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『老人はどこで死ぬか――老人福祉の課題』

佐口 卓・森 幹郎・三浦 文夫 19700715 至誠堂,184p.


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■佐口 卓・森 幹郎・三浦 文夫 19700715 『老人はどこで死ぬか――老人福祉の課題』,至誠堂,184p. ASIN: B000J9P7M8 420 [amazon] ※ b a02 a06
 さぐち・たかし/もり・みきお/みうら・ふみお


■目次

第T部 老人福祉の問題点
1 問題の提起  佐口卓
2 施設処遇と居宅処遇  三浦文夫
3 ヨーロッパの老人福祉の現状  森幹郎

第U部 老人はどこで死ぬか(座談会) 佐口卓・森幹郎・三浦文夫
1 「問題の提起」をめぐって
2 誰が死に水をとるか
3 同居か別居か
4 孤独と孤立
5 居宅か施設か
6 老人の権利と役割 
7 老人福祉の課題をめぐって

第V部 戦後老人対策のあゆみ 森幹郎
1 一九五〇年代(昭和二五〜三四年)
2 一九六〇年代(昭和三五〜四四年)
3 戦後二五年のまとめ

付録 老人福祉関連統計・老人福祉法

■引用

 「もちろん「老人はどこで死ぬか」という設問は、一面では、「老人は老後をどこで如何にして過ごすのか」ということを、逆説的(ルビ:パラドクシカル)に表現したものであろうが、この点は後述することにして、「老人はどこで死ぬのか」という質問は、考えようによっては、今日の老人福祉対策を考える場合に、タブー規されるだけのことであってはならない側面も含んでいる。
 たとえば、この問題は、わが国の老人福祉対策上の立ちおくれの一つとして指摘される「老衰末期者対策」にかかわるものでもある。この点について杉村春三氏は次ぎのようにのべている。
 「現在の日本の特別養護老人ホームは、法規制と行政機構の制約から、その本態的分析すらも遠慮されているきらいがあるが、要は老衰末期者に末期看護を中核的なサービスとしてあたえる。そして事実上老衰末期者を安らかに死なせる場所という根本認識が欠けているために、枝葉末節的なことに必要もない努力がなされたり、といってNursing homeの分化を十分に考慮する必要はもち
ろんあ<16<ることだけに、単一機能や性格を押しつけることは誤りでもあって、現在の時点では日本の特別養護老人ホームはむしろ通過すべき歴史的な過程全休の始まりの場所に停滞しているものと考えられる。最も重要なことは終末看護(Terminal-care)の機能であり、これは臨床診断診療を中軸機能とする病院とは、厳密にいって明確に区別されるべきものであろう。」(杉村春三「老人福祉をめぐる諸問題」社会福祉研究二号所収)
 だいぶ長い引用になったが、この指摘はわが国の特別養護老人ホームのおり方を鋭くついたもので、傾聴に価する提言であろう。人ロ老齢化がますます進み、さらにその第二段階とでもいうべき七五歳以上の後期高齢者層の激増が将来予想されるわが国にあって、この「老衰末期者対策」の重視という指摘は、老人ホームのあり方というだけでなく、老人対策全般についても、真剣に検討しなければならない問題提起の一つと思われる。」(佐口・森・三浦[1970:16-17])

 「たしかに、わが国の老人福祉対策を考える場合、老人の処遇を居宅中心に考えるかそれとも施設中心で考えるかということは今日では重要な問題の一つとなっている。しかし、このことが真剣に問われるようになったのはごく最近のことであり、昭和三八年老人福祉法が登場する頃までは、この問題は少なくとも老人福祉対策との関連で問われることはきわめて稀であった。
 それは、いうまでもなく、従来の老人福祉対策は生活保護事業の枠内で取り扱われ、居宅保護か施説保護ということは、あくまでも生活保護法の処遇原則に結びついて論じられるにすぎなかったか<31<らである。そして、この場合に居宅保護が原則とされたにしても、それは老人処遇ということとは無関係に、被保護世帯すべてに共通するものとして取り扱われていたのであった。そして老人の処遇ということは、経済的貧困を前提として「老齢のため独立して日常生活を営むことのできない者で、適当な扶養家族のいない者のために、国および地方公共団体は、老齢者ホームを設け、これらの人々の便宜を図る必要がある」(昭和二五年、社会保障制度に関する勧告)ということで、生活保護法で 「養老施設」への収容を規定している。その意味で、上記の条件にない貧困老人は、生活保護法による経済保障を与え、必要に応じて生活指導を行なうことがあるにしても、それらは特に老人福祉対策とみなされるものではなく、老人福祉対策としてはあくまでも施設処遇が中心的な課題となっていたのである。
 しかし、昭和三八年の老人福祉法の制定は、一面で、生活保護法に収斂されていた老人福祉対策を部分的に解放することになった。たとえば、同法の第二条「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として敬愛され、かつ、健全で安らかな生活を保障されるものとする」という規定に示されるように、従来貧困老人に限定されていた老人福祉の対象を一般老人にまで拡げ、しかも、その処遇の内容としても、生活保護法の規定する最低生活の保障ではなく、理念的には「健全で安らかな生活の保障」が得られなければならないとされたのである。したがって、対象が貧困老人だけでなく一般老人にまで拡げられたということは、それまでの施設<32<収容中心の老人福祉対策では済まされなくなり、居宅処遇を含む総合的対策に転換することが要請されることになったのである。
 ところで、この転換のなかで、収容施設は、従来の養老施設一本ということではなく、養護・軽費・特別養護の三本建ての老人ホームに細分化されることになった。しかし、注意しておかなければならないのは、特別養護老人ホームは例外としてみても、他の二つはあくまでも経済的事由にもとづいて区分されていることである。これは、老人福祉法の前提となる所得保障を例にとると、国民皆年金体制ということで制度の枠は西欧なみに確立されながらも、それが今日の老人の生活には実際的に有効に働かず、依然として最終の救済手段としては生活護法(ママ)に依存しなければならない現状では、ある意味で止むをえないものであるかもしれない。
 したがって、このような収容施設のもつ現状のなかで、老人の処遇は居宅中心でいくかそれとも施設中心でいくかという設問は、きわめて限定された範囲でしか考えることはできないのである。すなわち、老人の処遇は居宅中心でいくべきかどうかといっても、その前に、老後の経済生活は何によって支えられるかということが問われなければならない。そして、経済的に貧しいという前提が明らかになってはじめて、居宅かそれとも施設かということが問題とされることになるのである。換言すると、経済的に自活できる老人にとっては(有料老人ホームを例外としておくならば)、居宅での生活ということは選択の余地のないほとんど自明のことといわれなければならない。<33<
 なお、経済的事由とは別の見地から老人の収容をはかる特別養護老人ホームについて、付言しておこう。周知のように、このホームは、「養老施設収容者のうちには、精神上または身休上著しい欠陥があるため、常時介護を要する状態にある者……を一般の者と分離して収容し、医学的管理のもとに適切な処置を行うことが、老人の健康の保持と施設管理の合理化の面から強く要請される。……また生活保護階層でない老人のうちにも以上と同様の状態にあるもの……は家庭内において必ずしも適切な看護を受けているとは限らないので、これらの者をも合せて収容する施設として、諸外国にその例をみるナーシングホームを計画的に設備していくことを考え」て設立されたものである(昭和三七年厚生白書)。
 しかし、この趣旨にもかかわらず、諸般の事情によって、医学的管理・看護等はかならずしもその中心的機能とすることができず、収容される老人は常時介護を必要とするものとされ、いわゆる「ねたきり老人」の収容が実体となっている。その性格は曖昧なものとなった。そしてこの「ねたきり老人」のもつ特性はほとんど考慮されず、その分類もおこなわれていない。その上、この施設数は、昭和三八年の三施設から昭和四四年三月末で八三施設と大幅にふえているが、この種の施設を必要とする老人のニードに比較すると、その数はあまりにも僅少にすぎるといわなければならない。
 要するに、このホームにかぎっていえば、入居のために経済的事由は直接には問題とならずに、常時介護を要するかどうかという理由によって施設への収容が選択されることになる。しかし、このよ<34<うな建前があるにもかかわらず、施設数の絶対的な少なさは、居宅になじまない老人をも余儀なく居宅としなければならないことも多々起こり、その意味では選択の幅が狭いといわなければならない。
 また老齢にともなう心身機能の退行化の進展は当然精神上・身体上の疾病を増加させる。その意味からいうと、老齢者にたいする医学的管理はきわめて重要なものとなる。しかし、特別養護老人ホームは上述したようにかならずしも医学的管理を行なうわけではなく、さりとて、老人向けの医療施設もかならずしも体系的に整備されているわけではない。このために、心身上の理由から医学的管理をともなう施設を望んでもほとんどこの期待にこたえることができない。」(佐口・森・三浦[1970:31-35])

◆第U部 老人はどこで死ぬか(座談会) 佐口卓・森幹郎・三浦文夫

「I「問題の提起」をめぐって
 佐口 まず、最初に、老人はいかに死ぬか、死ぬべきか、また、どこで死ぬか、あるいは死というものにぶちあたるまでの老衰末期の問題をどう取扱うか、こういう問題提起をしたわけですが、両先生はともに老人福祉の研究を進めておられるので、その点、問いかけに最初いったいどういう感想をお持ちになったかをうかがってみたいのです。
 森 「老人はどこで死ぬか」というようなことを、実は、これまであまり考えたことかありませんでした。ということは、まさに、従来の老人福祉対策をそのままあらわしているのだと思うのですが、わが国の老人福祉対策は、従来、いってみれば老人ホーム対策だったと思うのです。私どもがいままで老人福祉の対象としてきた老人というのは、老人ホームの老人しかいなかったわけです。したがって「老人はどこで死ぬか」といえば、老人ホームしかなかった。ですから、いま改めてこの問題を考えてみますと、まず、老人ホームで生活している老人は全国の六五歳以上の老人のわずか一パーセントそこそこに過ぎないんだ、ということを再認識しなければいけないと思うんです。そして、つぎに、水底で生活している残りの九九パーセントの老人のなかには、たとえば、ねたきりの老人が数十万人もいることを再認識しなければならないと思うんです。<62<
 戦後四分の一世紀、老人福祉法が制定されてから七年を経たい今日、これほど老人の問題が世間でやかましくいわれながらも、実は、行政的な面では最近まで家庭の老人のことが生活保護を受けている老人などのほかにはあまり顧みられないできたという意味で、「老人はどこで死ぬか」という問題は、私にとって、ショッキングな問いかけであったわけです。
 さて、「老人はどこで死ぬか」ということからまず第一に連想するのは、「ねたきり老人」の開題です。その数は、昭和四三年、全国の民生委員が老人の総点検をした結果によりますと、七〇歳以上の老人については一八万人、六五歳以上の老人については四〇万人と推計されていますが、これらの老人が、どこで、どのようにして死んでいくのかということは大きな問題です。つまり、家族や看護婦の看護も受けないで、はなはだしい場合には、ゴハンは一目に一回しかあてがわれないとか、納戸にねかされほったらかされているとか、人間としての生活を保障されていない老人もモのなかには少なくないことを知って、「どこで、どのようにして」、ということをもう一度、謙虚に、素直に見直さなくてはいけないと思うんです。老人福祉といいますが、人権にもかかわるこのような大きな問題が民生委員の老人総点検が行なわれるまでほとんど問題にならなかったということは、大きなショックでしたね。
 三浦 「老人はどこで死ぬか」という問題提起にどう答えるべきかということになると、正直いってハタと当惑してしまいます。この当惑感は何であろうかとふり返ってみますと、いろんなことが考え<63<られますが、その一つには、老人問題を考えるときに死という問題はできるだけ避けるという世間一般の空気と関係かあるように思います。私どもも、しらずしらずのうちに、老人の死という問題については、あからさまに問題にするのは慎みたいというような気持もなかったとはいえません。しかしこういう形で真正面から問題を提起されてみると、この問題を避けるということでは済まないことであると思います。よく考えてみますと、この問題は老人対策、老人福祉対策の場合に、非常に重大な問題を含んでおることに気がつきました。
 ところでこの問題を受けとめてみまして、まず頭に浮かんだのは、老人ホームをターミナル・ステーションとして考えようとする提案でした。たしか昭和四十三年の老年社会科学会の席上であったかと思いますが、杉村春三先生が老衰末期者の対策と関連して、老人ホームはどのような性格をもつべきかという問題提起をされて、ターミナル・ステーションということをいわれていますが、率直のところ、そのとき私はこの提言がピンとはきませんでした。しかしいま改めて、「老人はどこで死ぬか」という問題を出されてみると、この杉村先生の発言は老人ホームにとっても非常に重要な問題であったということに気がつきます。その意味でも、この問題はもう一度考えてみなければならないと思いました。」(佐口・森・三浦[1970:62-64])

「佐口 いかに死かぬべきかということになれば、場所の問題もあるけれども、もう一つはやはりそれに耐えるだけの気持を養っておかなければならないという自分自身の問題だということですね。
 森 そうですね。いわゆる老年性痴呆のような老人は別としても、心身の比較的元気な老人については、とくにこのことが強調されなければならないんじゃないですか。
 佐口 ただたしかに生ける屍になったときのあの状態というのは、悲惨であると同時に本人には自覚できないことだし、そうなってくると、安楽死というような問題も本当は出てくることですね。
 森 ですから、私は前からこんなことをいったり書いたりしているんです。それは、養護老人ホー<136<ムがまだ、生活保護法の養老施設といっていた昭和三七年の調査なんですが、収容されている老人の六四・一パーセントは健康な老人なんですね。これらの老人には、本当は、住宅をあげればいいんです。そして貧しくて生活ができなければ生活保護法でみてあげればいいんです。とにかく住宅をあげる。そして、そのあとの空いたところには比較的病弱な老人や、ねたきりの老人をいれたらいいと主張してきたんです。
 しかし、従来、とくに戦後しばらくのあいだは日本の住宅行政が労働政策の一環として、つまり労働力の再生産という立場から推進されていたということもあって、健康な老人が住宅を与えられないまま養護老人ホームに入ってきたため、一方では四〇万人というねたきり老人が、世間から忘れられたまま、老人ホームに入れないでいたんですね。わが国でも北欧のように福祉住宅や低家賃住宅の建設、あるいは家賃補助の制度を実施していれば、健康な老人は養護老人ホームに入る必要もなく、養護老人ホームにはまず病弱な老人をいれることができたはずなんです。
 戦後もすでに二五年、四分の一世紀が過ぎたんですから、もうそろそろ老人ホームの住宅代替機能は払拭したいもんです。健康な老人にたいする三食つき、寮母さんつきのオーバー・サービスは決して老人の人権を尊重したことにはならないと思うんです。
 佐口 これから老齢人口がどんどんどんどんふえていく状勢のなかで、ねたきり老人の数もまたふえていくと思うんですが。<137<
 森 ねたきり老人の数は、今後は医学の進歩につれて、むしろ減るんじゃないですか。というのは老人をねたきりにして動けなくしてしまったのは医学の責任なんですね。つまり、いままで、脳卒中といえばとにかく寝かせておくしかなかったんです。それが最近では、発作後一週間もしないうちに起こすようになりましたからね。ねたきり老人のうちの半分は脳卒中の後遺症なんですから、少なくとも脳卒中の後遺症によるねたきり老人の数は相当に減ると思うんです。
 ただ老衰末期の老人は佐口先生かおっしゃったように、これはふえると思います。昔なら、ほっておく以外に治療方法のなかったような病人も、いまでは、とにかく呼吸だけは続けさせることができるんですからね。植物人間、そういうような意味で死ぬないで生きていく人もふえてくるでしょう。
 佐口 どうも題名からしてこの木は非常に暗いんですけどね。結論もなんとなく暗くなってきたわけですが、老人の死をみつめて、われわれが何か考えるべきことがあることだけはわかる、受け取り方はさまざまで、宗教の問題であろうと何であろうと、もっと真剣に考えるべき問題だという警告を与えるという点ではいいじゃないですか。今まで老人福祉を語るときには老人天国のようなことが多すぎたと僕は思うんですよ。そうじゃないんだ、それをやろうとしたって残る問題は死というものがあるんじゃないかと考える。その死にいたるまでの老人のあり方について、世の中に警告を発する意味では、たとえ暗くともこの本は非常に有意義だと思うんです。」(佐口・森・三浦 [1970:136-138])

◆第V部 戦後老人対策のあゆみ 森幹郎

「一九五〇年代(昭和二五〜三四年)
a 養老施設の時代
 一九五〇年(昭、二五)といえば朝鮮戦争の起こった年であるが、この年現行の生活保護法が制定された。
 これより先き一九四五年(昭、二〇)に第二次世界大戦が終わり、翌年、生活保護法の旧法が制定されている。これは日本を占領した連合国総司令部の指導のもとに制定された、いねば応急的な立法であったから、わが国における近代的な意味での公的扶助の制度は、一九五〇年(昭、二五)の新生活保護法の制定によってその第一歩をふみ出したといってよい。
 一九四六年(昭、二一)に制定された日本国憲法は、その第二五条に、
 @すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 A国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と規定しているが、生活保護法は、この理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行ない、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とするものである(生活保護法 第一条、この法律の目的)。
 生活保護の方法としては、生活扶助、住宅扶助、医療扶助等があり、その中心をなすものは生活扶助であるが、これは「被保護者の居宅において行う」ことを原則としている。そして、居宅において保護を行なうことができないとき、保護の目的を達しがたいとき、または被保護者が希望したときは、それそれ保護施設に収容して保護を行なうこととなっている(第三十条、生活扶助の方法)。
 老人を収容する保護施設を養老施設といい、「老衰のため独立して日常生活を営むことのできない要保護者を収容して、生活扶助を行うことを目的とする」(第三十八条、保護施設の種類)と規定されていたが、これは古くから、いわゆる養老院といわれてきた<140<ところのものである。
 すなわち、当時の老人対策は、老人が生活に困窮した場合その最低限度の生活を保障するものであって、このかぎりにおいては消極的な意味しか持たなかったといえよう。
b 老人福祉の夜明け
(1)有料老人ホーム
 第二次世界大戦は、わが国の各方面にはかりしれない大きな影響をのこしたが、「いえ」の制度の崩壊もその一つである。すなわち、戦後、従来の拡大家族の制度はくずれ、新しい「家族」が生まれた。その影響かまともに受けることになったのが老人である。
 その場合、老人が生活に困窮するときには、生活保語を行なうことによって問題の解決を図ることができた。しかし、生活に困窮しない中間階層、上流階層に属する老人のあいだにあっても、こども夫婦との心理的葛藤があらわになってくるなど問題があった。このような葛藤は戦前からもしばらしばあったはずであるが、当時は「いえ」の体面を汚してはならないという慮から潜在化していたものと思われる。それが、一九四七年(昭、二二)、民法の大変革等の影響もあって、社会の表面に出てきたものといえよう。
 また、今次大戦の戦禍によって住宅困窮はその極に達していた。
 こうした社会的な背景のもとに生まれたのが有料老人ホームである。すなわち、それは、物心両面において崩壊した「としよりの座」に安住していることのできなくなった老人たちの別居欲求にこたえることとなったのである。
 一九五一年(昭、二六)頃から、全国養老事業大会の議題の一つに有料老人ホームの設置促進がとりあげられるようになったが、一九五一年(昭、二六)、最初の有料老人ホームが東京都内に設置された。つづいて毎年数ヵ所ずつ設置され、一九五〇年代の終わり(昭、三四)までにその数は全国で二一ヵ所を数えるにいたった(全国養老事業協会調べ)。
 一九五〇年代における有料老人ホームの続出は、老人問題が生活困窮以外の要因からも生まれてきたことを示すもので、これらの問題は、いずれの社会におい<141<ても、都市化、近代化の過程においては容認しなければならないものであろう。有料老人ホームは、このような過程において住宅対策の遅れを補完していたものである。
(2)としよりの日
 これより先き一九五〇年(昭、二五)、兵庫県は九月一五日を「としよりの日」とし、全県あげて敬老の事業を行なったが、翌年、全国社会福祉協議会は、この着想をとりあげて「としよりの日」を全国的な日とし、各種の国民的行事を行なった。
 従来、老人対策といえば、人はすべて養老院を連想し、しかも、老人問題は市民から隠蔽される傾向がみられた。このような時、としよりの日の運動が国民運動として全国的にとりあげられたのは、老人問題が社会の表面に押し出されてきたからであり・、そしてまた、生活困窮階層の問題から全国民的な視野にまで拡がってきたからである。このことはすなわち、戦後、わが国の老人問題が一変したことを示すものである。
(3)老人福祉法試案
 一九四七年(昭、二二)には児童福祉法が、つづいて一九五一年(昭、二六)には児童憲章が、また、一九四九年(昭、二四)には身体障害者福祉法がそれぞれ制定され、児童問題、身体障害者問題がようやく軌道に乗ると、次ぎには老人問題が大きな社会問題となり、老人福祉法の制定に対する要望が各種の大会で決議されるようになった。
 こうした空気にこたえて、一九五三年(昭、二八)、熊本市の潮谷総一郎、杉村春三両氏じゃ老人福祉法の試案を発表した。
(4)老人クラブ
 今日、老人クラブはその数およそ八万を数えるが、そのうちもっとも初期に結成されたものの一つに一九五〇年(昭、二五)大阪市内で結成された二つのクラブがある。同市の老人クラブは翌年七ヵ所にふえ、一九五四年(昭、二九)には四七を数えるにいたった。一方、同年のとしよりの日には全国的に老人クラブを結成する気運が促進されたこともあって、全国社会福祉協議会が同年調査したところによれば、その数は一二一にのぼっている。
 全国一一二の老人クラブのうち半数に近い四七が大<142<阪市内にあるのは、当時、老人クラプ活動が大阪市においてとくに活発であったことを示すもので、市当局が意欲的にその結成をすすめていたことが知られる。東京都においても、一九五三年(昭、二八)度から、老人クラプ(新宿生活館)が実験的にはじめられている。
 呱々の声をあげて二〇年、老人クラブは幾つかの発展段階を経て今日にいたった。発足当初の老人クラブは、私が「避難所型」と呼ぶところのもので、従来の養老施設や有料老人ホームなどの施設対策ではどうにも解決することのできなかった新しい必要性にこたえて生まれたものである。
 すなわち、家庭のなかに「としよりの座」のなくなった老人たちは、老人クラブにやってきて、嫁に頭の上がらない息子をののしり、靴下よりも強くなった嫁の悪口をいい、戦前の古き良き時代を回想してはフラストレーションを解消していたのである。蘇軾の詩に事をしのぶは腹くるるがごとしとあるが、初期の老人クラブはフラストレーションを解消するという役割を果たしていたのであり、その面での効果には大きなものがあったといえよう。
 「いえ」の制度の崩壊が、大都市においてより早く、より強く起こったことを知れば、老人クラブが、まず大阪、東京のような大都市で発足したことも容易に理解できよう。また、それらは、自然発生的に生まれたというより、当時その衝にあったすぐれた行政官の知恵と意欲とから生まれたものといえよう。
 その後、老人クラブは次ぎの発展段階に入るが、これはさらに後のことに属する。
(5)敬老年金
 戦後における拡大家族制度の崩壊が老人に与えたもっとも大きな影響の一つは、老後の生活をこどもに期待できなくなったということである。従来から、老親の扶養は家督の相続と表裏一体のものであったから、相続すべき「いえ」の制度の崩壊した戦後、こどの側に老親扶養の意識が弱まったとしても、それもまたやむを得ないものであったかもしれない。
 老後の生活が私的扶養から公的扶養に移り変わっていくは、社会の近代化の過程において広くヨーロッパの諸国がすでに経験してきたところであり、ひとりわが国だけが否定することのできるものではないであ<<ろう。
 憲法にも明示されているように、老人の生活保障は国の責務であるが、それが具体化されるには若干の年月を要する。それを待っていられない市民の声にこたえて、地方公共団体のなかには独自に敬老年金の制度をはじめるものもでてきた。
 すなわち、一九五六年(昭、三一)四月から、大分県、久慈市(岩手県)、蕨町(埼玉県)、若宮町(福岡県)の四地方公共団体は敬老年金の制度をはじめ、いささかなりとも、老人の生活を支えようとしたのである。以後、引きつづいて同年中に一二地方公共団体がこれにならい、翌年四月にはあらたに一八五地方公共団体がこの制度を開始した。
 大分県敬老年金条例の制定に当たって、厚生部長通知が管下の市長あてに出されているが、この通知には敬老年金の趣旨がよく説明されているので、やや長いが全文を引用しておこう。
 「戦後における医学の進歩と社会保障制度の充実等客観諸情勢の安定により、日本人の平均余命は著しく延長され、この結果人口の老齢化が顕著となり、老人福祉の問題も消極的な保護や研究では済まされ なくなってきており、また従来、高齢者の生活保障のため、種々欠陥はあったにせよ家族制度が大きな役割を果してき、現在もなお若干の機能を営みつつあるが、しかしながら、今日においては、旧時の家族制度の復活を望むことは到底不可能であるのみならず、現状維持すら至難であると云わねばならない。このことは、家族制度を守り高齢者の扶養義務を果そうと努めても、家族員の経済力の弱化のために実際にこれを果し得ない場合が多いのである。この故に、徐々にではあるが確実に増加する高齢者の生活保障制度の確立は重要かつ切実な問題となりつつある現状の然らしむる時代の要請により、高齢者の福祉問題対策の一環として制定したものである。従って、この条例は、その制定の発意からしても極めて道義的性格を強く有するものであるといえるのである。」
 以上のとおりであるが、支給の対象とされたのは、県内に引きつづき五年以上居住し、かつ年齢九〇歳以上の者であったから、年金とはいっても社会保障的な<144<ものではなく、敬老の精神に基づく倫理的な性格のものであった。
 また、蕨町の敬老年金制度もほとんど同様で、「蕨町居住の高齢者に対し、敬老と長寿を祝福し、その家庭の平和と住民福祉の向上に寄与する」ことを目的とするものであった。ただし、蕨町の場合、支給の対象とされたのは、当初は満八八歳以上であったが、翌年度からは満七七歳以上のものとされた。
 すなわち、これらの敬老年金の制度は、まさに長寿を祝福する敬老の精神から出たもので、老人の所得保障を意図しようとするものではなかった。
 なお一九五六年(昭、三二)春の国会には社会党から慰老年金法案が提出されている。同法案は、満六五歳以上の老人に対して年金を支給しようとするものであるが、一定所得以上のものに対しては支給しないという所得制限のあること、全額国庫負担による無拠出制であることなど、「年金」とはいいながら、公的扶助の性格を有するものであった。
 結局同法案は成立しなかったが、年金制度に対する国民の関心を高める上で大きな影響を与えた。すなわち、その三年後、一九五九年(昭、三四)、国民年金法が制定され、一九五四年(昭、二九)に制定された厚生年金保険法などとあわせて、国民皆年金の体制がしかれることとなったからである。
(6)老人家庭奉仕事業
 一九五八年(昭、三三)、大阪市では、民生委員制度開設四〇周年を記念して臨時家政婦制度をはじめたが、これは「生活に困窮する独居の老人が、老衰その他の理由により、日常生活に支障をきたしている場合に、家庭奉仕員を派遣して身の廻りの世話その他必要なサービスを行ない、日常生活上の便宜を供与することを目的とする」もので、のちに、その名称を家庭奉仕員派遣制度と改めた。
 家庭奉仕員は、老人の家庭に派遣されて、洗濯、掃除、縫物等身の回りの世話を行なうほか、必要に応じて看護などのサービスも行なったが、老人はこれによって居宅での生活を継続することができたのである先きにのべた老人クラブに対する育成指導といい、この家庭奉仕員派遣制度の創設といい、大阪市当局の老人福祉の推進に対する積極的な姿勢は、その後のわ<145<が国の老人福祉行政の推進に対してきわめて貴重な実験を栢み重ねることとなった。
c 養老事業から老人福祉へ
 社会事業という言葉はすでに早くから使われていたが、社会福祉という言葉が法律用語となったのは第二次世界大戦後のことである。すなわち、憲法第二五条に規定されたのがはじめである。
 しかし憲法もそれ以上にはふれていない。その後、一九四七年(昭、二二)に児童福祉法、一九四九年(昭、二四)に身体障害者福祉法がそれぞれ相い次いで制定され、戦前の社会事業という言葉は社会福祉という言葉に変わっていった。そして、その具体的な内容は、一九五一年(昭、二六)に制定された社会福祉事業法の次ぎの規定に盛られたものとみてよい。
 「社会福祉事業は、援護、育成又は更生の措置を要する者に対し、その独立心をそこなうことなく、正常な社会人として生活することができるように援助することを趣旨として経営されなければならない。」(第三条)。
 社会福祉の内容は、狭義に用いられる場合には、かつて社会事業の意味したところのものとほとんど同じとみて差支えないが、社会福祉と訳された原語Social Welfareは、もう少し広く、社会政策、社会保
障、そして住宅、公衆衛生、環境衛生、教育等にまで及ぶ場合も少なくない。
 ウェブスター大辞典第三版は、Social Welfareについて次ぎのように説明している。
 organized public or private social services for the assistance of disadvantaged classes or groups.
 こうした新しい考え方は、老人を対象とする社会事業の分野にも影響を及ぼし、従来の養老事業という言葉がだんだん使われなくなってきた。これに代わって、使われるようになったのが老人福祉という言葉である。
 この言葉がいつ頃から使われるようになったのか、確かめるのは今日容易なことではないが、すでに一九五〇年代の中頃には相当広く使われていたものとみてよいであろう。<146<
 全国の養老施設を加盟会員とする全国養老事業協会は、一九三三年(昭、八)、その機関誌「養老事業だより」を創刊したが、戦後、一九五六年(昭、三一)には、「誌名を老人福祉と改め、養老事業を中心とし、一般老人福祉の面にまで範囲を拡張することとした。」(第一八号、編集後記)として、誌名を「老人福祉」と改題した。この後記にも、養老事業から老人福祉への脱皮、質的な転換がみとめられるであろう。
 また、従来「全国養老事業大会」という名称のもとに開催されてきた養老施設関係者の会議も、一九五九年(昭、三四)、「全国老人福祉事業関係者会議」と改められ、のもさらに「全国老人福祉会議」と改められて、従来の養老施設の関係者のほか、有料老人ホームの関係者、老人クラブの今日なども多数参加するようになった。養老事業時代から老人福祉時代への転換は、すなわち、老人問題が転換期を迎えたことを意味するものであった。

2 一九六〇年代(昭和三五〜四四年)
a 老人福祉法
 一九六〇年代をかえりみて、老人対策の上で特筆すべきことは、一九六三年(昭、三八)の老人福祉法の制定であろう。
 その源流は、先きにものべた一九五三年(昭、二八)の潮谷・杉村両氏による老人福祉法試案にまでさかのぽることができるが、翌年の全国社会福祉事業大会において、「養老年金制度を中心とする老人福祉法の制定」が決議されて以来、老人福祉法の制定は関係者のあいだの悲願となってきた。
 一九六一年(昭、三六)、右の試案は若干改正されて、九州社会福祉協議会の試案として採択された。また、同年、民社党は政策審議会の案として老人福祉法案要綱を発表した。つづいて自民党も老人福祉法要綱の紅露試案を発表した。
 このような老人福祉法の制定に対する世論を反映し<147<て、一九六三年(昭、三八)、老人福祉法の制定をみるにいたったのであるが、これによって老人対策が新しい考え方に立ったことはいうまでもない。すなわち、「この法律は、老人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、老人に対し、その心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を講じ、もって老人の福祉を図ることを目的とする」(第一条)ものであり、さらに、「国及び地方公共団体は、老人の福祉を増進する責務を有する」(第四条第一項)と規定されたからである。従来、民間または地方公共団体が自由に進めてきた老人福祉の増進が、いまや国および地方公共団体の責務であると宣言されたのである。
 先きに国民皆年金、国民皆保険の体制がしかれ、いままたここに老人福祉法の制定をみ、憲法第二五条に規定する「社会福祉、社会保障の向上及び増進に努める」ための体制は一応立法上その形をととのえるにいたったのである。
 一方、これより先き、政府は、ようやく顕在化してきた老人問題の重要性を痛感し、一九六一年(昭、三六)六月、厚生省組織令の一部を改正して新時代に即応する組織をととのえていた。
 すなわち、従来、生活保護法に基づく養老施設に関することは祉会局施設化課の所管で、その所掌事務は「養老施設の設備及び題言に関する指導及び助成を行なうこと」と規定されていたのであるが、新しく、「老人福祉事業の指導及び助成に関すること」がその所掌事務に加えられたからである。法令用語として「老人福祉事業」という言葉が用いられたのはこれが最初である。
 さらに、老人福祉法の制定された翌年四月、厚生省社会局には老人福祉課が設置され、またその翌年一九六五年(昭、四〇)には、東京都も民生局内に老人福祉課を設置した。現在、地方公共団体の民生局に老人福祉課を設置するものは、二(東京都、大阪市)、老人福祉係を設置するものは二八に及んでいる。
 なおまた、老人福祉法の付則において社会福祉事業法の一部改正が行なわれ、厚生省の付属機関である中<148<央社会福祉審議会のなかには、既設の生活保護専門分科会とともに老人福祉専門分科会が設置された。以来、中央社会福祉審議会は、数次にわたって、老人福祉施策の推進に関する答申・意見具申を行なってきた。
b 老人福祉対策
(1)経費老人ホーム
 最初の有料老人ホームが生まれて一〇年後、一九六一年(昭、三六)にはモの数は二六に達していた。これを設置主体別にみると、公立一(神奈川県)、社会福祉法人立六、宗教法人立二、学校法人立一、財団法人立五、社団法人立二、私人立九となっている。
 また、ますます高まってくる有料老人ホームの需要にこたえて、厚生年金保険の老齢年金受給者を対象とする厚生年金老人ホームの設置が計画され、一丸六二年(昭、三七)、はじめて熱海(静岡県)に設置された。これより先き、簡易保険・郵便年金の加入者を対象とする老人ホームが、一九五五年(昭、三〇)熱海に、つづいて、一九五八(昭、三三)、別府(大分県)に、翌年小樽(北海道)にと相い次いで設置されている。
 これらの有料老人ホームは、公私を問わず、いずれも入所申込者が殺到し、多数の申込者が待機して老人の要望を満たしきれないことは明らかであった。
 しかし、当時、私人の設置・経営するものの多くは、毎月の利用料のほか入所に当たって利用者から相当額の保証金、寄付金、権利金等を徴収していた。それらの多くは施設建設費の一部に当てられることが多かったので、老人が退所を申し出ても保証金を返済できない、というような例も出てきた。また、毎月の利用料は徴収せず、入所時に終身利用料として多額の一時金を徴収している例もあったが、ようやく慢性化してきたインフレのために、終身利用料として徴収したはずの一時金が年々その貨幣価値を失い、経営者側ではすでにそのすべてを使いきってしまっているという例もあった。このことに関して、有料老人ホームのなかには、老人と老人ホームとのあいだに紛争が起こり、社会問題となっているものもあった。
 こうした背景のなかで、社会福祉関係者のあいだに<149<は、早くから、無料の養老施設のほかに、社会福祉事業として有料の老人ホームを設置・経営することを希望する声があがっていた。いま、各種の大会等における古い記録を繰ってみると、一九五三年(昭、二八)度の全国養老事業協議会の大会で、すでに有料老人ホームの設置・促進について関係方面に陳情することを決議している。
 それから一〇年近く、ほとんど毎年の大会で社会福祉事業としての有料老人ホームの設置促進が決議されている。一方、高まる需要にこたえてこれを設置するものもふえてきたので、政府も、ようやく有料老人ホームについては実験的な段階を終わったものと判断し、一九六一年(昭、三六)度からその施設整備費に対して国庫補助を行ない、その設置を助成するとともに、あわせてモの運営を指導監督することとなった。そして、その法的根拠を明らかにするため、先きにものべたとおり、同年厚生省組織令の一部改正を行なうにいたったものである。
 そして、当時施設課の所掌事務の一つに加えられた「老人福祉事業」が具体的に意味したものは、「経費老人ホームを設置・経営する事業」であり、これは、社会福祉事業法に規定する「生計困難者を無料又は低額な料金で収容して生活の扶助を行うことを目的とする施設」(第二条第二項第一号)に該当するものとされた。
 そして、経費老人ホームは、毎月の利用料のほかは保証金・寄付金などいかなる名目にもかかわらずこれを徴収してはならないこととし、毎月の利用料も養老施設の措置委託費(生活費と事務費との合算額)と同額とされた。「経費」という言葉はこの時新しくつくり出されたもので、「低額の利用料」というほどの意昧である。
 要するに、従来から行なわれてきた養老施設の施設整備費に対する国庫補助にとどまらず、さらに広く低所得階層に属する老人を対象とする経費老人ホームの施設整備費に対しても国庫補助することによって、老人対策は救貧という考え方から老人福祉という考え方ヘ一歩前進したのである。
(2)老人家庭奉仕事業
 一九六二年(昭、三七)に入ると、老人福祉対策は<150<きらに展開する。
 すなわち、同年から、新しく、老人家庭奉仕事業と老人福祉センターの設置に対してそれぞれ国庫補助が行なわれることとなったからである。これらはいずれも養老施設や軽費老人ホームのように施設に老人を収容してその福祉を増進しようというものとはちがって、居宅老人の福祉を増進することを目的とするものであった。それは、人は老若男女を問わずその家庭において豊かな生活を送るのがもっとも好ましく、施設に収容し、保護するのはやむをえない場合における次善の策である、という社会福祉の基本原理を老人福祉行政に応用したものであった。
 先きにもみたとおり、一九五八年(昭、三三)にはじめて大阪市が臨時家政婦制度をはじめて以来、神戸市、名古屋市等の大都市や、長野県下の各市町村、布施市、秩父市、行田市等では、相い次いで同様の制度を採用し、その成果にはみるべきものが少なくなかった。
 ここに、政府は、老人家庭奉仕事業についてもすでに実験的な段階は終わったものと判断し、積極的にこれに国庫補助していくことになったものである。
 しかし、初年度、国庫補助の対象とされた老人家庭奉仕員の数はわずか二五〇人で、六大都市に配置されたに過ぎなかった。そして、派遣の対象も「要保護老人世帯」とされ、「そのなかに占める被保護老人世帯の割合はおおむね五〇パーセント以上とされ」だ。このことは、低所得階層から順々にサービスを供給していかなくてはならないわが国の現状からして、やむをえないことであったというべきであろう。一九六五年(昭、四〇)、その対象はやや緩和されて「低所得の家庭」にまで拡げられた。
(3)老人福祉センター
 養老施設・軽費老人ホームはいずれも施設対策であり、老人家庭奉仕事業は居宅対策ではあるが、「老衰等のため、独力で生活を営むことの困難な老人の属する要保護老人世帯」に対する対策であって、これらのサービスを受けるには、いずれもそれぞれ経済的な条件と身体的な条件とが必要とされた。つまり、それらのサービスは、すべての老人に対して開放されてはおらず、一定の条件に該当しない場合にはこれらのサービスを受けることができなかったのである。<151<
 これに対して、一九六二年(昭、三七)からその整備費に対して国庫補助が行なわれることになった老人福祉センターは、広く一般の老人を対象とするものであった。
 老人福祉センターの実験は当時まだ行なわれておらず、むしろ行政サイドの方が先行したといえる。その点、数年間の実験の後に国庫補助の対象とされた軽費老人ホームや家庭奉仕事業とはまったく異なっている。その後の老人福祉センターの発展の姿が、政府によって定められた老人福祉センター設置運営要綱とかならずしも同一ではないのは、こうしたところにも一つの理由があるといえよう。
 当時、世人クラブの数はすでに一四、六五四にも上っていたが(一九六二・四・一)、老人福祉センターの設置によって、老人クラブの活動がさらに大きな刺戟と活路を与えられたことはいなめない。
 すなわち、当時、老人クラブ活動の上でもっとも大きな隘路となっていたものは、活動の拠点となるべき会場が確保しにくいということであった。しかし、老人福祉センターーの設置された市町村にあっては、水を得た魚のように老人クラブ活動が活発になり、また、このことを伝え聞いた他の市町村の老人ククラブでは、老人福祉センターの誘致に狂奔することとなったからである。
 こうした要請にこたえて、国民年金特別融資、厚生年金保険積立金還元融資による地方公共団体の地方債の対象として、一九六一年(昭、三六)から、「老人クラブ」という名称のもとに老人クラブ会館が加えられた。そして、これは町村部に多く建てられ、老人福祉センターとともに老人クラブ活動の拠点となった。なお、「老人クラブ」は一九六五年(昭、四〇)度から「老大憩の家」とその名称を改められた。
 また、同じく一九六五年(昭、四〇)から、老人休養ホームも地方債の対象とされるにいたったが、これは従来から広く国民に利用されてきた国民宿舎の老人版ともいうべきもので、宿泊の便宜があったから、老人クラブの会員などにも広く愛用された。
 老人福祉センター、老人憩の家、老人休養ホームはいずれも、ひとり若い層だけではなく、老人のあいだにもようやく多くなってきた余暇時間をすごす「場」<152<として大きな意義があった。
(4)特別養護老人ホーム
 先きにものべたように、養老施設は「老衰のため独立して日常生活を営むことのできない」老人を収容することを目的としていたが、また一方、戦後の住宅事情を強く反映して老人住宅の性格ももっていた。すなわち、老人福祉法の制定される前年の一九六二年(昭、三七)に厚生省が行なった調査によると、収容されている老人の健康状況の分布は次ページのとおり、三分の二近くまでが健康で、養老室背がナーシング・ホームNursing Home であるよりも、住宅Housing であることを示している。しかし、また
一方、行体や精神に障害があったり、慢性疾患を持つ病弱者の割合も三分の一を越え、さらに、全休の一割近くベッドについていることも知られるのである。
 したがって、「これらの者がが常に同一の居室で起臥寝食をともにすることは、悪平等に堕するのみならず、施設内の保健衛生を維持するのに障害となり、又は静養を要する者の疾病を増悪させる等処遇を適正に行う上に望ましくないことも考えられるので、特にこれらの者を別に収容して、静養、回復させる設備を要することは当然である」(保護施設取扱指針)という考え方のもとに、養老施設は「静養室を設備しなければならない」ものとされた。そして、静養室の収容力は、施設の定員のおおむね一五パーセントに相当する人員を収容するに足る広さを標準とすることとされた。
 しかし、人はみなとしをとり、また、高齢になるにつれて病弱化化していくものである。したがって、歴史の古い施設にあっては、「脆弱、疾病に罹り静養を要する者」の割合が多くなってくるのは当然のことであり、先きに示された一五パーセントの割合をはるかに越えて、三〇パーセント、四〇パーセントという施設も少なくなかった。
 こうしたなかにあって、これらの老人だけを対象とする養老施設が生まれた。それは一九六一年(昭、三六)に設置された十字の園(静岡県当初、定員三〇人)である。これはドイツのディーコニス・ウォルフらが提唱して Nursing
Home を念頭におきながら設立されたものである。<153<

(図)養護施設収容者の健康状況
総数    一〇〇・〇
健康     六四・一
病弱     三五・九
 臥伏している   九・二
  身体障害者   一・四
  慢性睨患者   五・八
  そ の 他   二・〇
 臥伏していない 二六・七
  身体障害者   七・五
  精神障害者   四・八
  そ の 他  一四・四
(資料)1962(昭.37).5.15.厚生省施設課調べ

 老人福祉法の制定に当たって、健康な老人のための住宅対策は制度化されず、養護老人ホーム(従来の養老施設)には、依然として、「環境上の理由」(家族又は家族以外の同居者との同居の継続が老人の心身を著しく害すると認められる場合、住居がないか又は住居があってもそれが狭あいである等環境が劣悪な状態にあるため、老人の心身を著しく害すると認められる場合――社会局長通知――)によるものも収容して、養護老人ホームは救貧院的残滓を残すこととなった。しかし、これは、当時の国民の生活水準・居住水準等から判断してやむをえなかったものと容認しなければならないであろう。しかし、一方、常時臥床している老人を対象として特別養護老人ホームが創設されたことは、老人施設の専門分化の一歩前進として正しく評価すべきであろう。
 特別養護老人ホームははじめ老人病院として計画されたが、福祉立法のなかに医療機関である病院を包含するのは奸ましくないという意見などもあって、この計画は後退した。これに代わって、看護老人ホームとすべきだという意見が強くなった。一九六三年(昭、三八)三月に成立した翌年度の国の予算では、老人ホームの種類として、「老人ホーム」 (従来からの生活保護法の養老施設の移し替え)と「軽費老人ホーム」のほかに、あらたに「看護老人ホーム」が加えられ、<154<三木立てとなっているが、この「看護老人ホーム」が、その年の七月に制定された老人福祉法のなかで「特別養護老人ホーム」と規定されたものである。同年度予算は成立していたが、同法の審議の過程で、看護老人ホームという名称も適当ではないという理由から特別養護老人ホームと改められたものである。
 特別養護老人ホームについては、老人施設の専門化されたものということの外に、もう一つ大きな前進があったことを認めなければならない。それは、養護老人ホームの入所に当たっては、養老施設よりは、少しく緩和されたとはいえ、依然として経済的制限が課されていた。これに対して、特別養護老人ホームは、その対象を経済的に制限することなく、一応収容の必要なすべての老人とし、その属する経済的階層に応じてそれぞれ応分の費用を徴収するという制度を導入したからである。特別養護老人ホームの創設は、救貧的な老入保護の思想から脱却して、老人福祉の思想に立ったものといえよう。
(5)健康診査
 老人福祉法においてあらたに制度化された施策の多くは、身体的、精神的または経済的にハンディキャップを有する特定の老人を対象とするものであったが、広くすべての老人を対象とする施策の一つに老人健康診査がある。
 これは国の事務と考えられ、市町村長に委任されるものとされたが、私の知るかぎりでは、老人の健康診査を国の事務としている例は世界にもないように思われる。
 老人福祉法において健康診査が制度化されたのは次ぎのような事由による。すなわち、いかなる疾病の治療も早期発見、早期治療がもっとも望ましいものであり、そのためには平素から健康診査を受けて健康管理を行なっていることが必要であるのはいうまでもない。とくに老人に多くみられる脳卒中・ガン・心臓病は三人成人病といわれ中年期以降に比較的多い病気であるが、早期治療の効果に著しいもののあることが知られている。このため、最近、職場等においては成人病の健訴訟査が活発に行なわれている。
 一方、現行の医療保険制度のもとでは健康診査は保険の給付の対象とされていないから、被保険者は健康診査を受けようと思っても、その費用をすべて自己負<155<但しなければならない。しかし、老人は、多くの場合、その費用を負担することができないから、積極的に健康診査を受けようとしないのがふつうである。他の年齢階層の者にくらべて、老人は、有病率の高い割  合に受療率が低いのはこうした事情によるものと思われる。
 これらのことを考え、老人の健康を守るという立場から健康診査を積極的に行なうことが必要とされ、老人福祉法の制定に当たって制度化されるにいったのである。
 その結果は、当初の予想どおり、受診者の約半数については療養を必要とするものと診断された。しかし、療養費の給付については国民皆保険の体制のしかれた今日、医療保険各法または生活保護法(医療扶助)において行なわれるべきものである。医療保険の給付率は、健康保険の本人が一〇割給付であるほかは、その家族に対する五割給付、または国民健康保険の被保険者に対する七割結付となっており、その残りの三割または五割についてはそれぞれ自己負担しなければならない。しかし、老人は多くの場合その自己負担には耐ええないものであるから、療養を必要とすると診断されながらも治療の継続を期待できないというのが実情である。
 このような実情に対処して、政府では、医療制度の抜本対策についてかねてからいろいろと検討中であるが、その改善のなされるよりも早く、地方公共団体においてはすでに具体的にこれにこたえる対策を進めてきた。すなわち、給付率の引き上げがこれである。
 老人に対する給付率の引き上げをはじめて行なったのは岩手県沢内村であり、それは一九六〇年(昭、三五)のことであっだ。その後各市町村においてもこれにならうものがあらわれ、現在、東京都、秋田県のほか一〇七市町村(一九六九・一〇)がこれを行なっている。具体的にそのやり方をみると、一〇七市町村のうち、ハ○歳以上の老人に一〇割給付して全額無料としているのが五四市町村で、半数を占め、このほか、八〇歳以上の老人に九割給付が一六市町村、七五歳以上の老人に一〇割給付が二一市町村となっている。また、給付率の引き上げを行なっている市町村の大半が東北地方にあるのも特徴的である。<156<
(4)老人クラブ
 このほか、老人福祉法の制定に伴って新しくはじめられたものに老人クラブに対する助成がある。老人クラブは、先きにものべたように、老人の持つ心理的な要求に巧みにこたえたものとして、雨後の笥のようにモの数を加えていった。しかし、一九六〇年代(昭、三五)に入って、その転換期を迎えるにいたったといえよう。
 すなわち、初期の老人クラブは老人の避難所であり、老人がフラストレーションを発散させる場として大いに役に立っていたことを認めなければならない。しかし、その後の10年に近い歳月の流れのなかで、一部の老人クラブは、避難所型からレクリエーション型への移行を示しつつあったが、全休としては、やや停滞の気味がみられはじめていた。
 こうした時期に、新しく老人クラブに対する公費助成の途がとられたのである。これは、ややもすればレクリエーションレ中心になりがちであった老人クラブの活動に、教養の向上という教育的要素の加わることを期待したものであり、また、ややもすれば自己中心的になりがちであった老人クラブの活動に、地域社会との交流という遠心性の加わることを期待したものであった。と同時にまた、まだ老人クラブの結成されていない地域においては、新たに老人クラブの結成される刺戟となったことはいうまでもない。
 しかし、老人クラブに対する助成費については、はじめから好ましいものではないとする意見もあったし、また、ほとんど全国の各地に老人クラブの結成された今日、もはや助成の目的は達したから、今後は単位クラブに対する助成はやめ、指導者の養成等に重点をおくべきであるという意見もある。
(7)老人住宅
 われわれが広く社会福祉というときには、住宅政策まで包含していわれることのあるのは前にものべたとおりであるが、わが国の住宅政策は、ヨーロッパの先進諸国、とくに北欧のそれほど福祉性を有していなかった。むしろ、先きに養老施設の対象者の健康分布をみたときに指摘しておいたように、養老施設の収容者のなかには健康な老人が三分の二を占め、社会福祉施設とはいっても、職員つき、三食つきの住宅という性<157<格を持っていた。これは、第二次世界大戦の戦禍による住宅事情の深刻化と「いえ」の制度の崩壊に伴う世帯分離・核家族化の傾向とを背景にしながら、住宅供給が労働力の再生産ということに重点をおいて推進されなければならなかったことによるものであることはすでにのべたとおりである。すなわち、戦後の住宅行政が当面目標としなければならなかったのは、勤労者の住宅であり、労働力の再生産にプラスしない福祉住宅ではなかったからである。
 しかし、養老施設が老人住宅の代替的役割を演じていることが明らかにされ、片や老人ホームにも収容されないでいるねたきり老人の数が相当数に上ることが明らかにされると、ナーシング・ホームはナーシング・ホームとして、住宅は住宅として機能分化することの重要性がようやく認識されるようになってきた。
 すなわち、老人福祉法制定の翌年、公営住宅法による第二種公営住宅のなかの特定目的住宅の一つとして老人世帯向公営住宅が加えられた。
 しかし、現行の公営住宅法の規定においては単身者は入居できず、また、第一種公営住宅が対象とするほどの経済階層の老人のあいだにも入居の希望者は少なくなかったから、これらの点についてはさらに改善の余地が残されている。
(8)高齢者学級
 一九六五年(昭、四〇)から、文部省では、社会教育の一環として、市町村の行なう高齢者学級に対して委託費を出してきた。すでに早くから、社会教育の一環として、青年学級・婦人学級等が広く開講されており、従来からも多数の老人がこれに参加していたが、高齢者学級の開設により老人の学習機会はさらにふえることとなった。このことと関連して、熊本女子大学が、大学開放講座の一環として老人のための講座を持っていることもとくに記しておきたい。
 老人が社会から疎外されることなく生きていくためには、常に新しい時代の知識を吸収し世代間のギャップを埋めていくことがきわめて重要であるが、この点で、高齢者学級の果たしている役割には少なからぬものがあるといえよう。
(9)社会活動参加促進事業
 わが国の定年制は世界にも類をみない人事管理制度<158<であるが、その発祥は早く明治時代にまでさかのぼることができる。しかし、とくにこれが広く行なわれるようになったのは、第二次世界大戦の後の労働力市場における需給の不均衡に由来するものであった。そして、今日もなお、依然として根強い労働慣行として残っている。しかし、五五歳定年は最近では少しく延長されて五七、八歳になっているようであるが、これは一つには労働力市場における需給基調の転換によるものであろう。
 一方、今日、六〇歳に入ってもなお労働の意志と能力とを持っているものは少なくなく、また、制度的には国民皆年金の体制がしかれたとはいっても、いまだその成熟期にはいたっていないため、老人人口のうち老齢年金の受給者の割合はきわめて微々たるものである。したがって、定年制のゆえに従来の職場を退かなければならないとしても、働くのかやめれば多くの場合生きていくことをも否定しなければならないことになる。何としても新しい職場を探さなければならないというのが実情である。
 しかし、労働力市場が従来老人労働力をかならずしも必要としてこなかったのはいまものべたとおりである。
 こうした情況のなかで、すでに、東京都社会福祉協議会では、一九六二年(昭、三七)から、福祉行政の観点に立って老人の職業紹介事業を行なってきた。さらに、名古屋市社会福祉協議会も一九六五年(昭、四〇)からこの事業を進めており、その後も、この事業に対する国庫補助の要望はきわめて強く、かつ、その成果の著しく高いことも認められたので、一九六八年(昭、四三)から国庫補助の対象とされることになった。
(10)ねたきり老人対策
 一九五八年(昭、三三)、民生委員制度発足四〇周年を記念して大阪市に臨時家政婦制度の生まれたことはすでにのべたところであるが、一九六八年(昭、四三)には、同じく同制度の発足五〇周年を記念して、全国社会福祉協議会は全国の七〇歳以上の老人についてねたきりの実態調査を行なった。
 そして、その数は二〇万人と推計されたのであるが、これらの実態が広くマスコミをとおして喧伝されたこともあり、翌一九六九年(昭、四四)には、これ<159<らの老人を対象として、特別養護老人ホームの増設、家庭奉仕員の増員、訪問健康診査の実施のほか、あらたに特殊ベッドの貸与、専用病室増改築資金の貸付等の対策がはじめられることとなった。
 本来ならば行政当局の調査によって把握されるべきねたきり老人の実態が、全国二八万人の民生委員の調査査によって浮彫にされ、モれが行政に反映したということは、情報化社会の特性を物語るものではあるけれども、一面また、老人問題が一段と社会的な深刻さを深めてきたことを示すものでもあろう。
 なお、ねたきり老人に対する対策としては、すでに一九六八年(昭、四三)から税制上優遇の措置がとられていることもあげておかなければならない。従来、社会福祉行政は各種のサービスを供与することにあると考えられてきたが、近年は各種の減税も福祉対策と同じような効果をもたらすものとして見直されてきている。モの一つとして、一九六八年(昭、四三)から、ねたきり老人を扶養する者についてはこれを所得税・市町村民現における所得控除のうちの身体障害者控除の対象とされることになった。所得税法施行令第一〇条第一項第五号にいう「常に臥床を要し、複雑な介護を要する者」がこれである。
 一九七〇年(昭、四五)からはさらにその対象が拡大され、「精神又は身体に障害のある年齢六十五歳以上の者で、モの障害の程度が第一号又は第二号に掲げる者に準ずるものとして福祉事務所の長の認定を受けている者」についても同じく所得控除の対象されることとなった。
(注)右の第一号というのは「心神喪失の常況にある者又は……精神薄弱者とされた者」、第二号というのは身体障害者手帳に身体上の障害がある者として記載されている者である。
 これは、ねたきり老人に対する直接的な対策ではないが、これを扶養する者に対する減税であり、間接的な福祉対策として評価すべきであろう。
(11)白内障の手術
 国民皆保険の時代となっても、医療費の自己負担額が少額でない場合には老人はその負担に耐えることができないため、医療を中断することになる例の少なくないことも先きにのべたが、その対策の一つとして、<160<一九七〇年(昭、四五)から白内障の手術に対する自己負担分を公費で負担することになった。これは一つには白内障の手術の成功率が高いことによるものでもあるが、また、先きにものべたとおり、東京都はじめ相当数の地方公共団体が保険の給付率を引き上げていることともあわせて、社会保険に対する社会福祉からの接近として注目すべきことであろう。
c 敬老の目
 先きに「としよりの日」の運動が一九五一年(昭、二六)から国民的行事としてとりあけられていることをのべたが、一方、同年の全国社会福祉事業大会において、東京都および兵庫県からそれぞれ「としよりの日を国の祝日にすること」について議案が提出されている。しかし、この大会においては、なお時期尚として今後の検討に委ねられることとされた。
 翌年の全国養老事業大会においても同様の提案がなされ、今回は大会の決議として採択された。さらに翌一九五三年(昭、ニハ)の全国養老事業協議会でも同様の決議が行なわれている。
 以後、老人関係の各種大会・会議においては、かならずといってもいいほどに「としよりの日」を国の祝日に加えるよう決議されている。そして、老人福祉法の制定に当たって、従来の「としよりの日」が「老人の日」と名を改めて同法第五条に規定されるや、その後は、「老人の日」を国の祝日に加える運動として激しさを加えていった。
 このような世論に対して、一九六五年(昭、四〇)の春、国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案が提案されたが、審議未了とされ、翌年再度同法案が提案され、成立をみるにいたったものである。
 すなわち、同法の成立によって、九月十五日の「敬老の日」は、二月十一日の「建国記念の日」、十月十目の「体育の日」とともに国民の祝日の一つに加えられ、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と規定された。

3 戦後二五年のまとめ
 一九四五年(昭、二〇)に第二次世界大戦が終わっ<161<て、以来二五年、四分の一世紀が過ぎた。ベビー・ブームの時に生まれた子供たちも、モの多くはすでに社会に出て人の子の親となっている。わが国の老人問題は、人口構造の変化という点でも、家族制度の変貌という点でも、生活様式の近代化という点でも、ヨーロッパの近代国家が一世紀のあいだに徐々に休験していったことを、戦後二五年のあいだに好むと好まざるとにかかわらず休験しなければならなかった。それらの変化は、国家にとっても、個人にとっても、何の準備もできていない時に突如として起こってきたものである。
 一方、わが国は、壊滅に瀕した戦禍の国土を復興しなければならないという敗戦国の宿命も味わなければならなかった。
 ここに、経済復興と社会福祉の二者択一の問題が起こってくる。そして、すべてが無に帰したわが国が、この時、経済復興の途をえらんだとしても、それはむしろ当然のことであったというべきであろう。
 この意味で、一九五〇年代の中頃、わが国戦後史が転換期を迎える頃までは、わが国の老人対策が公的扶助(生活保護法)による生活困窮者の救済以外に見るべきものがなかったとしても、それをとがめることはできないであろう。
 そして、一九五九年(昭、三四)、国民年金法が制定されて国民皆年金の体制がしかれ、また、前年、国民健康保険法が制定されて国民皆保険の体制がしかれ、一九六〇年代の「保険時代」に入ることになるのである(ここでいう「保険」とは、年金と医療とを保険理論の上に立って給付していくという意味で、単に医療保険だけをいうものではない)。
 わが国は、保険時代としての体制を確立して一九六〇年代を迎えることとなったが、幾つかの問題点を持っていることがすでに指摘されている。それは、理念型としては、年金制度についても、医療制度についても、いずれも一本化することによって、社会的に弱者である階層に厚く給付していくべきであるという考え方である。それぞれの制度が長い歴史と伝統とを持っていることであるから、その一本化はいうべくして行なうことのむつかしいことであろう。
 とくに年金保険については、さらに困難なもう一つ<162<の問題がある。すなわち、それは、医療保険が短期給付であるのに対し、年金給付はそれが長期給付であるということから生ずる制約である。言葉をかえていえば、年金の給付が十分に行なわれるためには一定の歳月がかかるということである。年金保険制度が確立されて、労働者は明日の老後を約束されることになった。しかし、そのことは、そのまま、今日の老人に今日の生活を保障するということにはならなかったからである。年金制度が成熟期に達するのは一九九〇年代以降といわれる所以である。
 かつて一九五〇年代の中頃、地万公共団体のなかに独自に敬老金を支給するものがあらわれ、これが慰老年金法案の国会提出となり、ひいては国長年金法の制定となったことはすでにのべたとおりであるが、成熟期の到来を待っていることのできない老人の所得ニードにこたえて、地方公共団体のなかには独白に老人年金を支給しているものも少なくない。一九六九牛(昭、四四)の調査によると、現在、老人年金を支給している地方公共団体の数は一五二にのぼっている。
 一方、老人問題の重大性・深刻化にともない、一九六〇年代に入ると、老人対策は、一九五〇年代にくらべ、質的な変化・発展を示していることは先きにみたとおりである。いま、これらを要約すると、
a 生活保護法による生活困窮者対策から全般的に低所得階層対策へと脱皮し、なかには、特別養護老人ホームのように、経済階層のいかんを問わず収容措置し、また、健康診査のように全老人を対象とする施策も具体化してきたこと
b 施設対策(養老施設)にとどまらず、各種の居宅対策も進められてきたこと
c ひとり厚生行政にとどまらず、住宅行政・労働行政・社会教育・税制などの面でも老人対策がとりあげられるようになったこと等があげられる。
 しかし、それらがいずれもいまだ十分なものでないことは率直に認めなければならないところであり、今後さらに一層の努力が必要とされなければならない。」(森[1970:140-163])


UP:20080116
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