『江戸の刑罰』
石井 良助 19640225 中央公論社,202p.
■石井 良助 19640225 『江戸の刑罰』,中央公論社,202p. ISBN-10:4121000315 ISBN-13:978-4121000316 \714 [amazon]/[kinokuniya] c0134
■内容(はしがきより)
「本書は江戸時代、ことに幕府の刑罰、牢屋および人足寄場について叙述したものである。
ここで注意しておかなければならないことは、江戸時代の刑罰と牢屋との関係は現代のそれとは異なることである。現代では、裁判によってある犯罪人に対する刑が確定し、その刑が懲役または禁錮の場合に、刑の執行が刑務所でなされることになっている。すなわち、刑務所は刑の執行の場であるから、牢屋のことを刑罰の一部として述べることは適当である。
ところが、江戸時代の牢屋は未決拘禁置所であって、原則として刑の執行場ではない。刑罰が宣告されるまえの被疑者を収容する所である。
したがって、江戸時代に関しては、刑罰の名の下に牢屋を含ませることは、理論的には適当とはいえないが、現代の読者は刑罰といえば当然、牢屋のことをおもいうかべるだろうから、簡明を欲して、本書の題名は『江戸の刑罰』とした。
(中略)
本書はこのように、江戸時代の刑罰ないし行刑を一般予防より特別予防(懲戒より懲役へ)への発展という過程においてとらえつつ、同時代の刑罰、牢屋および人足寄場について述べたものである」(pp.@-B)
■目次
まえがき
序 吟味から落着まで
十両盗めば死刑/見懲から改悛奨励へ/"牢屋"のはたらき/吟味・牢問、落着
T 御仕置
鈴ヶ守の露―生命刑―
首洗い料は金一分(下手人と死罪)/肝とり朝右衛門/木刀で切腹/四尺板に獄門首/火付には火罪/見せ槍と止めの槍(磔)/まえねごとの鋸挽
額に悪の文字―身体刑―
三分二筋の入墨/のびてもかまわぬ剃髪刑/数をまちがえて進退伺(敲)
八丈島送り―自由刑―
高瀬舟の行方(遠島)/四十八人の女犯僧(晒)/江戸十里四方追放/"門外不出"の刑/油ではずれる手鎖/飼殺の囚人(過怠牢、永牢)
とりあげの刑―財産刑、身分刑、栄誉刑―
闕所と過料/心中すれば非人手下/強制隠居
窃盗三度で死罪
慶弔の恩赦
U 牢屋
"小伝馬町"の塀の中
お奉行所へシャモ入り/牢屋敷の見取図/牢屋の沙汰も身分次第/世襲の囚獄、石出帯刀/"地獄入り"の式/女牢ではびろうども黒絹/密告する牢内世話役
格子の中の暮し
牢内役人/一畳に十八人詰/"ご馳走"の私刑/一日二度の盛相飯/"詰の教え"/名ばかりの薬で大量牢死/病死ヶ輪を着る新入り
シャバと牢屋
届物/干魚が運ぶ含み金/買物、賄賂、博奕/シャバを歩く楽しみ/牢庭敲と牢内縄/牢屋見廻の監察/牢内巡廻を迎える"時の声"/牢内は禁制品の山(牢内改)/恋に狂って破牢の計画/火事で三日のシャバ見物(切放)
溜
非人の作った囚人診療所/脈をとるだけの診察
V 人足寄場
佐渡の水替人足/無宿者収容所/油絞りのノルマ/水玉人足の生活/寄場から徒刑場へ
参考文献案内
犯罪と刑罰の対照
■引用
「"牢屋"のはたらき
現代では、刑法に規定された主刑、懲役、禁錮、罰金、拘留および科料のうち、もっとも主要なものは、刑務所にとじこめる懲役と禁錮であろう。死刑もあるが、殺人に対しても、よほどの兇悪犯でないと科せられない。罰金は数においてもっとも多いに違いないが、交通犯などに見られるように、刑罰としての意識はそれほど強くないように思われる。
これに対して、江戸幕府法における主要な刑罰は、死刑(ことに死罪、下手人)と追放刑であったといえよう。このほか、敲と入墨も広く行なわれたが、これらは盗みおよび博奕に対する特別>19>とも称すべきものであった。
しかし、牢屋にとじこめることを内容とする懲役や禁錮にあたるものはなかった。全然なかったわけではなく、後に触れるように、永牢、過怠牢という刑罰もあったが、刑罰体系の上からいえば例外的なもので、『御定書』下巻第三条の「御仕置仕形之事」にも、両刑罰は載っていない。
それでは、江戸時代の牢屋は何のためにあったかといえば、それは未決拘禁所であって、刑罰として入牢させるのではなかった。ある者がある犯罪の嫌疑者として逮捕されたとき、奉行所では簡単な取調べをして、有罪の嫌疑があれば、まずこれを入牢させて、それから「吟味」に取りかかったのである。もっとも、未決の者をすべて入牢させたわけではない。軽罪の者は、宿預、町村預などにするが、比較的罪の重い者は入牢させた。したがって、江戸時代の牢屋は重罪未決監とも呼ぶべきであろうか」(pp.19-20)
「しかし、近代的自由刑的なものを江戸の牢屋に求めることはできない。近代的自由刑は、犯人の自由を奪うとともに、一定の労役を科することによって、出獄後生業につく準備をさせ、これを改善しようとするものであるが、江戸の牢屋にはまったくこういう制度はなかったのである。
近代的自由刑の制にあたるものは、寛政年間に、老中松平定信によって江戸の石川島に設けられた人足寄場であろう。しかし、眼を幕府以外に転ずれば、諸藩では、すでにこれ以前に、近代的自由刑にあたる徒刑の制を設けているところが少なくない。その比較的早いものといわれる熊本藩の徒刑場のごときは、すでに宝暦五年(一七五五)に設けられている。『公事方御定書』制定のわずか十三年あとである」(p21)
「以上に述べたところを総括すると、江戸時代の刑罰ないし刑罰思想は、寛保二年(一七四二)、『公事方御定書』の制定を境として大きく変化していることがわかる。
第一に、この前後において、刑罰の残酷さにおいて程度の差がある。この前までは厳しく、この後では緩和されている。第二に、この以前では、刑罰はもっぱら犯罪の事実を問題にして、見懲を主たる目的として科せられたが、この以後は、犯人の罪意というものを問題にするようになり、犯人を改悛させることに主眼がおかれるようになった。第三に、罪人を牢にとじこめるとともに、これを改善し、労役をお科して、出牢後生業に資せしめようとする徒刑の制が発達した。この第三の思想は第二の思想の上においてのみ生まれることができたのである」(p22)
「死刑としては鋸挽がもっとも重く、右の順で軽くなり、下手人が一番軽いことになる。しかし、鋸で挽くことは形式だけで、実際はあとで磔になるのだから、鋸挽は磔の附加刑とも見られる。獄門も死罪になった者の首を晒すものであるから、晒首自体は死罪の附加刑とも見られる。死罪と下手人との別も、下手人に家屋敷、家財の没収(および様斬)が附加刑として加わったものが死罪である、と見られないわけではない。こういう風に考えると、江戸時代の庶民の死刑はつぎのように整理できるであろう。
基本形 磔 火罪 下手人
↓ ↓
変形 鋸挽 死罪
↓
獄門
もっとも、江戸時代では、鋸挽、獄門、死罪は、ふつうそれぞれ独立の刑罰として考えられていたのである」(p29)
「首切り役は町同心の持役である。揚屋に入れられている者はどうしても町同心が切らなければならないが、平素切りなれていないので、ことのほかへただったという。科人が苦痛に堪えかねて、身体をそらすことがある。手伝人足もこまって、こういう時は科人の両足をひき、打ち伏せて首を挽き切った。
しかし巧みな者もいた。後藤某という同心は打首の妙手であって、強雨の節などは片手で傘を携え、直立のまま、"小刀一下頭は前に飛び"衣服の刀も雨に濡れないで、三、四人の首を瞬時にして切ってしまったという。
首切朝右衛門(浅右衛門とも書く)として有名な山田朝右衛門は、刀の御様の御用をするのが本職であって、罪人の首斬役ではないが、首斬役を勤めることもある。しかし、これは町同心よりとくに頼んだ場合である。弘化二年(一八四五)、町奉行跡部能登守から、加役方(火附盗賊改)への回答に、
死罪其外御仕置者首打役ハ組同心相勤候義に有之、山田朝右衛門等ハ、御様御用にて罷出候義にて、右>39>御用無之節も罷出、死刑之者有之候ハゞ、其場に出居り、同心代り相勤候義も有之云々。
とある。
首打役は刀砥ぎ代として金二分を奉行所よりもらう。もし朝右衛門に首を斬らせるときは、同人から若干の礼を受ける。これは、朝右衛門は頼まれた新刀で首を討って刀剣の試に供するので、頼み手から謝礼をもらうからである」(pp.39-40)
「切腹については、『御定書』には規定していないが、やはり士分以上の刑である。赤穂義士の場合には御預けの大名の屋敷で行われたが、牢屋内で行われたこともある。いずれも検使を派して監視させた。
庭中に砂をしき、その上に縁なしの畳二畳をしいて処刑場とする。牢内では揚座敷の前の庭を用いる。本介錯人一人、添介錯人二人はいずれも町方同心である。本介錯人がその姓名を述べて一礼し、刀を抜いて科人の背後にいる。添介錯人が科人を助けて衣をぬがせ、合図の咳をすると、牢屋同心が木刀を載せた三方を持ってきて、科人の席より三尺ほど離れたところにおき、添介錯人が科人にこれを戴くように申し渡す。科人が手を伸ばして取ろうとするときに、本介錯人が背後から首を刎ねる。
添介錯人は首を掲げて、右の手でたぶさを取り、左の手を下に添えて、右の膝をついて検使の>43>方に横顔を向ける。検使(目付)何の守が見届けた旨を御徒目付がいう。そこで、首を死体に添える。下男が死骸に薄縁をかけて、かたわらに寄せる。検使以下は退席し、評定所に赴き、無事すんだ旨を報告するのである。
以上は牢内での切腹の場合であるが、浅野内匠頭が田村邸で切腹した場合には、大名であるから大目付が検使に行き、御徒目付が介錯している」(pp.43-44)
「本書で牢役人というのは、牢屋監理のためにおかれた幕府の役人のことである。このほか、各監房には、名主その他の囚人の自治的な役人がおかれているが、かれらは、当時牢内役人とか役人囚人とか呼ばれている。
小伝馬町の牢屋は町奉行の支配に属したが、町奉行の下にあって牢屋を管理するのは、囚獄と称する役人である。囚獄は俗に牢屋奉行とも呼ばれ、石出氏が代々世襲して石出帯刀の名を継いでいた。牢屋敷内の拝領屋敷に住み、牢屋敷のことを一さい管理するが、浅草、品川の両溜は管理しない。囚獄は与力の格式で、町奉行の支配に属し、役高は三百俵である。不祥の役人として登城も許されず、他の旗本と交際もしない。その縁組も武士に求めがたく、代々村名主などと結んだという。
囚獄の下には同心と下男がいた。同心の数は古く四〇人であったが、揚げ座敷ができたときに五十人となり、百姓牢新設のとき八人増員し、慶応元年(一八六五)揚屋増設の際、七十六人に増員された。同心はその勤務によって、鍵役、小頭、世話役、打役、物書所詰、数役、平番、物書役、賄役、勘定役、牢番などに分かれている。鍵役は二人で、四〇俵四人扶持であるが、その他の同心は二十俵二人扶持もらっているのが多い。一俵は米三斗五升で、一人扶持は米を一日に五合>105>の割で給せられる。
鍵役は鍵番ともいう。諸口の鍵を保管し、囚人の出入りに関する一さいの事務を扱う。小頭は惣牢の番人の小頭で二人いる。小頭はそのほか、囚人の護送、警固の任にあたる。打役は牢問、敲の打役をするほか、遠島、入墨、死刑の執行などを掌る。数役は敲の数を数える役であるが、打役の中より勤めることもある。平番は牢内では平当番と呼ばれ囚人の呼出しのときの護送、警固を勤め、小頭、世話役とともに下当番所(惣牢の当番所)に詰める。
(中略)
下男は牢内の張番、門番、炊事、運搬その他の雑務に従事し、給料はふつう一両二分、一人扶持で、そのほか一日四文の味噌代が給せられる。人数ははじめ三十人で、安永四年、百姓牢ができたときに三十八人、慶応元年、揚屋建増のときに四十八人となった。抱入の御家人であるから、職を離れると御家人の身分を失う」(pp.105-106)
「江戸時代の刑法史の基本的なものは、
『日本近世行刑史稿』上 日本刑務協会(昭和十八年)
である。第十六章「敲」以下、「入墨」「遠島」「過怠牢」「永牢」「死刑」の各章がこれにあてられている。江戸幕府の刑を中心としているが、すべての刑種を網羅しているわけではない。しかし、史料が掲載してあって、有益である」(p200)
■書評・紹介
■言及
*作成:櫻井 悟史