左側面は「銘に曰く、生死海中無頼の客、流れに漂い浪に通って幾沈淪せば又靡心出でん、十界の依正は塵を着めず、と」でも読むのであろうか。(中略)
 次に山田家〈賎民〉説の基礎となっているのは「弾左衛門由緒書」とか「弾左衛門書上」といった長吏(穢多頭)弾左衛門から江戸町奉行書に提出された報告書である。これらの報告書中に、弾左衛門家の「組頭(一書に与頭)」とか「手代」の一人として〈浅右衛門〉なる人物が出てくる。この〈浅右衛門〉こそ山田浅右衛門だ、というのである。とすると、浅右衛門は弾左衛門と同じく〈社会外の社会〉の人間、つまり〈賎民〉であったとも考えられるのである。
 〈社会外の社会〉の人間を〈穢多非人〉という呼称でいわれもなく賎民視したのは、不条理きわまるものではあるが江戸時代までのわが国の政治的・社会的現実であった。とくに徳川幕府はこれらの〈賎民〉を封建支配における身分的分割統治の道具として、懐柔と弾圧の使い分けによって十二分に利用した。
 徳川家康は江戸に入るにあたり、鎌倉幕府開設のさい、関東長吏の首領として配下二十八坐(長吏・座頭・舞々。猿楽・陰陽師・壁塗・土偶作〈土鍋師と書いたものもある〉・鋳物師・辻目暗・猿曳・鉢叩・弦差〈餌指ともあり〉・石切・土器師・放下師・笠縫・渡守・山守・青屋・坪立・筆結・墨師・関守・鉦打・獅子舞・蓑作〈蓑作ともあり〉・傀儡師・傾城屋)を統一し、天下の丐頭(乞食の棟梁)たることを頼朝から命ぜられたと自称する旧家・弾左衛門に江戸の穢多頭を任命した。その後、幕府は〈賎民〉にたいしては穢多頭のもとにいわゆる穢多仕置法を認めて或る程度自治を行わしめるとともに、御尋者御用・牢屋番・斃馬取片付・棒突人足・御仕置人御改・囚人用諸色買上などの行刑制度の末端的役割をになわせた。「弾左衛門由緒書」に「御仕置もの御役は晒もの磔火罪獄門鋸挽文字彫耳鼻そぎ切支丹釣し問等御座候」とあり、慶安の乱で丸橋忠弥が品川(鈴ヶ守)で磔にされたとき刑場の監督をしたのは弾左衛門である。
 山田家をこの弾左衛門の支配化にある〈賎民〉の出であると考えることは十分理のあるところである。たとえば大阪落城ののち、家康は豊臣秀頼の幼児国松を京都・六条河原で処刑したが、そのとき斬罪役を命ぜられたのは〈青屋〉と呼ばれる穢多であり、これは中世末以来、穢多非人の職種の一つに皮剥・死穢の処理、あるいは牢屋敷・刑場の管理といった仕事があったからである。したがって浅右衛門は穢多頭・弾左衛門支配下の組頭あるいは手代として斬罪役の責任者の地位を保ち、奉行所への出仕には羽織と帯刀を認められていたとも考えられるのである。
 以上、二説について略述したが、前者の浪人説については、これらのほとんどが山田家側の発言に基いたものであり、客観性に乏しいことは認めざるをえない。しかし、後者の〈賎民〉説も>58>まだ十分に説得性を持ちえないうらみがある。なぜならば、そもそも首斬役というのは徳川幕府の行刑制度上の公けの役職であり、町奉行所および火付盗賊改の同心が行う仕事であって(これを〈首斬同心〉という)、山田浅右衛門の正業ではない。むしろ八丁堀与力および同心こそ、かつては〈賎民〉扱いさるべき集団の出身であり、たまたま徳川幕府の行刑制度を執行する地位に立ったゆえに表面的には社会的蔑視を受けずにすんだのではあるまいか。〈不浄役人〉という言葉はそういう文脈で考えるべきものではあるまいか。
 『明治百話』所収の「首斬り朝右衛門」のなかで、吉亮が「山田家は家業が家業でしたから世間の誤解が多い」とか、徳川家の御佩刀御試御用役が本業で首斬りは「兼務」だと力説している主意は、自分の家が弾左衛門のような〈賎民〉ではないことを社会的に認めてほしいという願望のあらわれであろう。
 前述した幕末の吟味方与力・佐久間長敬の『江戸町奉行事蹟問答』には「山田浅右衛門は麹町に住して町奉行支配浪人なり。徳川家刀剣類御様御用相勤候職分にて、罪人の首打役には無之候」とあり、吉亮の言を裏書きしている。
 山田家の系譜関係の資料で最も確実なものの一つは、旧麹町区役所除籍簿第五十八号にあった山田家の戸籍であろう。これは明治五年三月八日に全国一斉に実施されたいわゆる壬申戸籍から始まったものである。ただし、この除籍簿そのものは第二次世界大戦で戦災に遭い、現在の千代田区役所には存在しない。
 この戸籍によれば、戸籍頭筆頭人の「東京府囚獄掛斬役 山田吉豊」の身分は「平民」となって>59>いる。この〈平民〉という身分は、壬申戸籍作製の前年、明治四年八月二十八日、太政官布告をもって〈穢多非人〉の称を廃し、これら〈賎民〉を新たに〈平民〉に加えた結果としての〈平民〉ではなく(もっとも幕府瓦解の直前、慶応四年一月に幕府は〈賎民〉懐柔策として弾左衛門の身分を平人に引上げ、翌二月、さらに弾左衛門直属の手下六十五人にも身分還元を認めてはいるが)、明治二年十二月二日の禄制による身分制度の再編成の結果による〈平民〉であると考えられる。
 明治二年、旧大名や公卿は華族、旧藩士の平侍以上は士族と呼ぶことになり、奉行所与力は士族に属し、同心は農工商の平民と士族との中間にあたる卒族に入れられたが、山田家は旧幕時代から身分は浪人だったので、帯刀はしていたが〈平民〉に入れられたのであろう。
 さらに同戸籍によると、戸主・吉豊の妻かつは深津県士族の出身であり、「父隠居山田和水」(七世吉利)の妻で吉豊の「継母そで」が旧幕臣の出身となっている事実は重大である。なぜならば、当時の〈賎民〉には〈通婚同火の禁〉という堅いタブーがあったのであるから、もし山田家が〈賎民〉であったとするなら、こんな結婚は不可能だったはずである。そうすれば、山田家〈賎民〉説はそのまま肯定するわけにはゆかず、浪人説を取らざるをえないこととなる」(pp.55-60)

「いうまでもないことだが、家職を試刀業としているのは、試斬りによる刀剣の鑑定料がその報酬として入ることを予定しているのである。初代貞武の師であった山野加右衛門永久の時代で一口につき十両ぐらいとっていたという。当時の米価をだいたい一石ニ両と考えると、鑑定料が相当の高額であったことがわかる。これを現代の通貨に換算することは専門的にはいろいろとむずかしい問題があるであろうが、かりに米価を一升三百円としてみると、一石ニ両から一両一万五千円とはじき出される。しかし米価と他の物価、あるいは生活感覚との比較も考慮しなければならぬとすれば、だいたい一両の生活感覚における重みは現在の二万円くらいに相当するであろう>175>か。学者によっては一両三万円と概算する人もある。
 徳川初期でこうであるが、、末期になって小判の価値が下落したとしても、七代にわたって〈将軍家御佩刀御試御用〉をつとめた〈山田浅右衛門〉の鑑定書のランクはおそらく山野加右衛門のそれとは較べものにならなかったであろうから、〈浅右衛門〉の鑑定料は一口三十万円以上の相場はあったのではないかと考えられる」(pp.175-176)

「吉亮たちは、きょうここにわざわざ呼び出されたのが、この〈絞柱〉の実験を参観するためだときいて、唖然とした。ついで憤然とした。
 「われわれが〈首吊り〉を見てどんな御利益があるというのか」
 と在吉が憤慨すると、
 「われわれの修行を嘲笑するつもりなのか」
 と吉亮も怒鳴った。
 少くともこれは〈斬〉にくらべて、表面はいかにも文明開化の産物にみえるが、はたしてどうか。実はかえって囚人を苦しめるものではないのか。〈斬首〉という処刑法は、昔は知らず、現在の西洋では、フランスのギロチンのように、たとえその制度を採用していても、それは機械にさせていて、人間の手を濡らしているところはない、だからそれを見倣わねば西洋に立ち遅れる>207>というが、結局それは日本人ほどの斬首の技術に長じた人間がいないからではないのか。またもしこの絞柱の実験が成功したとすれば、政府は将来、われわれが生涯をかけて錬磨してきた〈斬〉という死刑法を廃止にもちこむ下心があるのかもしれない。もしそうだとすれば、われわれを呼びつけてこれを見せるというのは、侮辱も甚だしい」(pp.207-208)

「いよいよ〈絞柱〉の実験が始められた。
 一人の柔術家らしい、身体のがっしりした、総髪髭面の男が稽古着をつけて、門弟を四、五名引連れて現れた。吉亮が傍を通った顔見知りの牢番にきくと、神田お玉ヶ池に道場を開いている磯又衛門という柔術の先生で、天神真揚流の達人とのことであった。
 磯先生は門弟たちとエイッ、エイッと気合をかけながら準備体操をしたのち、「それでは」と>210>いって自ら絞柱の前の蹈板に登った。そして輪繩を咽喉下にかけると、牢番が柱の背面にある絞繩の端の鉄環に大懸錘をひっかけた。ぐっと重みを感じたらしい磯先生は、首をニ、三度振って位置を正してから、大きく息を一つ吸込み、
 「よし」
 と叫んだ。足もとで待っていた牢番が蹈板をさっと外すと、先の牢番がこんどは小懸錘の鉤をひっかけた。
 磯先生の身体が宙に浮いた。顔面が紅潮し、先生は両手を咽喉のところへ持って行こうとしたが、それは半ばでとまって、やがてダラリとぶら下がった。肩の力が脱けて、全身がぐったりとした。すると門弟たちがわっと寄って、先生の足を持ち上げ、首から輪繩をはずした。
 地面に横たえられた磯先生は鼻をフガフガ鳴らしながら全身を顫わせていた。門弟の一人が上半身を起し、膝を背中に当てて活を入れた。先生の痙攣がとまって正気づいた。瞬時ぼんやりとあたりを見廻していた先生は、ふとわれにかえって、
 「フーム、これなら大丈夫だ、どんな者でも生きかえりはしない」
 と、絞柱を見上げながら言った
 吉亮はあやうく笑い出すところであった。吉豊たちも苦笑いを浮べていた。磯先生の生真面目さを嘲笑する気持はなかった。だが、とにかく滑稽な感じだった。
 柱の背面で懸錘をかけていた牢番が、なにか製作者の大工にささやいた。すると大工が磯先生となにか打合せ、やがて磯先生がもう一度絞柱に近づいて行った。ふたたび実験を試みるらしか>210>った。十五貫目の大懸錘では重すぎて取扱いに不便なので、十三貫目のものに変えてみてはどうかということらしかった。
 吉豊ら一行は全部見ずに囚獄を出た。
 「馬鹿馬鹿しい」
 と在吉が地面に唾を吐いた。皆が噴き上げるように笑った。
 「ほんとうに、新年早々とんだ眼福をえたというもんだ」
 と吉亮がいうと、また皆で高く笑った。
 家路をたどりながら、はじめのうちはだれかが一言しゃべると皆で大笑いをしていたが、そのうちにだんだん皆の顔に不機嫌な表情が浮かんできた。そして沈黙の支配する時間が多くなった。在吉だけが、やたらに路上に唾を吐いていた。
 「あんな玩具みたいな器械とおれたちの修行とを秤にかけられるなんて。おれはもう斬役という仕事がいやになった」
 と、吉豊がぽつりと言ったが、だれももうそれに応じる者はなかった」(pp.209-211)
「当時の司法省は「絞架ハ英国ノ刑具ヲ現ニ模造シ其絞柱ニ優ル所以ハ器械ノ施用極テ簡便、殊ニ罪人の断命速疾ニシテ最モ苦悩少ク実験上其效不少」と自負している。
 この司法省の自負こそ山田家にとっては最大の致命傷ともなるべきものであった。簡便な器械で囚人の苦痛を最も少くし、確実に絶命させられうるなら、斬首という執行法の存続については一考>237>を要するとなることは、自然の帰趨であろう。この〈絞架〉の出現はやがて山田家からその家業を奪うこととなる」(p238)

■書評・紹介


■言及



*作成:櫻井 悟史
UP:20080917 REV: 20180225, 0305
「死刑執行人」  ◇身体×世界:関連書籍 -1970'  ◇BOOK
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