HOME> BOOK >

『反精神医学』

Cooper, David 19740515 岩崎学術出版社,208 p.


このHP経由で購入すると寄付されます

Cooper, David 1967 Psychiatry and Anti- Psychiatry=1974 岩崎学術出版社→19810820 野口昌也 橋本雅雄訳 『反精神医学』岩崎学術出版社,208p. ASIN: B000JA19X8 【品切れ】 [amazon] ※+[広田氏蔵書]

■紹介・引用

「しかし、現実には、ナチスが何万人もの精神障害者をガス室送りにした一方、わが国においても何万人もの人びとが、脳を外科的に切除されたり、電気ショックの連続クールによって破壊されたりしている。とりわけ、彼らの人格そのものが、精神医学体系に押し込められること(psychiatric institutionalization)によって系統的に変形させられている。このような具体的事実は、まさに不在、つまり否定性――正気の人間には絶対に狂気がないということ――を基盤にしているのであるが、それはどのようにしておこっているのだろうか。」(p30)

「今日、多くの精神科医は、‘化学的抑制’―鎮静剤や精神安定剤――の手段や、電気ショック、ベッドへの抑制といった手段に頼っている。一見したところ荒療治にはみえないこれらの手段は、それが仮に適切な説明がないままに用いられるとしたら、より手荒な手段と同じ程度の結果をもたらしてしまうことになる。しかも、このことはしばしばおこっていることなのである。すなわち、抑制しなければならない危険が患者にあるのだという予測のもとに、大量の精神安定剤が患者に投与されている。(中略)たとえば、患者に対して、なぜ次のように説明がなされないのだろうか。「あなたが少しでも静かになるように、このLargactilという薬をあげましょう。あなたがのんでくれれば、私達は、次にあなたが何をしでかすかなどと心配しないで、他の大事なことにとりかかれるのですよ。」」(p132)

「だからこそ、薬物や時にショック療法を用いて症状をただ単に抑えることが、実は患者の行動の可知性や精神内界の生命力を減じさせるような状況を作り出してしまうことを、私はひどく恐れるのである。」(p161)

■書評・紹介・言及

◆(クーパーの家族病理説に対して)「今の社会のなかで、ありもしない「正常家族」を基準として、「分裂病者」の家族を病理集団として裁断してみせたところで致し方ないではないか。生物学主義者にとって「遺伝」の占めていた位置に「家族」を置いてみたところで、われわれの問いは決して前進しないのだ。」(小澤編★[1975:166]*)
*小澤 勲 編 19750325 『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.

◆笠原 嘉 1975 「書評:『反精神医学』D.クーパー著」,『精神医学』17-6

 「ロンドン派といわれるレインやクーパーの反精神医学は分裂病の家族研究を抜きにしては語れない側面を持っている。彼らが単なる家族研究家と区別されるのは、そこから分裂病の心因論を展開するのみに止まることなく、分裂病の社会共謀因説(conspiratorialmodel-Siegler)とでもいうべき独特のモデルを作り上げた点であろう。
 1930年代にはじまり、Bateson et al.(1957 )とWynne L.C.(1958)にいたって一つの頂点に到達した分裂病の家族研究は、心因論的分裂病論の一つの現代的装いというに止まらぬいま一つの大きな意義を持っていた。
 一言でいえば、分裂病とは個人のうちから生じる個人の問題ではないということである。つまり問題は「家族全体」(familly as a whole)にあり、それが種々の事情からそのなかの特定の成員を選んで、その上に分裂病といわれる病態をあらわすと考える。それによって分裂病を、身体起源であれ心理起源であれ「個人内部的」(intreindividuell)なある種の出来事とみるこれまでの常識に挑戦した。
 …狂気とは一個人の人物の“中”にあるのではなく、患者というレッテルを貼られた人物に関与している関連系の中にある。分裂病という言葉がなんらかの意味をもつとすれば、それはある一定の特徴をもって障害されている集団行動の様態のことであって、決して分裂病というものが存在しているのではない云々。
 この彼の分裂病観は一見乱暴にみえるが、家族研究を知るものにとってそれほど唐突ではない。
<批判>
 家族研究と分裂病論と治療実験という3つの部分は、それなりの文脈を構成している。しかし・・・。
 @家族研究は残念ながら現実には未熟な分野にとどまっており、その上に構築されるクーパーらの立論がある種のあやふやさと限定をもつことは見逃しえない。
 A彼らの反精神医学的仮説が臨床的意義をもつとすれば、むしろ分裂病発病以降の経過についてひとつの新しい視点を主張したことにあるように思える。いかなる原因か定かではないが一旦生起した分裂病といわれる状態は、おそらくぞこにすでに含まれる病者自身の自己破壊性のゆえに、共存する他者たちのうちに無媒介的に不安を喚起し脅えと怖れを誘発する。その脅えが彼らをして分裂病の社会的疎外を促し、こんどはそれが分裂病者の自己破壊の程度を増強させ、そうなるとそれが周囲の人たちに病人を一層阻害させる口実を与え、事実一増の社会的疎外が結果される。」(笠原[1975:★])

◆野口 昌也 197606 「クーパーの反精神医学――"The Grammer of Living"(1974)より"」,『臨床精神医学』5-6:691-697

 ★改段落の確認+「」で囲む等必要

p691
(クーパーの反精神医学)
@精神医学の治療状況において狂気を徹頭徹尾positiveな経験として把握していく視点と実践
A「狂気の解放から人民の解放へ」という「政治」課題→「villa21」の実践

p694(治療共同体の中心理念)
「真に治療的でありうる共同社会とは、精神を豊かにするような孤独が何にも犯されずに維持されていて、しかもそこに人間同士の外的世界や内的世界の間に触れ合いをもてる関係構造でなければならない。」
(…)つまり、人間が他者と共に共存しうるあり方を見出すための基盤は、まず独りでいられる能力がなければならないというテーゼである。
    ↓
子供にとって母親が『鏡』の役割をとるように、治療者もそのような関係を設定しなおす。つまり、治療者の患者自身を映し出し、その成長にむけて彼の持っているものを映し出し、その成長にむけて彼の持っているものを送りかえしてやること。(ウィニコット)
(…)治療者とは、この「失われた過去の再発見」に向かう人の同伴者ということになる(…) ↓
「無為の教えとは、積極的な意味での非行為の教えであり、そこでは他の人々に干渉するのをやめ、“放っておき”しかもその人々や自分自身に一つの可能性を与えるように努力すること」例)マヤ

p695
レインもあるインタヴューに答えて;精神分裂病者に錯乱の道を勝手に行くところまで行かせて、そのために破滅する危険を冒してでも、そこから快癒して戻ってくるようにさせる。抑圧的で一時的な解決策を拒否する…

p695 この「非干渉への希求」というテーゼが、クーパーの反精神医学の軸にすえられている

p695 たしかに、経験や行為に対して何の規制も加えないという状況においては、その個人は社会的な規範をつきぬけた、まさしく自分だけの自己規律を見出し、「再生」しうるかもしれない。そのような“going back”に必要なことは「解釈」という技術ではなくて、「自分を知ってくれていると確認でき、何もいわなくてもただ自分の言葉に耳を傾けて見守ってくれている人」(クーパー)の存在であろう。しかし果たしてそういう、人間の引き受け方が可能なのであろうか。クーパーはVilla21の実践の総括として次のように、つまり「(スタッフは)いわばおのが自身のうちにある狂気じみたものとの出会いに賭けていかねばならない」と主体的選択の問題として語っているが、果たして主体的選択の問題だといい切れるだろうか。

p695(Villa21の実践) やはり、よく知られるように、入退院の管理からはじまって、所持金の管理、外部との交流の管理、性、自殺の管理等々の様々な管理の完全さを要求してくる外部(家族、病院管理者、何よりも自己の内にある「良識」等)からの圧力に効することができずに挫折したらしい。その総括のひとつに、先に述べた主体的選択の問題があったのだが、同時に「スタッフはそこにいることで報酬をえるが、“患者”はいかなる役割をとってもそうではない。患者は“ここ”にいて、スタッフは“ここ”にいない」という医療の枠の中では解決できない壁にぶつかってしまう。そして、「さらに前進するためには、究極的に精神病院を超えて共同社会へとステップを踏み出さねばならない」と総括して政治的な色彩を帯びる実践に向かうこととなった。

p696 クーパーのいう積極的な非干渉、“無為”という関係性の中では、役割構造は必然的に解体されていってしまう。クーパーにしても、あるいはレインにしても、このような関係性を「真」の相互性とよんで、その基盤を「愛の可能性」といったものにおいている。そして、その可能性をクーパーは精神病院を超えて“コンミューン”に求めているようである。たしかに、精神病院や家族という共同体の奥深いところでは「愛」は制度化され、窒息しているといえるかもしれない。たとえば、彼の著書「家族の死滅」(1971)において、家族とはにせの絆、愛によって結ばれている集団であり、そのいつわりの愛によって真の(政治的な)家族葛藤はかくされ、個人は「正常化」(社会化)されると述べられている。いわばクーパーにとって“コンミューン”とはAnti-Famillyの質を持つものであり、家族を超えるための“政治的”な戦略の一つであった。

p697(クーパーがまとめた「反精神医学とは何か」)
@精神医学というゲーム構造を認識すること;臨床精神医学とは広範囲にわたる暴力機構の一部を担っている。科学の伝統に基づいた「治療」とは人間を従順なロボットに仕立て上げることでしかなかった。
A反精神医学とは、そのような精神医学ゲームのルールを逆転させる試みである;人間相互が、見たり、見られたりする関係にたつこと、そこから反ー診断学の意味を掘りおこしてみること。
B精神科医ー患者という一方通行の役割構造を破り、相互が真に相互的な関係へと発展していくことによって、そのルールを逆転させていく。
C反精神医学の中心課題は、積極的な非干渉という関係性の必要性を認識することである;それには自分自身の内面性と絶望に対して深く直面できる適切な人々の存在が必要である。
D反精神医学は政治的なものであり、ブルジョワ社会の秩序にとっては危険な存在である。何故なら、それは順応を拒否したある種の行動形態を明るみにだし、ラジカルな性革命をも意味しているからである。
E反精神科医とは、自己の生き方をラジカルに変革していくときに伴う危険に対峙していける人である。たとい自分が、社会的に無効化されていく目にあったとしても、十分に自分の狂気に入り込んでいけるようにしておかなくてはならない。

◆立岩 真也 20080701- 「身体の現代」,『みすず』50-7(2008-7 no.562):32-41から連載 資料


*作成: 松枝亜希子
UP:20071219 REV:20090819
Cooper, David  ◇「反精神医学」  ◇精神障害/精神障害者  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)