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『死のアウェアネス理論と看護――終末期の認識と臨床期のケア』

Glaser, Barney & Straus, Anselm 木下 康仁 訳 19880415 医学書院 314p.


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■Glaser, Barney & Straus, Anselm 1965 Awareness of Dying, Aldine =19880415 『死のアウェアネス理論と看護――終末期の認識と臨床期のケア』,医学書院,314p. ISBN-10: 4260347772 ISBN-13: 978-4260347778 \2835 [amazon]

■出版社からの内容紹介
 グレイザーとトラウスによる先駆的研究
老いと死を徹底的に否定してアメリカン・ドリームを実現することに意味を見つけてきたアメリカ合衆国の文化に、死の問題を最初に提起。1960年代に「死にゆく人々は生物学的に死ぬ前に社会的、人間的に死ねるのか」と問いかけ、サンフランシスコの6つの病院で調査した結果の報告書の1冊。死と死にゆくことに関する社会的な側面からの古典的研究であり、先駆的研究。(医学書院データベースより)

■目次

第I部 序論
 1 終末認識の問題
 2 死の予期の多様性:社会的提議の問題
第II部 死の認識文脈の諸タイプ
 3 「閉鎖」認識
 4 「疑念」認識:コン卜ロールをめぐるかけひき
 5 「相互虚偽」の儀礼ドラマ
 6 「オープン」認識のあいまいさ
 7 終末認識の不完全状態
第III部 終末認識をめぐる諸問題
 8 終末の直接告知 他

■紹介・引用

森岡 正博 19960308 「「死」と「生命」研究の現状」(overview)  『病と医療の社会学』(岩波講座現代社会学14):223-238
 *井上 俊上野 千鶴子大澤 真幸見田 宗介吉見 俊哉 編集委員 19960308 『病と医療の社会学』(岩波講座現代社会学14),岩波書店,238p. ISBN-10: 4000107046 ISBN-13: 978-4000107044 2100 [amazon][kinokuniya]
「グレイザーとストラウスの『死のアウェアネス理論と看護』は、ガンなどによる終末期患者が増大していたアメ リカの病院に常駐し、そこで収集された資料をもとに構築された社会学理論である。彼らの学問的関心は、死に ゆく人間をめぐって、人々がどのような相互作用を行なうのかを解明することにあった。それを解明するために 、患者自身や、医療従事者や、家族たちが、患者の死に関する「どのような情報を持っているのか」に注目した。 この着眼点が、グレイザーとストラウスの最大の功績である。たとえば、医師は患者の病状が回復不可能である ということを知っているが、患者はまだ自分が治ると信じている場合、彼らのあいだの相互作用は、ある独特の パターンをたどることになるだろう。患者は自分が胃かいようだと思っているが、家族は患者が胃ガンであるこ とを知っている場合も、ある典型的な相互作用のパターンが観察される。だから、そのような「情報の獲得」と いうファクターに注目することによって、終末期患者をめぐる人々の相互作用が、明快に解明できると彼らは考 えたのである。」(P.225)


■言及

天田城介, 199904, 「在宅痴呆性老人家族介護者の価値変容過程」『老年社会科学』21(1):48-61.
 伊藤は、家族介護者は「言動に振り回されるのではなく、痴呆性老人の気持ちを理解した上で冷静に対処しなくてはならない」と"頭じゃ分っている"のに、実際の相互作用に巻き込まれた時には即座の非難・叱責、冷静さを欠いた感情表出、特定の行動への固執といった反応が支配する文脈へと収束化していってしまう場面を考察している。こうした伊藤の立場は筆者と研究の焦点を共有するものの、彼自身が言及しているように、相互作用過程の初期における相互作用秩序の不安定性と再安定化の契機に主な関心が置かれている。
 HutchinsonらはB.G.GlaserとA.L.Straussのアウェアネス理論awareness theory(*15)に準拠した相互作用分析を行なっているが、伊藤と同様、初期の相互作用過程が焦点とされている。

 相互作用において、ある状況("いま/ここがどのような場で、いかなる文脈なのか")のもとで、人々は"相手がいかなる者で、自分は何者なのか"を「名付け(naming)」(*23)、換言すれば自己/他者を「定義」している。こうした名付けによってはじめて行為は可能となり、名付けられた対象に価値が付与される。だからこそ、名付け=定義の変化は価値変容をもたらすのである。つまり、人々はある状況のもとで自己/他者を定義し、それによって適切に行為・解釈することで現実を意味付けており、この一連の意味付けの過程を規定するのが規範の枠組である。
 しかしながら、例えば、公共の場での、あるいは男女における相互作用などの「匿名的関係」での枠組と、夫婦や親子などの「親密な関係」における相互作用での枠組ではその原理を異にする。前者をE.Goffmanは「フレーム(frame)」と概念化し、後者の枠組をA.L.Strauss (*15)や初期Goffman、Gubriumらは「バイオグラフィー(biography)」と呼んでいる。
 ここで重要なことは、フレームはこの場/文脈では「○○(男、女、子ども、大人、老人、道徳者等)はこのようである/こうするべきだ」といった役割規範に準拠することで行為の適切性/不適切性は判断され価値評価されるが、バイオグラフィーの場合には「あなたはこうであった/こうしたはずだ」という「親密な他者」の過去の存在と言動に対する遡及的な意味連関に準拠して行為の適切性/不適切性が裁定され評価される。そのため、バイオグラフィーは人々の現実に対する解釈を共有可能とするだけでなく感情の共振=共鳴性をも組み込むこととなり、バイオグラフィーを有する成員の内面的秩序を構築している。
 但し、夫婦に例示されるように、人々はジェンダーに規定された相互作用を営為していると同時に、長い年月を経てバイオグラフィーを共同構築していくのであって、フレームとバイオグラフィーはそれぞれ独立しているというよりも重層的、相互補完的に人々の行為・経験を規定している。
 痴呆性老人と家族介護者の関係性をこの両概念から言及すれば、夫婦/親子/義父母といった「親密な関係」であるため、(各々質の異なる)バイオグラフィーを共同構築してきた関係であると同時に、「親密な関係であることが規範的に要請される関係」であり、家族イデオロギーやジェンダー規範のフレームによって("家族の親密性"の名の下)家族介護者に"介護すること"を規定していく関係と言える。

 (*15)Glaser BG & Strauss AL:Awareness of dying.Aldine Publishing、New York (1965).(木下康仁訳:「死のアウェアネス理論」と看護.医学書院、東京 (1988).
 (*23)Strauss AL:Mirrors and masks;The search for identity.Free Press、New York (1959).


天田城介, 199905, 「痴呆性老人と家族介護者の相互作用過程――『痴呆性老人』と『家族』の視点から解読する家族介護者のケア・ストーリー」『保健医療社会学論集』10:26-43.
 「騙しの実践」には「痴呆性老人」が車の運転をしようとして「車のキーを頂戴」と言ってきた時に「無くしちゃって見つからないわ」と返答して探すフリをするような実践である。「騙しの実践」は、このように「痴呆性老人」の行動を統制したり、潜在的なトラブルとなり得る行為を(予測的に)回避するために用いられる。【事例12】の場合、「痴呆性老人」の「しまい込み」に対して諸々の対処を講じているだけではなく、「財布がない」と迫ってくる「痴呆性老人」に対して(事実の)「私が預かっている」と伝えるのではなく、余計に混乱したり、トラブルを事前に回避するために(騙しの)「お父さんが預かっているから」という説明をすることでインフォーマルな統制を実践している(*17)。

 (*17)HutchinsonらはB.G.Glaser & A.L.Straussのawareness contextに準拠した上で、「初期アルツハイマー病(状態)の可能性の高い」患者と家族との相互作用は「家族は患者がアルツハイマー病であることを知っているが患者は知らない」という「閉鎖認識文脈closed awareness context」か、「患者は自分がアルツハイマー病ではないかと疑っているのに、家族は患者がアルツハイマー病であること、そして彼(女)が疑っていることを知っている」という「疑念認識文脈」かであることが支配的であり、自分はアルツハイマーであると患者が知ることを家族介護者が隠蔽しようとする状況を指摘するのも、こうした「騙しの実践」と統制によるものと考察される(Hutchinson et al、1997;Glaser & Strauss、1965)。


◆伊藤勇・徳川直人, 20021010, 『相互行為の社会心理学』北樹出版.
(pp73-76)
 相互行為に参与する自己と他者とが、互いに「考慮の考慮」を行うことによって、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に取得し合っているときにのみ、両者の間に「合意」(相互理解)が成立する。こうした「相互行為と合意」論を精緻化したシンボリック相互作用論者に、グレイザー(Glaser,B.G.)とストラウス(Strauss,A.L.)がいる。彼らは、人びとが相互行為を通じて合意を形成しようとする際にたどるであろうその「プロセス」を明示化している。
 ストラウスらは、1964年の論文「覚識文脈と社会的相互行為」において、人間間の相互行為を、そこにおいて個々人が、本章でいう「考慮の考慮」を駆使することによって、互いに「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った[p74>自分自身のアイデンティティ」の双方を想定(定義)し合う過程と捉え、その内実を「覚識文脈(awareness context)」という概念をもとに分析している。覚識文脈とは、ストラウスらによれば、「ある状況において、各々の相互行為者が、互いに、相手のアイデンティティや、相手の目に映った自分自身のアイデンティティについて知っている事柄の全体的な組み合わせ」を意味している。なお、ここで「知っている」とは、あくまで知る側による、相手に関する“想定”(「名付け」)の次元で行われていることであり、知る側が相手の内奥をダイレクトに把握しているという意味で使われているわけではない。
 ストラウスらの提示する覚識文脈とは、ある一定の変数の組み合わせから編み出されたものである。その変数とは、2項対立としての「2人の相互行為者」と「虚偽を行うか否か(覚識の承認)」、3分法としての「覚識の程度」(気づいている、疑っている、気づいていない)と「アイデンティティ」(相手のアイデンティティ、自分自身のアイデンティティ、相手の目に映った自分自身のアイデンティティ)である。これらをすべて掛け合わせると、論理上、36通りの覚識文脈が成立することになるが、そのなかより、彼らが経験的研究に有用なものと判断した「文脈」が、以下に見る4つの覚識文脈である。
 まず第1に、合意が成立していない状態。これはストラウスらのいう「閉鎖覚識文脈(a closed awareness context)」を意味する。すなわち、2人の人間が相互行為を行っているという状況において、「一方の相互行為者が、他方の相互行為者のアイデンティティと他方の相互行為者の観点から見た自分自身のアイデンティティの、いずれかないしは双方を知らない」という状況を意味する。
 第2に、そうした状態から合意へと移行していく過渡的な状態。これは「疑念覚識文脈(a suspicion awareness context)」を意味する。すなわち、「一方の相互行為者が、他方の相互行為者の本当のアイデンティティと他方の相互行為者の観点から見た自分自身のアイデンティティの、いずれかないしは双方について疑念を抱いている」という状況を意味する。すなわち、一方の相互行為者が、「相手のアイデンティティ」や「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」について、“ひょっとすると、自分が知っていると思っていただけで、[p75>実際には(自分の認識は)間違っているんじゃないだろうか”と疑念を抱いている状況を意味する。
 第3に、「[相互]虚偽覚識文脈(a pretense awareness context)」とは、双方の相互行為者が、“完全に”「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を知っているにも関わらず、あたかも知らないかのごとくふるまいあっている状況を意味する。“知っていても知らんふり”、そうしたふるまいを双方の相互行為者が行いあっている状態である。それは、あたかも相互行為者たちが「仮面舞踏会」に参与しているかのごとき状況と捉えられる。
 最後に、「オープン覚識文脈(an open awareness context)」とは、「双方の相互行為者が、互いに相手の本当のアイデンティティと相手の目に映った自分自身のアイデンティティの双方を知っていて」、かつ、互いに知っているということを表明し合っている状況を意味する。ストラウスらは、この最後の状態を指して、両者の間に「合意」が成立した状況と捉えている。
 ストラウスらは、その後の研究である『「死のアウェアネス理論」と看護』(1965=1988)において、この「覚識文脈」を用いて、終末期医療の現場における患者と医療スタッフらとの相互行為のプロセスを経験的に分析している。
 上記のストラウスらの研究においては、彼らの分析の主眼は、1)それぞれの覚識文脈を維持するために、医療スタッフや患者やその家族はどのような相互行為の戦術を用いているのか、2)それぞれの覚識文脈を可能にしている社会構造的条件とはどのようなものであるのか、3)ある覚識文脈から別の覚識文脈への移行がどのようにして生じるのか、といった点に向けられていた。ストラウスらがこの研究のために調査を行っていた当時、アメリカの病院では、間近に迫った患者の死をスタッフたちは知っていても、患者自身はそれを知らない場合が一般的であった。そのため、末期ガン患者に代表される終末期の患者が、病院においてまずおかれる状況とは、概して「患者以外のすべての人はその人の間近に迫った死を知っているのに、本人だけはそれを知らない状況」というものであった(閉鎖覚識文脈)。それが何らかのきっかけで、「他の[p76>人たちは何か知っているのではないか、と患者が疑問を抱きはじめ、それを確認したり否認しようと試みる状況」に変化することがある(疑念覚識文脈)。また、さらにその状況が、「患者とスタッフの双方が、患者の死が間近に迫っていると判断しながらも、互いに相手はそう思っていない振りをする」という状況([相互]虚偽覚識文脈)に変化してしまうならば、必然的に、両者のおかれる状況は、「両者がその事実[患者の間近に迫った死]を認め合い、その共有認識に基づいて比較的オープンに行動する状況」(オープン覚識文脈)へと移行することを余儀なくされてしまう。
 「相手は病状について何をどこまで知っているのか」(相手のアイデンティティ)、「自分が病状について何をどこまで知っていると相手は思っているのか」(相手の目に映った自分自身のアイデンティティ)、この2つの“情報”をめぐる患者とスタッフらとの“駆け引き”を、ストラウスらは生き生きと描いている。
 以上のストラウスらの議論をふまえる限り、次のことが理解される。すなわち、「合意」が形成されるためには、相互行為に参与する相互行為者たちは、互いに「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を正確に“取得”(=想定)しなければならないが、「合意」とは、単にそれだけで成立するものではない。「合意」とは、単に双方が理解し合っているのみならず、同時に、相互行為者の双方が、相互に理解し合っているということを互いに表明し合うことで、初めて成立する現象なのである。

Glaser, B.G. and Strauss,A.L., "Awareness Contexts and Social Interaction," American Sociological Review, 29, 1964.


天田城介, 20030228, 『<老い衰えゆくこと>の社会学』多賀出版.
(第3章第1節3項「相互作用秩序の侵犯―恣意的なカテゴリー化の実践によって達成される秩序」)
 言うまでもなく、「身体」は相互作用場面において常に「露出」しているために、当事者の意図せざる表出として常に他者に晒され―つまり、他者の側に自己の価値の決定権が委譲されている―、相互作用秩序にとって潜在的脅威となりうる「過剰なるもの」である(天田 1997a:14)。具体的には、終末期患者と医療従事者の相互作用場面おいて、患者が終末期であること(死にゆくこと)を医療従事者が必死に隠蔽しようとしても、患者は自らの肉体的な衰弱といった「徴候」や医療従事者や自分の家族による「不自然な」行為といった「手掛り」の表出によって、相互作用を形成する成員間での定義の競合(debete)が露呈してしまい、成員間で「駆け引き」が行われ、相互作用秩序は著しく不安定化する(Glaser & Strauss 1965:47-80)。ことほど左様に、コミュニケーションとは誤配可能性を含んだ「郵便的」なものなのである。
 ところが、このように相互作用秩序の脆弱性がひとたび露呈したとしても、相互作用参与者たちの「相互作用儀礼」によって相互作用秩序の脆さは隠蔽化されたり、修復され、その結果、相互作用秩序は遵守されるのである。


蘭由岐子, 20040409, 『「病いの経験」を聞き取る――ハンセン病者のライフヒストリー』皓星社.
(pp43-44)
 ここ三十数年、医療をめぐる情勢は大きく変化し、そのような考察が後退し、「病いの経験」に関する研究が出現するようになった。医療社会学者のコンラッドにならってその要因をまとめておこう[Conrad 1987, pp.2-4]。ひとつの要因は、疾病構造が急性疾患から慢性疾患へと変化し、治療者による治癒がすべての患者におとずれるわけではなくなり、多くのひとびとは病いとともに(長ければ一生)生活せざるをえなくなったことにある。急性疾患は、経過が急であり、医療スタッフによる治療の効果がはっきりと表れ比較的早い治癒が見込めるが、それに対して、慢性疾患はその経過が長く、治癒がくるのかどうかさえはっきりしないことも多い。また具体的な処置も病院という医療機関内部だけで行なわれるのではなく患者の日常生活の場に持ち込まれる。すなわち、慢性疾患は経過の軌跡(trajectory)という時間的次元を包摂し、生活の場に降り立ち、それゆえわずらう者(sufferers)の人生に密接に関係してくるのである[Strauss et. at. 1984=ストラウス他1987]。したがって、慢性疾患について考察することは、わずらう者の視点をぬきにしては考えられなくなった。
 第二の要因は、医療実践において、ひとを部分ではなく「まるごとの個人」(whole person)として把握することが求められるようになったことである。医療の専門化が進むにつれて治療に技術が優先したが、その過剰な専門化に対して、プライマリー・ケアが強調されるようになった。そこで「家庭医」という新しい専門が登場し、[p44>「疾患」ではなく「まるごとの個人」を診ることに関心が払われるようになったのである。L.アイゼンバーグの「患者は病気を苦しみ、医師は疾病を扱う」という指摘[医療人類学研究会編1992, p.47]をまつまでもなく、近代医療がもつ疾患重視と病者軽視の傾向が、わずらう存在としての「まるごとの個人」、すなわち主体としての患者という視点を抜け落としてきたことへの反省であった。
 第三の要因は、医療社会学自体の、「医療における社会学(sociology in medicine)」から「医療の社会学(sociology of medicine)」への転回である。おもに、シンボリック相互作用論の伝統が、患者のパースペクティブから病気について吟味するようになった[Bell 2000, p.188]。たとえば、グレイザーとストラウスの死につつあるひとに関する研究[Glaser & Strauss 1965]やゴッフマンの精神病院やスティグマに関する研究[Goffman 1961=1984, 1963=1987]などがその嚆矢である。そこでは、死に直面しているひとびとの意識や施設入所者やスティグマを付与されたひとびとの視点が考察されている。
 第四の要因は、いわゆる障害者運動との関連である。セルフヘルプ・グループが出現し、市民権や女性運動を反映した活動家というスタンスが増え、権利獲得・自立生活運動をはじめ、障害とともに生きることの社会的認識をやしなった。障害者やフェミニズム運動の女性たち[ボストン女の健康の本集団1988]の活動に明らかなように、それまで被援助者として見なされていた当事者自身が主体的にみずからに適した医療を求めるようになってきた。それまで一方的に援助される立場に立たされてきた自分たちこそ、わずらうことに関してエキスパートであって、その経験を生かすことが提唱されるようになったのである。


『老いと障害の質的社会学』
出口泰靖, 20040930, 「「呆けゆく」体験を〈語り、明かすこと〉と〈語らず、隠すこと〉」山田富秋編『老いと障害の質的社会学――フィールドワークから』世界思想社:217-228.
(第1章「「気づきの文脈」という概念」)
 グレイサーとストラウス(Glaser & Strauss, 1965=一九八八)によって示されたこの「気づきの文脈(Awareness Context)」という概念は、死にゆく患者とその家族、そして病院スタッフとが、「死にゆくこと」という情報をめぐって、病院の組織形態や告知における医者のモラルなどの「構造的条件」(Glaser & Strauss, 1965=一九八八)によって影響されながら、どのような文脈で相互行為がなされているかという具体的な状況を踏まえて編み出されたものである。
 グレイサーとストラウスによると、気づきの文脈は、_「閉じた文脈(Closed Awareness Context)」、`「疑いをもった文脈(Suspected Awareness Context)」、a「相互に仮面をかぶった(相互偽装)文脈(Mutual Pretense Awareness Context)」、b「開かれた文脈(Open Awareness Context)」の四種類にわけられている。
 「閉じた文脈」というのは、ある人は、X(診断、予後、症状)について知っているが別の人には情報を隠す、というものである。また、「疑いをもった気づきの文脈」は、ある人はXについて疑いをもち、それをたしかめようとしたり無効にしようとしたりすることをいう。そして、「相互に仮面をかぶった気づきの文脈」というのは、患者と家族は、Xについて知っていたり気づいていたりしているが、どちらもオープンにXについて言わずに、相互に知らない(気づかない)ように振る舞うことをさす。最後の「開かれた文脈」は、患者、家族はXについて認識しており、それについてオープンに語り合う。
 グレイサーとストラウスによると、この概念を用いた分析では、当事者がどのような気づきの状態にいるのかといった気づきの形態を明らかにすることよりむしろ、どんな状態(グレッサーとストラウスの言い方では、「構造的条件」)のもとで、Xが明らかになったり隠されたりするのかといった相互行為とその文脈について考えることが重要になる。
(第4章「「呆けゆくこと」をめぐる気づきの「閉じた文脈」のなかでの「偽装の文脈」」)
 このような「閉じた偽装の文脈」のもとで、パッシングあるいは偽装的振る舞いを維持し、持続させていくのは、「呆けゆく」とされる本人にとっても、ケアワーカーや家族など周囲にとっても、「警戒的静けさ」(Glasser & Strauss, 1965=一九八八)のなか、時にかなりの緊張を必要とする場合もあるであろう。本人は気づいているのかもしれないが、自分が「呆け」である予感について家族と話そうとしないで、パッシングによってますます周囲を避け、ひいては相互行為自体から引きこもり、心を閉ざしていくことも考えられる。この閉じた偽装の文脈で相互行為しなければならないことこそ、「呆け」が本人やその家族にとって恥辱で、嫌悪し、忌避するべきの何ものでもないこと、もの忘れ/記憶障害がなじみのものになっていない何よりの証拠である。


立岩真也, 20041115, 『ALS――不動の身体と息する機械』医学書院.
(第4章5節「家族の位置」)
 医療の側としては、誰かには伝える必要はあり、さきに第一点として述べたように、家族に伝えた方がいくらか面倒は少ないかもしれない。しかし、いったん学界か業界の「ガイドライン」で本人に伝えなけばならないということになれば、もうそれはそれで割り切るしかないのだから、そして割り切りさえすればよいのだから、それだけのことである。例えば米国でも深刻な病では多くの場合にそのまま本人に知らせることがためらわれ、そこに働くいくつもの要因、医療者・看護者の逡巡についてはGlaser & Strauss[1965=1988]等に記されているのだが、方針が本人への告知といったん定まってしまえば、そしてその後のことは基本的には本人のことだからとしてしまえば、それほど面倒はない。むしろすっきりさせることができる。
 しかし伝えられる側は違う。ALSの人の生存・生活に関わる条件が同じままで本人に選択が渡されたら、今度は本人がつらいことになる。家族が本人と自らとを天秤にかけざるをえない状況が、今度は、本人が自分が死にたくないことと家族が負担を負うこととの比較をしなけばならない状況に変わるにすぎないとも言える。その人がその後を生きられるかどうかは、これまで多く、家族がどれだけ負担を負えるかにかかってきた。負担を負うのが家族であることを前提とし、それを動かさなければ、本人に知らせ、本人が自分と家族とを天秤にかけてつらい思いをし、さらにその上で生きるのを断念するよりは、知らないままで死んでもらう方がよいと考えても、そうおかしくない。また、家族が実際に負担を負うのであれば、家族にそれだけの用意があるか否かを聞くことは当然のことで、そうしないのは無責任だという主張にももっともなところがある。


*追加:植村 要
UP: 20080731 REV:20090723
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