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『沖縄奪還 '68〜'70』

波照間 洋 19680810 三一書房,246p.

last update: 20110624


■波照間 洋 19680810 『沖縄奪還 '68〜'70』,三一書房,246p. ASIN: B000JA3YNG [amazon] o01 sm02 m04

■内容

■目次

序章 沖縄・本土、連帯と断層
 B52即時撤去闘争の周辺
 闘う亜熱帯離島群の光と影
 「沖縄像」を歪めるもの

第T章 「日米共同責任時代」の開幕
 軍政的直接統治の行きづまり
 1965年夏・佐藤沖縄訪問
 「一体化政策」への模索時代
 佐藤・ジョンソン声明以降
 新たなる「琉球処分」

第II章 「沖縄・本土の一体化」政策とは何か
 沖縄治安対策の強化
 沖縄教職員にも「本土並み」勤評体制を――
 地方自治への攻撃と財政措置
 日米琉諮問委員会
 沖縄「援助」の仕組みと役割
 沖縄経済の構造
 経済振興策の問題点

第III章 沖縄・昨日と明日の間
 歴代総務長官の沖縄感覚
 本土・沖縄自民党の「一体化」
 頻繁になった自衛隊の沖縄派遣
 急増する渡航拒否をめぐって
 沖縄におけるマス・コミ統制と分裂工作

第IV章 70年に向けて――
 高揚の発火点・教育二法闘争
 武装米兵との対決、基地闘争の高まり
 直接行動へ――二つのエピソード
 沖縄「主席」選挙の意味
 「核つき」返還と「本土並み」返還の錯誤
 70年安保と沖縄

あとがき

■引用

「B52駐留に反対して本土で起こされた大衆行動は、まずないといってよかった、ただ、原水禁が別の目的で集会を開いた(3月9日)さいに、スローガンの1つにB52撤去を加え、1200人のデモが行なわれたのと、日本平和委員会が街頭署名を行なった程度だった。  沖縄の原水協代表は、「やはり撤去運動は沖縄でやります」と述懐した。そして、滞京1週間を総括して、(1)B52の移駐を許しているのは日本政府の基本方針であることを確認した(2)本土と沖縄の国民間のB 52問題に対する認識のズレがないわけではないが、日本政府の戦争加担政策、核つき返還の方針は、本土と沖縄の情勢を1つに結びつける要素を持っている――とまとめた。  沖縄原水協代表が遠まわしに表現した本土とのズレは、生やさしいものではなかった。本土の革新政党は、2月5日のB52移駐後、一片の党声明すら出さず、辛うじて政府の対米申し入れに反論する形での談話を発表したにとどまった。沖縄問題に関する社会、公明、共産三党共闘は、B52移駐後、1ヵ月以上もたった3月8日になって、やっと3党書記長会談による政府申し入れを行った。同時に三党共同提案によるB52撤去要求決議を提案したが、この決議はB52の撤去を求めるだけの文面だった。  沖縄の立法院が、自民党もふくめてB52の撤去と同時に「沖縄を戦争にまき込む一切の戦争行為を即時とりやめること」を要求したのに対し、本土の各党のそれは、1ヵ月も時期がズレたばかりではなく、内容の質も沖縄のそれと比較にならなかった。沖縄米軍基地から「戦争行為」を一切取り去ることを要求することは、軍事基地の機能を停止し、基地の撤去要求にそのままつながることだった。[…]沖縄の県民が反対し、戦い、上京して協力を求めてきたので支援する――という、それは一貫して受動的な動きだった。日本からB52が直接ベトナム人民の殺戮に直接発進するようなこの事態に対して、同情的・支援的態度でのぞむ、この傍観者的姿勢に、革新主体の欠如が露呈していたといわねばならい。空母エンタープライズの佐世保寄港に対して闘おうとする革新勢力が、B52の発進に対しては抗議の集会・デモすら開催しえず、国会の決議さえノンビリと1ヵ月もたってから出される――。沖縄の県民が、本土の革新勢力に不信感に近い失望をまたまた味わったのはこの頃だった。3党共同提案の貧弱な内容を持ったB52決議案が、その後、野党側の強い突き上げもないままにタナ上げになってしまったのも当然であった。」(22−24)

「現状変革の期待を持とうとすれば、本土の革新にそれを求める期待が強く働くが、しかし、彼らとてもこの程度の認識で、本土政府や自民党と大して変りはないのだ――という受けとり方が県民の心に潜在している。単なる不信感でなく、期待が果てしなく裏切られ、失望が沈殿して厚い層になっているような状態なのだ。  たとえば、テレビの政党討論会で共産党の書記長宮本顕治は、何度も「日本と沖縄……」と使い分けていた。本土の聴視者には見過ごされることかもしれない。だが、沖縄をみつめつづけてきたものには、この言葉使いのなかに、なんという果てしない隔絶を感じさせられることか。  共産党ばかりではない。68年4月28日、日比谷野外音楽堂の一隅で、「沖縄闘争」に集まった三派系全学連の指揮者は、「沖縄では軍労働者がゼネストに立ちあがった。われわれは国内で沖縄闘争を成功させねばならない!」と叫んでいた。沖縄が「国外」で、本土は「国内」と、無意識にもせよ言葉としてとび出してくるところに理論以前の断層がある。その日の会場では、日本教職委員組合の宮之原委員長が、同じように「……沖縄返還闘争と同時に、国内でも教育三法に対する闘いを盛上げよう」と呼びかけていた。」(26)

「私はこれら政党、労組、学生や新聞の言葉使いの揚げ足とりをしているのではない。しかし、このような言葉使いに、体制に強いられた現状を固定化して考えているものが反映してはいないか。」(27)

◆「沖縄=国外」という言葉使いが屈辱となるような言説空間と関係性。


「68年の同月同日、那覇市の第8回復帰県民要求大会には、約25万5千人が集まった。大会スローガンは、 1、サンフランシスコ「平和」条約第3条を撤廃させ、即時無条件全面返還をかちとろう。 2、日本国憲法の適用と違憲訴訟を勝利させ、渡航の自由をかちとろう。 3、現状固定化につながる欺瞞的一体化政策を粉砕し、復帰民主勢力の勝利をかちとり、沖縄県を復活させよう。 4、布令116号を撤廃させ、物価値上げ・重税反対春闘を勝利させよう。 5、ベトナム侵略戦争反対、土地接収阻止、B52核戦略爆撃機を直ちに撤去させよう。 6、安保条約を破棄し、憲法改悪、軍国主義復活に反対しよう。 7、核基地を撤去させ、一切の軍事演習に反対しよう。 と変化した。少なくとも文字面だけみても、この8年間に復帰運動が描いた軌跡には、「お願い」「悲願」調から、「かちとる」闘争へと進み出た姿勢がはっきりと示され、「復帰」は反安保、反基地、反戦運動へと拡大し、質的に深化したことがわかる。」(29)

◆1968年復帰運動の質的変化。


「しかし、この沖縄での闘争の組織が出発する頃、本土では、沖縄返還は、まったく広場の片隅ではじめられたにすぎなかった。[…]しかし、大衆規模での沖縄返還運動の萌芽は出ていた。60年1月24日、鹿児島で、沖縄でのナイキ演習反対、日本の核武装反対、沖縄返還要求国民大会が開かれた。この大会を起点に、日本平和委員会による鹿児島―東京1800キロの「復帰貫徹大行進」が出発した。参加者の主体は沖縄県民代表で、出発はじめは52人、4月28日東京着で、県民5人が歩き通した。東京入りの際は2千人近いデモになった。その後、5月、6月の安保闘争のなかでも沖縄返還は大衆的に広がらず、さらに本土の沖縄返還運動は2年間も空白状態がつづいた。それは、安保闘争以降の本土の革新陣営の沈滞ぶりを反映していた。」(30)

「さらに本土と沖縄のズレを示すのは、64年4月28日の、北緯27度線海上における集会だった。この海上集会は前年からはじめられたが、前夜祭として沖縄島北端の辺戸岬と本土行政権の及ぶ最南端である与論島とに代表がそれぞれ集まり、かがり火を焚いて交歓しあった。燃える火に象徴される熱い願いは、沖縄の祖国復帰運動に勇気と感動を与えた。だが64年4月28日、沖縄側で燃えた火は1つだったが、与論島で燃えた火は2つだった。  米国の軍事直接統治は県民の総反撃によってゆらぎ、岐路に立たされようとしていた。しかし、本土の革新陣営は、「いかなる国の原水爆実験にも反対する」か「しない」かに端を発して、原水協はじめ多くの大衆運動団体が分裂。社共両党が加盟していた沖縄返還要求国民運動連絡会議も分解した。与論島では、社会党系、共産党系の団体代表が反目し、罵りあいながら2つの火を燃やしていた。翌28日には、本土の民主団体は2つの船団に分かれて27度線洋上に殺到し、1つにまとまっている沖縄側の船団の奪いあいを演じ、マイクでがなりあった。」(32)

「本土の革新系の大衆団体は、沖縄の返還とは関わりあいのない原因で分裂し、ヘゲモニー争いを演じた。沖縄での返還運動はこの64年ごろから一層高揚し、大きな政治的影響力を持つにいたっていた。本土の返還運動は、相対的には沖縄の運動に比べて質量ともに低かった。[…]本土の沖縄返還運動の分裂は、その後さらに拡大し、細分化していった。一方、沖縄では68年には復帰協加盟団体は60を数え、統一を保持しつつ、反戦闘争にも展開していった。」(32−33)

1967年11月5日立法院代表・復帰教代表らによる上京、佐藤首相訪米への抗議 「官邸前で寒風にたえて座り込んでいる沖縄県民とともに座り込んだのは、社会党の代議士川崎寛治氏と、同党国民運動局の井岡大治氏だけだった。大ぜい激励にはやってきたが、この2人をのぞいて一緒に座り込んだものはいなかった。」(34)

「佐藤訪米を前にして東京・日比谷野外音楽堂で開かれた「沖縄・小笠原即時無条件全面返還、サンフランシスコ条約第3条撤去を要求する中央集会」が3つに分裂し、流会になったのである。  原因は、会場に参加してきた三派系および革マル派全学連学生ら約2千人を排除せよと沖実委(共産党系)が主張し、沖縄連(社会党系)は大会を妨害しないと約束しているから、これを加えて開催したいと主張、調整できなかったためだ。」(35)

「佐藤首相は、ジョンソン大統領と沖縄軍事基地の重要性を認め合い、ベトナム戦争への協力を約し、「一体化」という名の沖縄支配体制を再編成する基本方針を約束し合った。  その佐藤首相が羽田に帰着した、ちょうどその頃、沖縄では裏切られた期待に弔旗を掲げ、県民の要求にそいえなかった佐藤首相の退陣を要求し、基地撤去を求める「弔旗大会」が7万人を集めて開かれていた。[…]しかし、本土では何の抗議大衆集会も開かれなかった。本土の革新勢力は、羽田を発つ佐藤首相への要求を突きつける統一集会を開かなかったばかりでなく、帰国した首相のその責任追及にもすぐさま立上ろうとしなかった。  […]沖縄県祖国復帰協議会の仲宗根悟事務局長は、68年1月、「沖縄返還を阻んでいるものが佐藤自民党政府であり、いつまでもその反国民的態度を許している一億国民全体が同罪であると率直に開き直りたいというのが、沖縄県民の偽りのない心情である」(沖縄連機関紙への寄稿「日米共同声明と今後の沖縄返還闘争」)と難じた。」(37)

「本土革新への不信が示されていると同時に、沖縄闘争の主役が、結局、沖縄県民であり、県民自身が闘うことによってのみ、本土革新の立ち上がりも期待できるとの戦闘主体としての認識の明確化がある。本土革新に依拠し、期待するのではなく、みずからの決起によってこそ共闘の可能性が生まれるとの沖縄闘争の原理が、ようやく血肉化してきたのである。」(38)

「沖縄での祖国復帰運動は、1960年の祖国復帰協議会結成以来、年々、質量ともに広がり深まってきた。日の丸の旗をうちふり、「祖国にかえろう」と呼びかけた「悲願調」の素朴なナショナリズムによる日の丸復帰運動が、怒りのムードに変り、闘う祖国復帰運動に変容していった。  ことにベトナム戦争の本格的拡大、佐藤内閣の登場前後からは、裁判移送撤回闘争、主席公選要求闘争、軍用地接収反対闘争などが全県民的な規模で地道に長時間つづけられ、それぞれ要求をかちとっていった。」(38−39)

「東大助教授辻村明氏はチームをつくってアメリカから資金の援助をうけ、沖縄で66年暮に調査を行った。」(41)

「清水記者や辻村助教授のような人びとの沖縄観には、かつて中国人を弱い、無力な、不平等扱いしても構わない民族として描き出したような日本帝国主義の協力者たちと、どこか一脈通じるものがあった。 沖縄闘争は政治闘争ではあるが、また一面、このような社会観、歴史観を打ち破ってゆく、すぐれて文化的な闘争でもある。沖縄返還と取組むということは、単に集会やデモに参加したり、ビラを配ったりするということだけではなく、正しい民族観、歴史観を身につけてゆくことでもある。」(44−45)

◆文化闘争(民族観・歴史観をめぐる議論)としての沖縄闘争。


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110634
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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