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『社会のなかの医学』

高橋 晄正 19690228 東京大学出版会,UP選書,301p.


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高橋 晄正 19690228 『社会のなかの医学』,東京大学出版会,UP選書,301p. ASIN: B000JA14RO ISBN:9784130050258 480 [amazon][kinokuniya] ※ d07

■目次

T 医療社会化への道
U 医学教育への提言
V 医学とその周辺
むすびに代えて――東大闘争で問われたもの

■引用

◆はしがき
 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、
「新薬の製造は、薬事審議会の答申にもとづいて厚生大臣が認可する。しかし、そこでおこなわれるのは、製薬会社が編集した資料の書類審査である。問題はそれだけではない。近代科学としての立場からみるとき、その大部分が科学的判断の資料となり得ないような、つまり自然治癒とまったく区別できないような、主観的な資料であることに驚かされる。薬事審議の基本的態度に誤りがあるのである。
その誤りの中心となっているのは、基礎医学の理論を機械的に臨床に延長することと、臨床の大家の直観的判断力を過信していることである。一人ひとりの病人の状態や薬に対する反応は、それぞれ特異的なものであるから、それは統計的認識を絶するものであるという考えがある。だから直観的にそれをなしうる、というのは飛躍である。科学としての医学は、それをしも解析し、客観化しようとしているのである。病人の状態を規定する要素がいかに多くても、またその総合判断がいかにむずかしくても、近代科学としての多変量解析と実験計画法とは、不安定な人間の直観的判断にまさることを、イギリス、アメリカの薬事審議会は、二〇年も前から実証している。病人の状態の十分な分類、対照群の公平な二分、新薬群と基礎治療群の確率的な割りつけ、観察成績の統計的解析、こうした条件を満足しない臨床試験の成績は、科学的判断の資料とはなりえない。」(高橋[1969: 190−191])

「T しかし、悪くなるのが一〇〇人のうち一〇人か二〇人ぐらいであるのに、みんなよくなるようにみえることもあるわけです。しかし、それはよくしたということにはならないわけです。むしろ、多少、悪くしているかもしれない。使わなければ悪くなるのが五人ぐらいに減ったかもしれないのに、二〇人ぐらい悪くしているのかもしれない。薬効の統計学的検定というのは、実際には効いていないのを効いているように直観的に信仰していることを防ごうということだと思います。」(高橋[1969: 210])

◆むすびに代えて――東大闘争で問われたもの
 「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
 わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285])

■言及

◆20071223 「山田真に聞く」


UP:20080312 REV:
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