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『反戦と変革――抵抗と平和への提言』

小田 実・鶴見 俊輔 編 196811 学芸書房,363p.

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■小田 実・鶴見 俊輔 編 196811 『反戦と変革――抵抗と平和への提言』 学芸書房,363p. sm02 1vie beh


■出版社/著者からの内容紹介

「ベ平連が1998年、京都の国際会議場で開催した「反戦と変革に関する国際会議」の全記録集。終わりに採録されている座談会「京都会議後のベ平連の活動と展望」(井上澄夫、小田実、北沢恒彦、小中陽太郎、高橋武智、田守順子、鶴見俊輔、鶴見良行、福冨節男、古山洋三、武藤一羊、吉川勇一)も、ベ平連中期の動向と空気を知る上で貴重です。」
「旧「ベ平連」運動の情報ページ」より 

■目次


序文
反戦と変革の理念をめぐって
世界の反戦運動
沖縄・安保・七〇年問題
徴兵拒否運動・脱走兵援助・政治亡命
反戦運動諸勢力の共同行動
デモ・沖縄・日本人米兵・ベ平連(座談会)
資料
あとがき


■引用


■反戦運動と変革(小田実の発言)6-21
「二年間の情勢の変化を見ていると、現在の状況では、ベトナム反戦を論ずると同時に社会変革の問題を考えなければならない状況に来ているのではないかと思います。」(小田、1968:6)

「ベ平連ばかりでなくて、日本中のベトナム反戦運動に携わってきた人たち、あるいは世界の反戦運動に携わってきた人たちは、それぞれのやりかたで、それぞれの程度に応じて、社会のしくみをいくぶんでも変えないかぎり、ベトナム戦争はなかなか終らないだろうと考えてきているようです。あるいは、この戦争は終わるかもしれない、しかし、次から次へと同種の戦争が起こってくるのではないか。今、人々は、そんなふうに考え始めているようです。」(小田、1968:7)

「アメリカの兵隊、自分の意志に反してベトナムに送られるアメリカの兵隊は、国家権力の被害者だと思います。少なくとも、自分自身は戦争に行きたくない、この戦争に加担したくない、と思いながら、戦争に連れ出される兵隊は、国家権力の被害者だと思います。しかし同時に、かれは戦場に送られた以上は、つまり、自分を被害者の立場においた以上、今度はベトナム人民に対しては、はっきりした加害者の位置に立ちます。この点でかれらが被害者であることと加害者であることは同義であります。
 このことは、[…]ナパーム弾の部分品を作っている日本の工場の工員の場合を考えてみる必要があると思います。
 かれは一方では、搾取される被害者であり、もう一方では、かれは自分が被害者であるというまさにそのことゆえに、ベトナム人民への加害者であることはまちがいのない事実です。つまりかれの作った部品が、ナパーム弾として完成されたとき、それは、かれが日本のベトナム戦争への加担に全面的に協力したことを意味しています。
 私たちはこうした被害者であると同時に加害者であるという微妙なメカニズムから、自分を切り離す必要があります。では、どうして切り離すか、たとえばアメリカの脱走兵の場合のように、そこから自分たちを切り離す、つまり脱走することで、ある程度そのことは可能です。私たちがアメリカの脱走兵を援助してきたことの目的の中には、この一つがあります。[…]しかし、アメリカの脱走兵の場合と違って、私たちの場合は脱走することはできない。それこそ私たちの多くの場合の状況なのですが、そのとき、私たちはいったいどうすればよいのか―――方法はただ一つだと思います。そのメカニズムを生み出した社会の構造そのものをたとえ時間がかかるにせよ、変えていくよりほかにないと思います。」(小田、1968:9−10)
◆戦争を補完している加害・被害のメカニズムから自らを切り離す行為としての「脱走」。戦争を止めるための「脱走」。よって支援が必要。しかし、「脱走」を支援することを通じて支援者自らが問われるのは「自分にとっての切り離す行為」とは何か?である。社会変革とはどこにも脱走できない自分の加害・被害のメカニズムと戦争の継続からの切り離し行為として位置づけられた。

「人民のための民主主義という美名に隠れて国家はさまざまな民主主義的制度と証するものを作り上げていきます。そのことによって、一種のいわば国家民主主義というものが形成されます。それに対抗して、私たちは人民の民主主義をもう一度作り上げなければならない。[…]民主主義は一種の国家的機関と化してしまっているようであります。[…]つまり反対運動も民主国家の見地から言って安全なかぎり、一つのアクセサリーとして置いていいと、そういうふうな考え方が、全世界的にあるようです。そういうふうな考え方を、私たちは変革していかなければならない。」(小田、1968:16−17)

「さまざまな領域からさまざまな「脱走兵」を連れ出すこと、つまり、軍隊ばかりでなく、たとえば、市民社会の国家民主主義によって足をすくわれてしまった市民社会の「機械」と化した機構、制度の中から人々を連れ出し、「脱走兵」と同じかたちで「人間」をつくりだすこと、こういうようなことを私たちは考えています。」(小田、1968:21)
◆制度化・機械化された民主主義・市民社会への異議申し立て=脱走。

「私たちはこうした被害者であると同時に加害者であるという微妙なメカニズムから、自分を切り離す必要があります。では、どうして切り離すか、たとえばアメリカの脱走兵の場合のように、そこから自分たちを切り離す、つまり脱走することで、ある程度そのことは可能です。私たちがアメリカの脱走兵を援助してきたことの目的の中には、この1つがあります。[…]私たちはいったいどうすればよいのか―――方法はただ1つだと思います。そのメカニズムを生み出した社会の構造そのものをたとえ時間がかかるにせよ、変えていくよりほかにないと思います」(10)

「具体的な行動によってのみ変革が可能になる、という思想であります。[…]革命の青写真を作って、あれこれと毎日朝から晩まで論議することで、千万言を費やすよりは、がんぜんの状況に対応する行動を組み立て、そのことによって変革の思想を表現する。あるいは、そのことによって青写真を作り出していく、そういう点において私たちは一致していると思います。」(10−11)

「現代世界の問題の同一性がここにあると思います。たとえば、黒人の問題は、私たち日本人にとってけっしてひとごとではありません。沖縄の場合を考えてみましょう。日本国憲法の権利の行使させできない沖縄の日本人は、明らかに、『第三世界』の人間ではないのか―――2年前に私たちは、アメリカから2人の人を招いて、日本中を講演旅行して歩きました。1人はハワード・ジンで白人ですが、もう1人は『SNCC』のラルフ・フェザーストンで、黒人です。2人は沖縄へ行きましたが、フェザーストンの沖縄における感想というのは、この沖縄にいる日本人は、アメリカ合衆国における自分たち黒人と同じではないか、そういう状況に置かれているのだと、つまりちゃんとした市民の地位を考えられていないと、そういう意味のことを述べたことがあります。
 現代世界の直接的な同一性というものを考える場合に、私が一番に思い浮かべるのは、沖縄の日本人とアメリカ合衆国内部における黒人であります。あるいは、沖縄の日本人ばかりでなく、よく考えてみると、安保条約の拘束下における日本人がすべて、多かれ少なかれ、そういう状況にいるのではないか。安保条約の拘束下で私たちは、沖縄の日本人、アメリカ合衆国の黒人と、多かれ少なかれ、いろいろな部分で共通しているのではないか、非常に悲劇的な部分で共通しているのではないか、と思います。[…]
 日本でナパーム弾の部品を作っている工場の労働者は、被害者である。搾取されることによって被害者であると同時に、まさにその点において加害者であることは前に述べました。」(13−14)


■市民的不服従の国際的連帯(鶴見俊輔の発言)27−38
・日米市民会議でディヴ・デリンジャーがフォートフッド・スリーによる兵役拒否の記録についてのパンフレットを持参。それを学び、文章を引用して兵役拒否を勧めるビラを作成した。イントレピッド四人の脱走はその後。(鶴見俊輔、1968:32)

「日本人はまた、日本の国家が朝鮮人に対して、この六〇年間加えてきた迫害と差別とを思い、戦後、沖縄在住の日本人を切り捨てることによって繁栄を楽しんできた、ということを考えなければ、アメリカにおける黒人問題の理解を深めるということはできないと思うんです。世界的規模での国家悪の連鎖を考えることなしに、私たちは、戦争の意味を考えることもできないし、根本的社会変革の意味を考えることもできないというふうに思います。」(鶴見俊輔、1968:36)
◆アメリカの中の黒人と日本の中の朝鮮人と「沖縄在住の日本人」との並列。マイノリティを視野に入れて根本的社会変革の意味を考える必要性。


■村岡五十次「職場の反戦闘争と根底からの変革」
「日本で一番大きな弾薬庫が北九州の小倉にあります。[…]6月11日―――貨車を日本ではじめて止めた―――米軍の弾薬輸送の貨車を12時間ストップさせたわけです。この闘争が呉からの弾薬輸送を、7月17日から1週間、さらにストップさせる闘争を導きました。」(59)


■直接民主主義をこえたSDS(堀内隆治の発言)
「本格的に体制に、ぶちあたっていくには、単に個人個人が意志と自覚と良心でもって現在、直接的な形で行動をやるだけではなくて、そこに一定の組織性がどうしても必要になってくるし、既成の政党なり組合なりを、組織的な立場でもって乗り越える必要があるでしょう。[…]自分の生活の場から、ある程度自己満足的に逃げ出して、それが直接的な形なのだ、そこに鶴見さんのことばで言えば、快楽がある、と言うことだけですまされているきらいがありはしないか。」(堀内、1968:66−67)


■個人としての自覚をもって生産点に戻れ(山本健治の発言)
「一つは個人としての運動、あるいは人間としての運動ということが、しばしば、強調されてきた。そうしたときにはたして個人としての立脚点、あるいは市民としての立脚点というのは、はたしてそのままで、われわれの言う、大きな闘争の勝利に近づきうるかどうかということについては、まず、第一点、問題があると思うのです。
 第二点目の問題として、[…]われわれは、少数派としての運動ということにとどまらないで、少なくとも、日本の七〇年の安保闘争というものに勝利するためには、あるいは、日本における佐藤政府を更迭させるためには、数百万の決起を、問題にせざるをえないということがあるわけです。」(山本、1968:77)

「実際に衆議院選挙において、社会党の敗北となって現れましたけれども、現在の議会制民主主義を通してさえ、われわれがいかにして革新的な平和勢力を議会に送り込むか、あるいはもっと徹底的な意味で労働者階級の直接的な行動を基礎にしつつも、われわれ自身の代表をもって国家権力をいかに掌握していくか、という問題を、やはり原則的に考えてみなければならないだろうと思うのです。」(山本、1968:79)
◆「大きな闘争の勝利」、「数百万の決起」、「国家権力の掌握」という大文字の勝利の言説によるベ平連への批判。ベ平連はいかなる「勝利」や「闘争」を描いているのか。社会変革を目指しながらも、ミクロな日常生活の延長線上にある変容を通じた運動である。しかし、そのことが生活保守主義的な流れを作ってしまうことも事実であった。社会変革と日常との接点探しの運動?日常からの国家批判。


■各地のベ平連から(もののべ・ながおきの発言)94−97
「ベトナムの戦争は日本人の戦争です。日本がベトナムになっております。日本人の学生が殺されております。沖縄の人たちはベトナム人殺しの練習のために使われて、殺されております。日本の農民は、ベトナムにアメリカの飛行機を飛ばすため、土地をどんどん取り上げられています。それに反対した農民が、頭をぶち割られて死んでいっております。ベトナムの戦争は日本の戦争です。
 われわれは、こういうことをわれわれに対してやる権力に対抗して戦うこと、権力がわれわれに強制するとき、この強制に従わないこと、これは喜びだと思うんです。権力に強制されるということは、自由の理念に反するんで、人間にとって苦痛なんです。一つでも従わないで済んだということは、これは喜びなんです。帝国主義がすっかりなくなってしまわなければ、われわれは永遠に勝てないというお考えもありますけれども、私はそうは思いません。われわれはここで戦っているかぎり、一日一日勝っていくんだと思います。」(もののべ、1968:95−96)

「権力に敗けないんです。われわれは、毎日毎日勝っているんです。これが、ぼくはベトナム反戦に関連するかぎりの変革の精神だと思います。何か論理と情熱と半分足して二つに割ったようですが」(もののべ、1968:97)
◆日常化された権力・強制力に気づくこと、従わないこと、それが喜びであり一つの勝利ではないか、という運動観・闘争観のポジティブさ。運動と目標が、国家権力掌握や決起という一点に集中せず、権力の全面化に伴い抵抗も全面化しうることを受け止める、拡げていくような可能性。ここも、あそこも、私も、あなたも抵抗者なのだ、というような発言。


■石田郁夫「生産点でと街頭でとの二者択一を踏み越えよう」
「われわれは確かに1つの職場から街頭に出て行って弾薬庫や貨車の前にすわり込んだ。すわり込んだけれども、職場に帰ってみれば、そういう電報など具体的な自分の労働の過程の中で、やはり今の体制を擁護し、今のベトナムに参戦する体制そのものを擁護する労働をしている、というところに逢着し、そういう認識にたどり着いたところで、どういう形でやっていったらいいかという形で問題点が出てきた、[…]行動によってそこまで認識された、その問題に逢着された、ということは、非常に大変なことなんです。言ってみればあたりまえみたいなことですが、しかしあたりまえの段階に逢着したということが大変重要なんではないかと考えたいのです。」(99)


■小中陽太郎「変革の新しいにない手はすでに生まれた」
「その変革とは何かということをあえて言ってしまえば、各地域で各人がほとんど中央とも関係なく、とにかく直接的に行動していく。沖縄ではベ平連が大すわり込みを敢行したといわれていますが、あれは嘘であります。つまりどういう点が嘘かといえばそのときの中心だった金井佳子さんもここにきていらっしゃるけれども、ベ平連は10人くらいしかいなかったわけです。それをささえたのは、何といっても沖縄の県民自身がすわったから、あれだけ大きくなったわけです。ベ平連全員が移動したわけではない。その起爆力としての力はものすごいものですが、それは沖縄でそういう運動が起こったからです。」(105)


■七〇年安保闘争の焦点(いいだ・ももの発言)115−126
・「反戦と変革」は「反戦/変革」でもなく、「反戦=変革」でもない。
「反戦と変革とをまるっきり切断する立場に立っているならば、その「平和」は帝国主義構造の再安定のなかにすっぽり吸収されていってしまうということになるでしょう。」(いいだ・もも、1968:116−117)

「私たちは、帝国主義があるかぎり侵略戦争の根源がなくならないことを充分に承知しておりますが、そのことは即時的に、帝国主義があるかぎりベトナム侵略戦争は終らないということではありません。「帝国主義の万年戦争」という考えは、観念の遊戯以上のものではありません。帝国主義的戦争があるように帝国主義的平和というものもまたあるのであり、であればこそ「ベトナム以降」をもはらんでいるので「ベトナム以降」において帝国主義的平和に再吸収されてしまわない私たちの行動のバネを鍛え上げておく問題として「反戦と変革」の問題が突き出されているわけであります。」(いいだ・もも、1968:117−118)

◆ベトナム戦争に反対することが出発点ではあるが、ベトナム戦争が無い状態=平和、と捉えることで、構造的暴力を内在化した「帝国主義構造の再安定」にからめとられてしまう可能性を指摘している。だからこそ、変革が求められる。ベ平連内部では、同じ変革ということであっても、「変革を通じたベトナム戦争の終結」を目指すことで満足する人たちと、戦争が終結したとしても「構造的暴力を内在化した」システム自体を変革し続けなければならないということを視野に入れている人たちとがいたのではないか。

「『ベトナム以降』において帝国主義的平和に再吸収されてしまわない私たちの行動のバネを鍛え上げておく問題として『反戦と変革』の問題が突き出されているわけであります。以上『反戦と変革』を『反戦―変革』でも『反戦=変革』でもないという、両方のおさえ方から説明してみたわけですが、繰り返して申し上げますと、このような『と』は、私たちのベトナム反戦の行動そのものの中から内在的にはらまれてきたわけです。たとえば、最近における九大ファントム事故、山田弾薬庫、板付基地、嘉手納B52、王子野戦病院、米軍ガソリンタンカー等々、どの問題1つ取っても、それは私たちにいやおうなしに、日米安保条約と沖縄分離支配があればこそ、ベトナム侵略戦争加担が現実に可能にされているのだ、ということを実際教育しているのです。『安保』と『沖縄』がなければベトナム戦争もないのだ、ということさえできます。私たちは、反戦行動の中からこのような日本帝国主義の構造をつかみとり、そこから70年の課題を引き出しつつあります。」(118)

「『日米共同責任時代』とは、なによりも、沖縄を足だまりとしてベトナム戦争を本格化することへの『責任あるパートナー』佐藤政府のOKであった、ということです。[…]佐藤栄作は日本の首相として戦後はじめて沖縄訪問をやるわけですが、その際の有名なキャッチフレーズ―――沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとって戦後は終らない―――はこの共同謀議とワンセットのものであり、またそこから出されてきた『本土沖縄一体化』政策とワンセットのものであるわけです。このような歴史的事情は、沖縄祖国復帰運動・沖縄返還運動が、少なくとも65年以降においては超階級的ナショナリズムの立場によってはもはや前進することができず、ベトナム反戦、反基地の運動と結び付き、それを本質的契機として取り込むことによってのみ発展する新しい質を持ちはじめざるをえないことを、物語っています。
 現に佐藤首相が訪問したこの夏には、沖縄コザにおいて、ベトナム行きを拒否して軍法会議にかけられた米軍中尉を支援する英文ビラが、現地学生たちによってまかれています。つまり、沖縄戦争の局面は、根本的に、日米帝国主義者の共同責任・共同管理・共同防衛、それに基づく日本帝国主義者の『返還ナショナリズム』に対して日米両国人民の連帯闘争をも含むインターナショナリズムの立場を要求するものとなったのであり、そのようなものとして反戦、反安保闘争と不可分のものとなったと言えます。」(120-121)

「70年に向かって私たちは沖縄をはじめとする反戦、反安保の現地の闘争が戦いの出発点であり、その大衆的爆発の集約的な結果が安保条約破棄、平和条約第3条破棄であるだろうことをすでにつかみとっています。[…]この会議でともに討論している仲間は同時に8月16日に行われる嘉手納基地に対する抗議行動に参加する仲間であるし、8月22日に東京晴海埠頭で渡航制限撤廃を戦う仲間であります。われわれは9月にはさらに軍事輸送拒否の闘争を繰り広げながら10・21の闘争に進んで行くでありましょう。その一歩一歩が70年闘争を勝利に導く反戦・反安保・沖縄奪還の大衆的な勢力を形成していく道筋となるでしょう。」(126)


■五味正彦「渡航制限の撤廃を!」
「沖縄なくしてはベトナム人民の抑圧は考えられない、あるいは70年代、アジア安保あるいは核安保と呼ばれているその安保のキー・ストーンがまさしく沖縄であるわけです。その沖縄を考えなくては安保粉砕を叫ぶことは、まったくできないのだという認識の中で、ぼくは本土に在留している沖縄の学生の闘争委員会の呼びかけに応えて『8月沖縄闘争実行委員会』に参加しました。」(128)

「現在、8月沖縄闘争実行委員会は、沖縄闘争を戦っていくあらゆる戦う組織、団体、グループ、個人によって構成されています。その共通の目的は2つあります。1つは沖縄基地撤去です。具体的には本土における基地撤去闘争と結びつけた嘉手納基地正門ゲート前における撤去闘争、第2には沖縄の人たちの戦いと本土の戦いを政府が意識的に分断する、その具体的な政策のあらわれである沖縄渡航制限の撤廃。具体的には本土から沖縄に行く、あるいは沖縄から本土に来る際、同じ日本人民でありながら、日本人であることの証明が必要であるし、あるいは他の外国に行く時と同じ手続きを必要とするので、戦う人たちの興隆、あるいは現地に行ってその実情を見るということがいろいろな形で妨げられている、この渡航制限を撤廃していく闘争を組んでいこうと思っています。[…]この会議に参加しているすべての本土の代表、またできるかぎり多くの外国代表、特にアメリカの代表がこの会議が終って8月16日の嘉手納基地正門ゲート前闘争に参加することを呼びかけたい。
 われわれ本土の代表、そして沖縄の琉球大学を中心とした学生、あるいは沖縄ベ平連によってはじめて戦われた5月2日の嘉手納基地正門ゲート前闘争において、カービン銃を持った武装米兵が登場してきたのです。これはわれわれに、アメリカ権力にとって沖縄の各基地がいかに重要なものかということを知らせたものです。8月16日に嘉手納基地ゲート前闘争をする部隊は、8月20日那覇から船に乗って、22日の10時に晴海埠頭に帰って来ます。船内においてかれらの意思を表明し、そして渡航手続きの拒否を戦いながら帰って来ます。われわれは、22日1人でも多くかれらを晴海に迎えて、今後の沖縄と本土の思想あるいは行動はけっして分断されてはいけないのだ、ということを、直接民主主義によって具体的にあらわすことなんだと思います。」(128)


■真の復帰を求めるための復帰の拒否(中宗根邦光の発言)
1968年5月嘉手納基地突入
「このような東京ベ平連の基地突入といったような行動提起は、巨大な軍事基地のはしに押しやられて生きている沖縄のぼくたちにとって、強烈な無力感におそわれているぼくたちにとって、いまさら何ができるかといったふうな非常に否定的な現実がありましたが、結局は「じゃあ、やってみよう」というわけで、原水協、琉大反戦会議、沖大反戦会議などの民主団体と呼応して突入を試みました。われわれがちょうど嘉手納基地のゲート前に到着したときに米兵は、50名程度だったとおぼえていますが、私たちの前でカービン銃を持って完全武装し、まるでベトナムの状況が私たちの前に繰り広げられたように見えました。それから私たちはやがて突入というわけで、ほんとうに死を賭けた戦いでした。」(129−130)

「ただ基地突入だけでなく、安保公害と言われるいろいろな問題についても、戦っていくさまざまな方法論が出されてもいいと思っています。」(130)

「われわれは、もはや日本に復帰したいとは考えておりません。今、佐藤総理が沖縄との一体化を唱えていますが、いいださんからもお話がありましたように、このような欺瞞、つまり一体化政策を私たちは拒否します。私たちにとって日本に復帰するという心情的ナショナリズムは、もはやありません。まあこれは、私たちというよりぼくなんですが。今の沖縄には、現実よりももっと日本の祖国を美化した形で、日本に帰ればなんとかなる、日本に帰れば平和が訪れる、といったふうな幻想を抱いている沖縄の人たちがいることもまぎれもない事実であります。」(130)

「復帰を拒否し、一体化を拒否し、真の連帯を強める意味で、真の人間的な意味で復帰したいと思います。ですから私たちは、真の復帰がしたいために復帰を拒否するというパラドックスを理解してほしいと思うわけです。真の日本人、あるいは日本人というべきではない真の人間的な連帯。ほんとうに平和を希求し、ほんとうに戦争を恨み、ほんとうに自分の命を大切にする人間と、真の友人、真の同胞者としての私たちの連帯はあるのだと思います。それは日本の国民に限らず、支配されているものの国境を越えた平和を願う連帯としてわれわれの戦いはなされなければいけないと考えます。」(131)

「嘉手納基地の闘争のとき東京ベ平連とともに、“We shall overcome”を歌いました。向こうの米兵、その人は黒人でしたけれども、われわれに最初は意気高らかにカービン銃を突きつけていました。しかしわれわれが“ウイ・シャル・オーバーカム”を歌ったとき、黒人のかたも私たちにすごい親近感というのか、かれらの、道をへだてた向こうの黒人の内部に住む世界というものをぼくたちは見たような気がします。私はロマンティックなことを言っているわけではありません。このような真の意味での第3世界の共通性というものを私たちは確認し合いながら、連帯して戦う必要があると思います。」(131)


■島好雄「ナショナリズムの延長上に沖縄の復帰を考えまい」
「いままでの運動は沖縄の歴史を反映してか『母のもとに帰るんだ。』という、きわめて心情的な面があるのではないかと考えます。そこには、本土の人の『引き取ってやるんだ』という心情とまったく同じ方向に流れる恐れもあるのではないか」(140)

「ベトナムと沖縄を結び付け、あらゆる世界の情勢に対して関わり合いを持つんだという、学生運動の1つの現われとしての基地突入だったと思います。沖縄では、いわゆる復帰運動なるものが、まだまだベトナム戦争と関連させるところまではいっていないと私は思います。」(141)


■石田郁夫「沖縄問題をさまざまな党派の連合で戦いうる運動を」
「ぼくは嘉手納基地におけるすわり込みは非常に大変な戦いであったし、同時に、こんど組まれる旅券の闘争も非常に大変な戦いであると思いますけれど(これらの戦いは闘争の質を低めるという意味で言っているのでは全然ないのですけれど)、そういう一面だけでは、いずれにせよ、戦闘的な啓蒙の段階を抜け出せないということも事実だ、というふうに考えるわけです。」(144)

「沖縄の労働者階級が積み上げてきた諸権利を獲得する闘争、それから農民の人たちが戦い続けてきた闘争、それらの総体のもっとも簡明な現われとして復帰運動がある。1つの島ぐるみの闘争が存在するというふうに考えるわけです。ですから、けっして、いままでの話をされたかたたちが、復帰運動について軽く見ているというわけではないし、復帰運動の1面の限界を強調することは絶えず必要であり、それから復帰運動がいままで持つことができなかった、ちょっと欠けていた部分の闘争をやることは非常に重要だと思いますけれども、同時に、本土復帰の闘争についてのわれわれの問題意識を今述べた点まで到達させることが必要ではないかと考えております。」(145)


■村岡五十次「70年安保は基地に対する積極的抗議として計画する」
「沖縄を奪還するためによく言われること、それは沖縄の人たちによってだけでなく、日本のあらゆるところに住んでいるわれわれが一緒に戦わなければいけないということでしょう。しかしながら北海道の端っこのほうに住んでいる人たちが沖縄までわざわざ出かけて行って、嘉手納基地やいろいろな基地の前にすわるということは、現実的にできることではないと思います。日本に住むすべての人にとっての沖縄問題というならば、日本のあらゆるところに住んでいる人たちがその問題をどう考え、またそれをどういうふうにして1人1人の行動に現わしていくかという問題となってきます。そして午前中発言があったように、今のままで日本に帰って行くのは絶対にいやだ、そういう声が沖縄の中にたくさん出ている。そうするとわれわれとしては、沖縄以外のところに住んでいる日本の人民としては、現在の日米安全保障条約を破棄しなければならない、そういう戦いを組むことではないかと考えます。」(163−164)

「安保条約に反対する、ないしはそれをとっぱらってしまう戦いは、[…]どこに焦点が向けられるか。すなわち日本国内にたくさんある米軍のすべての空軍基地、あるいは海軍基地、レーダーサイト、そういう所だと思います。あるいはぼくらが戦っている弾薬庫でもあると思います。すべての基地に対する戦いとしてわれわれ自身は沖縄奪還闘争をまた70年安保闘争を戦っていかなければならない。」(164)

「反戦闘争という形だけではなく、同時に自分の全生活、全存在をかけたところで問いうるような戦いの形をぼくらが今、作っていかなければならないと考えるわけです。[…]結論を言いますと、日本全土を現地にするという形としての基地に対する闘争を攻撃的な、基地機能マヒという形で展開していきたい。それをここにお集まりの日本のすべての反戦運動を行われている人たちに訴えたいと思います。」(165)


■松本礼二「共同声明の提案」
「心の中での支持とか、ことばでの支持ではなくして、具体的に、たとえばアメリカの黒人の人たちの戦いに対しては、その戦いと同じ質の戦いを私どもの具体的な場から行うことによってのみ、連帯があるのだということを私どもは理解をしています。」(252)


■山根真一
「この渡航制限の制度に対して、ぼくは激しい怒りを持っています。
 そこで、この渡航制限そのものに対し、みずからの直接行動で、粉砕したいと思っています。つまり、身分証明書の手続きをしないで、自分たちで船をチャーターし、沖縄へ渡りたいと思います(拍手)。ぼくたち湘南ベ平連には、クルーザー型のヨットが一隻あります(拍手)。もし、技術的に、ヨットで沖縄へ渡ることが困難であるならば、漁船なり、あるいは100トンクラスの船なり、モーターを付けた船で渡りたいと思います。ぼくたちの湘南ベ平連には100トンクラスの船を運転できる、免許を持った人もいます。
 それで、渡航制限に対する、いわば直接行動をこれから準備し、組織していきたいと思います。[…]ぼくたちは神奈川県にたくさんの米軍基地があることを知っています。そして特に根岸の野戦病院と、電波障害で問題になっている上瀬谷の通信基地撤去に対して、小田さんの提案した、すわり込み闘争を神奈川県において展開することを、みなさんにお知らせすると共に、さらに多くの人たちの参加を要請します(拍手)。」(254)


■北小路敏「晴海埠頭での手続き拒否の運動を支援しよう」
「8月22日に東京の晴海ふ頭で、沖縄と本土の間の入域手続きを拒否する戦いが盛り上がろうとしています。
 ご承知のとおり、日本の本土には沖縄から、多数の学生が大学に来ております。この学生諸君の中には、全学連の積極的な活動家もたくさんいるわけでありますが、ご承知のとおり、その中の3人の学生が、今年の春、東京から沖縄の郷里に帰ります際に、那覇の港で入域手続きを拒否いたしました。同じ日本の中を行き来するのに、パスポートに準ずる身分証明書なんか不要である。こういう闘争をやりまして、これは沖縄の現地では非常に大きな問題になり、日本の本土ではマスコミにかなり黙殺される形で扱われましたが、しかし、この問題の重要性を私たちに認識させるきっかけとなりました。続いて、この7月に豊田の市会議員の渡久地さんという人がおりますが、この人の郷里は沖縄であります。国のお墓参りに行って、飛行機で羽田へ帰って来ました。羽田でやはり身分証明書の提示を拒否いたしまして、この学生たちの行動に続いたわけであります。
 そして、今、本土に在学しております沖縄の学生のうちの約30名が、さらにこれを上回る大きな戦いを計画しております。かれらは7月の末に鹿児島から船で那覇に着きました。その際にも、数時間にわたって那覇の港で船上大会を開き、デモを行ない、入域手続きに反対であるという戦いをやりました。
 3月の場合には徹底的にやったので、逮捕されて罰金を課されましたが、7月末の場合には全員逮捕されてしまうと、その後の闘いができないので、いったん中途で打ち切ったわけですがそれを上回る戦いの続きを8月22日に晴海埠頭でやる計画が進んでいます。
 20日那覇を出るひめゆり丸という船に30人の学生が乗りまして、全員ヘルメットを着用し、船内デモを行い、乗客と一緒に船内で集会を開き、あるいは羽田以来の戦いのスライドを上映する。いわば、ひめゆり丸を学生たちと乗客で管理するような戦いを繰り広げながら(拍手)22日の正午に東京の晴海埠頭に着く予定です。
 学生たちは集団をなして、入域手続を拒否する戦いを徹底的に展開するという覚悟を固めております。これに対して、本土の全学連はもちろんでありますが、ベ平連の人たちを含めて、すでに支援体制が組まれつつありまして、本土の私たちが、晴海埠頭に、この学生たちを出迎えに出て、税関の内側と外側と相呼応して、30人の学生を奪い返す。入域手続の拒否を貫徹する。この戦いを打ち上げたいと思います(拍手)。」(272-273)


■小田実「平和のためにあらゆる行動を進めよう」
「8月22日、沖縄への渡航手続きに関し、手続き拒否をやれということ、それを大いに支持します。私たちも晴海へ行きます。みなさんも一緒に行きましょう。」(280)


■金東希と政治亡命(塩沢由典の発言)179−185
「韓国は、ご存知のように反響を国是としています。人民の中に抑圧の防諜網、つまりスパイ網を張りめぐらせています。そういう韓国で、脱走兵の金東希が一ヵ月半すごす隙間があった、ということに注目したいんです。こういう隙間を、たえず無意識的に作り出している民衆の行動について考えてみたい。「イントレピッドの四人」やその後の脱走兵も、やはり同じような隙間を通って、日本を抜け出したと思うんです。それは権力にとって空白の空間だろうと思われます。しかしそれは私たちにとっては一つの充実した空間、私たちが住みうる空間だと思うのです。」(塩沢、1968:179)

「「亡命の思想」は「国家を越える原理」の存在思想だと思います。これを私たちの日常性の中で組み直し、運動の中に確立していくことが必要です。そして最終的には、別の国家に脱走兵をまかせるのではなく、かくまってもらうのではなく、一つの個人を守る立場を、守る場所を考えていかなくてはならいのではないか。「亡命の思想」が「国家を越える原理」の存在主張であるならば、亡命する人が他の国家に頼らなくてはならないというのは、論理的な矛盾です。ですから国家に頼らずに、亡命者をかこっていくような空間を作る必要があるんではないか。そのためには脱走兵の通っていった民衆の中にある隙間に注目して、そこを拡げていかなければならないと思います。そこに一つの陣地を確保しなければならないと思います。」(塩沢、1968:185)

◆脱走兵を自由な国にかくまってもらうのではなく、脱走兵が国家から自立した空間において自由に生活できることを目指すべきではないか、という問題提起。既にある「人民の間の隙間」を広げていく運動としての脱走兵支援運動。脱走兵の不自由さは、警察や機動隊に鎮圧される「私たち」の不自由さと管理状態とも通底する、国家による空間と主体の管理、という問題圏である。


■「脱走兵援助活動について」(小中陽太郎の発言)186−197
・運動の有効性
「現実にアメリカで戦っている兵士の中から脱走兵が出るということは、それだけ兵士の数が減り、それから戦意が低下する。そして日本の保養基地としての役割りを失わしめることになります。[…]これは一つの軍への挑戦であり、軍隊というものへの挑戦であって、現実に私たちは武器を持って戦うわけにはいかないけれど、角棒を持って戦うのと同じくらいの直接的、現実的な運動であると確認しております。」(小中、1968:191)

・日本の特殊性:攻撃基地であり、保養基地である日本。
「攻撃基地となり、かつまたレクリエーションの場となっていることを、われわれがつぶしてしまう、日本に来たら全部脱走させてしまうということにより、私たちは、日本の置かれた悲しい特殊性を、もっとも強力な武器とすることができるだろうと思います。」(小中、1968:192)


■GIにとっての脱走の問題(ジェフリー・シャーレットの発言)198−201
・フィリピン2年、ベトナムで3年間服役。ベトナムGI委員会の書記長。
・アメリカの反戦運動においてGIが参加していくのは1967年頃の新しい現象。第一にGIが戦争の経験を実際にしていること。そして戦争の矛盾が明らかになりつつあること。
「自分たちが傷つき、死ななくてはならない比率がどんどん増加していると。そして自分たちにとって愚かで正当でないと思われる戦争のために、戦わなくてはならないことは悲劇的なことであります。自分たちがよく知らない理由のために死ななくてはならないということは非常に苦しい心理的重圧を与えます。多数のアメリカの反戦グループたちは、今アメリカ兵たちと協力して働きかけております。」(シャーレット、1968:198)


■脱走兵自身による反戦活動(小田実の発言)202−203
・スウェーデンには西ドイツ、アメリカ、日本から来た脱走兵が80人〜100人。スウェーデンの法律によって「人道的亡命者」として扱われる。生活保障(部屋代のほかに食費として一週間に120クローネ=二十数ドル。充分食べていける金額)、社会保障(勉強のための設備など)を受けられる。ある者は「難民パスポート」というものをもらっており、NATO所属国以外であれば旅行ができる可能性。(小田、1968:202)

■脱走兵の法律学(ケネス・クロークの発言)213−219
(1)軍隊内での反戦の選択
・合法的な軍務の拒否、人身保護令による保護
除隊と離隊の16の理由:@経済的、その他の理由による困難(本人が働かないと食べて行けない年老いた両親がいるなど)。A宗教的その他の理由による良心的兵役拒否。B同性愛。C軍人としての不適格や能力の欠如。
・軍務地の変更(同情的理由(家族の病気など)による勤務の変更)
・軍隊内の反戦を組織すること
・牢屋に行くこと=上官の合法的な命令を拒否すること
・脱走:@脱走。AAWOL(Absence Without Leave)=休暇の許可なく軍隊を離れること。

(2)脱走とは
・「合衆国の軍隊に属する兵士が正式の許可なくして、その隊を離れ、もしくはその勤務地を離れる、そしてこうした行動を危険な任務を逃れるために、もしくは永久に軍隊に帰ってこない、そういう意図をもって行った場合」を指す(クローク、1968:214)
・用件:
@許可なくして勤務もしくは隊を離れること。
A勤務もしくは隊に永久に戻らない意図(制服を完全に廃棄したか、「大変離れた土地に行くための片道の切符を買ったかどうか」(クローク、1968:215)、基地の近くにいながら何の報告もしない、軍隊内部の友人・兵士に脱走するというステートメントを残したか、脱走に役立つような私服・金を兵営内部で盗んだか、禁固刑その他の刑に服していて逃げた場合)。
・戦時下における軍法上の脱走罪の最大の刑は死刑。しかし死刑に処された例はあまり多くない。実際は不名誉な理由による除隊の刑(すべての俸給を没収され、五年間の重労働に服する)。
・脱走兵逮捕の方法:朝の点呼で確認⇒29日経つと脱走兵としてワシントンの軍隊諜報部に報告される(身元に関するファイル(201ファイル)を添える)。軍隊諜報部は本人顔写真を付した書類形式553をすべての軍隊、民間警察、そして日本の警察などにも配布する。また両親、友人、教師などへの脱走の通告。

(3)AWOLについて
・用件:@命令された時間に命令された地域に行っていない。A命令された地点から許可無く離れる。B命令された地点から軍務に戻らず、離れっぱなしに成る。

(4)刑罰
・一般軍法裁判(General Court Marshal):最大の罪は「不名誉の罪の除隊」または五年以下の禁固刑、軍隊内部15条の罪(微罪)。正式な裁判と認められていないため、弁護士を呼ぶ権利も与えられていない。刑を拒否する場合、さらに重い軍法裁判にまわすことが可能。

(5)その他
・脱走兵の家族にくだされる刑罰はない。ただし脱走兵を助け、奨励している場合は刑罰の対象となる。一方、社会的制裁=村八分の状態が想定される。(クローク、1968:219)
・軍は兵士の手紙を監督・検閲する権利が与えられている(クローク、1968:220)。CID(Criminal Investigation Division of Army=軍隊犯罪調査隊)が兵士の調査を担当。
・中立国は脱走兵を逮捕しても交戦国に渡すことを禁ずる陸軍に関する国際条約がある。しかし、条約などで逮捕・引渡しの義務を持つことになっていれば別。日米安保条約の補足協定では、日本政府は米国の軍体内警察によって要請された場合は、逮捕、米国軍隊への引渡しの義務を持っている。(クローク、1968:221)⇒「私はこの問題を考えるとき、われわれがどういう行動をいかにとるべきかは非常に簡単だと思います。安保粉砕であります」(クローク、1968:221)


■おわりに
・3日間の出席者:日本219名、外国からは5カ国256名。3日間通して傍聴者は67名、最終日のみは157名。

■自分の解放のために戦いを進めよ―――閉会の辞―――(田守順子の発言)295−299
「デモの中で機動隊と対峙することによって、私の頭の中で、漠然としていた、民主主義と自称している国家権力の実態を見たような気がしました。
 アメリカ大使館のまわりを、ぐるりと日本の警官隊が守っている、そして、私たちに攻撃の手を向けている。砂川や、板付の基地の中を、王子野戦病院の中を、機動隊が、自由に走り回っている。そこは日本ではなく、アメリカの土地なんだときめたのは、かれら政府なのであるのに。
 ベトナムは解放されなければならないと思います。日本も、もちろんです。そして、私自身が解放されなければならないと思います」(田守、1968:297)


■井上澄夫・小田実・北沢恒彦・小中陽太郎・高橋武智・田守順子・鶴見俊輔・鶴見良行・福富節男・古山洋三・武藤一羊・吉川勇一「【座談会】デモ・沖縄・日本人兵・ベ平連――京都会議後のベ平連の活動と展望」(302-332)

高橋「『朝日ジャーナル』(9月1日号)や『世界』(10月号)などで出されている批判は、ベ平連の運動が沖縄現地との連帯を欠いていたものだということでした。勝手に本土からやって来て、独走して、勝手に引き上げて行ったという批判です。だがこの闘争が現地では非常な支持を得ているし、よくやってくれたという感じで受け取られているそうです。先日の社会党大会に出席するため上京された沖縄社会党委員長の宮良寛才氏に会って聞いたんですが、住民の間にはベ平連のあのグループに対するなんらの反感もない、反感どころか、大きな共感が生まれてるということです。問題が起こったのは、既成の組織の一部幹部、特に本土から原水禁大会のために沖縄に行っていた既成大組織や政党の幹部、それと、その締めつけの下にある沖縄の組織、そういったものとの間のトラブルなんですね。ジャーナルの記事にしても、その辺の意見をもとにして書かれたものなんです。
 われわれの側の反省としては、準備討論の不足による見通しの若干のアイマイさですね。そのため本土の既成組織幹部による、現地警察との取り引きのレールの上に乗せられるという結果を生んだのだと思います。われわれを現地の諸組織との間をつなぐ沖縄ベ平連との連絡も悪かった点がありますね。現地の運動との連絡は大事です。これとの連帯は重視しなければならない。ならないけれども、しかし、いつでも現地のいう通りに従わなければならないというわけではないのであって、むしろ、われわれとしては、われわれ独自の目標なり、性格なりをハッキリもっている必要があるんで、その点が不徹底であったために、逆に収拾の段階で既成組織幹部のペースに乗せられてしまった嫌いがあると思います。
 それからもう1つ問題点があります。あのような逮捕、送検、強制退去命令……といった緊迫した状況のもとでは個人原理だけでいいものかどうかという問題ですね。もちろん運動を支える根本は1人1人の自覚であり、決意であるわけで、たとえ自分1人であろうと、あるいは弁護士が何と言おうと、なおかつ自分で頑張るという決断がなけりゃいかんというのはその通りでしょう。だけど、ああいう緊迫した状況や、現地の諸組織との問題が起きているような場合には、そうした個人の行動をささえられるような、組織というか、組織といわないまでも、態勢ですね、そういう態勢を整える必要があるでしょうね。」(312-313)

高橋「ぼくたちにとって沖縄現地の状況を身体で直接体験したということは非常に重要ですし、一方沖縄の人々にとっては、あの行動を通じて、特に退去命令が出されて以降の闘争の中で、米軍の権力と、琉球政府の権力という、その2重権力の構造がバクロされた点は、非常に重要だと思いますね。」(313−314)

小中「現地の組織の意見をすべて絶対視して、いつでもそれに無条件で従わなきゃならんという原則はないと思うんですね。[…]ところが、沖縄というと、そこだけ特別扱いになって、現地の意見とか感情というのを絶対視してしまうのはおかしいですよ。現地感情、現地感情という、こういう『ジャーナル』の記事のほうが、逆に沖縄を特別視し、差別している現われだと思う。沖縄はぼくらの問題なんで、ぼくらはぼくら地震の考えで行動するんです。沖縄だけ、特別にまわりの意見に従わなきゃならない、というのは、かえって他人事として沖縄と捉えることになると思いますね。」(314)

小田「その通りだな。沖縄問題というと、本土の人間は沖縄を自らの内なる問題として捉えていないとか、沖縄の人々に対する本土の人間の罪の意識を自覚してるか、とか、そういう精神論みたいな議論があまりに多すぎるな。そうすると、運動は内へ内へとばかり向かって小さくなってしまうと思うんですね。もちろん、沖縄の政治情勢が、長野県や神奈川県と違うのは当然だけど、いつもいつもそんな議論ばっかりやてるのはおかしいと思うね。[…]」(314)

武藤「[…]ウンと極端にするとだけれど、たとえば羽田から佐藤が南ベトナムに飛び立っていくという時に、羽田の住民の意見をまず第1にして、そして羽田の周辺の住民全体との共同行動をしなきゃならんということになる。だけど、そんなことできやしないよ。沖縄をそれと同一視するわけじゃないけどね。とかく沖縄問題となると、反省ばかりが多すぎるよ。」(314)

小中「ある行動が沖縄解放のためにどう役立ったかということを判断の基準にするんじゃなくて、それが現地でどう受け取られたかだけを価値判断の基準にするこの『ジャーナル』の記事の筆者の立場は間違ってるね。」(314)

鶴見(俊)「現地の感情とか原体験だけを絶対視するやりかたを極端につきつめてゆくと、戦死した人間以外は戦争を語る資格がない、ということになっちゃって実に困るんだね。だれも語れないんだよ(笑い)。つまり、戦争を起こす人間にとっては一番都合のいい状況が生み出されちゃうんだ。」(314)

小田「よく沖縄の地位がアメリカの黒人のおかれている立場と比較されますね。しかし、これは似ている面と全然似ていないところがあるんだ。似てる面というのは、日本の中の沖縄のおかれている状況、政治的状況で、それをアメリカの黒人が見て、そこに自分たちのおかれている立場と同質のあるものを発見する―――そういったことは確かにあると思う。しかし似てない面も大きい。たとえば、本土の人間と沖縄の県民との間には、アメリカの白人と黒人の間にあるあの激しい対立なんかはない。はじめっからそんなものはない。だから、黒人の運動について、アメリカの白人の進歩的運動家が口をはさんだり、批判したりする権利はないっていうような事情は、沖縄闘争に関してはあてはまらないんだな。大いに議論し合い、批判し合ったらいいと思う。むしろ、この夏の場合、そういう事前の議論のし合いができなかったことが問題なんだと思う。」(315)

鶴見(良)「この夏の運動のように、3日間続く国際的な大会議をやって、しかも引き続いて沖縄闘争――それもかなり大変な闘争に取り組む、そういうことが、ベ平連のような不定形の組織原理――だれもが、その場で自由に運動に参加できるんだというようなやり方のままで無理なくできるんだろうか。はっきりいうと、不定形の組織論理を残すんだとすると、夏の闘争は重すぎたんじゃないかと思う」(315)「だから、事前の論議をすれば、完全だったんだ、というような単純なことじゃない気がする。」(316)

小田「それには2つの考え方がある。1つは下からちゃんと積み上げて、いろんなあり得べきことをすべて考えて、それからやるというやり方があるね。これはいわば議会制民主主義的やり方だよ。もう1つはハップニング劇だという批判があったけど、ぼくはこのハップニング的やり方というのは悪いことじゃないと思うんだ。これは直接民主主義的やり方といえる。この直接というのは2つあって、1つは物、あるいは問題に対して直接ということと、もう1つは時間的に直接ということがあって、ある状況が起こった時に、臨機にそれに対応するということですね。そうすると、そういうある限られた範囲内でやれることというのは限られてくるね。ゆっくりと下から考えて積み上げるやり方はあるが、大変だし、時間がかかる。だけど、個人的レベルですぐワーッとやるというやり方が必要なんだと思う。8月の沖縄の闘争は、この後者の場合が極端な形で出たんだと思うけれど、しかし、あれは長期的に見た場合、けっしてマイナスじゃない。だから、ぼくはハップニングというのは大事だと思うんだな。直接民主主義ということの中には、このハップニング的な要素が含まれていると思う。」(316)

吉川「国際会議をやって、続けて沖縄に行くなんて計画は、半年以上前から出ていたことなんで、会議が終った時、その時はじめて状況に対応して突如沖縄に行こうとしたというようなハップニングじゃない。これはわれわれのやはり準備不足の問題ですよ。そして、その時にならなきゃなかなか動かん、前々からゆっくり討論するなんてことはあまりやらない、というのは、直接民主主義の問題なんかじゃなくて、われわれの一種の性質というか、体質なんで、やっぱり半年前から議論していりゃ、ある程度うまくできたと思うんですよ。それはこれから改めるべき点ですよ。」(317)

武藤「ある程度のミニマムの組織化ということがあって、それが、全体としては組織でなく運動であるという原則を害せずに進むうる限度があるだろう。今、われわれはその限界にきているのか、どうか、という問題にしないといけないと思う。」(317)

鶴見(良)「沖縄ベ平連から出ている強い批判にはだね、たとえば、沖縄ベ平連は、沖縄原水協、それと革マル系の琉大学生会、この2つの勢力を結び付けようと、その間に立ってかなりの努力をしてるんだね。ところが、あの逮捕事件以降の過程をみると、本土から行ったベ平連グループは、この辺の事情の統一した理解にまったく欠けていたわけですよ。しかしこの統一した理解をどうすれば持てるかといえば、もっと出かけていくグループが、たとえばセミナーとか討論集会をやるとかしなけりゃない(ママ)。そこでもって要請されてくることは、やはり組織化の原理だと思うんだ。」(317−318)

吉川「ミニマムの組織はすでにあるんだが、それでは運動が発展しない限界まできていて、もっと高度な組織化に移らなきゃいけないのか、といえば、そうではなくて、そこでは、ベ平連の本来の、個人の自発性とか、個人の責任というものをもっともっと徹底することによって、その壁を突き破るという可能性があると思うんです。」(318)「たとえば、ラディカルなデモをやっちゃいかんということはけっしてないわけだが、やる場合、それぞれの人が全体との結び付きを考え、自分たちのやっているそういう形態が全体のデモの中で相対化されて位置づけられ、全体とのつながりが自覚されるという必要があると思うんです。そういう状況であるならば、弾圧があっても対処のしかたは今よりもずっと機能的になると思うな。」(318−319)

高橋「残ってる問題としては、やはり沖縄ですわり込んだ人たちがもっと戦えなかったのはなぜか、といえば、そこには吉川さんのいった個人の自覚が徹底していなかったかもしれない、ということが問われなければいけないと思いますね。そのことが収拾の段階で向こうの幹部のペースに乗った、という反省があると思うんです。」(319)

小中「行動がジャーナリズムに伝えられ、そして失敗としてそこに位置づけられていくという過程に問題がある」(320)

高橋「個人原理をもっと深めてゆかなくちゃいけないんですが、そのためにも、もっと組織化、小さな組織化が役に立つんですね。それは2つの矛盾する方向じゃなくて、補完的なことなんですね。ピラミッドをつくろう、ということではないんですが、大きな闘争を組む場合には、事前の準備討論とか学習とか、そういうものが個人原理を保証してゆくんですね。」(325)

鶴見(良)「それにまったく賛成です。で、沖縄の問題については、少人数の人でいいから、沖縄問題委員会のような、継続してこの問題をフォローするものをつくる必要がありますね。[…]特に現地諸組織との連絡とか」(325−326)

小田「どうかなァ。ことに一夜づけの好きな連中が多いとすれば、1つ1つの問題ごとにその都度ワーッと取り組んでゆくやり方のほうが特色ある運動をつくってゆけるような気もするんだがな。その中で小さな組織化もできてるようだしね。」(326)

鶴見「[…]本土と沖縄とは離れていて、わからない部分が多いんだよね。どっちが上でとか下でとかいうことじゃなくてね。これは絶えずフォローしてないと情報が非常に不足するんですよ。今度の場合は痛感したな。」(326)

小田「さっき憲法のことが出たが、ぼくが日本国憲法のことを言うのは、ぼくらが日本人だからというんじゃないんだ。朝鮮人である金東希が日本国憲法のことを言ったのと同じように、人間共通の原理なんだよ、あれは。そういうものとして、ぼくはその憲法のもとに清水君を擁護しろと言ってるんだ。」(332)

小中「憲法があるからわれわれが守られているんじゃなくて、1つ1つのケースごとにそれを守るということ以外に憲法はありえないんだ。」(332)


■共同行動についての提案(提案者・小田実)
「日本の位置からベトナム戦争を見る時、日米安保条約の廃棄と沖縄の米軍からの解放が必要であることが強調され、この安保条約の期限のきれる1970年が反戦運動にとって重要な年となることが強調された。
 これらのことがらについての認識を、私たちは、以下に述べる具体的な行動のなかで、積極的に生かしていくだろう。

・軍需物資輸送阻止の国際的行動を、9月に行う。
・駐留軍の労務者の再就職を計る運動を行う。
・沖縄について日米間の共同行動を10月に行う。アメリカ人参加者は、それに先だって沖縄に滞在し、沖縄の人たちと生活する。この行動は、日本・米国沖縄解放戦線の結成を目標とする。
[…]
・再度予定されている佐藤日本首相の訪米に対し、日米共同して阻止の行動をおこす。
[…]
・アメリカの中で沖縄にかんする日本の闘争に連帯するキャンペーンをおこす。また日本ではアメリカの黒人解放闘争を支持し、連帯するキャンペーンをおこす。」(339−340)


■アメリカ大使館への抗議文
「沖縄嘉手納基地の貴国軍隊は、8月16日、基地近辺の木陰で雨をさけていた27人の本土出身市民を逮捕した。これらの人々は、ベトナム戦争に対して、またベトナムにおける貴国の軍事行動のために貴国軍隊が沖縄を使用していることに対して抗議の示威行動を行おうとしていた。しかしこの逮捕は、これらの27人の日本市民が示威行動を開始する以前に行われた。逮捕者の中には、ベ平連運動の積極的な参加者が多数含まれており、うち1人は年配の家庭の主婦である。
 この逮捕は、いかなる観点からみてもまったく非合法かつ不当である。貴国の軍人は日本の領土である沖縄にとどまるいかなる権利ももたないし、ましては日本市民を逮捕する権限をもたない。他方において、日本市民が沖縄における貴国軍隊の駐留に抗議することは、沖縄が日本国憲法に反してベトナムにおける大量殺りくに使用されていることを考慮するならば、なおさらそれは合法的行為といわなければならない。日本国政府と貴国政府との間のいかなる協定も、もしそれが国連憲章に反するならば、いかなる有効性ももちえない。容易に指摘できるように、沖縄にはこのことがまったくあてはまる。貴国政府は、われわれの土地を非合法的に国際法に反して占領しているからである。
 その上、沖縄民政府は8月17日深夜、逮捕された日本市民27人全員を、沖縄から追放すると通告した。このことは一層許しがたい。アメリカ政府が、日本市民を日本の国内の1ヵ所から他の場所へ追放するなどということをだれが受け入れられようか。
 貴国政府が8月16日および17日に、27名の日本市民とベ平連に対してとった行動は、こうして完全に受け入れがたいものであるので、われわれは、貴国政府がただちに追放命令を取り消し、逮捕された日本人とベ平連に対し陳謝し、同時に沖縄に住む日本人、本土から来た日本人に対し、今後このような逮捕およびその他の抑圧的措置をとらないよう厳重な措置をとることを要求する。

1968年8月17日

東京都新宿区大京町13
ベトナムに平和を!市民連合
代表 小田実

駐日米大使館
ジョンソン大使殿」


■脱走兵協定(提案者・小中陽太郎)342-344
「私たち、ここに署名した者は次のことを確認する。
一 アメリカおよびその同盟国軍の反戦兵士による脱走という行為は、アメリカの戦争機械に対する勇気に満ちた抵抗であり、同時にアメリカ政府の非人道的な戦争機械の破綻の証明である。それとともに、この脱走という行為により加えられる日本政府の弾圧は日本政府がアメリカ政府に追従してベトナム人民に反対する政策をとっていることを白日のもとにさらしている。
二 こうした脱走および徴兵拒否に対する援助は、全世界の国家の戦争機械に対して内部より行われる最も有効で強力な打撃であり、また侵略に抗し解放のために戦っているベトナム人民への有効な支援である。
三 同時に、脱走兵と徴兵忌避者に対する援助は国家と戦争機械の非人道的秩序に対する、すぐれて人間的な行為である。
四 個人には、国家が人道に照らして罪を犯すように強制するとき、その命に服従しない権利がある。それゆえ、脱走およびその援助は私たち人間の固有の権利である。そこで、ベトナムの真の平和を願いかつ新しい人間的社会の建設をめざす私たちは、積極的にかつ最大限の力をもって援助活動に取り組むために以下の協定を結ぶ。
(1)私たちは、各人にできる範囲で、ベトナム人民の殺りく戦争に従事しているアメリカ軍およびその同盟国の兵士に脱走を勧誘し、安全に保護し、必要な際はかれらが安全にクラスことができ、かつ反戦活動に従事できる土地へ移動させる。
(2)私たちは日本国政府に対し、平和憲法にのっとり、日本における反戦脱走兵の政治亡命を認めるように強く要求する。
(3)私たちはアメリカ軍隊とベトナムにいるほかの同盟国軍の兵士が、このあやまれる侵略戦争を終らせるために、軍命令の拒否を含むさまざまの形態の軍隊内抵抗に立ち上がるように強く勧める。
(4)私たちは脱走兵が、かれらの移住した国で生活ができ、またかれら自身の平和活動を発展させるように最善を尽くす。
(5)私たちは、軍隊内抵抗あるいは脱走のかどにより逮捕されたり、軍事法廷にかけられたアメリカの兵士とその同盟国軍兵士を全力をあげて支援する。
(6)第(5)項に記された援助はこれを徴兵忌避者についても行う。
(7)脱走兵援助を効果的に行うためには、兵士の出身国、受入国および脱走がくわだてられた国の三つの人民の密接な協力が何よりも必要である。そのために私たち相互の間で協力を強め、さらに世界の他の国々の志のあるあらゆる団体の間で脱走兵に関する実際的連絡活動をひろげる。
(8)すべての反戦兵士と徴兵忌避者を援助するための国際的協力を円滑に行う目的で、東京に日米両国弁護士による常設連絡事務所を置き、アメリカ軍とその同盟軍の反戦脱走兵に助言を与え、逮捕された反戦兵士を支持する。
(9)全世界でアメリカおよびその同盟国兵に働きかけ、日本および世界のほかの部分で脱走兵を援助する活動を円滑にするために国際基金を設置する。
(10)脱走兵および徴兵忌避者の反戦平和活動を支援するために種々の機関を必要に応じて国際的規模で設置する。」(小田・鶴見、1968:342−344)


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV:  
社会運動/社会運動史  ◇ベトナムベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)BOOK
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