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『現代の恥辱――わたくしの死刑廃止論』

正木 亮 19680720 矯正協会,385p.


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■正木 亮 19680720 『現代の恥辱――わたくしの死刑廃止論』,矯正協会,385p. ASIN:B000J9K2EG \650 [amazon][kinokuniya] c0134

■内容(はしがきより)

「従来わが国の死刑存廃論は刑法を中心として行なわれている。刑法学者の独壇場である。しかし、死刑の問題は「生命は全地球よりも重し」という、あのスマイルスの名言、そして後にわが国の最高裁判所に用いられた全地球よりも重い人間のいのちを刑法学者だけにゆだねたこれまでの誤ちを反省するときがきていることを看過してはならなくなった。
 アウシュヴィッツ以下のラーガーで六〇〇万人の虐殺が行なわれたのはヒトラーが人命を軽視したことに始まる。日本軍隊が大東亜戦争で二五〇万人を戦死させている。これもまた一人の生命を軽視することから始まったのであった。イタリア憲法、西ドイツ憲法が死刑を廃止したのはこの大量殺人をきたした戦争の惨禍の再び起こらないことを欲しての結果であり、戦争と死刑の不可分関係を明らかにしたものであった。
 広島や長崎の原爆投下は、日本人に対し連合軍が死刑の執行として行なったものといえないであろうか。わたしはその原爆の洗礼をうけ被害をうけた一人である。こういう一発二〇万人という殺戮をきたし得る戦争を喰いとめることは、一人の生命の尊貴ということを社会に徹底させることから始めなければならない。
 わたしが、その考え方の上に立ち、あらゆる角度から死刑問題を論じ、或いは時にふれ折にふれて随想を書きとめたものを集めたのが本著である」

■目次

はしがき
絞首刑は残虐か
文化の様相と刑罰
死刑囚と小鳥
最近の死刑問題
死刑と矯正官の地位
死刑と新聞
死刑存廃論への一考察
死刑廃止賛成論
死刑に代るもの
マリー・アントワネット
死刑囚の自殺
刑法の改正と死刑廃止
ガイルス・プレイフェアーの“死刑は必要か”を読んで
死刑廃止の理論活動と運動
現代の恥辱
権力の魔力
死刑廃止は一歩前進した
生命の尊重
死刑囚の処遇
絞首刑をめぐる諸問題
憲法と死刑
無実の罪
死刑問題と矯正官
法務大臣と電気殺
死刑廃止運動一〇年の足あと

■引用

「昔徳川家康は首斬浅右衛門の制度を設けた。首斬浅右衛門は、家康からその子々孫々に至るまで罪人の首斬りをその世襲職業として認められた。しかし、家康は浅右衛門を武士として認めることはなかった。格式一万石に相当するといわれた浅右衛門になぜ家康が武士たるの資格与えなかったかということがいろいろに想像されるけれども、結局はその職業が武士という幕府の一役人の職業にふさわしくからぬという理念の上に立ったものと思われる」(p35)
→(補足:櫻井悟史)事実誤認である。初代山田浅右衛門、山田貞武は1657年生まれで、このときすでに家康は没している(氏家1999:217)。また、山田浅右衛門の本職は様斬り(ためしぎり)であり、首斬りではない。

「かように、戦争を放棄してしまい、国家が人間を戦争死に追いやることをやめてしまったことは、結局、その国家が国民の生命の重さを認めたことであるから、国民自らもまた自己の生命を尊重しなければならないことになったのである。自分の命も他人の命もみな大切にしなければいけない。人殺しはおろか、自殺も犯罪であるという倫理を昂揚していく国民教育の大地が作り上げられたわけである。
 ところが、この新しい国民倫理思想の上に取りのこされ未解決のままである問題がある。それがすなわち死刑である。死刑は極悪犯人を膺懲する唯一の手段であると大昔から考えられ、その考えがしみこんでいるから容易に解決のできないことは当然であるが、しかし、死刑の実体は、>70>国家が権力をもって人殺しをすることである。死刑を執行する矯正官はその犯人から個人的な被害をうけているものではない。その矯正官はただ国家の命令に基いて殺人をするのであるが、命令によって人を殺すことにおいては、戦争と何ら異なるところがないのである。国家は一面において戦争を放棄しながら、他面において権力殺を認める矛盾を犯すと同時に、また一面、国民の生命の尊さを教育しながら自らは法律殺人を行なうというギャップを敢えて行なっているのである。新しい国家はそんなギャップのある刑罰、いいかえれば、そんな迷信的な刑罰を維持するよりも、もっと有効な合理的な刑罰乃至制裁に移行して犯罪の防波堤とすることが賢明であるという反省が行なわれるようになったのである。(中略)
 今日の世界人はかように死刑問題を反省している。矯正官は国家から死刑の執行を無批判に命令され、そして殺人の業に当たっているのである。その矯正官という名前自体が示しているように、矯正官とは本来囚人を矯正しこれを人間に復帰せしめることがその職務であるに拘らず、その教育官が素顔で人間を殺さなければならないということに無反省であり得るならば、矯正官ということは名のみで徳川時代の牢番の地位にあまんじているというそしりを受けてもやむを得まい。徳川時代の死刑は、武士に対する刑の場合を除いては非人谷の者が穢多頭弾左衛門の指揮に>71>よって行なったものであるが、徳川時代でさえ死刑の執行は常人の行なうものに非ずとされていたものを、今日無反省のままそのことに当たることは、全く、矯正官として、立場を省りみないことにもなると思われる。制度のある限り、命令によって執行はしなければならないとしても、深い反省は決して怠るべきではない」(pp.70-72)
(補足:櫻井悟史)→徳川時代の下りは、事実誤認である。死罪、下手人は庶民に課せられた死刑であるが、町奉行同心の内当番若同心、あるいは浪人山田浅右衛門がこれを執行した(財団法人刑務協会編 上1943:660)。

「しかし、徳川時代の死刑と雖も非常に残酷で末期に近づくにつれて、残虐刑は追加されていった。徳川の用いた死刑は次のとおりであった。

 1、下手人 被害者のためにする斬刑である。だから被害者に罪人を下附して殺させもする。
 2、死罪 斬刑とも吻刑ともいわれる。いよいよ執行するときは出牢証文をもって言渡し、直ち>76>に非人大勢にて取りかこみ死罪切場につれて行って、手伝人足が囚人を押えをるを打役が首を打ち落すのである。この場合の死刑執行人はみな非人である。日本死刑執行人の地位がいかに賤しいものとされていたかがおわかりであろう。
 3、獄門 獄門とは、馬の鞍の上に菰一枚かけ死刑囚を乗せ、馬付き非人が左右から縄をとって動かぬように牢獄の裏から出て、先払非人五人、幟持ち捨札持ち手代り共六人の非人、鎗二本、挿道具を持つ者がつき添い、手代わりの者は何れも穢多頭輩下の谷の者八人にてそれぞれ分担、四人の非人が囚人につき添い、宰領は穢多頭弾左衛門輩下、谷の者二人、宰領小屋頭非人二人にて行列を作り定められたる道筋を引廻し獄に帰り獄内で打首にする。
 4、磔 罪木に十文字にくくりつけて、左右両端より槍数三〇筋つきさし、最後に左右より咽喉にとどめをさして殺す。この執行をする者も多頭非人弾左衛門の指揮により非人数名で行なう。
 5、逆磔 罪人をさかさまに罪木にくくりつけて殺す方法。
 6、水磔 これは寛永年間吉利支丹征伐のために用いた磔刑で、寛永一七年品川の水打際で七〇余人を逆磔とし、満潮のたび毎に一時的に窒息死させ、八日間にて殺した刑罰。執行人は非人・
 7、火罪 これは小塚原、鈴が森または犯罪地で行なった刑で、罪人を馬で町中ひき廻し、縛をとかないでそのまま罪木にくくりつけ、茅、薪を四面に積み重ねその上にたばねざる茅を散らし火をつけて殺す。所要薪二一〇把、茅七〇〇把、大縄二把、中縄二把、柵佐野薪七〇把用いる。執行人は非人。
 8、鋸挽 罪人を土中にうづめ、首を出し、罪人の両肩を切り、その血を竹鋸にぬりつけ、道行く人にて望むものあれば挽くことをゆるす死刑方法。執行人は非人。

 このように、武家時代の死刑は残虐極まりのないものであったが、これらの執行を武士にやら>77>さなかったこと、そして、その執行人が非人、谷の者という特殊の階級者があてられたというところに、武士そのものですら死刑の執行をさけたということを考証することができるのである。わたくしは、この徳川時代の死刑に関する執行人の問題が、今日の行政制度上少しも考慮に入れられていないのではなかろうかとの疑を持つのである。そして、わたくしは、そういう歴史的な刑罰執行上の地位を、今日の矯正官が少しも反省することなく受けついで、しかも、死刑がなければ国家社会に犯罪の波が高まるであろうと考える者があるとすれば、わが国の刑罰思想は、徳川時代以上のものではないし、行刑の文化などということは一場の夢に過ぎないと思う」(pp.76-78)
(補足:櫻井悟史)→多くの事実誤認がある。下手人、死罪の執行したのは、町奉行同心の内当番若同心、あるいは浪人山田浅右衛門である。死罪が、「斬刑とも吻刑ともいわれる」と書かれているが、斬刑(正しくは斬罪)は「御家人以上の者にして火付、盗賊、人殺等武士道にあるまじき重罪を犯せるもの又は國事犯の如きを處し」(財団法人刑務協会編 上:746)とあるとおり、士族に課された死罪であり、明確に使い分けられていた。また、斬罪方法の箇所には「此の時既に首討町同心は罪囚の左側に在つて首を打つ。非人は直ちに之を拾ひ洗ひ檢使及徒目付に示す」(財団法人刑務協会編 上:746)とあり、非人が「死刑執行人」ではないことも見てとれる。獄門も「檢使與力等の出役より斬首に至るまでの手續は略ぼ死罪の場合と同様であつた」(財団法人刑務協会編 上:686)とあるので、「死刑執行人」は町奉行同心の内当番若同心、あるいは浪人山田浅右衛門であると考える。鋸挽は、「道行く人にて望むものあれば挽くことをゆるす」と正木自身が書いている通り、「死刑執行人」になるよう望まれたのは、町人である。以上のことから、「このように、武家時代の死刑は残虐極まりのないものであったが、これらの執行を武士にやらさなかったこと、そして、その執行人が非人、谷の者という特殊の階級者があてられたというところに、武士そのものですら死刑の執行をさけたということを考証することができるのである」という下りは、考証できていないといえる。

「矯正官は牢番ではない。矯正官は教育者である。教育者たるために死刑制度の反省を……」(p84)

「しかし、その場合と異なり、絞首刑執行人の立場は異なる。彼等は眼で見て残虐と感ずるのである。そういう残虐を避けるために、アメリカの電気殺では、執行人が直接手を下して殺すことを避け、瓦斯殺もまたそういうことを避けるために発明されたものである。それらの例によると、執行人の感ずる残虐感は非常に評価されている。
 ところが、わが国の絞首刑は執行吏が直接手をかけなければ目的を達し得ないようにできている。この場合、執行吏たちの感ずる残虐感は評価外のものであろうか。
 憲法第二五条は、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定している。絞首刑の執行ということは人類にとって最も不健康で非文化的な行為である。そういう不健康にして野蛮なことをする職業から救ってやってこそ、この条文の生命があるにもかかわらず、執行吏に公務としての月給を支払い、人間を殺すという職業につかせることが死刑以上の残虐であるといえないものであろうか。
 かような点を研究していくと、絞首刑が残虐であるか否か、それが憲法第三六条に該当するものであるか否か、がそう簡単明瞭に割り出せるものではない」(p268)

「日本国憲法は、死刑問題に非常に大きな波紋を投げた。殊に第三六条は「残虐な刑罰は絶対にこれを禁ずる」というのである。太政官布告第六五号の規定、すなわち、「絞罪器械制式」にあげられているような絞首方法、すなわち、地上絞架式なら今日何人もこれを残虐であるというであろう。その残虐をさけるためにゆるやかにしたのが、今日の制度すなわち地下絞架式である。>296>しかし、その改良は旧憲法下においてゆるされた行刑当局の恣意であって、新憲法下に通ずるものではない。すなわち、憲法第三六条の残虐な刑罰は厳禁するという規定が効力を発生した日に、太政官は死んでしまったのである。その日から地下絞架方法は法根拠を失ったまよい子である。
 太政官を生かしたことは、そうしなければ、絞首刑の合憲性を結論づけることがむつかしいための窮余の弁であったとみることができる」(pp.295-296)

「明治四〇年の帝国議会で、刑法が成立したときに、当時の監獄協会は、全国の監獄官すなわち典獄、教誨師等から改正刑法についての所感を求めてこれを『監獄協会雑誌』に掲載したことがある。約四〇名からの筆者が筆をそろえて改正法が死刑を採用したことを難じている。彼等はその総てが、自己たちの理想は死刑にあたる犯罪人でもこれを改過改善することにその尊き使命があると確信して、声高らかに監獄官は人間を殺す職業ではないと叫んでいる。
 今日はそれから七〇年を経過し、文化も進み、日本の行政は世界に誇るほどの進歩を示している。にも拘らず、今日の矯正官からは誰一人の声としてもこの死刑問題に関する所見が出されていない。『刑政』誌としてはまことに恥しい次第であり、また、矯正官たちの人命への無関心さがまことに、まことに淋しく感じられてたまらない。今やこの問題は世界の問題となっている。日本の矯正官も今年からこの問題とも取り組んで貰いたい。
 『刑政』第七七巻第一号・昭和四一年一月」(p309)

「わたしは、昭和二〇年八月六日に広島で原爆をうけた。わたしの愛娘と愛甥が殺された。親類の田丸さん、横山さんの一家が皆殺しになった。そして、たくさんの二〇万という生命が消えて行った実況をこの眼で見た。戦争―犠牲―生命―権力殺。これは法律論の問題ではないぞと思った。国民から生命を奪うあらゆるものを消していかなければならないと思った。殺人罪、死刑、>319>戦争、それが合法的であろうとなかろうと、およそ人間の生命を奪う行動は、それが犯罪人であろうとなかろうと消していかなければならないと思った。
 その後に、死刑廃止論なんかも、刑法の先生たちと法律上の論議などをするよりも、国民全体に生命の尊さを知らせること、戦争反対の思想をまきおこすこと、死刑などという野蛮な刑もやめてしまうこと、人を殺すような人間はこれを長く隔離するということに理解をもたせる運動を展開する必要があると、つくづく考えたものである」(pp.319-320)
「同年五月二八日 わたしたちは「刑罰と社会改良の会」の規約をつくり、会員を決定し、そして会費を年三〇〇円として雑誌代を五〇円に決定した。この会費、この雑誌代だけをもってこれからの運動がつづけられるものではない。この大きな社会運動のために、わたしは資金がほしかった。けれども死刑廃止のためにそんな資金を得ようとしても得られるものではないのが今日のわが国の刑罰観であった。(中略)>342>343>
 死刑の執行をその職務内の一つとする行刑局長が部下を派遣して、われわれのこの文化活動に援助されたことを忘れてはならない」(pp.342-344)
→(補足:櫻井悟史)同年とは、昭和30年のことである。

■書評・紹介

■言及



*作成:櫻井 悟史 
UP:20080911 REV:20080912
「死刑執行人」  ◇死刑執行方法  ◇身体×世界:関連書籍 -1970'  ◇BOOK
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