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『新老人福祉論』 田中 多聞 196909 社会保険出版社,326p. ASIN:B000J9OYJU ■田中 多聞 196909 『新老人福祉論』,社会保険出版社,326p. ASIN:B000J9OYJU [amazon] ※ b a06 r02 t04 【目次】 悠生園での老人の『復権』をみて(上田敏) 序にかえて 第一章 創生期の回顧 一 序章 二 社会福祉を考えよう 三 長寿国とは 四 日本の老人は孤独である 第二章 老人福祉のあり方 一 県内有病老人をたずねて 二 どこが間違っているか 三 老人の患者は捨てられる――老衰という名のもとに 四 ジェロントロジー 五 老年――日本と北欧のそれ 六 みずから消えてゆく老人たち――冷ややかにみつめる世間の目 第三章 老人の医学 一 ジェリアトリクス(老年病学)とは 第四章 老人の社会学 一 第二の人口革命 二 ますます狭くなる老人の座 三 老人の経済学 四 新しい老人の社会とは 第五章 老人のための福祉と保障 一 私の見た老人 二 社会保障の意義と役割 三 老人ホームの基本理念 四 老人ホーム 五 『老人の町』――悠生園の老人の町 第六章 老人のためのリハビリテーション・サービス 一 目的と意義 二 北欧のリハビリテーション・サービス 三 セラピストの地位 四 悠生園のリハビリテーション・サービス 第七章 老人福祉のマスター・プラン 一 今後の老人福祉のあり方 二 総合的プランニングと施策 三 老人ホームの今後のあり方 終章 田中博士におくる(森幹郎) ■引用 「こんなことを考えていたある日、機縁があって、悠生園を訪れることができた。田中多聞先生はとは以前から面識があったし、テレビを通して、悠生園のPTのきびしい訓練ぶりや音楽療法のこともある程度知ってはいた。実をいうと、田中先生は大変こわい人のように思えて、私のように浴風園での老人のリハビリを期間ばかりながいくせに大変不徹底にやっていて、一方大学病院でのリハビリに首を突っ込んだりしている中途半端な人間は、純粋な先生の眼から見たら、不純分子としてどなりつけられるのではないかと、おっかなびっくりであった。」(上田 1969「悠生園での老人の『復権』をみて」)(田中 1969) 「悠生園について語りたいことは多い。その建物にも、日課にも、リハビリテーションの精神はすみずみまで浸透していた。私はここでアメリカ以来はじめて、日中は全員がベッドから離れて空っぽになっている病室を見た。それこそがリハビリテーションの病室なのである。が、日本の多くのリハビリ病院の病室はそうでないのである。また田中先生の音楽療法へのアプローチは、IQ、失行症、失語症のテストを含め、非常に科学的なものであった。<< しかし、何にもまして、私が価値あるものと思うのは、老人の人間としての『復権』のためには「どうせ………なのだから」という投げてかかるアプローチそのものを否定して、老人の、そして大部分が農民で教育も高くない老人さえもの、胸の底のどこかにひそんでいる人間としての誇り、尊厳、より高いものを求める心に、直接に訴えかけていくことが必要だということを、悠生園の経験がはっきりと示してくれたことである。私はここに老人のリハビリテーションの基本精神が、いや、あらゆるリハビリテーションの、さらにはあらゆる福祉事業というものの基本精神があるように思われてならない。 私には、いまも限に浮かぶようなのだが、運命交響曲に取り組んで緊張して指揮者を見つめていた老人たちの活気のある眼、それはふつうの福祉患者の家畜のような従順な限ではなく、まさに人間の、『復権』された人間のまなざしであったと思うのである。` 昭和四十四年五月」(上田 1969 「悠生園での老人の『復権』をみて」)(田中 1969) 「いちばん病気の多い子どもや老人層に、医療保険が百パーセント給付でないというところに、日本の医療保険の大きな矛盾がある。」(田中 1969:31) 「県内の老人ホームを、あまねく回ってしまったのは、三十九年十月も終わりに近かった。 入園希望者はあとを絶たなかった。先着順に入れることにしたものの、ほとんど同時に申し込みがあるので、私が考えたのは、家庭からの入園、老人ホームからの入園、病院からの入園を、それぞれ二対二対一の比率とした。とくに気を使ったのは精神異常者で、他の患者に迷惑をかける人たちである。脳細胞の変性による、いわゆる老年痴呆の高度のもの、また凶暴性のある分裂病など、精神病院に入院させるのが適当だと認められる者はその旨、関係先に連絡した。 福祉事務所を経由して入園してくるわけであるが、事務所で医師のチェックがなされてくるわけでもなく、社会的条件として必要だといってきても、医学的に見て不適当だと考えた場合<41<はことわった。 その理由は明白である。ナーシング・ホームは、病院ではないのである。医師も一名、看護婦の定員も一名に過ぎない。あとはしろうとの寮母である。それこそ、老人福祉法でうたっているように、介助を要する老人なのである。治療とか看護とかは領域外だという。 某日、私は看護と介護の区別を質したことがある。東京での会議であったが……。看護という字句は、用いないという。なるほど社会局では、医療は所管外であろう。だとすれば、私たちがあずかる老人は、患者であってはならない。看護も医療も枠外であるからおしめかえや食事、入浴の世話でこと足りるはずである。それですめば結構である。しかし、私の予想では絶対にそうでなく、むしろ病院でも手を焼いて困る患者をもってくるものだと、かたく信じていた。 九年間、いや大学の医局生活を入れれば十三年間にわたる私の経験では、大学病院や国立、県立、また日赤病院などが、手を焼く老人病患者を喜んで受け入れるはずがないことは、十二分にわかっていた。 第一に、大学病院は、生活保護の患者は扱わない。特別室は、主に財界人や有力者のために用立てられているし、また偉い先生方の特別診察も、そのような人に重点が置かれているからだ。もっとも積極的な指導を要する社会の底辺の仕事をしている人たちには、目もかけてもらえな<42<いのが実状なのだ。国立、公立病院の場合でも、貧困者で慢性疾患を持つ老人は、きらわれる。医局ではよいとしても、看護婦の反対をくってしまう。そうでなくても看護婦が足りないのに、やっかいな患者はおことわりだ、というわけだ。 その証拠に、日本の国立大学で老人科を持っているのは、東大と京大だけである。それも昭和三十七年以降の開講である。いわんや、地方の大学にあろうはずがない。また地方の病院にしても、老人科の設置を考えている病院を私は知らない。日本の医学教育の矛盾がここにある。一方、治療医学の進歩は、見るべきものがあっても、もう一歩進んで、第三の医学といわれるリハビリテーションはどうであろうか。労災病院などのそれは高い水準であるが、老年者を専門的にやっているところはきわめて少ない。」(田中 1969:41-43) 「筆者は、スクラップを繰ってみた。 一九六六年(昭和四十一年)九月十五日(老人の日)の毎日新聞夕刊によると、「昭和四十年一年間の六十歳以上の自殺は、四、四九三人、六十歳代で人ロ一〇万につき四〇人、七十歳代で六〇人、八十歳代で八七人が自殺している。老人福祉法第三条の〈老人は、健全で安らかな生活を保障される〉との精神からはほど遠いとしても、せめて老人を自殺に追いやることが<76<ないような対策が、早急に立てられなければならない」と書いてある。 また同日の朔日新聞朝刊は、東京巣鴨のアパートに一人暮らしの七十八歳の老女が、ながながお世話になりましたと書置きして六月末に家出をし、ゆくえ不明のまま、やっと十四日に宇都宮の山中で、自殺死体として発見された、と報じている。」(田中 1969:76-77) 「社会保障を語るには、まず北欧が頭に浮かんでくる。英国もそうであろう。(中略)<163< 筆者が老人福祉国家の代表としてデンマークを選んだのは、その国柄もさることながら、コペンハーゲンの「老人の町」での研究がおもな魅力となっていた。「老人の町」院長、トルベン・ガイル博士は国際老年学会での重鎮であることはむろんだが、すぐれた老年病学者として筆者が尊敬していた方だった。博士は筆者の泊り込み研究を快諾され、一九〇一年に出来た世界でも古い本格的な老人病院の一室を提供してくださった。万事結購づくめの待遇を何の肩書も持だない私にくださったのである。外人観光客は、よくこの「老人の町」を訪れる。ゲートにそれらのゲストたちのために案内人がいて、広々とした花園に浮かぶ老人天国を案内している。」(田中 1969:163-164) 「有病老人のための老人ホームとして、昭和三十八年施行された老人福祉法により、特別養護老人ホームが誕生した。俗に特養とか特老とか呼ばれているものである。からだの不自由な老人たちや、精神的にいちじるしい障害を持つ老人を収容し、介護する施設といわれている。厚生省の施設課でこの法案が練られ、国会を通過したのである。サンプルはもちろん、北欧のナーシング・ホームである。 看護ホームでいくか、老人病院でいくか、議論の多かったところらしいが、結局いずれもだめになり、中途半端なものになってしまった。 老人病院がだめになったことは後に回して、なぜナーシング・ホームがだめになったかについて述べてみよう。 看護というと、医療が伴うという理由が有力だったらしい。医療となると医務局の管轄になる。社会局がやる以上、医療行為は伴わぬものでないといけない。したがって、看護という字句を用いずに介護を用いている。だから、収容者は、患者でなくて老人である。どうも妙なこじつけの感が強い。 身体保障が老人の場合、とくにみじめだ。保険給付を見ればわかる。身体福祉が伴わぬところに老人福祉があり得ないことは、たびたび述べてきた。<223< 老人は病気にかかりやすい。予防医学、治療医学、そして第三の医学であるリハビリテーション医学が一体とならなければ、老人の健康維持はむずかしい。 収容老人(これがお役所で定められた言葉であるから使わしてもらう)が、患者でなければ介護で十分であろう。単に年をとって、ヨボヨボしている老人(いわゆる老衰)の世話をし、面倒だけをみるとしても、医師一名、看護婦一名というメディカル・スタッフでどうしてメディカル・ケヤーが行なわれるであろうか。 老人の世話をする職員は寮母と呼ばれている。医学的には、全くのしろうとばかり。老人ホームと違う点はどこかというと、寮母の定員が多いし、収容者が自分で自分の身の回りの始末が出来ない老人が多い点である。平たくいえば、老人ホームの静養室の集りである。医師が一名専従となっていても、安い給料で医師が働くはずがないし、医療機関でないから検査も十分やれないし、月に五百円の保健衛生費などでは、ロクな治療も出来ない。みすみす老人を見殺しにすることになる。死亡診断書を書くだけの仕事じゃないかといわれても仕方があるまい。 筆者の場合も、ずいぷんと反対された。何でそんな仕事をするのかと……。自分の病院をやっていればいいじやないかと。目本の医学でもっとも欠けている社会医学を志してやるんだといっても、鼻先で笑う人たちが多かった。 セラピーも出来ないのは医者の仕事じゃないという思想が、根強くはびこっているのであ<224<る。とにかく医療はほとんど加えられないばかりか、看護さえも認められない。 介護、介助だけだ。入浴、排泄の処理、食事を食べさせてあげる……。それだけが目的の特養なんてあり得ないはずだと、筆者は初めから確信していた。毎日の業務が、前三者で明け暮れるようでは、老人の余命も長くはなかろうし、また第一寮母が窒息してしまう。どんどんやめてしまうにちがいない。よほどの篤志家でない限り、長続きするはずがない。医者はもちろんのこと、看護婦も嫌う。 いい例が、大学病院、国立病院、公立病院にしろ、大病院になればなるほど手のかかる老人患者は嫌う。 老人福祉法でいう身体、精神上いちじるしい障害を有する老人という限界線は、どこで引けばいいのだろうか。障害を認定する人はだれか。それは、福祉事務所のケース・ワーカーである。医学的に全くのしろうとが、書類だけで措置を決めてしまう。医師の診断書が添付してある場合もあるが、そこの病院で手をやいた老人を送り込んでくることだって、大いにあり得るのである。」(田中 1969:223-225) 「昭和初期になって、東大の高木憲次博士らによって肢体不自由者療護協会が創立され、ついで肢体不自由者を対象にした整肢療護院が誕生し、現在に及んでいる。」(田中 1969:138) 「悠生園を例にとると、PT・OT・STの他にMT(音楽療法士)がいる。 資格をとやかくいっても、日本では始まらない。労災病院や数少ない病院や国立、大学病院でも、PT・OTが小人数いるに過ぎない。悠生園で力を注いでいる理学療法、作業療法と音楽療法は、いまや老人にとって欠かせないものとなっている。 対象はもちろん、卒中老人や運動器の障害を持つ老人と、精神機能障害老人である。音楽療法は一九六五年(昭和四十年)十月から開始した。当初は打楽器だけの簡単な鼓笛隊だった<257<が、いまではベートーベンの五番(運命)の演奏に取り組んでいる。 音楽療法で署名なイギリスのジュリエット・アルビン夫人が来日され、精薄児にチェロを聴かせ、その反応を見るいわゆる聴かせる音楽療法を、直接筆者は見聞したことがある。その際、夫人に悠生園の音楽演奏療法を、テープと写真で披露した。夫人は、老人、しかも有病老人が演奏しながらからだと心の回復をはかっていることに注目され、ぜひライブラリーとして協会(ロンドン)に保存したいから資料などを送ってほしいと述べられた。そして音楽療法がどしどし積極的に、セラピーとして取り上げられるようにがんばってほしい、と激励されたものである。 現在、音楽療法のほかに言語療法がある。卒中などの場合、言語障害が伴う場合があり、言語療法は単に言葉がいえるようにするだけでなく、精神機能を改善させるとともに、機能検査を行なうことにも重要な役割を果たすのである。くどいようだが、人間の欲望を満たすことこそ福祉本来の目的なのである。少しでも動きたい。話したい。どうにもならないんだというあきらめ、そして眼前に大きく迫る死亡の恐怖から老人を、いかに解放するかが筆者らの責務と考える。」(田中 1969:257-258) 「養護老人ホームを二、三ヵ所回っただけで、驚いてしまった。というのは、静養室という名の部屋(ホームの定員の約一割がはいっている)がある。静養のための部屋ではなく、大変<264<な病人の収容室である。一歩踏み込んだだけで、大・小便の不潔臭が充満している。多くは板張りの床の上に直接ふとんを敷き、しかも垂れ流しのためだろう、ゴム布を大きく敷いたふとんの上に寝ている。枕もとは、まるでゴミためである。菓子袋が口を開き、空カンが散乱したり、タバコが散らかっている。患者のひげはぼうぼう、手足はやせ衰え骨と皮だけで、あかが鱗みたいである。これでは皮膚呼吸も十分にできまい。」(田中 1969:264-265) 「第七回国際老年学会(一丸六六年六月末ウィーン)で、悠生園のリハビリテーションは一躍国際学会の檜舞台に上がった。とくに、三十分間の記録映画は好評を博すことが出来た。 この学会は、三年に一度開催されるが、筆者はこの第七回に悠生園の真価を問うべく、前年の秋から取り組んだ。」(田中 1969:282) 「これで明らかなとおり「馬を池には連れてゆけても、水は飲せることが出来ない」のである。わずか三七・二%しかリハビリテーションを受けてくれなかった。その結果は明白であった。やれば必ずよみがえるのである。それとは逆に、よみがえらざる不幸な老入たちについて調査したのを発表しよう。 全死亡者中、一ヵ月以内の死亡が二〇・三%、三ヵ月以内一六・五%、六ヵ月以内が二二・六%、合わせて半年以内に五四・丸%が死亡している。入園後一ヵ月以内の死亡二〇・三%というのは、対象者の選択の誤りを物語っている。当然、病院に入れるべき重症者を、誤ってナーシング・ホームに強引に連れ込んだ結果といえよう。 また、入園前所在から見た死亡を考えてみよう。 老人ホームからの全入園者九七例中、死亡は四六例(四七・四%)。病院からは六四例中一九例(二九・一%)。家庭から二二七例入園し、六八例が死亡(三〇%)している。老人ホームからの入園者の死亡率が高いことは、何を意味するのだろうか。 メディカル・ケヤーとリハビリテーションの欠如である。その理論的裏づけは、悠生園の三年三ヵ月のデータが証明している。 よみがえる老人と、よみがえらざる老人。生と死の別れ道は紙一重である。やるか、やらな<288<いか。やらせるか、やらせないか。「老人は保護さえすればよい」とか、「老い先短い命だ。そうしなくとも」……。これらの考えが、日本の老人福祉関係者たちの間に、強くしみついているのを拭い去るに、非常な勇気と叡智を要する。 筆者は、猛烈な外からの抵抗にあい、足を引っ張られた。それもしろうとと関係者の双方からである。しかしながら筆者の信念は、いささかもくじけなかった。そして、その実績が見事に証明されたのである。」(田中 1969:288-289) *作成:北村健太郎 *情報提供:天田城介 UP:20080124 REV: ◇老い ◇1960's ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |