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『食卓作法の起源』

Levi-Strauss,Claude[クロード・レヴィ=ストロース 1968 L'origine des manieres de table,Plon.
=20070911 渡辺 公三・榎本 譲・福田 素子・小林 真紀子 訳,『食卓作法の起源』 みすず書房,

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last update: 20180223

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Levi-Strauss,Claude[クロード・レヴィ=ストロース 1968 L'origine des manieres de table,Plon.=20070911 渡辺 公三・榎本 譲・福田 素子・小林 真紀子 訳 『食卓作法の起源』 みすず書房,604+52p ISBN-10:4622081539 ISBN-13:9784622081531 8600+ [amazon][kinokuniya] w/lc01


■目次



第1部 バラバラにされた女の謎
  1犯罪の現場で
  2つきまとう半身

第2部 神話から小説へ
  1季節と日々
  2日々の営み
第3部 カヌーに乗った月と太陽の旅
  1異国的な愛
  2天体の運行
第4部 お手本のような少女たち
  1お嬢様であるとき
  2ヤマアラシの教え
第5部 オオカミのようにがつがつと
  1困難な選択
  2マンダン風臓物料理
第6部 均衡
  110個組み
  2三つの装飾品
第7部 生きる知恵の規則
  1傷つきやすい渡し守
  2料理民族学小論
  3神話のモラル

訳者あとがき

文献
神話索引
総合索引

■引用

これらの神話では、ある星座――オリオン座、ヒヤデス星団およびプレヤデス星団の起源を身体切断に求めている。また、神話M393-M394でも、月や虹の起源及び特定の星座に限定せずに星一般の起源が、類似のしかたで説明されている。そのため、分割の定形表現も変化している。そこで、新たに紹介した諸神話では、次の三種類の切り分け方の間に意義深い並行関係が存続していることが確認できる。その第一は、社会的な切り分け方で、近親者と縁遠い者というカテゴリーを規定しその範囲を定めている。第二は、天体の切り分け方で、昼間の諸現象と夜間の諸現象を分離したり再編成している。そして最後に、身体部位の切り分け方があり、人間の身体をばらばらにするいくつかのやり方の中から適宜選択がなされている。それゆえ、ここで扱っている神話全体が、多くの事例を通じて明示するのは、いくつかの様態を取る三重の変形である。この点の分析は、二項性と類似性という二つの観点に身を置くことで可能になる。116

しかしながら、ギアナ地方の民族動物誌は、本書で論じたものと必ずしも一致しない。たとえば、物語の様々な時点で登場するジャガーについては、インディアンたちがこの種を下位分類している点に考慮すべきであり、また他の種についてもそれぞれはっきり区別される多様性をもち、おのおのが別個の獲物を餌にするとみなされている。だから、コロロマンナが出会った動物たちは、二つの>142>指標、つまり、インディアン達が食べる動物学的な種、および植物学的な種という指標を付与されている。同じくジャガーも、彼らが選んでおり、その鳴き声を模倣できる種に従って識別されている。というのも、アラワク族が言うには、「どんな事物のそれぞれのジャガーがいる」からである。
 ここで、諸神話で描かれた動物のリストには、あらゆる場面でつねにわれわれの理解を超えた組織化原理が隠されているのだ、などと主張しないように注意しよう。
 …なぜならギアナ地方のインディアンは、おのおのの星座に個別の獲物の種を支配する精霊がいると考えているからだ。… 141-142

ここで取り上げた諸神話を、ある種の星座の年間の動きを映した黄道帯の定形表現にのみに還元してしまうなら、それらの神話の独自性を軽視することになると思われる。先住民の理論が各動物種をひとつの星座を結び付けていて、その星座が現れる時やもっとも輝くとき、それが狩りや漁をすべき時期、あるいは獲物の繁殖期などを予告するのはおそらく確かだろう。しかし、ここで話題にのぼる動物の数はきわめて多く、それらは相対的に短い時間間隔で、さらに理想的リズムとしては、一晩に一匹ずつ登場するのである。また同時に、それらの動物のものとされた行動について、もはや具体的な動物学的言及は見られない。むしろ、我々から見ればそれはヒロエロムニス・ボスをほうふつとさせる仮面劇のようなもので、転がる頭、槍の片脚をもつ男、長い睾丸をもつ男、逆さまに歩く男たち、おしゃべり好きな糞便などといった想像上の存在がそれらの動物と入り混じって描かれている。あらゆるものが、それらの属する神話的パラダイムから解き放たれて不意に物語の中に出現してくるのである。… 143

すなわち、切られた首、盲目あるいは片目にされた首、斜視、正視などが、それぞれの相互関係の中で夏の太陽と冬の太陽、過度な太陽と適切な太陽、昼の天体と夜の天体を秩序づけ、規定する役割を担っている。(172)

(マチゲンガ神話)
この観点により得られるのは、それらの神話が、近い結婚と遠い結婚との社会的対立を、天体に関わる対立と関連させているという補足的な証拠に他ならない。

近い結婚すらも不可能にするペニスの欠如から適切な長さのペニスの獲得にいたるわけだが、その中間段階は、遠い結婚にしか使えないような長すぎるペニスである。こうしてワイワイ神話は、いくつかの神話が社会的もしくは天体の言葉で語ることを解剖学的な言葉で説明している。いっぽう、二つか3つのコードをどー時に用いる他の神話もある。どの場合にも、各神話は、ひとつの包括的な意味場のどの領域をたどるかというそれぞれのルートによってきちんと定義されうる。そしてこの意味場の諸相は今や明らかになり始めている。190

こういえば、もっと正確に説明できるかもしれない。天と地に関わるがゆえに垂直な天体の軸と遠近という両極のあいだで水平な地理的な軸とは、同じく直角に交わる別の二つの軸、すなわち、高さ(頭)と低さ(脚)とを両極とする解剖学的身体部位の軸と、内婚(近)と外婚(遠)とを対立させる社会学的軸に縮小され投影されているのである。(195)

赤道アメリカ諸神話の観念体系の骨格は、したがって、昼夜平分型の時間軸と、旅行の方向により同じ距離同士が等しくなくなってしまう、空間軸との間に、先住民の思考が矛盾を見出すという下部構造に結びついているように見える。(195)

神話が人間の視点におかれ、第一の対立が文化と自然との対立となる場合、自然は宇宙に関わる二分法における地理的極と一致する。だが、自然というこのカテゴリーはまた二つの様相を入れる余地がある。一方の生物学的様相の位置についてはすでに示された。もういっぽうの技術的様相は、文化というカテゴリーから生じる対立項の一つと一致する。対立項のもう一つは社会学的なそれだが、これもまた対立を生みだす。それはつまり集団内/集団外の対立で、そこからはまた新たな枝別れを通じて内婚、外婚、あるいは戦争へと行きつくことができる。あるいは独身、インセスト、または婚姻、その他へも同様である。212

食物摂取の視点からは、穴をあけられた人物は、二通りのやり方でそうなっている可能性がある。つまり、ひとつは内臓の不在で、その結果、食物は通常の経路をたどって身体を通過する―口から肛門へ―が、そのスピードは速すぎる(時間的軸)。もう一つは、身体の不在(転がる頭、脚のない女、その他)、その結果、のどのあたりで排出される食物の旅は不自然なまでに短い(空間的軸)。他方、穴をふさがれた人物は口(高い)ないし肛門(低い)を奪われているかに見える。 214

料理の起源についての諸神話から、昼と夜の交替ないし相互緩和の起源についての諸神話へと移ることで、われわれは、第一段階の集合から第二段階の集合の考察へと進んだ。今や直面する問題は、各項の間の単純な対立ではなく、より複雑な、最初の対立を表現しうるような二つのもーどの間の対立となる。この館で取り上げてきた新たな諸神話は項渡航を対立させるにとどまらず、それらの項の相互対立が可能になる種々の仕方を対立させている。対立の諸形態を互いに対立させることで、判断論理から正真正銘の命題論理への移行を物語っているのである。217

カヌーの旅という図式は、二つの操作の同時遂行を可能にする。ひとつは、論理的な型の操作で、異なる段階で取り上げられた様々な対立を総合し、内部のそれぞれ対立する各項がひとつの新たな対立を形成するような体系からなる包括的産物を生みだす。もう一つは意味論的な型の操作で、空間的(垂直及び水平)、時間的(旅と暦)、社会学的(独身と結婚、内婚と外婚、婚姻と戦争)、そして解剖学的身体部位の(四肢切断と破裂、開くか閉じるか、生理的諸欠陥)領域を同じく総合し、太陽=月という一対がその特徴を要約するようなその包括的産物を生みだす。219

歴史的方法では、どんな場合でも、民間伝承における時事実というものが何から成り立っているかを問題にすることがない。より正確に言うと、観察者が問題の見かけの内容にもとづいて、主観的にそう評価したすべての要素が事実と認められるのである。還元作業がなされることは皆無といっていい。還元が行われるなら、表面上は異なる二つないしそれ以上のモチーフが、じつは一方が他方の変形等関係にあり、したがって科学的事実という特性は、各モチーフもしくはその中のいずれかではなく、潜在的状態にとどまりながらもそれらモチーフを生み出していく図式そのものに属するのだ、という結論が導き出されるかもしれないのだが…。歴史的方法をとる人々は、いくつもの項を互いに関係づけることなく網羅的に並べて事足れりとしているのである。
 …神話の物語に関しても、親族関係の規則についてと同じことが言える。どちらも、存在するのみならず、何かの役に立っているのだ。その何かというのは一方の場合は社会学的な問題を、他方の場合は社会=論理学的な問題を解決することである。その事実は、アラパホ神話を同じグループに属する神話と突き合わせてみれば明らかに示されるだろう。(257−258)

だがこの形には、べつの形が包み隠されている。ある種の生物の鳴き声を聞け(聞くな)なくなったというわけだ。さらにこの鳴き声はシグナルであって、メッセージではない。  おそらく、いくつかの手がかりからして、コガラも知らせを運ぶ鳥でありうるとされているだろう。そのことは、フォックス族とキカプ族がおのおのの神話の中で語っている。ワバナキ族にしても同様である。同じような信仰がヨーロッパにもある。「その鳴き声は様々な物事を予告する。…」。…情報提供者、助言者としての機能がコガラに回ってきているこれらの例は分析してみる必要があるだろう。というのは一般的にはその機能はマキバドリに帰せられているからだ。266

われわれは、天体の妻たちに関する神話のあらゆる型が、ひとつの体系を形成する相対立する項の組み合わせを作り出していることを検証した。それらの項を個別に解釈しようとするのはおそらく無駄だろう。というのは、それらの意味は示唆的であって、その対立項の存在によってのみ明らかになるからだ。歴史学派が偶然的なつながりと通じて木は発展の足跡を見いだそうとしたところに、われわれは共時性において理解することのできる体系を発見した。彼らがひたすら項目の一覧を作ったところでは、我々は様々な関係以外の何物も見なかった。彼らが変り果てた残骸や偶然の寄せ集めをせっせと収集したところでは、意味のある対比を明らかにした。これはフェルフェィナン・ド・ソシュールの教訓を実行に移しただけである。「言語学的研究で何らかの主題を掘り下げていくにつれ、次のような、おおいに塾抗すべき――それは隠そうとしても無駄だろう――真実をますます確信するようになる。すなわち、この領域においては、ものとモノの間にうちたてられる関係が、もの自体よりも先に存在し、もの自体を決定する役割を果たしているのである。」  とはいえ、歴史的な問題を避けて通るわけにはいかないだろう。なぜなら、それが何から構成されているかを知った後に初めて、物事がいかにして現在の姿に到達したかを理性的に考察しうるのだ、というのはおそらく真実だからである。同様に、先行するリンネやキュヴィエのそれなしに、ダーウィンの研究を考えることはできまい。しかし、生物と同じく神話も、最初から完成した体系に属していたわけではない。体系には、探し求められるべき起源がある。これまでわれわれは、すべて同じジャンルに属するいくつかの神話に対し、比較解剖学的研究を行ってきた。それらのそれぞれは、どのようにして、またどんな順序でその独自性を獲得したのだろうか。 301

 すなわち、ヤマアラシにきわめて大きな役割を与える神話文が支配的な地域のほとんどすべてにおいて、ヤマアラシは、不在とはいえないまでも、めったに見られないのである。このパラドックスは、技術的角度から考えられた場合、ますます顕著となる。というのは、ヤマアラシに乏しい平原にすむこれらの人々はまた、ヤマアラシの針を用いる刺繍技術を最高度の完成の域までに高めることのできた人々だからだ。…
 したがって、ヤマアラシ文が社会構造に対する観念体系上の反応として生まれたと考えられないことはない。技術や入念さ、豊かさや複雑性の面で並はずれた特性をもつとともに哲学的なメッセージを表現する刺繍に携わる人々の目には、や嵐がその珍しさゆえに崇高な動物として移り、まさしく「他界」に属する形而上学的動物と化した可能性がある。反対に、オジブワ族や東アルゴンキン所属にとってヤマアラシは、針を採取した後、食用にする現実の動物である。彼らは、神話の中でヤマアラシを、二つの性格を映し出すあいまいさをおびた自然な存在として扱っている。ヤマアラシは、一方では、ほとんど象徴的にならざる意味で寒気の主であり、他方では、それだけでも貴重なとげとげの鎧に守られた美味な肉という豊かさの供給者なのだ。

換言すれば、技術、経済、芸術、そして哲学面でヤマアラシほどの重要性をもつ動物の存在がその不在へと変われば、ヤマアラシが何らかの役割を果たす場はどこでも、その役割を失わせないために、ヤマアラシを別世界へと投影する必要がある。そしてそのせいで呈所が高所に、水平方向が垂直方向に、内部が外部になどなどと変わるのである。こうした条件があってこそ。つい最近まで一貫していた世界像が保たれるのだ。ヤマアラシの理論が広げた諸関係に適合していたとすれば、新たな焼き直しにおいては包んだ諸関係が要求される。ゆえに、歴史的な偶発性がどうであれ、以下のことは信じるであり続ける。あらゆる形式はたがいに関わりあっており。そうしたかくぁり愛に応じてある内容は許容され、他の内容は投げ捨てられる。そのさいの自由度は、それら内容がばらばらの遊離基として存在するのでないだけに、さらに少ない。311

最初に殺したシカからは肉がとれるし、皮は取っておいて冬用の服にする。胃袋は首の所で手袋よ脳にひっくり返せば直ちに水を入れる袋になる。インフォーマントは…次のように説明する。「袋は、裏返しにした胃袋で作られていました。表を裏にするのです。胃袋の内側は絵で白い帯になって見えるところをすべて除いて、小さな細胞、わたちたちは毛というのですが、それに覆われています。この帯の所は毛がなくて胃壁は他の部分より厚いのです。」

けれどもこの神話のヒダッツアのいくつかのヴァージョンは臓物がどの動物のものかは特定しておらず、少なくともこの点においては、シカ科の動物の胃とウシ科の動物の胃との間に大きな違いがあるとは思えない。半世紀を経たのちにも、インフォーマントの記憶の中に二重の対立が残っているということに注目しよう。胃の毛むくじゃらな部分は薄く、厚い部分は滑らかなのである。したがって、神話においても厚いと薄いの対立はもうひとつの毛むくじゃらと滑らかの対立を隠しているかもしれないのである。
 さて、このの第二の対立はバイソンの毛皮を外套としてきるヒダッツアやその隣人たちの間でかなり重要な地位を占めている。バイソンの毛皮は片面が毛むくじゃらであり、裏は滑らかである。そのうえ、女たちが巧みになめした側は、しばしば絵が描かれた刺繍が施されたりしており、それがその文化的性格を強調しており、それに対して毛を外側にして動物のように切ることは人間を自然の側に置くことになる。」330

したがって、どの観点に立つか、また神話のどの時期を考察するかによって自然と文化の極は反転し、対立する意味を担わされるのである。(346)

 アリは針を使った刺繍ではなく干し肉づくりの名手とされている。肉が戸外で塩漬けにされることも塩水を振り掛けられる事もなく、乾くためには、傷も凸凹もなしに一定の薄さで切られることが必要だった。この繊細な仕事は肉に対して行われているが、皮をなめすための準備に似ているし、打ち負かした戦士の首から頭皮を剥ぐ仕事にも似ているのである。そして頭皮は干し肉の本質と同時に貴重な皮の本質も持っているのではないだろうか。M474は独自の言い方でそれを明言している。M474では敵はいとしい人の首を干し肉にしてしまうと主張しているのだから。
 …M480aは針を使っての刺繍の起源の神話の起源、M480bは頭皮の起源についての神話である。したがって、先住民の思考が、頭皮と刺繍を施した皮との間に相関関係と対立関係を見ている、と推論することができる。(442)

これらは五大湖のアルゴンキン族において同じように尊重される「結婚の毛布」に関連付けるべきものなのかもしれない。鹿皮でつくり、豪華な装飾を施し、中央に穴を開けたこの毛布は、成功のあいだ皮膚の接触を防ぐのに使われていた。(446)

これらの神話を図表との関連で整理すると、宇宙的項の中でもっとも遠いもの――太陽ーーと、装飾的因子の中で最も近いものを結び付けており、また、この項とこの因子、およびそれらと創刊するほかの荒野因子との間に見られる関係を尊重しているといっても言葉遊びにはならないかもしれない。(458)

じっさい、この本の議論は、民族誌、論理、意味論の三つ次元で展開されている。そしてこの本にいくばくかの独自性があるとすれば、あらゆる段階でそれぞれの次元がつねに他の次元と連動していることを明らかにしたことであろう。
 まず、民族誌の視点からは、広大な空間にまたがって熱帯アメリカの地域のインディアンと北アメリカの平原インディアンとを分ける、生業形態、社会組織、信仰に関するさまざまな隔たりを克服しなければならなかった。『神話論理』の最初の二巻では、よく知っている南アメリカの民族誌のフィールドに宿営する事を維持しただけに、このような目標の変更はほとんど別の惑星の探索を始めたにも等しかった。…
 つぎに形式的な視点について言えば、われわれの研究過程には三つの側面が区別される。まず第一に、最初に検討された神話が発動した、とりわけ宇宙的、空間的な垂直軸に乗った対立関係、すなわち高と低、天と地、太陽と人間といった対立関係を越えて、われわれは水平軸上で社会的・時間的軸の上での対立、すなわちここと彼方、近いところと遠いところ、内婚と外婚、等の対立が規定する、もう一つの体系に属する神話を取り上げることになった。第一の軸が展開するのが絶対的なものであるとすれば、第二の軸が展開する時間は相対的なものである。
 以上の指摘は第二の側面を強調することになる。じっさい、われわれが構成した最初の対立は極性を持った項、媒介項であるとしても、その存在と不在、結合と分離を、絶対的な用語で表現できるものであった。それとは反対に、この巻で最初から最後まで問われた対立関係は、その第一の要素としての項ではなく、項のあいだに知覚された関係、項が近すぎるか、離れすぎているか、適切な距離にあるかという関係なのである。それはすなわち結合、分離、媒介のそれぞれが経験的な様式で例示され、それに賦与される価は近似的なものにとどまるのだが、そのそれぞれがおそらくは関係の用語によって定義されるのだとしても、それと同時により高位の結合演算の項となりうるということである。…
 最後に意味論の検討が残されている。…この第3巻では料理の輪郭をたどった。すなわち、料理の自然の側に位置する消化と、文化の側に位置する調理法から食卓作法までの広がりとである。…この巻で検討された神話が、消化と料理法と食卓作法との三位一体の理論を分節していると、どのような仕方で、そのような意味で言うことができるだろうか。…542
 
 マンダン族とヒダッツア族の哲学において、こうした内と外の弁証法が本来的な意味を持っていることは別のやり方で冬の狩の儀礼によって証明される。儀礼の基礎を成す神話が指定するように救われるべき動物を体現する事になっている司式者は、赤く塗って肺と心臓と気管を取り付けた棒を手にする。これらの標はバイソンを表している。マルセル・デュシャンにならって言えば、狩人自身によって裸にされたバイソンさえも、ということになるだろう。デュシャンを参照する事は一見するほど突拍子もないことではない。というのもこの儀礼においては、最初毛皮だけをまとっている新婦たちは後に、独身者たち自身によって裸にされるからである。545
 
 身体の上部あるいは下部、前部あるいは後部で、塞がれたかあるいは穴をあけられた、液体や煙しか取り込むことのできない、口あるいは肛門を欠いた、したがって消化機能の備わっていないこれらの登場人物の類型学をつくろうとしたら一環の書物が必要となろう。548
 

■書評・紹介


■言及



*作成:近藤 宏
UP: 20080722 REV: 20180223
Levi-Strauss,Claude   ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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