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『山谷――都市反乱の原点』

竹中労 19690901 全国自治研修協会,352p.

last update:20111105

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竹中 労 19690901 『山谷――都市反乱の原点』,全国自治研修協会,352p. o01 tt17 m04


■内容

 人間復権の叫びが山谷の「差別」された労働者の間から起った時、それは“反乱”という形態をとる。
 徳川幕府による“政策”以来、日本近代化百年を経た今日まで「山谷」は依然「山谷」として存在させられてきた。日本資本主義が繁栄を誇れば誇るほど、山谷的状況は拡大再生産されつづける。そして、なべての既成左翼、新左翼からさえもルンプロとして負の評価しか与えられてこなかった。それ故に「山谷」解放運動はまず自立した運動として出発する。「長く暑い夏」の暴動を冬におこすために。
 われわれはいま日本政治と山谷の問題を考えなければならない。(表紙裏より)


■目次


第1部 山谷労働者街・前史
 T 江戸=東京部落小史
  1 山の者・谷の者(江戸時代)
  2 部落解体(明治時代)
  「リンゴと泥水」――ルポ・新四ツ木橋事件
 U 下町スラムの成立(大正・昭和初期)
 総括 無産者運動と天皇制

第2部 地底から―――
 T 地下足袋の街
  1 無告の人びと(6月・暴動裁判)
  2 敗戦非人の誕生――私にとっての戦後
  3 生きているタコ部屋
  4 ながく暑い夜――騒乱の背景
  5 11・5都庁乱入――以降
 総括 山谷は解放区をめざす
 U 山谷からのアッピール
  1 学生諸君に訴える
  2 裸賊宣言
  3 全都(国)統一労働組合結成宣言
  あんぐら音楽祭=山谷――フォーク・ゲリラへの提言

第3部 流砂の列島
 T スラムの旅
  1 にんげんをかえせ――ルポ・広島原爆スラム
  2 釜ヶ崎近況 U君のレポート 寺島珠雄からの手紙
 U 青春地獄篇
  1 京葉人身売買事件
  2 永山則夫論――非行とは何か?
  3 天皇制と『少年』
 むすび


■引用


▼序
「付して私事をいえば、かつて敗戦の焦土に“窮民革命”をゆめみて挫折した、竹中労にとっても、山谷はその狂疾の“原点”でありつづける。」(ii-iii)

「私たちは、山谷労働者を呪縛する『差別』『搾取』の二重のクビキを、部落差別を連鎖して捉える。“人間外の人間”(非人)を、“社会外の社会”(部落)に隔離する、階級社会の身分差別は、戦後部落である山谷に、もっとも顕著に露出している。それは、一貫して、下層プロレタリアートにくわえられてきた侮蔑である。
 共産党宣言は、ルン・プロ階級を旧社会が生みだした“腐敗物”とみなし、『プロレタリア革命によって、ときには運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀に買収される危険がいっそう大きい』と規定している。通俗マルクス主義者は、この一節を免罪符にして、山谷、もしくは山谷的状況にある日雇労働者、零細企業・家内工業労働者、臨時・社外・下請工、集配人、半農出稼ぎ労働者、あるいは小店員等々を“組織できない大衆”として、労働運動の戦列から剥落した。
 1000万の“組織”労働者と2千数百万の“未組織”大衆との乖離において、たたかわれる階級闘争とは何か?という素朴な疑問すら、かつていかなる“左翼”からも、提起されたことがなかった。すなわち、日本労働運動は、山谷をルンペン・プロレタリアと、レッテルすることで、汗と汚辱とにまみれた無産の大衆に対する責任を、まぬがれ得たのである。[…]戦前、戦後を通じて、私たちは真に巨大な無産の大衆に依拠した革命運動を、展開することができなかった。――その原因はどこにあるのか? 労働者にとって、『前衛』とは何か? “米騒動”“江東市街戦”等の街頭暴動、蜂起は何を告知したのか? 私たちは第1部で、可能なかぎりの問題提起を行ってみた。」(iii-iv)

●山谷の下層プロレタリアート=2重のクビキ――搾取と差別という視点。山谷を切り捨ててきた日本労働運動への批判。

「山谷の歴史と現状をふまえて、視野を日本列島にひろげれば、それが決して“特殊”でなく“普遍”であることを容易に理解することができよう。第3部『流砂の列島』は、広島原爆スラム、京葉工業地帯、釜ヶ崎ドヤ街から、永山則夫の“犯罪”、大島渚の映画『少年』に描かれた部落民の悲惨までを鳥瞰する。全国至るところにある山谷を――下層プロレタリアートの状況を、ルポルタージュ風に検証した。
 さらに視野をひろげて、アジア無産無告の大衆、アメリカの黒人反乱、南米、アフリカ大陸の解放闘争までを展望し、山谷と“世界革命”を関連させて、第4部まで書きすすむ予定であったが、第3部で原稿許容量(520枚)を超過してしまった。――続篇を、期待していただきたい。」(iv-v)

●山谷の普遍性=全国と全世界の解放闘争との関連

▼第1部 山谷労働者街・前史 T 江戸=東京部落小史
「徳川幕府の賎民政策は、局限された地域に?多非人を封じこめて、一括統治することにあった。なぜなら、賎民は“反社会的”な集団となって、国家と権力に反抗する伝統を有していたからである。
 正平7年(1352)、祇園社の隷属民であった弦召(つるめ)そ――犬神人が乱をおこし、応永33年(1426)、犬神人とむすんだ武装賎民の近江馬借――運送労働者が強訴の拳に出ている。白土三平が『忍者武芸帳』でえがいてみせたのは、この馬借一揆。さらに文明8年(1476)には、興福寺隷属民の声聞師(しょうもじ)が加役を拒否して反乱に立ち上り、大永7年(1527)にいたっては、洛中・洛外数千の賎民蜂起して幕軍と闘い、これを敗走させている。」(4)

「江戸の賎民は、それらの“公的”な職務のほかに、河原人足、井戸掘り、渡し守、叩き大工、日用(ひよう)取り、竹細工、下駄職人、そして“雑芸者”と呼ばれる、鳥追、猿曳き、人形使い、ぼろんじ(虚無僧)、門付(かどつけ)、獅子舞等の大道芸人、あるいはコジキ、街娼などを生業(なりわい)としなければならなかった。封建社会の奈落を生きるかれらは、前に述べた弾左衛門差配下の『囲内』に、小屋がけの“集落”をつくった。それは、いうならば賎民ゲットーであり、底辺の運命共同体であった。一揆に加担したり、年貢がおさめられなくて土地を棄てた百姓たち、浪士くずれ、無頼の徒輩、刑余者、家出人等が、全国各地からわくら葉のように吹きよせられ、流れこんできた。」(5−6)

「遊郭と賎民居住区――スラムが、あたかもシャム双生児のように結合している典型は、大阪にもみられる。すなわち、飛田遊郭・釜ヶ崎スラム・西浜部落である。それは、けっして偶然ではない。支配者の差別、隔離の政策が生みだした、歴史の必然なのだ。」(8)

「単に制度上の(あるいは観念的な)差別を撤廃し、一般社会との境界をなくすことで、賎民階層の“解放”は実現しない。明治4年(1971)、太政官布告=『賎民解放令』により、?多非人の称号は廃止された。」(16)

「果せるかな、『解放令』の布告につづいて新政府は、それまで弾直樹の支配下にあった警察、行刑の下働きを解き、また?多非人にかぎられていた屠殺、皮革業の職業的特権を廃止した。さらに、これまで免除されていた納税の義務を課して、『平民同様に』税金をとり立てた。制度上の“身分差別”撤廃は、部落民大衆から最低生活の保証をも、同時に撤廃したのである。かくて、『?多非人ども洗った足をまた泥によごして人車を曳く者、日々に増すこと、秋を降る雨の朝(あした)のキノコのごとし』(東京開化繁昌記)。賎民自治体は崩壊して、人力車夫日雇労働者等の最下層プロレタリアートに、部落民大衆は解体し、四散していった。弾一族の製靴工場も、たちまち破産し、新政府と結託した特権資本家の手に、皮革産業のヘゲモニーはうばわれてしまったのである――。」(17−18)
●封建制度の崩壊による、特権資本家による産業のヘゲモニー。


「総括していうなら、こんにち山谷労働者がおかれている『差別』『搾取』の原基体は、徳川300年の賎民社会にもとめられる。ブルジョワ革命(明治維新)によって、農工商、賎民という被支配の位相に固定した生産手段から、人民大衆は“解放”され、職業を自由意志で選択できるプロレタリアート階層に転化したと、唯物史観は規定する。
 だが……、部落民に“職業の自由”はなかった。明治12年の『京華春報』には、解放された?多非人の娘らは吉原に売られて女郎になり、『新平民の娘は身ノ代代金が一般よりはるかに安いので』妓棲は競って山谷かいわいの?多村から、年輪もいかぬ少女を買い集めたとある。
 人口のおよそ1万8千人(寛文4年調べ)といわれた江戸=東京の部落民が、京、大阪の未開放部落のごとく、載然とした地域集落として現存しない理由は、関東大震災、戦災と2度にわたって下町一帯が焼失したことが、第1に挙げられる。第2に、江戸の部落民は世襲を旨とする『?多』よりも、1代限りの『非人』が多かったことが、要因として挙げられよう。」(18−19)

「維新後、“帝都の面目を一新するため”非人小屋はとり壊され、その代替として、『もうろう宿』が登場する。今日でいうドヤ、“労働者アパート”の発生である。」(22)

「明治16,7年ごろになると、浅草寺の本堂から奥山にかけて『見世物小屋』が繁栄し、ろくろ首や蛇女等のいわゆる“因果物”が軒をならべてひしめいた。悲惨な曝しものにされた少女の多くは、賎民社会の出身であった。」(24)

「賎民社会の娘たちは廓に売られるものが多く、また子供たちは“貸し子”という、『ケンタ』コジキが憐みを買うための小道具に使われたりした。」(25)

「天保時代の武士(もののふ)も今じゃ哀れなこの姿、……と演歌にうたわれたように、下級士族の窮民、プロレタリア化はすさまじかった。[…]明治10年代の当初、80万人ほどであった東京の人口は、明治41年(1908)、206万8,815人と、ざっと3倍にふくれ上がった。旧士族、貧農――小作農民の落層流入によって、東京は東洋一の大都会に膨張した。いっぽう、都市の人口増加に対応して、農家戸数は明治6年(1873)から24年までの間に15万戸の減少を示している。これら完全消滅した農家に、次三男の流出にくわえ、紡績工女、売春婦に売られていった娘たちにくわえれば、ボウ大な人口が都市に吸収され、下層社会に分散していったことがあきらかである。
横山源之助が『日本の下層社会』で描いた東京貧民街の様相は、旧支配階層(武士)をふくめた日本民衆のプロレタリア化、(もしくは半プロ化)を背景において理解されなくてはならない。」(27)
「日本資本主義の創出期は、『人足』と総称される下層プロレタリアの大群を、続々と生み出した。大工、左官、トビ職などの『手伝い人足』、車力を曳く『運送人足』、車力の後を押して僅かな駄賃を稼ぐ『立ちん坊』、“社外工”の前身である『工場人足』等々。
 また、ウロウロ人夫、アンコウ(ぼんやり口をあけて仕事を待っている)、虱(プー)太郎などと呼ばれた、港湾の下層労働者。」(30)

●明治維新後の近代化・産業化=資本主義社会の形成期に、大量の下層プロレタリアが必要とされる状況→下級士族の窮民化、プロレタリア化と都会への流入、農村・農家の衰退。

「“工場都市”としては、大阪よりも遅れて発展した東京では、通勤労働者よりも、浮浪労働者というべき地の群れ、――人足プロレタリアートを輩出したのである。それらの労働者群は、かつて“穢多非人”の居住区であった下谷浅草一帯に流入して、広大なスラムを形成した。」(31)

「かくて、江戸=東京部落は広大なスラムに埋没し、京都、大阪のように地域的な集落として残存する与件を失ったのである。『靴工争議』以降、ごく一部の職人集団をのぞいてほとんどの部落民皮革労働者が、落層士族の同業者と平等化し、同化していったごとく、人力車夫、日稼ぎ人足等の賃労働者となった旧部落民大衆も、スラムに再生産された下層プロレタリアートの居住区に“身分差別”を解消していった。」
●山谷/下層社会内部において解消されていく部落差別!?

「監獄飯場(タコ部屋)の発祥は、北海道拓殖の“土木事業監獄”である。釧路集治監、その他8000余の囚人土工を使役して、明治新政府は新道開発に当らせた。おおよそ5分の1が死亡、逃亡者は斬殺の刑に処せられるという残酷な強制労働で、北海道開拓使は最初のページをひらく。この土工監獄の仕組みが、そのまま一般土建業界に継承されて、タコ部屋が蔟生する。官庁から工事を請け負った“元請”業者である大建設会社は、“親請”“中請”“孫請”“もうろう(浮動仲介人)”等々、幾重もの下請けを媒介して作業を下におろしていき、末端に“親方”を長とする飯場が設けられるというシステムである。『搾取』のヒエラルキーの底辺に位置する土工人足は、とうぜん過酷な収奪にあえぐことになる。昭和2年の統計では、約1200の工事現場で殺人、傷害致死事件がおこっている。」(35)
●タコ部屋/飯場が北海道開発のなかで生まれた。植民地開発が植民地主義的運営体制によって行われたということ。

「青年は山谷へやってくるだろう。そんなふうにして、底辺の町に落層してくる若ものたちがある。そこに、『差別』がないと青年は考える。むろん、山谷にはきびしい『差別』があることを、青年はすぐさま知るはずだ。しかし、それは外なる世界が山谷を囲いこむ『差別』であって、労働者相互間に『差別』はない。
 日本資本主義経済の“繁栄”は、80万の出稼ぎ労働者群を創出し、出張販売員(セールスマン)、外交員、配達係、集金係等々の集配人プロレタリアートをうみ出し、“集団就職”の少年少女を農漁村から切りとって、大企業の現業労働者、臨時工、あるいは中小零細企業の不熟練、半熟練労働力(工員、小売店員、徒弟等々)を造成する。……すなわちそれら『差別』の諸位相に分断された、下層労働者群を、無権利と無補償の状態に置き、徹底的に収奪することによって、日本独占の高度成長――“繁栄”はなしとげられたのである。」(41)
●日本資本主義経済の繁栄には、下層プロレタリアートの造成が必要不可欠であったという視点。

「下層プロレタリアートの世界は、そのまま少女期の佐多稲子の生活環境であった。私たちは、この章をその時代の(もしくはその時代を描いた)文学作品をかりて、記述しようと思う。なぜなら、旧左翼の“革命”史観には、下層人民の生成流転のイメージが美事に断落しているからである。いったい、日本の“近代化”とは、資本主義の成熟とは何であったのか? とりわけ、“光のささぬ路地裏”の貧民にとって、そこに落層し沈殿した、地方出身の無産の大衆にとって、12階下の娼婦たちにとって、かの女たちの媚を硬貨一枚で購う労働者にとって、小学校中退のキャラメル女工にとって、それは何であったのか?」(50−51)
●旧左翼の革命史観=下層プロレタリアを美事として評価。→貧民にとっての近代化とはどのような経験であったのか?という問いの必要性。

「大正3−8年までの間、日本資本主義は第1次世界大戦を通じて、すさまじい跳躍を示した。農林水産鉱工業生産総額は4倍弱、製造工業は5倍強となり、すなわち総生産の56.5パーセントを工業生産が占有する。かくて、マニファクチュア・手工業的な段階から、“独占資本主義”の確立へ急テンポで発展していったのである。[…]そして、その“発展”を基底において支えたのは、穢多ニモ劣レル下層プロレタリアの大群であった。大正9年(1920)、大阪市による『新規雇入又ハ最近雇傭』労働者の出身別調査は、機械器具、化学、染色工場の新規採用者の41.9パーセントが、農村の子女であることを記録している。また、大正11年(1922)、農商務省『副業的季節移動労働力に関する調査』によれば、出稼ぎ人口実数は70万5,431名である。それら半農プロレタリアートの生活が、どれほど悲惨なものであったかは、すでに述べたとおりである。タコ部屋、12階下、そして女工哀史、――拘束15時間労働(紡績)、天井も雨戸もなく南京錠を下された宿舎に監禁され、大戦景気の大正6――8年の間に女工の羅病率は45.2パーセントに上り、そのために解雇されたものの大半は肺結核であった。」(52−54)
●大戦景気と資本主義経済の急激な成長。それを支える下層プロレタリアの大群。

「大正7年8月3日、『米騒動』勃発。[…]かくて、『米騒動』は全国的規模の暴動に発展していった。井上清・渡部徹『米騒動の研究』は、38市153町178ヵ村で焼き打ち、略奪、騒動があり、廷べ5万7千人の軍隊を動かさなくては、“暴徒”を鎮圧することが不可能だったと記述している。暴動の主力は、各種職人、日雇、人力車夫、土方、仲士等の下層プロレタリアートであり、また全国各地の被差別部落民であった。検挙人員2万5千、起訴700余、ほとんどが騒擾罪を適用されて、10年以上の懲役71名、死刑2名(いずれも部落民)。」(56)
●下層プロレタリアートに注がれる暴動への期待の目――大正7年米騒動

「私たちは、大正・昭和初期のスラムに関する記録、出版物、資料等を、可能な限り集めた。たとえば、1960年出版の『日本残酷物語』(平凡社)には、釜ヶ崎、東京の日暮里などの貧民窟について、克明な描写が記録されている。だが、『……人間はどうしてここまで落ちるのか、中小炭坑や、飯場や、バタヤを流れ歩き、スラムにたどりつくころには、もう自分ひとり食って寝るだけ、広い世界になにもない。公園に寝ようが、ボロを着ていようが、だれもかまうものはない。妻のため、子どものために働くという理由をなくしたとき、自分と家族の未来のため力を尽すという目的を失ったとき、人間は、もう人間らしいものでなくなってしまう』
 などという文章にぶつかると、私たちは戸惑ってしまう。なぜなら私たちは、労働者を“人間”を、そのようにはけっして考えないからだ。この文章を書いた人は、ほんとうの底辺の街を、そこに、どんなにいきいきした人間の生活があるかということを、地底まで落下しようとも人間は断乎として人間であることを、知らないのだ。
 もし……、『日本残酷物語』の筆者がいう通りであるとすれば、なぜ、底辺の街々や村から、『米騒動』はおこったのか? 部落民であり、自由労働者であるスラムの人びとがその先頭に立ったのか? 大正9年(1920)、上野公園における日本最初のメーデーには、『自由労働者組合』が参加している。その前縁、横浜埠頭の沖仲士5千人が結束して同盟羅業を行い、昭和2年(1927)6月、小樽合同労働組合参加の沖仲士1500名は全市の自由労働者群を巻き込んでストに入り、25日間の“武装ストライキ”を闘いぬいている。日本の労働運動の黎明を担ったのは、最底辺の貧民街に居住する労働者群であった。私たちは思う、カール・マルクスが『共産党宣言』を書いた時点で、そのイメージにあった労働者とは、まさに、そのような労働者ではなかったのか……、と。
 『……労働者が人間である限り、労働運動は決して、“生物的要求”だけにとどまるものではない。僕等が、資本家に、賃銀の増加や労働時間の短縮を要求する。勿論、それは、殆どいつでも実際の窮乏に迫られての事である。生物的要求に駆られての事である。けれども僕等は、それと同時に、心中に或る何ものかの蠢(うご)めいているのを感ずる。蠢くどころではない、時として怒涛のように荒れくるうのを感じる。その何ものかの中には、僕等の窮乏に反比例する、資本家の豪奢に対する憤懣もある。彼らの無知蒙昧や、横暴に対する激昂もある。しかし、それらの憤懣や激昂の奥底に、寧ろ、それ等のものを湧き立たせる源ではあるまいかと思われる、もっと深い、大きな或るもののあるを感じる。僕等は、専制君主である資本家に対しての絶対服従の生活、奴隷の生活から、僕等自身を解放したいのだ。自分自身の生活を、自主自治の生活を得たいのだ。自分で自分の生活を、自分の運命を決定したいのだ。すくなくとも、その決定に与(あず)かりたいのだ。繰返していう、“労働運動”は労働者の自己獲得運動である。自主自治的生活の獲得運動である』(“労働運動の精神”大杉栄、1919)」(61−63)
●〈下層プロレタリア=人間らしくない人々〉⇔〈下層プロレタリア=人間である〉。憤懣、激昂のなかに自己獲得運動のエネルギー、自主自治的生活の希求がある。アナキズム、大杉栄への接近。

「第2次世界大戦後、いわゆる“民主的”労働運動は、千数百万人に及ぶ中小零細事業場の労働者をはじめ、店員、日雇労働者、集配人など、2千数百万の下層プロレタリアート群を、未組織のまま、前近代的『差別』の谷間に切りすててしまったのだ。日本労働運動はそこから変質し、大杉栄のいう人間解放の精神を失ったのではないか?と、私たちは疑うのだが、その点は後章で解明することにしよう……。
 恐慌=失業は慢性化して、大資本の合理化政策の強行――企業集中と独占強化――中小企業没落という経済過程の進展は、“相対的過剰人口”を継続的に排出していった。前述した日雇労働者の倍増は、農村の窮迫による潜在的過剰人口の流出落層――不熟練労働者としての階級底部への集積と、恐慌によって工場・鉱山を追われた労働者の浮浪化が、主たる原因だった。そしてまた、植民地収奪で土地を奪われ、強制的に内地に送りこまれた朝鮮人労働者の群があった。昭和3年(1928)、渡航朝鮮人は16万6,286人、その大半は、日雇人夫として使役され、賃金格差は内地人土方平均日給2円34銭に対して、朝鮮人1円1銭、――2分の1以下であった。つまり、日本帝国主義は、“半島人”と称する新たな賤民階層をつくり出し、非人間的『差別』と低賃金によって、かれらを社会の最底辺に囲いこんだのである。」(65)
●既成左翼運動の下層プロレタリアートの切り捨て、未組織化。下層プロレタリア=農漁村の窮迫した流出落層 + 植民地からの強制労働者。

「上に身分差別の象徴――天皇を置き、下に無数の奴隷的窮民をふまえて、日本“資本主義”は急速に“帝国主義”段階へと発展し、世界の列強と比肩するに至った……。」(76)

「[大正13年(1924)、『特殊部落1千年史』を世に問うた、雑誌“前衛”の編集員]高橋[貞樹]は、“すべての虐げられた人民の階級闘争の共同の戦線”を、部落民の反逆のエネルギーを核として結集し、『米騒動』の群集蜂起を再現して、一挙に国家権力を打倒する“窮民革命”を夢想した。[…]しかし、大正15年(1926)、『全国水平社』第5回大会は、かれが大分県速見郡御越町内窓出身の“士族”高橋八郎の長男であり、部落民ではないことを理由として除名動議を採択、高橋貞樹は部落解放運動の戦列から排外されることになった。かれの“窮民革命”を挫折させたのは、『同じく被搾取者でありながら、他被搾取階級との間に連帯の心理がきわめて少ない』(特殊部落1千年史)、部落民のナショナリズムであった。みずから解放しようとした窮民、それ自体の封建制にかれは裏切られた。昭和10年(1935)、獄中で得た病のために死亡、三回忌にあたる13年(1938)6月、水平社の拡大中央委員会は、『国体ノ本義ニ徹シ、国家興隆ニ貢献シ、国民融和ノ完成ヲ期ス』と、綱領を変更した。さらに8月……、第16回大会は“君民一如・赤子一体・天業翼賛”をスローガンにかかげて、天皇制――国家権力に全面降伏した。」
●高橋貞樹の窮民革命との共鳴。

「『国内相克の原因となる身分差別が存在してはならない』(1937・9月拡大中央委)、かくて挙国一致の戦争政策の中で、天皇に忠誠を誓った『全国水平社』は、解散した(1938)。」(81)

「どん底の街に窮民は蜂起しなかった。
 理由の(1)、人はそこで最安直の生活を営むことができた。」(83)
「理由の(2)、――住民の多くは生粋のプロレタリアートではなかった。大半は、農村から落層流入した、不熟練労働者であった。西も東もわからない都会で、かれらは闘う前に、ひたすら働かねばらなかった。」(84)
「理由の(3)、戦前の左翼運動は『米騒動』のエネルギーを、自然発生的暴動であるとした規定し得なかった――。窮民=下層プロレタリアートの巨大な量の蜂起こそ、国家権力を破壊し、天皇制支配を打倒するゆい一の道であったにもかかわらず、スラムの大衆をルンペン・プロレタリアートと蔑視して、革命の戦力とは考えなかったのである。」(84−85)
「かれら[日本共産党]の“革命”とは、一個の権力志向に他ならなかった。そして“大衆”とは、その権力の基盤となるべき群体にすぎなかった。『現実のパリ、労働し、考え、戦うパリ人民のパリ、コンミューンのパリは、彼らにとって、下賤な群集であった』(マルクス“フランスの内乱”第1草稿)。」(87)
●左翼勢力によるルンプロの蔑視、差別、戦力外という理解。

「労働者階級を国家権力に対する“逆権力”として組織し、中央集権革命党(共産党)の政治的領導によって、奪権を可能にしようとする共産主義に対して、アナーキズムは個の自由な人間回復の欲求から発して、大衆蜂起(反乱)を生起し、一切の権力を廃絶しようとする。アナーキズムは、『権威と独裁とにむかうどのような原理』も容認しない。とうぜん、“神”の観念は否定される。[…]専制君主は神の代替物である。したがって、打倒(暗殺)されねばならない。――難波大助の直線的な“思想”は、貧民窟からまっすぐに走って、摂政官襲撃にむかった。」(92)
●アナキズム=すべての権威と権力の否定、自由な人間回復の欲求への立脚。

「恐慌と失業、そして凶作の日々は同時に、革命の日々でなくてはならなかった。『日本は、戦前、天皇制の強権によって支配されていた。革命のおこる余地はなかった』という、左翼史観のキマリ文句を、私たちは大いに疑わねばならない。下層の窮民社会に目を移せば、巨大な革命のエネルギーがそこには、脈々と潜在していた。強権――天皇制支配に対する直接的な“反逆”は、『奴隷のごとく従順な民衆の心から、共同研究室への畏怖を取り除く』(いやな感じ)ことを可能にしたはずであった。労働者をただ単に階級闘争に動員し、政権奪取へと徴兵して、中央集権的革命党の“逆権力”の下に、階級戦の兵卒としての絶対服従を強制するボルシェビキ党の“指導”は、下層窮民の心にいきいきとした革命の炎を、点火することができなかった。」(102)
「部落民、凶作農民、朝鮮人、沖仲士、土方人足、鉱夫、工場労働者、失業者、さらには売春婦、浮浪者、犯罪者に至るまで、都市と農村にみちあふれる下層窮民の人間回復――自立への熾烈な欲求を、反乱に組織することだけが、天皇制支配の下における“革命”を唯一可能とする道でなくてはならなかった。これをルンペン・プロレタリアートと切りすてる倨傲な錯誤を、今日も日本の“前衛”は継承している。日本共産党のみならず、新左翼を称する諸セクトにも、骨がらみの偏見はぬき難いのである。」(103)
●下層社会にある潜在化する革命のエネルギー。それを抑圧する中央集権的革命党の階級闘争と動員戦略。下層窮民の欲求を反乱に組織せよ。

「天皇制“資本主義”とは、くりかえし指摘したように、『差別』『搾取』の権力の二重構造、いいかえれば“政治・イデオロギー的支配”“経済支配”の混然たる一体としての『国家権力』であった。[…]吉本隆明ふうにいえば、戦後の革命諸派は、マルクス主義の“土着の可能性に方向を与える”作業を終始一貫怠り、戦前革命運動の理論的破綻、実践的破綻を縫合しないまま、今日におよんだ。新左翼の諸派、諸セクトが、日共批判をラジカルに展開しつつなお、中央集権的政治指導部のエピゴーネンを超えられない理由はそこにある。
 山谷の“労働運動”が、その出発に当って、自立を旗じるしとしたのはなぜか? つづめていえば、それは、山谷労働者がまったき人間――生活実体として自立し、なべての擬制の“前衛”と宗派から自立し、すなわち『自己権力』としての勇猛果敢な部隊をみずから組織して、革命の地平に登場する日の近いことを信じたからである。まさに、今日的階層差別の地底に呻吟する山谷労働者、あらたなる『賤民』である山谷労働者、しかも建築、港湾、運輸等々の基幹をささえる、もっともたくましいプロレタリアートである山谷労働者にとって、自立とは、みずからの力で『差別』と『搾取』の権力構造を粉砕する、必至(必死)の行為でなくてはならない。[…]――無謬の革命党神話、偉大なる指導者の神話、“思想”によって大衆を組織し得るというとりわけ愚劣な神話、下層人民はルン・プロであって組織することはできないとするいっそう馬鹿げた神話[……]エトセトラを包括する天皇制神話――を、労働者大衆の蜂起は、パリ・コンミューンのごとく死滅させるであろう。」(104−105)
「私たちは、戦前、そして戦後も継承されている革命運動の混迷を超克して、労働者の運動を労働者自身の手にとり戻さなくてはならない――。[…]山谷の労働者はかならず人間解放の巨大な反乱を、『差別』と『搾取』の地底から、生起するであろう。」
●神話を解体する必要性。主体化すること、運動をつくること、にあたって、所与の前提とされていること(既存左翼の革命論)や、「差別」と「搾取」の二重権力が、力を阻害しているという認識。自己解放の必要性。

▼第2部 地底から―――
「1946年冬――、私は、東京・上野駅の引揚者仮泊所(在外同盟救出学生セツルメント)で働いていた。そこの光景は、悲惨などという月並みな形容を通りこしていた。じめじめと湿った、底冷えのするコンクリートの床に、着のみ着のまま引き揚げてきた人びとは死んだように横たわっていた。ところ構わず撒きちらすDDTの粉塵と、すえた体臭とが混合して、けものの檻のような異様な臭気が立ちこめていた。ソ満国境から引揚げてきた女性は、髪をザン切りにしていた。ソ連兵の暴行から身を守るためであった。粉だらけの坊主頭が、裸電球の陰惨な光の下で、赤児に乳をふくませている姿は、むざんで正視することができなかった。子供たちを駅の構内につれていって、裸にすると、アバラ骨がぎろぎろと隆起して、小さな体にシラミの喰った痕が無数の斑点をつくっていた。こすると、垢がよれて、足もとに積もるのだった。目の前で両親を殺されて、そのショックで痴呆のようになっている子供もいた。ある日、ソ連兵に輪姦され唖(失語症)になった少女が、たった一人で引揚げてきた。仮泊所の片隅に死んだ表情で、うずくまっているかの女を、私はもてあました。そばへ行くと、おびえて後ずさりして、壁にぴったりハリついてしまうのだった。少女は、手とり足とり、施設に収容されていった。そうした現実の修羅との触れあいから、私は“革命の思想”に傾斜していったのである。フランス大革命が、サン・タン・トワーヌの暴動からはじまったように、最暗黒の東京から、……ニコヨン、立ちん坊、浮浪者、売春婦までをふくめた“地の群れ”から、ダイレクトアクションで反乱を、革命をおこすことを、私はゆめみた。いちばん貧しいもの、虐げられたものこそが立ち上がらなくてはならない、立ち上がるはずだ、私はそう信じた。
 1946年5月19日“食糧メーデー”の昂憤を、私は、まるで昨日のことのように、鮮烈に回想することができる。皇居前=人民広場に集合した25万人の大群衆は、火竜のように赤旗を林立し、『食わせろ!』『働かせろ!』と怒号しつつ、首相官邸に向った。民衆はその時点で、明確に革命のビジョンを自己のうちに捉えていた。言葉をかえていうなら、人民大衆は、胃袋で革命の必要を理解していた。だが、“前衛党”公認の戦後史は、民衆の反乱のエネルギーを、まったく問題にしようとすらしないで、こう規定する。人民は虚脱していた、革命がおこらなかったのは大衆の政治意識が低かったからである、と。」(124−125)
「『民衆の多くが、ただ生存することをもとめて、ドン底の場でノタウチまわっていたのである。政治的に見るとこういった民衆[浮浪者、戦災孤児、ドン底でノタウチまわる人びと]の姿は、政治にまで問題をもっていかない、日本の民衆特有のその場しのぎの現実主義といえよう。[…]民衆は、国家や社会に対する不満を政治的要求につくりあげ、それを、集団的に語りあって、組織勢力にする能力も訓練も、それにふさわしい結社も、持ち得かった』(歴史学研究会編・戦後日本史T)
 これほど“人間”を侮蔑し、民衆の心情と乖離した史観を、私は知らない。敗戦の焦土で、餓えに苦しむ民衆は、まさに『ただ生存するために』反動政府を打倒し、一切の生産店を占拠し、資本主義的所有のすべてを廃絶しなくてはならなかったのだ。政治意識?糞クラエ!精神生活?馬にでも喰わせろ!人民大衆の巨大な反乱の他に、何が革命を可能にするのだ!?[…]まず、暴動を生起せよ、しかる後に秩序をうち立てよ!」(126−127)
「反乱から秩序へという革命の原則を、党は転倒し、『組織化によって暴動化をふせぐ』方向へと、人民大衆をリードした。食糧メーデー25万の大群衆の実体は、どのようなものであったか?それは、組織と未組織を問わず、一団となった“餓え”のかたまりであり、“暴民”の群れであった。ぼろぼろの兵隊服をまとった復員軍人、失業者、庶民の主婦、子ども、戦争未亡人、学生、もろもろの階層の大衆が、餓えという一点に凝集して、国家権力に対する“直接行動”をおこしたのである。[…]食糧メーデーの5月、人民大衆は『その場の現実』を変革しようとして、集団的に組織的に立ち上った。革命は街頭からはじまり、吉田茂は圧倒的なデモンストレーションの前に屈服して、組閣を断念した。だが、その翌朝――、」(127−128)
「上野の地下道に帰ろう、――“浮浪者”と一括していうが、かれらは生きてゆくための“職業”を持っていた。モク拾い、籤拾い、切符(プーパイ)売り、闇の女、靴磨き、進駐軍人夫等々である。」
●竹中労の敗戦経験。廃墟の中の、貧しいもの、餓えたるものたちの群れ。1946年食糧メーデーでの「胃袋の革命」と前衛党の管理への反発。
●〈秩序的な運動から革命へ〉という人間否定の革命論の否定→〈反乱から秩序へ〉という革命の原則。

「上野駅の地下道からさらに、東京のどん底にノメリこんだ私は、しばらく山谷のドヤ街で生活することになった。[…]ともかく私は、青春の狂疾を――反乱の夢想を、どん底の街に描きつづけた。『ルンペン・プロレタリア階級――旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって、ときには運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば反動的策謀に買収される危険が、より多い』(共産党宣言)というマルキシズムの教理を、単に表層的に捉える左翼観念論者は。ルンプロは“反革命”であると速断する。私自身にも、はじめそのような偏見と、差別観があった。だが、1947年秋から48年春まで、半年あまり山谷に住んで、“消極的な”腐敗物とマルクスが慎重に規定した意味を、私は理解した。どん底の人びとは、むしろ一般の市民社会よりも、コミューン(共同体)的心情を日常に生きていた。
 出合(であい)の仁義、転落者の共感――人間同士の慰めあい、それは、街娼とヒモの社会にも、脈々とあった。これをやめれば、人間を廃業するだけという最底辺の職業を生きて、世間から何と呼ばれようと、仲間には“義理”をかかさず、刃傷沙汰、盗難にあっても警察(サツ)の厄介にはならず、かれらの“囲内”を必死に守って生存していたのである。マスコミは、『犯罪の巣』『淫売の生態』といった猟奇的視点から、“被救恤的窮民”――最下層都市プロレタリアの世界にブラック・スポットをあて、市民社会からの『差別』『隔離』観を増幅するのみだった。かくて、敗戦の焦土に新たな“部落”は生まれ、そこに囲いこまれ落ちこんだ人びとは、社会の落伍者、あぶれものという烙印を押された。」(132−133)
●上野駅から山谷へ。山谷にあったコミューン的な日常と空間。

「かれらが“人間”であり、人間以下の悲惨に呻吟し、貧困と汚辱に対する怒りを、もっとも熾烈に内攻させているかぎり、そこに反乱、革命のヴィジョンを求めて当然ではないか?すくなくとも、敗戦の混乱――民衆総浮浪者化の状況において、全国的な窮民の反乱をおこすことは現実に可能であったし、圧倒的多数の民衆を反動的策謀の側に移行させぬために、すみやかに巨大な人民蜂起を生起しなくてはならなかったのだ。」(135)

「日本労働組合総評議会は、朝鮮戦争のボッ発と同時に、『北朝鮮の武力侵略反対、国連支持』を決議している。朝鮮特需で日本独占は“復興”し、合理化・高度成長経済へと“発展”していく。『差別』の底辺に切りすてられた下層プロレタリアート大衆は、人間回復――反乱のエネルギーを、地底に埋没したまま、大東京のスラム、ドヤ街の無告の住人として現在に及ぶ。」(139)

「現状況の山谷労働者に対する『差別』は、このような封建的支配関係が、資本主義的支配の関係にすりかわったものに他ならない。明治4年の解放令は江戸=東京部落を破壊して、新しい『部落』の再編成、すなわち共同体部落から指摘個人に分断された下層スラムをこの地に現出した。」(145)

「第2次世界大戦によって、日本の資本主義は生産設備に壊滅的打撃をこうむり、原材料の決定的不足で再生産不能におち入った。その日本資本主義が、アメ帝の軍事的、経済的なテコ入れによって、政治・経済的危機を乗りきってゆく過程……に見あって、戦後の山谷労働者街の成立はあった。[…]1950年の“朝鮮戦争”を契機に、いわゆるニコヨンの需要が増大し、山谷は『労働者の街』として再編された。これが、地下足袋ゲットー成立の第一期である。さらに、1960年安保の前後、日本資本主義高度成長期にほぼ現在の山谷の確立をみる。」(146)
●日本資本主義経済の“復興”が@戦争景気、A下層プロレタリアートの大群、によって支えられていた。内外の2つの〈植民地〉。

「日本資本主義は、このように労働者を生産点に閉じこめるだけではなく、二重、三重の“複合的経済構造”をますます徹底化して、農村を荒廃させ、貧農を大都会に駆り立てていく。いっぽうに合理化、倒産等々の自動調律によって、広はんな労働者を流動化させ、階級底部に切り棄て、山谷(あるいは山谷的状況)に囲いこんでいく。」(147)
「たとえば、新宿の西口広場にむらがる1万人の若ものたちは、そのような日本資本主義の矛盾がうみだした流砂現象である。砂の粒子は堆積し、みずからの重みに耐えかねて、瞬時に雪崩れるだろう。それは当然、巨大な全都的暴動――騒乱となって、大東京を、この現代のソドムとゴモラを呑みつくすであろう。
 山谷は、そうした都市人民蜂起、反乱の原点として、局地的“暴動”をくりかえしてきた。[…]山谷は地下足袋ゲットー、下層プロレタリアートの囲い内の1つにすぎない。九州八幡の労働下宿、横浜寿町、大阪の釜ヶ崎等、『山谷』は日本中に存在しているのだ。」(148)
「その闘争の中から、“持続する反乱部隊”をつくりだし、これまでのあらゆる“暴動”を超える巨大な街頭蜂起から、ドヤ占拠、――山谷解放区=コンミューンを構築し、都心に打って出て国会、都庁をおさえ、新宿騒乱と合流し、学園闘争と連合して、下層労働者の全都蜂起を誘発し、さらに反逆と日常性との間を動揺している組織労働者大衆を、社民・日共の鎖から解きはなって、圧倒的な反乱のメール・ストロームにまきこまなくてはならない。」(152)
「そうした補償を必要としない労働力を、常時プールしておくことによってのみ、資本は巨大な利潤を保証されるのだ。労働者災害に対して免責されるだけではなく、夏枯れ、冬枯れに、あるいは不況にさいして、どれほど大量に労働需給を制限しようと、失保、退職金等々を一切負担しなくても済む。欲しいときに欲しいだけの労働力を、資本は山谷からつかみどりに手に入れられる。[…]もっとも効率的に利潤を上げることが可能な状態なのだ。」(169−170)
●資本主義経済は流動的な下層労働者によって成立する。また、農村→都会への人口の流入を伴う。矛盾と圧力の堆積→暴動・騒乱の拠点。全国各地に「山谷的状況」をつくっている。

「東京都内のビル建築現場、高速道路、京葉工業地帯埋立て、団地造成、夢の島の塵芥処理、ベトナムへの弾薬輸送の荷役にいたるまで、京浜、京葉のあらゆる作業場、港湾で労働している。」(170)
「4月28日、4・28沖縄=山谷連帯の集会に、『山谷の町を守る会』と称する手配しのビラがまかれた。
『中共系の赤い手先にだまされるな!/彼等赤の手先は今日28日/沖縄デーといって皆さんを手先に使って/平和な日本を革命に落し入れようとして居ます!/◎今日はその手に乗ると警察にパクラレます!/みなさんがパクラレても彼等は後は知らん顔です/信頼出来る人と仕事に行きましょう!』」(172)
●ベトナム―沖縄―山谷。

「こうした下層労働者の一点突破は、反日共全学連の諸君が誇らかに語る68年の10・8羽田闘争より、はるかに以前から、いかなる“左翼”も関知しない地点で展開されていたのだ。それは、第1部『総括・無産者運動と天皇制』の章で記述した、被圧迫人民の根源的な抵抗であり、アメリカ黒人の反乱と軌を一にする。すなわち、『差別』『搾取』への血の闘争であった。60年以降、暴動は西暦偶数年度にくりかえされ、66年に及んだ。」(177)
「その夜[8月23日]、城北福祉センタ―の4階で、『山谷=ブラックパワー連帯集会』が開かれていた。SNCC副委員長のドナルド・P・ストーンをむかえて、山谷労働者は集会室にみちあふれ、同じ『差別』『搾取』に苦しむアメリカ黒人の闘争報告に、さかんな拍手を送っていた。」(196)
●山谷暴動、被圧迫人民の抵抗、アメリカ黒人の反乱。

「山谷の詩集『裸賊』には、圧殺された性のウメキがみちみちている。その一篇――、

チクショウ よくもおれを女から
引きはなしやがったな!
おれは 揉みくちゃにじらしぬいて
可愛がるのが得意やけ
ありがとう ありがとうっち
あの子が泣くまでやりよった
チクショウよくもそのおれを……
山谷のものはインポやけ
女はいらぬと引きはなしやがったな!
あの子は他の男と一緒になりやがった
おれはあの子をブッ殺したか
チクショウ それでもせんずりこくとき
あの子があらわれる
チクショウ あんな女を思いうかべて
せんずりこくなんか……
おれだって 見栄は捨てても
捨てきらない誇りがあらい!
酒でものまんとおられるか!
きさまらおれを生殺しにしたけ
おれもきさまら生殺しにしちゃるけのオ!
インポにしちゃるけのオ!
きさまら一生涯
『それでもチクショウ』っち
同じことを言わしちゃるけのオ!
はいずりまわって
言わしちゃるけのオ!
…………………
おれは まっかな赤鬼になって
都会を焼くのだ
この胸が吐く怒炎のほのおを 貴様に
たたきつける限り
おれはまだ生きている!
たしかに生きている!
               裸賊第2号・武藤たけし」

●性=おれはまだ生きている!生きていること、人間であることを認めろ、という情動が、性を通じて表現されている。

「私たちは、山谷の夏の暴動が、ドヤ制度の抑圧を根底としながら、状況としては解放感にもとづいて生起されることに、とりわけ注目しなくてはならない。つまり暴動は、山谷労働者が人間回復の行動に立ち上るに十分なエネルギーをたくわえた時点において、一挙に爆発するのである。裏がえしていうなら、山谷労働者は『暴動をおこしている情態』こそ、もっとも人間として正常なのであり、『抑圧に耐えている日常』のほうが異常なのである。[…]『革命は暴動である』と。」(190−191)
●人間回復の正常な行動・表現としての暴動。

「山谷自立合同労働組合の結成(10月1日)から、都庁進撃(11月5日)、山谷歌まつり(高石友也・岡林信康の参加による9、10、11月)等にいたる、一連の解放闘争は竹中の発想によるものであった。」(194)

「鈴木国男、船本洲治の二人が、三里塚闘争支援の帰途に山谷をおとずれて7月9日抗議集会に参加し、圧倒的な暴動を現認したその時点から、山谷解放闘争の新しい歴史がはじまる。」(196)
「1968年10月1日、鈴木国男らヤングパワーを中心に結成された、山谷自立合同労働組合は美濃部都知事に対して、25日、5項目の“陳情”を行った。@山谷労働者の越冬対策として“緊急失対”就労あっせんをおねがいする。A暴力手配師追放を警視総監に対して勧告していただきたい。B城北福祉センター及び労働センターと労働者との恒常的対話の場をつくるように指示していただきたい。C委託食堂“まつや”運営を当組合に移管していただきたい。D年末給食及び仮泊の対策を立てて当組合と協議していただきたい。……以上の要望について、11月5日までに文書もしくは、都知事の直接口頭によるご返事をいただきたい。」(207)
→責任ある返事がなく、都庁に乱入。都知事の要請により機動隊出動、逮捕。
「“都庁乱入事件”は、その改良の要求すら市民社会的体制(それが美濃部都政の正体である)は受け入れないことを、社民・日共の『革新』にとって、下賤なルン・プロである山谷労働者はムシケラ同然に切りすてられる存在でしかないことを、私たちにブタ箱入りという“実践カリキュラム”まで用意して、教えてくれた。幻想は崩れ去った。私たちはしかし、都庁にむかって幾度でも進撃するであろう!」(210)
●鈴木国男、船本洲治と山谷自立合同労働組合。
●冷淡な革新勢力と革新自治体。

「7月24日から27日まで、玉姫公園で『人間回復夏まつり・山谷労働者決起集会』、大島渚『白夜の通り魔』『忍者武芸帳』、エイゼンシュタイン『戦盤ポチョムキン』上映、岡林信康、中川五道、べ平連キャッツ、不服従者同盟等のフォークソング、瓜生良介“発見の会”の芝居『夜風お百』が上演される予定である」(226)

「山谷労働者の真の解放は、プロレタリア日本革命、世界革命の達成によって、はじめておとずれる。だが当面、この無階級共同社会にむかう、革命的過渡期において、わたしたちは山谷全地域の占拠、コミューン化を目ざして闘うであろう。」(228)

■全都(国)統一労働組合結成宣言(1969・7・5)
「兄弟諸君・同志諸君!
 先進国に遅れて登場した日本ブルジョアジーは、自らを世界一流の吸血鬼として登場せしめるために国内を始めとしたアジアの労働者人民を徹底的に収奪し弾圧してきた。日本における弾圧、収奪体制の確立は、ブルジョアジーによるプロレタリアートの分断支配の確立として貫徹された。
 分断支配――職員、本工、臨時工、社外工、下請工、中小企業労働者、日雇労働者と資本の思いのままに幾重にも分断された労働者は、それぞれの場所で大資本にとって最も効率よく、搾取され収奪された。労働者の分断支配は、労働者の統一した反抗を押し殺すという目的以上に、下部、下層に押し込められた圧倒的多数の労働者を徹底的に搾取し収奪する支配構造としてあった。」(245−246)
●日本資本主義の収奪体制→@アジア労働者人民の収奪・弾圧、A国内の労働者の分断と収奪。

「かくのごとく日本の“高度成長”を実体的に担っているのは、分断支配の下で、下層に押しこめられた、日雇労働者であり、中小企業に働く労働者であり、下請工であり、社外工であり、臨時工であり、本工現業労働者なのだ。そして、我ら下層労働者は、生きるのが精いっぱいで、奴隷のごとき状態におかれている。これが現実であり、日本の労働者階級のおどろくべき実体なのだ!
 だが兄弟諸君!我らは人間だ。動物じゃない。それどころか、我らこそ、もっとも人間らしい人間なのだ。いつまでも奴隷状態にガマンできるハズがない。人間らしい生活を要求する。いや、人間を動物化しているブタ共をたたき殺し、人間的、人間の奪還を切望する。人間そのもの、人間の生活そのもの、人間の社会そのものの獲得を切望する。」(246−247)
「人による人の搾取、抑圧がなく、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような1つの無階級共同社会を目指す。」(249)
●人間奪還の闘争としての、下層労働者の運動。

■あんぐら音楽祭=山谷――フォーク・ゲリラへの提言(『フォーク・リポート』6月号)
「諸君は、自己のうたうべき歌を、うたわずにいられない歌だけをうたえ!だれかの気に入られようとして、あるいは街角でふりかえられる存在になることを意識して、拍手を待ちうけてうたうな!なべてプロフェッショナルな権威から、諸君の歌を断絶せよ!すなわち、一個の人間の自由な精神の所産としての“歌”を、音楽をつくり出すのだ。」(262)
「山谷労働者の雑色のスクラムに、歌手岡林信康はとけこみ、まったく違和感がなかった。高石友也、岡林、いったいこんな歌い手がどこにいるか!と、オレは思うのである。日本の反体制文化運動の歴史に、これほど労働者階級と一体となり、戦列を組んだ歌い手があっただろうか!――労音、うたごえ?糞くらえ!音楽状況変革の旗手は、彼らにおいて他にないと、オレは信ずる。高石、岡林、そして高田渡はすでに山谷で4回のコンサートをひらき、労働者ゲットーであるこの底辺の街の解放闘争に、積極的に参加してきた。高田にいわせれば、マイナーである山谷に、彼らは歌声をおこした。古賀メロディー、北島三郎、美空ひばり、七五調、ペンタトニイク、エトセトラ、労働者自身の心情に裡なるマイナーと闘って、彼らは勝利しつつある。『浪曲子守唄』からインターへ、それは日本音楽の現状況を革命する1つのプログラムでなくてはならない。
 フォーク・ゲリラの群れよ、諸君を山谷に招待する……。
 山谷で君の歌をためし、きたえ上げよ!」(264)
●うたごえ運動、労音への批判。底辺へ来い、という招待という批判。

■第3部 流砂の列島
■1 にんげんをかえせ――ルポ・広島原爆スラム
「スラムを撤去しようという動きが、本格的になったのは、最近のことである。行政当局は、この問題を、もっぱら都市の“美観”という視点からとりあげた。知事の答弁にあるように、『理念的には』被爆被災世帯への補償が考慮されたが、現実はミソもクソもいっしょにした、強制執行という形でスラムの立退きがはじめられた。
 1965年7月26日、広島市議会は、『河岸緑地帯の不法建築立退き促進に関する建議書』を採決した。
 『戦後20年を経た今日、本市の表玄関ともいうべき広島駅前一帯の河岸緑地をはじめとして、公共用地内にいまだに数多くの不法建築を残しており、広島市の恥部ともいうべきその姿はまことに遺憾に堪えません』
 いったい、これはどういうことなのだ?
 広島は、原爆スラムを、そこに住む貧しい被爆被災者たちをひっくるめて、“恥部”と呼ぶのか?市役所広報課の一隅、スラムに関する資料を整理しながら、私の胸の中には怒りとも驚きともつかぬ違和感が、キノコ雲のようにふくれあがっていった。」(275)
「むろん、自分の土地でないけん、地主に地代を払うて借りたのです。それから足かけ20年、店もひろげ、子供たちも大きうしてきました。それじゃけん、心がこの土地について、離れよりません。市では、わあしらがここに住んどるのは、“不法”じゃと、まるで盗っとでもしているようにいう。それが納得でけんのです。わしらが、ここで商売をはじめたとき、河岸は緑地でもなんでもなかったんじゃけん。
 公有地になったのは、たしか昭和24年それも進駐軍の命令じゃったと憶えちょります。ピカを落して、それが原因で、できたバラックを、こんどはのけというのですから、むごい話じゃと思うのです。わしらが最初から、建てちゃならんところに家を建てたのならともかく、後から不法だときめられたんじゃけん、納得でけんのです。わしらは家をめがれ(壊され)ても、不法占拠じゃからいうて、一銭の補償ももらえん。それどころか、取り壊し料を6万円も納めろと、無茶をいうてきよる。こんな弱いものいじめが、法律じゃいうてまかり通ってよいものじゃろうか……」(277)
「だが、その青写真は、広島市民の意志とはかかわりなく、GHQ(占領軍総司令部)からの勧告によって、命令的に指示され、作成されたのである。当時広島に駐留していた、Sという大佐の手で、幹線道路からバス路線にいたるまで、具体的かつ詳細なプランが立てられた。浜井市政は、戦後一貫して、占領軍政策の都市計画を、忠実に履行してきた。市民のナマの生活に密着した、独自な、有機的な計画はなかった。」(278)
「肝臓障害で寝たきりのOさんに、身よりはいない。[…]『[…]市で立退けというとるそうじゃが、何でじゃろうの。ピカはアメリカが落したんじゃけん、アメリカにまどうて(償って)もろうたらよいんじゃ。わしら、被爆者をつらい目にあわせるのは、何でじゃろうのう』
 被爆未亡人のKさん(46)は、立退きの督促状を、市の官吏の見ている前で、口にほうりこんで食べてしまった。貧乏でも、他人にメイワクをかけないで生活しているのに、どうして邪魔ものあつかいにするのかと、真剣に問いかけるのだ。」(281)
●恥部としての原爆スラムという行政的規定。
●原爆スラムの歴史的な形成過程や「原爆とは何だったのか?」という現在進行形の問いとの設定のない、土地の開発=記憶・記録・生存の地ならしが行われる。進駐軍=米軍による公有地化による「不法」占拠状態の発生、そして立退き。日米両権力による記憶と生存の排除。

■京葉人身売買事件
「京葉臨海工業地帯の級数的な発展は、地元漁民を、日雇人夫、臨時工として、大企業に従属させ、さらに多くの貧困な農漁民を、広範な地域から労働市場に吸収する。
 太平洋岸の漁村から、黒い潮のように流入してくる若者たちの群は、京浜京葉の工業ゾーンに消化される。そこで、彼らは底辺のプロレタリアートとなり、資本主義の汚辱に毒されていく……。」(315)
●工業地帯の労働市場に流入する/が吸収する農漁民たち。

「かれらは、かれらの真正な意味での“青春”を、個的には“非行”という反社会的行為で、全的には“自然発生的”暴動蜂起によって貫徹するであろう。すでに、新宿西口広場の『土曜波』は、それを予兆している。私たちを呪縛してきた、体制秩序の論理が、砂上楼閣のように崩壊するときが、戦後24年目にしてようやく到来しようとしているのだ。」(322−333)
●非行を革命の予兆として論じる。フォークゲリラの発生を体制秩序の崩壊として論じる。

■永山則夫論――非行とはなにか? (1969・4・21)
「母親は行商のため家にいない。永山則夫は兄と一緒に新聞配達をして、自分の食ブチを稼ぎ出します。割符をあわせるように、彼とルイ・アームストロングの生い立ちとは酷似しています。これを、偶然の一致とみるか、下層プロレタリアートの子弟が負わねばならない宿命の典型とみるかは、あなた方の自由です。ただ、永山則夫の場合も、サッチモの場合も、そのむざんな少年時代の根底には『被差別の状況』があったのだということを確認していただきたい。」(328)

「非行とはなにか?というテーマを掲げること自体、まったくナンセンスです。パラドクスでいうなら、“非行”とは若もののもっとも健常な情態でありましょう。そもそも、青春の欲求を、法や力で抑圧しようとすれば当然、少年たちは情動不穏におち入り、“監護”の檻をやぶろうとします。“非行”とはすなわち“叛逆”の別名であって、生命力の反発であり、若い魂の自由へのあこがれに他ならないのです。いきなり、とっぴなことをいいますが、これらの“非行”エネルギーを“革命”エネルギーに転化することこそが、巨大な都市反乱の展望を可能にする、唯一の途ではないか、と私は考えるのであります。」(335−336)
●非行=叛逆、革命エネルギーへの転化の可能性。

「革命は誰のために、どの階級に依拠して行われねばならないのか?近代的プロレタリアートの組織化によって?――ナンセンス!日本資本主義は、2千万人の未組織労働者を階級底部に沈澱させ、年間2百万人の出かせぎ、離村、集団就職等々の低賃金労働力を、農村漁村から切りとり、『差別』『搾取』のエンクロージャーに追いこんでいく。そのような階級構造に、公式マルクス主義の革命戦略は密着し得るか?疑問に思う、ヘルメットとゲバ棒の“学生部隊”を、山谷が、あるいは『非行少年』と呼ばれる若きプロレタリアの大群が、圧倒的に乗りこえていく“状況”をつくり出さぬかぎり、私は日本に革命はあり得ないと思うのです。」(336−337)
●底辺労働者と非行少年をつなぐ視点。「近代的プロレタリア」のあぶれ者たち。

■天皇制と『少年』
「天皇制は死滅した、すでに封建遺制は現実に民衆を支配することはできない、と、“左翼”御用学者はいう。この世は民主主義である、平和憲法がある、秩序ある闘争(おお何という言語矛盾!)によって社会変革は可能である、と。エセ革命党はこえ太り、その機関誌はスターたちの媚笑で飾られ、推理小説の大家が選挙応援に名をつらねる。だが、賤民は野に満ち、山に満ち、2千万人の未組織労働者、部落民、朝鮮人、日雇、店員、臨時、社外工、フーテンetcの大群は大都会にひしめき、階層差別のどん底に落層し、沈澱し、堆積する。――そこに醗酵するもろもろの欲求不満、金嬉老になり、永山則夫となり、3億円強奪犯人となる。」(344)
●民主主義・平和憲法・秩序ある闘争という既成左翼 ⇔ 未組織労働者、下層労働者、朝鮮人、などの欲求不満と非行と犯罪=革命・叛乱・暴動の潜在的な力

■むすび
「4人の若者たち[鈴木国男、中村昇、船本洲治、荒木広志]の行動に触発されて、かつての青春の狂疾に回復し、再び山谷にかかわることになった。かれらを“同志”と呼ぶことを、私はためらわない。」(350)
●鈴木国男、中村昇、船本洲治、荒木広志

「そしてまた、山谷は、全世界の被圧迫人民、被差別人民と連帯する。とりわけて、アメリカの黒人大衆と固く連帯する。“第3世界”の夜明けは、旧世界の破滅によって、もたらされねばならぬ。日本の革命はアジア革命を約束しなくてはならず、3大陸人民を団結して、アメリカ・ヨーロッパ文明の呪縛から全世界を解放する“世界革命”にむかわねばならぬ。山谷は――、しんに革命を志す労働者、青年、学生に呼びかける。
 叛逆せよ! 蜂起せよ!
 人間を回復せよ!
 都市反乱の原点、山谷は諸君を待つ。
 労働によって、自己を変革せよ!
 革命の脈打つ心臓である山谷に、結集せよ!」(351−352)
●世界の被圧迫人民との連帯 → なぜ?

■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20111005 
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
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