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『状況倫理』

Fletcher, Joseph 1966 Situation Ethics: The New Morality, Philadelphia, The West Minster Press
=1971 小原 信 訳『状況倫理』, 新教出版社,316p

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last update: 20180223

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■Fletcher, Joseph 1966 Situation Ethics: The New Morality, Philadelphia, The West Minster Press=1971 小原 信 訳 『状況倫理』, 新教出版社,316p ASIN: B000J9CK32 欠品 [amazon] p, be, w/fj01

■内容  (*は安部によるコメント)

まえがき

・本書が扱うのは、体系的な倫理学ではない。ここで論じられる「方法」とは「situationalあるいはcontextualな決断の仕方についての方法」(7)のことであって、それは体系を打ちたてることとは何ら関係ない。F・D・モーリスが喝破したように、体系と方法は同義語でないのみらず、――生命・自由・多様性にとって――むしろ敵対的でさえあるのだ。そしていかなる倫理的体系も非キリスト教的であるか、すくなくとも半キリスト教的であるのだ。

・ブルトマンが「イエスは倫理学をもたなかった」と述べるとき、それはいかなる倫理学も体系的である必要はないということ、そしてイエスの倫理学は決して体系的ではなかったということを指している。

・状況倫理を「新しい道徳」というとき、以下の点に注意せよ。それは、@厳密には方法においても内容においても新しいわけではないし、A方法的にみても本書の根は慣例的ではないにせよ、まちがいなく西欧キリスト教道徳の古典的な伝統に属している。そのうえでしかし、B慣例的な知恵や当世風の考え方から徹底的に距離をとる。

・ポール・ラムゼイが(不満げにではあるが)指摘したとおり、状況倫理は人格主義的であるとともにcontextualでもある。私はsituationという語を、ポール・レーマンがcontextualを二種類に区別した第二の意味、すなわち「キリスト教的な行為は客観的な環境に、つまりsituationにあうようになされるべきだ」(10-11)といわれるときの意で用いている。つまりcontextualという語はイデオロギーにかかわらず、意志決定状況におけるすべて倫理にあてはまるのである。

・「愛 love」という語は、ウェットで意味論的にも混乱している。私は本書でその精査に取り組むつもりだ。


T 三つのアプローチ

いかに決断するか

・道徳的な決断方法には三つある/三つしかない。A)遵法・律法主義的アプローチ、B)無律法・反原理主義的アプローチ、C)状況的アプローチ。

・キリスト教の伝統において遵法・律法主義は二つの形態をとってきた。カトリックにおけるそれは、自然・自然法にもとづいた「理性」のことがらであった(合理主義)。プロティスタントにおけるそれは、聖書にもとづいた「啓示」のことがらであった(聖書主義)。

・無律法・反原理主義には二つの原始的形態がある。解放主義とは信仰による恩恵=救済によって、キリスト者には律法も規約ももはや適用されないという信念である。他方グノーシス主義は、忍耐(修行?)によって特別な(秘教的な)知識に到達しようとする。そうして良心の直観説を採ることで、正しい行為を指示する原理や規約は不要となるとする。グノーシス主義において道徳的決断は自発性の問題である。それは純粋に特別なものであり、偶然にほかならない。

・実存主義もまた無律法・反原理主義に数えることができる。J・P・サルトルはいう。「道徳的選択・決断のあらゆる瞬間において「われわれは自己の背後に何の言い訳ももたないが、自己の前にも何の正当化ももたない」(37)。すなわち普遍的に妥当する原理のみならず、一般に妥当する法則さえも拒否するのだ。サルトル/ボーヴォワールがよってたつのは非連続の存在論である。ある状況や経験の瞬間と他のそれとのあいだには何のつながりも存在しない。したがって道徳原理・律法を一般化するための基盤となりえるものも何もない。「存在論はただ存在するものだけに関わっており、われわれは存在論の直接法〔自然あるいは事実〕から命令法〔倫理〕を導き出すことはできない」(38、補足は引用者)。そう述べるとき、サルトルはまったくもって正しい。

・状況倫理は自らの属する共同体とその遺産のもつ倫理的な格率(行動原則)を十分に考慮しつつ、決断しなければならないすべての状況とあいまみえる。それは理性が道徳判断の手段となると認める点では、自然法と同じである。だが善をアプリオリにあたえられるものとする自然法的な考えにはくみしない。同様に啓示が規範の根源だとする点では聖書派と考えをともにするが、隣人において神を愛するという戒律のほかはすべての戒律を拒絶する。状況倫理家は道徳法則にも従うが、それは仮言命法に従うのであって、定言命法にではない。つまり愛の必要性しだいでは、道徳法則を破ることもあるのだ。

・愛はあらかじめ定義できるものではない。

・我々の義務は状況にたいして相対的である。だが状況内での義務は絶対的である。

・状況倫理は特定の状況におけるふさわしさ(適切さ?)――(普遍的に妥当する)善や正義ではなく――をもとめる。

・遵法・律法主義は、観想的で名詞的である。これにたいし状況主義は、行動的で動詞的である。そして後者はむしろ聖書的な特性である。

・状況倫理の核心は、環境(状況)が事情(判断)を変えるという点にある。あるいは環境(状況)が規範とルールを変える、といってもよい。

・状況倫理は経験的であり、事実にもとづきデータを重視する。その意味では、反道徳主義的でもある。それはケースバイケースで判断する決疑論である。あるいは新しい決疑論である。

・(とはいえ)キリスト教的な状況倫理は、環境(状況)のいかんにかかわらず、つねに正かつ善である規範(原理・律法)をもっている。それがアガペー(愛)である。それいがいの規範(原理・律法)は、偶さかアガペーに仕えることがあるばあい、妥当性をもつにすぎない。

・非キリスト教的な状況倫理においては、アガペー以外の最高善がそれに匹敵する位置を占める。たとえばアリストテレスにおいて、それは自己達成である。これにたいしキリスト教的な状況倫理は隣人に中心を置く。アガペーは他者(人格)のために存するのであり、原理のために存するのではないからだ。

規約でなくて原理を

・状況倫理は「原理化された相対主義」と呼ぶこともできる。原理・格率・規約は啓発的であり、できるだけ愛と理性に従うように人々に要求するにすぎない。これにたいし状況倫理は(行為)指導的であり、愛と理性が役立ちうる場所においては(必ず)それを遵守するよう要求する。

・道徳的探求に用いられる理由には、@内的な一貫性(自己矛盾をおかすな)、A外的な一貫性(似た状況では同じことをせよ)があるが、Aについて無律法・反原理主義は個別性を徹底的に重視するからこれを拒絶するが、状況倫理はそれを慎重に考慮する。

・キリスト教的な状況倫理は、@唯一の律法としてのアガペーから、A教会と文化のソフィア(知恵)といった、いくらか確実性をもった多くの決まりをふくんでいるものへ、Bある状況において「責任を負う自己」が、その状況にふさわしくソフィアが愛に仕えているかを決定するカイロス(決定の瞬間、時の充満)へと進んでゆく「方法」のことだ、といってもよい。つまり状況倫理家はソフィアを崇めるのでも拒絶するのでもなく、活用するのだ。

・ヨーロッパにおける代表的な状況倫理家:ブルンナー、バルト、ボンヘッファー、ニールス・セー、バルト

・アメリカにおける代表的な状況倫理家:リチャード・ニーバー、ジョセフ・シットラー、ジェームス・ガスタフソン、ポール・レイマン、ゴルドン・カウフマン、チャールズ・ウェスト、そしてもちろん私(フレッチャー)、ティリッヒも含めてもよい

人工流産(堕胎)――ひとつの状況

・次のようなケースのばあい、三つのアプローチはどのような倫理的判断を下すだろうか?――ある精神患者が同じ病院にいる別の精神病患者である未婚の少女に性的暴行をくわえた。結果、少女は妊娠し、被害者の父親は病院側の過失を告発するだけでなく、胎児のちいさいうちにのぞまれない妊娠を終わらせるため、ただちに人工中絶をおこなうよう要求した。それにたいし病院側は、母親の生命が危機に瀕しているばあいの「治療的」な人工中絶以外は、刑法によりすべての人工中絶は禁止されているとして、父親の要求を拒絶した。というのも道徳法によれば、受精以後の胎児の人工中絶はすべからく殺人であり、無垢な人間の命を奪うことになると考えたからである。

・遵法・律法主義ならば、中絶は認められないというだろう。殺人は絶対的な悪であり、その例外は自己防衛と軍務におけるばあいだけだからである。ゆえにもしこの少女(母親)の生命が(妊娠により)脅かされるなら、中絶は容認されるだろう。ただ一般に医師は「生命」について、それには患者の精神的な生命もふくまれるとのように弾力的な見解をとるから、遵法・律法主義がその見解のもとで中絶を認めるばあいでも、それは本当は認められないが、しぶしぶ認めてもよい、ということにすぎない。またカトリックの道徳神学ならば、中絶を絶対的に禁止し、治療のためのそれも認めないだろう(ただしそこでも、悪意ある故意の侵略者にたいする自己防衛のための殺人は特例として容認される)。

・無律法・反原理主義の判断は、あらかじめ先取りすることはできない。その倫理は、その性格と定義によって一般法則さえも届かぬところにあるからだ。とはいえ彼らが愛という規範によって生きるならば、このケースでは中絶に賛成するだろうと想像はできる。

・キリスト教的な状況倫理は、このケースでは、中絶に賛成して、父親の要求を支持するだろうと思われる。それは、少女(母親)の生命を救わねばならないからという理由からだけではなく、少女(母親)の肉体的かつ精神的な健康を守らねばならないと考えるからである。またその理由は、被害者の自尊心や世評や幸福のためである、というばあいもある。あるいはたんに、欲せられず意図されなかった赤子は生まれるべきではない、という理由にもとづくばあいもありうる。あるいは状況倫理であれば、妊娠初期の胎児は人格も人間の生命もないから中絶は殺人ではない、と判断すると思われるかもしれない。いや、かりに殺人であるとしても、このケースではひとり(暴漢)ではなくて、ふたり(暴漢と胎児)の侵入者にたいする自己防衛であるから正当化されるだろうと考えるのを期待するかもしれない。ここでは、胎児は暴漢の侵害を続行しつつある、またのぞまれない「無垢な」侵入者とみなされるのである。


U いくつかの前提

・状況倫理の核心は6つの命題にまとめることができる。それらは倫理的判断を下すさいに愛がいかにはたらくかを示すために提示される。だがその前に、まず4つの予備的命題を提出しておく。

四つの作業原理

・@プラグマティズム:プラグマティックな方法は倫理学における正統的な手段である。ウィリアム・ジェィムスによれば、真理への問いと善への問いは不即不離の問いである。両者ともにそれが我々(の目的)にとって役に立つ(デューイにおいては欲求を満たす)ばあいに、真あるいは善と判断される。これはパウロにも通底する考え方である。とはいえプラグマティズムの問題は、それじたいからそれが役に立ち、満たすとされる尺度(目的・欲求)が何であるかが導かれない点にある。キリスト教においては、その基準とは愛である。

・A相対主義:現代の事実とは、我々が「偶発的」になってきているということである。我々は自己の特定の見解においてのみならず、認識的価値や道徳的価値の把握においても偶発的になってきている。相対的であるとは、むろん何かにたいして相対的である、ということを意味している。絶対的に相対的であることは、無意味であるどころか、非道徳でさえある。したがって真の相対性は、他のすべてがそれにたいして(絶対的ではなく)相対的であるとされるような基準を必要とする。キリスト教的な状況倫理においてその基準は、アガペーにほかならない。倫理的相対主義は、ブルンナーとニーバーによってキリスト教倫理に導入され、それを侵食しつつある。彼らによれば、神の戒めはその理由においていつも同一であるが、その内容においてはつねに異なっている。つまり我々はいつも愛をもって行為するように命じられているのだが、どのように愛をなすかについては偏に我々じしんが責任をもって状況をどのように判断するかにかかっているのである。

・Bポジテヴィズム:神学的ポジテヴィズムにおいては、信仰上の命題が(合理的にというよりは)意志的に提起ないし肯定される。それは非合理的ではあるが、反合理的ではない。それは「知るために信じる」(アンセルムス『プロスロギオン』)。つまり思惟に支えられた信仰というより、むしろ信仰に支えられた思惟である。かくてキリスト教倫理は、神への信仰を提起し愛せよという戒めにたいする従順が要求することを論証する。だがそれは神の実在を論証することとは異なる。キリスト教倫理にあっては公理的な価値をなすアガペーの範疇は、「神は愛である」という信仰的な断定にたいして「然り」という決断によって、またそれゆえ愛が最高善だとする価値の断定にたいする論理的な推論によって樹立される。

・C人格主義:状況倫理の主要な関心は(事物ではなく)人間に向けられる。それは(whatではなく)whoをもとめるのであり、誰が助けられるべきかを問う。生得的な善という意味における「価値」なるものは存在しない。価値とは、誰か特定の人間のためにはたらきながら愛することが役立つときに何か(誰か)にたいして生起する(派生する)ものにほかならない。また状況倫理には、個人主義的な要素はまったくない。「孤独な人間は人間ではな」く、価値は人間とかかわりあい、人間は社会(隣人)とかかわりあう。決断にあたって良心に不可欠な自由を行使できる、つまり「責任を負いうる自己」となりうる人間だけが他者(隣人)との関係を結べるのであり、それゆえ義務(倫理)の領域にはいることができる。

良心

・状況倫理は良心(道徳意識)に関心を寄せるが、それは機能としての良心にであって能力(実体)としての良心にではない。状況倫理は良心についてのいかなる存在論ももたない。良心とは、さまざまな決断を創造的で建設的で適切なものたらしめんとする我々の試みにたいしてつけられた名であるにすぎない。

・状況倫理は他方、結果としてかかわる良心よりも先行する良心にかかわりをもつ。つまり前向きに判断を形成せんと、積極的に(道徳的)行為を領導せんとする。


V 愛だけがつねに善である

名目上の善

・状況倫理は価値の唯名論を支持する。つまり実体的な善なるものがあって、それを神が嘉するのではない。神が嘉するから、あるものは善なるものとして指定されるのだ。

愛は述語である

・価値・真価・倫理的性質・善悪・正邪――これらは属性ではなく述語にほかならない。すなわち所与でも客観的現実でも自存するものでもない。愛もたしかに本質的な善ではあるが、その意味では述語にほかならない。愛は所有されるもの(能力・性質)ではなく、遂行されるもの(実践)だからである。

・何らかの特定の状況のなかで愛するものはそれが何であれ善である

・愛は徳ではない。キリスト教倫理における唯一の規制原理である。

ほんの外部的

・カントによれば、嘘はつねに正しくない。カトリックによれば、赦されうる嘘がある。状況倫理によれば、愛をもってつかれる嘘は積極的な善である。


W 愛が唯一の規範である

愛は律法にとって代わる

・キリスト教的な倫理における愛は、理性と協働する善意としてのアガペーである。理性の作用が状況の考慮を要請するのだ。

・遵法・律法主義によれば、愛と律法は一致する、つまりそこに矛盾は存在しない。あるいはイエスによる愛の戒めは、イエスの律法観の「要約」――多くの律法の集約ないし融合――にほかならない。しかしその見解は誤りである。状況倫理はイエスの戒め=イエスの要約はその「蒸留」物であると、すなわち「多くの律法の本質的な精神とエートスは、クズとして捨てられた律法的な塵や芥とともに蒸留され、解放され、エキスを摘出され、濾過されたもの」(110、訳は引用者が改変)とみなす。

モーセの十戒

・モーセの十戒についての解釈: 略

・ボンフェッファーは、殺害はわるいという格率を絶対的な禁止に転換している(『現代キリスト教倫理』)。つまり「汝、殺すなかれ」を愛とはイレリヴァントな別の規範とするのだ。彼はこの倫理を安楽死の倫理を検討しつつ、示唆している。だがそれなら安楽死の一種である自殺はどうか。ベルゼンのナチ収容所において、かつてマリアはキリストを「範型」としてその命を他者の身代わりに犠牲にした。ボンフェッファーはマリアのその愛ゆえに彼女を嘉すべきではないのか?

・バルトらと同じくボンフェッファーもまた、いわゆる「殺人」を非難することがあやしげな仮定にもとづく全称否定であるということをみずに、普遍妥当的な規則として絶対化する。しかしその規則が意味しているのは、不道徳な殺人は不道徳だ、ということにすぎない。じじつ彼は、正当防衛・戦争・死刑などにおいては、被害者は「無罪」ではないから殺人は道徳的であるとして容認している。

・状況倫理家は、死刑のような例外的なケースでは、意見が一致するかもしれないし、しないかもしれない。もちろん「罪のない」人々(他者)を殺害することさえも正しいばあいがあるということに原理的には反対するだろう。しかしマリアのケースでは、じぶんでじぶんを殺したのだから、容認されるだろう。あるいはボンフェッファーは、燃えている遭難機のなかに絶望的に閉じこめられている男が撃ち殺してくれと懇願するとき、その要請を無視するのだろうか?――状況倫理家なら、その要請を容れるだろう。

自然でもなく聖書でもなく

・律法主義者の誤りは――ヒュームが指摘したように――、当為から存在を導出しようとする「自然主義的誤謬」にほかならない。善悪についての道徳判断が「ある」からといって、善悪が客観的な自然本性のように「ある」ということはできない。いやそのような自然本性はたしかに「ある」のかもしれないが、それによって道徳的判断を基礎づけることはできない。「善をなし悪を避けよ」という黄金律(と信じられているもの)が「ある」として、しかしそこから「何が善であるか」、いつ/どのようにしてそれが適切であるかは状況によってそのつど熟慮されるべきことがらとしてある。

愛に匹敵するものはない

・「キリスト教倫理はその本質において状況倫理である。」(121)

・あらゆる徳の根源的な原理は愛であると述べたとき、またキリスト教倫理を「気づかいをもって愛せ、そののち汝の意志するところをなせ」(122)との唯一の格率に帰したとき、聖アウグスティヌスは正しかった。

・「キリスト教的な愛は欲求ではない。アガペーとは与える愛である」(123)。それは相互的(対称的)ではなく、隣人(他者)を重んじる(わたしからあなたへと差し向けられる非対称的な愛である)。そして「隣人(他者)」は誰をも、(ときに)敵さえをも意味している(*ただしこの倫理では「誰」は人格にかぎられるはずだ)。それは選択的で排他的である(と観念されている)フィリアやエロスとは区別される。エロスとフィリアはともに感情に根ざした愛である。それにたいしアガペーは意志あるいは性向である。

・道徳的な強制について:状況倫理はもちろんそれは状況しだいで容認されると考える。

*だがこれはのちにみるように矛盾ではないか?

反対意見

・状況倫理にしたがうならば、人間がふつうに生きる以上に、より多くの批判的な知性・より事実に即した情報・ただしさにたいするより自発的な態度が要請されるのではないか。批判者はこのようにそれは過酷な要求ではないか(それゆえ現実的な実効性はもちえないのではないか)と牽制/危惧する。つまり人間の罪(原罪性)やエゴイズムや理性の有限性をあまりに軽視しているのではないか、というわけである。

・道徳的判断を状況にあわせて(ケースバイケースで)なすということは、とりもなおさす人間が自由であるということである(あるいはそれを前提としている)。だがこれは裏からいえば、状況倫理は人間を「自由であれ」と強制していることにはならないか? 『カラマーゾフ』の「大審問官」が発したのもまさにそのような問いにほかならない。これにたいし状況倫理家ならば、「人々は状況倫理にいたるように成長させられなければならない」(127、強調引用者)と応じるだろう。

*だがこの応答は、先の道徳の(絶対的な)強制性と矛盾しないか?

・愛は律法とはちがって、義務についてその範囲を確定しようとはしない。

*この点で、状況倫理は功利主義に近接する。正確には規則功利主義ではなく功利主義に与する。状況倫理は私たちに「大天使」(R・M・ヘア)であるようもとめ、「正しい判断=計算」をしなさい、という。そしてその計算の唯一の制約条件が「他者にとっての善さ」である。だが「他者」にとっての「真」の善を私たちはいかにして知ることができるのか

**これにたいする状況倫理(フレッチャー)からの応答は「状況倫理は可謬主義である」ということ、そしてp131第一段落。しかしこれは、先の問いにたいする応答たりえていない。

・状況倫理はその判断のさいに、同じことだが道徳の正しい計算のために科学的知識を重んじる

・「愛とはそれ自身に対する傲慢な法」(132)である


X 愛と正義は同一である

愛は注意深い

・思慮と愛はパートナーではない。それらは同一者である。

・思慮と注意深い計算によって、愛は正義となる

・アガペーとしての愛は〈一対一〉のことがらではない。我々はいちどにひとりの「隣人」しかもたない、のではない。「隣人」はつねに/すでに「隣人たち」である。つまり倫理問題とは、いかに愛を適切に配分するかという問題、その意味で正義をめぐる問題にほかならない。

まちがった分離

・正義とは愛の多面性のことである。その多面性は、@「交換的な正義」(一対一の義務)、A「分配的正義」(多数対一の義務)、B「寄与的正義」(一対多数の義務)、C「協力的正義」(多数対多数の義務)という諸側面からなる。

・愛の倫理は絶対的な愛の相対的な方向を探求する。すなわち「何」と「なぜ」はすでにあたえられているのであり、「いかに」と「どれ」がみいだされねばならないのだ。

・愛はその配分にはイレリヴァントな、つねに一対一の直接的な隣人だけ、つまりたまたま近くにいるとか目と鼻の下にいる人だけを見る」と考えた点でトルストイは誤っていた。

再会の提案

・キリスト教的な状況倫理は「信仰とわざ」の問題を〈信仰かわざか〉でも〈信仰とわざ〉でもなく〈信仰がわざである〉とみなす。愛と正義についても同様である。それは両者の関係を「対立」(ニーグレン、ルージュモン)とも、「二者択一」(ニーバー、ブルンナーとテンプル)とも、「補完的」とも(ティリッヒ)、「還元的」とも(ライトとクイック)考えず、「同一」(愛すなわち正義)であるとみなす。

・隣人が当然享受すべきもの、すなわち「権利」もまた、愛によって付与される。

頭を使う愛

・正義は愛の義務・責務・機会・起源などを計算する

・正義とは分配がもとめられている状況をうまく処理することである。この点で、正義は功利主義との提携をはからねばならない。(快楽)功利主義とは個人がその快楽の原理をアガペーと置きかえつつ、自らの「善」を再構成するものである。つまり快楽計算とは、最大多数の(隣人の)最大幸福をめざすアガペー的な計算なのである。

・すべての倫理学は「幸福倫理学」である。その幸福のなかみが「快楽」だったり「徳(卓越性)」(アリストテレス)だったり「適応」(自然主義)だったりと、異なるだけである。義務論などの目的論的な倫理学も「義務」のなかみが状況倫理とは異なるだけである。状況倫理における義務とはいうまでもなく、ただ愛をなすだけのために愛の戒めにしたがうことである。

・「すべての人に公正であれ」という道徳律はジレンマにさらされる、といわれる。だが多くのばあい、これは現実を取り違えているだけであって、よりすくないものよりより多いものに仕え、少数の者より多数の者に仕えることをえらぶさいに不公平ということはない。「人格の尊厳」ということもない。愛は評価を下さねばならず、偏愛的である。P151の三歳児の母親と酔っぱらいのケースではだから母親をえらぶのがもっとも愛にかなった決断だということになる(単純な計算で2は1より大きいからである)。

・「偉大なアガペー的な計算」の下にトルーマン大統領はヒロシマとナガサキへの原爆投下の断を下したのである。」(152)

付録

・道徳的正義と法的正義は必ずしも対立するものではないが、後者がつねに前者を窒息させ、ごまかす恐れがあることは認識しておくべきである。状況倫理によれば、法は必要な危険ではあるが、必ずしも悪ではない。じっさい法が愛の最大の興味を促進するとき、それは善にほかならない。

・罪は愛と正義だけではなく、法と秩序も必要とする。この点において、アナーキズムとトルストイはまちがっている。アナーキズムは愛の必要性は認めるが、秩序の必要性を見損なう。それは無垢な者を守り、「権利」を実現化するには愛をもって権力をもちいる必要性があるということがわからないほどに、罪の現実性にたいして近視眼的なのだ。


Y 愛は「好き」ということではない

愛を決して感傷化するな

・アガペーの欲望とは隣人の必要を満足させようとすることであって、自分の必要を満足させようとすることではない。それはまた感情的な規範や動機でもない。

・アガペーの愛は、愛するに値するものも値しないものも同様に愛する。これにたいして「すべての人を愛するのは不可能だ」と批判者はいう。だがこの批判が妥当であるのは「愛」が感傷化されているかぎりにおいて、すなわち「愛」が「好き(ロマンティックな愛)」の意で用いられているばあいのみである。

・アガペーはロマンティックな愛は命令できないが、親切・寛容・憐れみ・忍耐・関心・義憤・高邁な決心については命令することができる。

誰でもが隣人である

・アガペーとはあらゆる隣人に見返りを(期待はしても)要求しない贈与である

隣人のための自己愛

・アガペーは他者への配慮であって、自己への配慮は二次的である。自己への配慮がなされるばあいでもそれは隣人のためであって自己のためではない。

・「汝の隣人を汝と同様に愛せ」というイエスの戒めはいかに解釈されるべきか。主要な解釈は四つある。@自分を愛するのと同様に隣人を愛せ、A自分を愛するのにくわえて隣人を愛せ、B自分を愛すべきようなやりかたで隣人を愛せ、C自分を愛するかわりに隣人を愛せ。Cには問題がある。キリスト的な愛は神にたいする献身であるから神の創造物への献身であり、その創造物には当然自己も含まれるからである。ここからキルケゴールのような「正しく汝自身を愛せ」という解釈もうまれる。この洞察は(すくなくとも)心理学的には(事実としては)正しい。そのうえでしかし、「どのように」正しく自己を愛すべきなのか、という問いは残っている。つまり自己愛はいかにして利己主義的なものから正しい自己配慮へと変形しうるのか。そのプロセスはベルナドゥスを援用すれば、こう描くことができる。1)自己のため自己を愛す、2)自己のために隣人を愛す、3)隣人にために隣人を愛す、4)もういちど自己を愛す、つまり隣人のために自己を愛す。その意味で、すべての愛は「自己愛」である。このことはそしてアリストテレスの自己実現の理想をまじめに受けとることでもある。

・自他への倫理的配慮のより困難なケースは、(自他にとっての)悪と善が衝突するばあいである。アガペーの倫理は自己に仕えることでより多くの隣人の善が達成されるばあいには、自己に配慮することをもとめる。同様のことは他者間においてもあてはまる。つまりより大きなものを必要とする隣人を選ぶべきだし、より多数の隣人に仕えるべきである。

*よっていわゆる「究極の選択」アポリアも状況倫理的には平易な問題である。第一に、安部とオダギリジョーのどちらしか救出できないばあい、迷わずオダギリを助けるべきである。その損失によって悲嘆にくれる女の数の(絶望的な!)差によって。第二に、10人が助かるなら3人は犠牲にされるべきである。ここでも何が正しいかを決するのは功利計算なのだ。

計算は残酷ではない

・キリスト教な状況倫理は「汝の敵を(も)愛せ」と命じるが、それは「敵を愛することが多数の友人を傷つけないならば」という制約条件のもとにおいて、である。

Z 愛は手段を正当化する

何が手段を正当化するか

・何らかの目的や帰結を考慮せずに、行為(手段)を正当化したり神聖化したりするのは無意味である。とはいえもちろん、いかなる目的もそれが目的でありさえすれば、どんな手段でも正当化されるというわけではない。手段は目的の成分あり、目的にふさわしい(fitness)ものでなくてはならない。かくして目的が手段を正当化するのである。状況倫理においてそうした目的とはもちろんアガペーである。

四つの要素

・道徳的判断を下すとき、考慮されるべき要素/契機は四つある。すなわち@目的、A手段、B動機、C結果がそれである。遵法・律法主義はそのすべてが欠けても悪だと考えるが、もちろんそれも状況しだいである。

・ある行為が結果として善をなすか悪をなすかは状況しだいだといえるばあい、その行為(可能性/自由)じたいは排除されるべきではない。悪(と一般に観念されていること)にたいして「もしみながそれをしたらどうするんだ」という一般化論は人間の道徳的責任(人格)を信用せずに、法的統制に身を委ねるための便法にすぎない。


[ 愛は「いつ」「どこで」を決める

灰色の領域

・現代の事実:社会が複雑化するにつれて――灰色の領域がひろがるにつれて――規格化された道徳が道徳的決断の複雑性を縮減するための装置(メディア)として要請されつつある。

イデオロギーの終焉

・倫理学においても政治学と同様にイデオロギーはいきづまってきたようにみえる。「イデオロギーは人々が個別的な状況において個別的なことがらに対決することを不必要にしてしまう」とはダニエル・ベルの指摘である。

・多くの人びとにとって道徳的問題とは性の問題を指している。だがイエスの教えのなかには、姦淫と離婚の絶対的な禁止以外には何もみつけることができない。

権利の衝突

・道徳において決断は相対的だが、義務は絶対的である。「いかに行為すべきか」は相対的だが、「なぜ行為するのか」は相対的ではない。理由への答えは「愛」しかないからである。

・個人の自由や言論の自由を人はもっている。しかし同時に一般の福祉にたいする結果を計算する義務ももっている。だから(状況しだいではあるが)ヘイトスピーチは許されない。


あとがき

キリスト教的な理由

・道徳的決断は@目的、A手段、B動機、C結果の諸要素からなるのだった。このなかでキリスト教倫理が他の倫理とくらべてユニークであるのは動機だけではないのかと思われるが、愛そのものはキリスト者に固有のものではない。ではキリスト教的な状況倫理の独自性は奈辺にあるかといえば、それはその愛が応答的な愛である点にもとめられよう。つまりその愛は「感謝の愛」、わけても「神に感謝する愛」である。神への感謝は、神がキリストにおいてこの世と和解するために人間のために苦しんだことに起因する。かかる神の愛にたいする愛の応答、アガペー(隣人愛)がこうしてうまれたのである。だがさらに精確を期せば、じつはキリスト教倫理の固有性はキリストそれじたいにある。つまりそのポイントは「受肉」にある。我々は「愛」という言葉がまずあって、それによってキリストを理解/解釈するのではない。愛をキリストという言葉で理解するのだ。キリスト者においては「私は何をすべきか」という倫理の問いの前に「神は何をしたのか」という問いが先行する所以である。

問いの出し方

・本書の主張のまとめ:「キリスト教倫理もしくは道徳神学とは、規約にしたがった生き方の枠組ではなくて、愛に従順な決疑論によって愛を相対的なこの世に関連づけようとする継続的な努力である、と。キリスト教倫理の不断の課題とは、キリストのために、愛の先述と策略とを工夫していくことである」(246)


*まとめ

・要するに状況倫理とは功利主義のキリスト教バージョンである。あるいはイエスの仮面をかぶったミルだといってもいい。だから結局は理論的にも実践的にも功利主義と同じ問題点を抱えこむ。つまり完璧な計算など大天使ではない我々(人間)には不可能である。

・状況倫理は「愛」を原理とするが、もちろんケア倫理とは異なる。第一に、SEは感情を軽視するがCEは重視する。第二に、SEは不偏主義だが、CEは個別主義である。結局「倫理」の源泉は何か、という問題になる。


*作成:安部 彰
UP:20100102 REV: 20180223
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学  ◇生命倫理 bioethics   ◇Fletcher, Joseph ジョゼフ・フレッチャー   ◇BOOK
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