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『精神科医三代』

斎藤 茂太 19710125 中公新書,203p.

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last update: 20180225

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斎藤 茂太 19710125 『精神科医三代』,中公新書,203p. ISBN-10: 4121002407 ISBN-13: 978-4121002402 250 [amazon][kinokuniya] ※ m.

■著者

1916(大正5)年,東京に生まれる。
明示大学文芸科,昭和医科大学,慶応義塾大学(神経科教室)卒、医学博士。
専攻,精神医学・異常心理学・臨床心理学。
現在,斉藤病院院長,早稲田大学,昭和女子大学各講師,日本べンクラブ会員

著書『茂吉の体臭』(岩波密店)『快妻物語』(文藝春秋)

■引用

1946
「敗戦の翌年の秋に、私たちは世田谷代田にささやかな家をやっとの思いで手に入れて引き移った。私は当時まだ大学病院の無給医局員であったから、一文の収入もなかった。父は東北に疎開中で独立した生活を営んでいたから、私は「東京勢」を養うために収入の途を計らねばならなかた。「東京勢」というわけは、母と妻と妹と「半東京勢」の弟とであった。「半東京勢」というわけは、弟は松本高校生で、食料がなくなり、腹が減ると、ふらりと帰って来たからである。
 私は開業を決心した。決心するというと大げさにきこえるかも知れないが、当時大学病院の医局員という身分のままで開業するというケースは私の知る限りでは皆無であったし、教授や学部長が果して許してくれるかどうかという心配もあった。また、都庁の衛生局もいい顔をするはずがないことはわかり切っていたからだ。<0169<
 私はまず私の直接の指導者である塩入助教授に意中を打ち明け、それから近所の開業医を訪ねていろいろと教示をうけた。そしてすっかり書類を整えておいて、はじめて神経科の植松教授にお願い申し上げた。その足ですぐ病院長の大森憲太教授に頭を下げに行った。両先生のご意見は、決してこちらからすすめる行為ではないが、生活のためとあらば仕方がない、黙許することにする、他の医局員にはなるべく黙っていてくれ、ということであった。
 私はその日のうちに世田谷医師会の会長をたずね、翌日には区役所の衛生課長に会った。お役所相手の仕事はなかなか一筋縄ではゆかず、なんのかんのとごたついたけれど、結局半月後には開業の許可をとった。すっかりお膳立ができたところで、都の衛生呈局医務課に金于準二先生を訪司して、今まで経緯を報吉してお許しを請うた。先生はいい顔はされなかったが、仕方がないという表情をされた。」(斉藤[1971:169-170])

 「敗戦後わが国の精精神病院はどん底の苦境にあった。比較的食料に恵まれた地方の病院ですら米一日二合足らずの配給量で、当時分裂病に対する唯一の効果ある治療法であった電気ショックすら体力の消耗をさけるために遠慮するような有様であった。占領軍総司令部GHQの公衆衛生局にはマニトフという恐ろしい女史が赴任して来て、猛烈にうるさい病院監査をやり、病院長を集めては叱りとばすのであった。病院の前にジープがとまるとヒヤヒヤしたものであった。
 戦争で数病院が廃業または壊減したので、敗戦時東京には、あとで私が継ぐことになった宇田<0173<病院を含めて私立精神病院はわずか九病院しかなかった。病院の復興のためには大同団結しかなかった。昭和二十四年十月にそれが実現して、慶応の植松七九郎教授を理事長として東京精神病院協会ができ、同時に全日本八十二病院を糾合して日本精神病院協会が結成された。ついさきごろ、東京精神病院協会で毎年恒例の永年勤続者の表彰を行なったが、なかに二十年勤続という人もあった。その人はちょうど協会の結成と同じころに就職したわけである。そして昭和二十八年に金子準二先生が会長に就任され、十年後の昭和三十七年に辞任されるまで、かつて警視庁や都庁で監督の立場にあったのが一転してわれわれ私立精神病院の発展復興に寄与されたのであった。もっとも、「監督」といっても金子先生は精神科の専門医であるから、終始役人との問のパイプ役として意志の疎通を計り、真に私立病院を愛しつづけて来られたことを忘れてはなるまい。」(斉藤[1971:173-174])

 「日本の精神医療の現状とマスコミ批判
 昭和四十四年、われわれの属する日本精神病院協会は創立二十周年を迎えた。会員は八十二病院が実に七百五十病院にふえた。東京精神病院協会も九病院がいまは四十五にもなっている。その他、協会に入会していない病院がたくさんあるのである。表面は確かに「盛況」というほかはない。しかし、何事によらずものが大きくなれば、それに平行して弱点も大きくなる。
 昭和四十五年初頭、日本精神神経学会が私立精神病院の一部に対して警告的声明を発表した。それがキッカケとなってマスコミの私立精神病院に対するキヤソぺーソが爆発した。ある新聞の<0182<記者はアル中患者に化けて東京のある病院に「入院」し、病院の内情をセンセーショナルな筆致で暴露した。他の新聞と週刊誌がこれにつづき、われ遅れじと「便乗的」な記事をのせる三流週刊誌もあった。それらの記事の内容を綜合すれば、人権無視、拷問処罰的な治療、金もうけ優先のつめこみ主義、医師職員のモラル低下などをうたったものであった。私は日精協・東精協の理事をしているから責任上、人ごとではないのである。正直のところ毎日の新聞を開くのがこわかった。病院の職員の中には新聞片手に口惜し涙を流している者もいた。
 だが、「悪徳精神病院」などという活字をみるたびに胸が痛むけれど、正面切ってそれらの記事が全部ウソだと反発できないことも残念なことに事実である。警官の中にも飲酒運転をする者もいるのだ。新聞のキヤソぺーンは患者の家族を不安に陥れ、また患者の受診意欲を鈍らせた面もあったが、問題点をわれわれの眼前にさらけ出してくれたことはわれわれも認めるのにやぶさかではない。ただはなはだ残念なことは、そういういわゆる「問題点」がどうして形成されたかをもう少し深く突っこんでほしかった。
 そのよって来るところの第一に挙げられることは、国が敗戦による精神科病床の激減に対してきわめて安易に病院の新設を許可したことであろう。内容を顧みずただべッドの増加のみにカを仕ぎ、たとえば管理者は精神科の専門医でなくても許可された。医師会の集まりなどでも精神病阮はもうかるだろう、ひとつ僕もやるかな、などというムードがあった。そして精神病院ブーム<0183<などというイヤな言葉が横行した。病院の設立者の中には果樹園の経営者がいたり、パチンコ屋までがいた。また他科の医師が精神障害者に慣れぬまま、患者をなにか特別な人間扱いをしたことも否めなかった。福祉事務所あたりに「刺を通じて」おけば、生活保護法の患者がだまっていても入って来た。新設病院の開院式によばれて行くと、福祉事務所様などと書いた特別の部屋が用意されているのが常であった。そういったふんい気の中でモラルはしだいに低下した。しかし病床数は飛躍的にふえつづけ、昭和二十七年にはほぼ戦前の水準に回復し、昭和三十年には四万床(人口万対四・五)だったのが、昭和三十五年には約九万床、四十年には十六万床、そして四十五年には約二十四万床(人口万対二三・三)に達して、厚生省が一応の目標とした人口万対二五床に近づいたのである。いまわが国には精神病院に入院を要する患者が二十八万いるから、数字的にはもう一歩というところとなった。
 次に、世界にも類い稀な、国の低医療費政策をあげねばならぬ。「つめこみつめこみ」と言われるけれど、ある程度の超過収容をしなければ病院の経営が成り立たぬところに大きな問題がある。それでは定員を守り、良心的な治療なするといかなることになるか。たとえば都立松沢病院は最近の収容率九九パーセントであるから定員をわずかに下回るが、その経済は年間収入四億円に対して支出が八億であるという。しかもその中には建築費は含まれぬというのであるから、私立病院からみると開いたロがふさがらぬベラボウな数字である。大阪府立中宮病院も収入が人件<0184<費と同じであるそうだ。われわれが赤字を出しても誰もそれを補てんしてはくれない。病院はたちまちにしてつぶれ、患者の行き場所はなく、職員も路頭に迷うであろう。しかるに役所はわれわれに松沢と同じレベルを要求するのである。同じ市民が、同じ県民が入院しているのに、公私の差は開くばかりである。低収入はそのまま職員の低給料となり、従って人は集まらず、質も低下するのは自然の成り行きである。どこかで「無理」をしてつじつ庄を合わせる者が出てくるのは致し方ないだろう。
 また、健康保険に甲表、乙表というニつの診療報酬体系があるのをご存じであろう。甲表は病院向きにできているから、多くの精神病院は甲表を採用している。ところが甲表は不思議な制度で、外来患者が来れぱ来るほど損をするようになってレる。商店で客が来れば来るほど、品物が売れれば売れるほど損をするなどとはとうてい信じがたいであろう。このことがあるいは一部の一病院で退院率を低下させているかも知れない。
 指定病院という制度がある。都道府県には公立精神病院の設置義務が課せられているが、現実は国公立病院のベッド数は総ベッド数のわずか一五パーセントに過ぎない現実では、どうしても民間病院に精神衛生法による措置入院および緊急入院(一種の命令入院)を肩代りしてもらわなくては間に合わない。そのために都道肘県知事が指定した病院がつまり指定病院である。
 元来措置や生活保護などの公費患者は当然国公立病院が扱うべき性質のものであるが、民間病<0185<院がベッド数の八五パーセントを占める現代では、大部分を私立に委託せざるをえないのは当り前である。国や都は国公立の病院には赤字補てんのみならず、措置患者や生活作業療法に相当の補助金を出しているのに、同じ患者を任せている私立の指定病院には何らの補助もよこさない。一時は比較的「ラク」にみえ、他科の医師たちにうらやまれた時期もあったが、日本経済成長のあおりをくらって人件費、物価はうなぎのぼりなのに入院料(精神科は外科などとちがって医療収入の大部分を入院料に頼っている)は一向に上らず、四十五年のはじめにそれまで安いといわれるユーススホステルにも劣る九百三十円がやっと千二百円になったとはいえ、とうてい人件費物価の上昇には追いっけないのである。ぺルーという国は日本より遙かに経済的には劣る国であるが、それでも数年前に国は精神病者に一日三千円以上の入院料を払っていた。私のところにも外国からの見学者が時々あるが、こと入院料にかんしてはとても恥しくて言えない。彼らはその実態を知ると一様に目をまるくしておどろくが、やがてそれは人間を尊重しない国へのブべツと変っていくのだ。
 さっきも言ったように、私立病院の設立者には「素人」もいる。その「素人」が他の企業と同じ目で病院をみて、利益追求にきゅうきゅうとして、配下の医師に無理無体を強いるとそこに問題が起る。たとえ設立者が「素人」でも、万事専門家に任せているところはうまくいっている。
 精神衛生法による措置患者や生活保護法の患者など、いわゆる公費患者に、本人とくに家族に医師選択の自由のないことも医療の本質に反する。公費以外の健保・国保・自費の患者はもちろ<0186<ん医師選択の自由があるから、公費患者がそうなればあまり芳ばしからざる病院は自然淘汰されてゆくにちがいない。
 病院が何らかの意昧で問題視される場合、たいていアルコール中毒と精神病質(性格異常)がからんでいる。それはこの両者が無断離院の率が断然高いことからでもわかる。院内の平和を乱し、他の患者にいろいろな意昧で迷惑なかけるのはこの両者または両者の合併型である。これらが犯罪と関連ができると、さらに手に負えなくなる。われわれの反対で中止になったが一時車の免許証の取得または更新に「精神病に非ず」という診断書の提出が義務づけられたが、車の事故は実は狭い意昧の精神病には少なくて、病的性格者に多いことがわかっている。そこでこれらの患者は国で、たとえば保安精神病院(フランスにはこういう名称の病院がある)といった性格の病院をつくって収容治療すべきだと思うが、残念ながらわが国にはまだそういう施設はない。それならばせめく国公立病院へと思うのだが、中毒・精神病質の収容率が国公立病院は民間病院より遙かに低いのは理解に苦しむところだ。もっとはっきり言えば、イヤな患者を断わる傾向のあるところもあるとも言える。そのシワよせが弱体の私立病院へやって来るのだ。」(斉藤[1971:182-187])

■言及・引用

◆立岩 真也 2013/11/ 『造反有理――精神医療現代史 へ』,青土社 ※

◆「斎藤茂太『精神科医三代』で日本の精神医学史を学ぶ」
 http://ponta.moe-nifty.com/blog/2008/02/post_f1b7.html
 「森田正馬の評伝を読んで日本の精神医学史に興味をもったぽん太は、続いて斎藤茂太『精神科医三代』(中公新書、1971年)を読んでみました。斎藤茂太先生は、言わずと知れた精神科医で斎藤病院の元院長、斎藤茂吉の息子にして北杜夫のお兄さんです。本書は斎藤家の紀一・茂吉・茂太の三代に渡る歴史を書いたもので、北杜夫の小説『楡家の人びと 』と同一の題材です。
 こんかいも書評や要約ではなく、ぽん太が興味深かった点を抜き書きいたします。
 まず斎藤紀一は、1891年(明治24年)に浅草区東三筋町54番地に浅草医院を開業しました(p.4)。現在も台東区三筋という地名が残っていますが、こちらの大正元年の浅草地図の東三筋町54番地を現在の地図と比べてみると、ここらあたり(地図)のように思うのですが、正確にはわかりません。ちなみに三筋2-16の三筋老人福祉会館に、斎藤茂吉の碑があるそうです。で、この頃、まだ紀一が精神科を志す以前で、あらゆる病気を診ていましたが、なかなか繁盛したそうです。1896年(明治29年)、守谷茂吉(のちの斎藤茂吉)は、生まれ故郷の山形県の上ノ山を立ち、紀一にもとに身を寄せました。ちなみに現在、山形県上山市には斎藤茂吉記念館があります。
 この頃の思い出を茂吉は、『三筋町界隈』(1937年、昭和12年)という随筆に書いているそうですが(p.5)、こちらの青空文庫で読むことができます。それを読むと「ぽん太」という芸妓が出てきますが、小生とは無関係なことはいうまでもありません。初代ぽん太は鹿島ゑ津というひとだそうですが、多磨墓地にお墓があるそうです。彼女は森鴎外の『百物語』(1911年、明治44年)に出てくるのだそうですが(こちらの青空文庫で読めます)、「太郎」という芸妓がそうでしょうか?
 さて、紀一は明治28年頃(?)に、神田泉町一番地にもうひとつ東都病院をつくりました。この場所はのちに坪井医院となり、昭和45年に茂太がそこを訪問したと書かれていますが、現在も坪井医院は残っているようです。
 細かい理由はわかりませんが、紀一は精神病院設立を思い立ち、まず自分が精神医学を修得するために、1900年(明治33年)にヨーロッパに旅立ちます。帰国は1903年(明治36年)ですが、奇しくも夏目漱石のイギリス留学からの帰国と同じ船になったそうで、日本で漱石の帰国を待っていた親戚は、精神科医が同船していると聞いて、留学中に精神障害になったのではないかと戦々恐々だったそうです(p.41)。
 帰国した紀一は、東都病院を精神科の病院に造りかえ、「帝国脳病院」と命名しました。さらに赤坂区青山南町5丁目に大精神病院の建設を開始し、1907年(明治40年)に完成。これが有名な青山脳病院です。この場所は現在では、表参道交差点から根津美術館方向に向かい、青山南小学校の向こう側を左に曲がった突き当たりです(地図はこちら)。マンションの一角に、斎藤茂吉の句碑があるそうです。こんどブルーノートにで行くときによってみようっと。
 話しは飛んで1924年(大正13年)、青山脳病院は火災で焼失します。病院の再建に対して反対運動が起こり、紀一は東京府下松原村に土地を借りて、病院を建設します(p.125)。これが現在の都立梅ヶ丘病院のある場所ですね。なぜこの病院が都に移ったかについては、後で述べます。
 知らなかったのは、この頃、精神病院の監督官庁が警視庁だったこと。有名な金子準二先生が、当時警視庁に技官としておられたそうです(p.129)。年配の先生にとっては当たり前か?厚生省ができたのは1938年(昭和13年)で、ようやく精神病院が警視庁の管轄からはずされたのだそうです(p.146)。」


UP: 20131001 REV: 20180225
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