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『論文の書き方』

清水 幾太郎 19590317 岩波書店,214p.

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last update:20150512


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■清水 幾太郎 19590317 『論文の書き方』(岩波新書),岩波書店,214p. ISBN-10: 4004150922 ISBN-13: 978-4004150923 \735 [amazon][kinokuniya]

■内容

論文やリポートは、なかなか書けないものである。
もとより「いかに考えるべきか」を離れて「いかに書くか」は存在しえない。
著者は当代一流の文章家。
その文体の明晰暢達はひろく知られている。
読者は、著者の多年にわたる執筆経験に即しながら、文章というものの秘密を教えられ、文章構成の基本的ルールを興味深く学ぶことができよう。

■目次 ■引用

◆…読むという働きより一段高い、書くという辛い働きを通して、読むという働きは漸く完了するのである。即ち、書物を読むのは、これを理解するためであるけれども、これを本当に理解するのには、それを自分で書かねばならない。自分で書いて初めて書物は身につく。/読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことである。書こうと身構えた時、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことが出来る。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。対象と精神とがそれぞれの深いところで触れ合う。書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある。[1959:8]

◆…自分の勉強に役立ちそうだと思われる、かなり堅い書物を選んで、それを丹念に読み、それから、短い紙数でその紹介を書くという方法は、広く初歩の人々に勧めることが出来ると信じている。…第一に、この表現という迂路を通ることによって、私たちは本当に書物を読み、その内容を自分の精神に刻みつけることが出来るからである。そして、第二に、短文という苦しい狭い場所へ自分を押し込めることによって、文章を書くという仕事の基礎的作業を学び取ることが出来るからである。自由な感想を自由な長さで書くという方法は、あまり文章の修業には役立たない。むしろ、初めは、こういう自由は捨てた方がよい。要するに、文章の修業は、書物という相手のある短文から始めた方がよい、というのが私の考えである。自由な感想ではなく、書物という相手があるということ、それから、自由な長さではなく、五枚とか、十枚という程度の短文であるということ、この二つが大切である。[1959:9]

◆真面目に文章の修業をしようというのなら、観念や思いつきをトコトンまで大切にしなければいけない。直ぐ紙に書きとめておかねばいけない。[…]観念や思いつきを大切にするというのは、それを深く考えること、書物などでよく調べることである。考えられ、調べられて、それが紙に書きつけられると、それはもう部分品に近くなる。短文に近くなる。[…]それが進行する過程で、二つの新しい事実が生まれて来るものである。一つは、今まで考えもしなかった観念や思いつきが心に浮かんで来る。これも大切にしなければいけない。考えて、調べて、部分品に作り上げねばいけない。もう一つは、このように部分品が出揃って来ると、最初のイメージ自体が変化して来る。曖昧だったイメージが明確になって来るし、貧しかったイメージが豊かなものになって来る。立派な機械に似て来る。ところが、イメージが明確な豊かなものになって来ると、それにつれて、新しい部分品が必要になって来る。また新しい思いつきが何処からともなく現われて来る。逆に、今まで大いに役に立つだろうと思って、一生懸命に仕上げて来た部分品が不要になって来ることもある。こういう調子で、全体と部分との間の、イメージと観念との間の相互的コントロールが行われる。往復交通である。往復交通が何度も繰返されているうちに、長い文章を組み立てるのに過不足のない短文の群が出来上る。大きな機械を構成するだけの部分品が揃って来る。そうしたら、全体のイメージに従って、これらの部分品を組み立てる。往復交通が十分に行われていたら、最後の組み立てはそう困難ではないものである。[1959:20-21]


 1 演説家でない以上、また、狂人でない以上、人間が話し言葉を用いる時は、誰か相手がいる。しかも、同様に話し言葉を用いる相手がいる。従って、話し言葉の相互的作用、つまり、会話ということになる。このように、眼前に相手がいることは、話し言葉にとっては根本的な想定になる。しかし、相手がいるというのは、通常、第一に、相手を知っていることを含んでいる。相手の素姓、性格、考え方などを知っていることを含んでいる。それは、第二に、自分と相手との間に一定の関係があることを含んでいる。 […]多くの場合、会話における双方の役割は初めから決まっている。自分と相手との間で話し言葉を使用するのは、こうした関係の内部の事柄であり、それ自ら、この関係を維持して行くものである。第三に、こちらが話せば、相手はこれに反応を示す。大きく頷いたり、不愉快そうな顔をしたりする。相手がそういう反応を示してくれると、こちらは、更に続けて喋る必要がなくなったと感じたり、証拠を挙げて話す労力が省略されたと思ったりする。
 2 話し言葉では、相手がいて、この相手との間に一定の関係があるばかりでなく、こちらと相手とは[…]という或る共通の具体的状況の中に立っている。この状況は話し合う双方によって共有され、前提されている。初めは共有されず、前提されていなくても、話が進んで行くうちに、共有されるようになり、前提されるようになるのが普通である。それが会話というものの生命とも言える。会話の発展とは、共通の前提が増加し成長することである。[…]
 3 言うまでもなく、会話においては、話し言葉のほかに、表情や身振りが自由に使われる。或る時は、表情や身振りが言葉に対して単に補助的な役割を果すけれども、他の時は、逆に言葉の方が表情や身振りに対して補助的な役割を果している。[1959:62-63]

◆話し言葉は、一方、沢山の味方によって支えられていると同時に、他方、社交の原則によって縛られている。この原則を無視して、言葉だけが先へ進んでしまうことは許されない。[1959:66]

◆文章においては、言葉は常に孤独である。[…]会話において多くの協力者がやってくれた仕事を、一つ残らず、言葉が独力でやらなければならない。[…]文章を書く場合、具体的な人間が相手になっているのではないし、まして相槌など打ってはくれない。具体的状況を相手と共有することもないから、これを当てにするという便宜も欠けている。言うまでもないことだが、表情や身ぶりも手伝ってはくれない。しかも、そういう協力者がいないというだけでなく、会話で協力者が果してくれた役割の一つ一つを、文字を使って自分で果して行かねばならないのである。[1959:70]

◆もともと、論文は、誰にでも読んで貰える、誰にでも通用する、広い且つ強い説得力を持つべきものである。相手がいても、その相手に甘えたら、立派な論文は書けない。そういう広さや強さを身につけておいて、その上で特定の相手を考えるのが順序である。読む人の中には、さまざまの考え方の人がいるであろうが、文章は、考え方の相違を突破して行くだけの力を持たねばならない。しかし、力はただ烈しい形容詞などを用いても生れはしない。むしろ、大切なのは、静かな、しかし、誰でも認めずにいられぬような証明であろう。[…]自分で特定の相手を作り上げるという方法もないわけではない。即ち、或る書物や論文の筆者を相手に見立てて、これに批判を加えるという方法である。この方法をとると、相手が具体的に決まって来るし、議論の材料も自然に決まって来る。[…]文章を真面目に勉強している人なら、相手の著書や論文を本気で研究することから始めなければいけない。相手が言おうとしていることを、相手に代ってキチンと言えるくらいでなければいけない。[…]著者の身代りになって表現出来るほどにマスターした書物や論文であってこそ、本当の批判を加えることが出来るのである。そこまで相手に深入りすれば、きっと、不満な部分も出て来るであろう。また、不満な部分について黙っていられなくなるであろう。だが、不満な部分について発言するとなれば、どうしても、その部分に関して、自信のある発言が出来る程度の勉強をしていなければならない。こうして、文章の修行は、ただ文章の修行ではなくなる。技術の勉強ではなく、内容の勉強に発展する。[…]それから、もう一つ、批判の文章では、著者は確かに相手であるけれども、手紙でない限り、著者だけが読むのではない。著者以外の読者という相手がいること、そこから要求される説得力の広さと強さ、これを忘れてはならない。[1959:72-73]

◆会話と違って、文章は社交ではない。社交ではなくて、認識である。どうにでも受取れるような曖昧な表現は避けねばならない。前にも述べたように、主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていることが大切である。[1959:75]

◆私たちは日本語に慣れ切っている。幼い時から、私たちは日本語を聞き、日本語を話し、日本語を書き、日本語で考えて来た。私たちにとって、日本語は空気のようなもので、日本語が上手とか下手とかいうのさえ滑稽なほど、私たちはみな日本語の達人のつもりでいる。いや、そんなことを更めて考えないくらい、私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない。これは当たり前のことである。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。話したり、聞いたりしている間はそれでよいが、文章を書くという段になると、日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない。自分と日本語との融合関係を脱出して、日本語を自分の外への客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない。文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけない。[…]私たちは、外国語の勉強を通して、日本語を一種の外国語のように取扱う地点に立つことが出来るのである。言い換えれば、外国語の勉強は、日本語で文章を書く上に大きなプラスなのである。[1959:81-82]


 1 当の問題について、既にいろいろな学説があるものである。主要な学説は、それを採用するか否かに関係なく、これを知っていなければいけないし、学説の間には相互に批判があるにきまっているから、それぞれの要点も知っていなければいけない。こういう方面で非常識であってはならない。仮に既存の学説をすべて拒否するにしても、その大体を知った上での許否でなければならない。
 2 社会には必ずアクチュアルな問題がある。どういう時代にも、人々の関心を集めているアクチュアルな問題があって、それをめぐっていろいろの勢力や意見が戦い合っているものである。こういう状況はよく掴んでおいた方がよい。それは、世間の注意を集めている問題についてのみ発言せねばならぬという意味ではない。自分の文章がどんなにアクチュアルでなくても、結局はそこで読まれ、そこで或る役割を果すのであるから、こういう状況の構造は知っておく必要があるという意味である。
 右の二つの点に或る程度まで気を配るとなれば、いろいろの書物を読まねばならず、いろいろの事柄を考えねばならぬ。これを行うと、私たちは実に多くの知識を持つようになる。私たちは沢山のことを知っている。[…]その大部分は、私たちが書く文章の背景になるものである。[…]知っていなければ非常識になるし、知っていることを書けば、常識的になる。[1959:134-135]

◆文章には、攻める面と守る面とがある。文章を書く時、私たちは攻撃と守備という二つの活動をするのである。言うまでもなく、攻撃というのは、自分の意見や発見を主張する側面である。これは自分だけが社会に向って行うものであり、自分だけが行うものであればこそ、文章を書くという張り合いがある。[…]これに対して、守備というのは、自分の意見や発見が、学説の上と現実の上とで、社会的に孤立しないように、そこにじっくりと足場を固める作業である。これが不足だと、或いは、不足だと感じられると、社会に向って歩みだして行く自信が生まれて来ない。攻める方が個人性の面であるとすれば、守る方は社会性の面である。この面においては、友人と話し合うことも、書物で確かめることも必要である。[…]文章を書く時、自分は何処を攻めているのか。何処に自分の意見や発見があるのか。それを知っていなければいけない。というのは、うっかりすると、ただ守るばかりで、一向に攻めない文章を書いてしまうからである。[1959:135-136]

◆私の経験では、複雑な内容を正しく表現しようとすればするほど、一つ一つの文章は短くして、これをキッチリ積み重ねて行かねばならないように思う。日本語の文章構成から見て、これは避けがたいであろう。[1959:196]

■書評・紹介

■言及



*作成:三野 宏治片岡 稔
UP: 20091209 REV:20110406 20150512
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