HOME > BOOK >

『反解釈』

Sontag, Susan 1966 in Against Interpretation and Otheri Essays,New York: Farrar, Straus & Giroux
=199603 高橋 康也・由良 君美・河村 錠一郎・出淵 博・海老根 宏・喜志 哲雄 訳,ちくま学芸文庫,501p.


このHP経由で購入すると寄付されます

Sontag, Susan 1966 in Against Interpretation and Otheri Essays,New York: Farrar, Straus & Giroux =199603 高橋 康也・由良 君美・河村 錠一郎・出淵 博・海老根 宏・喜志 哲雄 訳 『反解釈』,ちくま学芸文庫,501p. ISBN-10: 4480082522 ISBN-13: 978-4480082527 1575 [amazon] ※

内容(「BOOK」データベースより)
「われわれの文化の基盤は過剰、生産過剰にある。その結果、われわれの感覚的経験は着実に鋭敏さを失いつつある。…われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない」。「内容」や「解釈」を偏重するこれまでの批評に対し、「形式」を感受する官能美学の復権を唱えた60年代のマニフェスト。「批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。解釈の代わりに、われわれは芸術の官能美学を必要としている」。

■目次
反解釈
様式について
模範的苦悩者としての芸術家
シモーヌ・ヴェーユ
カミュの『ノートブック』
ミシェル・レリスの『成熟の年齢』
英雄としての文化人類学者
ジェルジ・ルカーチの文学論
サルトルの『聖ジュネ』
ナタリー・サロートと小説〔ほか〕


■言及
◆Sedgwick, Eve K. 1990 Epistemology of the closet(=1999,外岡 尚美 訳『クローゼットの認識論――セクシュアリティの20世紀』青土社).
(pp221-223)
 「キッチュ」と「キャンプ」のカテゴリーはおそらく、近代のゲイ・アイデンティティの形成が、これら強力な観客関係を再想像(リ・イマジン)することにどのように介入したかについて教えてくれる。キッチュとは、一方ではその形容辞の語り手がキッチュ物に感染することから免れていると主張し、他方では真のキッチュ消費者、あるいはヘルマン・ブロッホの有名なフレーズでは「キッチュマン(*25)」の存在を仮定することによって、「センチメンタル」という形容辞の攻撃的力を倍加させた分類だ。キッチュマンは「キッチュ」という用語を使う人間では決してなイ。キッチュマンには批判力というものがまったくなく、キッチュ物やキッチュ創造者に完全に操作されてしまうと仮定されている。キッチュマンは、同じくらい暗愚なキッチュの製作者と完全にそっくりな人間か、あるいは製作者のシニカルな操作に低抗せずに操られるまぬけか、どちらかであると見られている。言い換えれば、この仮定されたキッチュ製作者は、キッチュマンと同程度のあわれなほど低い意識レベルにあるか、あるいは超越的で潜在的に人を利用するような高い意識レベルにあり、見ればそれがキッチュだと認識できる人間であるか、いずれかである。この高度に競争的なキッチュとキッチュ認識の世界においては、媒介となる意識レベルはない。したがってここでは同類は同類を知るのであり、また「それはキッチュか?」という質問が投げかけられるような対象は、どんなものでも即座にキッチュになる。このような伝染の構造は、キッチュの属性付与のシステムのもとでは必然的に大きな恥辱のままでしかない。自分だけをキッチュの属性付与の力学に巻き込まれないよう免除したりシニシズムを呼び起こしたりはできても、それ以上に興味深いことはなにも引き起こせはしない。
 一方でキャンプの視点は、より快活でより広々とした角度を伴っているように見える。ロバード・ドウィドフが示唆するように、キャンプの典型的なジェスチャーが実際に驚くほど単純なものだというのは、本当ではないかと思う。文化の消費者が、「これを作ったのが誰であれ、やはりゲイだったとしたらどうだろう?」というとっぴな推測をする瞬間、それがキャンプのジェスチャーだ(*26)。とするならば、キッチュの属性付与とは違い、キャンプ認識は、「どんな品性下劣な生き物が、この見せ物向けの観客であり得るというのか?」とは問わない。その代わりキャンプ認識はもし……だったとしたらと言う。もしこれ向けの観客がまさしく私だったとしたら?と。もしこの見せ物に対して私が感じている低抗をはらんだ斜めからかするような関心と魅惑の感覚が、実はこれを作った人の、あるいは作った人々のうち誰かの、同じような感覚に対する不思議な反応だったとしたら?そしてさらに、もし私の知らない、またそうとは見分けられない誰かが、これをまったく同じ「倒錯した」角度から見ることができるとしたら?と。キッチュの属性付与とは違ってキャンプ認識の感受性は、扱っているのが読者関係であり、文化生産のスペースと実践についての投射的ファンタジー(投射的とはいえ事実であることも稀ではない)だということを常に知っている。キャンプ認識は、その知覚もまた必然的に創造されたものであることを認める(キッチュとは違って)がゆえに寛大であり(*27)、したがってキャンプが、センチメンタルな属性を大いに付与したがる私たちの文化において、非常に繊細で強力な効力を包含できるということは、驚くには当らない。
(p258)
 (*26)個人通信、1986年。言うまでもなく、キャンプについての議論はスーザン・ソンタグの以下の著作以降急増している。Susan Sontag, "Notes, on 'Camp,'" in Against Interpretation and Otheri Essays (New York: Farrar, Straus & Girouk, 1966) 〔『反解釈』高橋康也他訳、ちくま学芸文庫、1996〕参照。そのうち公然の秘密に重きを置く本書ともっとも共鳴するのが、以下の著作である。 Philip Core, Camp: The Lie That Tells the Truth (New York: Delilah Books,1984).


*作成:植村要 追加者:
UP: 20080518 REV:20081115,20090729
Sontag, Susan  ◇哲学/政治哲学/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)