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『脱走兵の思想――国家と軍隊への反逆』

小田 実・鈴木 道彦・鶴見 俊輔 19690615 太平出版社,276p.

last update:20110626

■小田 実・鈴木 道彦・鶴見 俊輔 19690615 『脱走兵の思想――国家と軍隊への反逆』 太平出版社,276p. sm02 1vie beh

■出版社/著者からの内容紹介

国家と軍隊に反逆し、すべての権力から脱出して反戦思想を肉体化する脱走兵運動は、まさに「国家」を超えて深く拡がり、すすめられている。JATECの全容を明らかにし、反戦の意味を問いなおす。 ※出版社チラシより。

■目次

第一部 脱走兵と反逆の原理
 こちらからむこうへ突き抜ける―――等身大の行為としての脱走 小田実
 脱走兵支援運動の主体的根拠―――脱走兵への共鳴の質を問う 海老坂武
 脱走兵の肖像 鶴見俊輔
 ナショナリズムと脱走 鈴木道彦

第二部 脱走兵運動は「国家」を超えて
T 脱走アメリカ兵の証言と手記
 1ただぼくは努力した リチャード・D・ベーリー
 2一年半の密室のあとで ジョセフ・ルイス・クメッツ
 3「新世界」を求めて オウヤン・ヨーツァイ
U 脱走支援者の手記・記録
 1しかしJATECは健在である―――JATEC責任者の報告 匿名
 2手錠のくいこんだ跡が―――スパイ=ジョンソンと釧路事件 山口文憲
 3あわれみと驚きの眼差し―――「雪の中のゼミ」報告 匿名
 4わが家の居候の数日間のこと 匿名
 5抗議・救援に力をつくしたい―――メイヤーズ支援の一主婦から 匿名
 6試行錯誤のくりかえし 匿名
 7エンタープライズ―脱走兵―七〇年安保
 8脱走兵と私の接点―――佐世保不成功の報告 浜田亮典
 9山口文憲にかかわる銃砲刀剣類等不法所持容疑 高橋武智
 10JATEC活動家の座談会(参加六名) 全員匿名
V いまやイントレピッドの四人は世界の伝説となった 小中陽太郎

第三部 脱走兵名簿 およびその声明
 @クレイグ・ウィリアム・アンダーソン
 Aジョン・マイケル・バリラ
 Bリチャード・D・ベイリー
 Cマイケル・アントニー・リンドナー
 Dケネス・C・グリッグス(金鎮洙)
 Eマーク・アラン・シャピロ
 Fフィリップ・アンドリュー・キャリコート
 Gテリー・マーヴェル・ホイットモア
 Hジョセフ・ルイス・クメッツ
 Iエドウィン・カール・アーネット
 Jオウヤン・ヨーツァイ(欧陽約才)
 Kレイモンド・ジョージ・サンシヴィエロ
 Lジョセフ・グレゴリー・パラ
 Mチャールス・ネイサン・スミス
 Nロバート・J・フォリス
 Oラリー・ティプトン
 Pジェラルド・リン・メイヤーズ
 Qクラーレンス・アームステッド

第四部 資料集 考えてみませんか?戦争にたいするあなたの立場を
 日米反戦平和市民条約
 脱走兵協定
 よびかけ(「イントレピッド四人」の会)
 アメリカ軍兵士へのよびかけ(ベ平連)
 人権に関する世界宣言(抜粋)
 日米安保条約に基づく米軍の地位に関する協定(抜粋)
 日米安保条約に基づく米軍の地域協定の実施に伴う刑事特別法(抜粋)
 アメリカ統一軍事法廷法(抜粋)

追補 デニス一等兵の逮捕と亡命願、および訴訟記録
 デニスのメッセージ
 デニス氏にかんする人身保護請求の申立、および決定書(抜粋)
 デニス氏にかんする行政処分執行停止の申立、および決定書(抜粋)

あとがき


■引用


第一部 脱走兵と反逆の原理
■こちらからむこうへ突き抜ける―――等身大の行為としての脱走 小田実
「たしかに、世界は国家に満ちている。私が、この「国家の充満」という現象(これは、考えてみれば、現代の世界ではまったくあたりまえのことがらで、「現象」という名に値しないものであさえあるのだろう)にことさらに敏感になったのは、脱走兵を助けるという行為を、自分たち―――「ベ平連」でやり出してからのことだった。この世の中には国家しかなく、どこへ行っても、どのように生きようと、国家の巨大な影のなかに人間は生きている。生きて行かざるを得ない―――私は、その重苦しい事実を痛切に感じ始めた。」(小田、1969:20)

「一つは、たとえば、軍体内に巨大な反戦組織をつくり上げるという主張はよい。しかし、それは、現在のアメリカの軍隊のなかで、はたして、ほんとうにできることなのか。二つ目には、それができることだとしても、彼個人にはできるのか。[…]私の眼のまえにあらわれた脱走兵たちは、[…]「否」と答える正直さと勇気をもち、そして、それでは、そのふつうの人間である[…]ことを認めた上で、自分にできることをしようとした人間たちなのだろう。私が脱走という行為を等身大の行動と呼ぶのはそうした理由なのだが、同じことが、脱走兵たちを助ける私たちの行動にも言えるにちがいない。」(小田、1969:27−28)

「おそらく、この脱走という行為は、国家権力に対するもっとも根本的な反逆行為であるのだろう。私には、そんなふうに思えてならない。そして、それゆえに、もっとも許し難い犯罪行為なのだ。[…]
 革命は、なるほど、一つの国家権力を倒しはする。しかし、それは、べつの国家権力をうちたてることでしかないだろう(すくなくとも現在ではまだ、とつけ加えておいてもよい)。とすれば、その新しくうちたてられた国家権力に対しても、脱走は同じように背を向ける行為ではないのか。」(小田、1969:29)

「脱走兵が大手をふって生きられる世界は、世界に国家がなくなったとき、あるいは、すくなくとも、国家から軍隊が消滅したときで、それは、つまり、明日の世界ということになるのではないか。[…]脱走兵は孤独で、ひとりで、たよりなげで、彼を助ける私たちも、ひとりひとりが四方をとりまく国家の壁にむき出しに対しているのだ。」(小田、1969:30)

「国家に充満した世界のなかで、できるかぎり国家の規定するもろもろから独立して、それにまっこうから反逆して生きようとする一つのきわめて小さいが確実な人間の環をつくり出すほどには存在し始めているにちがいない。[…]私たち、「ベ平連」では、今、脱走兵たちをスウェーデンに送るよりも、私たち日本人のなかに住まわせるという方針を強くとっているのだが、それはそうした人間の環のたしかな存在を私たちが信じ、その環のひろがりのなかで脱走兵とともに生きることで、私たちが明日の世界をそれだけ自分たちのものにすることができるからなのである。」(小田、1969:35)

◇国家の充満⇒加害/被害とは別様の関係性を成りたたせる空間を出会いによって創ること。国家から独立した人間の環。世界を私たち自身のものにする。


■脱走兵支援運動の主体的根拠―――脱走兵への共鳴の質を問う 海老坂武
「私たちは、脱走兵を支援することによって、彼らの何に荷担したのであろうか。それを考えてみることは、同時に彼らの脱走行為が私たちのうちに惹き起こした共鳴の質をたしかめることにもなるであろう。私たちの共鳴とは、正確には何であったのか。」(海老坂、1969:36)

◇脱走兵と私たちとの間の共鳴

「脱走を決意するにいたるまでの彼らの心の動きは、後に残されたそれぞれの声明文からうかがい知ることができる。そこに私は、二つの共通した特徴を見出せるように思う。その第一は、「あるべき理想のアメリカ」の名による「現にある現実のアメリカ」の告発である。すなわち、彼らには、祖国アメリカはかくあるべきである、という理想像がある。自由、民主主義、諸々の権利の守り手アメリカ、そのようなイメージがある。しかもこの理想像は、ベトナムに来るまでは、現実のアメリカ像と重なり合っていた。ところがベトナムにおいて見たものは何か。ナチと同じ破壊であり、残虐行為であった。[…]第二に共通した特徴として指摘できるのは、ほとんどすべての脱走兵が、「自分は売国奴、共産主義者、個人主義でこりかたまっている人間、と呼ばれるかもしれない。しかし自分は、何らかの主義主張、イデオロギーに則って行動したのではない。あくまでも自分一個の決定で脱走を決意したのだ」という意味のことを述べていることである。
 以上二つの共通した発想は、それ自体現代アメリカを指し示す二つの兆候として興味深い。つまり、第一は「自由、民主主義、祖国」といった、イデオロギーならぬイデオロギーとしての、アメリカン・ナショナリズムの強大さである。第二は、イデオロギー、思想と名のつくいっさいのものに対する恐怖である。一言で言えば、いっさいのイデオロギーを無力化し、「自由、民主主義、祖国」といった言葉を物神化させるところに成りたっているアメリカン・イデオロギーの強大な支配力がここに感じられる。そしてそれだけに脱走を決意するまでの彼らの内部に想いをいたさないわけにはいかないのだ。なぜなら、「あるべきアメリカ」と「実際のアメリカ」との断絶を把握し、脱走に踏み切るまでには、さまざまな体験が介在しているだけではなく、この強大なアメリカン・イデオロギーの内圧にたいする、おそらくは盲目の、辛い闘いが、同時に遂行されていたと考えられるからである。」(海老坂、1969:36−38)

◇アメリカンナショナリズム、アメリカンイデオロギーとの格闘としての脱走。「脱走=非国民」への恐怖ゆえの、国民あるいは国家理念と共通するものとしての脱走の提起(という逆説?)。

「テリー・ホイットモアの声明文のなかに、次のような一節がある。「明けても暮れても、殺せ、という言葉がひっきりなしに頭の中でひびいていました」。そして彼は現実に殺す。想像のなかに浸透した暴力の言葉が、暴力の行動として現実化されるのである。この直接の移行を可能にするの何なのか。
 「殺せ」という言葉はおそらく、私たちの意識が、みずからの責任において発しえない言葉の一つである。それはいわゆる他者化された言葉でしかありえないだろう。」(海老坂、1969:38)

「私たちは生まれながらに一つの文化の牢獄のなかに深々と閉じ込められている。幼年時代の闇は同時に言語の闇であり思考の闇であるが、闇を切り開くはずの言葉が、思考が、彼らの言語であり、他者の言語であることを忘れがちである。しかもそれは、多くの場合、支配階級の、国家の言語であり、思考なのだ。国家とは政治の檻であると同時に文化の檻でもある。現代の学生反乱の正当性は、彼らの異議申し立てが大学をとおして国家の言語にたいして向けられる点にあり、彼らのラディカリズムは、国家の言語がほかならぬ彼ら自身の内部にあるという認識と別物ではないはずだ。」(海老坂、1969:39)

◇国家の言葉、国家の思想の内面化への異議申し立てとしての脱走、学生反乱⇒フランス5月革命壁の言葉!

「私たちの内部において響き合う部分を確認しようとするとき、私がまずぶつかるのは、集団の体験から自己の体験を断ち切り、国家イデオロギーによって他者化された言語を自分の思考から排除していく、彼ら一人一人の主体的な、そしておそらくは暗闇のなかでの営みである。」(海老坂、1969:41)

「脱走兵を前にしたときの私たちの置かれた位相とはどのようなものであろうか。私たちは、彼らを見るか、見ないかである。彼らに荷担するかしないかである。それは有無を言わさぬ形でベトナム戦争を私たちにつきつけてくる。ベトナム戦争は直接「私の戦争」となるのだ。
 言うまでもなく、ベトナム戦争を「私の戦争」とするためには脱走兵を待つ必要はない。ベトナム戦争と私たちとを結びつける反省的、客観的な把握の仕方は確実に存在する。沖縄をはじめとして日本のいたるところに軍事基地があり、日々そこからベトナムに飛行機が飛んでいるという事実を考えるだけで、私たちがベトナム戦争にかかわっていることは明白である。ベトナム戦争はまぎれもなく「われわれの戦争」であり、その共犯を意識するとき、それは「私の戦争」となる。[…]「われわれの戦争」を相対的に拒否しないかぎり、言いかえれば、体制変革をなしえないかぎり、「私の戦争」はいぜんとして続けられていくであろう。しかしまた他方、ここにはもう一つの陥穽がある。「なしえないかぎり」というこの言葉のうちに、「私の戦争」そのものがしばしば見失われてしまうのだ。」(海老原、1969:43)

◇「私の戦争」を顕在化させ、戦い抜くこと。

「一般に、一見有効性が疑わしい行動にも私たちはなぜ参加するのか。[…]第一は、行動は行動それ自体のうちに有効性を宿していくということ。いいかえれば、行動は有効性の可能領域を拡げていくということである。フランスの「五月革命」のなかで、コーン=ベンディットのグループによって唱えられた「範例的行動」は、この可能領域の拡大を目指したものであろう。
 第二は、行動はそれ自身のうちにはらまれていた潜在的な有効性を顕在化させる。いいかえれば、有効性が意図した目的とは異なった次元で現れてくる、ということである。最近のもっともよい例として、佐世保の「闘う市民」の誕生があげられる。
 第三は、行動の有効性そのものが潜在的にとどまる、ということである。かりに脱走兵支援運動が、ベトナム民族解放にとって有効なモメントとして作用したという事実がありえたとしても、それは決して私たちの目には見えないし、有効性は証明されえないであろう。歴史とは、行動の観点から見るならば、成功の歴史である。目的にたいしてそれ自身有効であったことを示した行動の総体、おそらくそれが書かれた歴史となるであろう。[…]歴史に記憶された一つの有効な行動とは、その何百倍・何千倍の有効な行動、有効であることを証しえなかった行動の、累々たる地層の上に表れた一つの露頭にすぎないのである。」(海老坂、1969:46−47)

◇有効性を内在的に、潜在的に、プロセスとして考える。結果として考えない。

「国家というものが、私たちの外部にあるだけでなく、私たちの内部にもあるということである。であるとするならば私たちは、この「疎外と抑圧との最高の組織化」である国家を私たちの内部にかかえ込んでいるかぎり、国家のこちら側に、私たちの個人を、人間を対置させることはできないであろう。[…]私たちは、主観的にいかに潔白であっても、[例えば金嬉老など無数の朝鮮人たちには]対照的には、抑圧国家の一員として構成されている。私たちは私たちでないものとして疎外されているのである。しかも私たちが、抑圧するものとしての自己の像を映し出されるとき、私たちもまた抑圧されたものであることを意識する。アメリカのベトナム侵略と日本政府の侵略荷担に抗議して焼身自殺をした由比忠之進老人は、文字どおり、抑圧することを抑圧されることとして直接に見に蒙り、身に引き受けた人であった(アメリカのブラック・パワーの運動が、白人のリベラルにたいしてつきつけたのも、「自分自身を抑圧されたものとして捉え返せ」という問いであって、そこに、黒人の反人種主義(ラシズム)のラシズムを見ることは誤りであろう)。」(海老坂、1969:48−49)

◇加害者にならざるをえない構造=国家/国際関係への嫌悪と拒否感としての脱走兵支援・反戦運動。こんな私はいやだ⇒私でない私への変移への欲求。しかしそれが新たな国民へと回収されていく賄賂(西川長夫による大江健三郎『沖縄ノート』批判を参照)
◇マジョリティであっても抑圧されていることを問う視線。マジョリティ・マイノリティの相互の解放としての脱走・反戦・反人種主義とがつらなっていること⇒『沖縄に立ちすくむ』での議論やチョニョンヘへのインタビューと共鳴している。※しかし、そこに絶えず織り込まれる差異・すれ違いへのおののき…永遠に回り続ける葛藤と了解不可能な出会い、としての沖縄!

「国家に対抗させてゆくべき私たちの根拠は、現にあるがままの個人の良心なり、正義なりというよりも、欠けたるものとしての私たちが、その欠如を満たそうとする欲求、人間以下の人間(非人間)としての復権要求であるように想われる。[…]たとえば脱走への荷担をとおして自分の欠如を意識する、そのときに私たちが感じ、考え、判断してゆくその仕方、彼らを受けとめてゆくその仕方から意味を引き出してゆく。価値とはおそらく、このようにして私たちが、一つ一つの行動をとおしてそれに与えてゆく意味の総体に他ならない。」(海老坂、1969:49)

◇欠如を満たそうとする欲求による行動を通じて、価値・意味を見出していくプロセスとしての運動。

「私たちの欠けたる部分と、全人間的な欲求とを結ぶ意識の働き、欠如が全体を求める意識の働き、それに「政治的想像力」という言葉を与えたい。先に私は、欠けたる人間の復権要求と言ったが、何を復権せよというのか、私たちにとって、その全体的人間の像は決して定かではないからである。
 現在重要なことは、この意味における政治的想像力を、あらゆる領域において押し広げていくことではないか。その拡がりのなかで、その拡がりのいたるところで、私たちは、他者の体験との、私たちと同じように、私たち以上に、抑圧され、疎外されている「欠けたる人間」の体験との交流点が確実に見出されるであろうからだ。それを単なる交流点たらしめず、同じ流れの中に合流させる論理、それこそが理論であり、[…]欠けたるものとしての意識を全人間的な欲求へと、客観世界の中で結びつけていく、政治的想像力の営みを何よりも強調したい。
 そのような例として、私たちはすでに「五月革命」を知っている。学生の活動家たちが、ベトナム反戦運動の根底にあるエネルギーを、全人間的な欲求として引き出し、これを大学変革という具体的な場に結集させた、そして、大学変革の要求を体制変革の突破口とした、そのような運動として「五月革命」を考えることができる。そのエネルギーを引き出し、結集させえたのは、自発的な行動と、「政治的想像力」であった、とほぼ断言することができよう。特に後者については、「壁の言葉」に代表される、言葉の開花が十分に証明しているところである。脱走兵たちが集団の狂気のなかでとぎすませていったのも、実は、この意味における政治的想像力ではなかったかと、私はひそかに考えるのである。」(海老坂、1969:50−51)

◇欠如を埋めようとする政治的想像力。何によって埋まるのかは不明である。「欠けたる人間」どうしの交流点と合流としての運動。五月革命・ベトナム戦争・脱走兵・学園闘争・脱走兵支援とが、抑圧・疎外からの解放というコンテクストで通底する。解放の言葉としての、政治的想像力としての「壁の言葉」の噴出。


■ナショナリズムと脱走 鈴木道彦
「小田実はしばしば「加害―被害のメカニズム」にふれ、これを脱走によって断ち切るアメリカ人の行為を称揚しているが、しかし脱走兵が脱走によってこのメカニズムから離脱し、ベトナム戦争の責任を免れ得たと思うなら、それは甚だ虫のよい考えである。現代の脱走は、脱走だけで完結するものではなく、そのような行動を強いる祖国と、その祖国を作り上げてきた己の姿とを、たえず顕在化し、たえずこれに否定の意志を対置させるという行動に接続されるべきものである。単なる脱走によってメカニズムの外に逃れたと思う者は、基地の存在に目をおおって「平和」を楽しむ日本人と同様に、いやそれ以上に、犯罪的であろう。なぜなら国家はただ単に外部からわれわれに「加害―被害」の立場を強いるだけでなはなくて、われわれの内部にくいこんでわれわれを作り上げてもいるからだ。言いかえれば、脱走とその支援を通じてあばき出すべきものは、私のうちに否応なしにくいこんでいるナショナルなものの姿である。そしてわれわれ日本人に、その事実を痛烈に知らしめるのは、朝鮮人の存在であろう。」(鈴木、1969:78−79)

◇わが内なる国家。国家―――加害・被害のメカニズムの再生産装置であり、私自身である。差別を内外に生み出す装置。
◇国家の認識:@米兵が国民国家・アメリカに向き合っていること。A脱走米兵を日米両国(日米安保体制)が捕らえようとしていること、すなわち国家が戦争をしていることに向き合わざるを得ないこと。B亡命権の議論の浮上。金東希など。⇒大村収容所経由、在日朝鮮人への視点が開けてくる?

「四人の脱走は、このような暗い現状を暴露しただけではなくて、私たちにいくつかの具体的な行動目標のあることを示した点でも意義があった。その第一は、日本に亡命権(反戦兵士を含めた政治亡命者の庇護)を確立するという、純粋に合法的な戦いである。[…]脱走兵が決してアメリカ人だけではないという、もうひとつの陰惨な事実がひそんでいる。現に大村収容所には一昨年八月にベトナム行きを拒否して日本亡命を願い出た韓国人金東希(キムトンヒ)が、亡命を却下されて、銃殺刑(あるいは重刑)の待つ韓国に強制送還されようとしているではないか。ここでは問題はいっそう複雑だ。第一に彼は向う側の手にある。第二に朝鮮人である。そして私たちは歴史的にも現在も、朝鮮をふみ台にして成長してきた民族の一員だ。たとえ個人として意識的に朝鮮人を差別した経験がなくとも、日本人である限り私たちは差別の共犯者であったし、今なお共犯者でありつづけている。このことが、個人をこえた、いわば無名のものであるが各人のものでもある集団的無意識の差別として私たちのなかに食い込んでおり[…]だからアメリカ兵脱走は問題になっても金東希問題において私たちは、韓国に進出しベトナム侵略戦争に加担する「国家」に抵抗すると同時に、私たちの内なる「国家」にも抵抗せねばならないのである。しかも亡命権の確立は、アメリカ兵同様に、いやそれ以上に、現に戦々兢々として不安な毎日を送っている無数の韓国密入国者、無数の金東希との連帯のための、ほんの第一歩なのである。」(鈴木、1969:79−80)※ただし自身による孫引き

「外部から一定の立場を自分に強いる国家との闘いは、自己の内部に食いこんで自分を形作る国家との闘いであり、この二つは切っても切り離せぬものだ。つまり国家への抵抗とは、常に同時に自己への否定によって示されるのであり、そこに私の脱走兵支援と反戦の原点がある。また私の朝鮮問題の核もそこにある。」(鈴木、1969:80)

◇戦争に反対した米兵と戦争に反対する日本人が手をとる。ベトナム戦争が生身のものとして眼の前に表れる。意識する。ベトナム戦争を通じて自覚したこと。それは、戦争という加害・被害の局限の形に抗うということは、日常生活がいかにアジアを抑圧しているのかを自覚し、そのことを強いている自らを内包した国家というシステムへの抵抗となる、ということ。


第二部 脱走兵運動は「国家」を超えて
U 脱走支援者の手記・記録
■1しかしJATECは健在である―――JATEC責任者の報告 匿名
「日本の警察はアメリカ軍の指示により、1968年一二月一七日、大阪でわれわれの保護下にあった脱走兵クラレンス・アームステッドを逮捕した。こうして日・米帝国主義権力は、密接な協力というよりもまさに一体となって、日本における脱走兵支援運動の破壊にのりだしているのである。」(匿名、1969:121)

「これらの[脱走兵支援]活動をささえた資金は、すべて一般市民からのカンパによってまかなわれた。」(匿名、1969:122)

「JATECの運動には、第一に指導者がいない。第二にイデオローグがいない。それはいわば職人の運動である。職人という言葉は少し説明する必要があるだろう。気っぷのいい人間、といってもいい。自分が載せたアメリカ兵に、軍隊に帰りたくないと言われ、よしそれならと自分の六畳一間のアパートに連れ帰って三日〜四日、と彼をかくまっていたタクシーの運転手、また、自分と寝た黒人兵が、もうベトナムには行かないといったので、それならと商売気ぬきで同棲しはじめ、ベ平連に連絡し、彼がぶじ日本を脱出すると、いかにもそういう商売の女性らしい厚化粧の顔いっぱいに得意げな笑いを浮べて「イントレピッド四人」の会の集会に現われ、気前よく五、〇〇〇円札をぽんとカンパして帰って行った女性……。JATECの運動をしていて一番楽しいのは、もちろん脱走兵をぶじに脱出させた時の満足感もあるが、それよりも、市井のこういう日本人と会うことができた時である。」(匿名、1969:123−124)

「われわれは、理論と実践の統一を一身にになっているような人格的指導者、いわば差しかえのきかない、気軽に交替のできないような指導者を作りださないことを、JATECの運動のモットーとしてきたのである。国家を超え、国家の死滅を肉体的な思想としてはらんでいる脱走兵支援の運動は、その運動のレベルにおいては、指導者の死滅をこそ、運動論的に追及する義務と責任があるだろうと考えるのである。」(匿名、1969:124)


■2手錠のくいこんだ跡が―――スパイ=ジョンソンと釧路事件 山口文憲
「脱走という、考え方によっては最も消極的な行動しかとり得ない上体だった彼らの、いわゆる反戦意識なるものは、平均的に言って、それほど上等のものではない。反戦というよりは、むしろ、厭戦という方が的確だろう。しかし、その戦争への憎悪はすさまじく、かつ徹底している。それは、彼らが腕をまくって私に見せる貫通銃創や、彼の銃弾に倒れた人びとのことを話すときの痛みにささえられているのに違いない。私は、それを信用できる。[…]これからの私たちは、脱走兵を受け入れられる社会、脱走の必要がない社会へと向けて、大きな力で変革を続けていかなければならない。」(山口、1969:135)

◇脱走が不要になる社会へ。


■3あわれみと驚きの眼差し―――「雪の中のゼミ」報告 匿名
「すべての脱走兵について、僕達は幻想を持ち過ぎるきらいがある。我々は、今やそのような幻想を捨て去らなければならないのではないか。しかし、彼ら脱走兵は、意識が低かろうが高かろうが、自分を殺人の道具としておく事を拒否したのだ。その一点からしても、我々は彼らを絶対援助すべきなのだ。僕は、自分に、そう言い聞かせて行動する事にした。」(匿名、1969:143)


■6試行錯誤のくりかえし 匿名
「春になればネコやスズメでさえ恋をするというのに、たとえ脱走しても日本にいる間はよい一層「基本的人権」を制限することなしには身の安全を保つことができないという人間的苦悩」(匿名、1969:154)

「脱走兵援助の仕事は「聖」なる特別の仕事ではないということ。[…]あまりにも人間的すぎてドロ臭く、ばかばかしいと思われることを試行錯誤的にくり返している。脱走兵援助の仕事は、まったく何の特別の能力ももたない大衆にできる仕事であり、なされなければならぬ仕事である。」(匿名、1969:154)


■7エンタープライズ―脱走兵―七〇年安保 匿名
「私にとっては、脱走兵と出会うことによって、自分がとらえていたベトナム戦争・日米安保条約というものが、まさしく具体的に、生きた現実として、脱走兵と生活を共にすることの中からうかびあがってきたといってよい。」(匿名、1969:155)

「エンタープライズが大事故を起し、水兵百人以上が師匠するというニュースがはいった。かつての私なら、エンタープライズが使いものにならなくなってザマアミヤガレと笑うだけであったろう。[…]二〇才前後のかけがえのない青春を、殺人者となることを強制されることによって自らの精神をズタズタに切りさいなまれ、逆に「戦争機械」によって肉体的にも葬られていくというこの現実をみる立場を、アメリカ兵氏の実存に迫るかたちで獲得してゆくこと、脱走兵はそれを私に教えたのであった。」(匿名、1969:155)

◇ざまあみろ、の対象であった米兵が、加害者でもあるという認識を持つようになる。

「脱走兵と生活を共にした多くの者が、彼らとのいろいろなくいちがいに悩まされたことも、素直にいって数限りないともいえるだろう。私の会った兵士もcommunistやblack peopleに対して決して好感をもたなかった。」(匿名、1969:156)


■8脱走兵と私の接点―――佐世保不成功の報告 浜田亮典
「ベトナム戦争においてベトナム人民に対して加害者になっている私達が、反戦の思想を明確にするために、いや人間が人間として生きるために、それぞれの体制から脱出をはからなければならないと思います。この中にこそ、脱走兵と私達の接点があるような気がします。」(浜田、1969:161)

◇被害者にも加害者にもなりたくない、という思いと行動が、脱走兵と「わたし」をつなぐ。それは沖縄とも同じか?差異ある連帯。

■10JATEC活動家の座談会(参加六名) 全員匿名
「脱走兵を扱った時、自分も脱走兵になっているんだという気がするんですよ。もちろん市民的立場にある人がやっているんですが、脱走兵というのは、安全な思想を持ち、安全な生活をしている人がお金を出して、「ニューヨーク・タイムズ」に反戦広告を出すというのとはややちがって、自分自身が脱走している。つまり、その時は、現世的秩序から時間的・空間的、あるいは政治的に出ているんだ。その時、非常に孤独感と勝利感と猜疑感とがないまぜになるけれど、歴史というのはこういうふうな現実秩序からの脱走者が作って来たにちがいないと思うのです。いわば「脱走的人間」というのが居てね、それが脱走するし、そういう人間が脱走を助ける。「脱走的人間」といっても特別な人間ではなく、普通は満員電車に乗ってノホホンとしている。ただ「脱走感覚」といったものを持っていて、その感覚を通じて「今の社会はちがうんだ」という文化・政治批判の足場が作られていく。そういう人間が増えて来ているんですね。[…]今まで疎外とかなんとかいわれてきたものが「脱走兵」を通じて具体的にあきらかになってきた。」(Cさん発言、1969:167−168)

◇脱走兵支援に伴う脱走感覚、離脱感覚。勝利した感覚と孤独。脱走的人間になる(である、ではない)。日常生活との地続きの感覚の中(サラリーマンだって支援する)のオン・オフ。

「ある程度組織性というものを要求されます。ただ、どこからどこまでがJATECで、どこからがJATECに強力している人かという境界線はほとんどないんです。」(Aさん発言、1969:175)

「「創意・工夫と自己の決断によって行なう」というベ平連運動の原則はJATECにも貫かれている。そういう意味では、JATECはベ平連の子どもだといえる。」(Cさん発言、1969:176)

「軍事的な打撃という点からみれば、基地周辺の女性たちの方がはるかに大きいと思うな。おそらく数百人の兵士が、誰にも知られないでバーのホステスなどにかくまわれていると思うよ。」(Aさん発言、1969:178)

「急進的な運動をやっている人にはこの運動はむかなかったということがあります。言語だけラジカルな人はダメですね。そういう人は脱走兵問題でも、イデオロギーに人間を合わせてしまおうとするんですね。」(Dさん発言、1969:179)

「C 僕が得たものは、連帯とか友情とか責任とか、これまで紙の上にしかなかったものが世の中にはあるのを知ったことです。
B そう、こういう仕事をみんなでやっていくことで連帯というものは生まれるんだな。それと、尾行されたり、パクられたり、いやがらせをされたりということで、はっきり敵が見えてきたということがありますね」(Cさん、Bさんの発言、1969:179−180)

◇脱走兵に大文字の「政治」をかぶせるのではなく、生身の人間としての付き合いのなかから、小文字の「政治」を立ち上げていくスタイル。ラディカルな人たちが「沖縄」に大文字の政治をかぶせていくことともつながる批判!
◇行動の中で敵が見えてくる、国家・安保がせりあがってくるようなミクロポリティクス。それはデモで機動隊と面するときと同じである。ここかしこで、「政治」が立ち上がる運動経験。はじめに「政治」ありき、「理論」ありきではないのだ。


■V いまやイントレピッドの四人は世界の伝説となった 小中陽太郎
「かれらをかくまっているある家庭に私は行ったが、そこでは英語もなにもしゃべれない老婆がつけものを切ってアメリカ兵に食わしていた。どこかのホテルにでも泊めれば、すぐつかまってしまうのだ。そういう「手作り」の素朴な運動が広がっている。それは、農民、詩人、学者、あるいは「かれらはどこへ行ったかわからない」と報道している当のマスコミの人の中にもいるかもしれない。それはもうおよびもつかない大きな勢力で、かれらがかくまわれているのである。」(小中、1969:195)


第三部 脱走兵名簿 およびその声明
■@クレイグ・ウィリアム・アンダーソン
「イントレピッド号に配置された期間中、私は、何百トン何千トンもの爆弾が装置され、ジェット航空機が次から次へと飛び立ってゆくのを眺めた。アメリカ軍隊の機構は、われわれアメリカ人に保障された自由を引き裂いている。われわれは非暴力の運動によって、この巨大な機構を変えなければならない。[…]私は同胞であるアメリカの青年たちに、この戦争機構を停止するよう訴える。」(アンダーソン、1969:199)

■Aジョン・マイケル・バリラ
「私はもはやこれ以上戦争に参加することにより、私が世界の多くの人びとわかちもっている平和の理想と人類愛的な信念を裏切れないと信じるにいたりました。私がベトナムの紛争に感情的に強く反発する理由のひとつは、誰ひとりとして、この戦争を正当化する論理をもちあわせていないようだということです。」(バリラ、1969:201)

■Bリチャード・D・ベイリー
「私はアメリカ人である。二度とそこにもどれないだろうと思えば。アメリカにおける未来や友人や家族を離れることは心痛むことである。だがもし、この戦争を終らせ、アメリカに良識をとりもどすためにそれしか方法がないというのなら、私はみずから進んで共産主義者のラベルをはられようと思う。わが憲法の精神に勝利あれ。」(ベイリー、1969:204)

■Eマーク・アラン・シャピロ
「心のかに煮えたぎっていることを何気なくしゃべっただけでも、そえがみんなに知られるとすぐさま上官からの懲戒となってかえってくるのです。そしてそうしたおしゃべりはかならずみんなに知れわたるものなのです。幾人かの友達も、私と同じようにおもっていましたが、だれも、口に出していおうとはしませんでした。でも、私はやったのです。現在許されている、唯一つの方法をとったのです。[…]それでも、脱走してよかったとおもいます。[…]あらゆる可能な手段をもって、この戦争に反対し戦いを進める人に、称賛の言葉を送ります。」(シャピロ、1969:212)

■Gテリー・マーヴェル・ホイットモア
「高校最終学年は、全くすばらしいものでした。[…]おもいきって、私自身の問題、すなわち、“黒人とは何か”について勉強をはじめたのもこの年でした。私自身の歴史について、そしてアメリカ社会で私のおかれている位置について学んだ時、私はもはや自由の国にいるのではなく、ここも黒人である私にとっては戦場なのだということに気がつきました。同じこの頃、ベトナムという名まえしかしらない国の山やジャングルで展開されている戦争のことを知りました。」(ホイットモア、1969:218)


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV:  
社会運動/社会運動史  ◇ベトナムベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)BOOK
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