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『安保・反戦・沖縄――70年前哨戦の総括』

石田 郁夫 19690815 三一書房,227p.

last update: 20110627


■石田 郁夫 19690815 『安保・反戦・沖縄――70年前哨戦の総括』 三一書房,227p. o01 sm02 m04

■内容

一昨年秋、羽田からはじまった過程の、1つの到達点であり、さらなる前進への出発点でもあったのが、今年の6・15だった。
「反戦・反安保・沖縄闘争勝利」が、その合言葉だった。私は、そのスローガンを、題名にして、羽田から全軍労ストまで、私が参加することができた前哨戦の報告をまとめることにした。
(表紙裏より)


■目次

まえがき
1 戦闘的市民の行動原理
2 反戦青年委員会(1)
3 反戦市民の全国的決起
4 基地撤去闘争の展開
5 三派全学連分立の論理
6 反戦と変革
7 基地闘争と地域住民
8 佐世保の乱以降
9 国境の島のインターナショナリズム
10 反戦青年委員会(2)
11 新宿10・21
12 七〇年に向けての断絶と統一
13 東大・佐世保からの遠望
14 東大闘争がひらいた地平
15 沖縄闘争と大学闘争
16 沖縄・四月〜六月


■引用


■1 戦闘的市民の行動原理
「権力との確執をかもすことの少ない一般的な運動のなかでは、地位と名前と所属が、はばをきかせるが、権力と真っ向から対決する場合は、「ただ人として立つ」という主体を明確にもった隊列が必要となることは自明の理だ。個人の自発的能動的結集が、その戦線をささえる。自国の政府の政策との全面的対決に、直進しなければならなくなった反戦運動の現段階から、必然的に、基地闘争の現地の当事者たちのみならず、広い範囲にわたって、意識的に「ただ人として立つ」人びとが出動してきた。それが、さいきんの反戦運動の特徴ではないかと、私は考える。
 ヴェトナム戦争に、まるごと加担している現況では、反戦運動が基地闘争との等質性をもった、反権力の運動としてみずから形成していかなければならない。その戦線を担うためのあらたな主体として、「人として立つ」活動家たちが輩出してきた。
 そのような、新しい力の発現は、「ただ人として立つ」ことの習慣のない、あるいはそれが信じられない保守的な人びとには、解しかねる。既成の分類表にあてはめたり、系図をたどって素性しらべをしたり、既存のイメージにたよって「名づけ」たがったりする。」(石田、1969:10)

「ベ平連が、あれほど「運動があって、組織でない」と、口をすっぱくしていっても、おおかたは理解できないのだ。さまざまな政治的見解をもち、所属する組織も多種多様な、ひとりひとりが「人として立つ」次元で、一定の目標に対して結合し、共同行動をおこない、散らばり、また集まる、離合集散する、多角的に連帯し、行動を持続するといった、実行委員会方式が、デモと集会にはもっとも望ましい組織形態であり、結集してくる人びとは、あたりまえのことだが、十人十色、千差万別だ。」(石田、1969:11)

「行動者が、イデオローグになり、オピニオンリーダーになっていかねば、反権力運動は立ちゆかなくなった。
 これは、前途に希望が持てるきざしであり、地平が明るんできたあらわれだ。
 いまこそ、「ただ人として立つ」人びとが「処士横議」し、みずからの所属をのりこえて「横行」し「横結」しなければならない状況が到来したのだ。」(石田、1969:26−27)

◇「ただ人として立つ」ことの必要性。綱領やトップダウンの運動ではなく、個人がそれぞれの思想と実践を行い、それが横に繋がりあうこと。1960年代後半の状況として。


■2 反戦青年委員会(1)
「[1966年?]広島で、八・六全国青年学生反戦集会をひらき、「中央指示待ちの行動から、独自の創造的な活動への転換」が、組織路線としては強調され、運動の模索としては、自国政府のベトナム侵略加担の政策とたたかっていく方向が討論され、意思の統一が進んだ。」(石田、1969:33−34)
「反戦青年委員会の組織原則として、@個人の創意を運動に反映し、A運動の自主性をかちとり、B青年学生の広範な統一を実現することを確認してきた。
 この三原則こそ反戦青年委員会の基本であり、『創意』『自立』『統一』のいずれかが欠けても反戦青年委員会は形骸となってしまうだろう。
 三原則はまた、反戦青年委員会の二年にわたる運動のなかでかちとられた貴重な財産である。各県反戦委の活動のなかで発揮された参加者の創意性は、運動を生き生きとしたものとし、運動を持続させる基礎をつくりだした。
 また日韓闘争以来、たとえば運動費の返上、形式的な組織動員からの脱却などの経験は、自立した運動でなければほんとうに迫力のある反戦闘争にならないことを示している。」(石田、1969:35)

◇過去の教訓⇒なぜ創意、自立、統一が必要か。「人として立つ」連合体としての運動。


■3 反戦市民の全国的決起
「行動の面ばかりでなく、新しい価値を創り出している側面でも、自立的市民の運動は示唆に富んでいる。ほんの一例をあげると、王子の市民デモの隊列からは、「アーミー・ゴーホーム」という、シュプレヒコールがひびいた。「ヤンキー・ゴーホーム」で、どこが悪いか、という、労組の古手の幹部とのあいだに、問答がかわされた。
 「まるごとのアメリカ人に、人種的にわれわれは反抗しているのではない」「ヤンキーでも、反戦をやっている人はいるわけでしょう。それとは連帯すべきですね、おじさん」。その労組幹部も、戦後いいなれてきた「ヤンキー・ゴーホーム」を「アーミー」に、とりかえることになった。」(石田、1969:49)

■4 基地撤去闘争の展開
「福岡では、すでに十数年来、右から左まで「まちぐるみ」で、既成組織を上からあつめた「板付基地移転促進協議会」が結成されていて、陳情と決議をくりかえし、妨害設備の補助金獲得などの成果をあげてきていた。ファントム墜落のショックで、またぞろ、移転の署名などをはじめようとしたところが、団地自治会の主婦たちに「移転」では署名しない、「撤去」にせよ、と突き上げられ「移転協」が、「撤去協」に名称変更を余儀なくされ、市議会の「米軍機墜落に対する抗議文」にも、撤去という言葉がでてくるようになった。
 六月二二日、福岡県議会は「移転」と「撤去」の妥協案とおぼしき、各会派共同提案の「板付基地のとりのぞきを要求する」意見書を可決した。「移転」も「撤去」も「とりのぞき」であることは、なるほどまちがいない。[…]「基地撤去」もまた、多義性をもち、福岡市からの「撤去」であるということであり、「移転」では、いいふるされてもきたし、語感がおとなしいので、願望の強さをあらわすために「撤去」としたという理解から、先の主婦たちの「撤去」まで、ふくみうる。
 政府の移転の約束は、「基地撤去」が、安保条約の存在そのものにまで、市民の認識が到達することをおそれての対応であることは、はっきりしている。
 当面の「まちぐるみ」を保持するために、安保条約について触れることをしないで、「撤去」決議の多義性に、その願望を付託する日和見をおこせば、墜落のショックがうすれていくとともに、大衆的な高揚の潮は、いっきにひいていくだろう。移転先の予定地である自衛隊基地・築城と、その周辺は、いっせいに反対決議をし、運動を開始した」(石田、1969:67−68)

「「どこか、島へもっていけばよい」と、ついホンネをあげる人びとに、私は何人も会った。そのたびに、ひんやりしたものを感じないわけにはいかなかった。遠くの島へ追いはらえ、という彼らの意識をたぐっていくと、その底に、沖縄が、確実にあると推察できるからだ。
 門司港の全港湾の活動家の一人は、基地の遠島処分には、新島と沖縄の例をとって、反対であるむね、私がいうと、それでは、沖縄の基地をふくめて、日本中の基地をまとめて、朝鮮におっつけてしまって片づけることを提案した。

 基地の被害をうける当事者たちの意識は、二重に分裂する。一刻も早く、自分の地域からどへなりと出て失せろ、もうがまんができないという願望と、他人に肩がわりされるうしろめたさに、ひきさかれ、ゆれうごく。」(石田、1969:69)

◇基地撤去とナショナリズム、中央中心主義。沖縄と朝鮮半島の近さ。


■5 三派全学連分立の論理
「六七年の一〇・八羽田闘争以降のいわゆる「激動の七ヶ月」は「三派全学連」のたたかいなしでは、成りたつべきもなかったという一事だろう。[…]
 六六年一二月、社学同(社会主義学生同盟)、マル学同中核派(マルクス主義学生同盟中核派)、社青同解放派(社会主義青年同盟解放派)の三派で組織された、その「三派全学連」は、六七年七月の大会にいたって分解した。」(石田、1969:78−79)


■6 反戦と変革
「「『朝日ジャーナル』と『世界』が、このエエカッコ師どもをつけあがらせている。だいたい、これらはたいしたことをやっているわけではないよ、三派全学連が、切りひらいた血路を、あとから安全にやってきて、一貫してエエカッコしているだけだ。なにもしないで論議を加えて、われわれの運動を収奪して稼いでいる売文学者とくらべて、幻想のなかで踊っている彼らのほうが有害だと思う」と、またたきもせず、会場を眺めやっては、しんらつに酷評する学生もいた。」(石田、1969:93−94)

「「ベトナムに平和を」一点張りで、アメリカ軍の撤退を要求するプラカードを持ってこないようにしてくれというのが、ベ平連の第一回デモの組織の仕方だった。
 安保条約についてふれるな、なぜなら安保賛成者もふくめる「ベトナムに平和を」を組織路線として構想しているからというのが、初期の鶴見俊輔氏の意見だった。[…]一九六五年の六・九統一行動の実行委にやってきて、「ベトナム侵略反対では、ベ平連は加われない」といったのが、忘れもしないが、いいだもも氏だった。」(石田、1969:98)

「活動家層の大幅な変動があり、いわゆる文化人や教授や評論家は少数になり、まさに、ふつうの市民、「ただ人として立つ」活動家が輩出し、状況に促されて、反戦の貫徹のためには社会の構造の変革なしにはすまないという自明の理に到達した。行動によって、闘争の持続によって、そこまできたところを私は評価したい。」(石田、1969:99)


■7 基地闘争と地域住民
「六八年九月二〇日、東京北区役所の滝野川支所、「基地をとりもどす市民の全国交流集会」がひらかれた。佐世保・王子・砂川・北富士・沖縄・九州大学の、現地の六氏を呼びかけ人とし、「各地で基地撤去を要求する運動がおこり、そのそれぞれが地域の運動としてねばり強くたたかわれてますが、このような各地のたたかいを全国的に結びつけ連帯することは一九七〇年を目前にひかえた今日、きわめて重要なことだと革新します」と、全国の基地の住民組織に呼びかけられた。「支持する人の代表」としては、中野好夫氏、吉野源三郎氏、藤井日達上人が連署したこの会議は、まことに時宜をえたものだった。」(石田、1969:112)

「土地所有を拠点とした[北富士、三里塚、砂川などの]農民たちの闘争とともに、新しい要素として、都市住民のたたかいが、この間、まきおこってきた。[…]地域住民の多数を組織して、地域の体制への統合機能をうちやぶり、支配構造を変革するたたかいと、結合しつつとりくまなければならなくなった。」(石田、1969:121)
「佐世保のエンプラ以降ですら、思いもよらなかった市民の実力蜂起を展開した、王子の住民の市民組織が、波がひいたあとの地道な組織活動のなかで、「地域の変革」を問題意識にのぼせてきたことは注目に値する。これは問題を、既往の「地域民主主義」の改良闘争に、大衆の闘争力を限定することでも、地元運動のワク内にとどめることでもない。
 基地を存続させている支配構造を下から噛みやぶっていく方向だ。基地撤去闘争は、個別闘争の激化と、その集約である安保条約を粉砕するたたかいによってのみ、かちとられるわけだが、大衆行動とともに、安保にたいする圧倒的な、大胆な、政治宣伝が必要だろう。[…]基地問題に当面しているところでは、諸悪の根源が安保条約であるということは、すぐ理解される。[…]
 一般的な、カムパニアでなく、具体的目標にむかって、抗議の意思をつきつけていくという方向と、東京周辺の地域の住民の闘争との結合をつよめていくという形態をとることは、市民の戦線を、戦闘的に拡大していく戦略としても有効な過程だと思う。」(石田、1969:121−122)

◇基地問題の広がりとつながり。


■8 佐世保の乱以降
「エンプラ闘争は、佐世保現地に騒然たる流動化をもたらしたが、潮がひいたら依然として牢固たる支配構造がのこった、と総括することができよう。
 しかし、エンプラ闘争を契機に、全国各地にまきおこった反戦運動の盛り上がりは、自立的反戦組織を数多く生み出した。
 たとえば、呉の黄幡弾薬庫撤去の闘争に、学生部隊とともにとりくんでいる広島ベ平連は、エンプラ闘争を契機に組織された。また板付基地撤去を戦闘的にたたかう部分、山田弾薬庫闘争をたたかっている部隊、すべてエンプラ闘争を契機に新しく組織され、あるいは再編された部隊だった。このような例は数多くある。
 旧安保条約の下での巨大な闘争として、日本の反戦運動の歴史は砂川を持っている。また、五〇年代末から六〇年代初頭へかけて、自衛隊のミサイル装備に反対するたたかいとして新島がある。佐世保は七〇年へかけて全国的に激化させねばならない、新たな基地闘争への口火となった。」(石田、1969:139)


■10 反戦青年委員会(2)
「基地撤去ひとつとってみたところで、まさしく、言うはやすく、行なうは難い。いままで、基地を撤去させた経験などは皆無なのだ。もとより、いままでに経験がないから、たたかいの方途は、暗中模索するほかないということではないが、基地撤去の戦略をたてる必要がある。沖縄返還闘争を、奪還と、言いかえたところで、語気が強まるだけで、何ということはなく、その言葉ラジカリズムで、若干、闘争実体の無内容を装飾しているだけで、この程度はまだ無邪気なものだが、プロレス新聞の用語なみに、戦闘的形容詞をエスカレートさせたところで、基地は、撤去できない。[…]どうすれば撤去できるかという戦略について、考察を深めなくてはならない。」(石田、1969:172−173)


■11 新宿10・21
「通過する中間点として、市民運動をこえ、前線へ出て行ったものもあれば、独自に戦線を形成しはじめたグループもある。
 「初心者」を、絶えず参加させていくことに心がけないと、市民運動は、参加者を送り出すのみになる。」(石田、1969:184−185)


■12 七〇年に向けての断絶と統一
「九州の判官びいきという地方的な気質の問題に還元して、一時的、局部的な「全学連びいき」と、タカをくくっていた人々は、王子の野戦病院反対闘争によって、さらに激烈に出現した戦闘的市民の群れに驚愕することになった。佐世保は、特殊な例外でなく、基地闘争の激発するところ、至るところに普遍的に現出する事態の原型であることを、その後の各地の基地闘争の発展は示した。
[六八年]6・28、10・8、10・21とひきつづいておこなわれた新宿の米軍タンク車輸送阻止行動もまた例外でなかった。10・21には数万の大群衆が、学生諸部隊や反戦青年委員会のデモ隊を人波でつつみこむという事態にまで至った。[…]路頭にたたずむ烏合の衆に共通するのは、拘束に満ちた日常からの、時ならぬ浮上という高揚感だったろう。
 ぎゅう詰めの満員電車で往復している多くの人々のなかの一人である男が、解きはなたれたように、いきつもどりつしているのを私は見たが、この線路の上の異常な道草は、屈従を強いられている日常へのささやかな反逆として彼を応分に充足させたにちがいない。」(石田、1969:187-188)

「「だれでもはいれる市民デモ」ということで、デモ行進のなかに間口をひろげることだけで、ことたりるという状態ではすでにない。党派系列以外の諸集団、個人が参加しやすい、目標によって統一し、デモの形態は自主選択によって区分けするという、昨年の6・15以来の原理の必要性は、これからさらにあると思うが、今後の市民活動家は単に中央の集会と示威の組織者たる点に、とどまってはおれない。東京周辺の地域住民と連帯し、個別闘争の決着にまでかかわっていくという方向をとる必要があるだろう。」(石田、1969:191−192)


■14 東大闘争がひらいた地平
「安保闘争が、単に「安保条約」の闘いでなく、それを支える構造そのものを、相手どって闘われてきているというところに、現在の到達点があって、すでに六〇年の水準をはるかにこえた戦線の形成がすすんでいる。基地闘争がそれであり、沖縄、学園もまたしかりだ。春闘を通じて労働者のなかにも力は高まってくるであろう。」(石田、1969:210)


■15 沖縄闘争と大学闘争
「沖縄の運動の特質は、直接民主主義による高揚に支えられていた面とともに、本土政府への働きかけは、おしなべて、代弁人たちの陳情、直訴、嘆願だったということも、その反面にはあった。」(石田、1969:214)

「復帰協会長・嘉屋武[喜屋武の間違いか?]氏が佐藤と会い、「佐藤総理殿」と切々と呼びかけて陳情する声音を記録映画で聴いた私は、粛然とした。累々たる遺恨を含ませつつ、しかも哀訴のひびきに満ちた寂寥のはてからの呻吟、といったおもむきがあって、しばらくは耳について離れなかったほどだった。[…]沖縄の直訴嘆願代弁人の心に、この「弱いものが余分に苦しむ」制度のもとの最底辺の被害者のうめきが充填されていることはいうまでもないだろう。石牟礼道子の表現を借りれば、沖縄の陳情が、「国家権力」に対する「無権力棄民」の宗教的輪唱として、人々の心にひびきあう質をもっていたことは否みがたい。」(石田、1969:215)

「復帰運動内左翼の「県民権」復権闘争も、国家権力と資本の論理を、もっとも根源から撃つ闘争に発展せざるをえない内実をそなえている。」(石田、1969:216)

「日本帝国主義の再編に、大学と沖縄がからめとられるか、人民的な拠点に構築しうるかどうか」(石田、1969:216)

「沖縄では、直訴嘆願を代弁人にまかせるのではなく、直接民主主義にもとづく直接行動の大衆的な蜂起として企てられた二・四ゼネストの屈折は、運動の画期となった。復帰協は、三月二一日の総会で「反戦復帰」と呼びあらわす、新しい運動の質をうちたてた。基地を撤去し、安保の粉砕を照準にさだめた方針を、同盟系組合の反対をのぞいて、大多数で確立したのだ。」(石田、1969:217)

「いまや「佐藤軍政」下の大学にある学生部隊は、沖縄の人民とともに自らの解放のための闘争を合流するときがきた。」(石田、1969:218)

◇同じ軍政下としての沖縄闘争と学園闘争との通底音を聞く石田…。果たして…。戦争を前提とした構造の日常化へ抗うという意味でのつながり。


■16 沖縄・四月〜六月
「五月下旬から無期限ストを決行していた軍港湾労組(一、二〇〇名)は、それを知っていた。全軍労同様、布令でしばられ重要産業指定をされている軍港湾労組は第四種、間接雇用の時給制で、全軍労よりも無権理のままに収奪されていた。彼らはd苦慮区で黙々とストに突入した。ナハ軍港、天願ビーチ、ホワイトビーチでベトナム行の船が十数隻も、完全にストップした。[…]
 つねに、たたかわないもののみ口数が多い。社会党の「沖縄通」だという川崎寛治は「全軍労への武力弾圧は一億国民への挑戦として受けとめる」と、大いに、ナショナルな憤りを、見当はずれに叫んでいた。
 ナハ軍港を見おろす軍港湾労組の、しもた屋風の事務所の壁に模造紙が張りつけられ、すみくろぐろと記してあった。
 「連帯を求めて孤立をおそれず、力およばずして倒れることを辞さないが、力つくさずして、くじけることを拒否する」
 四・二八に復帰協代表団の一員として本土へいった、軍港湾労の若い幹部が「覚えてきた」たたかいの決意と方針がそれだった。本土の真にたたかうもののメッセージを彼らは確実にうけとめた。そして軍港湾労は実践した。連帯を求めて孤立をおそれず、闘争に突出し、沖縄六月闘争を組織する最前線となった。[…]四・二八の本土のたたかいは、このように沖縄のたたかう部分と連帯を形成しつつある。」(石田、1969:225−226)

◇見当外れのナショナルな憤り。沖縄へと同一化すること、連帯することが「何もしないこと」につながってしまうこと。巧妙な自己保身や自己正当化になってしまうこと。


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110627
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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