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『知覚と発見 科学的探究の論理 上』

Hanson, Norwood Russell 1969 Perception and Discovery, Freeman Cooper & Company

=19820129 野家 啓一・渡辺 博訳 『知覚と発見 科学的探究の論理 上』,紀伊国屋書店

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■Hanson, Norwood Russell 1969 Perception and Discovery, Freeman Cooper & Company=19820129 ノーウッド・R・ハンソン著 野家 啓一・渡辺 博訳 『知覚と発見 科学的探究の論理 上』,紀伊国屋書店, 320p ISBN-10: 4314008709 ISBN-13: 978-4314008709 3000+ [amazon][kinokuniya] ※ dss

■内容

内容(「BOOK」データベースより)
我々は日々どのようにものを見ているのであろう。同じものは同じように見るのか、それとも人によって違った風に見るのか。“見る”ことに関するさまざまな理論を検討しながら、著者は、“見る”とは“理論を背負って”見ることであって、“なまの事実”などというものはないと主張する。斬新な語り口で眼の背後にある言語的な構造を明らかにして、科学的に見るとはどういうことか、事実とは何か、等の問題にも明快に答える。科学理論は事実によって反駁されるのではなく、別の理論によって反駁されるのであるという著者の学説は、学界に新風を吹きこんだ。本書は、彼の理論の全体像を講義録をもとに編集したもので、我々の自然観、科学観に根本的転換を迫る、恰好の「科学哲学入門」である。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ハンソン,ノーウッド・ラッセル
1924年生れのアメリカの科学哲学者である。音楽家を志してカーティス音楽院に学んだが、第二次大戦に応召しアメリカ海兵隊の戦闘機パイロットとして活躍した。除隊後音楽家の道を捨て、シカゴ大学およびコロンビア大学で物理学と哲学とを専攻し、さらにオックスフォード、ケンブリッジ両大学で研究を重ね、学位を取得した。その後1952年よりケンブリッジ大学で科学哲学担当の講師を務めたが、1956年のスエズ紛争でイギリスに幻滅を感じ、翌年アメリカに戻って、インディアナ大学における学際的な学科としての科学史・科学哲学コースの創設に参画し、後にそこの主任を務めた。インディアナ大学およびイエール大学で哲学教授の任にあったが、1967年4月、愛機のグラマン型ベアキャット(彼のニックネーム「ベアキャット」はこれに由来する。またイエール大学では「飛行教授〔The Flying Professor〕」とも呼ばれていた)を駆って悪天候の中を飛行中(一説にはピストンエンジン機のスピード世界記録に挑戦中であったとも伝えられる)、事故に遭って43歳の若さで亡くなった。彼の多方面にわたる華麗な才能を、僚友のS・トゥールミンは「現代アメリカに生れ育ったフィレンツェ・ルネサンス人」と評している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


■目次

まえがき
編者序言

第I部 挑発と抑制
第一章 哲学すること――幾つかの論理的区別
第二章 概念的境界の設定
第三章 測定と計算――さらなる境界線

第II部 科学的に見るという行為
第四章 見るとは目を向ける以上のことである
第五章 同じものを見ること
第六章 <見る>ことと<として見る>こと
第七章 <として見る>ことと<ことを見る>こと
第八章 見ること、言うこと、知ること
第九章 眼の背後の眼鏡
第十章 事実を見ることは可能か
第十一章 事実と<ことを見る>こと

訳者あとがき
参考文献
原注
索引


■引用等

太字見出しは作成者による
命題・真理・意味・立証
 一 必然的命題は、偶然的命題あるいは必然的でない命題から区別されねばならない。後者を反駁可能な命題として論ずることには意味がある。明確に指示された文脈において、前者を反駁可能な命題として論ずることは意味をなさない。例えば、エネルギー保存の原理は、古典物理学の内部では反駁不可能な主張である。だが、それの否定は形式的に矛盾(あるいは分析的に偽)しているわけではない。それゆえわれわれは常に、必然的‐偶然的の二分法を分析的‐総合的の二分法から区別しておかねばならない。
 二 真理〔真〕の探求は、無矛盾性の探求から一線を画さねばならない。推論が誤っているとして攻撃することは、(必ずしも)結論を偽だとして攻撃することにはならない。また、結論を真だと認めることは、必ずしも推論が妥当であると認めることではない。
 三 ある主張や表現にいかなる意味が付与されているかを考察するには、否定されたり排除されたりしているものが何であるのかを問うてみればよい。「でない」という語は、一種の論理的装置である。それは表現の境界線を見出す手助けをしてくれる。
 四 「すべてのSはPである」という主張と「あるSはPである」という主張とは非対称である。すなわち、前者は反駁はできるが、疑いなく立証することはできない。後者は疑いなく立証することはできるが、反駁することはできない。(p.42)

定義の分類
意味による定義
意味・定義とは記号や記号群の意味を述べることである。(p.44)

大分類・歴史的報告的定義と規約的規範的定義
それのうち一方は半ば歴史的な言明を含んでいる。他方は規約を含んでいる。第一種の方は、科学者たちがある記号や表現を用いるときに、彼らが実際に何を意味しているのかを述べている。それは専門家たちが問題の術語をどのように用いているかを報告しているのである。それゆえこのような報告は、事実に間する言明を解してなされる。その言明は現に成立している事柄に依存する主張である。したがって、誤りうる。第二種の方は、誰かがある表現を用いるときに、他の科学者たちすべてがそれを使うとき何を意味するかには関わりなく、彼が何を表わそうと企図しているかを述べる。それは語が何を表わしてきたか、あるいは表わしているかを報告しているのではない。それは何も報告してはいない。それは、その語がある所定の推論の一過程を意味するであろうことを規定しているのである。(pp.45-46)

・同義語による定義
・分析による定義と類と種差への区分
 しかし分析による定義の中でもとりわけ最もよく知られている形式は、アリストテレスによって認められた類と種差への区分である。その処方は以下の通りである。ある語の意味を表示するためには、まず最初にその語を、すべての成員がある意味を共有しているような語の広範なクラス(概念)の中に置く。次に、その定義されるべき語を、そのクラスの中の他のすべての成員から区別する。(p.50)

・総合による定義
総合による定義は、ある部分の性質を、それが構成要素となっている全体に言及することによって説明する。このようなやり方による術語の定義(術語の意味内容を他の事柄に関係付ける仕方)は、少なくとも二つの別のやり方で展開して行くであろう。(p.51)
因果的、体系的

その他
暗示的インプリシットな定義
外延的定義
直示的定義
その他2
規則的定義…言葉や記号の規則的定義は、その用法を支配する規則を述べる言明である。(p.56)
公理的定義
間接的定義
操作的定義
 最後に、操作的定義がある。誰しもその例を見たことがあるだろう。ブリッジマン教授の説明によれば、有意味と認められる物理学上の概念は何であれ、究極的には測定の操作によって定義されねばならない。「究極的に」という言葉は不可欠である。それが、物理学上の概念が今ここで直接的にこの操作的方法で定義可能である必要はない、ということを許容しているのだから。例えば気体分子の平均速度は、直接的に測定によって定義することはできない。それは実験上の原理からしてできないのである。しかしながら、この量は気体の圧力と密度とに数学的に関係しており(次章を見よ)、これらは操作的に定義可能な概念であるから、それゆえ分子の平均速度の概念は操作的に有意味なのである。(p.59)

因果的定義を生み出す記述的経験的命題と、定義がほとんど必然的と見なされるようになった後でその命題を再検討することを区別しそこなうことが、自然法則が純粋論理学から演繹可能であるとか、あるいは法則が論理的に必然的だという意味で自然が法則を体現しているのだといった幻想――われわれの規則性の観察は、世界の形式的枠組を発見する方法にほかならない――を創り出すことを可能にしているのである。これはいささか単純化しすぎている。にもかかわらず、その危険は物理諸科学においては現実のものであり、またそれを二種類の定義の間の混乱と見ることは教育上有益である。しかしおそらく、その混乱は定義に関する混乱として現れていると言った方がいっそう正確であろう。数学的主張と物理学的主張との間の論理的差異についてはっきりしていない数理物理学者は、彼の不明瞭さを彼の定義の中でさらけ出すことであろう。(p.64)

 定義は、これまで見てきたように、言葉についてだけなされるものであった。ある言葉や記号は、専門家がすべてそれによって意味していることや、ある特定の専門家がそれによって意味しようとしていることが述べられたときに、説明されることになる。われわれは同義語や分析や因果的説明や使用規則や実例――あるいはことによると、絵とか何らかの対象に対する身振りを受け取るかもしれない。これはすべて、言葉を定義するやり方なのである。(p.66)

「観察するobserve」こと
 「観察するobserve」という語は(したがって「観察」という名詞も)、作業を行う仕方とその成功を示す仕方の両方に用いられる。「観察する」は、時に応じて、「眼を向ける(look)」や「耳を傾ける」と同じように機能したり、また「見る」や「聞く」のように機能したりする。それでわれわれは、ある人が注意深く体系的で熱心な観察者であると言ったり、また彼の注意深く体系的で熱心な観察についても語る。しかしながら、われわれはまた彼の観察を彼が見出したもの、彼の発見物、彼が首尾よく見たもの、と言ったりもするのである。その際、「観察する」という語は、あるときは人がなしつつあることを指すのに使われ、別のときにはその成功を知らしめるために使われる。(p.96)

「見ること」についての通説1‐網膜上の反応説
 その一つは、最もた易く思いつかれるという事実はあるにせよ、おそらくさほど真に受けるには及ばない、次のような答えである。それは、もし天文学者が両方とも正常な視力を備えており、彼らの視覚器官にいかなる欠陥もないとすれば、言いかえると、もし彼らが正常に見ることができ盲目でないとすれば、彼らの網膜は同じように刺激を受けるのだから、同じものを見ているはずだ、というものである。「同じものを見ること」は「同じ網膜上の反応が起こること」にほかならない。同じ条件下で同じ方向を向いており、彼らの網膜のほぼ同じ部位がほぼ同じ仕方で刺激を受けるならば、二人の天文学者は同じものを見ているわけである。つまり、ほぼ同じ振動数の光の輻射が網膜の表面を形作る棹状体や錐状体といった神経受容器に類似の電気化学的変化を引き起こすとき、二人の人間は同じ視覚印象をもつのである。(p.99)

「見ること」についての通説2‐感覚与件理論
 われわれは日常の経験から、眼を閉じても世界が暗くなったわけではなく、鼻風邪をひいても花の香りが失せたわけではないことを知っている。したがって明らかに、眼を閉じたときに何が暗くなるのか、また鼻風邪をひいたときに何が失われるのかを述べる語法が必要となる。必要なのは、やぶにらみをして二重像を「見る」ときに何が起こっているかを述べる語法なのである――なぜなら、諸君がやぶにらみをしたからといって、そが私を双子にするわけではないのだから。それにしても、そのような場合に何が見えているのかを、どうやって記述したのよいのか……。
 感覚与件理論はその場合、見え(looks)、現れ(appearances)、見かけ(glimpses)、香り、味、音、等々について語ることによって、われわれはただ感覚のみについて語ってかまわないのだと示唆する。(pp.110-111)
 感覚与件論者や一部の科学者は、日常の事物を観察する際に、感覚の寄与分を直観、推論、記憶、推測、習慣、想像、連合の寄与分から区別するためには、こうした言い回しを援用せざるをえないと考えるに至っている。だからある意味では、物理的対象を見ると言わずに視覚的な感覚与件について語る裏にある動機は、そうした対象を見ると言わずに網膜反応について語る裏にある動機と同じ穴のムジナなのである。どちらの語り方も、世界がわれわれの感覚器官に刻印する現実の印象と、それらの感覚印象を理解する際にわれわれが行う知的寄与とを区別することを目指している。これらが必要なのは、むろん見るとか観察するとか目撃する等についての日常語法では、周知のようにこうした区別がなされていないからである。これらの語り方の間の差異は、緻密さと力点の相対的な差異である。網膜‐反応的観点は一、二の単純な事実問題を引き合いに出せば論破されるか骨抜きにされるが、そうしたやり方は感覚与件理論の反対者には役に立たない。実際、感覚与件理論を科学理論ではなくむしろ論理学的ないしは哲学的理論として扱うことの眼目は、一にかかってその説の提唱者たちが事実問題の痕跡を体系的にその主張から排除することにいかなる労も厭わなかったことを強調することにある。おそらく彼らはそうすることによって、足下の支えを取り払ってしまったのである――もっともそれについてはもっと先で述べよう。(pp.111-112)

感覚与件理論批判
 そこで、「Xを見る」と「Xに対する正常な網膜的反応が起こる」とを同一視する、前に検討した立場が「例の天文学者は二人とも同じものを見ているのか」という問いに対して肯定的な答えを与える(なぜなら、天文学者たちは二人とも正常な網膜反応をもつと仮定されているから)のに対し、感覚与件理論は否定的に答えることを強いるのである。なぜなら、見られるものが私的で心的な出来事であり、何らかの外的原因の視覚上の結果についての個人的な見解であると解釈されるならば、二人の人間が同じものを見ることはありえないからである。むろん、これらの私的な観察が同じ状況に置かれた様々な人々にとっては、ほぼ似かよっていると仮定することは理に適っている。しかしこの仮定は、論理学的に許容しうるいかなる仕方でも証明できはしない。それゆえ、感覚与件理論では、例の十三世紀と二〇世紀の天文学者が明け方に見ているものは形状および彩色の点ではほぼ同じものだと仮定することは許されるものの、厳密な根拠に基づいて、彼らは正確に同じものを見ているとは言えないのである。(p.117)

 しかし、形勢は実際こんなに不利なのだろうか。この理論が要求することといえば、推論は常に感覚与件から出発するのだから物質的対象についてのわれわれの確信はほとんど推論上のものだ、ということだけである。先の問いに対する答えはこうである「その通り、形勢は実際こんなに不利なのだ」。黒雲から雨の到来を推論したり、ほの明るい東の空から夜明けの近いことを推論する場合、われわれは過去の経験に訴えているわけだが、それは感覚与件から物質的対象への推論の場合に確かにそうだと思い込まされていたこととはまったく違った方式である。というのも、後者の推論を保証しうるいったいどんな過去の経験があるというのか。この理論自身が答えを与えている。そんな経験はない!と。そしてこの答えと共に、この理論は、自分を支えるために呼び出した当の理由、すなわちそのどれもが感覚与件と物質的対象との対比を要求していた理由を切除してしまったのである。感覚与件論者は、知覚をその知覚の物理的原因から区別するよう聞き手を納得させることができなければ、自分の理論を支持する説得力のある理由を何一つ提出できはしない。しかし、われわれの知覚の物理的原因は決して知りえない、というのが彼の理論の帰結なのである。したがって求められていた対比は、知覚に関する非‐感覚与件理論から借り受けてくるのでもない限り、感覚与件理論によっては作り出すことができないのである。(pp.124-125)

 ある意味で、感覚与件論者は知覚連鎖の最後の環を自然科学から自分たちが受け継いだと考えている因果連鎖のモデルに合うように作り上げているのである。この論者たちにわかっていないのは、見ることの最後の環は(太陽や宇宙空間や地球や人間の眼に生ずる出来事のように)発見されるものではないということである。見ることの最後の環は、それ自身発見することなのである。見ることを何かそれ自身見ることができるものとして扱おうとすると、常識とは相容れない、前に述べた説明に導かれてしまう。
 視知覚の最後の環は、この連鎖の他の環とは全く異なった種類の出来事である――もっとも、知覚連鎖の環について語ることがそもそも許される言い回しだとすればの話だが。視知覚の最後の環は、太陽光線の放射に始まる連鎖の最後の物理的出来事を知覚することではない。むしろ、それは出来事の連鎖を始めるもの――すなわち太陽――を知覚することなのであり、それは、出港するとは錨を引き揚げることであって、単に錨鎖の最後の環を引き揚げることではないのと同様である。(p.126)

 いいかえれば、感覚与件理論の大きな誤りは、感覚の概念を観察の概念へ同化させたことにある。なぜならこの理論の主張によれば、太陽を見ることの本質は感覚与件、すなわち私的な視覚空間の中の黄白色に輝く円盤を見出したり直観したりすることにあるからである。その際、太陽の<見かけ>を経験することは、何か別のものの<見かけ>、すなわち色のつぎはぎ細工や黄白色の円盤を経験することによって説明される。しかし、もし太陽の<見かけ>を経験することが少なくとも一つの感覚を経験することを含意するならば、黄白色の円盤の<見かけ>を経験することは再び少なくとも一つの適切な感覚を含まねばならないが、その感覚が今度はそれに先立つ感覚与件の感覚へと分析されねばならず、かくして無限背進かつ背理に陥るのである。(p.127)

として見るseeing as
 われわれは遠近法的な逆転や相貌の変化を伴う図形をこれまで考察してきた。私がこれらの図形を長々と論じてきたのは、そこではわれわれは違ったものを見ているといいたいのだが、しかしこれは網膜反応の違いやわれわれの私的な視野に記録された画像の違いによるものではない、ということを示せそうな明白な事例だと思われたからである。またこれらの事例において、われわれが見ているものの違いはその見ているものをいかに解釈するかの違いによるのだ、とい見解もおそらく否定すべきであろう。なぜなら、ウィトゲンシュタインも述べているように、「解釈することは考えること、何かをすることであるのに対し、見ることは一つの状態だから」でらう。プライス教授でさえも、知覚行為は行為すること(activity)ではない、と主張している。そしてわれわれが考察してきた遠近法や相貌の変化は、全く考えること抜きに起ったかもしれないのである。事実、一心に考えるめぐらすことによって、今まで気づきえなかった図形のある相貌が見えるようになる、などということはまずありえないであろう。(p.144)
 私はここで、今までほど鮮やかな仕方ではないがやはり変化する別の一群の図形をお目にかけたい。しかしながらそれらは、これまでいずれの例にも現れていた、として見る(seein as)という要素をひきつづき強調するという意味で重要なものである。科学的探究における観察すること、目撃すること、見ることの孕む複雑さについていっそうよく理解する助けとなるのは、ほとんど見逃されてきた日常的観察におけるこの要素なのである。(pp.144-145)

瞬間的解釈説批判
 「いやむしろ、これら周知の事例では、解釈はきわめて短時間のうちに起る、ほとんど瞬間的に」とこう応酬されるし、それはまた典型的な哲学者の答えでもある。この答えは、感覚与件つまり知覚的因果連鎖の最後の環を、他のどの環とも違った、心的で私的な、公共的に観察不可能なものとしたあの同じ手品の袋から出ている。それらは、感傷的な愛着を感じてきた諸観念を救済するために、哲学者たちが発明した弥縫策にすぎないと私には思われる。見たものに解釈を加えるとはどのようなことか、われわれはみな非常によくわきまえている。芸術家は解釈を加えており、歴史家やジャーナリスト、はてはルイセンコもそうしているのであって、実際、事実は乏しく問題は目白おしといった科学研究の前線では、誰もが見たものを解釈しているのである。しかし解釈という語がこれらの文脈でかみ合い作動するのは、まさにこれらが、物理学者がX線管を見るといった事例と対照をなしているからに他ならない。後者の状況でさえも解釈を含んでいると主張することは、感覚与件の把捉だけが見ることとみなされうる、ということを言葉で換えて述べたにすぎない。それらに加えられるものはすべて、解釈だからである。この主張こそ、われわれがこの探究に着手して以来、攻撃の的となってきたものなのである。(p.154)

有機的体制organization
有機的体制は、線や形や色が視覚的に捉えられるその仕方なのである。これまで吟味してきたあらゆる場合を通じて私が考察を促してきたのは、線と色とのある与えられた布置(constellation)(心理学者が「刺激パターン」と呼ぶもの)であり、さらにこの布置やパターンが視覚的に捉えられるさまざまな仕方、つまりこの布置に一致しうるさまざまな種類の概念上の有機的体制であった。要するにそれは、布置を見ることのさまざまな仕方、様式なのである。(p.157)

「として見る」と知識
 そういうわけで、ものを見ることはそれをこの種のものとして見る、あるいはあの種のものとして見ることであって、われわれは、幼児や狂人のように単に不定のまま一般的に見てなどいないのである。そしてものをこの種のあるいはあの種のものとして見ることは、この種のあるいはあの種のものについての知識を前提としている。(p.161)

「ことを見るseeing that」
 われわれが見てきた諸々の図を透明な箱や階段、アヒル、ウサギ、酒杯、熊、翼型、X線管として見るということは、いったいどういうことなのだろうか。すでに述べたように、それはある種の知識をもつことに他ならない(ロボットやカメラは光には反応するが、見ることはできない。電気仕掛けの眼は盲目である)。要するにそれは、もしあることが眼前の対象になされたら、何か別のことがおそらく起るだろうということを見るのである。それゆえ、<ことを見る>ことは見ることの今一つの成分なのであって、その成分は「……として見る」に分ち難く結びつけられている。しかしこういったからといって、私は、あたかも見ることが自動車と同じように合成的である――<として見る>と<ことを見る>の両成分が機械的に完全な仕方でかみ合って、われわれが「見る」と通常呼んでいるものを与えているといった具合に――と思わせたいわけではない。事実そうではない。見ることはまさに見ることである。(pp.168-169)

 あるものをXとして見ることは、それがXが行うあらゆる仕方で振舞うことを期待しうるだろうということを見ることなのである。その振舞いがXに期待されていることと一致しないことがわかれば、これ以上それをXとして見ることは難しくなる。われわれはもはやイルカを魚として、地球を平らなものとして、また天空をお椀形のものとして見ることはできない――それらはみな十三世紀の科学的な眼にはおなじみのものであった。そして、眼科医のテストとか、眼前の事物の本性についてわれわれが本当に混乱に陥ってその手がかりもないといった異常な場合を除けば、そもそも何かを見ることは、それをあるXもしくは他のものとして見るということにほかならない。ウィトゲンシュタインが述べたように、「……私が相貌の最初の現れにおいて知覚するものは、対象の一つの性質ではなく、その対象と他の対象との間の内的関係なのである」。(pp.175-176)

「として見る」と「ことを見る」の「見ること」への不可欠性
 <として見る>ことと<ことを見る>ことは互いにもつれあっており、それらは科学的観察において、重要とみなされるような<見ること>に不可欠なものなのである。(p.179)
 しかしなぜ不可欠であるのか。<として見る>ことと<ことを見る>ことは互いにもつれ合っているかもしれないが、それは一つの事実問題である。かくかくのことがあるものになされたら一定の結果が生ずるということを見ることなしに、われわれがそれをある種のものとして見ることがないのは、一つの事実問題である。そして流行の教えるところによれば、事実問題は哲学とは関わりをもたない。(p.180)

「ことを見るseeing that」ことの論理的特性
 <ことを見ること>(seeing that)の一つの論理的特性に注意を向けていただきたい。この〔英語の〕語法は、最初を大文字にして最後にピリオドをつけさえすれば、独立した完全な文となりうる節を伴うのが常である。角氷を見る(seeing an ice cube)ことはできるし、鵜をアヒルとして見る(see a cormorant as a duck)こともできる。しかし角氷ことを見る(see that an ice cube)ことはできないし、またアヒルことを見る(see that a duck)こともできない。そしてこの理由は、われわれの視力の限界にあるのではなく、われわれの言語の論理的および文法的制限にあるのである。(p.184)

「見ること」と言語的成分
もし見ることに言語的成分がなかったとしたら、われわれが見、観察し、目撃するものは、科学的であれ何であれおよそわれわれの知識にいささかの関連ももたないことになろう。見られたものが意味すらなさないのだから、有意味な観察について語ることには何の意味もなくなるだろう。知識の歯車が与えられた視覚経験と相関的に回るためには、その経験に関する何らかの断言的ないし命題的局面が先行していなければならない。(pp.186-187)

 しかしながら、私が今語っている知識とは、主として教科書や実験報告や講義の言葉で表現される、何が存在するかについての知識だということをはっきりさせておこう。私は、いかにものごとをなすか(how to do things)という知識について語っているわけではない。それゆえわれわれは、ある人について彼は自転車の乗り方を知っているとは言うだろうが、同時に彼はおそらくそうした知識を言語では表現できないということにも同意するだろう(p.188)

 確かに、われわれの諸々の視覚印象はこの意味での科学的知識に何らかの関連をもちうる、あるいは関連がないと認められるに先立って、それらの視覚印象は観察、すなわち見ることでなければならない。それらは、<として見る>ことと<ことを見る>ことを含んでいなければならないのである。なぜなら疑いなく、科学言語の地上一階、つまり単なる視感覚に最も近い階は、もし一連の言明でないとしたらそれは何ものでもないからである。言明は真か偽かである。網膜のものであれ心のものであれ、画像は真でも偽でもない。科学言語は言明の言語である。しかしながら、われわれの網膜は言明や言明に類する論理的なものによって刻印を受けることはない。(pp.189-190)

 もし画像と言語という概念を分離することができるなら、われわれは、一方の網膜像ないし心像と他方の科学的知識との間の論理的裂け目を提示したことになろう。「有意味な観察」とか「関連する要因を見る」と呼ばれる事柄の地位は、網膜像ないし心像の居住区域からこれ以降ずっと引き離されることになるだろう。なぜなら、科学における有意味性(significance)と関連性(relevance)とは知性と言語とに基づく概念だからである。事物や出来事や観察が本来的に有意味であったり、本来的に関連していたりするわけではない。そうなるのは、事物や出来事や観察についてわれわれがすでに知っていることを背景にしている場合だけなのである。(pp.196-197)

sign, copy, symptom, original, representation
 鏡像や絵や地図の諸要素は、写された、描かれたり、写像されたりする事物の諸要素とかなりはっきりした仕方で対応している。それゆえ上の右図や左図の鏡像は、表示される諸要素のタイプや量、例えば角、線、爪、足、等々に関しては寸分の違いもないであろう。X線管の絵は、その管自身がこれらの諸要素の各々を備えているのとちょうど同じように、一つの陽極ターゲットと一つの陰極源を示すことだろう。そしてイギリスのケンブリッジの地図は、動物学実験室やキングス・カレッジの礼拝堂や幾つかの競技場を、それらが実際にケンブリッジ自体に見出されるのとほぼ同じ数、また位置関係で示すことだろう。鏡像や絵や地図をを記号(signs)ないし模写(copies)と呼ぶことにわれわれも同意しよう。むろんそれは、積乱雲が雨の記号であるとか、煙が火の記号であるとか、皮膚の発疹が腎臓疾患の記号であるといった意味においてではない。つまり鏡像や絵は徴候(symptoms)ではないのである。それらは映されたり描かれたりする事物と一定の関係、もっと良い言葉が見つからないので記号関係ないし模写関係と私が呼ぼうと思う関係に立っているにすぎない。記号ないし模写のそれぞれの要素は、したがって記号化されるもの、つまり現物(original)のある要素を表現している。だから、模写の諸要素の配置は原物の諸要素の配置を示している。かくして、上のそれぞれの図は他ならぬこの対応のゆえに、箱、熊、X線管、明け方の太陽を表示しているのである。
 しかしながら、模写の諸要素の間には機能上の差はない。どの色斑や線や点や光点も、他の色斑や線や光点と特に異なった役割を果たしているわけではない。模写のすべての要素は、それぞれ原物の別々の要素を記号化しているかもしれないが、それらの諸要素に対して全く同じ関係、すなわち表示(representing)という関係を結んでいるのである。
 最後に、模写も原物も同じ論理的タイプに属していなければならない。(pp.198-199)

「模写‐原物」関係の諸特徴
 一、模写の各々の要素は、原物のある要素を表示する。もっとも、その逆は必ずしも成り立たない。例えば地図は、写し取られる地域の細部をいちいち再現するものではない。しかし写し取られる地域に現存しないものが地図に書き加えられることはない。
 二、模写の諸要素は多様な役割を果たしはしない。色片は色片を示すだけである。風景は、「→」や「=」や「>」によって区切られてはいないし、むろん「もし‐ならば」、「と同一である」、「より大きい」によって区切られてもいない。
 三、模写の諸要素の配置は、記号化されるものの諸要素の配置を示すであろう。もしある画像が熊のそれであるならば、その画像の線や色片は、熊が現にそうであるように、例えば頭を上に尾を後ろに配置され、有機化されねばならない。
 四、模写は記号化されるものと同じ論理的タイプに属さねばならない。われわれは熊を映したり描いたりはできるが、熊の騒ぐ音を写し取ることはできない。(p.200)

記号作用のモデル
 したがって、少なくとも二つの記号作用(signification)のモデルがある。映像や画像はイコンであり、それらは原物を模写する。言明として用いられる文は、より規約的である。それはイコンではないし、原物の模写でもない。地図は一部はイコンであり、一部は規約的である。われわれは、鏡像や画像(網膜や心の)を読むことを学びはしないが、本と同様、地図を読むことは学ぶねばならない。そういうわけで、画像と言語との間には、地図が部分的に橋渡しをしているような論理的懸隔が存在するのである。そして、網膜像や心像(つまり純粋視感覚)とわれわれの科学的知識との間には、それ対応して<見る>こと、特に<ことを見る>ことが橋渡しをしているような懸隔が存在している。したがって当然期待されるように、見ることと地図を読むこととの間には首尾一貫した類似性が存在するわけであるが、われわれはここではそれについてこれ以上展開するつもりはない。(pp.217-218)

言語と画像の論理的タイプの違い
 以上で、言語は模写がその原物に関係するように世界に関係しているわけではない、ということが明白になったに違いない。言語と画像とは論理的に異ったタイプの存在者なのである。したがって、科学的知識は単なる視覚的印象とは論理的に異ったタイプの存在者である。しかしながらこの両者は、緊密に縒り合わされていなければならない。さもなければ、有意味な観察とか関連するデータといった科学上の中心概念は形成すらできないであろう。知識は盲目となろうし、われわれの視感覚は染みや形や色片など、実際現象主義にお気に入りのあらゆるものからなる混沌の渦となるだろう。それゆえこれらの論理的理由からして、<として見る>ことと<ことを見る>ことが、科学においてわれわれが<見る>ことと呼んでいるものの積極的な要素でなければならないのである。ものをある種のものとして見ること、それはまさにある操作が加えられれば他の諸作用が継起することを見ることであるが、科学者が現にそうしているというだけでなく、今保障されたばかりの長い論証によって、われわれは状況がそれ以外ではありえないということをも見てとったのである。<として見る>ことと<ことを見る>ことが、科学において<見る>ないし<観察する>と呼ばれているものに不可欠であるということは、論理上の問題なのであって、単なる事実問題ではない。(p.218)

「理論負荷的theory-laden」操作としての「見ること」
 われわれのこれまでの議論の中身もまた、同様の危険にさらされている。私は見ることや観察のうちには視感覚の単なる生起よりもはるかに多くのことが含まれている、と強調し続けてきた。実験室での経験を支配している類いの見ることは、対象や出来事をある種類の対象や出来事として見ることである。それは、当の対象にある種の操作が加えられればある種の反作用が起るであろうということを見ることなのである。それは、すでに確立された知識とその知識を表現する言語の形態からその色調や色合いを得ているような<見ること>だといえる。要するにわれわれは通常、過去の経験と知識から作りだされ、われわれの特定の言語と表記法の論理形式によって色づけられ、斑になった眼鏡を通して見ているのである。<見ること>は、私が「理論負荷的(theory-laden)」操作と呼ぼうとするものであり、これについてはさらに多くのことを語らねばならないだろう。(pp.223-224)

 さて、今やそのことを正さねばならない。というのも、私は「現象的な」観察の価値を見くびるつもりはいささかもないからである。私が示したいと思うのは、ただその観察が、それほど劇的でなくもっとありふれた種類の観察からどれほど遠く隔っているか、ということにすぎない。実際それは、不自然で骨の折れる訓練であり、学習し練習せねばならぬものなのである。それは、われわれが日常的な種類の<見ること>から引き出さねばならぬものであって、そこから日常的な種類の<見ること>が引き出されるようなものではない。それは時間的にも論理的にも日常の<見ること>の後に来るものであり、訓練と注意とが協力し合って人がほとんどカメラのように振舞うことが可能になったときにのみ到達しうるようなものなのである。そこでわれわれは、この技術の習得が時としていかに困難をきわめるものであるか、また見ると呼ばれる理論負荷的活動が、いかにある物理現象の純粋で単純な視覚的記録であると期待されているものにたえず侵入し、それを偏向させているかについて論を進めよう。(p.225)

投射project
 多くの実験は、例えば対象の形、大きさ、色、位置が観察者によって対象の上にいわばどのように「投射されている(projected)」かを示している。色や形の知覚は、眺められている事物にだけ依存しているのではなく、それと似ていたりいなかったりする事物の色や形についての過去の経験にも部分的に依存している。(p.229)

表現不可能な事実
われわれの注意は、事実と手慣れた言語との間の、驚くべきそして奇妙とも思える一致に向けられることになろう。というのも、考えてみていただきたい。表現不可能な事実とはいかなるものであるのか。そして私がこれによって言おうとしているのは、単に、十三世紀の天文学者が水星の〔近日点の〕移動を理解していなかったかもしれないといった、その細部が理解できないような事実のことではない。私は原理的に表現不可能な事実、つまり本性上どうにも記述されようのない事実について語っているのである。このような事実への言及は何を意味するのか。それはどのような相違をもたらすのか。その事実は言語表現を免れるし、常に免れるだろうという言い訳と共に、われわれがある事実に向き合わされるような状況が、科学の内部にせよ外部にせよ存在するだろうか。未だ知られざる事実、ある哲学者たちが未来の事実と呼んだものは、当然にも言語表現を免れている。しかしこのことは、来シーズンの野球の得点表を今は示しえない、ということ以上の何も言ってはいない。(p.257)

異なった世界の在り方と「事実」の性格
 ケンブリッジ礼拝堂や原生動物や原子構成要素のうちに、われわれが利用しうる言語による記述を逃れるような諸相貌が存在する、と言っているわけではない。私の論点はただ、そういうことがありうるということは論理的に不可能ではない、ということにすぎない。そしてもしこの論点が適切ならば、われわれが物理的世界について現実に考えているのとはまるっきり異った仕方で考えていたかもしれない、ということは論理的に不可能ではないことがわかる。われわれは物理的世界を、今見ているのとは違った相貌で見たかもしれないし、それについて今知っているのとは違った事実を知ったかもしれない。そしてこれは、物理的世界が現にあるものとは違っていたかもしれないという推測とは同じではない。同じ物理的世界が与えられたとしても、われわれが現在しているのとは違った仕方でそれについて語り、考え、見るようになっていたかもしれない(論理的になっていたかもしれない)ということである。だとすれば、事実を超‐客観的で超‐非人称的な実在、すなわちわれわれの言語や眼に単に模写されるだけの三次元的事態とみなすような、人間の知識についての「吸取紙」式見解に対して、われわれは何と言うべきだろうか。われわれの言語は、われわれの知識の形式として機能しつつ、われわれが見るものや自然についての事実とみなすものに拭い去ることのできない刻印を押す、と言うべきかもしれない。
 したがって、少なくともわれわれが「事実」と呼ぶものの性格は、それらの事実が表現される言語の論理的‐文法的諸特性によって根本的に影響される、と主張できるかもしれない。それらの諸特性は「構え」を、いわば世界が別様ではなくある一つの仕方で見える文脈、あるいはそれによって事実が別様ではなくある一つの仕方で解釈される文脈を提供するのである。(pp.271-272)

発見
発見は言語を、つまりわれわれの考え方と見方とを変える。しかしどんなときでも、いかなる種類のものを発見として評定しうるかということ、つまり発見されるものの可能な範囲を制御しているのはわれわれの言語であり、またわれわれの考え方と見方なのである。(p.274)

事実とは何か
 覚えておられるだろうが、われわれは知っているものしか見ることができないと述べたゲーテを、私は荒っぽく敷衍してみたいと思う。私はこう言いたいのだ。「われわれは語りうるもの、あるいはある程度語りうるものしか見ることはできない」と。われわれは表現しうるもの、あるいはある程度表現しうるものしか知覚することはできない。全く語りえないものを見るとは、いったいどのようなことだろうか。表現不可能なものの知覚とはどのようなことだろうか。原理的に言明されないような事実を、いったい誰がわれわれ指し示してくれようか。(p.275)

つまり、事実の形姿はわれわれがそれらの事実を述べる言語的存在にすぎないといっているのではないことを、どうか思い起こしていただきたい。それは間違っている、と私は思う。(p.278)

 われわれは事実の概念を、対象、出来事、状況、事態、真なる言明といった周知の概念にあまりに性急に同化させるあらゆる試みに対して、かなり慎重に構えるべきであろう。後期ウィトゲンシュタインを敷衍していえば、もしわれわれが事実を世界内の諸事物の単純な関係に還元しようとすれば、われわれは道を誤ることになるのである。(p.283)

 「さて、事実とは何かね」という問いはまさにこうした仕方で、何らかの誠実な答えを強要するのである。というのは、もし諸君がこの問いの求める単純な種類の答えを与えれば、諸君は確実に道を誤ることになるからである。しかし、もし諸君が「いや、この質問が暗示するよりも、その答えははるかに複雑なものなんだ」という論評でこの問いに応酬しようとすれば、諸君は誤魔化しとか、脱線とか、会話上の不品行といった謗りを受けることになろう。
 さて、私はわが身をこのような非難に晒しておかねばならない。というのも、事実は実際に「事実とは何か」という問いが暗示しうるよりもはるかに複雑な概念だからである。
 したがってわれわれは、「事実とは何か」という問いが差し出す餌を拒絶することによって、事実と対象、出来事、事態、ないしは真ある言明との等値に断固抵抗することにしよう。(p.285)

 そういうわけで、もし諸君が表現上のいささか技巧的な手段を大目に見て下さるのなら、世界の調度品と世界についてのわれわれの言明との間には、わずかに<こと‐節>と事実とが存在するだけなのである。触知しうるようなものは何ら存在せず、言明(そのうちの幾つか)は世界に関する事実を述べている。それが実際に述べているかいないかは、経験的探究の問題である。しかし、それが述べている事実とは何であるかと尋ねても、われわれは一連のこと‐節を得るだけである。言うならば、世界に論理的な影を投げかけているのがこの<こと‐節>なのである。われわれは形と色と対象から成る万華鏡のような一まとまりの世界に直面しているわけではなく、あれやこれやのしかたで関係づけられているような世界に向き合っているのである。これまでの議論から、われわれは世界が普通は関連をもったものとして経験されることを見てきた。そして<こと‐節>が言語的に表現するのを任務とするのは、もっぱらこれらの関連なのである。このような<こと‐節>を考察することは、必ずしもこれらの関連についての言明を行うためではなく、ただこれらの関連をその言語的側面において理解するためにほかならない。そして、少なくとも<こと‐節>で表現可能な世界の諸側面からのみ構成されたものとして事実を考えるよう私を促すものは、この種の考察なのである。脊索動物が脊索をもつという事実には、世界はその一側面が「脊索動物が脊索を有すること」という句で表現可能であるような形になっている、ということ以上の何ものも存在していない。(pp.292-293)

 それゆえ、科学上の頑固で客観的な事実への言及の中で、以前に述べたことを修正した方がよいと私に思わせるものは何もない。「事実」は、カテゴリー語、包み紙語、空虚な語、カメレオン語なのである。われわれの言語上の変化(したがって事実上、われわれの概念枠の変化)が世界の本性に関するわれわれの理解を変化させうるというテーゼが与えられたとしても、事実という観念はこのテーゼに対するアンチテーゼでも、解毒剤でも、また中和剤でもない。というのも、事実とはこうした変化を伝達する概念の一つにすぎないからである。科学上の事実として通用しているものは、われわれの世界像(our picture of the world)、われわれの表現様式、われわれの知覚の性格の変容をことごとく反映しているのである。(p.297)


*作成者:篠木 涼
UP: 20080722 REV: 20180223
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