ブルデューの原点。大学における形式的平等と実質的不平等の謎を科学的に解明する文化的再生産論の古典的名著。
出身階層による高等教育レベルでの不平等の要因を、家庭の文化的「遺産」の相続という観点から説明したブルデュー社会学の原点。大学における形式的平等と実質的不平等の謎を科学的に解明する文化的再生産論の古典的名著。
「自由」教養は、いくつかの学科では大学で成功するための暗黙の条件になっている。
(たとえば、演劇、音楽、絵画、ジャズ、映画などがそれにあたる。しかし、このような教養は出身階層によって、知識に差が見られる)
美術館を訪れる頻度や、さらにはしばしば「大衆芸術」とみなされるジャズや映画の歴史についての知識に関してまでも、学生たちがその出身階層によっていっそうはっきり区別される(p.33)
特権の作用というのはたいてい、推薦やコネ、勉学における援助や補習授業、教育課程や就職口に関する情報など、それが最も露骨な形をとる場合にしか人々の目にはとまらない。しかし実際には、文化的相互遺産の大部分はもっと間接的な仕方で伝達される。
文化を一生懸命に身につけることを説いたり、文化的慣習行動への手ほどきをことさらに引き受けたりする必要が最も少ないのは、おそらく最も「教養豊かな」家庭環境においてであろう。両親がたいていは文化的向上以外のものを伝達できないプチブルジョアの家庭とは反対に、教養豊かな階級においては、文化への賛同の念をかきたてられるようにもっと遥かにうまく作られている拡散した種々の刺激を、一種のひそかな説得とでもいうべきものによって与えるのである(p. 36)
すべての教育、とりわけ文化教育は、教養のある階級の世襲財産を構成する一群の知識やノウハウや表現技法を暗黙の前提のうちとしている。
→めぐまれていない階級はどうか?
恵まれていない階級の子弟が、学校による勉強の手ほどきを小手先の方便や教師用言説を身につけるための学習作用としてとらえることが多いのは、まさに彼らにとっては直接的経験よりも、学問的省察が先行しなければならないから。ではないのか?
等しい経済的手段が保証されれば、最も高度な教育や高級な文化にアクセスする機会が万人に平等に与えられと信じること、それは種々の障害の分析を途中でやめてしまうことである。
→このことは次の事実を無視してしまう。
学校的な規準に照らし合わせて測定される能力は、ある階級のさまざまな文化的慣習と教育制度の側の要求事項との、もしくは教育制度における成功を規定する規準との親和性の大きさによって決まるという事実である。
農民や生産労働者、事務労働者や小商人の子弟にとって、学校文化の獲得とは異文化の受容なのである。
特権の作用の仕方の2つのタイプ
〈学校〉を前にしたあらゆる不平等を、経済的不平等だけのせいにしたり、ある政治的な意図のせいにしたりすると、自分は学校制度と戦っているのだと信じながら、この上なくそれに奉仕する結果になってしまう。
→教育システムは、その固有の論理を働かせるだけで特権の永続化を保証することができる。
〈大学〉は強制したり価値判定をおこなったりする必要がまったくない。
→顧客は、はっきり口に出すにせよ出さないにせよ、とにかく知識人階級というあこがれを抱いている者なのだから。
(しかしこういった、知識人階級になれるのは実際には一部である)
・では、このような知識人の身分を虚構として遊戯的に享受するというあの経験がもつ機能とは、いったいいかなるものでありうるのだろうか?
→
一部の学生たちは集団的な自己欺瞞によって、現在が自分を導いて行くはずの将来に目をつぶりつつ、その勉強の本当の姿に目をつぶる結果になっているが、こうした自己欺瞞は大学的理性があやつる詐術の第一形態である。(p. 79)
学習作業というのは単なる手段としてみなされるどころか、学生自身にとっては目的なのである。起点と終点という二つの極をともに否定することと引き換えに、勉学に励む現在を自律化させることによって、知識人としての適性を十全に生きるという幻想を抱くことが可能になる。(p. 80)
→こうした幻想は、大学の慣習行動の非現実性そのものによって助長されてはいないだろうか?→大学のシステムは、それが含んでいる最もまじめな価値判断の機会である試験の性格からして、おそらく仕事よりゲームに近い。
〈大学〉および大学的文化を問題にする行為もまた、この上なく大学的モデルにしたがっていないだろうか?(p. 82)
【大学的な文化を批判する際にも、大学で教えられた形式的な訓練モデルにしたがってしまっているのではないのか?】
新米知識人として学生は、周囲の期待を裏切る技術を知的自由の特権的な行使形態にしたてあげるゲームの訓練をすることによって、自分が自立性をもった知識人であることを証明してみせるよう義務づけられている(p. 83)
パリの学生たちは前衛に向かいながらも、美的選択や過激主義的にもなる。
→何故なら
ブルジョア学生が学生界にもちこみ、特にパリでは学生界全体に通用している、あのディレッタント精神とか鷹揚さといった価値観が、しがらみも根っこもない知性という知識人の理想の中に含まれている価値観と似通っているからである。
学生たちの大半…差異をめぐる論争ゲームにかなり遠くからしか参加しない。
→しかし
果てしない議論の中で、彼らが自分を他者から差別化したいという意志は、政治・哲学・美学レベルでも同様にかつ同時に、その土俵を見出すことができるのである。
コンセンサスの…じっさいの差異の追求は、差異のゲームが演じられうる範囲を画定する境界をどこに設定するか、またその境界内での差異のゲームを演じる必要性があるかないかについて、コンセンサスが成り立つことを前提としている。(p. 86)
セミナーや講演、討論や集会などにしばしば通ったり、流行の雑誌を読んだり、常に事情通の媒介者が誰か出入りしている小団体に参加したりすることによってしか獲得されない一連の情報資本は、大きく理論的論争にうわさ話のような味わいをもたらし、ものごとを神聖化すると同時に脱神聖化するような親しみやすさを覚えさせる。(p. 89)
パリの学生たちのイデオロギー的ゲームは、学生という身分の不安で不幸な経験を克服するためのひとつの方法であるのかもしれない。
→自分の活動の目的は自分で決めたいと考える選ばれた者の小集団につきものの、貴族的ユートピアともいうべき自主教育の神話が、近年あれほどもてはやされたのはパリのブルジョア文科系学生たちが最も深いところで、また全然口に出さずに抱いている期待を満たすことになったからであろう。
知的活動の新米たちは、特にブルジョア出身の学生の中から出てくる。
→自由な知的活動ゲームの前提
勉学が職業的成功が得られるかどうかでその成否が検証される学習作業ではとしてではなく、ゲームの規則によって規定された価値判断以外の判定はいっさい排除するゲームとして経験されるということである。(p. 93)
知的ゲームとそのゲームが押し付けてくる価値観への支持の度合は、けっして出身階層と無縁ではない
→したがって
「まじめさ」の名のもとに学生という身分を生きる二つの仕方が隠されている。
競争試験においては、受験生の形式的不平等は完全に保証されるが、各人は匿名であるために文化を前にした現実の不平等はいっさい考慮されないので、このシステムがここで十全な達成を見る(p.124)
競争試験=隠れた方法によってではあるが、出身階層が影響を及ぼし続けることを可能にしている。
要するに、他の点はすべて等しいとみなした上で、学校的基準で判定される成績だけしか考慮しない選別方法は、根本的に同等でない学生たちに同じ試験を受けさせ同じ基準で評価するという意味で、現実の正義に反しているのであるが、にもかかわらず、選別された比較可能な学生たちを生産することをその機能とするシステムに適合しているのは、こうした選別方法だけなのである。(p.127)
↑問題点
けれどもこのシステムの論理の中には、本来の意味での教育の中に、現実の不平等に対する考慮を導入することに反対するようなものは何もない。(p. 127)
特権階級は、カリスマ的と呼んでもいいようなイデオロギー(なぜならそれは「天の恵み」とか「生まれつきの才能」などに高い価値をあたえるから)のうちに、彼らの文化的特権を正当化する根拠を見出す。
→このことによって
文化的特権は、社会手相続遺産から個人的な天の恵みへ、あるいは個人の功績へと変貌するのだ。(pp. 127-128)
こうして隠蔽された「階級システム」はけっしてその姿を見せることなしに自分を誇示することができる。なぜなら、この錬金術は、上流階級の本質主義を自分の責任で引き受け、みずからの不利益を個人的運命として生きるだけにますます成功をおさめることになる。
生まれつきの才能というイデオロギーは、何よりもまず〈学校〉と文化を前にした社会的不平等にたいする盲目性の上に成り立っている(p. 130)
下層階級の学生たち=カリスマ的イデオロギーを参照しアンガラ自分の得た結果を判断するよう全ての面で方向付けられているため、自分の行為を自分の存在の単なる所産とみなすのである。
→彼らの社会的運命についての漠然とした予感は、自分で自分の現実に寄与する予言の論理に従って、挫折の可能性をひたすら強める一方である。
社会と教育的伝統の現状において、〈学校〉によって要求される思考の技術や習慣を伝達することは、第一義的には家庭環境にゆだねられている。
→したがって、教育の真の民主化がおこなわれるには、どうしても以下の3つのことが前提となる。
真に民主的な教育というものが、可能な限り多数の個人に、可能な限り少ない時間で、可能な限り十全かつ完璧に、ある時点における学校教育を構成する種々の能力を可能な限り多く獲得させることを、その無条件の目的とするような教育であるということが認められるならば、それは生まれのいいエリート集団の形成と選別をめざす伝統的な教育にも、規格通りのスペシャリストの生産を目指すテクノクラート教育にも、ともに対立するものであることがわかる。(p. 138)
→真の教育の民主化を目的とするだけでは十分ではない
文化的不平等を生み出す諸要因を無力化するような合理的教育学が不在であるならば、全ての人々に教育にたいする平等な機会を与えたいという政治的意思は、現実の不平等には打ち勝つことはできないだろう。
さらに・・・反対に、真に合理的な社会的不平等の社会学の上に成り立つ教育学が存在するならば、不平等を縮小することに寄与するだろうが、そうした教育学も合理的な教育学の確立をはじめとして教師と生徒の募集が真に民主化されるためのあらゆる条件が与えられない限り本当の意味で事実の中に分け入っていくことはできない。
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