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『狂気の思想――人間性を剥奪する精神医学』

Szasz, Thomas S. 1970 Ideology and Insanity
=19750816 石井 毅・広田 仁蘇夫 訳,新泉社,300 p.

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last update: 20180225

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■Szasz, Thomas S. 1970 Ideology and Insanity=19750816 石井 毅・広田 仁蘇夫 訳 『狂気の思想――人間性を剥奪する精神医学』,新泉社,300 p. ASIN: B000JA1LPO  欠品 [amazon]※+[広田氏蔵書]

■目次

第一章 序論
第二章 精神病の神話
第三章 精神衛生の倫理
第四章 拒絶の修辞学
第五章 思想としての精神衛生
第六章 精神医学にできること、できないこと
第七章 精神医学による人間主義的価値の密売
第八章 精神病の申し立てと精神病の判決
第九章 強制入院制度
第十章 学校での精神衛生サービス
第十一章 精神医学、国家、および大学
第十二章 拘束の戦術としての精神医学的類型化
第十三章 精神医学の行途

■引用

 「私はこれまで、強制入院――本人の意志に反して精神病院に収容すること――は拘禁の一形態であると主張してきた。こういった自由の剥奪は、独立宣言やアメリカ憲法に具現化された道義に反するものであり、それはまた、さまざまな基本的人権をめぐる近代概念を全く冒?するものとも主張してきた。「正気」の人間が「狂気」の仲間を「精神病院」に拘禁する行為は、白人が黒人を奴隷化する行為にも喩えることができる。つまるところ、強制入院は反人間的犯罪であると私は考えている。」(p124)

「我々は精神医学がその出発点以来ずっと人間行動をコントロールする仕事に関与してきたことを否定するわけにはいかない――まず精神病院への強制入院を介して、ついで物理的拘束、化学的鎮静剤、電気ショック、精神外科、トランキライザー、そして最近では環境・グループ療法といった一連の追加手段によって。」(p186)

「精神医学的分類にとって、自由の意味は何なのか?簡単に答えれば、人間行為を分類することは、その行為を拘束することになると私には思える。」(p219)

「私は人間を精神医学的に分類化することがその人を賤しめ、人間性を剥奪し、かくて彼を物に転化させてしまうという見解を述べてきた。」(pp237-238)

「さらに、これは精神科医療の特質の故に薬物規制は必然的に二重の、かつ矛盾した影響を与えている。一方で、多くの人々が、自分で薬物を服用することで、治療効果を上げ得て、しかも経済的負担と精神病者の役割を担う社会的烙印の両方を避けることができるのに、薬物を入手できないがために、それが不可能となる。他方で、薬物を服用したくない多くの人々が――たとえば、精神病院への入院者やその他の人々で、強制的に治療されている人々が、鎮静させられ、服従させられるのを拒否できないのである。論理的にみれば、ひとたび、ある処置が「精神科治療」として社会的に受け入れられれば、患者の意思に反してその処置の強制が許される事実から、この不合理は生じてくる。したがって、精神病の治療薬についてのいわゆる医学的・精神科的功罪には関係なく、自らの意志に反して薬物を投与されるのは、担当医がその人の行動を変えようと望むからである。その変化を当の本人が結果的によかったと考えるか否かは別問題であろう。一見医療的に見えるとしても、この時、強制的な宗教的改宗の正当性が提起すると同様の道徳的ジレンマに我々は直面する。」(pp245-246)

■書評・紹介・言及

◆広田 伊蘇夫 197606 「トーマス・S・サズの反精神医学――その反科学思想」,『臨床精神医学』5-6

 ★改段落の確認+「」で囲む等必要

p699(サズの反精神医学を述べる前の前提)
@病むことの概念
・本人+医師、またはそのどちらかが「身体的異常や障害」を持つと信じること。
・そのため、本人が治療を希望すること。
(…)したがって〔医師〕は〔病者〕との同意の上で、身体疾患の治療を行うものと期待されているのであって、羨望や怒り、恐怖や愚考、貧困や愚行、あるいは人間につきまとう不幸を治療するよう期待されているのではない」と。
病むことをかく規定する場合、氏にとって、未だ証明されざる身体異常の仮説にたつ精神医学は、医学の枠外のものとなる。
A尊厳
・尊厳ー健康の追求としばしば矛盾する。
・治療者の温情主義(…)「治療者は治療上の技術を最大限に発揮すべきであるが、病者あるいは自らの尊厳を犠牲にしてまで、そうすべきでない。」
B治療国家
・リベラリズムを装う現代の専制主義は、科学主義と結合し、〔健康〕という美辞麗句を用い、新しい専制体制を作りあげている。
→病者は犠牲階級であり、自らの、社会の利益のために、必要とあれば、意思に反し、強制的にでも援助を受け、治療を受けることになる。
=新しい形態の支配、〔健康〕をスローガンにした治療国家が生れている。
=現代では国家と結合した医師に先導されている。
→この治療国家で、官僚化した治療者に内在するものは、自立性―自由と自己決定―をもつ個人への侮蔑であり、大衆を自分たちより劣れる者とみ、これを管理しようとする科学的野心である。
     ↓
「我々がもっとも尊重すべき諸権利のうちで、最も脅かされてるもののひとつに〔病気である権利〕、〔悩む権利〕、そして、国家が医療機関を通じて我々に加えてくる介入に対し〔わずらわされることなく死ぬ権利〕である。
治療国家においては、我々が望むにせよ望まぬにせよ、医師なしには病むこともできず、死ぬことすらできない」と。

p701
(精神病といわれる〔a thing〕は存在するか?)
→「精神病は物ではなく自然現象でもない。それは他のさまざまな理論的概念が存在すると同じ様式でのみ存在するものである。
にもかかわらず、精神病を信じるものにとって、習慣的な概念が、やがて〔客観的事実〕となり〔真理〕となってゆく。
正確にいえば、精神病は脳の病気であって、心の病ではない」と主張する。

p701
(身体疾患と精神疾患の差異)
→「人間のもつすべての病気は、屍体もまたもっている。屍体が全く持つ事のできない唯一の病気は精神病である。にかかわらず、精神医学の公式の立場によると、精神病は他の疾患と同じものとなる。
〔病気〕というのは、病める者にたまたま生じ〔happen〕、もつ〔have〕何かである。だが精神病は、本当は彼がそうであり〔be〕、そうする〔do〕何かにつけられたラベルである」と。
(…)だが、現在精神病とされているものは、依然として〔病気〕ではないのであって、心が病むというメタファーによる説明にすぎぬものだ」(…)「いまだ証明されざる前提にたって、精神医学を実践することは、論理的欺瞞であり、論理的犯罪ではないか」

p701
このように氏は、精神病は存在しないと述べる。だが、精神病とラベルされるような社会的、心理学的事象、あるいは行動の存在をも否定するのはない。
氏の主眼は、伝統的精神医学理論に内在する自然科学的論理構造を、そのまま受け入れるのではなく、事態を性悪にみるためにEventsあるいはBehaviourの存在と、それの説明とを明確に区別すべきだとする点にある。
つまり、〔実態概念〕と〔説明概念〕との混同に対し異議申し立てを行っているわけである。

p702
(では、「精神病」とラベルされる〔実体〕は?)
→「精神病とは自己と他者をめぐる諸課題の誤って定義したもの」
「存在と意味の問題であり、健康や疾病の問題ではなく」「人生というゲームにおける個人的ニード、社会的抱負、あるいは倫理的判断をめぐるトラブル――Problem in human living――にすぎぬもの」であって、従って
「精神症状といわれるものは、正常からの偏りをめぐる観察者と非観察者との間の比較や判断が作り出しすものであり、それは社会的、倫理的、法的文脈の中で作り出されてゆくもの」となる。
   ↓
(この判断は誰がどのような意図をもって行うのか?)
・Social audiance(家族・友人・医師等)
→「そこにきわめて策略的な意味が潜む。偏りを判断する行為は分類化行為であり、被分類者を社会的にコントロールしようとする意図をもつ」
・本人自身
→「それは他人の援助を求める一種の演技(Impersonation)であり、本人の選んだ策略であって計算された故意のごまかしである」


*作成:松枝 亜希子阿部 あかね 更新:岩ア 弘泰
UP:20071219 REV:20130708, 0725, 20171003, 20180225
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