として見るseeing as
われわれは遠近法的な逆転や相貌の変化を伴う図形をこれまで考察してきた。私がこれらの図形を長々と論じてきたのは、そこではわれわれは違ったものを見ているといいたいのだが、しかしこれは網膜反応の違いやわれわれの私的な視野に記録された画像の違いによるものではない、ということを示せそうな明白な事例だと思われたからである。またこれらの事例において、われわれが見ているものの違いはその見ているものをいかに解釈するかの違いによるのだ、とい見解もおそらく否定すべきであろう。なぜなら、ウィトゲンシュタインも述べているように、「解釈することは考えること、何かをすることであるのに対し、見ることは一つの状態だから」でらう。プライス教授でさえも、知覚行為は行為すること(activity)ではない、と主張している。そしてわれわれが考察してきた遠近法や相貌の変化は、全く考えること抜きに起ったかもしれないのである。事実、一心に考えるめぐらすことによって、今まで気づきえなかった図形のある相貌が見えるようになる、などということはまずありえないであろう。(p.144)
私はここで、今までほど鮮やかな仕方ではないがやはり変化する別の一群の図形をお目にかけたい。しかしながらそれらは、これまでいずれの例にも現れていた、として見る(seein as)という要素をひきつづき強調するという意味で重要なものである。科学的探究における観察すること、目撃すること、見ることの孕む複雑さについていっそうよく理解する助けとなるのは、ほとんど見逃されてきた日常的観察におけるこの要素なのである。(pp.144-145)
「ことを見るseeing that」ことの論理的特性
<ことを見ること>(seeing that)の一つの論理的特性に注意を向けていただきたい。この〔英語の〕語法は、最初を大文字にして最後にピリオドをつけさえすれば、独立した完全な文となりうる節を伴うのが常である。角氷を見る(seeing an ice cube)ことはできるし、鵜をアヒルとして見る(see a cormorant as a duck)こともできる。しかし角氷ことを見る(see that an ice cube)ことはできないし、またアヒルことを見る(see that a duck)こともできない。そしてこの理由は、われわれの視力の限界にあるのではなく、われわれの言語の論理的および文法的制限にあるのである。(p.184)
しかしながら、私が今語っている知識とは、主として教科書や実験報告や講義の言葉で表現される、何が存在するかについての知識だということをはっきりさせておこう。私は、いかにものごとをなすか(how to do things)という知識について語っているわけではない。それゆえわれわれは、ある人について彼は自転車の乗り方を知っているとは言うだろうが、同時に彼はおそらくそうした知識を言語では表現できないということにも同意するだろう(p.188)
それゆえ、科学上の頑固で客観的な事実への言及の中で、以前に述べたことを修正した方がよいと私に思わせるものは何もない。「事実」は、カテゴリー語、包み紙語、空虚な語、カメレオン語なのである。われわれの言語上の変化(したがって事実上、われわれの概念枠の変化)が世界の本性に関するわれわれの理解を変化させうるというテーゼが与えられたとしても、事実という観念はこのテーゼに対するアンチテーゼでも、解毒剤でも、また中和剤でもない。というのも、事実とはこうした変化を伝達する概念の一つにすぎないからである。科学上の事実として通用しているものは、われわれの世界像(our picture of the world)、われわれの表現様式、われわれの知覚の性格の変容をことごとく反映しているのである。(p.297)