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『知的生産の技術』

梅棹 忠夫 19690721 岩波書店, 218p.

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last update: 20180223

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梅棹 忠夫 19690721 『知的生産の技術』,岩波書店, 218p. ISBN-10:4004150930 ISBN-13: 978-4004150930 760+ [amazon][kinokuniya] as01

■内容

内容(「BOOK」データベースより)
学校では知識は教えるけれど知識の獲得のしかたはあまり教えてくれない。メモのとり方、カードの利用法、原稿の書き方など基本的技術の訓練不足が研究能力の低下をもたらすと考える著者は、長年にわたる模索の体験と共同討論の中から確信をえて、創造的な知的生産を行なうための実践的技術についての提案を試みる。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
梅棹 忠夫
1920年京都市に生まれる。1943年京都大学理学部卒業。京都大学人文科学研究所教授を経て、現在、国立民族学博物館名誉教授・顧問。専攻は民族学、比較文明論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

まえがき
はじめに
1.発見の手帳
2.ノートからカードへ
3.カードとそのつかいかた
4.きりぬきと規格化
5.整理と事務
6.読書
7.ペンからタイプライターへ
8.手紙
9.日記と記録
10.原稿
11.文章
おわりに

■引用

◆うけ身では学問はできない。学問は自分がするものであって、だれかにおしえてもらうものではない。[1969:1]

◆…知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。そのことは、中学・高校ばかりか、ざんねんながら学問の府であるところの大学においても、おなじである。…研究者としてはごく日常的な問題だが、たとえば、現象を観察し記録するにはどうするのがいいか、あるいは、自分の発想を定着させ、展開するにはどういう方法があるか、こういうことを、学校ではなかなかおしえてくれないのである。[1969:3]

◆知的生産の技術について、いちばんかんじんな点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。[1969:20]

◆…「発見」はまったく突然にやってくるものである。それをその場でとらえて、即刻記録するのであるから、その記録の装置としての手帳は、いつでも身につけていなければならない。これが「発見の手帳」についての、第一原則である。…もうひとつ、机がなくてもかけるという条件をみたすために、表紙には、おもいきってあついボール紙をつかったほうがよい。そうしておけば、ページをひらいて、左手でささえて、たったままでもかける。かなり長期にもちあるくものだから、製本はよほどしっかりしっかりしている必要がある。[1969:30]

◆「発見の手帳」は…知的集積のための手段なのだから、それは、あとで利用できなければならない。…一ページ一項目という原則を確立し、そしてページの上欄に、そのページの内容をひと目でしらせる標題をつけることにした。…一冊をかきおえたところで、かならず索引をつくる。この作業は絶対に必要である。これによって、ばかばかしい「二重発見」をチェックすることもできるし、自分の発見、自分の知識を整理して、それぞれのあいだの相互関連をみつけることもできるのである。これをくりかえしているうちに、かりものでない自分自身の思想が、しだいに、自然と形をとってあらわれてくるものである。/じっさいをいうと、わたしはいまでは、ここにしるしたとおりの形の「発見の手帳」は、もうつかっていない。いまでは、その機能をカードで代行させているからである。[1969:30-32]

◆カードは、わすれるためにつけるものである。このことは、カードのかきかたに重大な関係をもっている。カードにかいてしまったら、安心してわすれていいのである。そこで、カードをかくときには、わすれることを前提にしてかくのである。つまり、つぎにこのカードをみるときには、その内容については、きれいさっぱりわすれているもの、というつもりでかくのである。したがって、コードなしの記号や、自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、しないほうがいい。一年もたてば、自分でもなんのことやらわからなくなるものだ。自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということをわすれてはならない。…カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかくのである。「発見の手帳」についてのべたときに、豆論文を執筆するのだといったが、その原則はカードについてもまったくおなじである。カードは、メモではない。/そのかわり、豆論文にはかならず「みだし」をつける。カードの上欄にそれをかいておけば、検索に便利である。「みだし」は、豆論文の標題でもいいが、むしろその内容の一行サマリーといったもののほうが、いっそうその目的にかなっているだろう。[1969:54-55]

◆さてカードができたらカードボックスにいれる。…たしかに個々のカードは、経験や知識の記録である。しかし、それをカードにしたのは、知識を分類して貯蔵するのが目的なのではない。何万枚のカードも、死蔵していたのではなんにもならない。それは活用しなければならないのだ。カードを活用するとはどういうことか。それは、カードを操作して、知的生産の作業をおこなうということである。/操作できるというところが、カードの特徴なのである。蓄積と貯蔵だけなら、ノートで十分だ。ノートにかかれた知識は、しばしば死蔵の状態におちいりやすいので、カードにしようというのではなかったか。カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。そのときには、すぐにその発見をもカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。/これはいわば、目にみえない脳細胞のはたらきを、カードというかたちで、外部にとりだしてながめるみたいなものである。あるいは、そうして外部で目にみえる形で操作することによって、内部の作業の進行をたすけようというのである。[1969:57-58]

◆カードは一種のカードであるが、さらに、ノート以上のものでもある。ノートでは、せっかく記録したものが、そのままうずもれてしまって、随時とりだすのがむつかしい。カードは、適当な分類さえしておけば、何年もまえの知識や着想でも、現在のものとして、いつでもたちどころにとりだせる。カード法は、歴史を現在化する技術であり時間を物質化する方法である。[1969:60]

◆だいじなことは、カードをかく習慣を身につけることである。[1969:64]

◆…わたしはやや体系的に新聞記事のきりぬきをはじめるようになった。…ばらの台紙にはる、というやり方である。ハトロン紙をA4判のおおきさにきって、その片面にだけ、きりぬきをはりつけた。そして記事の大小にかかわりなく、台紙一枚に記事一つという原則をかたくまもることにした。たいていの記事は、A4判のおおきさ以内におさまる。それよりおおきい記事は、一部にのりをつけて、あとはおりたたむようにする。どんな小さな記事でも、一枚に一つである。台紙には、新聞の名まえと日づけを、かならずかきこむ。/こうしておけば、あとは分類・整理は自由自在である。にた記事、関係のある事項のは、いっしょにまとめておくこともできるし、必要に応じて順序をくみかえることもできる。[1969:68]

◆…整理を実現するためには、いくつかの原則があるようにおもう。/第一に重要なのは、それぞれのものの「あり場所」が決定されている、ということだとおもう。あり場所が、そのときどきにかわるのでは、どうしようもない。別ないいかたをすれば、整理の第一原則は、ものの「おき場所」をきめる、ということである。/つぎに、その「おき場所」のきめかたは、体系的でなければならない。せっかくおき場所をきめても、そのきめかたに法則がなければ、とうてい記憶しておくことができないから、けっきょく必要なときに必要なものがでてこない。…「おき場所」のつぎは、「おきかた」の問題だ。おくときには、つんではいけない。…とくに本や書類はそうである。横にかさねてはいけない。かならず、たてる。…/おき場所がきまったら、そのおき場所をまもらなければならない。つまり、とりだしたら、あとはかならず、もとの位置に「もどす」。これがつぎの原則である。わかりきったことだが、これを厳格に実行できるかどうかが、整理がうまくゆくかどうかのきめ手である。とりだしたことをはっきりさせるために、本や書類なら、そこに「とりだし票」をくふうしてさしこんでおく。[1969:81-83]

◆知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといっていいだろう。精神の層竜状態を確保する技術だといってもいい。努力によってえられるものは、精神の安静なのである。[1969:96]

◆まず、本というものは、はじめからおわりまでよむものである。…/それはなぜかというと、それが、著者のかんがえを正確に理解するための基本的条件の一つだからである。どんな本でも、著者には全体として一つの構想というものがあって、それによって一冊の本をまとめているのである。各部分は、全体の文脈のなかでそれぞれしかるべき位置におかれることによって、意味をもっているのである。その構想、その文脈は、全部をよむことによって、はじめて理解できるたちのものである。[1969:100-101]

◆…「知的生産の技術」としての読書、つまり、読書を何かの役にたてようというつもりなら…よみっぱなしでは、効果がうすい。/何をするかといえば、いよいよこれからノートをつけるのである。ノートの内容は、なんでもいい。全体の要約をつくるのもいいだろう。感想や批評をしるすのもいいだろう。…わたしは、よみあげた本を、もう一どはじめから、全部めくってみることにしている。そして、さきに鉛筆で印をつけたところに目をとおすのである。そこで、なぜ最初によんだときにそこに印をつけたのかを、あらためてかんがえてみる。なかには、単に内容の理解のために重要だとおもって、線をひいたところもあろうし、表現のうまさにつられて印をしたところもあろう。いろいろなケースをながめたうえで、これはほんとうにノートしておく値うちがあるとおもわれるところだけを、ノートにとるのである。…このやりかたでゆくと、ほんとうにかいておかねばならないことが、よく選択できる。…できあがったカードは、もはや読書ノートではない。読書ノートとしての制約をこえて、ほかのカードといっしょになって、あたらしい知的生産の素材として、そのまま利用されるのである。[1969:108-110]

◆よみおわって、鉛筆で印をつけた本は、しばらく、書斎の机の上に、文字どおりつみあげてある。…傍線にしたがってのノートつけは、よんだあとすぐではなくて、数日後、または数週間後におこなうのである。そのあいだ、本の現物は、目のまえにつんどかれる。…この習慣はわるくない。よんだ直後の印象のなまなましさがうすれて、本の見方がずっと冷静になる。その段階で、ノートをつけるのである。ノートをつけおわった本は、ようやくそれで書庫いりということになる。/こういうやりかたをやってみると、これは実質的には一冊の本を二どよむということなのだ。ただし、二ど目のよみかたは、きわめて能率的である。短時間で、しかもだいじのところだけはしっかりおさえる、ということになる。この段階ではじめて気がつくこともおおいし、全体の理解がすすむのがつねである。[1969:110-111]

◆読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。[1969:114]

■書評・紹介

■言及



*作成:片岡 稔
UP: 20110512 REV:20140605 0609, 20180223
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