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『沖縄問題を考える』

中野 好夫 編 19680710 太平出版社,334p.

last update: 20120119


■中野 好夫 編 19680710 『沖縄問題を考える』 太平出版社,334p.

■内容




■目次

T 沖縄はなぜわたしたちの問題であらねばならないか(中野好夫)
U 沖縄「問題」の二十余年(新崎盛暉)
V 沖縄分断の法的構造(宮崎繁樹)
W アメリカの極東戦略と沖縄(高橋実)
X 日米安保条約と沖縄(星野安三郎)
Y 基地沖縄の統治構造(宮里政玄)
Z 基地沖縄の経済的破壊(木村き八郎)
[ 日米「共同管理」教育政策(森田俊男)
\ 日本歴史の中の沖縄(井上清)
] 沖縄県民の意識の中の日本像(霜田正次)
XI 日本人の意識の中の沖縄(新里恵二)
XII 沖縄の文化の問題への一視点(石田郁夫)
XIII 沖縄返還を実現するために――返してもらうのではない 返させる 返さざるをえなくさせるのだ(中野好夫)

資料1 沖縄問題にかんする文献案内(新崎盛暉)
資料2 沖縄問題にかんする資料
資料3 沖縄問題年表
資料4 詳細沖縄戦略地図
編者あとがき


■引用


▼T 沖縄はなぜわたしたちの問題であらねばならないか(中野好夫)
「わたしたちは沖縄の問題を忘れてはならない、そしてもし忘れていなければ、立って行動しなければならない、という二つの大きな義務と責任がわたしたちにはあると確信する。ひとつは直接わたしたちと沖縄同胞との問題でああり【ママ】、いまひとつは、大きくは世界、とりわけ極東の情勢のなかで演じる沖縄軍事基地の役割についてである。後者については、[…]明らかにそれは、もっとも積極的な攻撃基地、侵略基地に飛躍していることである。われわれは日本領土の一部が、げんにこうした役割を受けもたされているということ、これはいかに施政権はゆずりわたしているとはいえ、平和憲法下に生きるわたしたち日本人として、とうてい黙視することはできないはずである。
 以上が一つ。だが、ここではいま少し直接沖縄同胞との関係について述べておきたい。島津藩時代における沖縄収奪や、明治以降における差別処遇というような古い問題については、とうていふれている余裕がない。だが、もっとはるかに近く、太平洋戦争以来の歴史をとってみても、わたしたちは二度までも沖縄同胞に対して、忘れることのできない裏切りを犯している。ひとつは、いうまでもなく沖縄戦である。[…]沖縄だけには祖国防衛の名のもとに、あの悲惨な沖縄戦闘を強いていたのである。[…]第二は、もちろんサンフランシスコ条約である。[…]本土の日本人は、残念ながら沖縄同胞をアメリカに売りわたしたのである(政府が売った、といういいかたはあやまっていると思う。わたしたちもまた、連帯責任をおわなければならない)。」(11‐12)

「三たび沖縄を祖国日本の恥部にしないためにも、こんごの沖縄問題は、従来にもましてわたしたち自身の問題でなければならない。」(13)

●リベラル=ナショナルな言葉と心情の充満。「同胞」、「連帯責任」、「祖国日本」、「日本人」
●沖縄問題=@「わたしたち」と「沖縄同胞」との歴史的関係性(2つの裏切り)、A極東における沖縄の軍事基地の役割という問題
●過去への反省や責任や義務が、ナショナルなものへと回収されていく。本土の人間にとって、復帰運動はそのメカニズムの中心にあった。


▼U 沖縄「問題」の二十余年(新崎盛暉)
「「沖縄問題とはなにか」という問いにたいしては、さまざまな答えが可能だろうが、ここでは、いちおう「ほんらい一体であるべき日本本土と沖縄の分断をうみだす原因となり、また分断の結果として発生した政治的、経済的、社会的、文化的、あるいは思想的諸問題の総体が沖縄問題である」と考えておきたい。
 民族的、文化的にみて、沖縄と本土がほんらい一体のものであるという事実については、現在、学問的にはもはや疑義をさしはさむ余地はまったくない。」(16)
●「ほんらい一体であるべき」日本本土と沖縄の人々という前提
●定義になっているのか?「分断をうみだす原因」が問題とは?問題の総体が沖縄問題・・・。

「地理的、歴史的、政治的諸条件が、沖縄という地域社会に他の諸地域とは異なった特殊な問題を背負わせたことも否定できない。だがそれは、近代国家日本の内部的矛盾とみるべきであって、たとえば、日本に植民地的支配をうけた朝鮮や台湾の人民が直面した問題とは、まったく異質のものであったことはいうまでもない。どのような角度からみても、沖縄と本土は事実として一体であったし、また、本土と沖縄双方の発展のためには、双方がいっそう緊密にむすびつく必要はあっても、逆にそれが分断されなければならないという内的必然性は、まったく存在しなかった。」(17)
●沖縄問題の原因は同じ国家内の内的矛盾であり、朝鮮や台湾の植民地化とは異なる問題という定義。

「沖縄戦後史、あるいは沖縄問題史のながれを決定してきた要素は、ごくおおづかみにいって三つある。第一はアメリカ政府の政策であり、第二はこれに対応する沖縄人民のたたかいであり、第三は日本政府の政策である。もちろん、本土人民の沖縄返還運動や国際的な反戦運動が、沖縄問題の展開過程に一定の影響をおよぼしたことは否定できないが、それは、沖縄問題の展開過程に転換を画すような決定的な力をもつことはなかった。」(19)
●分析の枠組みとしての、米国政府、日本政府、沖縄人民の運動の三つ。本土や国際的な運動は補足的な位置をしめる。

「戦後初期、占領政策が「非軍事化」政策と「民主化」政策として特色づけられていた時点において、すでに、その「非軍事化」政策と「民主化」政策は、沖縄の分断と表裏一体の関係にあったわけである。つまり、「平和」憲法の理念にしめされるような政治体制を日本本土において容認することは、沖縄を軍事的拠点として確保する(沖縄を本土から分離して直接軍政下におく)ことを前提にしてはじめて、可能だったのである。本土と沖縄は、一つの占領政策のなかで、別個の役割をあたえられていたといえよう。」(23)
●沖縄と本土とを、アメリカの戦後戦略における、地政学的役割分担の中で把握する重要な視座。アメリカの戦略において、沖縄と本土とは一体化している。また、沖縄人と日本人は異なるとした人種主義的イデオロギーは、この地政学的役割分担を補完する。よって、復帰運動や本土における沖縄闘争を評価する際に、このような米国戦略における地政学的役割分担を批判しえていたか、どのように批判したのか、を考える必要がある。

「戦後初期の短い期間だったとはいえ、沖縄独立論的見解がつよい力をもち、これにたいする批判がほとんど存在しなかったことは、復帰(返還)運動にかぎりないマイナスの影響をあたえたことは否定できない。」(26)
「ところで、独立論や独立論的主張は、誤まりでもあり、民衆の直面する政治的現実と遊離してもいたのだが、その半面、ごく萌芽的なかたちでではあったにしても、戦前の日本の政治体制の否定、沖縄社会内部における戦争責任の追及といった問題を提起する傾向を含んでいた。
 これらは、明確な自己批判をへて、復帰運動のなかに引きつがれるべき要素であった。国家や政治体制を批判し、戦争責任を追及するという視点は、一般民衆のなかに存在した民族意識の自覚化や定着化をうながし、「復帰」それ自体を自己目的化するような運動を批判しつつ、つねに「復帰」のもつ意味を問いかえしながら、運動をすすめていくてがかりともなるべきものであった。」(28)
●独立論批判。復帰へのネガティブな作用。
●独立論の射程の広がり。国家批判、政治体制批判、沖縄のなかの戦争責任追及という思想が、復帰運動には定着していないという見解。しかし、前提にあるのは「ただしい復帰」をするべきだ、というものではないか。

「またこのたたかい[土地闘争]は、本土の砂川闘争などともむすびついて、日本政府の政策にもあるていどの影響をあたえた。日本政府にとっても、沖縄問題は無視することのできない問題となったのである。本土人民に、沖縄問題の存在を認識させたのもこのたたかいであった。」(30)
「土地闘争がこのようなかたちでおわりをつげたのは、それが自然発生的な性格をもっていて、占領統治政策全体にたいするせいいっぱいの抵抗ではあっても、明確な展望をもちえなかったこと、本土の沖縄の闘争をつつむこむだけの運動が組織されなかったこと、などによるといってよい。」(31)
「土地闘争の段階では、本土には沖縄返還運動はほとんど存在しなかった、といってよい。マスコミが沖縄問題をクローズアップし、多くの「同情」がよせられたにもかかわらず、それは沖縄返還要求とはならなかった。このため土地闘争の指導部(政党や民主団体およびその指導者たち)の一部は、たえず孤立感になやまされて動揺した。」(32)
●土地闘争と砂川闘争のつながり。本土における沖縄問題の認識の発端として。
●本土側の沖縄闘争にはつながらなかった。

「安保改訂交渉初期の中心的問題点は、沖縄を新条約の適用地域に含めるか否か、という問題であったということも思いおこしておく必要がある。ともかく、このころからは日本政府も、沖縄問題にかかわりあわざるをえないたちばに立たされたのである。」(33)
「あれだけもりあがっていた安保闘争も、沖縄へのメースBもちこみには敏感な反応をしめさなかった。本土では、立法院決議[1960年3月?メースBもちこみ反対決議]に呼応するようなうごきは、ほとんどみられなかった。沖縄をし新安保条約の適用地域にふくめることには反対しても、条約適用地域外におかれた沖縄が、実質的には日米新安保体制を強化する重要な役割をになわされつつある、という認識はきわめてよわかった。」
●日米安保改定をめぐっての沖縄の不在や位置
●日米安保改定と沖縄の軍事化の関係性を考える視点の不在という批判。

「復帰運動内部には、当初から、悲惨な沖縄の体験にねざした平和への切実な願いが存在したが、それはどちらかといえば、ねづよい被害者意識に結びついていた。したがって、それは反戦平和運動をささえる強い力とはなりえなかったし、また、時間の経過とともに風化し空洞化する危険性にさらされていた。ところがヴェトナム戦争の拡大につれて、このような被害者意識に微妙な変化がみられるようになった。もし、沖縄人民が、沖縄基地の現状を黙認するならば、そのことによって、沖縄自身が加害者の地位にたたざるをえなくなるという認識が、断片的・部分的にではあるが、あらわれはじめた。復帰運動を、国際的なひろがりのなかで、とらえなおそうというこころみがみえはじめたのもこのころである。」(41−42)
→1965年 琉球大学学生によるヴェトナム行き拒否の米兵支援運動、英文ビラ配布。
●ヴェトナム戦争による、復帰運動の質的転換。国際的なひろがりのなかで、沖縄の反戦平和運動を位置づけなおす。加害者性の問題をとらえかえす。

「教公二法阻止闘争は、二つの点から注目される。その一つは、この闘争の過程で、復帰運動が、「本土なみ論・一体化論」の段階を実質的に克服したということである。「復帰」それ自体を自己目的化し、たんに本土と一体になることによって、沖縄の現状打開をはかろうというたちばでは、教公二法制定には反対しえなかったからである。教公二法は、教職員の身分を本土と一体化することにほかならないからである。祖国復帰は、沖縄の現状を打開するだけでなく、本土の政治体制を部分的にではあるが、変革させるような性格をもちはじめたのである。
 第二点は、一定の条件下での実力行使が、大衆的規模で是認された、ということである。」(44−45)
●教公二法阻止闘争が「復帰」を自己目的化した復帰運動をのりこえたという意見。復帰運動は、本土の政治体制を変革させる可能性がある、とする。

「いわゆる「核つき返還論」は、沖縄の分断という既成事実をたくみに利用しつつ、沖縄返還と日米安保体制の強化を同時に実現しようという政策であった。70年安保闘争へのうごきがたかまるなかで日米安保体制の強化を実現するには、日米安保条約そのものにはむしろふれないで、沖縄返還という「国民的願望」の実現を強調し、沖縄返還実現のための条件づくりという意味づけをおこないながら、安保体制の実質的強化をはかることが必要であり効果的でもあった。」(47)
●日米両政府にとっては、70年安保を先取りする、沖縄返還。国民的願望をたくみに利用しながら、沖縄を返還させ、70年安保の実質を取る安全保障政策。


▼V 沖縄分断の法的構造(宮崎繁樹)
「沖縄の人びとは、日本人【「日本人」に強調】であり、明治期における近代日本国家の成立いご、沖縄諸島は、沖縄県として、本土と一心同体の道を歩んできた。」(52)
「1871(明治4)年沖縄を鹿児島県の所轄とし、翌年琉球王尚泰を琉球藩主に封じたのちも、1874(明治7)年まで中国との特殊な通交状態がつづいていたことは否定できない。しかし、種族的にも言語的にも大和民族の分派であった沖縄の人びとは、明治以降本土と共通の発展をとげ、日本民族として一体の歩みをつづけてこんにちにおよんでいるのである。」(54)
「古い文化と伝統をもち、明治いご日本本土の一部として近代化の道をあゆんできた沖縄の人びとに、未開発の非自治地域を対象とした信託統治制度を適用しようとすることが、どんなに不合理であり、沖縄の人とび【ママ】の名誉と尊厳をどんあに傷つけるものであるかも、おなじ日本人であれば、自分の身にひきくらべて、はっきりわかったはずである。」(61)
●同じ大和民族、同じ日本人という語りが充満しているのがはっきりとわかる。同胞主義を表現すればするほどに、琉球処分などの暴力の歴史が後景化し、言葉はあいまいになり、ときには忘却される。

「最後に付言しておきたいのは、沖縄問題の解決についても、その主眼は、領土問題という視点からでなく、沖縄の人びとの人権を中心とし、その幸福を実現するという視点によっておこなわれなければならないということである。」(71)


▼W アメリカの極東戦略と沖縄(高橋実)
「第二次世界大戦後、日本を占領した連合国最高司令部マッカーサーは、1949年3月、沖縄の軍事的地位についてつぎのようにのべた。
 「いまや太平洋は、アングロ・サクソンの湖となった。われわれの防衛線は、アジア沿岸の縁にある島嶼線を通っている。フィリピンに始まり琉球諸島を通る、ここに沖縄という大要塞がある。それからまがって日本とアリューシャンの島嶼線を通って、アラスカに至る」。」(74‐75)
●第二次大戦後、アメリカは安全保障上の防衛線を、アラスカ〜アリューシャン〜日本〜沖縄〜フィリピンと引いたことを物語る発言であるとともに、その防衛線が人種主義的な想像力によって機能していることを明確にしている発言でもある。
●構築されつつあった冷戦体制と、アメリカを中心とした人種主義的な地政学、人種差別を内在した形の地政学との親和性や関係性を、いかに批判的に再検証するかが課題としてせりあがってくる。沖縄の復帰運動、日本における反米・反基地の運動は、冷戦体制と、それとともにある人種主義を問う運動=反システム運動、脱冷戦、脱植民地主義の運動でもありえたはずである。

「したがって対日平和条約はけっして平和のためのものではなく、それ自体、軍事的な平和条約【「軍事的な平和条約」にルビ】である。もともと対日講和に主導権をとってすすめたアメリカの直接の動機そのものが、中国、朝鮮の「危機」にたいし、日本を自由陣営の一国としてアメリカの戦略体制のなかにくみいれようということにあった。」(87)

「これによってアメリカは、ほんらい軍事上の弱点をもつ列島防衛線の中心点である沖縄はみずからの手に確保しながらも、防衛線の東北部分、日本列島については日本自身にいくらかの責任を分担させ、日本自衛隊の創設、再軍備への道をひらいた。この反面で、日本の帝国主義的再軍備をおそれるオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンとは、それぞれ相互防衛条約をむすび、列島防衛線を南半球から支援させ、同時にこれらの諸国に責任の一部を分担させるという体制をつくった。さらに対日平和条約、日米安保条約成立後は、アジア大陸にむけて、米韓・米台両条約をむすび、沖縄を日米安保条約いがいのこれら諸条約の共同防衛地域とした。と【ママ】沖縄に自身の軍事力を集中しながら、これにつながる防衛線の国と不即不離の軍事同盟をむすぶというやりかたは、巧妙にねりあげられたアメリカの「苦心の作」であった。」(88)
●アメリカ主導の冷戦体制/構造において、複雑・絶妙な軍事同盟ネットワークの形成がなされ、効率的・合理的にそれを維持・管理するために、各国政府の政策が動員される。沖縄の日本返還はその一つであった。

「1957年7月から、アメリカは太平洋全域におよぶ軍指揮系統の再編成をおこなった。これは日本本土の極東軍司令部を廃止して陸・海・空三郡を統括する太平洋統合軍を設け、その司令部をハワイにおいたのである。[…]ここで重要なことは、アメリカの極東戦略の目標が日本から東南アジアに移行したこと、核戦略の展開をすすめるにあたり、一元的な指揮系統の樹立を必要としたことであろう。朝鮮戦争いらいの、この太平洋アメリカ軍の再編成についてボールドウィンはその当時、朝鮮休戦前後のアメリカの太平洋戦略体制では、日本、韓国が前進基地、沖縄、アリューシャンが恒久基地、フィリピン、マリアナ、ハワイが第二線基地となっていたが、1957年再編成前後では、日本は第二線基地となり、韓国、台湾、フィリピンが前線基地、沖縄は主要前衛基地として重要性を増し、グアム島は主要支援基地、ハワイ、アラスカ、アリューシャンが後方基地、と説明している。」(94−95)

「1957年5月、沖縄に地対空ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズ基地の建設が発表され、59年11月、ナイキ試射がおこなわれた。60年3月には、ホーク基地の建設計画が発表された。」(95)

「この戦略のなかで沖縄は、東南アジアをふくむ各国にたいし、必要なときには、アメリカ軍が出撃するという拠点としての地位があたえられている。これは、たんなる前進基地といえるようなものではない。兵站・作戦・軍事輸送・通信などあらゆる軍事的機能のくみあわさった基地であり、ボールドウィンがのべたように、「主要前衛基地」というのがふさわしい。」(100)


▼X 日米安保条約と沖縄(星野安三郎)
「日米安保条約と沖縄の問題をみるばあい、時間的にも、空間的にも「微視的」ではなく巨視的に考察することが必要である。というのは、アメリカの為政者によって、この問題は、時間的【「時間的」に強調】には、百年【「百年」に強調】の単位で、さらに空間的【空間的に強調】には全世界的規模【「全世界的規模】に強調】という、きわめてスケールの大きい「巨視的」展望のうえに考えられているからである。」(108)

・時間的: ペリー来航以降のアメリカの沖縄政策

「空間的に巨視的展望のなかですすめられているというのはなにか。アメリカは、全世界的規模で、文字どおり「グローバル」(地球的)規模で日本の軍事的価値を認識し、その利用政策をすすめているということであり、そのことは、アメリカの極東通の学者オーエン・ラチモアの指摘にもうかがえる。」(112)

教公二法反対闘争
「沖縄県の全警察は2,000人余り、とすると大規模な大衆運動弾圧には、アメリカ軍が直接介入せねばならず、そのことは自殺行為になるおそれが十分にあり、そこから本土の自衛隊と機動隊による鎮圧が必要とされてくるのである。沖縄の施政権返還が急速に表面化したのは、このような事情によると思われる。」(129)
●日米政府は、教公二法反対闘争によって、沖縄統治認識を転換させたのではないか、という推論。なかでも、自衛隊と機動隊による治安管理が必要であるとの認識が形成されたのではないか、と。

『経済往来』1965年10月号の「1970年革命」からの引用
→日本政府だけでなく、在沖米軍によって、1970年安保を鎮圧することが、安保条約の改定のみならず、日本の政治・運動・思想を縮減させる意図があった。
「15、これによって、日共及び社会党左派はほぼ壊滅【「日…壊滅」に強調】、残存日本社会党勢力の大部分がマルクス主義から脱却して、安全議会民主主義の理想主義政党に進化し、ここにようやく欧米型の純粋民主主義二大政党対立の議会政治が始まるだろう」(131)
●『経済往来』1965年10月号「1970年革命」
●鎮圧のあと、としての現在。現在を歴史化するために、歴史研究が必要であるということ。

「憲法にいう「恐怖と欠乏から免れて平和に生存する権利」を維持実現するために、それを侵害している事実を改革し、日本の非武装平和発展と、諸民族の平和共存、非武装中立を実現することが重要だと思うのである。それは、たんに、沖縄と本土の人権侵害と主権の制限をなくし、民族の統一と独立を達成するだけでなく、アジア諸民族の分裂と抑圧をなくし、侵略戦争をやめさせるうえで決定的に重要であり、アジアの諸民族に対する日本民族の責任でもある、と思うからである。」(136)
●「沖縄問題」が、沖縄の「恐怖と欠乏」や「生存」をめぐる改革のみならず、日本の非武装平和発展、さらにはアジア諸民族に対する戦後及び冷戦構造下における日本民族の責任という問いとして定位されている。


▼Y 基地沖縄の統治構造(宮里政玄)
「この2〜3年らい沖縄問題にかんする論評が急増し、とくに返還問題を日本の防衛意識の向上に利用しようとする佐藤政権の最近のうごきと関連して、沖縄問題の本質が明きら【ママ】かになってきた。」(138)
●「沖縄問題」ブームとしての1965年〜。

「わたくしが1966年ワシントンで沖縄問題に関係している人びとと話しあってつよく感じたのは、沖縄県民が日本人とは別の人種、あるいは日本人のなかの特殊なグループであるというイメージを、まだねづよくもっている、ということであった。元陸軍省民事局長の退役大佐は、沖縄人は表面的に復帰を希望しているだけであると断言した。「北部や離島の人びとは簡易水道の施設や電化を望んでいるのであって、復帰を望んでいるのではない」と。日本に長年滞在し、一番好きな食物はにぎりずしであるというアメリカ国務省の日本課員は、一般の日本人は沖縄人を日本人とは思っていない、と確信していた。
 沖縄県民が日本民族のなかの劣等グループである、というイメージはどうして作りだされたのだろうか。考えられることは、第一に、少なくとも部分的にこのイメージは事実にもとづいている。アメリカ海軍省の沖縄にかんするハンドブック(1944年版)は、明治維新以前の史実の説明に多くのページをさいて、それいごの「同化政策」が十分に成功していないことを指摘している。沖縄が独立王国であったことと、戦前、沖縄県人が差別されたのは事実である。第二に、琉球は中国の一部だという中国側の主張があったことである。[…]第三には、戦時中にハワイにおける沖縄県民についての研究がおこなわれ、県民が他府県人によって差別されている(たとえば結婚などのばあい)事実などがあきらかにされたことも重要である。
 戦後、このイメージがさらに強められたであろうことも指摘されねばならない。沖縄における戦争直後の「琉球独立論」、民主=自民党の迎合、日本政府の態度……これらはすべてアメリカ人の沖縄人観を強めるのに役だったのである。」(143-144)
●アメリカ人の沖縄人観: 日本人とは民族的に異なり、日本人から差別されている。この記述は、本書のその他の論考とは異なるもの。差別と加害/被害の歴史と構造に一歩踏み込んだ記述になっているからである。しかし、アメリカの人種主義的認識が、分断統治と沖縄の直接統治という冷戦体制下の政策に、どのように機能したのかの分析はない。

「沖縄県民の不満をやわらげるために本土政府を利用する方法は、そのごさらにケネディ政策によってはばひろく使用された。ケネディ政策の目的は、アメリカの軍事行動の自由を確保するために「琉球を日本に返還する見込みはさしあたってないが、……日本と琉球とを同時にある程度満足させることのできる協力の基盤を作る」ことであった(ジョンソン国務次官補の下院軍事委における証言)。その方法は、日本政府の経済的協力を求めることであった。」(140)
「キャラウェイにかわって新らしく【ママ】高等弁務官に就任したアルバート・ワトソン中将にあたえられた任務は「沖縄人がアメリカの基地を容認するような風潮を維持し、いわゆる沖縄問題が日米関係を悪化させる重大な焦点とならないようにすること」であった(これは、アンガー高等弁務官の任務でもある)。その方法は、日米援助の増額、もはや不必要となった布令の撤廃、渡航、入域手続きの簡素化、保守勢力の結集などであった。たんなるゼスチュアや実質をともなわない自治権拡大などによって、復帰の要求をなだめようとしたワトソン政策が失敗におわったのはいうまでもない。
 本土においても、沖縄問題はようやく、しんけんにとりあげられるようになり、復帰運動は年を追ってたかまっていったからである。それは、裁判移送問題をめぐる県民の反対運動となってあらわれ、ついにワトソン高等弁務官は退陣しなければならなかったのである。」(150)
「長期的目標としては、復帰がそれ以外のことに利用されないようなかたちで、しんぼう強い運動をつづけることである。わたくしは本論を四年前の拙論、「沖縄施政の現実」(『中央公論』1964年12月号)の結語をもっておわりたい。「アメリカは沖縄の基地から得る軍事的利益よりも、沖縄基地をもつことによって生ずる政治的不利益が大きい場合に、はじめて譲歩するであろう」。」(165)
●米国政府は、安定的な在沖米軍基地利用のために、日本政府の協力、具体的には経済的協力と沖縄県民の「不満」をやわらげる政策を求めた。米軍直接統治路線と日本政府からの協力要請というバランスのとり方が壊れ、施政権の保持が意味をなさなくなった地点で、返還政策への転換が起ったのではないか。
●転換点としての、キャラウェイ→ワトソン交代
●沖縄県民にとっての「復帰」と、日米両政府にとっての「復帰」のズレ。前者が後者に乗っ取られることを拒否すべきだとの意見。その点において、過去の沖縄と日本との加害/被害の関係は据え置かれているのではないか。


▼\ 日本歴史の中の沖縄(井上清)
「げんざい、日本民族から、政治的にも、経済的・社会的にも、不当にきりはなされ、アメリカ帝国主義の専制支配に苦しめられている沖縄県の人びとが、その悠久の昔の祖先の時代からいまにいたるまで、本土の日本人とおなじ人種であることには、なんらの疑がいもない。そしてその人びとのことばが、日本語の一方言として独自の経過をたどったものであることも、完全に証明されている。」(202)
●日本民族と沖縄県の人びとはおなじ人種であるとの主張。人種的同一性が即自的に「復帰」の正当性となり、復帰を求める自らの行動・思想の正当性となる。

「このこと[島津藩による侵略以降]は、人種・言語・文化の基本を共通にする日本人と琉球人との、12世紀いらいじょじょに進みつつあった経済的社会的結合を弱め、両者の民族的一体化をおさえてしまった。」(213)
●民族的一体化の歴史のなかの例外としての島津藩侵略、琉球処分。

「明治維新は、日本が、政治的には封建領主の割拠から、専制天皇制下の単一の中央集権国家になり、経済的には資本主義を支配的な経済制度として発展させ、社会的には諸地方人の集合体から全国的に一体化した近代的民族(ネイション)に結合する大転換であった。その過程で、琉球王国は、天皇政府によってまず琉球藩の名で政府直轄の植民地的属領とされ、ついで藩も廃して沖縄県とされるが、県民にはなお本土人民と同等の権利はあたえられなかった。法制上に沖縄県民が本土諸府県民とまったく同等の地位になるのは、本土の廃藩置県(1871)から半世紀もたった1920(大正9)年のことである。」(216)
「ここには政治的統合を強要するよりさきに経済的に琉球藩と本土政府とを結びつけようとする態度があるが、もしも、本土と琉球の政府の接近だけでなく、人民相互の経済的・文化的接近を促進し、琉球政府の財政をたすけるだけでなく、琉球人民の負担を減じ、生産と生活を向上させるよう、天皇政府が藩政を指導し援助していったならば、琉球人と本土人の民族的一体化が急速にすすみ、政治的統合の機も熟して、沖縄を半植民地化するようなことにはならなかったであろう。ところがちょうどこのとき、政府に台湾遠征計画がおこった。」(219)
●明治維新による政治的な近代民族(ネイション)の結合が行なわれ、その過程で琉球王国の属領化が行なわれた、という解釈。しかし、資本主義史のなかに、属領化はどのように位置づけられ、経済的な包摂と政治的な属領化はどのような連関にあるのかは説明されていないのではないか。政治と経済の相互関係。
●所与の前提となっている琉球・本土の民族的一体化が、不運な経済的な搾取によって、妨げられていた → よって復帰によって一体化をしなおす、 という言説。

「甘藷栽培地域の制限は、1888年にようやくなくなるが、貢糖制はなお1903年までおこなわれ、生産者は、まず貢糖を完納したあとでなければ製品を販売できなかった。これは、沖縄経済を本土経済と一体の国民的市場に統合する――民族統合の経済的基礎をつくる――政策ではなく、属領にたいする半植民地的収奪の政策である。」(223−224)
「沖縄を差別・圧迫する半植民地的制度がおこなわれているあいだに、本土の支配階級のみならず一般人民のあいだにも、沖縄県人を差別蔑視し迫害する思想・心理がうえつけられてしまった。」(229)→例:人類館事件(1903年)
●目指すべき国民的市場の統合ではなく、半植民地的収奪の政策がおこってしまった、という批判。国民的市場統合=民族統合への批判的眼差しは感じられない。

「太平洋戦争で一般沖縄県人が軍隊以上に勇敢にたたかい、15万人もの犠牲者をだしたのは、じぶんたちがりっぱな「皇国臣民」であり、本土の人がじぶんたちを差別するいわれはないことを血によって証明しようとしたものであった。」(230)
「沖縄県人が「忠良な皇民」となることで差別からのがれようとしたのは悲劇的な誤算であり、本土の支配階級にたいして本土の人民とともにたたかうことにしか、真の差別からの解放をかちとる道はなかった。沖縄県人を差別視する本土の人民もまた、そうすることによって、じぶん自身をもはずかしめ、みずからを支配者の奴隷と化していった。たとえば三池の炭鉱では、一般の鉱夫たちも与論島からきた鉱夫を「ヨーロン」といって軽蔑し、資本家が「ヨーロン」の待遇を悪くするのを当然としていた。そうすることで、資本家が炭鉱労働者全体の地位をひきさげ、待遇をわるくするのをたすけていたのである。」(231)
●日本兵による沖縄県人への差別、暴力、殺戮の記憶は抜け落ちたまま、民族的同一化の極端な事例として取り上げられている。
●差別からの解放、という問い。
●皇民化とは、本土の人民にとって、いかなるプロセスか、という問いの不在?


▼] 沖縄県民の意識の中の日本像(霜田正次)
「沖縄にはウチナー(沖縄)、ウチナンチュー(沖縄人)という方言にたいして、ヤマト(正確にはYamatu大和)、ヤマトンチュー(Yamatunchu大和人)という、ごく日常的な方言がある。琉球(奄美大島をふくむ)以外の日本本土を大和といい、そこに住む人びとを大和人というのである。」(234)
「そこで、沖縄では、この大和・大和人ということばを標準語でどういいあらわしたらいいか、ずいぶん苦心してきたものである。
 さいしょは、「内地」「内地人」となにげなくいっていた。ところが、台湾や朝鮮などの「外地」とちがって、沖縄県はれっきとした「内地」ではないか、というので、新聞などで意識的に「他府県」「他府県人」ということばがつかわれるようになった。そして、この奇妙なことばが、戦前は大和・大和人の公式な標準語だったのである。
 それが戦後は、「日本」「日本人」になった。わたくしは1953年に戦後はじめて沖縄に帰郷したとき、ほとんどの人が「日本」「日本人」といい、まるで沖縄は日本でなく、沖縄人は日本人でないかのようないい方をするので、びっくりしたものである。しかし、このいい方は、やがて復帰運動の高揚のなかで、「本土」「本土の人びと」と変わってこんにちにいたっている。
 こういうことばの変遷をたどるだけでも、「沖縄県民の意識の中の日本像」をあるていど想像することができると思うが、以下にもうすこしたちいって、歴史的にみてみよう。」(235)
●ヤマト、日本、本土、内地という言葉についての歴史。

「「琉球処分」は、沖縄の人民にとっては、薩摩と琉球王朝の封建的二重支配から解放され、「近代国家」に編入されることを意味したから、客観的・歴史的には歓迎すべきものであった。しかし人民は、流通経済の未発達、農業生産の原始的停滞性などのために、みずから封建制を打倒する力をまだ蓄積していなかった。そのため、置県処分にあたって、それを真に民主的・近代的改革とするために、積極的役わりをはたすということがほとんどできなかった。」(236)
●封建的二重支配からの解放としての「琉球処分」という定義・・・。

「日本政府のこのような差別政策が、沖縄県民の意識に歴史的につちかわれてきた「大和」という日本像を正し、本土と一体化していくうえで大きな障害になったことは、いうまでもない。そのゆがみは、沖縄側の主体的な力の弱さ、未成熟のために、近年にいたるまで被害者意識的なコンプレックスを形成してきたのだった。」(237)
●差別政策によって、正しい一体化とそれを求める意識がゆがめられた、という主張。差別政策という歴史がなければ、正しい一体化がなされたはずである。被害者意識的なコンプレックスは民族的一体化にとってゆがみであり、障害であるとの主張と考えられる。

「こうした民権運動や啓蒙運動は、やがて社会主義運動にひきつがれ、昭和初年代の棚つにさいして沖縄県は、東京・京都・大阪の都市地域についで、もっともおおくの「思想犯」をだすという、反権力運動のねづよさをしめした。」(241)
●民権運動、啓蒙運動→社会主義の系譜。この歴史的記述と琉球処分、復帰運動の記述とのギャップ。

「アメリカ占領軍が政策的に「琉球」を復活させ、日本からきり離していったこともあって(アメリカ軍は投降勧告ビラのなかですでに「アメリカは内地人と戦っているのです。ですから戦争をしたくない沖縄の皆さんを苦しめたくはありません」と書いていた)、沖縄の人びとの意識のなかで、本土は遠いものになった。そしてアメリカ軍の使用法にしたがって、「他府県」が「日本」になり、「他府県人」が「日本人」になったのである。」(242)
「しかし、その体験[半植民地的な差別政策]は同時に、被害者意識的なコンプレックスとなって、復帰運動の足をひっぱる要素ともなっている。たとえば、基地経済に奇食する売弁資本家とそのイデオローグたちは、復帰運動に反対し(かれらは公然とは反対しないが、時期尚早だといっている)、県民のこのコンプレックスを利用してしきりに差別の問題を強調している。また一部の知識人のなかにも、主として復帰運動に実践的な責任をおわず、傍観者的なたちばに身をおいている人びとのなかに、しつように差別にこだわる人たちがある。」(243)
●被差別意識=あしをひっぱるコンプレックス→復帰運動ありきの分析。コンプレックスや被差別意識をどのように位置づけなおすかが問われていた。日本留学中の沖縄出身学生たちの運動が、このような歴史認識と思想に反旗を翻したことの必然性を感じる。

「運動にしんけんにとりくんでいる人たちは、本土の民主勢力との連帯を重視し、ともにたたかっていくなかで、差別の本質、その階級的本質を理解していく。だからかれらは、差別を問題にするのでなく、差別を生みだしたかつての天皇制反動政府、戦後それがアメリカ帝国主義とくんでふたたびおなじ道を歩もうとしている現自民党政府にたいして、本土の民主勢力とともに攻撃を集中していく。」(244)
●本土の民主勢力との連帯が前提となっている。その前提が、「現自民党政府」によって利用されていく政治過程のなかで、自治、独立、自立の運動・思想を掲げた人びとが60年代末から生まれてくる必然性。

「本土と沖縄との歴史的関係からくる意識のもつれをただし、真の意味の国民的統一を実現する道であることはいうまでもない。」(245)←「沖縄はみずから帰る」「祖国復帰はわれわれの手で」というプラカードをもつ高校生たちの運動を評して。

▼XI 日本人の意識の中の沖縄(新里恵二)
「日本という国を身体にたとえ、沖縄を小指の先にたとえながら、日本国民は小指の先の痛みに冷淡であっていいのだろうか、という訴えが、しばしば沖縄現地の側からなされる。一つの比喩として、本土国民の民族的責任感に訴えるためのものであれば、わたくしにも、訴える人の心情をもふくめてよく理解できる。しかし比喩は、ときとして事態の本質の全面的認識を阻害させる。われわれの祖国は五体満足かつ健康であって、小指の先だけが外傷かなにかのために傷んでいるのではない。比喩にたいするに比喩をもってすれば、日本という身体全部に病毒がまわっており、そとからの観察だけではなかなかわからない病毒の存在を、圧縮したかたちでみせてくれる患部・局部として小指の先があるのだろう。「祖国日本は講和条約で独立を獲得し、経済的繁栄を謳歌している。しかるにわが沖縄は、いまなお異民族の支配下におかれ……」といった沖縄現地の側からの発想を運動内の討議で克服しなければならない時点に、いまわれわれはさしかかっているのではないだろうか。
 理論的に整理すれば、事態の本質は、サンフランシスコ平和条約第3条による沖縄の全面占領と、同条約第6条およびそれを受けた日米安保条約による日本本土の半占領とが、一体となって、アメリカにたいする日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧と収奪維持の体制としてのサンフランシスコ体制をつくりあげている、と要約できるだろう。
 問題は、右の事態のなかで、本土の側からは「全面占領」と「半占領」との「実質的な差異」について、実感をともなう理解を形成できるかどうかであり、逆に沖縄現地の側からは、「全面占領」と「半占領」との「本質的な同一性」について、経験のわくをこえた理論的認識を形成できるかどうかである。沖縄県民をふくむ日本民族の、アメリカ帝国主義にたいする関係について、本土と沖縄現地の、このような共同の認識のふかまりこそが、そしてこのような共同の認識にもとづく国民的な規模での沖縄返還闘争のたかまりこそが、沖縄にたいするいわれなき差別や偏見を、終局的に解消させるものであろう。」(253−254)
「沖縄だけが悲惨な状態にあるのか、はたして本土はほんとうに太平無事なのか。このような日本民族のおかれている客観的状態の学習や理解とむすびつくとき、はじめて沖縄についての事実認識の獲得と、日本人としての民族的主体性の確立とが、たしかなつながりをもってくるのではないだろうか。」(257)
●「小指」のたとえの評価: 小指のみが問題であるのではなく、身体全体の問題である、という認識の転換。しかし、沖縄=小指=身体の一部であるという前提はかわらない。
●サンフランシスコ体制のなかで、本土=半占領、沖縄=全面占領という一体となった、けれども、異なる役割を与えられているという理解の仕方。しかし、その理解の目的は、差別・偏見の克服と「国民的な規模での沖縄返還闘争」である。この目的には、異民族支配という、本土と沖縄をつらぬく現状認識がある。

「沖縄を日本本土の水準までひきあげようというのが復帰要求だという、3年前のわたくしの定式が不十分だっただとすれば、沖縄の日本復帰とはなんなのか。現在のところわたくしは、それを、(1)沖縄に日本国憲法を適用させること、(2)アメリカの極東戦略の一環にくみこまれている沖縄が、そこからぬけだすこと、換言すればアメリカの極東戦略態勢が、その最重要な拠点において崩壊させられること、(3)右の(1)(2)との関連で、日本本土でも一定の変革がおこなわれること、だと考えている。沖縄の日本復帰は、このような内実をともなうものであってはじめて、沖縄県民をもふくむ日本国民にとって祝福されるべきものとなるはずである。」(254)
●復帰の定義。反アメリカ、日本の変革、憲法適用。


▼XII 沖縄の文化の問題への一視点(石田郁夫)
「沖縄の文化の生産物のひとつとして、あの「荒年」の時期に、全国化されたのが、「沖縄百号」だった。その恩をわたくしは忘れてはいない。その報恩のためにも「忘れられた日本の可能性談義」の花ざかりのなかへ、一言してみる必要があるのではないかと、肚をくくって言挙げするというのが前口上だ。」(263)
●日本文化の忘れられた形態としての沖縄という流行りへのアンチ。

「現象的、部分的には、腐蝕されもしようが、道理にもとる、異民族の強権の支配は、根元的には、住民の生活と、その意識の総体には指いっぽんさえふれることはできまい。この面では、どのように巨大な基地も武力も、ものの数ではない。」(264-265)
●民衆への信念。しかし、それはなぜなのか、なぜそう言えるのか、という素朴な問い返しが必要だ。あるいは、腐蝕のみならず、変容の過程をどう論述するのかという問いがなければいけない。民衆史の方法論や視座のなかで、沖縄闘争史を再定位しなければいけない。素朴な民衆論も、民衆鎮圧/抑圧史でもない、実相を描く学問を。

「「沖縄を返せカエセ」という歌がある。(カエセというのは合いの手)わたくしは、これを歌わなければならないときは、恥の感覚で、にえくりかえる。「民族の怒りに燃える島、沖縄よ、われらとわれらの祖先が血と汗をもて守り育てた沖縄よ」われらは叫ぶ、沖縄よ、我らのものだ、とくりかえす、この歌は、まさにハレンチきわまりない、とわたくしは、歌いながら、冷汗がでてくる。この歌のなかの、「われら」とは誰だ、という問いつめを自分にして、吟味なしで平然と「われら」と歌っている、その「われら」の複合体から脱出したくなる。たかが歌ではないか、めくじらたてることはないと、いわれれば、それまでだが、この歌を平然と歌い、それどころか、恍惚としてすら歌っている感覚は、沖縄を、本質的に解放しない、解放する側には組みすることはできないのではないかと、わたくしは考える。無知であり、無恥であり、ごうまんなものが、その感覚の底には、わだかまっていると、わたくしは思う。もちろん、それは、本土の人間が、歌うばあいのことだが、沖縄の人びとが、歌うばあいも、一種の、うろんな感じが、もやもやとたちのぼるのではないか、と思う。」(268−269)
●「沖縄をかえせ」論。沖縄を解放しない、「われら」の複合体からの脱出したくなる、という情念に注目したい。

「ニセ歌の放歌乱舞の状況は、闘争の内的主体の絶望的な未創出の直截なあらわれだ。それはまた、日本の運動の「文化」ていどの平均的水準をしめす指標としてそこにある。」(269)⇔伊江島 陳情口説
「沖縄の闘争の根元のところには、このような、はえぬきの歌があった。忍従のなかで、うたいつがれてきた歌の伝統を現在の状況のなかに活性化させた、みごとな歌のたたかいがあった。ところが、「歌ごえ運動的」要素が、本土との交流のなかで沖縄にはいってきて、手がくわえられると、おなじ土地とりあげの歌でもつぎのように、ひからびきってしまう。」(271)
「このような「文化」の一体化は、わたくしは願いさげにしたい。歌の空文句の戦闘性は、闘争力の低下とみあうものだ。沖縄の歌を解放の歌にしていくためには、伊江島の歌の方向を発展させることだと、わたくしは思う。」(272)
●闘争の内的主体の創出としての「はえぬきの歌」と、ひからびきった「歌声運動的」要素としての歌。

■XIII 沖縄返還を実現するために――返してもらうのではない 返させる 返さざるをえなくさせるのだ(中野好夫)

「昨年来にわかに「本土なみ基地つき」返還を主張する民社党と、かねてから即時・全面返還を主張してきている社会党、共産党、公明党(公明党も67年秋から、即時・全面返還の路線を明確にしてきた。また共産党は、さらにその上に「無条件」という三字を加えている)との間には、残念ながらきわめて大きなひらきがある。」(275)
●各党の論調、方針の異なり。

「沖縄県民側からの発言で、「われわれは、本土の安保反対運動の道具(正確に道具ということばでないにしても、意味はそうである)につかわれるのはごめんだ。とにかくわれわれには復帰が第一だ」という発言を、多数ではないが、耳にしたり読んだりしたことがあるからである。」(281)
「復帰運動に関連して、民族独立解放、すなわちナショナリズムか、階級闘争かという問題もあるようである。げんに沖縄でも、最近、いちおう問題になっているらしい[…]復帰運動が、歴史的にみても民族解放と平和という、だいたいナショナリズム路線を主軸にしてもりあがってきたものであることは疑がえないが、なにしろ四半世紀にもちかい分離支配の歴史のなかでは、小さいながらもそれなりにみごとな階級社会をつくりあげてしまっている。」(281)
●沖縄闘争が安保打破、サンフランシスコ条約第3条廃棄にむかうなかで取り組まれるべき、との本土側の運動の論理への、沖縄側からの批判。
●階級的視座からの復帰運動批判。

「とくに本土側のそれに要望したいことは、本土などではとうてい想像もおよばない厳しい条件下に、20年以上もおかれてきている沖縄同胞の複雑な心情に、いくらかこまかい考慮をはらってもはらいすぎにはならないということである。独善は、あくまで排しなければならない。」(282)
●本土と沖縄とのギャップを認識せよ、との戒め。

「筆者の私見をいえば、沖縄奪還国民運動の方針、そして目標としては、即時全面復帰(さらに共産党のいう「無条件」を加えても、べつに異存はない)以外にありえないと信じている。」(288−289)
●国民運動としての復帰運動

「一体化政策なるものが複雑微妙だと書いたのは、その内容が一面には絶対に容認できない危険きわまる要素をふくんでいると同時に、他面ではわれわれ即時・全面返還の支持者としても、けっして反対することのできないむしろ促進すべき要素ももっているばかりでなく、しかもある場合にはそれら二つの要素がほとんど不可分にからまりあっているからである。」(296)
→産業・経済開発、教育(教公二法)や治安警察をめぐる一体化への批判

「第三の問題は、今後いよいよ奪還勢力を増大させようというのであれば(もちろんそれをしなければあらぬのであるが)、裾野の拡大ということを重要視しなければなるまい。裾野とは、かならずしも活動家や活動団体でない市民層の獲得である。」(301)
●すそ野の拡大としての市民への注目。沖縄にかんする市民運動やサークルの存在を考慮に入れてのことか。



■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20120119
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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